新月の夜の回顧録
振り返って見れば、私の艦生には常に 世界最強 と 国の誇り の肩書きが付き纏っていたと思う。
そしてそれが、正直に言えば重荷だった。
そもそも
だが他の国周りは違ったらしい。攻撃力でも防御力でも、最良の選択をしたとはいえない性能の
ともあれ、すでに竣工していた私を廃艦にさせる事は出来ずとも、まだ未完成だった陸奥や他の八八艦隊計画艦を手放させようとして結ばれたのがあのワシントン条約だった。日本側は何とか陸奥だけでも保有したいと思い、英米側は何とか私以外全て廃艦にさせたいと思い、そんな思惑がせめぎ合う中、かなり難航したとは言え陸奥は竣工した。私としては、大切な弟には助かって欲しかったからこの結末に安心したが、国防の観点から鑑みればそう喜べた事ではなかったかもしれない。
条約で定められた比率から、日本が陸奥を手放せば世界に存在する16インチ砲艦は米国のメリーランドと私だけになる。そうすれば、物量に難を抱える日本としては、条約失効後に戦争が始まったとしてもしばらくの安寧を享受できるはずだったのだ。実質、味方戦力を一隻増やすために敵を四隻増やした事になる。だから私は、私が護るべき国がとった選択が正しかったのか否か、いまだに判断できずにいる。
実際、私も陸奥も大した戦果は挙げられず仕舞いだった一方、敵方の16インチ砲艦の方は新型旧型問わず海戦や艦砲射撃で活躍していた。何も出来ずにただただ安全な後方で祀り上げられていただけの私と、前線で戦い続けた彼ら。どちらの方が国の誇りかなんて、考えずともわかる程単純だ。
そうこうしている内に戦況は傾き、ミッドウェーでは助けに行くこともできないまま僚艦を失い、翌年には陸奥も喪った。どちらの時も、私は余りに愚かだったと思う。ミッドウェーでは濃霧の中で艦隊から一度逸れ、機動部隊の惨劇を聞きせめてもの突撃を具申したものの聞き入れられず。また柱島では航行中に聞こえたあの爆発音を危険なものだと判断できなかったばかりか、誰かが射撃訓練でもしているのだろうと呑気な事を考えていた始末だ。今思っても情けない。
続くトラック進出でもやはり大した事は出来なかった。マリアナ海戦では、僚艦 隼鷹に迫る敵機に向けて、初めて主砲を撃った。三式弾での対空迎撃だ。諸外国のVT信管を用いた対空砲火に比べれば非効率的なものだったが、なんとか隼鷹を護る事が出来た。だが、彼の同型艦の飛鷹の事は護れなかった。曳航しようとはしたが、曳航索が切れて失敗し、結局そのまま沈ませてしまった。その事について、隼鷹は私の事を責めなかったが、もう少し私の手際が良ければと思うと後悔ばかりが募った。
次はレイテ沖海戦があった。後輩の大和と武蔵と共に、栗田提督直率部隊としての出撃だった。帝國海軍の残存兵力ほぼ全てを注ぎ込んだ、死に物狂いの挽回策だった。だが結果は悲惨なもので、栗田艦隊は早々に重巡三隻を喪失。旗艦だった愛宕も沈み、栗田提督は大和へ移乗して指揮をとった。それが、大和にとって不幸な事だったと思う。彼は旗艦として艦隊を率いる為に、空襲で深傷を負った弟を捨て置く他なかったから。去り際に大和は武蔵に向け、座礁してても沈没を防ぐよう指示していた。だが、もはや這うような低速でしか動けなかった武蔵が丁度いい暗礁を見つけて乗り上げるより、沈む方が早いのは誰の目にも明らかだった。助けたかったが、排水量が倍近くある大和型を曳航するのは恐らく難しい上、艦隊の主力の戦艦をこれ以上減らす事も出来ず、結局何もしてやれなかった。さらには空襲による遅れを取り戻すことも出来ず、単独でレイテに突入した扶桑さん達の事もみすみす沈ませ、挙句機動部隊だと思って攻撃したのはただの護衛空母。本当に、私は何も出来なかった。
