弱さ

パラークシ

弱さ





「時々、腕が動かせなくなるんです」と、その青年は言った。


 青いさっぱりとしたシャツを着込み、首の下に白い肌着が見えている。


 私は今、自分の職業的な義務感から降りて、白衣を脱ぎ、ただ一人の単純な人間として、目の前の青年の患者に興味を持ち、椅子に座り直していた。


 どこか遠くから聞こえてくるような、私の声が言う。


「どういう時に動かせなくなりますか」


 患者の青年は、丸く青い眼をしている。白色灯に照らされ、瞳が乱反射して煌めいていた。


 青年の口が動き、言った。


「時々、前触れもなく、腕が動かなくなるんです……。例えば、水を飲もうとコップに手を触れた時とか、全然腕が動かなくて、僕の指はコップの淵に触れて、ただ時間だけが過ぎていくんです。それで数分経ったら、また出し抜けに動くようになる。


 僕は、『またか』とも思うし、『まあしょうがない』とも思うんですけれど、でも、そういう単純な言葉で済ますことができない場面というものがあるでしょう。例えば、車を運転する時とか、恋人と手を繋ごうとする時とか。


 腕が時々動かなくなっても、別に誰も同情なんてしませんし、ましてや共感されることもありません。でも僕はいつも少し、『今、困ったことになってるな』と思うんです。『僕は今、腕が動かなくて、困ったことになってるな。僕の人生の中で、今この時は、止まっちゃってるな。動いていないな』と。僕は腕が動いていない時には、体の他の部分も動かなくなって、頭も働いていないような感じがあるんです。


 考えることもできなくて、冷や汗が出るんです。ただただ重たくて、冷たい汗が。


 先生には、分かりますかこの気持ち。それとどうして、今白衣をお脱ぎになったんですか」


「私が白衣を脱いだことはどうでもいいとして」と私は言い、目の前の青年に向き直り、胸ポケットに差していた老眼鏡を取り出し、かけた。青年の姿がよりはっきりと見えるようになった。何故今までかけていなかったのか。それもまたどうでもいいことだ。


 私の声が聞こえる。


「どうして腕が動かなくなるのか、原因に思い当たることはありませんか」


 すると青年は素早く二度瞬きをして、言った。


「事故がありました」


 私は答える。


「ほう、事故」


「ええ、事故です」


「それはどのような事故ですか。話すことができる内容でしょうか」


「それはとてもつまらない事故だったと思います。給食です。給食、分かりますよね?」


 私は目を瞑り、「ええ」と言った。脳裏に大きな鍋を思い描いた。昔はそれ程大きな鍋ではなかった。今の子供達の為に用いられているようなものでは。


「僕は熱いスープが入った鍋をひっくり返してしまったんです。その鍋は野菜がたっぷり入ったコンソメスープだったと思います。


 僕は鍋をひっくり返して、階段の脇でした。廊下に野菜や熱いスープが流れて、辺りは小さな野菜スープの滝のようになりました。その時、下の階にいた一人の生徒が、スープで滑ってしまったんです。廊下はとても滑りやすくなっていたのです。その子は当時僕が密かに思いを寄せていた女の子でした。


 手を床についていたその子の手が真っ赤に茹で上がっているのを僕は見ました。野菜スープがそれをしたんです。彼女は間も無く泣き始めました。痛かったのでしょう。それに恥ずかしかった筈です。


 誰も助けようとはしませんでした。それ程一瞬の出来事だったのです。スープの濁流が階段下に流れ込み、生徒が一人その流れに巻き込まれて転けて、皆その一連の出来事に目と意識とを奪われてしまっていました。僕はその時、その全ての責任を取ろうと、少女の元に駆け寄ろうとしました。それで僕も階段の途中で転げました。腰を強く打ちながら、何とか少女の元に辿り着いて、少女に手を差し伸べました。辺りはコンソメと野菜の良い匂いが充満していて、僕が少女の手を握ることができる筈でした。


 でも、できなかった。少女は、彼女は僕の手を握ろうとはしなかったのです。そのまま泣くのをやめ、冷静な大人の顔をして、何事もなかったかのようにその場に立ち上がりました。屈んでいるのは僕一人だけになりました。


 多分、その時からです。腕が時々動かなくなるようになったのは。いえ、思い当たる事といえば、それぐらいであるという意味ですが」


 私は頭を余っていた使っていないボールペンの裏でゴリゴリと擦り付けながら、言った。つまらない感覚を抱きながら。


「分からないな」


「何がです」と青年が青い瞳を私へと向けてくる。その瞳に私はイライラし始めているのを自覚する。


 私の声が聞こえ始め、さりげなく見た時計が一時を回ろうとしているのに気づいた。


「それぐらいの出来事で、腕が動かなくなるなんてことがあるだろうか」


「でも実際、動かなくなったんです。先生には分からないかもしれませんが。僕の腕にとっては死活問題だったんです。笑わないでください。どうして笑おうとするんです?」


「君には何が見えているのだね。私は笑ってなどいない。ただ、君の腕がどうして時々動かなくなるのか、その理由が知りたくてね。それだけなんだ。君は何かを隠しているね? うん?」


「何をです」空白に石を投げ込むように、青年の声が虚ろに部屋に響いた。「何を僕が嘘をついているというのです」


「私は一つ提案をしたい」と私の声が言う。「それが受け入れられるのであれば、私は何でも君のためにしてあげようと思う。それが君の弱さの為になると信じているからだ。君は弱いだろう? うん?」


 青年は険しい表情を見せた。「どういう意味ですか」


「君はやるべきことをやらないで生きてきた。その腕はその事を責めているんじゃないかな。君がやるべき世界が求める役割を、その時君は、一時的に放棄したんだ。それが君の腕が動かなくなった原因だよ。決して意中の女の子に手を握ってもらえなかったからなんかじゃない。


 私には分かる。君は本当は、腕を動かせると思っているんだ。それなのに本当に腕が動かせないと思っているから、それはそれはややこしい経路が君の中に出来上がってしまっている。


 左の腕はどうかね? 君は右利きなのだろう? 動かせるのかね? 動かせないのかね?」


「動かせないと思います」


「いや、動かせるね」と私の声が聞こえる。その声はとてつもなく傲岸不遜な響きを伴っており、聞く者に不愉快な印象を与える性質を持っている。私はその弱さを見ている。


「君が動かすことができないと思っているその腕を、私が動かしてあげようと言っている。それはいやかね?」


 青年は暫くの間沈黙を続けた後、やがて消え入るような声で言った。「イヤじゃないと思います。でも僕の腕は……」


「コップを持ってみなさい」


「イヤです」


「それはいやなのかね。君は随分と拘り屋さんだなあ。ならこのペンを持ってご覧なさい。何、ただのペンだよ。最近は全然使えていない、多分拗ね始めているはずだ。


 どうかね」


 青年はペンを手に取り、右手の中で軽く回し始めた。鮮やかな回転が細くしなやかな指の間をくるくると周り、再び掌の中にペンが収まった。それを見て私は拍手を送った。


「素晴らしい。ペン回しの才能があるようだね。どれ、左手でもやってご覧なさい」


 すると青年は明らかに躊躇う様子を見せた。右手の時とはまるで反応が違っている。私は彼の左腕を引き寄せ、その手にペンを握らせた。


 私の声が響き渡る。「ほら、これはただのペンだ。君もよく知っている、ただの何の変哲もないペンだよ。君はこれを回せるのかな?」


「左手では……無理です。動かないし。ああ、今、動かない。ほら言ったじゃないですか。動かないんです。左腕……全然、動かないじゃないですか。どうしてくれるんですか」


 私は彼の左肩に手を置いて、落ち着いた声を出して言う。


「まず落ち着きなさい。君の手はきちんとペンを持っている。回すことはできないが、それは元々だから気にしないでいい。左腕はどんな感じだね。全く動かないかね。それとも少しは動かせそうかね。一方反対側の右腕君はどうかな。暇そうにしているかな。瞼は動かせるかね。瞬きをしてごらん……。そうだ、そうそう。感覚に集中するんだ。君は無感覚か? 肩の辺りは、何も感じないかね? 今、腕に触れているが、痛みはあるかね。あるようだね。つねるのをやめよう。では、手を変えてみよう。右腕を出してくれたまえ」


 青年は躊躇いがちに、固まったままの左腕を後ろに下げるようにしながら、右腕を前に出そうとした。


 その時、再び青年の叫び声がこだました。


「ほら、右腕も動かなくなった! だから言ったじゃないですか! やっぱりおかしいんだ。右腕も左腕も、両方動かなくて、それで……」


「君の右腕は先ほどからペン回しに忙しいようだがね。前腕の動きを見るに、神経はしっかりと肩まで繋がっているようだし。順調そものののようだ」


「……え?」


「いいから、ペンを持ち替えてみなさい。それでその手のまま左腕にペンを渡してみなさい」


 渋々というように青年は右手に持っているペンを、回しながら左手に渡した。左手はそのペンを渋々というように受け取り、今度は待っていたかのような動きで回し始めた。


「左腕も嬉しそうに回しているね。どうだね。気持ちが悪いかね」


「少し……吐きそうです」


 そうだろう、そうだろう、という、私の満足げな不愉快な声が部屋の中に響き渡り、私は一瞬吐き気を覚えるが、何とか堪える。青年の手に収まっているペンは嬉しそうに、まるで弾けるかのような動きで青年の『動かない』左手の中で跳ね回っている。くるくると、右腕が嫉妬する程に。


 一時半が回りかけ、診察の時間が終わろうとしている。私は振り返り、椅子に畳んでいた白衣を手に取り、羽織り直した。一瞬で私の視界は曇り、医師としてのつまらない物の見方が復活する。


 そして自分が密やかに死んでいっているのを自覚しながら、青年の動くようになった両腕のペンを回そうとしている動きだけを見つめている。


「君の弱さは見つかったようだね」


 青年は遥か遠くから私を見るような眼で私を見つめてくる。私はその眼を避け、俯き、医師としての自分を強く自覚した。私の声が辺りに響き、私は自分でその声に少し驚いた。


「薬は出さないでおこう。もう必要ないだろうからね。君が腕を動かせないと思った時はそのペンを思い出しなさい。肌身離さず持っているといい。動かせなくなったらペンを回しなさい。それで思い出せる筈だ」


 青年は不安そうな表情を浮かべながら私に言った。彼の左手は尚も狂った扇風機のように指を動かし続け、ペンを回転させ続けている。私はその情報を満足げに見ながら、老眼鏡を白衣の中にしまった。


「私も時々腕が動かせなくなるよ」


「本当ですか⁉︎」


 ああ、と私の声がどこかから聞こえてくる。私はその声を聞いている。そしてもう既に忘れかけている。


「ずっと昔に、忘れていた課題を置きっぱなしにしてそのままにしていた。その弱さが、私の腕を肝心な時に動かなくさせるのだ。でも、私も心配はいらない。もう殆どの時期に腕は動かなくなることはなくなったし、君のようにペン回しに頼ることもなくなった。


 君、青年期というのは弱さの温床のようなものなのだ。あまり気に病むことはない。じきに良くなる。そういうものだ」


「分かりました。先生に教わったように、これからは動かなくなってきたらペンを回してみます。なんだかそれで良くなるような気がしてきました」


「良くなるさ。お大事に」


「先生も、お大事に」


 青年は去っていった。扉が勢いを込めて閉められたので、反動で半分程開いてしまった。私は扉を閉め直し、それから溜息を吐いて机の上に肘をついた。


 指が震えていた。その震えはどうしても止まってはくれなかった。


 私はその震える指を見て、いつも使っている鉛筆を握ろうとし、失敗した。指は握ろうとはせず、ただ震え続けた。


 震える指を見て、私は目を瞑り、それ以上考えることを止めた。



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弱さ パラークシ @pallahaxi

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