その後は軍港付きの防空艦、と言うか浮き砲台として過ごす事になった。防空艦と銘打ってはいるが、実際には主砲以外の兵装は粗方陸揚げされて、対空戦闘は大して出来ない状態だった。燃料もないから発電する事も動く事も出来ず、ただ外部から電力を引っ張ってきて、万が一米軍が横須賀から上陸をかけてくれば主砲で薙ぎ払うだけの役目だ。乗員も必要最低限に減り、一見廃艦にしか見えないようにマストや煙突も撤去され、陸地と板で繋げて偽装されていた。
ただまあ、それ自体は幸運な事に米軍が本土に上陸してくる事はなかったから、私の役目はついぞ訪れなかった。代わりに共にレイテから生還した大和が米軍に上陸された沖縄へ向け特攻して沈んだ。大和も、武蔵も、信濃も、余りにも沈むのが早すぎたと思う。三隻とも、まだ竣工から五年も経っていなかった。
とはいえ空襲ならこの横須賀にもあったから、私も港や街、僚艦を護る為に戦った。最大の攻撃目標が私だったのか周りへの被害は小さかったが、本土にもいいように空襲をかけられている事は悲惨だった。
そして1945年の8月15日。ついに四年に及ぶ戦禍が幕を閉じた。私は何も護れないまま、祖国を離れる事になった。艦首の菊花御紋を外され、軍艦旗を米国のものに換えられ、連れて行かれた先は太平洋のビキニ環礁だった。空襲で中破したまま修理もされていなかったこの身では、数ノットの低速しか出せず、途中で機関部の修理だけ受けたが、他は手付かずで少しずつ浸水が増えていた。
人間が見たら南の楽園とでも言いそうな、青い海と空の眩しい環礁で行われたのは、景色とは逆に地獄のようなものだった。否、あれは本当に地獄だったか。迸るのは太陽が増えたかと見紛う程の激しい閃光、全てを焼き尽くすような熱、あの日広島と長崎に降ろされた地獄が、再び人の手により創り出されたのだ。風の影響で爆弾が逸れたお陰か、私はほぼ無傷で一度目の実験を終えたが、同じく実験に供された酒匂はほぼ真上で爆発が起こったせいで炎上。翌日には沈んだらしい。酒匂も、早すぎる最期だった。
他にも多くの艦が傷付き、沈み、放射能の影響を調べる為標的艦に積み込まれていた動物たちも同様に悲惨な最期を辿った。あるいは艦と違って放射線による被害を受ける以上、彼らの方が苦しんだかもしれない。この実験で、この目で直接見ることはなかった広島・長崎の惨状を突き付けられたような気がした。そしてその惨劇を知ってなお更なる威力を持つ核兵器を創り出そうとする人間の愚かさにも触れてしまったように思えた。
二度目の実験では、爆心地にそこそこ近い位置に配置された。米国側としては、太平洋戦争開戦時の聯合艦隊旗艦であった私を早いところ沈めたかったのだろうか。今度こそ爆心地付近に配置されたが、今回も沈没は免れた。水中爆発により噴き上がった私の足元にまで及ぶ程の巨大な水柱は、さながら写真で見せられた広島や長崎のキノコ雲のようでもあった。
二度の実験を終えてなお沈まなかったとは言え、浸水も損傷ももはや限界に及んでいた。それでも耐え続けたのは何故だったか。どこかでそれが役目だと思っていたのかもしれない。今まで戦って国に報いる事などできなかったから、私なりのせめてもの奉公のつもりだったのだろう。何一つとして護れなかった事への贖罪か、はたまたこの残虐極まる兵器を創る事への些細な反抗か。この想いの一端でも祖国へ届けと祈って耐え続けた。
そして二度目の実験から四日が過ぎた新月の夜、そろそろ終わりが近い事を悟った。
ここまでやれば、もう自分に科した役目は果たせただろうか。これから立ち直らなければいけない祖国に最期の勇気を見せて、希望を与える事が出来ただろうか。私がその結果を見届ける事は叶わないが、そうあってほしいと思う。
否、
だからせめて、
── ああ、皆 そこにいたのか
時間未詳──戦艦長門 ビキニ環礁にて原爆により沈没
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます