【完結】歌姫(後編)(作品230824)

菊池昭仁

歌姫(後編)

第一楽章

第1話 冷たいベッド

 私はすでに死んでいた。

 

 銀河を失った今、私は何も考えることも出来ず、何も感じなくなっていた。

 私から五感が消えてしまった。

 食欲もなく、すべてがグレーカラーに見えた。

 ベッドから起き上がれない日々が続いた。




 母に付き添われ、耳鼻咽喉科を受診した。


 「メニエール病ですね? 内耳の中に「内リンパ水腫」が生じ、難聴と激しい眩暈を伴います。

 原因は様々ですが、過度のストレスや睡眠不足から起きることが多いようです。

 点滴をして少し横になって眠ると改善するはずです。

 ただ、何度も繰り返すようになると、生活に支障をきたすこともあるので注意が必要です。

 まずはストレスを溜めず、穏やかに暮らすことです。現代社会では中々難しいかもしれませんが」

 「ありがとうございました」

 「お大事にして下さい」



 私は処置室で点滴を受け、久しぶりに死んだように眠った。

 銀河の夢を見た。


 銀河は地下のワインカーヴの中にいた。ワイン樽からグラスに赤ワインを注ぎ、色と香りを確認し、口に含んでテイスティングをしていた。満足げに頷く銀河。


 「素晴らしい出来だよ、琴子。ほら、君も飲んでごらんよ。

 これは天使の酒だ」

 「銀! お酒はもう止めて! 銀が死んじゃう!」

 

 銀河は悲しそうな目をして私を見ていた。



 母に起こされ、目が覚めた。


 「夢を見ていたのね? すごくうなされていたわよ」

 「銀の夢を見ていたの。お酒を飲んでいる銀を必死になって止めたけど、彼は悲しそうな瞳で私を見ているだけだった」

 

 母は私を憐れむように見詰め、私の頭を撫でてくれた。


 「可哀そうな琴子・・・。早く立ち直らなくてもいいのよ、焦ることはないわ。

 悲しい時は落ちるところまで落ちたらいい。そのうち自然と心は浮かんで来るものよ」


 私は一体どこまで落ちて行けばいいんだろう? 底が見えない。





 後日、私は精神科の診察も受けた。

 典型的なうつ病と診断された。

 その若いフランス人の女医は言った。


 「うつ病は「心の風邪」とも言われるわ。つまり、誰でもかかる病気なの。以前、精神科医の私ですらなったことがある。だからあなたの辛さも私には分かる。精神科医としてだけでなく、ひとりの同じ人間、女性としてもね?

 愛する人を失う悲しみは、精神に強い衝撃とストレスを与えるわ。

 不眠と不安。心臓の動悸、過呼吸、手や足の震え、発汗、胃痛に頭痛、食欲不振・・・。キリがないわね?」


 この美しい女医が言う通りだった。

 何もする気が起きず、集中出来ない。物事に興味も楽しみも感じない。

 大好きだった音楽も聴きたくない、歌も歌いたくない。

 そして消えてしまいたいと思うばかり・・・。


 好きな人に突然あんな死に方をされて、うつ病にならない方がおかしい。

 すぐに泣く、無反応、死にたいと絶えず考える毎日。

 私のうつ病は重症だった。


 「ストレスの要因を除去する、避ける。そして無理をしない。

 十分な睡眠とバランスの良い食事、そして適度な運動をすること。

 なんてすぐにそんなことが出来たらそれは「うつ病」とは言わないわ。

 精神科医の私も失業しちゃうしね?

 まずはそれが出来るようになる為のお薬を処方してあげるからちゃんと飲んでね?」

 「はい・・・」

 「脳内のセロトニンの濃度を高めるSSRI、セロトニン、ノルアドレナリンの再取り込み阻害剤、SNRI。三環系抗うつ薬があります。ただし、これらの抗うつ薬の効果が表れるのは通常、服用を始めてから1カ月から2か月は掛かりますから注意して下さい」

 「・・・」

 「もし効果が見られない場合は向精神薬を処方します。

 睡眠薬と抗不安薬も処方しておきますから、まずは眠る事、そして不安にならないように心を落ち着けること。お大事にね?」





 母は私がヘンな事をしないようにと、四六時中私の傍にいてくれた。


 「私、パリの銀の家に帰る」

 「じゃあママも一緒にパリに行くわ」

 「大丈夫、ひとりで帰れるから。私、もう子供じゃないのよ」

 「あなたはいつまでもママの子供よ」

 「琴子ちゃん、僕も一緒にパリに行くよ」

 「ありがとうおじ様。でも大丈夫、母をよろしくお願いします」

 「僕がいると迷惑かい?」

 「迷惑だなんて、ある訳がないじゃないですか?」

 「こんな僕でもフランスには長く住んでいるから、少しは役に立てると思うよ」

 「琴子、悟の好意に甘えなさい。先生のご自宅のこともあるし」

 「私は売らないわよ! 銀のメゾンには私があそこで暮らすの!

 だってあの家には銀の思い出が一杯詰まっているから!」

 「わかったわ。それならそこで私たちと一緒に暮らしましょう。あなたの気が済むまで、あなたがまた、プリマとして歌いたくなるまで」

 「僕も付き合うよ。絵はどこでも描けるからね? それに僕たちはもう家族じゃないか?」

 「おじ様・・・」

 

 私はすでに笑うことを忘れていた。

 私は感情のない、ただのお人形になっていた。






 パリの銀河の家に戻って来た。

 冷たい部屋、懐かしいニスの匂い。

 もちろん暖炉の火は消えていた。

 ディエッペからは日帰りするつもりだったので、ベッドのシーツや枕カバーも、銀河と愛し合ったそのままだった。


 「素敵なお家ね?」

 「詩人の家らしいな?」


 私はキャビネットの上の詩音さんのフォトスタンドを手にして彼女に言った。


 「詩音さん、もう銀と会えた?

 銀は寂しがり屋だからよろしくね? 銀河は本当にお星様になっちゃったの」


 母は写真を覗き込んだ。


 「その人が先生の亡くなった彼女さん?」

 「そう。綺麗な人でしょう?」

 「琴子、あなたも十分綺麗よ」


 花瓶の水はなくなり、花は枯れていた。


 「ママ、お花を買って来る」

 「ママも一緒に行くわ。悟、琴子と出掛けて来るわね?」

 「ああ、気を付けて。僕は暖炉に薪を焚べて部屋を暖めておくよ」


 悟さんはエアコンのスイッチを入れ、暖炉に火を起こし始めた。


 



 パリはすっかりクリスマスの景色になっていた。

 鮮やかな様々なデコレーションとクリスマスイルミネーション。そして街に溢れるクリスマスソング。

 パリは今、ソルドで賑わっていた。殆どの商品が半額で売られていた。

 

 楽しそうに腕を組んで歩く恋人たち。セーヌの川畔で抱き合いキスをしている人たちもいる。

 私は彼らから目を背けた。


 クリスマス・イブ、そして新年も銀河と一緒に迎えるはずだった。

 そんなささやかな願いも今は消えてしまった。

 

 「ねえ、今日は疲れたからデリカテッセンでお惣菜とパンを買って、お家で食べない?」

 「うん」




 詩音さんのお花とお惣菜、そしてバゲットを買って私たちは家に戻って来た。

 とても暖かい、暖炉の炎を見て、私は思わず涙ぐんでしまった。

 母はそんな私を何も言わず、やさしく抱き締めてくれた。



 食卓にはパンとチーズ、そしていくつかのお惣菜が並んだ。

 お酒は売るほどある。


 私はパンとチーズを少しだけ齧り、ワインを飲んだ。

 

 「ご馳走さま」


 私はそのままベッドに横になった。微かに残る銀河の匂い。

 銀河と私が愛し合った痕跡が幾つか渇いて、シーツがカピカピになている場所を私は手で撫でた。


 (銀・・・)


 「ベッドのシーツと枕カバーはそのままにしておくわね? 今夜は彼の温もりを感じてそこで眠りなさい。

 ママと悟はソファで寝るから」

 「ごめんね、ママ」



 冷たいベッド。

 羽毛布団を掛けると、銀河のCHANELの『Egoist』の香りがした。


 私は嗚咽し、シャワーも浴びずにそのまま泣き疲れて眠ってしまった。

 銀河の香りに包まれて。


第2話 弁護士 椎名錬三郎

 「眠剤も飲まずにぐっすり眠っているわ。可哀想な琴子・・・」

 「あんな辛い別れ方をしたんだ、立ち直るには時間は掛かるよ。見守ってあげよう、僕たちで」

 

 疲れていたせいか、ワインの酔いも早く、私と悟は熱いキスを交わし、服の上からお互いの身体に触れた。

 琴子が傍で寝ているので、セックスまでは無理だった。

 私たちは声を押し殺してペッティングに興じた。


 「お口でしてあげましょうか?」

 「今夜は遠慮しておくよ。苦しんでいる琴子ちゃんを前に悪いから」

 「ごめんなさいね」


 悟はそういう男だった。

 

 「お正月が明けたら、琴子と一度、日本に帰ろうと思うの」

 「その頃までには琴子ちゃんの気持ちも落ち着くといいね?」

 「それは無理だと思う。かなりの重症だから」

 「凄く愛していたんだろうな? 彼の事。

 僕たちは35年以上も想い続けていたが、琴子ちゃんたちはたった2週間しか愛し合う事が出来なかった。

 愛とは付き合っていた長さではなく、僕と久子のように、深さなんだろうな?

 琴子ちゃんたちの出会いは本当に運命だったのかもしれない」

 「運命なんてものじゃないわ。これは宿命だったのよ。あの子たちの。

 生まれた時から決められていた宿命。

 いえ、もしかすると、生まれる前からなのかもしれない」

 「それじゃ僕と久子が再会出来たことも、宿命だったんだね?」

 「そうよ、だいぶ遠回りした宿命だったけどね?」

 「でもこうしてまた君と出会うことが出来た」

 「奇跡よね?

 この子、いつになったらオペラ歌手に戻れるのかしら?」

 「焦ってはいけないよ。僕たちは琴子ちゃんを信じて見守ってあげるしかない」

 「悟・・・」





 トイレに行こうとベッドから降りた時、母と悟さんが抱き合ってソファで眠っていた。

 私は見てはいけない物を見てしまったような気がした。それはひとりの女としての母の姿だった。

 すると私の気配に気付いた母が目を覚ました。


 「トイレ?」

 「うん」

 

 

 私がトイレから戻ると、ふたりは起きてソファに並んで座っていた。


 「よく眠れたかい? 琴子ちゃん」

 「おかげさまで・・・」

 「琴子、先生の依頼してくれた東京の弁護士さんに電話してみたら? 今だと日本は丁度午後の三時過ぎだから」

 「まだいいよ」

 「お手紙にも書いてあったでしょう? 「なるべく早く」って。

 依頼を受けた先生も、お待ちになっているはずよ」

 

 私はあまり気乗りがしなかった。別にお金が欲しいわけではない。私は銀河にもう一度会いたいだけ、死んでしまった銀河に。


 「それにその弁護士さんは先生の親友だった人なんでしょう? 先生のお話も聞くことが出来るんじゃない?」


 仕方なく、私は手紙に書かれていた電話番号に電話を掛けた。

 ただ興味はあった。椎名というその男性が銀河の親友であったなら、母が言うように、私の知らない銀河のことを色々と知っているかもしれないと思ったからだ。


 (椎名錬三郎。銀の親友って一体どんな人なのかしら?)



 電話が繋がった。


 「はい、エンデバー法律事務所でございます」

 「海音寺琴子と申しますが、椎名錬三郎先生はお手隙でしょうか?」

 「少々お待ち下さいませ」


 かなり大きい法律事務所のようだった。

 事務所の住所は東京地方裁判所に近い、霞が関になっている。


 「お待たせしてすみませんでした。初めまして、弁護士の椎名です」

 「海音寺琴子です。初めまして。星野銀河の・・・」


 椎名は私の言葉をやさしく制した。


 「銀から聞いていますよ。なんでも凄いオペラ歌手さんだそうで?

 すみません、僕、クラッシックは苦手なんです。

 いつも甲本ヒロトや椎名林檎ばっかり聴いているんですよ。ちなみに同じ椎名ですが、彼女とは何の関係もありません。あはははは」


 私も彼につられて少し笑った。

 嬉しかった。銀河が私の事を親友の椎名先生に話していてくれていたことが。

 でも意外だった。国際弁護士だと言うから、もっと堅物な人なのかと思っていたからだ。

 陽気で明るいカウンターテナーの声、温かい人柄が伝わって来た。


 「ごめんなさい、余計な話をしてしまって。

 では早速本題に入りましょう。銀の資産は現時点で預金、有価証券、不動産、動産等を合わせて234,522,345円。約2億3千万円ほどになります。

 それをすべて海音寺さんに相続させるようにと、銀から依頼されています。 

 失礼ですが銀とは結婚されていたのですか?」

 「フランスと日本の婚姻届に彼のサインがされた物は預かっています。もしそれで手続きが上手く進むのであれば使って欲しいと遺書に書いてありました」

 「なるほど。フランスでは婚約者が死亡しても結婚は出来るのですが、最終的には大統領の審査が必要になるのです。そして相続に対する権利は生じません。

 日本の法律ではそれは認められていません。予めフランスで亡くなることを見越して、生きていることにして婚姻関係を結ばせようとしたのかもしれませんが、それでは後でその事実が発覚した時に、海音寺さんが困ることになってしまいます。

 相続ではなく、別な方法を考えましょう。すでに彼からの遺言書は僕にも届いていますので、正確な数字については税理士とも協議の上、お知らせします。

 弁護士資格を取得すれば弁理士、社会保険労務士、行政書士、海事補佐人、そして税理士の登録も出来るのですが、税法はしょっちゅ変わるので、とても私では追いつけないんですよ。

 やはり餅は餅屋に任せた方がいいですからね? 税金は少しでも安い方がいいですから。駄目ですよね? 弁護士の私がそんなこと言っちゃ。あはははは。

 ところで日本にはいつ帰国されますか?」

 「お正月が明けたら一度、帰国するつもりです」

 「ではその日が決まりましたら、なるべく早くお知らせ下さい。スケジュールを調整しますので」

 「お世話になります」


 すると椎名弁護士は急に声のトーンを落とし、


 「銀の事、本当に残念です。バカですよアイツは。「詩人は不幸じゃなければ詩人じゃねえ」なんてカッコ付けて。

 ごめんなさい、いただいた電話でつい長電話をしてしまいました。じゃあ東京でお待ちしています。まだパリは朝の6時ですよね? では失礼いたします」

 「貴重なお時間をありがとうございました」



 私は少し心が軽くなった。

 早くこの弁護士に会ってみたくなった。銀の事をもっと聞きたい、話したいと思った。



 「琴子、笑って話していたようだけど、先生、何だって?」

 「銀の資産が2億3千万円ほどあるから、その遺産の移行の手続きをするから、東京に戻ったら会いましょうと言われたわ」

 「そう」


 お金に困っていない母と悟さんは遺産には無関心だったが、私が笑ったことが余程うれしかったのか、目頭を押さえていた。

 


 「ママ、そう言うことでお正月が明けたら私、一度日本に帰るね?」

 「私も色々と日本でやらなければならないことがあるから一緒に帰りましょう」

 「うん」

 「良かった、琴子ちゃんに笑顔が戻って」

 「おじ様、ソファで寝かせてごめんなさい。今日は母の宿泊しているホテルでゆっくり休んで下さい。私ならもう大丈夫ですから」

 「ありがとう。でもパリでの女性のひとり暮らしは心配だから、このメゾンに僕たちも引っ越して来ようかと思っているんだ」

 「えっ、いいの悟?」

 「ホテルより安上がりだろう? ここならルーブルやオルセーにも近いしね。そして何よりこの建物が気に入ったんだ。どうだい久子? ここで3人で暮らさないかい?」

 「実は私も同じことを考えていたの。ここに大人三人は狭いから、このメゾンに空きがあればと」

 「じゃあ今日、早速、不動産屋に行ってみるよ」

 「ねえ琴子、気晴らしにクリスマスツリーを買いにいかない? そしてリースとかも」

 「それじゃ僕がサンタクロースになるよ」

 「私もミニスカサンタになりたい! オバサンサンタだけどね? あはははは」

 「あはははは」


 そんな楽しそうな母と悟さんを見ていると、私も頬が緩んだ。


第3話 写真のないフォトスタンド

 フランスでは死亡が確定してから、48時間以内に埋葬しなければならない法律がある。

 キリスト教圏での死に対する考えは、仏教や神道の考えとは異なる。

 カトリック教徒が6割、プロテスタントが4割。あとはイスラム教徒とユダヤ教徒が殆どの国である。

 フランス革命、その後の恐怖政治で処刑された人々は60万人とも80万人とも言われている。同じ同胞をである。

 ギロチンはギヨタン博士とルイ16世が、なるべく死刑囚に苦痛を与えずに処刑が出来るようにと考案された物で、1日に斬首された者はせいぜい70人程度だと伝えられている。

 殆どは拷問に近い状態で処刑されたらしい。

 そして皮肉なことに、ルイ16世は自分が開発を命じたギロチンで、自分と家族の命を失うことになってしまった。

 この美しいフランスには、死に対してそんなおぞましい歴史があった。

 キリスト教を信仰し、自由と平等、博愛を掲げたこの国がである。




 銀河の遺体を日本に輸送することも出来たのだが、日本には彼の身寄りがない。

 私たちは海が好きだった銀河のために、海の見える墓地に彼の亡骸を埋葬した。

 『マダム・タッソー蝋人形館』にはマリー・アントワネットのデスマスクのレプリカがあるが、私も銀河の亡骸を見た時、本気でそれも考えたが周囲から反対された。

 銀河は水死ではなく、直接の死因は急性心筋梗塞だった。

 直ぐに近くを通った漁船に引き上げられたこともあり、遺体の損傷もなく、まるで眠っているようだった。 

      

 私は彼の天然パーマの髪にハサミを入れ、遺髪を取った。

 それをロケット・ペンダントの中に収め、いつも身に着けている。

 ただ残念だったのは、彼の写真が一枚もなかった事だった。

 銀河は人に写真を撮らせなかった。

 私がスマホで彼を撮影しようとした時、彼に真顔で怒られた。


 「俺の写真を撮るのは止せ」


 今にして思えば、それは彼の私への思い遣りだったのかもしれない。

 銀河の事を、私が早く忘れられるようにと。






 母とクリスマスの準備をするためにパリの街へ出た。

 明日はクリスマス・イブ。パリの街はいつもより華やいでいた。

 私の状態が少し上向いたこともあり、母の表情は明るかった。


 「ねえ、クリスマス・プレゼントは何がいい?」

 「欲しい物はないからいいよ」

 「そう? もうそんな歳でもないか?」

 「悟おじさまに何かプレゼントするんでしょう?」

 「ちょっと寄りたいお店があるんだけど、いいかしら?」

 「いいよ」


 私はぶっきらぼうにそう答えた。

 クリスマスには銀河にスマホをプレゼントするつもりだった。

 もしも彼に何かあった時のGPSの代わりにもなるようにと。

 銀河は携帯を持ってはいないと言っていたが、彼は本当に携帯を持ってはいなかった。

 いや、持っていたはずだが、私と愛し合うようになって、彼はセーヌ川にでも携帯を捨ててしまったのかもしれない。

 猫が自分に死期が迫ると家を出て行くように、銀河もまた、そう考えていたのだろうか?

 でももし、私が銀河に携帯を持たせてさえいれば、彼をフェリーに乗せなくても済んだかもしれないと思うと、それが口惜しかった。

 たとえ銀河が不治の病を抱えていたとしても、彼の最期を看取ってあげたかった。

 



 母は宝飾店に入って行った。


 「これを下さい」


 母のお買物は早い。お洋服を選んでも靴を選んでも、ぱっぱと決めてしまう。迷いがない。


 それはハートをふたつに割った、昭和生まれの母が好みそうなペアの金のネックレスだった。

 合わせるとひとつのハートになる物だった。

 クリスマスのラッピングを待っている時の母の表情は、まるで高校生のように輝いていた。



 ツリーのセットや七面鳥、明日の食材とクリスマス・ケーキの材料などを買った。

 そして私はひとつだけ、フォトスタンドを買った。



 「パリでも作るの? クリスマス・ケーキ?」

 「もちろん! ケーキとおせちは買う物じゃないわ。愛情を込めて作る物よ」


 母はお料理もお菓子作りも上手だった。本物の職人さん以上に研究に余念がなかった。

 私の誕生日にも、バースデー・ケーキはいつも母の手作りだった。

 家で開く私の誕生日パーティでは、母が招待者たちから褒められていた。


 「院長の奥さん、このケーキはどこのパティスリーの物ですか? 凄く豪華ですね?」

 

 すると母は軽く口に手の甲を当て、微笑んでこう答える。


 「素人の真似事ですよ。うふっ」

 「これ、奥様の手作りなんですか! 海音寺院長、洋菓子店もお出しになられたらいかがです?」

 「料理とケーキは女房の趣味なんだよ。ケーキ屋なんてとてもとても。あはははは」


 製薬会社のMRたちに対して、父は上機嫌だった。

 その頃から父は外に女を作り、母をまるで家政婦のように扱うようになっていた。



 

 家に戻ると暖かかった。悟さんが暖炉に火を入れてくれていたからだ。

 アンディー・ウイリアムズの『White Christmas』が流れていた。


 「やあお帰り。混んでいただろう? 僕もさっき帰って来たところだよ」


 私と母は外套と手袋を脱ぎ、暖炉に手をかざした。


 「寒かったわあ、明日はイブだからね? どこも一杯。すぐに夕食の支度をするわね? アンディーなんて懐かしいわね?」

 「不動産屋に行ったついでに思わず買ってしまったよ。何か手伝おうか?」

 「じゃあお酒の準備とツリーを組み立てて頂戴。飾り付けは後で私と琴子がするから」

 「わかった。やっておくよ」



 ここに銀河がいれば、どれだけ楽しかったことだろう。

 私はクリスマス・カードに銀河の簡単なイラストと、「星野銀河」「詩人、森田人生」と名前を書き、買って来たフォトスタンドにそれを納めた。


 「先生の写真はないのかい?」


 悟さんに訊ねられた。


 「写真を撮られるのが嫌いな人だったから」


 すると悟さんはスケッチブックを取り出し、サラサラと鉛筆描きで銀河のポートレイトを描いてくれた。

 画家の悟さんが描いた銀河の肖像画は、今にも微笑みかけて来そうだった


 「はい、琴子ちゃんへのクリスマス・プレゼント」


 私はそのスケッチブックを抱き締め、泣いた。


 「ありがとう、ありが、とう・・・、おじ様。額に入れて大切に飾ります」


 キッチンの母も、


 「良かったわね? 琴子」

 

 私は何度も頷いた。





 食事を終え、クリスマスの飾り付けも完成した。

 最後に玄関ドアに宿り木のリースを飾った。

 ツリーの電飾が点滅し、とても綺麗だった。


 「明日のイブが楽しみね?」

 「ありがとうママ、悟おじ様」

 「明日はノートル・ダムに先生の冥福を祈りに行きましょう」

 「うん。ありがとうママ」

 「何を言っているの? 「ありがとう」だなんて。だって「銀ちゃん」は私たちの家族でしょ?」

 

 (そうだ、銀河は私たちの家族なんだ)



 「本当に一人で大丈夫なの?」

 「大丈夫。ママとおじ様はホテルでゆっくり休んで下さい。私のせいで夕べは殆ど寝ていないんだから」

 「じゃあ明日、迎えに来るよ」

 「10時頃に迎えに来るから用意していなさい」

 「うん。おやすみなさい」

 「おやすみ琴子」

 「おやすみ、琴子ちゃん」



 母と悟さんは母のホテルへと戻って行った。

 伽藍とした部屋。私は悟さんが置いていってくれた、アンディー・ウイリアムズのCDを聴いてベッドに入った。

 私は銀河と私が愛し合った痕跡の匂いを嗅いだ。


 (幽霊でもかまわない、銀河に逢いたい)


 「銀・・・」


 その夜、私は銀河と結ばれるように、ぐっすりと眠った。


第4話 母たちのクリスマス・イブ

 「はっ、う、あん、は、は、あう、うぐっ・・・」

 「久子」


 セックスがこんなにもいいものだということを、私はすっかり忘れていた。

 若い頃のような激しい動きは出来なくなったが、精神的な満足感がより深いオーガズムを与えてくれる。

 ヒンドゥ教には性行為の経典『カーマスートラ』があるそうだが、こんな心の快楽を得るための教えが含まれているのだろうか?

 私のカラダというよりも、私の魂までも愛おしく思ってくれている悟の想いが伝わる。

 すでに閉経をしているので避妊の煩わしさもなく、直接彼を感じることが出来た。

 せっかく気分が高まっている時にスキンを装着されるのは、ドラマのクライマックスに入るテレビCMのようで、私はそれが嫌いだった。


 お互いにねっとり、ゆっくりと求め合い、インサートが無くても、私たちは何度もエクスタシーを味わった。



 彼は私から身体を離すと仰向けになった。


 「はあはあ。僕も歳だね?」

 「そんなことはないわ、ほらまだこんなになってるもの。うふっ」

 「久子は若いよ。とても琴子ちゃんを産んだ体とは思えない。肌艶もこんなにいいじゃないか?」

 

 裸で抱き合い感じる、「愛されている」という悦び。そして頼れる人が傍にいるという安心感。

 私は今まで何をして生きて来たんだろう?

 ピアニストの道を諦め、成り行きでの結婚、そして夫の裏切り。

 

 でも今は思う。夫は悪くはないのだと。

 自分の夫への愛情を確認しないまま、押し切られるように結婚を承諾してしまった私にも非があるということを。

 どうして悟と別れてしまったのか? 今も思い出せない。

 そして今、こうして再び彼と肌を合わせている。

 毎日彼を想っていたかと言えば嘘になるが、時々思い出していたことは間違いなかった。

 私は琴子に感謝しなければならない。琴子がパリに来なければ、私は一生、悟には逢うことはなかったのだから。

 だかこれは、決して寂しさからの打算的な恋愛ではない。何故なら本当の恋はするものではなく、落ちるものだからだ。

 どこまでも落ちてゆきたいと私は思った。


 琴子は一度結婚に失敗し、やっと掴みかけたしあわせが、あんな残酷な形で終わりを迎えてしまった。

 短いとはいえ、愛し愛されての永遠の別れ・・・。

 娘はまた立ち直ることが出来るのだろうか?


 「琴子ちゃんのこと、考えていたの?」

 「ごめんなさい。なんだかあの子が不憫で。私の娘だから」

 

 彼は私をやさしく抱き寄せてくれた。


 「僕は彼のように自ら命を絶てるような勇気は持ち合わせてはいない。でもね、僕も時々考えるんだ。「自分はいくつまで生きられるのだろうか?」とね? 何歳まで君とこうしてしあわせに暮らせるのだろうかと。

 それは5分後かもしれないし、30年後かもしれない。

 だからこそ、僕は一瞬たりとも久子を愛することを休みたくはないんだ。もう二度と後悔はしたくないからね」


 確かに悟の言う通りだった。私たちはもう若くはない。

 歳を取れば取るほど、死のリスクは高まってゆく。

 病気になったり、介護が必要になることもあるだろう。痴呆になることだってないとは言えない。

 長寿社会になって、ある程度の体力は維持出来ても、脳がそれについて行けるかどうかは未知数だ。


 「私は平気よ。だって悟を愛しているから。

 私も同じ、いつどうなるかなんてわからないわ。

 だからこそ、精一杯あなたを愛したい、愛してあげたいの。

 たとえあなたがボケて寝たきりになったとしても、私が介護してあげるから安心して。オムツもちゃんと交換してあげる。「今日もいっぱい出たね?」とか言って」

 「僕も、もしも久子がそうなったら、喜んで君のオムツを交換してあげるよ」

 「それはちょっと恥ずかしいなあ。でもありがとう、悟」

 「久子」

 

 小休止を終え、私たちは夢中で行為を再開した。




 


 ノートル・ダム大聖堂はすごい人集りだった。


 「これでは中には入れないなあ。スリも多いしね?」

 「中に入らなくてもいいよ、ここで」


 私と悟さんはクリスチャンなので胸の前で十字を切り、大聖堂に向かい、祈りを捧げた。母も手をあわせてくれた。


 (銀河が天国で詩音さんと仲良く暮らせますように)



 ヨーロッパのクリスマスは日本のそれとは違い、いくつかの飲食店だけを残し、あとは店仕舞いをしてしまう。

 日本のようにクリスマスが終わるとすぐに正月飾りをするようなことはない。言わば日本の大晦日の夜のような静けさがある。

 もっとも日本でのクリスマスはただのイベントだ。

 ケーキを買い、チキンを食べ、子供たちの望む物を巧みに聞き出し、サンタになって子供たちにサンタクロースの存在を信じさせてあげる。

 恋人たちはホテルを予約し「性なる夜」に興じるだけ。

 

 だがキリスト教の国でのクリスマスは、あくまで「イエス・キリストの降誕の日」なのだ。

 我々の罪を背負い、犠牲になったイエスに静かに感謝の祈りを捧げる日なのだ。




 私たちはメゾンでイブを静かに迎えた。フランスではイブの晩餐を「Reveillon(レヴェイヨン)」と呼ぶ。イブと大晦日は特別な晩餐なのだ。


 母の自慢のケーキも焼け、小さなテーブルが御馳走でいっぱいになった。

 暖炉の炎とアンディー・ウイリアムズのクリスマス・ソング。

 悟さんが私たちのグラスにシャンパンを注いでくれた。

 もちろん、銀河と詩音さんのグラスにも。


 「それでは銀河君が天国で穏やかに暮らせますように。献杯」

 「献杯」


 私は再び涙が零れた。

 クリスマスケーキにロウソクはなかった。

 母は銀河と詩音さん、そして私にケーキを取り分けてくれた。


 「さあ召し上がれ、久子パティシエのスペシャル・クリスマスケーキを」

 「凄いね久子! 君は天才パティシエだよ!」

 「あなたはお酒を飲んだ後でね?」

 「ちょっとお味見を」


 悟さんはケーキをちょっとだけフォークに乗せ、食べてみせた。


 「うん、これは美味い! どんなパリの有名店よりも美味しいケーキだ!」


 私は思った。もし母と悟さんがいなければ、私はとっくに銀河の後を追ってこの世から消えていた筈だと。

 私たちのレヴェイヨンは私を慮って深夜まで続いた。



 「それじゃあこれ、琴子ちゃんにクリスマスプレゼント」

 

 悟さんはツリーの足元から少し大きめの箱を取り出すと、私にそれを渡してくれた。


 「ごめんなさい、おじ様。私は何も用意していなくて」

 「いいんだよ、そんなこと。彼が亡くなって悲しんでいる琴子ちゃんからプレゼントをもらう訳にはいかないよ。さあ、早く開けてごらん」


 私は美しくラッピングされたリボンを解き、箱を開けた。

 そこには革製のエディターズ・バッグがあった。


 「楽譜入れに使ってもらえたらと思ってね?」

 「ありがとう、おじさま」

 「良かったわね? 琴子」

 「うん」


 少しプレッシャーを感じた。

 今の私には歌う自信がなかったからだ。毎日のトレーニングも歌のレッスンも、銀河を失ったあの日から途絶えていた。

 私は音楽と向き合うことが出来なくなってしまっていたのだ。



 「それじゃあね、また明日来るから」

 「いいよ、毎日来なくても。せっかくのクリスマスなんだから、ふたりでゆっくりして」

 「僕たちはここしか行く所がないんだよ」

 「何か欲しい物はある?」

 「何もないわ」

 「そう、じゃあまた今日と同じ時間に来るからね? 寝ててもいいわよ、スペアキーはあるから。

 でも裸で寝てちゃ駄目よ、悟には目の毒だから。あはははは」

 

 そうして母と悟さんは帰って行った。





 自分の娘とは言え、言葉を選びながらの会話は神経をすり減らしてしまう。どこに地雷があるか分からないからだ。


 「悟、今日はどうもありがとう」

 「琴子ちゃん、また少し下降ぎみだね?」

 「お薬はちゃんと飲んでいるようだけど、まだ感情の起伏はあるみたい」



 私たちは服を脱ぎ、一緒にシャワーを浴びた。


 「あのバッグ、琴子ちゃんには少しプレッシャーになったかもしれないね? 悪い事をしちゃったかな?」

 「そんなことはないわ、音楽は一日でも離れてしまうと元の感覚に戻るまで、最低でも3日はかかる。一週間なんて休んだら1カ月は掛かるわ」

 「絵描きも同じだよ。絶えず描いてないと描けなくなってしまう」

 「琴子にはなるべく早く歌に復帰させてあげたいの。

 だってこれからだもの、琴子のオペラ歌手としての人生は」


 私たちはお互いの身体をたっぷりとボディーソープの付いたスポンジで洗いっこをした。

 彼のペニスを洗っていると、次第にそれが硬くなって来た。  

 私がそれを口に咥えてあげようと腰を屈めようとした時、彼は私を立たせて後ろ向きにさせ、浴室の壁に両手を突かせた。

 背後から彼のそれがゆっくりと私の中に侵入して来た。


 「うっ、はっ、ん、んっ・・・」


 シャワーの音で私の喘ぐ声も、彼が出し入れするその淫らな音も掻き消されてしまった。

 すると彼は突然、自分の物を私の中から引き抜いてしまった。


 「続きはベッドでね。今夜は一回しか出来ないかもしれないから」

 「ばか・・・」

 



 私たちはバスローブに着替え、冷えたビールを飲んだ。


 「はい、私からのクリスマス・プレゼント」


 私は悟にあのペンダントの入った箱を差し出した。


 「開けてもいいかい?」

 「もちろん!」


 彼は西洋人のように銀のリボンとブルーの包装紙をむしり取るように開けた。


 「ありがとう久子! 君とペアのハートのネックレスだね? いつもこれを身に着けて大切にするよ」

 

 私は彼の手からネックレスを取り、それを彼の首に着けてあげた。


 「私にも着けて」


 私が悟にもうひとつのネックレスを差し出すと、彼はそれを私の首に着けてくれた。

 割れたふたつのハートをくっつけて、私と悟は大人の口づけを交わした。


 「それじゃあ今度は僕から君へ」


 悟は小さな箱を取り出した。それは明らかに指輪だと分かった。

 彼は私に跪き、箱の蓋を開けた。


 「久子、僕のお嫁さんになって下さい」

 「はい、悦んで!」


 私は彼に左手を差し出した。

 それは私の好きな、赤いルビーの指輪だった。


 「覚えていてくれたのね? 私が欲しかったルビーの指輪を」

 「あの頃は貧乏で買えなかったからね?」

 

 悟が私の左手の薬指にそれをはめてくれた時、涙が溢れた。


 その夜、私たちは全力で激しく愛し合った。


 あの時一緒に暮らした、モンマルトルの安アパルトメントでのように。


第二楽章

第1話 帰国

      La diva assoluta(絶対的歌姫)


 

 20世紀を代表する歌姫、マリア・カラスは伝説となり、神格化され、彼女を越えるオペラ歌手はもう二度と現れることはないだろうとまで言わしめた歌手だった。

 マリア・マリブラン、エンリコ・カルーソー、ベニャミーノ・ジーリなど、彼女に引けを取らない歌唱力を持つオペラ歌手も存在したが、マリア・カラスが絶対的歌姫として語り継がれている理由は、その役を演じ切る#類__たぐい__#まれな「女優性」にある。

 過食症に苦しみ、身長173?のマリア・カラスの体重はゆうに100kgを越えていた。

 そして過激なダイエットにより、50?以上の減量に成功し、美しき歌姫として再び名声を得てゆく。


 スリムな体形の私が、より声量を持つ為には体重をせめてあと10?増やす必要があった。

 私は体重を増やすことよりも、筋力アップに励んだ。

 筋トレとジョギングは、毎日の日課になっていた。

 オペラの舞台ではマイクは使えない。

 私はすべての歌のためのトレーニングやレッスンを止めてしまい、拒食症になりつつあった。

 元々野菜中心の食生活だった私は、銀河の死をきっかけに、より食欲が失せてしまっていた。



 (もう私はオペラ歌手には戻れない)



 私は銀河の匂いが残るベッドから、起きられない日々が続いていた。

 そんな私を母と悟さんは酷く心配した。



 「少し早めに日本に帰りましょう。ここにいても体力が落ちるばかりだから」



 私と母は年明けを待たずに帰国することを決めた。

 私はスーツケースの中に、こっそりと銀河の匂いの付いた枕カバーとシーツを入れた。





 座席のシートベルトを締め、着陸態勢を取った飛行機が徐々に高度を下げて行き、枯れ草に通る道を走るクルマがどんどん近づいて来る。

 そして軽い衝撃の後、機体は成田空港へと着陸した。


 


 入国手続きを終え、私と母は荷物を受け取りリムジンバスへと乗り込んだ。



 「やはり日本はいいわね?」

 

 母はホッとした様子で窓の外を見ていた。


 「ねえ? 東京に着いたらお寿司、食べに行こうか?」

 「大晦日にやっているお寿司屋さんなんてあるの?」

 「ホテルのお寿司屋さんならやっているんじゃない?」


 母は私たちが帰国したことは、まだ父には内緒にしていた。それは家に帰ればお正月で来客も多くなり、妻としての役割を演じるのが嫌だったからだ。

 母と私は1月5日まで、都内のホテルに滞在することにした。




 ホテルの鮨屋はかなり混んでいた。

 私たちはカウンターに座り、生ビールを注文し、お寿司を摘んだ。

 パリではパンが主食だったせいもあり、酢飯が食欲を刺激し、私は白身魚をいくつか食べた。

 二日ぶりに私は食べ物を口にした。

 そんな私を見て、母は安心したようで、


 「やっぱり日本食はいいわね? 良かった、琴子がご飯を食べられるようになって。 すみません、冷酒を下さい」

 「冷酒は何がよろしいですか?」

 「板さんのお勧めで」

 「かしこまりました。では『八海山』の吟醸酒はいかがでしょうか? 口当たりも良く、芳醇なお酒でございます」

 「ではそれを。琴子は?」

 「私も少し飲もうかな?」

 「じゃあ2つ下さい」

 「かしこまりました」



 久しぶりの日本酒だった。喉越しがなめらかで切れがよく、鼻からいいお酒の香りが抜けて行った。



 (銀河にも飲ませてあげたかった)



 そう思うと、また私は涙ぐんでしまった。


 「赤ナマコ酢と生牡蠣を下さい」

 「かしこまりました」

 「ママ、大丈夫なの? 生牡蠣なんて食べて」

 「大丈夫よ、ここに泊まっているんだから」



 その時、お店に入って来た品の良い老夫婦が私に声を掛けて来た。


 「お食事中のところ失礼いたします。オペラ歌手の海音寺琴子さんではありませんか?」

 「はい、そうですが」

 「私たち、海音寺さんの大ファンなんです。前回の『Madam Butterfly』には思わず夫婦で立ち上がって拍手してしまいましたのよ。あなたは日本の宝、いえ、世界の宝ね? 次の公演も必ず伺います。お食事を中断させてしまい、ご無礼、お許し下さいませ」

 

 ご夫婦はサインや握手を求めるでもなく、それだけ言うと奥のカウンター席へと案内されて行った。

 母はうれしそうに吟醸酒を飲んだ。


 「琴ちゃんのこと、応援して下さるファンの方だったのね? ありがたいお話ね?」

 「・・・」


 その時、私は自分がソプラニスタであることを思い出した。



 (そうだ、私は歌手だったんだ)




 その後、私は梅紫蘇と胡瓜の海苔巻を食べ、私と母は部屋に戻り、お風呂にゆっくりと浸かった。

 パジャマに着替え、私たちは各々のベッドに入った。



 「はあー、やっぱり日本はいいわねー、お酒も食べ物も美味しいし」

 「パパと離婚出来そうなの?」

 「たぶん大丈夫。あの人とママはもうとっくに終わっているから。それにあの人には「そういう人」もいるしね?」

 「でも、最初は好きだったんでしょう? パパのこと」

 「その頃は色々あって、心が弱っていた時だったからねー。

 好きと恋、恋と愛。愛情が無ければ夫婦は長くは続かないものよ。

 好きは憧れ。アイドルに夢中になるようなものなのよ。

 恋は相手への要求。もっとこうして欲しい、ああして欲しいとかね? 自分が中心の一方的な欲望。 

 そして愛は与え続けること。ただ相手を悦ばせてあげたい、笑顔が見たい。見返りなんて求めない無償の奉仕。それが愛よ」


 私の銀河への想いは愛だったと思う。

 毎日銀河のために何が出来るかしか考えていなかった私。


 「琴子は銀ちゃんのこと、愛していたのね?」


 私は頷いた。


 「だったらしあわせじゃない? 全力で彼を愛したんだったら後悔はない筈でしょう?」

 「ママは悟さんを愛しているんでしょう?」

 「もちろん。私、彼に介護が必要になったら面倒を看てあげるつもりよ。彼のウンコなら触っても平気。あの人のは無理だけど。あはははは」

 「もし、悟さんが死んじゃったらどうする?」

 「ママも琴子と同じことをするかもしれない。だって生き甲斐が消えてしまうんですもの」

 「そんなのイヤよ、ママがいなくなるなんて」

 「ありがとう琴子。それが琴子に対する今のママの気持ちよ。

 あなたには生きていて欲しい。そしてまた、沢山の聴衆を前にアリアを歌う琴子が見たい」

 「ママ・・・」

 「あなたの気持ちは痛いほど分かる。私も悟を愛しているから。でもママはひとつだけ後悔していることがあるの」

 「それは何?」

 「ピアニストになる夢を諦めてしまったこと。私はジュリアードに留学している時、酷い失恋をしてね? それからピアノが上手く弾けなくなってしまったの。そしてパリの音楽院に留学をして、そこで悟と出会った。

 そしてママはピアノを忘れ、悟との恋に夢中だった。

 でもなんで悟と別れたのかは、今も想い出せないの。

 そしてその後、色んな男性からプロポーズをされたけど、結婚する気にはなれなかった。

 そんな時よ、あなたのパパに出会ったのは。

 だからね、琴子にはずっと歌を続けて欲しいの。琴子に私と同じような想いはさせたくないから。

 でもこれって親のエゴなのかもね? 自分の果たせなかった夢を娘に託しているのかもしれない」


 母は左手の薬指にはめられた、ルビーの指輪を見ていた。

 父との結婚指輪は既に外されていた。


 「その指輪、悟さんからのプロポーズに貰ったんでしょう?」

 「そう、ママがずっと欲しかったルビーの指輪。彼は覚えていてくれたの」

 「良かったね、ママ。悟さんとしあわせになってね?」

 「ありがとう、琴子。あなたの人生はまだこれからよ。あなたはもっともっと輝けるわ」

 

 私は銀河の遺髪の入ったペンダントを強く握り締めた。


 私はこの深い悲しみの中から、一体いつになったら抜け出すことが出来るのだろう。


 余程疲れていたのか、母の寝息が聞こえて来た。


 そして私もいつの間にか、深い眠りに落ちて行った。


第2話 外された結婚指輪

 私は夫にLINEをした。



    5日の夕方に琴子と

    一緒に戻ります

             

             了解

             気をつけて



 あの人らしい返事だと思った。

 元旦だから、普通なら「明けましておめでとう」から始めるべきなのだろうが、去年は銀河が亡くなり、年明け早々、おめでたくはない話をしなければならない。新年の挨拶どころではなかった。

 いざとなるとどう話したらいいものか、私は悩んでいた。

 だが、痛みを伴わない別れなどあるはずもなく、正直に話すしかない。

 私は心を決めた。



 「あの人に5日の夕方に帰るからとLINEをしておいたわ」

 「そう」

 「琴子はどうする? ママとお婆ちゃんのところに来る? それともあの家に残る?」

 「椎名先生と打ち合わせをして手続きをするだけだから、鎌倉のお婆ちゃんの家にママとご厄介になろうかな? どうせまたパリに戻るしね?

 パパと一緒じゃ気まずいし、色々と訊かれるのも嫌だから」

 「その方がいいわ。そしてまたパリへ一緒に戻ればいいから」

 「じゃあそうする」

 「初詣ってわけにもいかないから、今日はホテルで大人しくしていましょう。バイキングでおせち料理でも食べて来ようか?」

 「そうだね?」

 「こんなのんびりとしたお正月は初めてよ。何もしなくていいお正月なんて」

 「たまにはいいんじゃない? ママは今まで頑張り過ぎて来たから」

 「そうね? 頑張り過ぎたのかもしれないわね?」


 不思議と涙が零れた。どうしてなんだろう?

 自分が可哀そうに感じたから? それとも離婚することが悲しい?

 理由は分からない。だが涙が止まらなかった。

 

 「ママ・・・」


 琴子が私の背中を摩ってくれた。

 絶望の中にいる娘が、私を労わってくれている。

 私は琴子と抱き合って、しばらく泣き続けた。




 お正月のホテルのバイキング会場は賑わっていた。宿泊客だけではなく、初詣の帰りにホテルの元日バイキングを目当てに来ている、家族連れも混じっているようだった。

 琴子と私は生ビールを注文し、おせちを肴にお酒を飲んだ。



 「どうして昼間に飲むビールって、こんなに美味しいのかしら?」


 私は昆布巻きを口に入れ、ビールでそれを流し込んだ。


 「お正月のおせちはいつもママの手作りだったもんね?」

 「黒豆を煮て柚釜を作ったり、琴子とよく一緒に作ったわね? おせち」

 「今年のお正月は静かなお正月だね?」

 「母と娘のふたりだけのお正月ね?」

  

 琴子は伊達巻を少しだけ食べた。


 「美味しい? 職人さんの作る伊達巻のお味は?」

 「うん、美味しいけど私はママの方が好きかな?」

 「ありがとう、琴子」

 

 



 私たちはホテルの庭園を散策した。広葉樹はすっかり葉を落とし、池の錦鯉は悠然と泳いでいた。

 清々しい爽やかな朝日が、元日の穏やかな朝を演出している。





 その頃、海音寺とその愛人、宮下久美子は箱根の温泉旅館にいた。


 「院長先生。LINE、奥さんからでしょう? 折角、箱根の温泉旅館で「姫初め」をしている最中なのにい。

 電話してもいいわよ。私、大人しくしているから。

 でも声が出ちゃうかも。院長先生、テクニシャンだから」

 「ただの「業務連絡」だよ」


 俺は久美子の乳首を甘噛みし、舌で乳首を転がした。


 「あん、それ、好きかも・・・」


 (久子のやつ、もう帰って来るのか?)


 女房の久子とはずっと仮面夫婦だった。

 お互いにパーソナル・サークルを作り、適度な距離を保って生活していた。

 久子が琴子を身籠ってからはレスになっていた。

 久子はいい女だが、セックスの時は明らかにフェイクだった。

 俺は性欲を持て余し、ナースや患者、飲み屋のホステスなど、片っ端から手を付けた。


 そして今、20歳も歳の離れたこの女医、宮下久美子とダブル不倫をしている。

 俺たちはウマが合った。食べ物も会話も、そして体の相性も抜群に良かった。

 ドラマや映画の好みも同じで、一緒に楽しみ、感想を言いあったりもした。

 音楽もショパンより、ベートーヴェンが好きだった。


 久美子は大学病院の内科の医局で講師をしていたが、教授のセクハラやモラハラに嫌気がさし、大学病院を辞めてウチのクリニックで内科医として勤務するようになっていた。子供はいない。

 もちろん久美子のことは女房の久子も知っている。そして俺たちの関係も。

 家から微かに聞こえて来る久子のショパンに、久美子はいつも苛立っていた。


 「またショパン? どうしていつもショパンなの? たまにはエリック・サティでも弾けばいいのに」


 久子はショパンしか弾かなかった。

 琴子にも3才からピアノをやらせていたが、私立中学に通う様になると、声楽に力を入れるようになった。

 琴子の才能はどんどん開花し、声楽教師の勧めもあり、音大受験に向けて、藝大の教授のレッスンも定期的に受けるようになった。

 そして琴子は念願だった藝大のオペラ専攻へ合格し、院にまで進み、オペラ歌手として将来を嘱望されるようになっていた。

 私と久子が離婚しなかったのは、周囲への体裁と、娘の琴子のことがあったからだった。


 「先生、下もお願い」


 私は顔を久美子の下腹部へと移動させ、硬くなったそれを強く吸った。


 「はっ、くっつ、う、う・・・」


 その後、俺はその部分をチロチロと舐め、その付近を上下に舌でなぞるように攻め続けた。

 久美子の愛液がどんどん溢れ、俺の唾液と混じり、シーツを濡らした。


 久美子の旦那は脳外科医だった。彼はいくつかの医療裁判を抱え、そのストレス解消のためにゴルフと女にそのはけ口を求め、家には着替えをするためだけに帰って来る生活だと久美子は零していた。

 俺たちはお互いに、いつ今の生活を捨てても誰も傷付く者はいなかった。

 俺はその行為を続けながら、器用に両手を使い、彼女の身体を千手観音のように愛撫した。



 「あっ、イク、イクイク、イキそう! ダメ!」


 ガクンと彼女が落ちた。


 (そろそろ結論を出す時か? 俺たち夫婦の終わりを)


 オルガスムスを味わっている久美子を見ながら、俺はそう考えていた。





 都内は2日から、すっかり通常の状態に戻っていた。初売りが始まり、飲食店も営業を開始していた。

 つくづく日本人は商魂逞しい民族だと思う。

 ハロウィーン、クリスマス、そして大晦日、お正月。どんどん忘れ去られてゆくイベント。そして今度は毎年恒例の成人式に大暴れする若者たち。

 私と琴子は鎌倉の母の家に年始の挨拶に出掛けた。


 横浜で貿易会社を経営していた父は5年前に他界し、会社は弟が継いでいた。



 「お母さーん。元気?」

 「明けましておめでとう、久子に琴子。めずらしいわね? 2日にここに来るなんて」

 「これ、お母さんの好きな栗羊羹と大福」

 「ありがとう。今、お茶を淹れるわね?」


 私たちは庭を眺めながらお茶を啜った。



 「パリからいつ帰って来たの?」

 「大晦日よ」

 「あまりいいお話ではなさそうね?」

 「悪い話とおめでたい話があるの。どっちから聞きたい?」

 「離婚と結婚?」

 「そうなの。私、あの人と離婚することにしたの。色々やらなければならない事もあるから、それまでここに居てもいい?」

 「いいわよ、ここはあなたの家なんだから」

 「ごめんなさいね、親不孝な娘で」

 「何も謝ることはないわ、久子の人生なんだから。後悔しないように生きなさい」

 

 80歳を超えた母は、かつては華族の令嬢だった。ちょっと会わなかったうちに、小さくなったように見えた。


 「お婆ちゃま、私も少しの間、ここに置いてね?」

 「賑やかになっていいわね?」

 「用事が済んだら私と琴子はパリで暮らす事にするわ。お母さんも私たちとパリで暮らしてもいいのよ」

 「遠慮しておくわ。私は日本で死にたいから」


 寂しそうに母は笑った。

  




 家に戻って来た。


 「ただいま」

 

 リビングに行くと、夫はブランデーを飲みながらニュース番組を見ていた。


 「お帰り。どうだった? パリは?」


 琴子は何も言わず、自分の部屋に直行し、家を出る準備を始めた。

 私は夫の前に座り、テーブルの上にサインをした離婚届と結婚指輪を置いた。


 「離婚して下さい」

 「どうした? 急に」


 夫はテレビを消した。口元に安心したような笑みが見て取れた。


 「あなたが浮気をしているからです」

 「・・・。そうか」

 「今までお世話になりました」

 「これからどうするつもりだ?」

 「パリで暮らそうと思います」

 「ひとりでか?」

 「琴子と一緒に」

 「慰謝料として1億払うよ」

 「ありがとうございます。宮下先生とお幸せに。

 私の荷物は明日には運び出しますから」

 「困ったことがあれば、いつでも言いなさい」


 夫は離婚届にサインをして印鑑を押し、自分の結婚指輪も外すと、テーブルの上に置いた私の指輪と合わせて私に差し出した。

 

 「金とプラチナだから現金化すればいい」


 夫から謝罪の言葉は最後までなかった。

 

 「ちょっと出掛けて来る」


 夫はダウンジャケットを羽織り、家を出て行った。


 私は泣くまいと思ったが駄目だった。


 私たちの三十数年間の夫婦生活は、あっけなく終わった。


第3話 不思議な弁護士

 霞が関にある、その大手法律事務所の応接ブースは、高層階の26階にあり、遠くには富士山が見えていた。

 母と私の目の前には、銀河の親友だったという国際弁護士、椎名錬三郎がいた。


 さっき受付で渡された会社案内の彼の経歴には、


     椎名錬三郎

     東京大学法学部卒

     東京地方裁判所 判事補に任官 

     その後米国 ハーバード大学ロー・スクールに留学 

     ニューヨーク州弁護士資格取得 現在に至る



 と、書かれていた。いわゆるスーパーエリート弁護士である。

 しかし、その外見は、法廷ドラマの織田裕二とは大きくかけ離れた、マッシュルームカットの髪型、丸い銀縁メガネを掛け、黄色のスーツにハーフパンツ。ネクタイは草間彌生がデザインしたような赤い水玉模様。

 シャツはルパン三世と同じ、ブルーのシャツを着ていた。

 身長は私と同じくらいしかない。

 そして声は電話の時に聞いた、あのカウンターテナーだった。



 「始めまして、エンデバー法律事務所の弁護士、椎名錬三郎です。本日はお忙しい中、わざわざお出でいただきありがとうございました。よろしくお願いします」

 

 彼はポメラニアンのような、人懐っこいカワイイ瞳で微笑むと、私と母に各々名刺を渡してくれた。


 「海音寺琴子と申します」

 「私は琴子の母親です。今日は娘の付き添いで参りました」

 「どうぞお掛け下さい。この度はご愁傷様でした。

 銀は馬鹿ですよ、こんな素敵な琴子さんを置き去りにして、死んでしまうなんて。

 銀は詩人としては天才ですが、恋人としては最低の男ですよ。 

 でもね、それがアイツの魅力でもある。そうは思いませんか? 海音寺さん」


 奇抜な服装と声の彼ではあったが、とても温かい人柄が伝わって来たことに私は安心した。

 やはり銀河の親友に間違いはないと思った。

 私は彼と銀河が、一緒に談笑しているところを想像してみた。



 「こちらが銀の資産目録となります。生命保険は既に解約されていて、あとは電話でお話しした通りです。

 そしてこちらが税理士が算出した税額と、この件に関わる手続費用、そして当ファームへのご依頼費用を差し引かせていただきますと、およそ111,243,252円になりますが、為替変動がございますので誤差が生じます事、ご了承下さい」

 「わかりました」

 「パリの銀のあのメゾンはどうされますか? 売却するよりは賃貸に出した方が得だとは思いますが」

 「椎名先生もあのメゾンに行かれたことがあるんですか?」

 「ええ、前に一度だけ。いいメゾンですよね? ルーブルにも近くてゴシックなデザインで。そしてあの暖炉が素敵ですよね?」

 「私、あのメゾンで暮らすつもりなんです」

 「ではオペラはパリを拠点にされるおつもりですね? それは実に素晴らしいことです」

 「いえ、歌の方はまだ考えていません」

 「そうですか。立ち入ったことを申し上げてしまい、失礼いたしました。私はクラッシックには疎いもので」

 「椎名先生は甲本ヒロトと椎名林檎でしたもんね?」

 「あはははは。そうなんですよ。あとラルクも好きですよ。カラオケでは吉幾三もよく歌います」

 「うふっ。先生はお歌がお好きなんですね?」

 「こういう仕事をしていますとね? どうしても絶叫系が好きになります。永ちゃんも歌いますよ、矢沢永吉も」

 「私も好きです。甲本ヒロト」

 「えっ、海音寺さんもですか? クラッシックしかお聴きにならないのかと思いました」

 「よく夜中に聴いていました。というより歌ってしまいます。一緒に踊ったりしながら」

 「海音寺さんがブルーハーツを聴いて踊る? 琴子さんからは想像が出来ません」


 夢中になって椎名弁護士と話している自分がいた。

 それを隣りで見ていた母も、うれしそうに笑っていた。



 「ではこの業務依頼書をご確認の上、サインをお願いいたします。お母さんも是非、一緒にご確認下さい」


 私と母は内容を確認し、書類にサインをした。



 「ではすぐに遺産相続手続きに着手いたしますので、来週、またここにお出で下さい。金曜日の15時ではいかがでしょう? 申請書類がございますので、入金をご希望される振込口座の預金通帳と通帳印、それと実印、それから運転免許証と住民票、印鑑証明書等のご用意を別紙の通りご準備をお願いします。本日は大変お疲れ様でした」

 「よろしくお願いします。失礼ですが、先生は銀河とはいつからのお付き合いだったんですか?」

 「もう15年前になりますか? その頃銀と私は地下鉄の工事現場で、深夜の土木作業のバイトをしていました。毎日セメント袋を担いだり、一輪車で砕石や砂、生コンを運んだり、穴を掘ったりしていました。

 私と銀はすぐに打ち解け、仲良くなりました。

 仕事が終わるといつも、牛丼か立ち食いソバを食べて帰りました。

 そして給料日だけはちょっと贅沢をして、上野のアメ横の安い居酒屋で、生ビールと焼鳥を一本ずつ頼むんです。とても海音寺さんのような方をお連れ出来るようなお店ではありません、店内は油でベタベタに汚れ、タバコと、焼鳥を焼く煙で濛々としていて、店員は言葉のよく通じない中国人でした。

 銀と一緒にいると、いつも楽しいんですよ。どんなに辛い時でもね。

 私は東大だったので、お金持ちの家のお坊ちゃんたち相手のワリのいい、ラクな家庭教師のバイトもありましたが、肉体労働をしていました。

 それは将来、法曹界で働くことを考えていましたので、岡林信康の『山谷ブルース』のような人たちと、直に関わってみたかったのです。弱い人たちを守るのが法律家の使命ですから。

 そしてそれが自分の学びになると思いました。

 銀はとてもやさしい、いい奴でした。それなのに・・・。

 ごめんなさい、ついヘンな昔話なんかしてしまって」

 「いえ。もっと聞きたいです、銀の話」

 「では次回の打ち合わせの時にまたお話ししましょう。

 私にも銀のパリでの話をお聞かせ下さい。

 では気を付けてお帰り下さい」

 「来週の金曜日、15時にお邪魔いたします。今日はありがとうございました。失礼いたします」



 椎名弁護士とパラリーガルの女性が、私たちをエレベーターまで見送ってくれた。


 エレベーターの扉が閉まると母が笑って言った。


 「面白い弁護士さんで良かったわね? ちょっと想像とはかなり違っていたけど」

 「だって銀のお友だちだもん」

 「そうね」


 私は少し気分が軽くなった。

 久しぶりに心から笑った。


 「三軒茶屋に美味しいイタリアンのお店があるんだけど、行ってみない?」

 「うん、いいよ」



 

 そのイタリアンのお店は広くもなく、狭くもない、留学していたイタリアのベローナでよく通ったお店に似ていた。

 妙に気取ったイタリアンではなく、北イタリアの郷土料理がメインのお店だった。

 母はポルチーニ茸のチーズリゾットを。私はボッタルガのパスタを注文した。



 「ここはPizzaも美味しいのよ、クワトロ・フロマッジでいいわよね?」

 「うん、任せる」

 「そしてやっぱりPizzaにはBirra(ビール)よね?

 すいません、生ビールを2つとクワトロ・フロマッジもお願いします」

 「海音寺様、いつもありがとうございます。生ビールはいつ、お持ちしたら宜しいでしょうか?」

 「Pizzaと一緒でお願いします」

 「かしこまりました」


 店内にはニンニクと上質なオリーブオイルの香りが立ち込めていた。


 「このお店はね? 銀座にも出店しているのよ」

 「そうなんだ?」

 「ドルチェも凄く美味しいの。楽しみにしていなさい。

 さっきの弁護士さん、お会いした時、ママ、思わず吹き出しそうになっちゃったわよ。錬三郎なんて古風なお名前だから、てっきり眉間に皺でもある弁護士さんだとばかり思っていたから。

 そしたらあの「ゲッツ!」の芸人さんみたいな恰好をして、昔のビートルズみたいな髪型なんですもの。

 ズボンはハーフパンツだし。あはははは」

 「別にいいじゃない、彼の個性なんだから。どんなファッションを楽しもうと。

 私はいいと思ったわよ。椎名弁護士があんな楽しい人で。

 アルマーニのスーツを気障ったらしく着て、「僕は君たちとは人種が違うんだよ」みたいな弁護士よりもずっと素敵」

 「とてもハーバードを出た国際弁護士には見えないけどね?

 でもお話ししていると、要点をきちんと捉えて理路整然として分かり易く説明をしてくれて、優秀な弁護士さんでママも安心したわ。クリニックの顧問弁護士の橘さんとは大違い。いつもヘアーワックスでがっちりと頭を固めてバカみたい。ナルシスト弁護士なのよ、いつも鏡ばっかり見て。あはははは」

 

 私は彼が銀河の親友で、本当に良かったと思った。

 店内にはマリア・カラスの『蝶々夫人』のアリア、『ある晴れた日に』が流れていた。

 私は無意識にそれを口ずさんでいた。

 それはスポットライトを浴びて歌う私と重なり、脳裏には蝶々夫人を演じる自分の姿が浮かんだ。

 波がうねるような弦楽器の伴奏。私は静かに目を閉じた。



    (歌いたい! 私は歌姫なのだから!)



 「いいわね? プッチーニ。

 ママね、またピアノを始めようかと思うの。遊びではなく本気で。

 パリに戻ったら音楽院を受験するつもりよ。

 もう一度、挑戦してみたいの。たとえピアニストになれなくてもいい。でもそれでもいいの、私はピアノが大好きだから」

 「ママ、私もまた歌ってみるよ。だって歌うことは私の人生そのものだから」

 「ママも負けないわよ。お互いにがんばりましょう!

 大切な人生を、決して後悔しないために」


 料理とビールが運ばれて来た。

 私と母はビールのグラスを合わせ、乾杯をした。

 絶望の中から一筋の希望の光が差した。


 それは銀河の親友、椎名錬三郎のおかげだった。


 私は来週の椎名弁護士との打ち合わせが待ち遠しかった。


第4話 復活した歌姫

 マネージャーの雪子には帰国した事は伝えておいたが、椎名弁護士に会うまでは、とても歌う気にはなれなかったので、私が帰国したことは内緒にしてもらっていた。


 帰国した挨拶に、私は所属している音楽事務所を訪れた。マネージャーの雪子は出掛けているようだった。スタッフは私の突然の訪問に驚き、歓迎してくれた。


 「日本に帰って来ました。またよろしくお願いします」


 私はスタッフひとりひとりの机を回り、差し入れを渡して歩いた。


 「吉祥寺の『こざさ』の「幻の羊羹」じゃないですかあ!」

 「ごめんなさいね、パリのおみやげなんて大した物はあまりないから羊羹にしたの」

 「この羊羹、中々買えないので有名じゃないですかあ! チョーうれしいんですけど! ありがとうございます! 琴子さん!」

 「琴子さん! パリからお帰りになったんですね!

 みんな待っていたんですよ! 心配したんですからね、「日本には帰らない、パリで生活する」なんて言うんじゃないかって!」

 「また歌いたくなっちゃったの。また仲良くしてね?」

 「今年の夏、新国立劇場で『椿姫』が企画されているんですけど、主役のヴィオレッタがまだ決まらなくて。いかがですか? 琴子さん?」

 「是非よろしくお願いします! 『椿姫』は音大の時にやったきりだから、一度本物の舞台で演じてみたかったのよ。社長はいらっしゃる?」

 「社長は丁度、大阪へ出張中ですが、専務はいらっしゃいます」

 「そう、じゃあ社長によろしくお伝え下さい」

 「琴子さん、楽しみにしていますよ、『椿姫』の公演」

 「ありがとう早苗ちゃん、また面倒見て頂戴ね?」

 「こちらこそです!」




 コンコンコン 私は専務の部屋のドアをノックした。


 「どうぞ」

 「佐和子専務、パリから戻って来ました」


 佐和子専務は老眼鏡を外し、書類から目を離して顔を上げた。


 「あら琴子、お帰りなさい」

 

 私は母から持たせられた、エルメスのスカーフが入った化粧箱を専務に渡した。


 「佐和子叔母さんにお似合いかと思って、スカーフです」

 「あら、いつもありがとう」


 専務が箱を開けると、


 「あら素敵、久子のお見立てね?」

 

 専務はそれを軽く首に当てて微笑んだ。


 「バレちゃいましたか? でもお金を出したのは私ですよ」

 「久子は私の好みをよく知っているからね? ありがとう琴子」

 「ママも一緒に来るつもりだったんですけど、色々と立て込んでいて」

 「そう。琴子はエスプレッソだったわよね? エスプレッソとココアをお願い」


 叔母は内線で秘書に飲み物を命じた。

 佐和子叔母さんは鎌倉の祖母の妹だった。


 「あとこれもどうぞ。叔母様の好きな『こざさ』の羊羹です」

 「あら『こざさ』の羊羹? よく手に入ったわね? ありがとう、琴子。それでパリはどうだったの? 冬のパリは私も大好き。最近は忙しくて行ってないけど、死ぬまでにはもう一度行きたいわねえ。琴子、また瘠せたんじゃない?」

 「色々ありましたから。パリでは・・・」

 「男ね? それで? どんな「スケコマシ」だったの?」

 「死んじゃいました・・・、その人」


 私は泣いてしまった。

 すると叔母は私の隣に座り、私を抱き締めてくれた。


 「それは辛かったわね? 相手はフランス人?」

 「いえ、日本人です・・・、詩人の森田人生って知っていますか?」

 「えっ、琴子のお相手ってあの森田人生だったの? 日本でもニュースになったわよ、ドーバー海峡でって。まさかあの人が琴子のお付き合いしていた人だったなんて。

 いっぱい泣きなさい。悲しみなさい。

 そして涙が枯れるまで泣いたら、また歌いなさい。琴子は歌姫なんだから」

 私は叔母に抱かれ、声をあげて泣いた。


 



 ヴェルディの『椿姫』は好きな演目だった。

 妻、マルガリータを亡くし、ヴェルディは当時、3人の子供を抱えた歌手、ジュゼッピーナと同棲をしていた。

 その時に作ったオペラが『La traviata(堕落した女)』、『椿姫』だった。

 あの有名な『乾杯の歌』が歌われるオペラだ。

 この『椿姫』は『蝶々夫人』、『カルメン』と並び、初演で酷評された、3大失敗オペラのひとつだと言われている。

 だがそんな『椿姫』は、今では世界で最も上演されているオペラになっている。

 

 主役のヴィオレッタ・ヴァレリーは高級娼婦、クルティザンヌだった。

 ドフォール男爵は彼女に夢中になり、毎夜、彼女と舞踏会に興じていた。

 そこへ遊び人の子爵、ガストンがアルフレードという青年貴族をヴィオレッタに紹介する。

 アルフレードはヴィオレッタに一目惚れをしてしまい、愛の告白をする。

 そんな彼女はドフォール男爵という愛人がいながら、アルフレードの愛を受け入れ、椿の花を捧げてしまう。

 彼女が『椿姫』と呼ばれる所以である。

 ふたりは駆け落ちをして田舎で暮らすようになるが、世間知らずのアルフレードは、生活がヴィオレッタの蓄えや財産で賄われていることを気にも留めない、いわゆるヒモ男だった。


 やがてそこへアルフレードの父、ジョルジオ・ジェルモンがやって来て、ヴィオレッタに「息子と別れて欲しい」と懇願する。

 それを受け入れ、ヴィオレッタはアルフレードと別れ、同じクルティザンヌの友人、フローラを頼り、彼女の家でパーティ三昧の日々を送っていた。

 そこにアルフレードがやって来て、賭けトランプで大勝ちしていると、ドフォール男爵にエスコートされてヴィオレッタと再会する。

 食事の支度が整い、みんながサロンへ去った時、ヴィオレッタはアルフレードに帰るようにと説得する。

 アルフレードはみんなを呼び戻し、博打で勝った金を「今まで出して貰った分だ」とヴィオレッタに金を投げ付けてしまう。

 その行為は御法度であり、ドフォール男爵はアルフレードの父、ジェルモンに決闘の布告として、白手袋を叩き付ける。



 のちにヴィオレッタは結核を患い、ドフォール、アルフレードからも離れ、死の床に伏してしまう。

 訪れるのは医師のグランヴィルだけだった。

 アルフレードの父、ジェルモンはアルフレードの近況を書いた手紙をヴィオレッタへ送り届ける。


 「今更もう遅いわ」と言って悲しむヴィオレッタ。


 危篤のヴィオレッタの元に駆けつけたアルフレード。そしてジェルモンと医師のグランヴィル。

 最期はメイドのアンニーナに看取られて絶命するという物語だ。


 悲劇の物語でありながら、明るくダイナミックな音楽。第一幕の切ない前奏曲、そして響き渡るアリア。

 私はその日から早速レッスンを開始した。



 だがこの約1カ月あまりのブランクは、私の歌をガラクタにしてしまっていた。

 私はまず、栄養バランスの良い食事を摂るようにして、少しずつ軽い筋トレとウォーキングで体力を整え、体重を40?まで増やすことを目標にした。

 

 歌の基本に立ち返り、呼吸法、横隔膜の使い方や頭蓋骨へ叩きつけるようなロングトーンとスタッカートにかなりの時間を割いた。

 そして徐々にではあるが、再び声に対しての温度、湿度、色や香りが感じられるようになって来た。


 私は聡子にLINEをした。


    

     日本にいます 

     会えますか?



 するとすぐに聡子から電話が掛かって来た。


 「もう帰って来ないのかと思っちゃったわよー。親友の伴奏者の私を放ったらかしにして」

 「ごめん聡子。夏に『椿姫』をやることになったの。だからまた練習に付き合って」

 「よろこんで! じゃあ来週の金曜日はどう? お酒でも飲みながらパリでの男の話でも聞かせてよ」


 来週の金曜日は弁護士の椎名と会う約束の日だった。


 「ごめん、来週の金曜日は駄目なの」

 「そう、じゃあ週明けの月曜日はどう?」

 「それなら大丈夫」

 「了解。楽しみにしてるわね?」

 「うん、ありがとう。また電話するね?」

 「うん、わかった!」


 聡子と話していると長くなるので、私の方から電話を切った。

 聡子にはまだ、パリでの話はしたくはなかったからだ。


 私は『椿姫』を聴きながら、床に就いた。

 やっと私の生活に歌が戻って来た。


第5話 まぼろし

 鎌倉の屋敷での食事には、いつもモーツァルトが流れていた。

 それは亡くなった祖父の習慣だった。

 私はエスプレッソだけの朝食を辞め、スープとサラダ、卵料理、トースト、フルーツ・スムージー、そしてミックス・ナッツの食事に変えた。

 量は多くは食べられないが、まずは落ちた体力を回復させることが先決だった。


 「琴子の朝食は、なんだかリスのお食事みたいね? 木の実なんか食べて」

 

 と、祖母は目を細めて笑った。


 「まるでスーパーモデルのお食事みたいでしょ?」

 「あら、スーパーモデルはリスと同じご飯を食べているの? ほっぺはあんなに膨れてはいないけど?」

 「そうだったらモデルになんかなれないわよ、お口にアーモンドとか貯め込んでいるモデルなんて。あはははは」

 「うふふふふ」


 私と祖母、母の三人は笑った。

 食べられるようになって、少しずつではあるが気持ちの落ち込みは改善されていった。


 「でも良かったわね? 『椿姫』のヴィオレッタの役が決まって。ママ、凄くうれしいわ。

 しかも新国立劇場でやるんでしょう? となると当分は日本での生活になるわね?」

 「ごめんねママ、一緒にパリに戻れなくて」

 「心配しないで、パリで悟と仲良くやっているから。2月になったらパリに戻るつもりよ。銀行口座やクレジットカード、行政関係の書類、パスポートとかの住所と名前の変更も済んだしね」

 「生年月日も変えられるといいのにね? オホホホホ」

 「そうね、16歳とかに戻りたいわ」

 「ママもお婆ちゃまもまだ若いわよ、外見も気持ちも」

 「私も久子みたいに再婚しようかしら?」

 「お父さんが焼餅焼くかもね? あはははは」


 楽しい朝食が続いた。


 「琴子様、エスプレッソをお持ちいたしましょうか?」

 「ありがとう、幸江さん。お願いします」

 「かしこまりました」


 屋敷にはお手伝いさんの幸江さんがいた。この家に来てもう20年以上になる。祖母の良き話し相手でもあった。


 「琴子、明日の椎名先生のところに持って行く書類とかは準備したの?」

 「うん、もう用意したよ。それからママ、明日は私ひとりで大丈夫だから」

 

 母は私の想いを汲んでくれたようだった。


 「椎名先生なら安心ね? それじゃあ明日の椎名先生との打ち合わせにはママはついて行かないけど、判断に迷うようなことがあれば電話しなさい。明日は銀座をぶらついているから」

 「ありがとう、その時はお願い」


 私にはある計略があった。私の知らない銀河の事をもっとよく知りたいという想いが。

 それに母を付き合わせるのは気が引けたのだ。




 食後、母がサロンでピアノを弾いていた。

 ベートーヴェン、ピアノソナタ第17番『テンペスト』第三楽章。

 いつものショパンではなく、母はここに来てからベートーヴェンばかりを弾いていた。

 まるでホロヴィッツのような素晴らしいタッチで。


 『テンペスト』はベートーヴェンがシェイクスピアの戯曲、『テンペスト』に触発されて書いたピアノ・ソナタだ。


 ミラノ大公だったプロスペローが、ナポリ王とミラノ大公の船団を嵐を起こして難破させ、島に漂着した二人に復讐するという物語だ。


 演奏を終えた母に私は声を掛けた。


 「ママのベートーヴェン、素敵。荒れ狂う嵐の海がよく表現されていたわ」

 「タッチにまだ力強さがないでしょう? 指もまだ良く動かないし」

 「音にふくよかさがあるわ。とても自由な音」

 「でもこのスタインウェイはやっぱりいいわ。音もいいしレスポンスが凄くいいの。弾き馴れてもいるしね?」

 「ママ、とても生き生きしている」

 「それは琴子のお陰よ。琴子がパリに行かなければ、私は悟と二度と会うことは出来なかった。あの牢獄のような家でお婆ちゃんになっていたわ」

 「お礼を言わなければいけないのは私の方よ。ありがとう、ママ」


 人の人生とは分からないものだ。不幸だと思ったことが幸福に繋がっていたり、幸福だと思っていたことが不幸の原因になることもある。

 幸福と不幸はコインのように常に表裏一体なのだ。

 そしてオセロゲームのように、絶えず白と黒が入れ変わってゆく。

 私の人生は、再び始まったばかりだった。





 椎名弁護士はてきぱきと書類を確認し、私はそれをひとつひとつ確認しながら署名捺印をした。


 「お疲れ様でした。書類は以上になります。後は随時、ご指定いただいた口座の方に入金されて参ります。この記載された内容で、来年の確定申告をして下さい」

 「ご親切にどうもありがとうございました。椎名先生が銀の親友で本当に良かったです」

 「私も海音寺さんが銀の彼女さんで本当に嬉しく思います。

 あなたのような素敵な女性が銀とお付き合いしてくれて本当に良かった。アイツはしあわせ者です。

 銀の生活は荒んでいましたから」

 「詩音さんがお亡くなりになってからのことですか?」

 「ご存知でしたか? 詩音さんのことは?」

 「銀から最初に聞かされました。とても愛していたようです、詩音さんのことを。

 彼のメゾンには、彼女の写真が飾ってありました。

 そして今もそのままにしています」

 「そうでしたか? 銀はそれからどんどん壊れていきました。

 「詩音を殺したのはこの俺だ」と言って、毎日のように酒場を歩き泥酔し、絡まれて喧嘩してズタボロでした。

 何度銀を警察に引き取りに行ったことか。

 その頃、彼は何かに取り憑かれたようにいつも詩を書いていました。折り込み広告の裏やメモ紙、レストランのナプキンやレシートの裏にまで。

 「詩が降って来るんだよ、どんどん降って来るんだ!」と。

 皮肉なものです、まるで彼の悲しみが詩に変換されているようでした」

 「病院には?」

 「もちろん連れて行きましたよ、心療内科にもね。

 でも、その精神科医は中々粋な人で、「クスリを服用すれば症状は改善するかもしれませんが、詩人、森田人生は死ぬかもしれない。星野銀河を取るか? 詩人、森田人生を取るかです」と。

 銀は言いました。「最後まで俺は詩人、森田人生でいたい」と。

 その後、彼はパリへと旅立って行きました」


 私はどうしても訪れたい場所があった。それは銀河と椎名弁護士がバイト時代に通ったという上野の居酒屋だった。


 「先生、今日はこれからお忙しいですか?」

 「いえ、この後は何もありませんが」

 「ひとつお願いがあります。私を先生が先日仰っていた、銀河と先生がよく行っていたという、上野アメ横の居酒屋さんへ案内していただけないでしょうか?」

 「まだ残っているかどうかわかりませんよ? それに汚いし、猥雑なところですから」

 「構いません、突然こんなことをお願いして申し訳ないのですが、どうしても銀の思い出の場所を見てみたいのです」

 「わかりました。ではご案内しましょう。私と銀の過ごした青春の場所へ」





 私と椎名弁護士は、上野駅からアメ横を歩いて行った。

 椎名弁護士が立ち止まった。


 「ここです。懐かしいなあ、まだやっていたんだ。海音寺さん、この店ですよ。私が言った通りの店でしょう?」


 椎名弁護士は嬉しそうに笑った。子供のように素直な笑顔だった。

 

 その居酒屋は山手線の高架下にあった。

 透明なビニールシートで覆われ、看板も見当たらない。

 安物のスーツを着たサラリーマンや作業服姿の労働者、そして怪しげな人間たちがお酒を飲んでいた。


 「では銀座へ出て、天ぷらでもいかがです? ご馳走させて下さい。銀の親友として」


 私は引き寄せられるようにそのままお店に入って行った。


 「海音寺さん」

 

 彼と私はお店にいた人たちの注目を一斉に浴びた。

 

 「何だおめえ? 吉本のお笑い芸人か? 女優なんか連れていい御身分だぜ」


 椎名弁護士は真っ赤なハーフコートを着ていた。

 その老人には歯が殆どなかった。前歯が2本だけ覗いていた。

 まだ1月だというのに薄い、少し破れたブルーのウインドブレーカーを着ていた。

 私たちは奥のカウンター近くのテーブル席に座った。


 「私は生ビールと焼鳥を一本、お願いします」

 「琴子さんは面白い人ですね? 銀が惚れるのも分かる気がします。じゃあ私も同じ物で」


 その時、彼は私の事を初めて「琴子さん」と名前で呼んでくれた。

 何だか同じクラスメイトのようでうれしかった。

 私は店内を隅々まで見渡した。


 (銀河がここにいたのね?)


 銀河と椎名弁護士が、大きく口を開けて笑っている姿が目に浮かんだ。そして銀の汗の匂いも。


 私は泡のバランスの悪い発泡酒を飲み、少し焦げた焼鳥を齧った。

 涙が零れ、私は俯いてしまった。


 「おいゲッツ! 女を泣かしてんじゃねえぞ! コラッツ!」


 椎名はそれを無視し、


 「琴子さん、ここでは銀の思い出話も落ち着いて出来ませんから場所を変えましょう」


 私はそれに同意した。




 「凄い店だったでしょう? あそこで飲んでいたんですよ、銀と僕は」

 「中々のカオスでしたね?」

 「カオス過ぎますよ。でもあれが今の日本の闇の部分なんです。同じ日本人なのにね? 金持ちはどんどん金持ちになり、貧しい人たちはその日暮らしの毎日なんです」




 少し歩いて行くと、商店街主催のカラオケ大会が開催されていた。

 私たちは足を止めてそれを見物した。

 中年のオバサンが美空ひばりの『川の流れのように』を歌い終わると、疎らな拍手が起こった。


 「ありがとうございました! 若いひばりさんでしたね?  はーい、これは参加賞のおつまみの入った福袋でーす!」

 「正月の余りもんじゃねえのか!」

 「よくご存知で。あはははは」


 会場がどっと沸いた。


 「さあみなさん! 飛び入り参加も大歓迎ですよ!

 参加賞はこのおつまみセットですが、優勝者には熱海の1泊旅行券がペアで贈呈されます! いかがですか? ご夫婦で、恋人同士で、あるいは不倫関係でも結構ですよ! このスケベ!」

 「あはははは」


 すると驚いたことに椎名弁護士が両手を挙げた。


 「はいはい! はーい! 歌わせて下さい! 僕が歌います!」


 椎名弁護士は舞台に駆け上がった。


 「おっ、これはこれはゲッツの人ですか? あんな美人な彼女さんの前でいいところを見せようなんて、この宿泊券が欲しいんですね? このドスケベ芸人!」

 「いいぞー! 歌えエロ芸人! ゲッツ!」

 

 ヤジと笑いが飛んだ。

 

 「ではこのタブレットで曲目を選んで下さい」

 「伴奏は要りません。アカペラで歌いますから」


 彼はマイクを手にして歌い始めた。

 それは驚いたことに私がリサイタルでたまに歌う、『もののけ姫』だった。

 男性ではまず、声が裏返ってしまう。


 (ふざけているのかしら? それともファルセットで歌うつもり?)


 どちらにしても彼の歌にはあまり期待はしてはいなかった。

 所詮は素人だと思ったからだ

 だが彼が歌い始めた瞬間、カラオケ会場は水を打ったように静まり返った。

 胸を打つ、美しいカウンター・テナー。

 隣のカップルの女の子が涙を拭いながら言った。


 「米良美一さんみたい・・・」


 冬の夜空に響き渡る彼の伸びやかで繊細な歌声に、人々は魅了された。

 歌い終わった時、少し遅れて凄まじい拍手喝采が巻き起こった。司会者は興奮して彼に訊ねた。


 「あんたプロなの? 優勝です優勝!

 持ってけドロボー! みなさんもう一度、ゲッツさんに盛大な拍手を!」


 

 旅行券を貰って椎名弁護士はご満悦だった。


 「錬三郎先生、歌、凄くお上手なんですね?」

 「琴子さんのYouTubeで勉強しましたからね? あはははは」

 「えっ、私の歌をですか?」

 「ええ、最近は寝る時はいつも聴かせていただいています。ぐっすりと眠れるんですよ、琴子さんの歌声を聴いて眠ると」


 私は銀河の親友だと言うこの男性を、いつの間にか名前で呼んでいた。


 「それじゃあ銀座にでも行きましょうか? 美味しい天ぷら屋さんがあるんですよ」


 私はその笑顔に銀河のまぼろしを見た気がした。


第6話 もう少しだけ一緒にいたい

 その銀座の並木通りの小路に入った小さな天ぷら屋さんは、上質な胡麻油の香りがする、お鮨屋さんのようなお店だった。

 よく磨き込まれた清潔感のある白木のカウンターが8席ほどの店内は、私たちの席を残した完全予約制になっていた。

 場所が銀座だけに、高級クラブの同伴らしき人たちが2組と、エリート官僚らしき男性客がふたり、そして奥さん#ではない__・__#女性を伴った、テレビで見たことのある政治家がいた。

 糊の効いた白衣にネクタイをした、40代くらいの店主が一人で天ぷらを揚げていた。

 


 「素敵なお店ですね?」

 「気に入ってもらえて良かったです。私はここの店主の大ファンなんですよ。銀座に店を出しているのに決して偉ぶらない謙虚な人です。ねっ、相沢さん?」

 「それは先生も同じじゃないですか?」

 「あはははは。ではよろしくお願いします」

 「お飲み物はいつものようにレーベンブロイの生でよろしいですか? そちらのお連れ様はいかがいたしますか?」

 「琴子さんも同じでいいですか?」

 「はい、それでお願いします」

 「では同じ物で。それとコップにもう1つビールを下さい。

 琴子さん、苦手な物は私のお皿に下さいね? 僕は何でも食べられますから」

 「ありがとうございます」


 先生は銀河の分のビールも用意してくれた。


 「じゃあ三人で乾杯しましょう。乾杯!」


 私と先生は陶器製のジョッキを合わせ、銀河のグラスとも献杯をした。

 すると先生は、さっきのカラオケ大会で貰った優勝賞品である「熱海の宿泊券」を、私に差し出した。


 「これ、琴子さんとお母様でお使い下さい」

 「そんな、頂くわけにはいきません。これは錬三郎先生のお歌へのご褒美なんですから」

 「いいんですよ、どうせ私には一緒に温泉に行くようなパートナーもおりませんので」

 「先生はご結婚されてはいないのですか?」

 

 私は白々しく驚いてみせた。既に彼の左手には結婚指輪がないことは確認してはいたが、結婚指輪をしていない男性も多い。その確認の意味でもあったのだ。

 先生は左手を私に見せて笑った。


 「この通りですよ」


 (やはり結婚していないんだ)


 なぜか安堵している自分がいた。

 でもまだ油断は出来ない。私はさらに踏み込んだ質問をした。


 「お付き合いしている人もいないんですか?」

 「それは恋愛対象としてということですか?」

 「ええ、そうです」

 「今、喧嘩しているんですよ。もう1カ月以上連絡すら来ていません。彼女、気が強いんですよ」


 そう言って、先生はまるで他人事のように呟くと、美味しそうにビールを飲んだ。


 (喧嘩をしている? まだ未練があるということなのかしら?)


 私の気持ちは少しブルーになった。


 (好きなの? 琴子? この人のことが? この人は銀河の親友なのよ)


 私の心の葛藤は続いた。

 そして私は心にもない事を言ってしまった。


 「だったら先生、これで彼女さんと仲直りをする口実にすればいいじゃないですか?」


 すると彼は笑って、きっぱりと言った。


 「僕たちはそこまで親密な関係ではありません。

 遠慮しないでお母様とお出掛け下さい、親孝行だと思って」


 先生はそう言って、私の前に宿泊券の入った包みを置いた。

 私はそれを素直に受け取ることにした。

 先生の折角のご厚意をこれ以上固辞することは、先生の思い遣りを台無しにしてしまうと思ったからだ。

 

 「では折角のご厚意ですので遠慮なく頂戴いたしますね。

 母も温泉好きなので、すごく喜ぶと思います。

 おみやげ、買って来ますね?」

 「おみやげは要りません、どんな温泉だったかだけお聞かせ下さい」

 「ありがとうございます。じゃあ私と母の入浴シーンを送りますね? あはははは」

 「お止め下さい琴子さん。銀に叱られてしまいます。あはははは」


 私たちの前に海老の天ぷらが供された。

 見事な揚がり具合だった。店主の自信が窺える一品だった。

 私は先生に習い、軽くお塩を摘まんで海老天に軽くかけた。

 衣と海老のバランスが絶妙だった。


 「うん、相沢さんの揚げる天ぷらは芸術ですね? 実に美しい」

 「ありがとうございます。長崎の五島列島の天然車海老になります。次は秋田沖で獲れた、日本海の紋甲イカです」

 「天ぷらって不思議ですね? 一流の職人さんに掛かると、どんな食材も別な美味しさを醸し出す。衣ってやさしさなんですね? 素材を美味しくするための」

 「その日の天候によって温度や湿度も変わってきますから、それによって油の調合や温度も微妙に変えなければなりません。

 天ぷら職人に限らずですが、素材に感謝して仲良くなることでしょうね? すると教えてくれるんですよ、「こうしたら、もっと美味しく食べられるよ」と」


 音楽も同じだ。楽器奏者は楽器と仲良しであり、恋人である。 

 そして声楽家は自分自身が楽器であるからこそ、毎日の節制と、自分に対する愛情が必要なのだ。

 もちろんそれはナルシストになるということではなく、自己愛なのだ。

 ステージに上がる時はベターではなく、ベストな状態でなければならない。それがお金を払って来ていただいている聴衆へのプロとしての礼儀だ。



 「喧嘩している彼女さんてどんな人なんですか?」

 「大学時代の同級生です」

 「東大の時の?」

 「ええ」

 「先生は好きなんですね? その人のことが?」


 (否定して欲しい、「違います」と)


 私はそんな矛盾したことを考えていた。


 「好きかと言われればそうなんでしょうが、まだ恋ではありません。増してや愛でもありません。となると彼女ではありませんね? ただの友だちです。あはははは」 


 (キスはしたのかしら?)


 私はその光景を想像して苦笑いをした。

 すると先生に話題を変えられてしまった。


 「琴子さんは銀とはどうやって知り合ったんですか?」

 「ルーブルの近くのカフェで、私が黒人ふたりに絡まれているところを助けてくれたのが銀でした。それがきっかけです。

 そして毎日パリを案内してくれて、恋愛を意識し始めそうになった時、突然「もう会うのはやめよう」と言われました。

 「俺は人殺しなんだ。だから君を愛する資格がないから別れよう」と」

 「馬鹿な男です。パリに行ってもまだ自分を責め続けていたんですね? 銀は」

 「だから私、言ってやったんです。「人は病気や事故で死ぬんじゃない、神様がお決めになった寿命で亡くなるんだ」って。「あなたも私も詩音さんと同じように、いつかは死ぬ時が来る、だから自分を責めないで」と。

 それから彼と付き合うようになりました」

 「琴子さんは哲学者ですね?」

 「銀に置いてけぼりにされた哲学者ですけどね?」

 「最後に銀はしあわせだったと思いますよ。琴子さんと出会うことが出来て」

 「残された私はこれからどうすればいいんでしょう? あの時から私の時間は停止したままになっています」

 「止まった時間はいつかまた動き出しますよ。人には「忘れる」という能力が備わっていますから」

 「忘れることなんて出来ません」

 「言い方が悪かったようですね? 悲しい記憶が消えて、楽しかった思い出だけを残してくれるという意味です」

 「そうなるといいですけど・・・」


 私は少し温くなったビールを飲んだ。


 「焦ることはありません。悲しい時は思いっ切り悲しむことです。そうすればまた、前を向いて歩いて行くことが出来ますから」

 「私の母も先生と同じようなことを言っていました」

 「それは光栄ですね。琴子さんの母上と同じ考えだったなんて」

 「錬三郎先生と出会えて、心が少しラクになりました。

 おかげさまでまた歌を歌うことが出来るようになりました。完全復活にはまだまだですけどね?」

 「それは良かった。私は子供の頃からピアノとビオラをやらされていましたが、先生が嫌いだったんです。アカデミックなことばかり言って、クラッシックが如何に高尚な優れた芸術であり、それをしている自分たちは特別な存在なんだと言う態度が。

 ロックや演歌、パンクも歌謡曲なども完全否定していました。 

 それは音楽ではないと。

 おかしいですよね? バッハは甲本ヒロトよりも偉大ですか?

 それで私は藝大受験を辞め、東大に進学しました。

 でも今回の件で琴子さんと知り合うことが出来て、あなたのCDやオペラ公演のDVDを鑑賞させていただくうちに、「クラッシックも悪くないな?」と思うようになりました。

 最近はストラビンスキーやベルリオーズもよく聴くようになりました。琴子さんのお陰です」

 「お役に立ててうれしいです」

 「今度はいつ、舞台に立つのですか?」

 「夏に新国立劇場でヴェルディの『椿姫』のヴィオレッタをやることになりました」

 「観劇に伺ってもいいですか?」

 「もちろんです! 招待しますよ、宿泊券のお礼に」

 「楽しみにしています。ビールのお替りはいかがですか?」

 「では遠慮なく」

 「相沢さん、ビールをお願いします。私と彼女に」



 銀杏や自然薯、肝のついた鮑など、様々な天ぷらが出されたが、私は全部残さずに食べることが出来た。

 こんな楽しい食事は、パリで銀河と食べた時以来だった。


 「最後にかき揚げの出汁茶漬けになります」

 「お願いします。良かった、琴子さんが食べられない物がなくて。ちょっと残念ですけどね? あはははは」

 「こんな美味しい天ぷらを食べたのは初めてです」

 「ありがとうございます」


 店主の相沢さんはうれしそうに笑っていた。



 デザートには自家製の桜のシャーベットをいただいた。



 「金曜日の夕方の打ち合わせにしたのは、実はこのお店に琴子さんをお連れしたかったからなんです。それがまさか琴子さんからアメ横のあの居酒屋に行きたいと言われた時には驚きましたよ」

 「そうだったんですね?」

 「今夜はとても楽しかったです。銀の話もたくさん聞くことが出来て。

 あいつ、天国で喜んでいるはずです。私たちと一緒にいることが出来て。 

 それじゃあ相沢さん、タクシーを呼んで下さい」

 「あの、もう少し飲みませんか?」

 「琴子さんさえ宜しければ私は構いませんが。

 じゃあこの近くに私の行きつけのお店がありますからご案内します」


 私は少し酔っていたせいかもしれないが、このほのぼのとした人と、もう少し話がしたい気分だった。


第7話 友だち以上 恋人未満

 先生が連れて来てくれたお店は、テナントビルの5階にあった。


 「面白い名前のお店でしょう?」

 「凄い店名ですね? 『銀座の絶望』だなんて」

 「安心して下さい、お店の人たちは「希望」の人たちですから」


 先生はドアを開け、私をエスコートしてくれた。いつもパリで銀河がそうしてくれたように。



 「あら錬ちゃん、いらっしゃい! どうしたのその「檀れい」みたいな美人さんは? どこで拾って来たのよー! 「#して__・__#」来た帰り? それともこれから? このエロ弁護士! あはははは」


 なんとそのお店はゲイ・バーだった。

 ママさんはミッツ・マングローブのようなスリムな長身で、長い黒髪のゲイだった。



 「ママ、久しぶりだね? この人は僕の大切なクライアントさんなんだ。よろしくね」

 「接待ということね? そしてこれからベッドでも「夜の接待」もするくせに! あはははは。嫉妬しちゃうわよ、凄く綺麗な人なんですもの。

 カウンターは一杯だから、奥のボックス席でもいいかしら?」

 「別にどこでも構わないよ。相変わらず繁盛しているね? レイの店は?」

 「おかげさまで。どうぞこちらです」



 お店はマホガニーで作られた、オーセンティックな内装だった。

 以前、聡子に連れて行かれた新宿二丁目のゲイ・バーとは違い、どちらかと言えばイギリスのPUBのようなお店だった。


 「初めまして、ママのレイです。よろしくね? 檀れいちゃん」


 レイ・ママは角の丸くなった、アクリル製の透明な名刺を私に差し出した。


 「初めまして、海音寺と申します」


 するとレイ・ママは、周囲を気遣うように私の耳元で囁くように言った。


 「知っているわよ。あなた、ソプラニスタの海音寺琴子さんでしょ? 去年の『Madam Butterfly』、最高だったわ。私、スタンディング・オベーションで泣いちゃったわよ。

 ようこそ、我が『銀座の絶望』へ」

 「ご観覧いただいていたんですか? ありがとうございます」

 「今度はいつ歌うの? 絶対に行くから」

 「今年の夏に新国立劇場で『椿姫』をやります。是非おいで下さい」

 「いいわね! 私、『椿姫』大好きなのよお! わかるわ、クルティザンヌのヴィオレッタの切ない恋心」

 「レイは藝大でトロンボーンを勉強していたんですよ」

 「凄いじゃないですか!」

 「昔の話よ、ブラスに絶望したの。だからお店の名前も『銀座の絶望』にしたのよ。

 肺の病気になっちゃってね? トロンボーンはもう吹けなくなったの」

 「そうだったんですか? 私も子供の頃から内耳が弱くて、つい1カ月ほど前にも一時、難聴になって聴力を失った時は、本当に「絶望」しました。もう歌うことは出来ないんだと」

 「今はもう大丈夫なの?」

 「おかげ様で」

 「じゃあ飲み物はノンアルの方がいいかしらね?」

 「大丈夫です。お酒は強いんで」

 「そう? あまり無理しないでね? 錬、ボトルがもう三分の一しか残っていないから、今日は全部飲んで新しいヘネシーを入れなさいね?」

 「とりあえず新しいボトルを入れていいよ、歌姫には新しいお酒を飲ませてあげたいからね?」

 「あら、やっぱりお酒も女も「ヴァージン」がいいってことね? 毎度おおきに。あはははは。お邪魔でしょうからゆっくり楽しんでいってね? では歌姫、ごゆっくり。また後で来るから?」


 カウンターへ戻って行くレイ・ママの後ろ姿は、まるでパリコレのモデルのように雅だった。



 「面白い奴でしょう? レイは左目を失明しているんですよ、そうは見えませんけどね」

 「えっ、そうなんですか?」

 「ああ見えて、いつ右目も見えなくなるかと怯えて生きているんですよ。アイツとは高校の同級生で、ブラバンで一緒だったんです。 

 文化祭でレイの吹く『追憶』のトロンボーンのソロ・パートで、みんなが総立ちになったのは今でも鮮明に覚えています」


 先生は私のブランディー・グラスに、テーブル・フラワーにあった薔薇の花びらを一枚摘まんで浮かべてくれた。


 「こうするとなんだかお洒落でしょう?」


 おそらく彼は、私がお酒を勢いよく飲まないようにと気を遣ってくれたらしい。

 先生は銀河のように、そんなさりげない気配りの出来る男性だった。



 「このお店にはよくいらっしゃるんですか?」

 「毎日来ることもあれば、半年以上来ないこともあります。

 男の友だちってそんなもんです。

 彼はゲイですけどね? あはははは」



 ステージでショーが始まった。

 オープニングはフレンチ・カンカンだった。私は銀河と行ったムーラン・ルージュを思い出して涙が零れた。


 ショーの演目はマドンナとマイケル・ジャクソンのパロディ物だったが、かなりハードな練習をして舞台に立っていることが窺えた。

 そしてショーが終わるとレイ・ママがマイクを握った。


 「今日はここに飲んだくれのイリオモテヤマネコ、じゃなかった、奇跡の天才ピアニスト、「錬三郎」が来ています。みなさん、彼のピアノ、聴いてみたいですかあー! 私は聴いてみたいわよー!」

 「俺も聴きてえぞ!」

 「私も聴きたい!」

 「それじゃあ錬、みんなのご指名よ、聴かせてあげて頂戴、あなたの素晴らしいピアノを!」

 

 顔の前で手を左右に振り、先生はそれを笑って固辞した。


 「今日のアンタのボトル、タダにしてあげるから弾きなさいよ! 錬三郎! 錬三郎! 錬三郎!」


 お店に「錬三郎」のシュプレヒコールが巻き起こり、先生はママに引き摺られるようにピアノの前に座らせられた。


 ママがグランド・ピアノに先生を無理やり座らせると、先生は観念したようで、瞳を閉じて深呼吸をした。

 彼の演奏が始まった。リストのパガニーニの主題による超絶技巧練習曲、『マゼッパ』だった。


 演奏不可能とまで言われたこの難曲を、一心不乱に弾く彼に、みんなは息を呑んだ。


 とても10本の指だけで演奏されているとは思えない、魔術師のようなテクニック。

 まるで鍵盤の上を沢山の小人たちが自由に飛び跳ねているようだった。

 そして彼は突然途中で演奏を止めてしまった。


 「あとは弾けません」


 と笑った。

 その後、アンコールの嵐。


 「ショパンを弾いて下さい!」

 「ベートーヴェンのピアノ・ソナタ、『悲愴』がいい!」

 「ラフマニノフの二番!」


 すると彼はマイクを引き寄せると、X JAPANの『Endless Rain』の弾き語りを始めた。

 ざわめき、そして鎮まり返る店内。

 眼を閉じてうっとりと聴き入る人や、泣いているお客さんもいた。

 レイ・ママも涙を拭っていた。

 

 (彼の伴奏で私も歌ってみたい!)


 私は彼のピアノ伴奏でアリアを歌う、自分の姿を想像した。



 演奏を終え、拍手喝采を浴びて先生が戻って来た。


 「レイにはめられました」


 少し照れる先生。


 「素晴らしい演奏でした。今でも弾いていらっしゃるんですね?」

 「ピアノ、好きなんですよ」


 毎日弾いていなければ、とても弾きこなせるような曲ではなかった。

 レイ・ママがやって来た。


 「てっきりラフマニノフを弾くのかと思ったら、『マゼッパ』だったのね?

 久しぶりに聴いたわ、錬のピアノ」

 「もうやらないからね? ヘネシーのXOじゃ割に合わないよ」

 「ちゃんとステージで弾いてくれたら『エクストラ・パラダイス』でもタダにしてあげるわよ」

 「あはははは。ちょっとトイレ」


 先生がトイレに席を立った時、レイが言った。


 「いい男でしょ? 錬三郎。

 世の中にはテストの成績のいい秀才は沢山いるけど、彼は天才。日本のモーツァルトよ。ファッションにも拘りがあるのよ。あれでね? あはははは。

 ねえ琴子、お付き合いしている男はいるの?」

 「亡くなりました。去年」

 「ごめんなさいね、悲しいことを思い出させちゃって」

 「先生は亡くなった彼の親友なんです。色々と親身になって相談に乗っていただいています」

 「そうだったの? 錬は頼りになる男よ。超一流の国際弁護士だしね? 錬三郎とは高校の時からの付き合いなんだけど、彼が努力している姿を一度も見たことがないの。いつもああやってニコニコしているだけ。スポーツも万能なのよ。そしてやさしくて思い遣りもある」

 「私もそう思います。凄く温かい人ですよね? 錬三郎先生は?」



 先生がトイレから戻って来ると、レイは温かいおしぼりを彼に渡した。


 「他のお客様のテーブルを回って来るわね?」


 先生は軽く手を挙げてそれに応えた。



 「銀のお墓はパリにあるんですか?」

 「いえ、ノルマンディーの近くにある港町、ディエッペにあります。彼は海が好きだったので、海の見える墓地に埋葬しました」

 「行きたいなあ、銀のお墓参りに」

 「今度の公演が終わったら、またパリに戻るつもりですので、パリにおいでになる時には連絡して下さい。ご案内します」

 「私の仕事に終わりはないので、強制的にスケジュールに入れなければいけません。年末にはパリで過ごしたいものです」


 そう爽やかに語る錬三郎の瞳を見た時、私は思わず彼に惹き込まれてしまった。


 (この人に抱かれたい)


 生理前ということもあり、私は久しぶりに男に抱かれたいと思った。

 おそらくそれは、錬三郎に銀河の面影を重ねているのかもしれない。

 体力の復調と共に、性欲も回復して来たのだろう。

 錬三郎と話していると、とても穏やかな気持ちでいることが出来た。



 私たちは色んな話をした。

 音楽や文学、美術についてなど、様々な話をした。

 こんなに自分から話しをしたのは初めての事だった。

 銀河とはいつも聞き役に徹することが多かったが、錬三郎とは私もよく話しをした。

 それは彼が話を上手くリードしてくれているからだった。まるで社交ダンスのように私たちの会話は弾んだ。



 「あらやだ、もうこんな時間?」

 「送りますよ、鎌倉でしたよね?」

 「大丈夫ですよ~、まだ終電には間に合いますから~」


 私はさほど酔ってはいなかったが、「酔ったふり」をした。


 「では新橋のJRの駅まで送ります。レイ、チェックして」

 

 レイは金額を書いたメモを渡し、錬三郎はカードで支払いを済ませた。



 「琴子、また来てね?」

 「今日はとっても楽しかったでーす。またお邪魔しまーす! レイちゃんママ、大好き! あはははは」

 「ちょっと琴子、大丈夫? そんなに酔って?」

 「心配ないない。ちゃんと帰れますよーだ。あはっ」

 「錬、汐留のホテル、取ってあげようか? これじゃ電車は無理よ」

 「その時はタクシーで送って行くから大丈夫だよ」

 「そう? 気を付けてね? 今日はどうもありがとう」

 「おやすみレイ」

 「おやすみなさい、錬、琴子」

 「バイバイ、レイ、またねー。あはははは」



 花金の銀座は1月ということもあり、とても華やかだった。

 今夜だけはひとりで眠りたくはなかった。


 「あー、今日は酔っちゃったー。

 鎌倉には帰らないで、今日は汐留のホテルに泊まることにしまーす。おい、錬三郎、ホテルまで送って行け!」

 「大丈夫ですか琴子さん? そんなに飲んではいなかったようですけど?」

 「うるさーい! 琴子さんじゃないでしょ? 私たち、もう友だちなんだから、錬三郎も呼び捨てにしなさいよ! 私の事、琴子って呼びなさーい!」

 「琴子っては呼べないなあ。じゃあ「琴ちゃん」でどうですか?」

 「仕方ないなあ、とりあえず今日はそれでいい。「琴ちゃん」で許してあげる! あはははは」


 私は錬三郎に軽くボディ・タッチをし、彼の頬にkissをした。


 私たちは汐留のタワーホテルにタクシーで向かった。


第8話 恋を超え 愛へ

 汐留のホテルに着くと、錬三郎は私を部屋の前まで送ってくれた。


 「ではゆっくりおやすみ下さい」


 私は帰ろうとする錬三郎の腕を掴んで引き留めた。

 

 「お部屋で少し一緒に飲まない?」

 「まだ呑むんですか? それならホテルのBARで呑みましょう」

 「ごちゃごちゃ言ってないで早く入りなさいよ!」

 

 私は無理矢理彼を部屋に引き入れた。



 「ビールでいいかしら? お腹空かない? ルームサービスでも頼んじゃう? 何がいい?」

 

 すると突然部屋の電気が消えた。

 錬三郎が部屋の灯りを消したのだった。


 (電気なんか消しちゃって、うふっ、女の子みたい)


 「あと2分であそこに見える東京タワーの明かりが消えるんですよ」

 「東京タワーって午前零時になると明かりが消えちゃうの?」

 「不思議ですよね? 明かりが点くとうれしいのに、明かりが消えると寂しくなるのはどうしてなんでしょう?

 ロウソクを灯すのはワクワクするのに、ロウソクを吹き消すと寂しくなる。そして暗闇が怖くなる。

 見てて下さい、東京タワーというキャンドルを、僕が吹き消してみせますから」


 そう言って錬三郎は窓際に立ち、東京タワーを見詰めた。

 彼の携帯の零時のアラームが鳴り、東京タワーに向かって彼は息を吹き掛けた。

 東京タワーの照明が消えた。

 私はその時初めて、東京タワーの明かりが消える瞬間を見た。

 切ない気持ちになった。


 「東京タワーって、東京で生きている人たちの希望のシンボルなんですよ。スカイツリーのようにお洒落で近代的なテクノロジーの象徴ではなく、武骨でちょっぴりダサくて、でも可愛くて親しみがある。鉄のトラス構造なのに何故か温かい。

 当時の日本は敗戦でまだ鉄が乏しくて、東京タワーに使われた4,000トンの鉄骨は、朝鮮戦争で使われた、アメリカの旧式戦車のスクラップを溶かして造られたそうです。

 延べ22万人の人員で、1年3カ月を掛けて完成しました。

 その明かりが消えた時、人は寂しい気持ちになる。

 銀は僕にとって「東京タワー」だったのかもしれません。

 「東京タワー」だなんて、地味な名前ですよね?

 なんだか寂れた遊園地のアトラクションみたいで」


 錬三郎が泣いていた。

 私はそんな錬三郎にキスをし、やさしく抱き締めた。


 「もう遅いから今夜は寝ましょう」


 私はそのまま彼とベッドに横になった。

 錬三郎は何もしてはくれなかった。


 「琴ちゃん」

 「なあに?」

 「僕も一応男ですから、あなたみたいな素敵な女性に興味がないわけではありません。

 でも、あなたは私の親友の大切な恋人です」

 「親友の彼女と「して」はいけないの? 死んじゃった親友でも?」

 「常識的にはそうです」

 「いいんじゃない? お互い付き合っている人はいないんだから。ただのスポーツだと思えば? 夜の「プロレスごっこ」だと思ってすれば」

 

 錬三郎はベッドから体を起こした。


 「鎌倉のお母さんには今日は泊まるとお伝えしたんですか?」

 「さっきタクシーの中でLINEしておいたから大丈夫。

 母は心配性だから」

 「そうですか? じゃあ寝ましょうか? 先にシャワーを浴びて来ます」

 「一緒に浴びる?」

 「いえ、僕だけでお願いします」


 そう言って彼は服を脱ぎ、パンツになってバスルームへと消えた。

 私は彼の脱いだ服をハンガーに掛け、彼の匂いを嗅いだ。いい香りがした。


 (何よ、結局するんじゃない)


 私は服を脱ぎ、彼の入っている浴室のドアを開けた。


 「背中、流してあげる」

 「もう洗いましたから大丈夫です。僕は出ますからどうぞごゆっくり」


 そう言って錬三郎は浴槽にお湯を張り始めた。

 外見からは想像出来なかったが、錬三郎は均整のとれた鋼のような肉体をしていた。

 

 「お湯の温度はこれくらいでいいですか?」


 彼は私にお湯の温度を確認させた。


 「もう少し、熱い方がいいかも」

 「では調節して下さい。お先に失礼します」


 彼はそう言ってバスルームを出て行った。

 浴槽にお湯が溜まるまで、私はシャワーで髪を洗った。

 アソコに手をやると、久しぶりにかなり潤んでいるのがわかる。

 私はゆっくりと湯舟に浸かり、これからの展開を想像して興奮した。


 

 「お待たせー」

 

 浴室から出ると、錬三郎は消えていた。

 テーブルの上にメモが置かれていた。


 

   やはり銀の彼女さんとはプロレスは出来ません

   銀は私の大切な親友ですから

   今日はありがとうございました

   とても楽しい夜でした

   ゆっくり休んで下さい

   おやすみなさい 


               椎名



 彼らしいと思った。

 私は持て余した性欲を自ら慰めているうちに眠ってしまい、いつの間にか朝を迎えていた。




 ホテルで軽い朝食を摂り、フロントにチェック・アウトに行くと、もうすでに清算がされており、逆に預り金から余剰金を渡された。

 

 (どこまで気の利く男なの?)


 私は銀河のことを思い出した。

 やはり友人も似るものなのかと苦笑いした。



 昨日のお礼を言おうと、彼のオフィスに電話をしようとしたが、今日が土曜日であることに気付いて断念した。

 

 (携帯番号を聞いておけばよかった)


 



 鎌倉に帰ると母に笑って冷やかされた。


 「昨日の先生とのお泊りデートは楽しかった?」

 「ホテルまで送ってもらってお別れしただけよ」

 「あら残念。今日は先生のご自宅にお泊りかと思っちゃったわ。うふっ」

 「そんな関係じゃないわよ、#ただの__・__#お友だち」

 「最初はみんなお友だちよ。焦ることはないわ、琴子はまだ恋愛リハビリ中なんだから。

 でもママはお似合いだと思うわよ。琴子と椎名先生。ゲッツ! あはははは。

 ランチにでも行こうか? お婆ちゃまも誘って?」

 「うん、いいけど」

 

 母は私の回復が余程うれしかったようだ。

 錬三郎からもらった宿泊券のことは母には黙っていた。

 その宿泊券で錬三郎と一緒に熱海の温泉に行こうと思っていたからだ。




 鎌倉の古い住宅街にある、表に看板の出ていないその店は、和食の創作料理のお店だった。

 四季折々の旬の食材を、食べるのが勿体ないくらいに美しく器に盛り付け、目も楽しませてくれる。


 店主の紀美加さんは母の幼馴染だったので、いつも私たちの苦手な物を除いて調理してくれる。



 「こんにちはー」

 「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます」

 「#夢香__ゆめか__#ちゃん、忙しいお昼時にごめんなさいね?」

 「とんでもありません。今、オーナーはバタバタしていますので、取り敢えず、いつものお気に入りの窓際のお席をご用意させていただきました」

 「あの席、好きなのよねー。あの席から見える泰山木がとても好きなの。春には桜も綺麗だしね?」

 「あっという間にもう1月も後半ですからね?」

 


 私たちはその窓際の席に座った。

 午後の陽射しを浴びて、白いテーブルクロスが眩しかった。



 最初に益子焼の黒い茶碗に入れられた、コーンポタージュを出してくれた。


 「んー、凄くやさしくて上品なスープ。お替りしたいくらいだわ」


 母はとても満足そうだった。


 「このお店がテレビの取材を受けたり、ネットになんか載らないことを願うわ。看板もないのにいつも予約でいっぱいなのに、そんなことになったら私たち、もうここでお食事なんか出来なくなっちゃう」

 「紀美加さんはお料理の天才ね?」

 「ジイジがまだ生きていた頃には、ウチでのパーティには何度かケータリングもお願いしていたんだけれど、ゲストのみなさんからとても好評だったわ。特に外国の方たちには」

 「小さい頃はよく、紀美加と一緒に鎌倉の海で遊んだなあ。浜辺でキレイな貝殻を拾ったりして。

 夕べは椎名先生とどこでデートしたの?」

 「だからデートじゃないって。冒険かな? いや探検?

 銀と先生が学生時代によく通った、アメ横の居酒屋とか、銀座の天ぷら屋さんにゲイ・バーとか」

 「ゲイ・バーなんて行ったの? なんだか面白そうね? 今度ママも連れて行ってよ」

 「ゲイ・バーって歌舞伎町とかにある飲み屋さんのこと?」

 「違うわよお婆ちゃま。銀座にある、ロンドンのPUBみたいなBARよ」

 「でもゲイなんでしょう?」

 「それはそうだけど、ショーもあってとっても素敵なお店だったわよ。天ぷらは銀座の高級店でご馳走になっちゃった」

 「天ぷらかあ、いいわね? 来月パリに立つ前に食べに行きたいわね? お母さんも一緒にどう?」

 「いいわねえ、天ぷら。私はミョウガの天ぷらが好き」

 「お婆ちゃまは野菜系が好きだもんね?」

 「あら、#鱧__はも__#とか#鰆__さわら__#も好きよ」


 そこに夢香ちゃんが鎌倉野菜のサラダと、四角い陶器のワンプレートを持ってやって来た。


 「お婆様、丁度良かったです。今日の「紀美加のおまかせ」には鰆の西京焼きを添えてありますから」

 「あら、オーナーに私の想いが通じたのかしら? おほほほほ」


 カリカリ梅とジャコのおむすび、茄子の揚げ浸しとイカとネギと芥子菜の酢物。大きめのあんかけ茶碗蒸も一緒に運ばれて来た。


 「美味しそー!」


 紀美加さんがやって来た。



 「美味しそーじゃなくて、「すごく美味しい!」のよ。久子、いつもありがとう。今日はみなさんお揃いで?」

 「来月、パリに立つことになったの。だからその前に紀美加のお料理が食べたくてね?」

 「パリへ? 旦那さんも一緒に?」

 「離婚しちゃった」

 「じゃあ久子も私とお仲間ね?」

 「ごめんなさい、ここには別の結婚指輪がはまる予定になっているの。その彼とパリで暮らすことにしたの」


 母は少し自慢げに、悟さんから贈られたルビーの婚約指輪を紀美加さんに見せた。


 「これ、彼からもらっちゃった。婚約指輪」

 「そうなの! やるじゃないの久子!

 ごめん、今日はこんな感じだからさ、今度ゆっくり聞かせて。それじゃみなさん、ごゆっくり」


 紀美加さんは颯爽と厨房へと戻って行った。

 母は嬉しそうに箸を動かしていた。





 月曜日のお昼前、私は錬三郎のオフィスに電話をした。


 「海音寺ですが、椎名先生はいらっしゃいますか?」

 「お世話になっております。少々お待ち下さい」


 なぜかドキドキした。この待たされている間がモゾモゾした。


 「お電話代わりました。椎名です」


 錬三郎のカウンター・テナーの声だった。


 「ちょっと酷いじゃないの錬三郎! お姫様を残して帰っちゃうなんて!」

 「ごめんなさい。琴ちゃんは大切なクライアントさんだから、そういうことはちょっとね。あははは」

 「そのクライアントからの命令よ。今日の夕食は私に奢らせて頂戴。わかった?」

 「お詫びに僕が御馳走するよ。何がいい? お酒以外でね。あはははは」

 「何それ?」

 「琴ちゃん、酒癖に少々問題があるようなので」

 「食事とお酒はセットなの! 男と女みたいに」

 「お酒はビールだけにして下さい」

 「わかったわよ。じゃあお刺身がいい」

 「分かりました。では銀座三越のライオンの前に19時でいかがでしょう?」

 「三越のライオンの前に19時ね? もしはぐれたら困るから、念のために携帯番号を教えて」

 「分かりました。ではこれから琴ちゃんの携帯に電話しますから、一旦、携帯を切って下さい」


 携帯を切ると、すぐに錬三郎から電話が掛かって来た。

 私はその携帯番号に折り返し電話を掛けてみた。錬三郎が出た。


 「これが僕の携帯番号です。では後程」

 「気を付けて来てね? 遅れてもいいから」

 「琴ちゃんもね?」


 電話を切って、私は携帯電話を抱き締めた。


 私の錬三郎への想いは、早くも恋から「愛」に変わっていた。


第9話 壊れた友情

 午後は聡子と遅めのランチの約束をしていたので、南青山にあるカフェ・レストランへ出掛けた。


 

 開口一番、聡子はすぐに私を問い#質__ただ__#した。


 「それでどうだったのよ、パリでのロマンスは?」

 「ロマンスが終わったから日本に帰って来たのよ」

 「琴子、その男に乗り逃げされちゃったの? それともアンタが振ったとか?」

 

 聡子は私を見ずに、やや他人事のようにチーズハンバーグにナイフを入れた。

 私は彼女のその無神経な態度に苛立ち、ストレートに事実だけを伝えた。


 「その人、死んじゃったの」

 「えっ?」


 聡子の手が止まった。


 「何で死んじゃったの? 病気? それとも事故で? なんだか月9ドラマみたいな話ね?」

 

 聡子はまたナイフを動かし始めた。


 「自殺したの、彼・・・」

 「フランス人だったの?」

 「日本人。詩人の森田人生って知ってる?」

 「知らない。私、詩とか小説には興味がないの。文学ってまどろっこしいでしょう?」

 「その人とお付き合いしていたの。彼は病気でね? それを苦にしてドーバー海峡でフェリーから身投げを」


 銀河のことを話していると涙が溢れた。テーブルクロスにポタポタと涙が落ちた。


 「琴子・・・」

 「私、彼に何もしてあげられなかった」

 「そんなことはないわよ。琴子はいつも男に尽くす女だもの。でも「不幸中の幸い」だったんじゃない? 短い間の付き合いで」


 私はその聡子の無神経な言葉にキレた。


 「短い間だった? 恋愛に長いも短いもないわよ!

 どれだけ深く愛し合ったかでしょう!

 聡子のそういうデリカシーのなさが、あなたのピアノをダメにしているのよ!」

 「私のピアノが駄目? そんなに私の伴奏が気に入らないのなら、誰か他の伴奏者に頼めばいいじゃない!

 琴子だって中音域になると伸びやかさに欠けるくせに!

 何よ、人が折角励ましてあげようと言った言葉の上げ足を取って!

 もう二度とあんたの伴奏なんかしてあげないから!」

 「私も聡子にはもう頼らないわ! 今までありがとう! さようなら!」


 私は伝票を掴むと、そのまま聡子を振り向かずにレジへと向かった。


 (何よ、人の気持ちも知らないくせに!)


 後悔はなかった。私の歌のレベルが上がるにつれ、聡子のピアノが追いついて来れないことに、苛立ちと物足りなさを感じていたのも事実だった。

 音楽は、「仲良しクラブ」で成立するほど甘いものではない。

 音楽に妥協する訳にはいかない。私は新たな伴奏者を探すことを決意した。




 

 その頃、月曜日がお店の定休日だった紀美加と久子は、地元のピザ屋で「しらすピザ」を食べながら、先日の話の続きをしていた。



 「へえー、それじゃあ久子は35年以上もその別れた彼と、その何だっけ? その何とかという街で再会したというわけね?」

 「ディエッペよ、ディエッペ。ノルマンディの近くの綺麗な港町」

 「そう、それそれ。ずっと彼のことを想っていたわけだ?」

 「ずっとじゃないけどね? でも時々思い出していたのは事実だけど。でも彼は結婚もしないでずっと私のことを想ってくれていたの」

 「ヒューヒュー。まだこのピザを食べ始めたばかりなのに、もう「ごちそうさま」だわ。あはははは」

 「前の夫とは家庭内別居だったしね。生き甲斐は琴子だけだった。「このまま私の人生も終わっちゃうのかしら?」なんて絶望していたわ。夫には女医の愛人がいたの」

 「うちもそう。夫の浮気が離婚の原因。どうして男は浮気をするのかしらね? 初めはね、その女に負けないようにと、けっこう夜の方もがんばったんだけど、そのうち馬鹿らしくなっちゃって、それからはレス。そして別れちゃった」

 「うちはずっとレス。気持ち悪くて「する」気にもなれなかった」

 「久子は男を作らなかったの?」

 「なんだか面倒臭くって、そういうの」

 「私はね、今の彼がその時の浮気相手。

 身体の相性はいいんだけど、結婚となると話は別。「この人のオムツなんて交換出来ない」って思っちゃう」

 「ちょっと、今お食事中なんだけど」

 「ごめんごめん。でも寂しくなっちゃうなあ。久子がフランスに行っちゃうなんて」

 「遊びに来ればいいじゃない? そのセフレ君と」

 「行くんだったら別の金持ちの男と行くか? #現地調達__・__#よ。

 その時にはイケメンのフランス人でも紹介してね?」

 「まかせておいて、紀美加は美人だし、私も紹介し甲斐があるから。あはははは」

 「体には気をつけてね? お互いにもう若くはないんだから」

 「うん、お互いに歳だもんね?」

 「私なんかずっと立ちっぱなしの仕事でしょう? もう体はガタガタのポンコツよ。腰も痛いからもっぱら彼が上。いつも腰に負担が掛からないように、腰に枕を挟んでしているの。最近は濡れ難くくなっちゃて、ぺぺ・ローションのお世話になっているしね? あはははは。久子はどうなの? まだ濡れる?」

 「ずっとご無沙汰だったから、溜まっていたみたい」

 「あれって溜まるもんなの? 元お医者さんの奥さん?」

 「知らないわよそんなの。あはははは」


 久子と紀美加は若い頃のように夢中で話しをした。

 ピザがどんどん冷めて行くのも忘れて、久子はいい幼馴染を持ったと思った。





 銀座三越のライオンの前に行くと、定刻よりも5分早かったが、すでに錬三郎はまたあの派手な赤いコートを着て待っていてくれた。

 遠くからでもすぐに彼だと分かった。

 彼もすぐに私に気付き、大きく両手を振っていた。

 まさか彼がハーバード卒の一流国際弁護士だとは誰も気付きはしないだろう。



 「お待たせ」

 「まだ18時55分です。僕も今来たばかりです。ちょっと「Ginza Six」に寄ってもいいですか?」

 「何かお買物?」

 「いえ、見たい物があるんです」



 横断歩道を渡り、日産のショールームを通り過ぎ、私たちは「Ginza Six」の建物の中に入って行った。

 そしてエスカレーターで二階に上がると、そこで錬三郎は立ち止まった。

 そこには草間彌生の赤い水玉のオブジェが、大きな吹抜に幾つか吊るされていた。


 「いいでしょう? 草間彌生って?

 21世紀、最高のアーティストだよねー?」


 彼はうっとりとした目でそのオブジェを見詰めていた。


 「94才なんだよ、彼女。幼い頃からずっと幻覚や幻聴に悩まされて、それで絵を描き始めたらしい。「前衛美術の女王」と呼ばれているんだ。

 男根のソフト・スカルプチュアなどを製作したり、その過激な表現作品からも、アンディ・ウォーホールらの度肝を抜いた。

 彼女の作品には常に生命力が漲っているんだ。まるで生きているみたいでしょ?」

 「だから錬三郎のそのネクタイも草間彌生のデザインなのね?」

 「イカしているだろう? このネクタイ? お揃いのスーツも持っているんだ。今度着て見せてあげるね?」

 「私と会う時は着て来ないでね?」

 「どうして?」

 「目立つから」

 「君も十分目立っているよ、綺麗だから」

 「ありがとう」

 「お店は築地なんだけど、ちょっと歩くけど平気?」

 「平気よ、いつもウォーキングをしているから」

 「ちょっと並ぶかもしれないけど、大丈夫?」

 「待っているのも好き。食欲が湧くじゃない?」

 「お刺身は最高だから楽しみにしていてね?」

 「うん」


 錬三郎と一緒にいると、不思議と嫌な事を忘れてしまう。

 彼にはそんな力があった。





 築地のそのお店はお寿司屋さんだった。すでに20人ほどが並んでいた。


 「取材拒否のお店なんだけど、SNSの力は凄いね? 別なお店にする?」

 「ここで大丈夫。すごく楽しみ」


 私は錬三郎と手を繫いだ。


 「琴ちゃんの手、冷たくなってるよ」


 すると錬三郎は私と繫いだ手を自分の赤いコートのポケットの中に入れてくれた。

 私はその感触に、銀河を思い出していた。

 銀河もよくパリでこうしてくれた。


 (銀と同じ・・・)



 1時間ほど待たされて、やっと入店出来た。



 「お飲み物は?」

 「熱燗をコップで2つ。琴ちゃんはお刺身は何にする?」

 「お酒、禁止だったんじゃないの?」


 錬三郎はニッコリと笑うと、


 「カラダの芯から暖まらないとね? 寒かったでしょ?」

 「結構並んだもんね? お刺身は平目と甘鯛、あおりイカと中トロでお願い。ちょっとお手洗いに行って来るね?」

 「では取り敢えず、それを2人前でお願いします」

 「かしこまりました」

 「それから茶碗蒸を2つ」

 「かしこまりました」


 

 お皿を敷いたコップ酒を飲むのは初めてだった。

 表面張力が出来るほどの、見事な注ぎ具合。

 私と錬三郎はコップに顔を近づけてお酒を啜った。口当たりのいい、とても美味しいお酒だった。体がポカポカして来た。


 お刺身は豊洲市場からの直送で、甘みも歯応えも最高だった。


 「お寿司屋さんだから、お寿司もすごく美味しいんだよ。少し食べてみる?」

 「じゃあ鮑と穴子で」

 「僕は大トロとウニを下さい」

 「かしこまりました」

 「ここの職人さんは「おひつ」に酢飯を戻さないんだよ。普通のお寿司屋さんなら握っている時にご飯を「おひつ」に捨てるでしょ?」

 「確かに」

 「寿司ネタに合わせてご飯を正確に掴むことが出来るからなんだ。おそらく数粒しか狂いがないと思う。凄いよね?」


 お口の中でご飯が程良くほぐれ、ネタとのバランスが絶妙だった。


 「錬三郎と一緒にいると、太っちゃいそう」

 「ふっくらとした琴ちゃんもまた、魅力的だよ」


 食物アレルギーの多い私ではあったが、錬三郎との食事はとても楽しいものだった。

 好きな人と食事をする幸福を、私は感じていた。



 コップ酒が空になり、体が温まって来た。


 「生ビールが飲みたい」

 「すみません、生を2つ」


 私たちは笑った。

 そして私は彼に寄り添った。そしてこの後の夜がとても楽しみだった。


 椎名錬三郎というこの男との出会いが、銀河を失った悲しみから私を救い出してくれた。


第10話 歌劇『カルメン』

 「あー、美味しかったー。もうお腹一杯」

 「琴ちゃんに悦んでもらえてよかった」

 

 私は先日、錬三郎に出してもらったホテル代を入れた封筒を、錬三郎のカウンターの前に置いた。


 「この前は払っておいてくれてありがとう。でもあれは私が支払うべきものだからお返しします」

 「別に気にしなくてもいいよ。僕が折角のを食べずに帰っちゃったんだから。あはははは」


 彼はそう言って、封筒を私のカウンターの前に戻した。


 「じゃあこれで飲みに行こうよ」

 「琴ちゃん、フラメンコって観たことある?」

 「フラメンコ?」




 そのお店は新橋にあった。私たちが店に入ると、フラメンコは既に始まっていた。

 生でフラメンコを観るのは初めてだった。


 錬三郎はヘレネ(シェリー酒)とハモンセラーノ、チーズとドライ・イチジクを注文してくれた。


 ヘレネはモスカテルという、甘口のマスカットのような香りのする物を選んでくれた。

 ここにはフラメンコを鑑賞するために来たので、お酒はあくまで先程の食事のデザート酒としてのオーダーだったようだ。

 


 フラメンコは12分の1拍子が基本ではあるが、変則的なリズムだった。

 スペイン人らしき男性のテノール・ボイスのカンテ(歌)。情熱的なフラメンコ・ギターに合わせ、爪先と踵を踏み鳴らし、赤い薔薇を咥えて激しく妖艶に踊る、黒髪のフラメンコ・ダンサー。

 真っ赤なスカートを跳ね上げ、両手でカスタネットを掻き鳴らして一心不乱に踊っていた。

 彼女の額に薄っすらと滲む汗。私はすっかりフラメンコに魅了されてしまった。

 時々店内に響く、「オレ—!」の掛け声。錬三郎も絶妙のタイミングで「オレ—!」と叫んでいた。



 ショーが終わり、ソロギターのBGMになった。


 「いいでしょう? フラメンコって?」

 「初めて見たわ」

 「アンダルシアの風と、オレンジの香りがして来そうだよね?」


 少年のようにキラキラとした瞳で話す錬三郎。

 私はこのまま彼を押し倒してしまいたい気分だった。



 「フラメンコはアンダルシアのヒターノ(ジプシー)の音楽だったんだ。

 アンダルシアはイスラム教徒のアラブ人と、そこに入植して来たユダヤ人も多く、フラメンコはその影響を強く受けている。

 フラメンコはスペイン語の「フランドルの」という意味があり、またFlama、「炎」とFlamente、「派手な」という意味も含まれ、足を出して踊る姿から、あの鳥のフラミンゴにも由来するといわれているんだ」

 「カスタネットの音が、右と左では違うのね?」

 「カスタネットはパリージョと言って、利き手には高音のパリージョを、そして逆手には低音のパリージョを持つんだよ。

 手の動きをブラッソ、床を踏み鳴らす踊りをサパテアードという」

 「観客との距離が近いのがいいわね?」

 「桑田佳祐のように何万人という人の前で歌うのも快感かもしれないが、恋人の前で歌うのも、歌には変わりはないからね?」

 「私も沢山の聴衆の前で歌うオペラは好きだけど、お客様が50人位のリサイタルで歌うのも好き。ひとりひとりの表情が分かるし、私の歌に対するお客様の温度や湿度がより良く伝わるから」

 「琴ちゃんらしいな? 本当に君は歌うことが好きなんだね?」

 

 (そう、私は歌が好き。歌うことが大好き!)


 「掛け声を掛けるタイミングが難しいわよね?」

 「掛け声は「ハレオ」と言うんだけど、「オーレ」じゃなく「オレ!」とか「オレ—!」って言うのが、本当は正しいハレオなんだ」

 「じゃあ今度、ハレオを叫ぶ時には私の手を握って合図して、私も錬三郎と一緒に叫びたいから」

 「いいよ、一緒に叫ぼう! ハレオを」


 素敵な錬三郎の笑顔だった。


 「琴ちゃんはあのオペラ、『カルメン』も演じた事はあるの?」

 「カルメンはまだないわ。でもフラメンコを観ていたら、挑戦してみたくなっちゃった」

 「僕は最初、『カルメン』ってビゼーの交響曲だとばかり思っていたよ」

 「音楽が凄く有名だからね? 序曲とか。

 素敵なアリアもあるのよ。「ハバネラ」「闘牛士の歌」とか」

 「どんなストーリーなの?」

 「カルメンはセビリアのタバコ工場に勤めるヒターノの女なんだけど、結構「あばずれ女」でね? ある日、衛兵の伍長、ホセに色目を使うの。するとホセはカルメンに一目惚れしてしまう。故郷に#許嫁__いいなずけ__#のミカエルがいるのによ。そしてカルメンは薔薇の花をホセに投げ付け、「私に惚れると危険だよ!」と言って意味深に笑うの。

 ホセはすっかりカルメンにイカれちゃって、ミカエルのことなんか忘れてしまう。

 ある日、喧嘩をして捕まったカルメンを逃がしたホセは、自分が逮捕されちゃって、その後出所してカルメンと再会するんだけど、その時軍隊ラッパが鳴って、ホセが帰ろうとすると、彼女は言うの。「勝手に帰れば? あなたの私への愛は、どうせその程度の愛なのよ!」って。

 そしてホセは赤い花をカルメンに渡し、「私のすべては君のものだ!」、と言って「花の歌」のアリアを歌う。

 酷い女でしょう? カルメンって?」

 「そんな風に言われてみたいけどね? あはははは」

 「ウソばっかり。この前は私を置いて帰っちゃったくせに」

 「ごめんごめん。あはははは」

 「でもね、そんなカルメンはイケメン闘牛士のエスカミーリョに移り気しちゃうの。

 そしてカルメンは盗賊団に誘われてその一味に加わると、今度はホセも仲間に引き入れてしまう。

 盗賊団のフラスキータとメルセデスがタロットカードでカルメンを占うと、何度占っても「死」のカードが出てしまう。

 そして最後、カルメンは嫉妬に狂ったホセに刺殺されてしまうという悲しいお話」

 「オペラは悲劇が多いね?」

 「実らぬ恋は美しいものだからね?」


 (実らぬ恋・・・)


 私は銀河のことをまた思い出してしまった。


 (私はカルメンなの? あんなに銀河のことが好きだったのに、今はこの錬三郎に恋をしている)


 もちろん銀河のことは今でも愛している。愛しているけど錬三郎は今の私にはなくてはならない存在になってしまった。

 銀河は死んでしまった。錬三郎は私が歌うための希望であり、生き甲斐になっている。もし錬三郎と会えなくなってしまったら、私は歌うことも、生きることさえも出来なくなってしまうだろう。



 フラメンコがまた始まった。

 錬三郎の手が私の手をギュと握った。私は彼と思いっ切り叫んだ。


 「オレー!」





 私は彼を夜の東京湾へと誘った。


 「夜の海を見に行かない?」

 「夜の海を? いいよ」



 私たちはゆりかもめに乗って芝浦埠頭駅で降り、手を繫いで埠頭に向かって歩いて行った。夜の風が冷たい。

 岸壁に当たるさざ波の音、レインボー・ブリッジが美しくライトアップされていた。

 夜の海に眠らない都市、東京の明かりが揺れていた。



 「ねえ、キスして」


 錬三郎は私の右の頬にキスをした。


 「そこじゃなくてこっち」


 私は錬三郎の口に自分の唇を重ねたが、錬三郎は口を閉じたままだった。


 「私の事が嫌い?」

 「大好きだよ」

 「じゃあどうしてキスしてくれないの? 手は繋いでくれるくせに」

 「琴ちゃんのことは大好きだよ。そして同じくらい銀のことも好きなんだ」

 「私も銀と同じくらい錬三郎のことが好きよ。私はこれからもずっと誰も好きになってはいけないの?」

 「君はこれからしあわせにならなければいけない。銀の分もね?」

 「ならどうして?」

 「琴ちゃんは自由に恋愛していいんだよ。ただし、僕以外の男性と。

 僕は銀の親友だから」


 私は錬三郎に抱き付いて泣いた。


 「あなたは銀の大切な親友だからこそ、銀も喜んで祝福してくれると思う。

 銀の知らない人と愛し合うなんて絶対に無理!」

 「銀は僕のただの親友じゃないんだ。僕は彼を「同性として」愛していた。

 僕の勝手な片想いだったんだけどね?」

 

 (錬三郎がゲイ?)


 私の頭の中は混乱していた。


 「・・・」

 「軽蔑しても構わないよ。でも僕は銀を、銀河を愛しているんだ。だから君は僕の永遠の恋敵、ライバルなんだよ。

 銀の愛した君を、僕は愛することは出来ない」

 「女が嫌いなの?」

 「そうじゃない。僕はバイ・セクシャルなんだ」

 「結局言訳じゃないの! はっきり言えばいいでしょ! 私のことが嫌いだって!」

 「琴子のことが嫌いなら、何度も君と食事をしたりはしないよ。

 今日だって君をフラメンコになんか誘ったりはしない。

 男と女が一緒に食事をするという事は、ベッドを共にするのと同じ事なんだ。

 寧ろ、僕は琴子が好きで好きでしょうがないんだ!

 だが、銀を好きな「男」としての自分がそれを許してはくれない!

 正直に言おう、僕は迷っているんだ! 琴子を本気で愛していいものかどうかを! このまま君と付き合っていいのかを!」


 錬三郎が初めて私を「琴子」と呼び捨てにしてくれた。私はこの時確信した。彼は本気で私を愛していると。


 「私は暗い海を漂う船だった。私が沈没しそうになった時、見つけたのがあなたという灯台の光だった。あそこに見える灯台の明かりのように」

 「・・・」

 「私を錬三郎の愛人にして」

 「恋人じゃなく愛人?」

 「そう、愛人でいいの。結婚なんて望まない、あなたと一緒にいられるだけでいいの。だから私を錬三郎の愛人にして」

 「琴子」

 

 私は錬三郎とキスをした。錬三郎は躊躇いがちに口を開け、私の舌の進入を許してくれた。



 私たちはゆりかもめに乗って、そのままお台場のホテルへと向かった。

 ゆりかもめに彼と寄り添って座り、錬三郎と繋いだ手の平が汗ばんでいた。


 色とりどりの光の谷間を走るゆりかもめは、まるで星空に向かって飛んでゆく、銀河鉄道のようだった。


第三楽章

第1話 プライベート・レッスン

 ホテルの部屋で、私たちはシングルモルト・ウイスキーのラフロイグで乾杯をした。今夜は強いお酒が欲しかった。


 「銀の詩集に『魂の叫び』というのがあってね、彼がどん底の時に書いた詩なんだけど、読んだこと、ある?」

 「まだ読めないの。怖くて」

 「そう。詩はね、読むものではなく、声に出して味わう物なんだ。そしてそれが昇華して歌になるのが理想だ。

 メロディに詩を載せるべきではない。歌詞が死んでしまうからだ。

 つまり既製品の歌になってしまう。人が歌詞だとすれば、出来た洋服に人間を無理やり合わせるような物になってしまう。

 歌詞という人間に、オーダーメイドのメロディを合わせるべきなんだ。

 良いメロディであれば、歌詞は何でも良くなってしまうからだ。

 まず、歌は「詩ありき」なんだ。

 詩が先に出来る、あるいは曲と詩が同時に浮かぶのが理想なんだ。それがオーダーメイドの楽曲となり、永遠に歌い継がれていく。

 そして詩は、詩を紡ぎ出す詩人よりも、その詩を理解出来る鋭敏な感性を持った、受け手の心が重要になる。

 なぜなら詩は、小説よりも複雑で分かり難く、その一行の中には無限の物語が潜んでいるからだ」


 錬三郎はグラスを持ったまま目を閉じ、その詩を吟じ始めた。



          『魂の叫び』

  

       闇より暗い闇 太陽は死んだ

       花は枯れ 鳥は死んだ

       

       俺は今 生きているのか? 死んでいるのか?

       宇宙は1秒の狂いもなく動いている

       取り残された俺の魂

       

       魂は滅び 肉体だけが動いている

       それは生きているとは言わない

       死んでいるんだ 俺は


       風にお前の名を叫ぶ

       魂の叫び


       暗黒の世界 だからこそ輝く

       お前という一等星


       海にお前の名を叫ぶ

       魂の叫び


       音は消え 残るお前の記憶

       お前の笑う声が蘇る


       森でお前の名を叫ぶ

       魂の叫び


       訪れる死のその瞬間まで 俺はお前の名を叫ぶ

       声が枯れるまで叫び続ける 暗闇の中で


       魂の叫び



 錬三郎は泣いていた。

 私の心は今、銀と錬三郎にさらわれてしまった。

 私はラフロイグを一気に飲み干し、彼を抱き締めキスをした。




 私たちは夢中で愛し合った。

 創世記のアダムとエヴァのように。

 めくるめくオルガスムスに翻弄され、私は何度も歓喜の声を上げ、叫んだ。

 激しく掻き鳴らされるフラメンコ・ギターで踊る、カルメンのように。



 一通りの行為を終えた私たちはクタクタになり、熱くなった身体をクールダウンしていた。



 「今日ね、伴奏者をクビにしちゃったの。銀との日々を「短くて良かったね?」って言われたから。無神経でしょう?

 愛は長さじゃなく、深さなのに」

 「ピアノ、僕が弾いてあげようか?」


 私は急にベッドから跳ね起きた。それは考えもしない事だったからだ。

 

 「今なんて言った?」

 「僕で良ければ琴子のピアノ伴奏をしてあげるよ。弁護士とピアニストの二刀流でね」


 私は強く強く、錬三郎を抱き締めた。


 「いいの? 本当にいいの!」

 「君さえ良ければ僕はいいけど」


 だがその時、私は思った。

 ただでさえ多忙な錬三郎を私のレッスンに付き合わせるなんて、物理的に無理だと。


 「でも無理よ。錬三郎は忙しい人だから」

 「僕の家で琴子が一緒に暮らせばいいじゃないか? そうすればいつでも練習が出来る。家にはスタインウェイもあるし、防音になっているから」


 私は耳を疑った。


 (錬三郎と一緒に暮らす?)


 「錬三郎と一緒に暮らす?」

 「うん。琴子の音楽の役に立つなら僕はうれしいよ」

 「うれしい! 本当にうれしい! 錬三郎のピアノで歌えるなんて! 夢だったの、錬三郎のピアノで歌うことが!」

 「最高だよ プリマドンナの琴子の歌を、僕が独り占め出来るなんて」


 私はまるでポメラニアンのように彼の全身を舐め回した。


 「あはは、琴子、くすぐったいよ」

 「じゃあここは?」


 私たちの長い夜は続いた。


 そして私は翌日から、錬三郎のベイ・フロントのマンションで同居することになった。




 鎌倉の家に朝帰りをした私は、母と祖母に宣言した。


 「ママ、お婆ちゃま。明日からレッスン場に泊まり込みで頑張ることにしたからね?」

 「聡ちゃんのお家で?」

 「聡子には伴奏者を辞めてもらったの。前から気になっていたのよ、もう聡子のピアノでは駄目だって。聡子のピアノは音大の時から進化していない。上手くなろうという気がないのよ、聡子はピアノを諦めている、「私は才能がないから」と。

 才能とは「諦めないこと、努力し続けること」なのに」

 「そう? それで新しい伴奏者はどんな人?」

 「最高のピアニストよ」

 「誰かのご紹介?」

 「ううん、ママも知っている人」

 「誰かしら?」

 「椎名先生よ。弁護士の」

 「先生ってピアノも弾けるの? ゲッツの人なのに?」

 「今度、ママにも聴かせてあげるね? 彼のピアノ。驚くわよきっと。

 あのリストの『マゼッパ』を軽く弾いてしまうんだから」

 「あの超絶技巧の『マゼッパ』を? ママも昔、挑戦したけど駄目だった。ということはつまり・・・」

 「そう、彼の家に居候することにしたの。ピアノもここと同じスタインウェイがあるそうだし」


 母は私を強く抱き締めた。


 「良かった! 良かったわね琴子!」


 母は泣いていた。


 「お引越屋さん、お願いしなくちゃね?」

 「うん」


 祖母も喜んでくれた。


 「淋しくなるけど、それが琴子のしあわせなら私も大賛成よ。

 人生は見えない力で引き寄せ合っているものだからね?」


 私と母は、早速引越しの準備に取り掛かった。





 彼のマンションはタワーマンションの最上階にあり、東京湾が一望出来た。



 「ようこそ我が城へ。あはははは」

 「お世話になります」


 家具はカッシーナで統一され、佐伯祐三の絵が一枚、飾られていた。

 いくつかのスタンド照明はおそらくガレだ。

 ダイニングテーブルにはお花が飾られていた。



 「ここが琴子の部屋だよ。荷物はここに入れておいたから、自由に使っていいからね?

 でも殆ど君の衣裳部屋だね? 服が多いようだから。あはははは。

 そしてここが僕の恋人、スタインウェイちゃんの部屋。

 完全防音だから夜中でも平気だよ。もちろん音楽配信も可能だ。

 琴子もここでYouTube用の動画を撮影すればいい。

 編集は僕がしてあげるから」

 「ありがとう、錬三郎」


 そこはちょっとしたレコーディングスタジオのようになっていた。


 「ここは僕の書斎」


 その部屋は壁がすべて本棚になっていて、田舎の公民館の図書館よりも本が多かった。


 「そしてここが寝室。開けてごらん、たぶん気に入ってくれると思うよ」


 予想はしていたが、そこは案の定、彼の大好きな草間彌生の世界だった。

 寝具はすべて赤い水玉模様で統一され、ベッドは黄色いカボチャのオブジェの中にあった。


 「なんだか燃えそう」

 「だろう? ここは生命エネルギーをチャージする部屋なんだ」


 (どうせ電気を消して寝るから、まあいいか? ラブホみたい)



 「夕食は鍋でいいかい?」

 「うん。私が作るよ」

 「じゃあ一緒に作ろうか? 飲みながら。その方が楽しいからね?

 それじゃあその前に早速レッスンを始めよう」


 私は悟さんからクリスマスプレゼントにいただいた、エディターズ・バッグから楽譜を取り出し彼に渡した。


 「これ、今度の『椿姫』の楽譜」

 

 彼はさっとそれに目を通すとピアノに向かい、楽譜を見ながらそれを初見で弾き始めた。

 初見であるにも関わらず、彼のピアノは完璧だった。



 「じゃあ合わせてみようか?」

 「もういいの?」

 「やりながら調整していくから大丈夫」


 私が歌い始めると、三小節目で彼のピアノが止まった。


 「まだ声が良く出ていないのは仕方がない。まだ体が本調子ではないからね? リズム、音程、イタリア語の発音はいい。

 ただ、これでは聴衆は納得しない」

 「どうして?」

 「カラオケで100点満点を出す素人は結構いるが、彼らの歌は「上手いね」で終わってしまうレベルだ。

 そこに感動はない。

 リズム、メロディー、ハーモニーの音楽の三要素は完璧でも、詩が伝わらない。その詩をよく理解していないからだ。

 日本語で歌う、歌の上手な外国人のようにね?

 君の場合は詩はちゃんと理解して歌ってはいるが、役に成り切っていない。

 クルティザンヌ、高級娼婦を演じていないんだ。

 男に自分の身体を提供しながら、本当の女のしあわせ、恋に生きられない切ない哀しみが表現されてはいない」


 すると錬三郎は突然服を脱ぎ始めた。


 「琴子も脱ぎなよ」


 (レッスンを止めて、「する」つもり?)


 彼は草間彌生のカボチャのパンツだけになって、ピアノの前に座った。

 私もブラとショーツだけの姿になった。



 「さあ僕はどうしようもないクズの世間知らずのお坊ちゃまイケメン、アルフレードだ。だらしのない理想主義のヒモ男だ。そして琴子はヴィオレッタ。君はお金さえもらえば誰とでも寝る、淫らな高級コールガール。僕が好きで好きで堪らない。その心情でもう一度歌ってごらんよ?」


 私は目を閉じ、淫らに男を弄ぶ、アルフレードに母性を感じるヴィオレッタを想像した。

 『蝶々夫人』も娼妓ではあるが、あれは西洋人の考えた日本人の娼婦としての見方だ。

 だが『椿姫』は白人の娼婦。

 私はピアノを弾く錬三郎を挑発しながら、体に触れ、髪を撫でながら歌った。


 「そう、その感じ、とてもいいね? ちょっと待ってて」


 錬三郎は玄関から姿見を持って来て私の前に置いた。


 「これで腹筋の動きと横隔膜の上がり下がり、口の開け方や喉奥とかも確認しながら発声練習をするといい。もちろん表情や手や身体の動きも」


 

 2時間のレッスンはあっという間に終わった。こんなに充実したプライベート・レッスンを受けたのは、今まで経験したことがなかった。

 私は彼の正確な伴奏と、的確なアドバイスにより、忘れていた自分の歌に対する感覚を思い出すことが出来た。



 「今日はこれくらいにして、お鍋にしようか? いいシャンパンもあるんだ」

 「でもその前にこの格好だよ?」

 「そうだね、服を着ないと」

 「そうじゃないでしょ?」



 私は錬三郎の手を引いて、寝室のベッドへと誘った。


 「お食事の前にこっちのプライベート・レッスンもして頂戴」

 「喜んで。あはははは」


 私はブラを外し、ショーツを脱いだ。

 錬三郎もパンツを脱いだ。


 「じゃあちょっとだけ。お腹が空いたからね?」


 私の「高音の発声練習」が始まった。


第2話 突然の訪問者

 激しく愛し合った後、錬三郎と鍋をつついた。

 

 「鍋って食事の原点だと思うんだ。人類が火を使うようになって、まだ言葉も文字も無く、テレパシーでお互いの意志を伝え合っていた頃から、みんなで獲って来た肉や魚、野菜なんかを大きな土器で煮込んでそれを仲間と分け合って食べる。火と水と食材、やがて塩を見つけ、味覚は劇的に変わったはずだ。

 そして甘味。旨いとは「甘い」なんだよ。砂糖がまだなかった時代、それを果物や蜂蜜から採取していたんだろうね?

 今でもアフリカやアマゾンなどの奥地に暮らす原住民の食事の基本は鍋なんだ。肉などの保存は塩と乾燥だから、それを戻して食べるには、衛生的にも煮沸する必要がある。

 人間の食への飽くなき欲望は、様々な調理法を考え出し、あれが旨い、これが旨いと進化していった」

 「中国の人の食に対する執念はすごいわよね?

 海ツバメの巣とか、熊さんの手、ゾウさんのお鼻まで食べちゃうんだもん」

 「気絶させた猿の脳味噌まで食べるからね。ストローで啜るらしいよ。彼らは「食べるために生きる」と、平然と言うからね?」

 「ちょっと止めてよー、折角美味しいお鍋を食べている時にー」

 「ごめん。でも最初にその食材を食べようとした人間は、極度の飢餓状態だったのか、あるいは好奇心だったのか? 偶然食べたら「これって意外とイケるじゃん」とかになって。

 タコとか#海鼠__なまこ__#とかを食べた時は、相当勇気が必要だった筈だ。

 フグなんて死んでも食べたい人もいるからね?」

 「フグの卵巣なんて猛毒なんでしょう? 白子はすごく美味しいのに」

 「石川県の能登には『#河豚__ふぐ__#の卵巣の糠漬け』というのがあってね、フグの卵巣を3カ月から半年位塩漬けにして、その後、糠味噌に3年位漬け込むと糠の乳酸菌によってテトロドトキシンが完全に分解されて解毒されてしまうらしい。江戸時代に確立された加工法らしいけど、それが完成するまでにはどれほどの命が失われたことだろう。そうまでして食べたいのかな? フグの卵巣なんて」

 「へえー、フグの卵巣って食べられるんだ?」

 「僕は食べたことはないけど、凄い珍味らしいよ。何しろ3年半も掛けて作るんだから」

 「ちょっと食べてみたいかも」

 「でも琴子は食べちゃ駄目」

 「どうして?」

 「琴子がフグに当たって死んじゃったら嫌だから」

 「ありがとう錬三郎。だったら食べないよ、ずっと錬三郎の傍にいたいから」


 私たちはそんな中学生のような会話を楽しんでいた。

 錬三郎は鍋の中からズワイガニの足を取り出し、殻から蟹肉を器用に剥いて私の器に入れてくれた。


 「ハイどうぞ、歌姫様」

 「ありがとう。錬三郎も食べて」

 「こうやって琴子と食べる食事は何を食べても美味しいよ」

 「私も。食べることにあまり興味がなかった私だったけど、錬三郎と食べるお食事は何でも美味しいわ」

 「食べることは人間の三大欲求のひとつだからね? 鍋は簡単だし、家にある食材でも十分に楽しめる。残っても翌日の朝食には雑炊にしてもいいしね? どう? 『錬三郎風しゃぶしゃぶ寄せ鍋』の味は?」

 「すごく美味しい。ニラとネギがたっぷり入って、ニンニクと生姜、塩糀、昆布にカツオ出汁のベース。そしてムール貝とホタテ、海老、蟹からもいいお出汁が出ている。そこに寒ブリと牛肉をシャブシャブしてスダチを絞ったポン酢で食べるなんてすごく贅沢」


 私は空になった錬三郎のグラスに冷えたビールを注いだ。

 

 「このビールが空いたら日本酒に変えようか?」

 「うん」



 銀河を失って錬三郎と出会い、私の人生は大きく変わった。

 精神疾患はかなり改善し、睡眠薬に頼らなくてもグッスリ眠ることが出来るようになった。

 食欲、性欲、睡眠欲は満たされ、私は錬三郎に愛されている。

 そして私は再び歌えるようになった。

 

 (しあわせ過ぎて怖いくらい。このしあわせがずっと続いて欲しい)

 

 「明日の朝食はこのお鍋の残りで卵雑炊にしようか?」

 「でも美味しくて全部食べちゃいそう」


 



 翌朝、私たちは一緒に海岸通りをジョギングした。

 鳥の囀り、さざ波の音。海風が頬を優しく撫でる、心地良い爽やかな朝だった。

 

 家に戻り筋トレをしてシャワーを浴び、私たちは長年連れ添った夫婦のように、ありふれた会話をしながら朝食を食べた。

 夫婦の会話は潤滑油のようなものだ。私と元夫、輝信にはそれがなかった。


 「昨日のお鍋での卵雑炊、すごく美味しいね? 錬三郎、お替りは?」

 「じゃあ少しだけ。そろそろ出掛けないと遅刻してしまうからね?

 それから琴子、これ、ここのマンションの鍵だから渡しておくね?」


 錬三郎から合鍵を渡された時、私は泣きそうになった。


 (なんてしあわせなの!)


 それは同じ家に帰って来てもいいという、「幸福の象徴」でもあった。



 玄関で、妻のように錬三郎のお見送りをした。


 「じゃあ行って来るよ」

 「行ってらっしゃい、あ・な・た」


 私は錬三郎にキスをした。

 

 「なんだか新婚さんみたいね?」

 「照れちゃうなあ、では行って来ます、歌姫」


 そう言って彼は私にハグをして、元気に家を出て行った。




 私はヴェルディの『椿姫』のビデオを流しながら、それに合わせて歌い、朝食の後片付けを始めた。

 お洗濯にお掃除、自分の荷物の仕分けで午前中が過ぎて行った。

 窓から見える東京湾が、午後の陽射しを浴びて輝いていた。

 私は午後のレッスンを始めた。


 


 そんな夢のように幸福な日常が繰り返されていた時、事件は起きた。

 その夜、私たちは少し早めにベッドに入り、「夜の営み」を始めていると、突然玄関の鍵が開く音が聞こえた。


 「錬三郎、もう寝たあ?」


 私は一瞬で凍り付き、錬三郎にしがみ付いた。

 寝室のドアが開けられ、私はその女と目が合ってしまった。


 (何なのこの女? 錬三郎の女?)


 黒いコートを着た、長身のボブヘアの綺麗な女が私たちを笑いながら見ていた。

 私は咄嗟に布団を被って露わになった体を隠した。



 「あらごめんなさい。お取込み中だったのね? 半年ほどニューヨークに出張していてさあ、今、帰国したのよ。でも良かった、そんなに「元気そう」で。あはははは。これ、ニューヨークのおみやげ、キッチンに置いておくわね?」

 「来るんなら連絡くらいしてくれよ。これからいいところだったのに」

 「だってここの合鍵を持ってるし、どうせひとりで寂しくショパンでも弾いているんじゃないかと思ってね? 

 どうぞ私にお構いなく続けて頂戴。お風呂、貸りるわね?」



 私が驚いたのは、錬三郎とその女が、この状況の中でも平然としていることだった。まるでゲームに興じている子供のところに遊びに来た友だちのように。


 「あの人、誰! 錬三郎の彼女なの!」


 私は激怒して錬三郎を問い詰めた。


 「彼女じゃないよ。ほら、以前話した僕の女友だちだよ。彼女、レズビアンなんだ。

 だから男の僕には興味がないから大丈夫だよ。

 でも、心配だなあー、琴子を盗られちゃいそうで」

 「本当? あんなに美人なのに?」

 「財務省主計局主計官、#宝木葵__たからぎあおい__#。僕と大学で1、2位を争った仲なんだよ。彼女も在学中に司法試験に合格して、司法修習の時も彼女と一緒だったんだ。

 将来は政治家の御父上の跡を継いで、民自党から立候補するんだってさ。間違いなくトップ当選だろうね? あはははは。

 葵には女性初の総理大臣になってもらって、日本を良くしてもらいたいと思っている」

 「でも錬三郎は好きなんでしょう? 宝木さんのことが。異性として」

 「昔はそうだったけど、今は彼女には女を感じないよ。

 だって僕には琴子がいるからね? 僕はこれでも一途なんだよ。だから今は琴子以外、誰も目に入らないんだ。あはははは」



 「類は類を呼ぶ」とは言うが、錬三郎の周りには「ハイクオリティ」な変人が多い。

 銀座のゲイ・バーのママ、レイもそうだが、錬三郎に紹介された彼の友人たちは、普通の人たちの感覚とは程遠い人たちばかりだった。

 だが彼らに共通しているのは他人に対する「やさしさ」と「思い遣り」があることだった。絶えず自然な気配りをしてくれる。

 

 不思議にも、何故か彼女には嫉妬心もライバル心も湧いては来なかった。

 それは錬三郎を信頼していたことと、私たちのセックスを見ても彼女は眉ひとつ動かさなかったからだ。


 (本当にレズビアンかも。錬三郎の彼女なら逆上していたはずだし)


 私と錬三郎はパジャマを着てガウンを羽織り、リビングに出て行くと、彼女は勝手に冷蔵庫を開け、ビールを飲んでいた。


 「もう終わったの? 中断させちゃってごめんなさいね?」

 「半年も連絡が無かったから、もう他に「彼女」でも出来て、絶交されたのかと思っちゃったよ。あはははは」

 「ブロードウエイの女優の卵と付き合っていたんだけど、彼女、バイ・セクシャルだから別の男に盗られちゃったの。失恋よ失恋。ホント、女って面倒臭いわよね? ねえ、一緒に飲まない?」

 「いいけど彼女には手を出さないでくれよ。僕の大切なフィアンセなんだから」


 (フィアンセ?)


 「それは彼女次第よ。男とのセックスなんかより、女同士の方が遥かに気持ちいいんだから。どこをどうすれば感じるか、よく知っているしね?

 はじめまして、私、錬三郎の友だちの宝木葵。葵って呼んでね? 海音寺琴子さん?」


 葵さんはそう言って微笑んだ。


 「どうして私の名前を?」

 「オペラファンなら誰でも知っているわよ。それにここに来る前、銀座のレイのお店に寄ったら、「錬三郎、ソプラニスタの海音寺琴子と同棲しているらしいわよ」って言っていたから、つい興味が湧いちゃってね? それであなたのお顔を拝みにやって来たってわけ。よろしくね? ディーバ」

 「よろしく・・・」

 「私たち、仲良くなれそうね? うふっ。

 そうだ、さっきのおみやげを食べようよ、おつまみに。

 すごく美味しいコンビーフなんだ。そのままでも美味しいけどフライパンでソテーにしてマヨネーズでも美味しいわよ。ちょっとお台所借りるわね? 付け合わせは茹でキャベツでいいかしら?」


 彼女はテキパキとおつまみの支度を始めた。


 「私も手伝います」

 「いいからいいから、琴子はそっちで錬三郎といちゃついてなさい。あはははは」


 葵さんはまるで親戚のお姉さんのようだった。

 私たちの酒宴は深夜まで続き、私と葵さんはすっかり打ち解けた。



 


 翌日、祖母と母を見送りに成田にやって来た。


 「ママ、気をつけてね?」

 「琴子の『椿姫』の夏の公演には悟と一緒に帰国して観に行くからね?  

 もちろんお婆ちゃまと3人で」

 「うん、みんなに感動してもらえるように頑張るね?」

 「歌もだけど、椎名先生としあわせになりなさい。琴子の人生はこれからなんだから」

 「ありがとうママ。今、私は凄くしあわせよ」

 「パリの絵葉書、送って頂戴ね? 楽しみにしているから」

 「お母さんにもパリを見せてあげたいから、元気で長生きしてね?」

 「そうね? 元気で楽しみに待っているわ。体に気を付けるのよ」

 「お母さんもね。また夏には彼と一緒に鎌倉に帰って来るから」

 「ママ、お寿司食べに行こうよ」

 「そうね? パリにも日本食はあるけど、やっぱり日本のお寿司は食べておかないと」

 「それとも天ぷらの方がいい?」

 「この前、琴子が先生から天ぷらをご馳走になったという話を聞いて、食べに行ったから大丈夫。

 お寿司を食べて日本のビールを飲みに行きましょう。フライトは夕方だから」


 

 私たちはお寿司を食べ、ビールを飲んだ。

 そして空港のカフェでお茶をして、母はパリへと旅立って行った。



 「ママ、とうとう行っちゃったね?」

 「そうね? でも夏にはまた会えるし、これからのパリは暖かくなっていくからいいわよ。花の都、パリだから」





 私は祖母を鎌倉の家まで送り、家に帰って来た。

 

 「ただいまー」

 「お風呂沸いてるよ、入浴剤を入れてゆっくり温まるといい。今日は疲れただろう? 『草津の湯』、温まるから」

 「ありがとう」



 お湯に浸かりながら私は考えていた。

 

 (彼の赤ちゃんが欲しい)


 もちろん錬三郎と結婚はしたいが、たとえ結婚出来なくても彼の子供が欲しいと思った。私と彼のDNAを受け継いだ赤ちゃんが。

 輝信との子供を望まなかったのは、ソプラニスタとしての体力を維持するためではなく、本当は、嫌な男の子供を産むことを拒んでいたからかもしれない。


 でも錬三郎の子供は産みたい。

 今度の『椿姫』の公演が終わったら、私はピルの服用を止め、妊活をすることを決めた。

 大好きな錬三郎の子供を産むために。


第3話 天国への階段

 シャルル・ド・ゴール空港には#細雪__ささめゆき__#が降っていた。

 空港には悟がクルマで迎えに来てくれていた。


 「お帰り、久子」

 「ただいま、悟」


 私たちは強く抱き合い、笑いながらキスを交わした。


 「流石にパリは寒いわね?」

 「まだ2月だからね? 早く僕たちの暖かいパリの新居に帰ろう」

 「私もたっぷり温めてね?」

 「もちろん!」


 私は悟と腕を組み、駐車場へと向かった。


 

 クルマに乗り込むと待ちきれず、私たちはフランス人のように熱い抱擁をした。


 「久子、凄く寂しかったよ。寂しくて死にそうだった」

 「私もよ。早く悟に会いたかった」

 「じゃあ、帰ろうか? 久子」

 「うん、早く帰ってこの続きをしなくちゃね?」



 路面はかなり凍結していて、アイスバーンになっていた。

 悟はシフトレバーを巧みに操作し、慎重にクルマを運転していた。


 「良かったね? 琴子ちゃんが元気になって」

 「ホント、一時はどうなるかと思ったわ。でも本当に良かっ・・・」


 その時だった、対向車線を走る大型トレーラーが大きくスリップして、私たちの乗ったクルマにスローモーションで直進して来るのが見えた。


 

 クルマは大破し、ふたりは苦しむこともなく絶命した。

 即死だった。





 お気に入りの#夫婦茶碗__めおとちゃわん__#を洗っていると、突然茶碗が砕け散った。

 私は嫌な胸騒ぎを覚えた。




 私の携帯に母から着信があった。


 「ママ? 無事、パリに着いたの? さっきお茶碗を洗っていたら・・・」


 だが電話の相手は母ではなく、知らない女性からだった。


 「海音寺琴子さんの携帯でよろしいでしょうか? ご本人様でいらっしゃいますか?」

 「はい・・・」

 「私、パリ市警で日本語の通訳をしております、マルソーと申します。お母様の島津久子さんが先ほど、交通事故でお亡くなりになりました」

 

 私は頭の中が真っ白になった。

 

 「お母様の島津久子さんと大田原悟さんが交通事故でお亡くなりになりましたので、すぐにこちらにおいでいただくことは可能でしょうか? ・・・もしもし? 海音寺さん? もしもし・・・」


 私は気を失い、それから先の記憶が無かった。





 私はすぐにパリに向かうため、成田へ急いだ。

 空港までは錬三郎がタクシーで送ってくれた。

 

 「琴子と一緒にお義母さんを迎えに行けなくてごめんね? 今、大きな訴訟を抱えているからどうしても日本を離れるわけにはいかないんだ。パリの知り合いの弁護士に手続きを依頼しておいたから、焦らないで気を付けて行くんだよ」

 「ありがとう錬三郎。母と悟さんを迎えに行って来る」

 「何か不安なことがあれば、いつでも電話するんだよ」

 「うん」



 ロンドン経由、パリ行きの最終便。私は暗澹たる気持ちで飛行機に搭乗した。

 母と悟さんが亡くなったことが、未だに信じられなかった。

 夢なら早く覚めて欲しいと思った。

 

 (ママと悟さんが死んだ? あんなに幸福そうだった、あのふたりが?)




 3カ月も経たないうちに、私は銀河と母、そして悟さんの3人を失った。


 (私は今まで敬虔なクリスチャンとして戒律を守り、聖書に従い誠実に生きて来たつもりだった。それなのにどうして、どうしてこんな惨い事が私に立て続けに起きるの?

 一体私が何をしたというの! 結婚に失敗し、せっかく出会った恋人も失い、そして今度はママと悟さんまで・・・)


 私は急に不安になった。

 これでもし、錬三郎とも別れてしまうようなことになったら私はもう、生きる自信を失うだろう。




 

 病院の遺体安置室の前に到着すると、暗い廊下のベンチに悟さんの妹さんらしき人が放心して座っていた。

 既に悟さんの身元確認を終えたらしく、目の前の壁と虚な眼差しで向き合っていた。

 やさしい目元が悟さんにそっくりだった。

 悟さんの両親はすでに他界しており、妹さんが遺体の引き取りにやって来たのだろう。彼女は私に気付くと軽く会釈をした。


 「島津さんの娘さんですね? 大田原悟の妹の、寺島洋子と申します。この度は・・・」


 彼女は言葉を涙で詰まらせた。


 「海音寺琴子です」


 突然の訃報に私たち肉親は、大好きだったふたりが死んだということが、どうしても受け入れることが出来なかった。




 そして私も母の遺体と無言の対面をした。

 遺体袋のファスナーが開けられ、血の気のない母の顔を見た時、私は亡骸にすがり付き、号泣した。


 「ママ・・・。パリの音楽院に入ってピアニストになるんじゃなかったの? 悟さんと結婚してしあわせになるんじゃなかったの? 私の『椿姫』を悟さんと一緒に観に来てくれるって言ったじゃない! お婆ちゃまにパリを案内してあげるんでしょ! それなのにどうして寝ているの? ママ、起きて、目を覚まして! 一緒に日本に帰ろう・・・。悟さんと一緒に」

 



 

 私と洋子さんは同じ飛行機で、ふたりの遺体と共に日本へ帰国することにした。

 洋子さんは私に言った。


 「まるで悪夢を見ているようですよね? 夢なら早く醒めて欲しい」

 「こんな形で帰国するなんて、まだ実感がありません」

 「兄は久子さんと結婚することをとても楽しみにしていました。「三月になったらパリで久子と結婚式を挙げるから、洋子も家族で来てくれよな? 哲也君と茜ちゃんも一緒に。もちろん旅費は俺が出すから」と言って笑っていました」

 「母も同じです。まるで高校生のように、悟さんから頂いた婚約指輪を見てはうれしそうにしていました。そんな自分の母親が死ぬなんて、考えたこともありませんでした」

 「本当にやさしい兄でした。そんな兄が・・・」


 私たちは手を取り合って泣いた。まるで姉妹のように。



 CAさんはそんな私たちを気遣いながら、


 「この度はご愁傷様でございました。お食事のご用意をさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 「お食事は結構です」

 「私も・・・」

 「では温かいお紅茶とブランケットをお持ちしましょうか? 少しでもお休みになれるように」

 「お願いします」

 「お気遣い、ありがとうございます」





 鎌倉の屋敷の和室の布団に寝かされた、母の亡骸と対面した祖母は白布を取ると、母の冷たくなった顔を撫でた。


 「こんなに冷たくなってしまって・・・。私よりも先に死ぬなんて、かわいそうな久子・・・」


 祖母は小さな背中を丸め、ポロポロと涙を零した。

 いつもやさしく穏やかに微笑んでいる祖母が泣いている姿を、私はその時初めて見た。

 



 通夜には紀美加さんと、娘の夢香ちゃんも真っ先に来てくれた。


 「久子おおおおおーっ、パリを案内してくれるって言ったじゃない!」

 「久子おばさま・・・」



 母の人柄を偲んで、大勢の人たちが弔問に訪れ、母の死を悼んでくれた。

 錬三郎と葵さん、そしてレイも一生懸命に母の葬儀をお手伝いしてくれていた。

 

 「ごめんね錬三郎、葵さん、レイさんも忙しいのに、本当にありがとうございます」

 「琴子も少し休みなさい。ずっと寝てないんでしょう?」


 葵さんはまるで姉のように私を気遣ってくれた。

  



 父に母が亡くなったことは連絡したが、通夜に父は来なかった。おそらく母や、親戚に合わせる顔がなかったからだろう。

 父はすでに再婚していた。


 

 聡子も弔問に来てくれた。


 「琴子、どうしてこんなことに・・・」

 「ごめんね聡子、この間はあんな酷いことを言って」

 「ううん、本当のことだもん、気にしてないよ。私の方こそごめんね? 琴子の気持ちも考えないで、あんな無神経な事を言って。琴子のママ、かわいそうだよ。まだ若いのに、あんなにやさしい人だったのにいいいいーっつ!」


 私と聡子は抱き合い、いつまでも泣いた。


 

 私は良き人生の師匠でもある母と、大切な悟さんを同時に失ってしまった。

 だが人は、いつかは必ず愛する人との別れをしなければならない時がやって来る。それが予め予想されたものなのか、突然なのかはわからない。母と悟さんのように、一緒に天国へ召されることは、一概に不幸であったとは言えないかもしれない。

 母と悟さんは、少なくともしあわせの絶頂の中で人生を終えることが出来たのだから。

 それはある意味、幸福な人生であったとも言えるのかも知れなかった。





 四十九日の法要も終わり、いつもの日常を取り戻しつつあった頃、洋子さんがマンションに訪ねて来てくれて、母の仏壇に手を合わせてくれた。


 「わざわざありがとうございます。洋子さんに来ていただいて、母もきっと喜んでいると思います。今度、私も悟さんに御線香をあげに伺ってもいいですか?」

 「いつでも来て下さい。狭い家ですけど兄もきっと喜ぶと思います。今日は琴子さんにこれをお届けに上がりました、兄が最後に描いた久子さんの肖像画です。

 お家に飾ってあげて下さい」


 その絵は、母のセミヌードの肖像画だった。

 暖炉の前でハイバックの椅子に浅く掛け、白い乳房を手で隠した、朝日を浴びた母のしあわせそうな横顔。

 私はその絵を抱き締めて泣いた。



 「ありがとう、ございます・・・」

 「これからも仲良くして下さいね? 琴子さん」

 「もちろんです!」


 その肖像画には悟さんの母への愛情が満ち溢れていた。

 少し恥ずかしそうに微笑む母。

 私はその絵をマンションの私の部屋に飾った。




 錬三郎が仕事から帰って来たので、母の絵を自慢して見せた。



 「画家の悟さんが描いた母のポートレイトなの。洋子さんが今日、わざわざ届けてくれたの、素敵な絵でしょう?」

 「いい肖像画だね? リビングに飾ったらどう? 海も見えるし、いつも一緒にいられるから寂しくないしね?」



 錬三郎は明るいリビングに、悟さんの描いた母の肖像画を飾ってくれた。

 母の絵が笑っている気がした。


 「ありがとう。錬三郎」





 日曜日の夜、葵さんとレイさんが私を励ましに来てくれた。


 「今夜は琴子のママを偲んでみんなで飲みましょう! お酒を飲んで琴子のママのお話を、たくさん聞かせて頂戴。さあ、お酒とおつまみはどっさり持って来たわよ!」


 そう言って葵さんは私をハグしてくれた。


 「メソメソしちゃ駄目。おふたりの天国でのご冥福をみんなでお祈りしましょう! さあグラス、グラス!」

 「グラスなんていらないんじゃない? みんなで回し飲みすれば?」

 「イヤイヤ、ひとり一本でしょう? そのままラッパ飲みしよう!」

 「そうかそうか! あはははは」


 母と悟さんは死んでしまったが、私はもう独りぼっちではなかった。

 錬三郎と、こんなに素敵な仲間がいる。



 とても楽しい宴だった。


 (ここにママと悟さんがいたら、もっと陽気に笑っていれたのに・・・)


 そう思うと涙が零れた。

 すると錬三郎はピアノの置いてある部屋に入り、私たちも彼の後について行った。


 錬三郎がピアノを弾き始めると、葵さんとレイさんが歌い始めた。

 それはLed Zeppelin『Stairway to Heaven(天国への階段)』だった。

 私も、そして錬三郎も一緒に歌った。

 母と悟さん、そして銀河のために。




 酒宴は朝まで続いた。錬三郎とレイさんは寝入ってしまい、私はふたりに毛布を掛けて、少しエアコンの温度を上げた。

 葵さんと私だけが起きていた。


 「琴子、人が亡くなるのってイヤよね?」

 「たった3カ月の間に大切な人を3人も失いました」

 「銀河とは私も錬三郎と一緒に、よく3人で呑み明かしたものよ。彼は人間としてもとても優れていたわ。「優れる」という字は「優しさ」とも言える。彼は詩人として、人間として、自分に正直に生きようとした。でも彼は優し過ぎたのよ。大人になれなかったのね? 狡賢い大人に。

 あざとく、狡猾に生きればいいものを。世の中の普通の人間みたいに。ね、そう思うでしょ? 私はただの官僚だけど、あなたなら分かるはず、同じ芸術家としての銀河の気持ちが」

 「彼は私といる時は詩人ではありませんでした。でも凄く愛していました。たった2週間の恋でしたけど」

 「恋愛なんて付き合った時間の長さじゃないわ。深さであり、重さなのよ。どれだけその人を愛したかだと私は思うわ。

 私は女が好き。それは美しくて繊細で、傷付きやすいから。だから守ってあげたくなっちゃう。それってヘン? いやらしいことだと思う? 同性の女性が好きだなんて?」

 「そんな偏見はありません。人を愛する気持ちに異性も同性もありませんから」

 「琴子・・・」


 突然、葵さんにキスをされた。

 それは中学生の時にした、ファースト・キスのようだった。

 とてもやさしいキスだった。


 「琴子、あなたには錬三郎というすばらしい人がいつも傍にいる。だから大丈夫、いつも彼があなたを守ってくれるわ。彼はとても頼りになる男よ。錬三郎に甘えなさい。そして私もレイもあなたをいつも応援している。

 辛いことがあれば、いつでも私たちを頼りなさい。

 これからは私が琴子の「お姉ちゃん」になってあげるから」

 「葵さん・・・」


 私は葵さんの胸に抱かれて泣いた。

 葵さんはそんな私の頭を、労るように撫でてくれた。


 「大丈夫、琴子はひとりじゃないわ」


 私の心の傷は、その葵さんの言葉で縫合されていくように感じた。


 私は大切なものを次々と失ったが、それ以上に希望とやさしさに包まれていることを知った。


第4話 東京湾クルーズ

  マリア・カラスを愛したギリシャの海運王、オナシスもまた数々の名言を残している。



        「私には友人も敵もいない 

        みんなライバルだと思っている」



 彼は孤独だった。バイ・セクシャルでもあったオナシスは、マリア・カラスに夢中になった。彼は人の癒しが欲しかったのだ。

 オナシスは自分の所有する大型客船で、マリア・カラスを地中海クルーズに招待し、当時35歳だったマリア・カラスを口説き落とした。

 マリア・カラスの名声が不動のものとなり、マリアの母、エヴァンゲリオンは娘のマリアにカネの無心をするが、マリアがその願いを拒絶すると、「恩知らずな娘だ!」と彼女を酷く非難し、マリア・カラスは世間の誹謗中傷に晒され、心身が疲弊していた。

 弱り切っていたマリア・カラスは、エネルギッシュなオナシスに頼ってしまう。


 ふたりとも既婚者だったが、マリア・カラスとオナシスは当初、お互いに離婚して再婚することを真剣に考えていたらしい。

 ギリシャとアルゼンチンの国籍を持つオナシスの離婚は容易だったが、イタリア国籍のマリア・カラスの夫、メネギンとの離婚は困難を極めた。



   「あなたのためなら歌うことを辞めても構わない」


 

 9年間にも及ぶ蜜月の果て、オナシスは突然ジョン・F・ケネディの未亡人、ジャクリーン・ケネディと再婚してしまう。

 ダラスでケネディが暗殺された時、オープンカーの後部に飛び散ったケネディの脳味噌と頭蓋骨の破片を必死に拾い集めている姿からは想像出来ないが、マリリン・モンローと不倫関係にあった夫、ケネディに不満があったのは確かだ。

 モンローはケネディとのピロートークで聞いた、国家機密などをポエム形式で手帳やルーズリーフに記していた。

 世に言う『マリリン・モンローの赤い手帳』である。

 それを読むと、いかにマリリン・モンローが孤独であったかが窺える。



    「Alone! 私は独りぼっち いつだって独りぼっち

    どうしようもなく」



 ジャクリーンは大統領の妻として、苦悩を抱えていた。

 マリア・カラスはショックのあまり、自殺未遂を起こしてしまう。

 ジャクリーンの連れ子たちとは良好な関係だったオナシスも、ジャクリーンとの夫婦関係は冷めていたようだ。

 そして2年後、彼女は病死してしまい、オナシスもジャクリーンの死後から5年、筋無力症が元で亡くなってしまう。

 かつてオナシスが電話交換手をしていた時に得た会話情報を基に株の売買を行い、その潤沢な資金により船舶を買い漁り、前妻の実家が海運業をしていたこともあり、オナシスは瞬く間に富豪への階段を駆け上がって行く。

 だからこそ、お互いどん底から這い上がって来た者同士、マリア・カラスとも理解し合えたのかもしれない。

 ふたりはお互いに孤独だったのだ。

 マリア・カラスはこう言っている。


   

    「女の使命は男を幸福にすること」


 

 それは使命ではなく、マリア・カラスにとってオナシスは、彼女の生甲斐だったのかもしれない。



 



 その日、私は母の夢を見ていた。

 観客のいない大きなコンサートホールで、母はベートーヴェンでもショパンでもなく、ラヴェルを弾いていた。


    『亡き王女のためのパヴァーヌ』


 とてもやさしく、悲しい母のピアノに私は泣いていた。

 パヴァーヌとはレクイエムの類いではなく、フランス語で言うところの舞踏曲であり、当時、ルーブル美術館に飾られていた、17世紀のスペインの宮廷画家、ベラスケスの描いた幼い王女、マルガリータの肖像画にインスピレーションを得て作曲したピアノ曲だと言われている。

 ト長調の四分の四拍子。パトロンであったポリニャック公爵夫人のために作曲したピアノ曲だが、周囲からはあまり評価はされず、そして自分自身も「好きではなかった」と言っている。

 ラヴェルが晩年、失語症になって脳が衰えた時、この曲を聴いた彼は、「なんて美しい曲だ。これを作曲したのは誰だね?」と訊ねたという逸話が残されている。

 


 私は目を覚ました。錬三郎はまだ眠っている。

 子供のようにあどけない寝顔の錬三郎に、私はキスをした。

 大好きな人が傍にいてくれる安心感。ママと悟さんも、天国できっとしあわせに暮らしているはずだ。

 

 時計を見るとまだ朝の4時だった。5時半からのジョギングにはまだ時間があったので、錬三郎に寄り添い、私は#微睡__まどろ__#んでいた。

 すると、錬三郎も目を覚ました。


 「んっ、んーん。今何時?」

 「ごめんなさい、起こしちゃったわね? まだ4時よ」

 「ジョギングの時間にはまだ早いね?」

 「うん」


 私は錬三郎の胸に顔を載せた。


 「錬三郎の心臓の音が聴こえる。ドクン、ドクンって」

 

 錬三郎は私の髪をやさしく撫でてくれた。


 「僕は長生きしなきゃいけない。琴子を守るために。僕は君より絶対先には死なないよ」

 「私も長生きして錬三郎を守ってあげる」

 「じゃあ一緒に長生きしよう、120才まで」

 「うん、長生きしよう。

 さっきママの夢を見ていたの。大きなホールで『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾いていたわ」

 「ラヴェルの?」

 「そう、とてもやさしく弾いていた。ママがラヴェルを弾いているのを初めて見たわ」

 「僕も好きだよ、あの曲は。切なさの中に美しさがあって」

 「私も好き。錬三郎のことも大好き」


 私は錬三郎にキスをし、彼の下腹部に触れた。


 「ここ、硬くなってるよ?」

 「朝立ちだね?」

 「おしゃぶりしてあげようか?」

 「僕が舐めてあげようか? 琴子のアソコ」

 「じゃあ舐めあいっこしようよ、ジョギングに行くまで」

 

 彼は私のパジャマとショーツを一緒に脱がし、私も錬三郎の勃起したペニスを取り出すため、パジャマごとパンツを脱がせ、私は彼のペニスを口に咥えると、錬三郎の顔に跨り、私自身を彼に委ねた。

 彼はその感触に満足すると、ピチャピチャと音を立てて私のそこを舐め始めた。

 私たちはシックスナインの体位を取った。

 朝方の寝室に響き渡る淫らな音とお互いの切ない声。

 私は錬三郎の絶妙な舌使いに翻弄され、思わず口から彼の物を外してしまった。


 「あん、ちょっと、反則、だよ。集中、出来なくて、あん、うっ、出来なくなって、お口から、出しちゃった、じゃないのおー。はうっ・・・」


 すると彼はより丁寧にクンニリングスを始めた。


 (欲しい・・・)


 「お願い、入れて」


 彼は無言で私の股を広げると、ゆっくりと硬くなったペニスを私の中に挿入して来た。

 彼の大きくなったそれが、メリメリと私の中へと進入し、律動を開始した。

 突き抜けてゆく激しい快感。


 「あ、あ、あっ、いい、すごく・・・」


 彼の腰の動きに合わせるように、私は喘いだ。

 彼の物が私の中に出し入れされて約5分が経過した頃、遂に私は絶頂を迎えそうになった。


 「いきそう! いくっ! くっ、くうーっ、はっ、ダメ!」


 すると錬三郎の動きがさらに加速され、


 「いっしょにね?」


 そう言って私たちはほぼ同時に果てた。

 私の中は収縮を繰り返し、ドクンドクンと彼の精液が私の中に送り込まれて行った。



 ようやくそれが収まって、彼はティッシュで私のアソコを丹念に拭き取ってくれた。私は彼のペニスを口に含んで綺麗に舐めてあげた。


 「ジョギングする前に運動しちゃったね?」

 「ばか・・・」


 本当のセックスとは愛の延長線上にあるものだ。輝信とのセックスはただの義務であり、無理矢理の拷問だった。そこに女としての歓喜はない。

 東の空が少しずつ明るくなって来た。

 




 週末の日曜日、錬三郎の所有するクルーザーで、葵さんとレイさん、そしてレイさんの藝大時代の後輩の5人で、東京湾をクルージングすることになった。

 レイさんが彼を紹介してくれた。


 「この子ね、私の藝大の後輩の鹿田ちゃん。イケメンでしょう? ダメよみんな、手を出しちゃ。私のカワイイ彼なんだからあ」

 「それ、みんなにっておかしいわよ。だって私は男に興味がないもの。危ないのは琴子と錬三郎よ。ふたりともわかった?  

 ダメだってよ、#しちゃ__・__#」

 「僕は琴子に夢中だから大丈夫」

 「私も錬三郎がだーい好きだもん」

 「あらあら、いいわよここでしても。みんなで見ててあげるから。あはははは」

 

 鹿田君は笑ってはいたが、どうやら本当にレイさんの彼氏さんのようだった。


 「初めまして#鹿田悠斗__しかだゆうと__#です。どうぞよろしく」

 「この子ね、プロのサックス・プレイヤーなの。サックスよ琴子, Sex playerじゃないからね? あはははは。ボストンのバークリーに留学して専門はJAZZ。今、注目のジャズ・サックス奏者なのよ」

 「大丈夫、私は錬三郎で十分満足しているから」

 「あら、そっちの方なら私の方が錬三郎よりも上手よ。試してみる?」


 葵さんは私を熱く見て笑った。


 「遠慮しておきます。私、浮気はしないので」

 「馬鹿ねえ? 恋愛に浮気も本気もないでしょう? みんな本気よ、命懸けなんだからあ」


 (そうだ、恋愛は遊びではない。命懸けでするものだ)


 「いいお天気で良かったわねー。水着持って来れば良かった」


 と、葵さんが言った。


 「来月もまた来ましょうよ、今度は千葉の館山とかいいんじゃなあい?」

 「あそこは海も綺麗だし、魚も釣れるしね?」

 「よし、出港だ。「Leavinng Port , All station! Stand by Single Up!(総員、出港用意!)」

 「Yes,Sir. Stand by,Single Up 、Sir!(船首のロープだけにすること)」


 船尾の#舫綱__もやいづな__#を外し、クルーザーは離岸した。


 「Dead Slow Ahead(微速前進)」


 錬三郎はスロットルレバーを倒し、船はゆっくりとマリーナを後にした。海風がとても気持ちがいい。


 「Full Ahead(全速前進)」


 船は次第に速力を上げ、私は船を真剣に操縦している錬三郎の横顔に見惚れていた。


 「琴子、船酔いは大丈夫?」

 「お船には初めて乗ったけど平気みたい。錬三郎はお船も運転出来るんだね?」

 「父親が好きだったんだ。だから僕も自分の船を所有することにしたんだよ」

 「お船の免許って取るの難しいの?」

 「大型船の海技試験は論文形式だけど、小型船舶は簡単だよ。琴子も取ればいい。すごく気持ちがいいよ、クルマの運転と違って。少し操縦してみるかい?」

 「えっ、いいの?」

 

 そう言って錬三郎は私に操舵輪を持たせてくれた。


 「船はね、右をStarBoard、左をPortというんだ。

 このコンパスが155°になるように操縦してご覧」


 私はそのまま何もせずにしていると、船がどんどん右に流され始めた。


 「舵をそのままにしているのに船が真っすぐ走らないよ。錬三郎、早く代わって頂戴!」

 「船はね? そのまま真っすぐには走れないんだよ。プロペラが時計回りに回転しているから、その水流が舵の下の部分に当たって抵抗になり、船が右に回ってしまうんだ。

 だからこうして「当て舵」と言って、少しどちらかに舵を取る必要がある。こんな風に」


 すると船が真っすぐに走り出した。


 「そして船は風や潮流の影響を受ける。それをLee WayとTide Wayという。ほら、おいで琴子」


 錬三郎は私に再びWheel(操舵輪)を握らせると私の後ろに立ち、私に手を添え舵輪を巧みに操作して船を直進させた。

 

 「凄い凄い! お船が真っすぐ走ってる!」


 それをみんなも見ていた。


 「琴子、中々いいカンジよ、Steady(そのまま直進せよの号令)!」

 「お船の操縦って楽しいですね?」

 「1級小型船舶操縦士の資格を持っていないのは琴子と悠斗だけよ。私と錬三郎、葵もみんな持っているわ。葵の家はこれより大きなクルーザーも持っているしね? 琴子と悠斗も一緒に免許を取りに行って来なさいよ。1級免許。おバカな芸能人でも取れるんだから、アンタたちなら朝飯前よ。あはははは」


 悠斗が言った。


 「僕も欲しいなあ、船舶免許。琴子さん、一緒に取りに行きませんか?」

 「え? 私はいいかなあー、錬三郎が持っていればそれで。どうせ乗せてもらえるし」

 「行っておいでよ、琴子も免許を取れば安心だから。

 万が一、僕が操船出来なくなっても帰って来られるから。

 海上保安庁のお世話になるのも悪いしね?

 飛行機のパイロットだって2人いるだろう? 安全のために」

 

 私は錬三郎の勧めに従い、鹿田君と1級小型船舶の免許を取りに行くことになった。

 



 船はレインボーブリッジを越えて品川埠頭とお台場の間を進み、大井のコンテナターミナルを右手に見て、羽田沖に出た。

 飛行機の爆音と地上すれすれを飛ぶ飛行機。


 海から見る景色もいい物だと私は思った。


第5話 Careless Whisper

 1級小型船舶操縦士の学科講習には、ヒマとカネを持て余したセレブたちで盛況だった。

 その中には女性受講者も数人混じっていた。


 「みなさんは灯台がそれぞれ違う物だと言うことはご存知でしたか? 実は灯台は同じ白でも、光り方や光の色はそれぞれ違う物なんです」


 学科講習が2日、実技講習が1日、その後に学科試験、実技試験がそれぞれ半日ずつの合計4日間に渡り行われる。  

 合格率はほぼ100%だった。

 つまり、お金さえ払えば誰でも取得出来る国家試験だった。

 船舶を操縦するための講習会のようなもので、私には眠くなるような話ばかりだった。


 (どうして小型船舶の資格を取るなんて言っちゃったんだろう?)


 隣の席の鹿田君は熱心にノートを取っていた。


 (やっぱり男の子ね? 乗物が大好きみたい。かわいい)




 ようやく学科講習の初日が終わり、


 「ああ、明日もあるのね? 何だか疲れちゃったー」

 「僕も自分の船が欲しくなりましたよ」

 「男の人はみんな、電車とか飛行機、お船やクルマ、バイクとかが好きだもんね?」

 「男は旅に憧れるんですよ、冒険の旅にね?」

 「冒険かあ?」

 「琴子さん、お茶して帰りませんか?」

 「別にいいけど。お夕食の支度に間に合えば」


 鹿田君は片手にサックスのケースを持っていた。


 「僕も今日はスタジオで収録なんです」

 「ジャズの?」

 「今日はフュージョンなんです。嫌な作曲家の。

 下品で苦手なんですよ、そのおじさん」

 「だったらやらなきゃいいじゃないの? そんなお仕事。

 私は自分と音楽性の合わない人とはお仕事をしないことにしているの。

 だって私の歌だから」

 「音楽は自由であるべきですからね?」


 そう言って白い歯を見せて笑う彼に、私はギリシャ神話のアドニスを想像した。


 (美少年、アドニスみたい)

 


 


 汐留のテレビ局の下にあるオープンカフェで、私たちは軽い世間話をしていた。

 家路を急ぐ人たち。都会の喧騒。



 「琴子さん、サックスの曲は何が好きですか?」

 「そうねー、ケニーGとかかな?」

 「今日はソプラノではなく、アルト・サックスですけど、ちょっと吹いてみましょうか?」

 「ここで?」


 すると彼は楽器ケースからアルト・サックスを取り出し、ストリートライブ用に設けられたスポットライトの下のペイブメントまで歩いて行き、そこへ立った。

 彼の演奏が始まった瞬間、周囲の会話やざわめきが止んだ。



 ケニーG。『Waiting for You』



 黄昏の高層ビルの谷間に鳴り響く彼のアルト・サックス。

 行き交う人たちも足を止め、彼を見て、耳を澄ませていた。

 繋いだ手に力を込める恋人たち。

 彼のサックスが人々の心を鷲掴みにしていた。そして私の心までも。

 彼の頭上の高架を、「ゆりかもめ」がノロノロと這うように走り過ぎて行った。



 彼はその1曲だけを演奏すると、私のところへ戻って来た。


 「錬三郎さんがお腹を空かして帰って来ますよね?

 そろそろ帰りましょうか?」


 眩しいくらい素敵な笑顔だった。

 彼は私に手を差し出した。

 私はその手を取り、椅子から立ち上がった。

 骨ばった太い血管の浮き出た彼の手の甲を見た時、私は軽い欲情に胸がドキドキした。


 (何をそんなに動揺しているの? ただ彼の手に触れただけじゃないの?)


 私は戸惑いを覚えた。




 JR新橋駅のコンコースで私たちは別れた。


 「琴子さん、それじゃあまた明日」

 「うん。レコーディング頑張ってね?」

 「ありがとうございます」


 私は人混みに紛れて消えてゆく、彼の引き締まった小さなお尻を見ていた。


 (アソコは錬三郎よりも大きいのかしら?)


 私はそんな自分に吹き出しそうになりながら駅の改札を抜け、ホームへのエスカレーターを昇って行った。





 夕食の時、錬三郎と今日の講習会の話をした。


 「まるでどこかの知らない国の言語を聞いているようだったわ」

 「陸上では海や船の仕組みは馴染がないからね? まずは基本的なことを憶えて、後は実地で学べばいい。

 わからないことは僕が教えてあげるから」

 「うん、取り敢えずがんばってみる。せっかく錬三郎にお金を出してもらったんだから、必ず一発で合格しなきゃね?」

 「琴子なら大丈夫だよ。

 今日の琴子の作ってくれたこの黒酢酢豚、黒酢がよく効いていて凄く美味しいよ。

 ビールによく合うからもう一本飲んじゃおうかなあ?」

 「ありがとう錬三郎。私も飲みたい!」


 私は冷蔵庫に冷えたビールを取りに行った。


 「それから今日の帰り、鹿田君と汐留のカフェでお茶してから帰って来たんだけど、その時彼、ストリート・パフォーマンスをしてみんなから凄くウケてた。

 サックスをライブで聴くなんて初めてだったけど、ブラスの音色もいいものね?」

 「今度僕も聴いてみたいな? 彼のサックス」

 「レイのお店でやってくれたらいいのにね?」

 「そうだね? 今度、レイにリクエストしてみるよ」


 そう言って、錬三郎は喉を鳴らしてビールを飲んだ。




 私たちは二日目の学科講習を終え、私と鹿田君は同じ電車で家路に就いた。

 夕方ということもあり、電車は混雑していた。

 私たちは電車のドアの近くに立っていた。


 「明日からいよいよ実技講習ですね?」

 「大丈夫かしら? 私」

 「一応国家試験ですからね? 殆ど落ちる人はいないそうですけど」

 「そうみたいね? 鹿田君は今日もこれからレコーディングなの?」

 「いいえ、今夜は何もありません」

 「鹿田君はひとり暮らしなの?」

 「いいえ・・・」


 野暮なことを訊いてしまったと思った。

 おそらく彼はレイと一緒に暮らしている筈だった。

 私は話題を変えた。


 「錬三郎がね? 鹿田君のサックスを聴いてみたいって言っていたわ。「レイのお店でリサイタルをやってくれないかなあ」って」

 「そうですか? ありがとうございます。レイに話してみます」


 (レイ? 年上なのに呼び捨て?)


 やはりそうなんだと私はその時確信した。


 「じゃあ楽しみにしているわね?」

 「はい」


 鹿田君は吊革に掴まり、車窓を流れる夕方の東京を眺めていた。

 その表情はとても寂しげだった。


 (アドニス・・・)


 鹿田悠斗。私は彼のことを密かに「アドニス」と名付けた。






 夕食前の2時間は、錬三郎とのレッスンの時間だった。

 普段はニコニコして、子供みたいに無邪気な錬三郎でも、いざピアノに向かう錬三郎は、まるで「音楽の鬼」だった。



 「何度言ったらわかるんだ! そこはダラダラ歌うな! ヴィオレッタの恋焦がれる想いを隠せ! 心を鬼にしてアルフレードを追い返すんだ!」

 「はい」

 

 私はアドニスをアルフレードに想像して、錬三郎の言うように歌った。


 (ああ、ダメよアドニス! それ以上私に近寄らないで!)


 「いいぞ琴子! お前は飲み込みが早い! 新国立劇場での公演まであと二か月だ。パート練習はこれくらいにして、明日からは通しでやるからな?」

 「わかりました」


 レッスンの時とベッドでは、彼に服従するのが私の決めたルールになっていた。

 私は錬三郎を深く愛していた。



 

 今夜の錬三郎とのセックスは燃えた。


 「私は淫らなヴィオレッタよ! あなたが欲しい! アルフレード!」

 「じゃあちゃんとお願いするんだ! 四つん這いになって尻を突き出せヴィオレッタ!」


 私は四つん這いになり、腰を高く上げて自分を錬三郎に晒した。すごく恥ずかしかった。


 「アソコがグチョ濡れじゃねえか? そんなにぶち込んで欲しいのか? ヴィオレッタ!」

 「はい・・・、お願いします」


 私は淫らなヴィオレッタを演じ、そして錬三郎はサド侯爵に扮したアルフレードを演じた。

 錬三郎が私の腰を引き寄せ、自分の硬くなったそれを私のそこに宛がった時、私は次の展開を期待して歓喜の声を上げた。


 (やられてしまうのね? アドニスに!)


 だが錬三郎はそれを私の濡れた女の部分に押し当てると、ゆっくりとそこをなぞるだけだった。

 私は遂に叫び声を上げた。


 「何をしているの! 焦らさないで早く入れて!」

 

 すると彼は私から身体を離し、いつの間に用意していたのか? ジーンズ用の幅の広い革ベルトを手に取り、私の背中からお尻に掛けて、先端をゆっくりと滑らせた。

 身体中にゾクゾクと鳥肌が立った。


 「どうやらお前にはまだお仕置きが足りないようだ。ムチの味を教えてあげないといけないようだな?」


 錬三郎は私の耳に息を吹き掛け、そう囁いた。

 彼はベルトをふたつに折り、ビシッビシッとベルトを鳴らしてみせた。

 もちろんこれはただの演技であり、実際に私のカラダを傷付けるようなことはしない。

 だが私の蜜は更に溢れ出した。


 「錬三郎! 早く頂戴! 私を犯して!」

 「琴子、両手を出せ」


 (縛るつもり?)


 私が両手を錬三郎に差し出すと、今度はネクタイで、やさしく痕が残らないように配慮しながら少しだけ緩く私の両手を縛り、万歳をさせた。


 「どうだ? 身動きが出来ないだろう? ヴィオレッタ?」


 私の自由は奪われ、彼は私の両足を持ち上げると、私の中に自分自身を挿入して来た。

 私の全身を突き抜ける凄まじい快感。

 

 ズブブ ズブブ


 私の中が錬三郎のそれによって掻き出され、卑猥な音と私の淫らな喘ぎ声が寝室に響いた。

 私は目を閉じ、電車でのアドニスを想像した。


 (ああ、アドニス! もっと激しくちょうだい! 私を滅茶苦茶にして!)


 「イ、イクっ」


 私は頭が真っ白になり、少し遅れて錬三郎も射精したようだった。

 私たちは演技を終えた。



 私のオルガスムスが収まった頃、錬三郎が言った。


 「今日の琴子は凄かったよ。ほら、シーツがお漏らししたみたいになってる」

 「・・・オシッコ漏れそうだった」

 「オシッコじゃなくて潮じゃないのかなあ? これ?」

 「ばか。錬三郎の変態・・・」

 「真剣にセックスに没頭している時に、変態じゃない男はいないよ」

 「そうか? そうだね? あはははは。ねえ? 今度は私を縛ってみてよ。ちょっと興味があるの」

 「じゃあ船のロープワークもついでに教えてあげるよ」

 「ボーライン・ノットとか? クラブ・ヒッチとか?」

 「よく覚えたね?」

 「覚えるだけはね? 錬三郎のこれで練習したい」

 「いいよ、じゃあ今度買って来るよ。でも痕が残るといけないから、柔らかいヤツを買って来るよ。本格的な麻縄じゃなくて、ナイロンの撚りがないヤツ。何色がいい?」

 「黒か赤でしょ? 普通。女の人の白い肌に栄えるのは?」

 「じゃあ赤にしよう。草間彌生の信者の僕としては絶対に赤だ!」

 「あはははは。いいわね? 赤。綺麗に縛ってね? 「亀甲結び」ってやつで」

 「そんなのどこで覚えたの? 「亀甲結び」だなんて?」

 「私ね、意外と中学からヤンチャしていたのよ。

 お嬢様の進学校、あの名門御三家の生徒だったのに、お酒にタバコ、一通りの不良はやったわ」

 「初体験もその時に?」

 「教えない。ひ・み・つ。うふっ」 


 私たちは笑った。



 「それからレイに話したよ、鹿田君のライブの件」

 「そう? それで?」

 「一カ月後、常連さんだけを呼んで、あの店でやることになった」

 「じゃあお花を持って行かないとね?」

 「うん、楽しみだね? 彼のサックス」

 「ねえ、もう一回して。今度はいつものノーマルなやつで」

 「いいけど」


 私たちの長く熱い夜は続いた。





 アドニスのライブで店は鮨詰め状態だった。

 みんな彼の演奏に酔いしれ、女性客からは黄色い歓声が飛んでいた。


 ギリシャ神話に登場する伝説の美男子、アドニス。

 フェニキアの王、キュニュラースの王妃、ミュラーは絶世の美女だった。

 フェニキア家は代々、愛と美の女神、アフロディーテを信仰していたがある時、誰かが「王女ミュラーはアフロディーテよりも美しい」と口走ってしまったことに端を発する。

 それに激怒したアフロディーテは、ミュラーが実の父親に恋愛感情を抱かせ、近親相姦へと誘導してしまう。


 暗がりの中で行為に及んだ王妃、ミュラーの父親はその相手が自分の娘だと知ると、激怒してミュラーを殺害しようとする。

 ミュラーはアラビアに逃れて命拾いをするが、そんなミュラーを神々は哀れに思い、彼女の姿を「ミルラ」という木に変える。

 そこにある時、猪がミュラーの木に激突し、その裂け目から産まれたのがアドニスだった。

 まだ赤ん坊であったアドニスに、アフロディーテは酷く惹かれ、アドニスを箱に入れ、冥府の女王、ペルセポネに預けるが、箱を絶対に開けてはいけないと、彼女はペルセポネに忠告する。

 だがペルセポネは言いつけを破り、箱を開けてしまう。


 やがて美少年に成長したアドニスを、アフロディーテとペルセポネが奪い合うようになる。

 そして裁判になり、全能の神、ゼウスが裁決を下した。

 「一年の三分の一をアフロディーテと過ごし、同じ期間の三分の一をペルセポネと過ごす。そして残りの三分の一はアドニスの自由にして良い」とするものだったが、アドニスは自分のその三分の一までも、アフロディーテと一緒に過ごすことを選択してしまう。

 それに怒り狂ったペルセポネは愛人のアレスをそそのかし、猪に化けさせてアドニスを殺させてしまう。

 悲歎にくれるアフロディーテ。

 そしてアドニスの流した血から咲いた花が「アネモネ」になったという神話だった。



 彼のアンコール曲はGeorge Michaelの『Careless Whisper』だった。

 その曲に合わせて最後、みんながチークダンスを踊った。


 そして私と錬三郎もチークを踊った。



第6話 固く結ばれた愛

 アドニスのリサイタルを聴いた帰り道、私は錬三郎に訊ねた。


 「どうだった? 彼のサックス?」

 「良かったよ、とても。ただ・・・」

 「ただ、どうしたの?」

 「悲しいサックスだった。彼の酷い孤独を感じたよ」


 私もそれが引っ掛かっていた。

 

 (なんて悲しそうな演奏なの?)


 「でもね、孤独は人を成長させる。

 特に芸術家は」

 

 錬三郎の言う通りだと思った。

 光が強く当たれば当たるほど、出来る影は深く濃くなる。

 私は錬三郎と繋いだ手を強く握った。





 オペラの合同リハーサルは深夜にまで及んだ。

 私は疲れ切って半蔵門線に乗った。

 表参道駅からスーツを着た中年の紳士が私の隣に座わった。


 「今日のリハは大変でしたね?」

 

 (『椿姫』の関係者の人? スタッフさんかしら?)


 「椿姫のスタッフの方ですか?」


 だが彼は、私のその問いには答えなかった。


 「素晴らしいコンサートになるといいですね?」

 「はい。いい公演にしたいですね?」

 「大丈夫。琴子が歌うんだからコンサートは大成功になるよ」

 

 (どこかで聴いた、懐かしい声・・・)

 

 そして彼は驚くべきことを口にした。


 「錬三郎はとてもいい奴だ。それから俺のシーツはもう捨てろ。子供のぬいぐるみじゃあるまいし、いつまでも持っているんじゃない。錬三郎は俺の親友だ。しあわせになれよ、琴子」


 「銀!」 


 私はその男の顔を見ようとしたが、身体が動かない。

 電車が渋谷駅のホームに入った時、その男は人混みに紛れて電車を降りて行った。

 私はすぐに電車から飛び出し、泣きながら彼の後を必死に追い駆けた。


 「銀! 待って銀!」


 その男は振り返ることもなく、雑踏に消えてしまった。


 「銀ーーーーっ!」



 私は銀河の亡霊を見失ってしまった。





 家に帰り、私は錬三郎にその話をした。

 錬三郎は私を抱き締め、何度も頷いて泣いてくれた。


 「そうだったんだ? 銀がそんなことを。なんだか安心したよ」

 「銀ともっと話しがしたかった」

 「うんうん。僕も銀と話したかったよ」

 「ねえ錬三郎。パリのメゾンを賃貸に出そうと思うんだけど」

 「いいのかい? 琴子はそれで?」 

 「だってもうパリには住まないし、銀も許してくれる筈だから」

 「わかった。そう手配しておくよ。

 今年のクリスマス休暇にはふたりでフランスに行こう。銀河のお墓参りをするために」

 「うん」


 シーツのことは錬三郎には言わなかった。





 悟さんの購入していたメゾンを妹さんが賃貸に出す時、パリの不動産屋さんに頼んで、詩音さんと銀河のフォトスタンドだけは日本に送ってもらい、今は錬三郎のリビングに飾ってある。

 私は家事と午前中のレッスンを終えると、ベッドに銀と私の匂いの染みついたシーツを広げ、私は全裸になってそこに横たわると、銀河の精子が固まってカピカピになった部分を、手のひらでそっとなぞった。


 「銀・・・、ごめんね」


 私は錬三郎とのしあわせな毎日に、いつの間にか銀河のことをすっかり忘れてしまっていた。

 銀河は死ぬ前に私にこう言った。

 

 「男と女の恋愛は、その付き合った時間と同じ時間が経てば、自然と忘れることが出来るものだよ」


 銀河の言う通りだと思った。

 私は自分の乳首に触れ、濡れそぼった蜜口に指を入れた。


 「銀河。あんっ、あ、あ、はあ、はあ・・・」


 私は何度もエクスタシーを感じ、私の愛液で濡れたそのシーツをハサミで切り裂くと、ゴミ袋の中にそれを捨てた。

 私はやっと、銀河を思い出に変えることが出来たのだった。


 「さよなら銀河。あなたは私の思い出の中でずっと生き続けるわ」


 私は切り裂いたシーツを入れたゴミ袋を抱いて泣いた。





 小型船舶の試験も終わり、私とアドニスは無事、1級小型船舶操縦士の試験に合格することが出来た。



 「合格して良かったね? これで私たちも海の男と女ね?」

 「今度、食事でもどうですか? お祝いに」

 「ランチならいいわよ」

 「ディナーはダメですか?」

 「ふたりだけで?」

 「ええ、お話したいことがあるんです。ダメですか?」


 それはダメだと思った。錬三郎を裏切ることになるからだ。

 夕食を共にするということは、私の中ではそれは「浮気」だった。


 「ごめんなさいね、夜はダメ。彼のご飯を作らなきゃいけないから」

 「そうですか・・・」


 アドニスは露骨にがっかりした表情になった。


 「じゃあランチでいいです」

 「うん。お店は私が選んでもいいかしら?」

 「お願いします」

 

 私は青山のビストロを指定した。





 家に帰って船舶免許の合格証を錬三郎に見せた。


 「これで私も立派なキャプテンよ」

 「琴子キャプテンに敬礼! あはははは」


 錬三郎はお道化て私に敬礼をして見せた。


 「ありがとう錬三郎。今度の週末、お船を運転させて」

 「いいよ。練習しに行こう」


 そして私は錬三郎に、アドニスからランチに誘われたことを話した。彼に黙ってアドニスと食事に行くのは嫌だったからだ。


 「そう? 美味しい物をご馳走してもらいなよ。どうせならランチじゃなくて、ディナーをご馳走になれば良かったのに」


 彼には嫉妬はなかった。

 それだけ錬三郎は私のことを信頼してくれていた。


 「ディナーでもいいの?」

 「どうして?」

 「だってふたりだけでお食事をするのよ? それって浮気じゃない」

 「僕が女の人と食事をしたら浮気なのかい?」

 「絶対にイヤ。それって浮気だよ」

 「琴子は鹿田君のことが好きなの?」

 「まさか」


 その時の錬三郎の目は笑ってはいなかった。


 「僕は君を信じているからね? あはははは」

 「ヘンな錬三郎」

 

 錬三郎はそんな男だった。

 私はアドニスとふたりだけのランチを承諾してしまったことを後悔した。

 その先のことを何も考えずに。




 アドニスは連絡もせず、少し遅れてお店にやって来た。私は時間を守らない人は信用しないことにしている。

 私の彼に対する評価は急激に落ちた。

 銀河も錬三郎も、時間には正確な男だった。

 時間を守らない人間は、約束を平気で破る。

 そして彼は約束の時間に10分も遅れて来ても謝罪もなかった。



 「いい店ですね? お勧めは何ですか?」

 「ロースト・ビーフとスズキのコンフィがお勧めよ。私はスズキにするけど鹿田君は?」

 「僕はロースト・ビーフで」



 フォークとナイフを動かしながら、私は彼に訊ねた。


 「話しって何?」

 「琴子さんは錬三郎さんと結婚するんですか?」


 (そういうことか?)


 「するつもりだけど、どうしてそんなことを訊くの?」


 私はその答えを知っていながら、敢えてアドニスの口からそれを言わせたかった。

 待ち合わせに遅れて来た罰として。


 「僕と結婚してくれませんか?」

 「どうしたの急に? もうエイプリル・フールはとっくに過ぎたわよ」


 私は彼の顔を見ずに食事を続けた。

 すると彼は続けた。


 「もう婚約はしているんですか?」

 「まだだけど」

 

 (レイとは上手くいっていないのかしら? だってあなたはゲイなんでしょ? それともあなたもバイ・セクシャルなの?)


 「じゃあ僕も立候補させて下さい。琴子さんの婚約者に」


 凄い自信だと思った。

 おそらく彼は自分から告白したことがないのかもしれない。


 「オバサンをからかうのは止めて頂戴」

 「ずっと琴子さんのことが好きでした。プリマドンナの琴子さんのことが。

 レイから東京湾クルーズに誘われた時、凄くうれしかった。

 憧れの海音寺琴子さんに会えるなんて、夢を見ているようでした。

 そしてあなたと一緒に1級小型船舶の講習を受講していると、その想いは更に強くなりました」

 「気持ちはうれしいけど、それは無理」


 私はコンフィにフィッシュ・ナイフを入れた。


 「どうしてですか?」

 「私が錬三郎を愛しているからよ」

 「じゃあ僕も愛して下さい」

 「それは出来ないわ。私は結婚を前提とした、独りの男性しか愛せないの。私はそんなに器用な女じゃないから」

 「・・・ダメですか?」

 「ごめんなさい」


 アドニスは深い溜息を吐きながら、ローストビーフを口に入れた。

 

 「琴子さんのことは、それでも好きです」

 「・・・」


 



 ランチからの帰り路、アドニスにいきなりキスをされそうになり、私は顔を背けた。


 「やめなさい。本気で怒るわよ」

 「ごめんなさい」

 

 アドニスはキスを断念した。




 私はアドニスの携帯登録を着信拒否に設定した。

 そしてそれ以来、アドニスと会う事は無かった。



 

 アドニスはレイと別れ、マンハッタンに行ってしまったらしい。

 レイはかなり落ち込んでいた。



 「私の恋も終わったわ。私は音楽に負けたのよ」


 (レイ、音楽ではなく、あなたは私に負けたの。女の私に)




 私は錬三郎にそのことを正直に打ち明けた。


 「私、鹿田君にキスされそうになったのよ」

 「彼から言われたよ、君にキスをしようとしたら顔を背けられたとね? 「錬三郎さんには敵いませんでした」と。   

 いい奴だよ彼は。才能もあるしね?

 ありがとう琴子。あんなイケメン、そうはいないのに僕を選んでくれて」


 その夜、私は何度も錬三郎を求めた。それは愛のある行為だった。





 新国立劇場は連日大盛況だった。

 そして千秋楽公演も無事に終えることが出来た。

 マスコミやメディアは私を絶賛してくれた。



     『令和のマリア・カラス 降臨!』


    『椿姫』のヴィオレッタを演じた海音寺琴子の歌は、

    新国立劇場に静寂と歓喜の感動の嵐を巻き起こした。




 みんなが私を祝福してくれた。聡子も大きな花束を抱いて楽屋に来てくれた。

 

 「琴子、すばらしいヴィオレッタだったわ。私、涙が止まらなかった! ついにあなたはマリア・カラスになったのね! いえ、マリアを越えたわ! 完全に!」

 「褒め過ぎよ聡子。でもありがとう。すごくうれしいわ」

 「私ももう一度、ピアノに向き合うことにした。琴子に負けられないもん。

 恋では負けても、音楽では負ないわよ」

 「受けて立つわよ。あはははは」

 「あはははは」




 打ち上げには錬三郎も呼ばれて、みんなから揉みくちゃにされていた。


 「琴子さんの旦那さん! じゃんじゃん飲んで飲んで!」

 「あはははは、ありがとうございます! みなさんのおかげです!」

 「ご主人、早くこっちこっち! 奥さんを男たちから守ってあげないと!」

 「はいはい。あはははは」



 私たちはまだ正式な夫婦ではなかったが、リハにも参加していた錬三郎は、みんなからも一目置かれた存在になっており、私たちは劇団公認の仲になっていた。


 「疲れただろう? 今夜はホテルを予約しておいたからそこでぐっすり眠るといい」

 「錬三郎、今日はたくさんしてね?」

 「だいぶ飲んじゃったから今夜は無理だよー」

 「えー、じゃあ私が出来るようにお口でしてあげる」

 「あはははは」




 そこは皇居の前にある老舗ホテルだった。

 私たちは笑いながらキスを交わした。もうすっかり酔いは醒めていた。


 「今日の琴子。すごく輝いていたよ。君はマリア・カラスを越えたね?」

 「錬三郎の厳しいレッスンのおかげだよ。ありがとう」


 すると、そこへルームサービスがロウソクを灯したケーキを運んでやって来た。


 「ケーキを用意してくれていたの?」

 「さあ、ロウソクを消して」


 私はロウソクを消し、ケーキの苺の部分をスプーンで掬い、口に含んで錬三郎に口移しをした。


 錬三郎は携帯を操作し、Ray Charlesの『 I can't stop Loving You』を流し、突然私の前に跪き、ポケットから小さな箱を取り出した。


 「ディーバ。僕と結婚して下さい」

 「・・・もちろん、・・・よろこんで・・・」


 私は号泣した。

 彼は私の左手を取り、薬指にダイヤの指輪をはめてくれた。


 「ぴったりだよ、錬三郎」

 「そりゃそうだよ、君が口をあけて涎を垂らし、鼾を掻いて寝ている時に、こっそりサイズを計って作った指輪だからね? あはははは」

 「綺麗なダイヤモンド・・・」

 「ダイヤモンドは傷付かない。これからは僕とこのダイヤが琴子を守るからね?」

 「ありが・・・とう、錬三郎」



 その夜、私はあの計画を実行した。ピルの服用はすでに二週間前から止めていた。

 排卵ともうまく重なった。

 錬三郎の精子が私の中に送り込まれて来た。


 (あっ、今、受精した)


 その時、私には錬三郎の子供を受精した実感があった。

 かわいらしい女の子だと確信した。



第7話 好事魔多し

 思った通り、生理がいつもより遅れていた。

 ドラッグストアで妊娠検査キットを購入し、妊娠したことを確認した私は産婦人科を受診した。

 間違いなく妊娠していた。





 「ただいまー!」


 私は仕事から帰って来た錬三郎に、母子手帳を見せた。

 

 「出来たみたい。赤ちゃん」

 

 錬三郎は歓喜し、私を強く抱き締めた。


 「錬三郎、苦しいよ」

 「ごめんごめん。あの日、出来たと思ったんだ。良かったあ! ありがとう琴子! 今夜はお祝いしよう! フランスには3人での新婚旅行になったね?」

 「その頃はまだお腹の中よ。予定日は来年の5月30日だって。

 ねえ、男の子がいい? それとも女の子?」

 「もちろんどっちでもいいよ。でももう決めているんだ。女の子の名前だけは」

 「どんな名前?」

 「歌子。椎名歌子!」

 「歌子かあ。琴子の子供が「歌子」だなんて、素敵な名前ね? ありがとう錬三郎」




 錬三郎はシャンパンを開け、私はコーラで乾杯した。

 その日の食器洗いの当番は私だったが、錬三郎が代わってくれた。


 「大事にするんだよ。安定期までは食器洗いや洗濯は僕がするから琴子は休んでいていいからね?」

 「ありがとう。あ・な・た」


 錬三郎はまだぺたんこの私のお腹を摩って、満足気に微笑んでいた。

 私は女に生まれたことを母に感謝した。


 (ママ、私を女に産んでくれてありがとう)





 翌日、錬三郎と出産の準備に必要な物を買いに、銀座に出掛けた。

 産着に涎掛け、お帽子に顔をひっかかないための手袋。爪切りに靴に柄のないスプーンと食器。ゴムの歯ブラシなど。みんな小っさな物ばかりだった。


 (なんだかシルバニア・ファミリーみたい。ちっちゃくてかわいい物ばかり)


 「予定日は来年の春なのに、かわいくてつい買っちゃったね?」

 「琴子のマタニティ・グッズも買わないと。まずは靴だね? 転んだり滑らない物にしないと。

 もうヒールは禁止だからね?」

 「はいはい。わかってますよ、錬三郎パパ」

 「もう一回言ってくれないか? それ」

 「錬三郎、パ・パ。うふっ」

 「琴子ママ」

 「ちょっと照れちゃうけど、うれしい」


 そして錬三郎は言った。


 「これから役所に行って婚姻届を貰って来よう。立会人はレイに頼むから」

 

 うれしかった。式は10月に挙げる予定にしていたからだ。


 「そうだ! 結婚指輪も買わないと! 一緒に見に行こうよ!」

 「うれし過ぎて死んじゃいそう!」

 「死ぬなんて縁起でもない! お腹の子供の為にもしっかりしてくれよ、琴子#お母さん__・__#」

 「えへっ。ごめんなさい」

 


 元々やさしい錬三郎だったが、妊娠が分かると笑ってしまうほど、彼は私とお腹の子を気遣ってくれた。

 軽いバッグすら錬三郎が代わりに持ってくれた。

 妊娠を告げた時、男の本性が出るものだ。

 錬三郎のように、子供が出来たことを凄く喜ぶ男性と、今までやさしかった男性が急に冷たくなったり、挙句の果ては「おろしてくれ」と言う者までいる。

 私の音楽仲間のご主人は、後者のタイプだったらしい。

 彼女は離婚し、今はひとりで娘さんを育てている。



 「私はね? 仕事をまだ続けていたかったから、子供はもう少し先でいいかなあって思っていたの。

 それなのにアイツ、「今日はヤバイ日だから外に出してね」って言っていたのに中出しされちゃってさあ。そりゃあ子供は可愛いわよ、いずれは欲しいと思っていたし。

 でもタイミングってもんがあるでしょう?

 子供が出来たことを言うとね、「そう」たったそれだけ。酷いと思わない? 

 勝手に中に出しておいてよ。もう顔を見るのもイヤ。

 私が悪阻で苦しんでいる時も、平気で私の目の前で焼肉を食べてビールを飲んでいるのよ。無神経にもほどがあるでしょ?

 切迫流産しそうになって入院した時もそう。お見舞いにも来てくれなかった。信じられる? 出産の時もアイツの両親に連れられて、仕方なく来たって感じでさあ。

 そして私がお産で実家に帰っている時、会社の女と浮気してたのよ。あー、思い出しただけでもムカつくー!」


 でも私は思った。それは自業自得だと。

 人生は自分で選択するものだからだ。





 家にベビーベッドやベビーカーが届いた。

 錬三郎が買った物だった。


 「これ、かわいいだろう? つい買っちゃったんだ」

 「うん、かわいい! あとドーナツ枕とお布団も買わなきゃね?」

 「そうだ忘れてた! 琴子、今度の休みに買いに行こう!」

 「うん」




 錬三郎は事務所からの帰りに、幼児玩具や絵本を買って来た。


 「これは舐めても害のない物なんだよ。早くこれで一緒に遊びたいなあ。

 絵本もたくさん読んであげたいし」

 「3才になったらピアノを教えてあげてね?」

 「ピアノなら葵に頼もう。アイツ、俺よりピアノ上手いから」

 「そうなんだ? 葵さんもマルチなのね? 東大卒で美人でピアニストだなんて。ウルトラ・ウーマンね?」

 「葵がレズビアンで良かったよ」

 「でももし生まれて来る子が女の子だったら?」

 「ちょっと心配だなあ。娘が葵に盗られたら大変だ! その時は別なピアノ講師にするよ」

 「おかしな錬三郎パパだね?」


 私は自分のお腹を摩って胎児に話し掛けた。


 「僕も触っていいかなあ?」

 「もちろん」

 「パパでちゅよー」

 「錬三郎の方が赤ちゃんみたい」


 私と錬三郎は笑った。


 



 2か月が過ぎた頃、女の子が授かっていることが分かった。

 私たちは歓喜した。


 「これでこの子の名前は決まったね?」

 「うん。あなたのお名前は歌子よ。椎名歌子」


 私たち夫婦はお腹の「歌子」に話し掛けた。




 悪阻も酷くなり、食物アレルギーの多い私はかなり体力が落ちていった。


 「吐いてもいいから何か栄養のある物を食べないと」

 「わかっているんだけど、食べたくないの」

 「兎に角、何でもいいからお腹に入れないと。何か食べられる物はないの? 買って来るから」

 「ありがとう。そうだなあー、うーん、スイカ。スイカなら食べたいかも」


 今は秋だ。スイカの季節はもうとっくに終わっている。



 「よし分かった! スイカを買って来る!」


 錬三郎はジャケットを羽織り、直ぐに家を飛び出して行った。




 3時間後、彼は息を弾ませて大きなスイカを2つ、両手にぶら下げて帰って来た。


 「やっと見つけたよ、スイカ。今、切ってあげるからね?」

 「パパ、ありがとう」


 私は泣いた。錬三郎と結婚して本当に良かったと思った。

 




 家ではいつもモーツアルトやハイドン、ヨハン・シュトラウスを流していた。


 「胎教から始めないとね?」


 錬三郎は真剣だった。




 マタニティ・ドレスになって来た頃、私は夜中、突然の激痛に襲われた。


 「どうした琴子!」

 「お腹が・・・、お腹が痛い・・・」


 

 救急車に乗せられ、錬三郎が私の手を握って名前を連呼しているのは分かったが、私は気を失い、それからの記憶がない。


 気が付いた時には病院のER(緊急救命室)に寝かされていた。


 「椎名さん! 椎名琴子さん!」

 

 手術着を着たドクターが私の名を呼んでいた。


 「赤ちゃんだけは・・・、助けて、あげて下さい・・・」

 「もう大丈夫ですよ。後は検査と大事をとってこのまま入院してもらいますからね?」

 「よろしく・・・、お願いします。ありがと、う、先生・・・」



 私はICUに移され、そして一般病棟の個室へ入院することになった。

 錬三郎がずっと私に付き添ってくれていた。


 「良かったね? 手術をしなくても済んで。

 先生も驚いていたよ、一時は危篤状態だったそうで、緊急オペの準備をしていた時に、奇跡的に君が回復したそうだから。歌子も大丈夫で本当に良かったよ」

 「良かったー。ママと銀河、悟さんが私と歌子を守ってくれたのかしらね?」

 「そうかもしれないね? 琴子、僕はこれからどうしても外せない裁判があるから、もう行かなければならないけど、その間、葵に頼んでおいたから、何か必要な物は彼女に頼めばいいからね?」

 「ごめんなさいね、忙しい時に」

 「気にしなくていいよ、僕たちは家族じゃないか?」


 (家族。なんて素敵な響き・・・)


 「行ってらっしゃーい。パパ」

 「安静にしているんだよ、琴子ママ」

 「気を付けてね」

 「ああ、じゃあ行ってくるよ」


 余程ギリギリまで傍にいてくれたのか、彼は病室を走って飛び出して行った。




 錬三郎と入れ替わるように葵さんが来てくれた。


 「大変だったわね? 大丈夫? 痛くない?」

 「平気です。すみません、忙しいのに」

 「心配しないで、私の仕事はパソコンと携帯があればどこでも出来るから。

 錬三郎は夕方には戻れるそうよ」

 「ありがとうございます」

 

 すると葵さんは私の額に手を置いた。


 「弱っている時の琴子もキレイ。食べちゃいたいくらい」

 「食べないで下さいよ」


 私は葵さんの手を払い除けることはしなかった。


 (冷たくて心地良いやさしい手)


 「昔から「好事魔多し」っていうでしょう? しあわせなことが続いた時ほど気を付けないとね?

 しあわせと災難は常に同じ分量で訪れるものだから。

 でも良かった。母子共に何事も無くて」

 「本当にそう思いました」

 「何か欲しい物はない? 雑誌と下着とかの着替えは持って来たけど他にはない?」

 「大丈夫です。とても助かります。彼に下着売場に行かせるのは可哀そうですからね」

 「あはははは、錬三郎なら絶対に通報されるわね?」


 私と葵さんの笑い声が病室に響いた。


 「食事制限はないんでしょう?」

 「でも今は悪阻が酷くて」

 「そうなんだ? 私は経験がないから分からないけど、でも子供は欲しいのよ。錬三郎の精子なんて最高なんだろうけど。

 ねえ琴子、一晩彼を貸してくれない?」

 「それはいくら葵さんでもダメですよ!」

 「じゃあさ、アンタがもう一人産んで私に頂戴よ。私が育ててあげるから」

 「ワンちゃんや猫ちゃんじゃないんですよ! 人間の赤ちゃんなんですから!」

 「本気の話よ。それなら代わりに私と付き合ってよ」

 「私は男の人が好きなんです!」

 「男なんて馬鹿ばっかりよ。自分勝手で性欲の塊で、デリカシーの欠片もない」

 「錬三郎は違います!」

 「あははは。確かに彼は別ね? 仕方ない、ハーバード卒のアメリカ上院議員のアイツの精子を凍結させるか?」


 葵さんらしいと思った。天才の考えていることは私には理解出来ない。



第8話 錬三郎の両親



    歌はゴミよ 修練とテクニック 勇気でしかないわ


                    マリア・カラス



 大事を取って1週間入院し、今日、退院になった。

 今回の入院で食べられる物が更に減ってしまった。

 肉や魚も食べられなくなり、人参とジャガイモ、サツマイモや玉葱とキャベツ、キノコしか受け付けない体になってしまった。

 ベジタリアンの食事。

 飲物も珈琲とミルク、コーラだけになり、既製品のお惣菜も同じ工場の生産ラインで作られた物は食べられないので、外食が殆ど出来なくなり、お弁当を持っての外出となってしまっていた。

 足りない栄養素はサプリメントで補っていた。

 そんな私を錬三郎はやさしく気遣ってくれた。



 「今日はね、さいたまの農家さんから朝採れ野菜を分けて貰って来たんだ。今、温かいポトフを作ってあげるからね?」

 「朝早くから私のためにさいたままで? ごめんなさいね、疲れているのに」

 「朝のドライブは爽快だったよ。本当は琴子も一緒に連れて行ってあげたいけど、身重の体でのロングドライブは心配だからね?」


 錬三郎と結婚して本当に良かったと思う。彼のやさしさが身に沁みた。




 悪阻は大分収まって来た。

 10月11日の結婚式に向けての準備にも多忙を極めていた。


 式場は帝国ホテルで、錬三郎の招待客が300人、私の方は200人弱の総勢500人を予定していた。

 私は二度目ということもあり、招待する方の人選にはかなり配慮し、二度目の出席をご快諾していただいた方にはお礼の手紙に1万円の商品券を添えて郵送した。


 錬三郎の招待客は海外からの賓客も多く、錬三郎と椎名家の人脈の華麗さが窺えた。

 現職の総理をはじめ、主要大臣、実業家、官僚も多くリストアップされていた。


 「まるでどこかの国の王子様と王女の結婚式みたいね?」

 「これでもかなり絞ったんだけどね? 式場には500人しか入れないから。

 結婚式は花嫁のためにあるものだから、美しい琴子をもっと多くの人にお披露目したいんだけどね?」

 「結婚式で何を歌おうかしら? 迷っちゃうなあ」

 「日本の歌と洋楽がいいんじゃないかな?」

 「たとえばどんな曲? やめてよね、泣きながら『My Way』なんて歌うのは」

 「あははは。それもいいかもしれないね? 考えておくよ」

 「私は竹内まりやとかユーミンかなあ? あとは『Standing Alone』とか?」

 「それもいいね? あのさあ、今度の休みに当主と母に会ってくれないかな? 琴子にまだ僕の両親を紹介していなかったから」

 「当主ってお父様のこと?」

 「そうだよ」

 {当主だなんて、昔の財閥みたい」



 実は私はそれが気掛かりだった。まだ彼のご両親にはお会いしていないことが。


 (嫌われたらどうしよう?)


 籍を勝手に入れてしまい、すでに一緒に住んでお腹には彼の子供を宿している。


 (反対されているのかしら?)


 彼の実家のことは何も聞かされてはいなかったが、結婚式の招待客の名簿を見るだけでも、並外れた『華麗なる一族』であることは間違いない。


 (でもどうしてこんなギリギリになってなんだろう?)





 日曜日、マンションのエントランスホールへ降りて行くと制帽を被り、白手袋をした運転手さんがクルマ寄せに黒のロールスロイスを停めて私たちを待っていた。

 

 「久しぶりだね? 中川さん」

 「若様もお元気そうで何よりでございます。こちらが奥方様でいらっしゃいますね? 初めまして、椎名家で運転手を勤めております、中川でございます」

 「中川さんは僕が生まれる前からウチで運転手さんをしてくれていてね? A級ライセンスを持った、元大手自動車会社のテストドライバーをしていた人なんだ」

 「ではどうぞご乗車下さい」


 中川さんは後部座席のドアをうやうやしく開け、私を乗車させると、素早く反対側の錬三郎のドアを開けてくれた。

 妊婦の私が室内で移動しないで済むようにとの配慮だった。



 運転は完璧だった。まるで応接間がそのまま移動しているかのようだった。

 おそらく、ダッシュボードの上に水を入れたグラスを置いても水は一滴も零れはしないだろう。





 横浜の山手にやって来ると、まるで外国映画に出て来るような大きな城門が開き、私たちを乗せたクルマは森の中を進んで行った。

 数百メートル先に、フランスのワイナリーにあるシャトーのようなお屋敷が見えて来た。



 「当主様は間もなくご帰還されると思いますが、御屋敷でお待ちになりますか?」


 すると錬三郎は後部座席の窓を開けた。


 「もうお帰りのようだ。ヘリポートの方へお願いします」

 「かしこまりました」

 (ヘリコプターで移動しているの?)


 


 ヘリポートで待っていると、ヘリコプターが着陸して来た。


 ヒュンヒュンヒュンヒュン


 プロペラの回転がだんだん減速し、中からフライトジャケットを着た、プラチナ・シルバーの精悍な紳士がヘリから降りて来た。


 (この人が錬三郎のパパ?)


 「当主、ご無沙汰しております」

 「おお、錬三郎。この人がお前の嫁さんかね?」

 「はい、そうです」

 「凄い美人じゃないか! 良かったな? 錬三郎。良い人と巡り会えて。嫁の器量は夫の器量でもある」

 「畏れ入ります」

 「はじめましてご当主様。錬三郎様の妻、琴子でございます」

 「錬三郎の父、椎名玄三郎です。さあ中へどうぞ」


 

 玄関には執事が立っており、「当主様。お帰りなさいませ」と丁寧に頭を下げ、ドアを開けてくれた。


 そこはまるで国立博物館のような大理石の広い玄関ホールで、使用人たちが一列に並び、全員で当主様と私たちを出迎えてくれた。



 「お帰りなさいませ!」


 と一斉に挨拶をする使用人の人たち。


 (まるで映画みたい)


 私はオペラ座の舞台に立っているようだった。

 そして一番最後に錬三郎のお母さんが出て来た。

 物凄いオーラを放つ、宝塚のトップ女優のような美しい人だった。

 私はあまりの気品に圧倒されてしまった。


 「あなた、錬三郎、お帰りなさい。

 あなたが琴子さんね? 初めまして、椎名麗子です。

 琴子さんのことは錬三郎からよく聞いています。

 今、何カ月なの?」


 義母は私の顔とお腹を見た。


 「4カ月になります。琴子と申します。はじめましてお義母様」

 「いらっしゃい。プリマドンナ。先日の新国立劇場での『椿姫』、とても素晴らしかったわ。

 錬三郎がチケットを送ってくれて、観に行かせていただいたのよ」

 「ありがとうございます」

 「さあ、お食事の用意が出来ているわ。どうぞこちらに」



 そのメイン・ダイニングは映画、『アンタッチャブル』でアル・カポネを演じたロバート・デニーロの残虐なあのシーンを彷彿とさせるようなあつらえだった。


 食器やグラス、カトラリーもかなり高価なヴィンテージ品だった。

 錬三郎が予め私の食事を伝えておいてくれたようで、私の料理はすべて野菜中心で調理されていた。



 「いかが? ウチのシェフのお料理はお口に合うかしら?」

 「とても美味しゅうございます」

 「そう、良かった。食べられない物があれば残してね?」

 「お気遣い、ありがとうございます」

 「流石は錬三郎。いいお嫁さんを見つけたわね?」

 「ありがとう、お母さん」

 「椎名家の嫁に相応しい人だわ。ねえ、あなた?」

 「琴子さん。これからは遠慮なく我が家に遊びに来て下さい。この家はあなたの実家なんですから」

 「ありがとうございます、ご当主様」

 「私もあなたも、遂にジイジとバアバね? どっちなの? 男の子? それとも女の子?」

 「女の子です」

 「あら楽しみ。いっぱい綺麗な可愛いお洋服を着せてあげたいわ」

 「ヘリの操縦も教えてあげなきゃならんな? 空には交通渋滞もないからな?」

 「もう、あなたったらまだ産まれないうちから。オホホホホ」

 「お前だって。わはははは」

 

 涙が零れて来た。

 私もお腹の歌子も、錬三郎のご両親に愛されているのが嬉しかった。


 「どうかしたの琴ちゃん? 私たち、何か気に障るようなことを言ったかしら?」

 「いいえ、ご当主様とお義母様に受け入れていただいたのがうれしくて」

 「私たちも錬三郎のお嫁さんが琴ちゃんで本当に良かったわ。これからもずっと仲良くして行きましょうね?

 錬三郎はいつも事後報告なのよ。大学もそう、藝大に入ってビオラ奏者になるのかと思ったら、急に「東大に行くことにしました」でしょう? 「弁護士になる」じゃなくて「なった」ですもの。

 今回も「結婚する」じゃなくて、「結婚しました」なのよ。

 おまけに「赤ちゃんも出来ました」なんて、おめでたいことだわ。オホホホホ」

 「錬三郎のそういうところは爺さんに似たんだろうな? あはははは」

 「錬三郎さんはご実家のお話をしてくれなかったので、ご挨拶が遅れてしまい、申し訳ありませんでした」

 「しょうがないよ。当主も母もお忙しい人だから」

 「私たちは親バカでね? 息子を信じているんですよ。

 だから息子の決めたことは尊重する。琴子さんは私たちの大切な家族だ。十分甘えていいからね? 君はもう私たちの娘なんだから」

 「そうよ、あなたは私たちの娘。いっぱい甘えて頂戴ね?

 それから私のことは「お義母様」じゃなくて。「麗子さん」でいいわよ。その方がお友だちみたいでいいでしょう? お互いに気を遣わないようにしましょうね? 疲れちゃうから。オホホホホ」

 「そう言っていただけるとうれしいです。麗子さん」

 「私もよ、琴ちゃん。ねえ、ちょっとお腹を触ってもいいかしら?」

 「もちろんです」


 義母は食事を中断し、私の席に回わるとお腹を撫でてくれた。


 「私が麗子バアバよ、よろしくね? 歌子ちゃん?」


 (よかったね? 歌子。麗子さんはあなたが生まれて来るのを楽しみにしてくれているわ)




 今夜は錬三郎の実家に泊まることにした。

 

 「ごめんね琴子。疲れただろう? 大丈夫かい?」

 「素敵なご両親で安心したわ」

 「そう言ってもらえると、僕もうれしいよ。ウチは皇室とも縁続きでね? 明治になってからは華族になったんだ。銀行をはじめ、様々な企業を立ち上げて財閥の仲間入りになった。

 そして一人息子の僕は、将来この家を継がなければならない。

 それには君の助けが必要だ。よろしく頼むね? 琴子」


 錬三郎は私のお腹を撫でた。


 「今度、男の子が生まれたら、名前に「三郎」を付けなければならない。椎名家の決まりなんだ。今の当主は玄三郎、そして僕は錬三郎。次は何がいいかなあ?」

 「いっぱい産みたいなあ? 錬三郎の赤ちゃん」

 「ありがとう、琴子」


 私たちは抱き合って眠った。




第9話 『くるみ割り人形』

 結婚式当日は爽やかな秋晴れになった。

 ママと悟さん、銀河に祝福されているかのように。


 ウエディングドレスを着て花嫁の控室にいると、義母の麗子さんが錬三郎と一緒にやって来た。



 「眩しいくらいだよ、琴子」

 「どこかの国のプリンセスみたいね? とっても綺麗よ、琴ちゃん」

 「ありがとうございます、麗子さん」

 「お腹、大丈夫? 苦しくない?」

 「大丈夫です。スタイリストさんには配慮していただきましたから」


 そこに鎌倉の祖母が車椅子を押されて控室に入って来た。


 「これは島津の大奥様。お久しぶりでございます」

 「こんにちは、麗子さん。 これで麗子さんと島津家はご親戚になったわけね? おめでたいことだわ」

 「琴子さんが鎌倉の大奥様のお孫さんだったなんて、これも不思議なご縁でしたね?」

 「琴子は娘の久子の大切な置き土産なの。琴ちゃん、とっても素敵よ、そのドレス」

 

 鎌倉の本家は椎名家とは仕事上の繋がりもあり、古くは明治維新を共に成し遂げた名家でもあった。

 祖父が存命の頃にはお付き合いがあったらしいが、それは後に麗子さんから教えられた。



 「麗子さん、琴子をよろしくお願いします」

 「こちらこそです、大奥様。今度、孫が産まれましたら、琴子ちゃんと一緒に鎌倉へ遊びに行かせていただきますね?」

 「いつでもいらして下さい。楽しみに待っていますから」

 「では遠慮なく、お邪魔させていただきます。ねえ? 琴ちゃん?」

 「はい、お義母様。お婆様もお体を大切に」

 「ありがとう琴子。久子にも見せてあげたかったわね? あなたの晴れ姿を」


 祖母はそう言って、言葉を詰まらせた。




 私としては二度目の結婚式だったが、お式の雰囲気はまるで違うものだった。

 あきらかに品位が違っていた。

 歴史の中で揉まれた椎名家の格式は別格のものだった。

 やはり結婚とは当事者の契りだけではなく、家同士、一族同士の繋がりなのだと実感した。



 結婚式で錬三郎はElton John の名曲、『Your Song』をピアノで弾き語りをし、私は弦楽四重奏をバックに、ユーミンの『守ってあげたい』を歌った。

 錬三郎は私のために、そして私は錬三郎のために歌った。



 聡子もシャンパン・グラスを片手に、雛壇に来てくれた。

 

 「琴子、椎名さん、本日はおめでとうございます。しあわせになってね? 琴子」

 「ありがとう、聡子」

 「聡子ちゃん、今日は来てくれて本当にありがとう」

 「凄く素敵な結婚式ね? なんだか私も結婚したくなっちゃったなあー。椎名さん、お金持ちのイケメン、後で紹介してね?」

 「あはははは 喜んで! 聡子ちゃんなら自信を持って紹介出来るよ」

 「ホントに? ちゃんと紹介してよ? 早く私もしあわせになりたーい!」



 葵さんはひときわ目立っていた。彼女の周りには海外からの賓客が集まり、葵さんはそれぞれの言語で流暢に応対していた。


 「Miss,Aoi この後、Tokyoを案内していただけませんか?」

 「Actually,I am a Movie Star.Please call my office(実はね,私は映画スターなの。デートのお誘いは事務所を通して頂戴ね?)」


 

 式場の出口で私たちはみなさんをお見送りした。

 錬三郎と夫婦になれた実感が湧いて来た。






 クリスマスにはフランスに、銀河のお墓参りに行くつもりだったが、大事をとって先送りすることにした。


 「銀のお墓参りはもう少し待ってもらおう。無理して飛行機の長旅は危険だからね?」

 「そうね? 銀には申し訳ないけど、いつか家族みんなで行きたいから今回は無理しないようにするわ」

 「その方が銀も喜んでくれると思うよ。銀は心配性だから」

 「歌子も、そして今度は男の子も産んで銀に会わせてあげたい」

 「がんばらないとね?」

 「そうよ、パパ」

 「楽しみだね? ママ?」


 私たちは顔を見合わせて笑った。




 イブの夜は夫婦で教会に礼拝に行って、家で静かに過ごした。

 私は錬三郎のために、彼の好きなローストビーフを焼いて、ノエル・ド・ブッシュを作った。

 妊娠中なので、お酒は我慢した。私は錬三郎とコーラで乾杯した。



 「やっぱりクリスマスソングは欧米の音楽がしっくりくるわね? 日本のクリスマスソングは売れることばかりを意識して作られたものが多い気がするから好きじゃないわ」

 「クリスマスは彼らの文化だからね? 僕はチャイコフスキーの『くるみ割り人形』が好きだよ」

 「私も好き」



 錬三郎はカラヤン指揮のベルリンフィルのレコード、『くるみ割り人形』を掛けてくれた。



 「奥様、お手をどうぞ。僕と踊りませんか?」

 「よろこんで。王子様」



 私は彼とダンスを踊った。



 『くるみ割り人形』の物語はイブの夜、両親からくるみ割り人形をプレゼントされた少女が、その人形と夢の中で旅をするお話だ。

 ドイツのホフマンの書いた童話、『くるみ割り人形とねずみの王様』をデュマがフランス語に翻訳した『ヘーゼルナッツ割り物語』が原台になっている。


 ドイツのニュルンベルクに暮らす7歳の女の子、マリーはクリスマスにくるみ割り人形を貰うが、兄のフリッツに人形の顎を壊されてしまう。


 その夜、マリーがそのくるみ割り人形の看病をしていると、そこへ鼠の大群が現れ、くるみ割り人形と戦いを始めるのだ。


 マリーはくるみ割り人形に加勢するが怪我をして気を失ってしまう。

 ベッドで目覚めたマリーは、そのことを家族に話すが誰も信じてはくれない。

 だが叔父、ドロッセル・マイヤーだけは『硬いくるみ割りとピルリパータ王女の物語』をマリーに話して聞かせる。


 美しいピルリパータ王女はネズミの呪により、醜い姿に変えられてしまう。

 王様からピルリパータ王女の呪を解くように命じられた職人、ドロッセル・マイヤーは、甥のナタニエルが割ったクルミを王女に食べさせると王女は元の姿に戻るが、今度はナタニエルが醜い姿になってしまう。

 彼の呪を解くにはネズミの王を倒し、美しい女性から愛の告白をされなければならない。

 

 その物語を聞いたマリーは、あの壊れたくるみ割り人形がナタニエルだと確信をする。


 その後、マリーの部屋に再びネズミが現れるようになり、くるみ割り人形は「自分に剣を与えて欲しい」とマリーに願い、くるみ割り人形はネズミの王を倒し、マリーを自分が統治している「おもちゃの国」に招待する。


 氷砂糖の平原、クリスマスの森、オレンジ・ジュースの川を渡り、マリーたちはケーキの宮殿へと辿り着く。

 そこでマリーはくるみ割り人形の妹たちの歓待を受けるが、それは夢だった。


 それからしばらく経ったある日のこと、マリーはくるみ割り人形に話し掛ける。


 「あなたを心から愛しているわ」


 その途端、マリーは気を失い、再び目覚めるとドロッセル・マイヤーが甥の少年を連れてマリーの元に現れる。

 その少年は言う、


 「私はナタニエルです。マリーのお陰でやっと呪いが解けました。

 どうか僕と結婚して下さい」


 と求婚され、ふたりはお菓子の国で挙式をするという物語だ。




 「錬三郎はナタニエルなのね?」

 「そうだよ琴子。君はマリーなんだね?」


 私たちは熱いキスを交わした。



 夜、私はベッドに入ると錬三郎に訊ねた。


 「ごめんなさいね。・・・したいでしょ?」

 「大丈夫だよ、我慢する」

 「自分でこっそり#している__・__#くせに。知ってるんだから」

 「あはは バレてた?」

 「当たり前でしょう? 練三郎が出したのが付いてる、あなたの下着とか、ゴミ箱に捨てられたティッシュもたまに見付けるし」

 「仕方ないだろう? 今は我慢するよ」

 「ねえ、手とかお口でしてあげようか?」

 「してくれるの?」

 「うん。入れなければ大丈夫だから」

 「入れられるようになっても気が引けるけどね? なんだか中で歌子に見られているみたいで」

 「見ているかもよ? 「パパとママがエッチなことしてる」って。うふっ」

 「あははは やだよそんなの」

 「出してスッキリしたいんでしょ?」

 「それはしたいよ、僕も男だからね?」

 「浮気だけはしないでね? そういうお店にも行っちゃイヤ」

 「当たり前じゃないか、そんなの」

 「私、錬三郎に捨てられたら生きて行けない」

 「それは僕も同じだよ」



 私は錬三郎のパジャマを脱がし、彼の物をお口に咥えると、少し強目にフェラチオをしてあげた。

 彼の満足そうな顔を見ると私も興奮し、それを更に強く吸い、頭を激しく動かした。


 「出そうだよ、琴子」


 私は頷き、そのまま行為を続けた。


 「あっ、ゴメン。無理っ!」


 彼の精液がいつもより多く放出され、私はそれを零すまいと、咄嗟にそれを飲んであげた。

 私はそれに欲情し、彼に甘えた。


 「ねえ、私のクリちゃんも舐めて」

 「いいの? 舐めても?」

 「でも指は入れないでね? バイ菌が入るといけないから」

 「うん」



 彼は余程したかったらしく、やや荒々しくクリを攻め、卑猥な音が聞こえ始めた。

 私もたまにこっそり自分でしていたが、彼にされる方が断然良かった。

 私もすぐにオーガズムを感じた。


 男性は妻の妊娠中に浮気をすることが多いと聞く。

 たまにはこうしたスキンシップも必要なのだと思う。お互いに。





 大晦日、私たちは『紅白歌合戦』に興味はなかった。

 今年は母と悟さんの不幸もあったので、私たちは初詣にも行かず、静かなお正月を迎えていた。

 

 元日の朝、運動のために海浜公園を散歩した。うららかな春の日。まだ気温は冷たいが、お日様を全身に浴びる幸福感に私は大きく背伸びをした。


 よちよち歩きの女の子が笑いながら若い両親に近づいて行く。

 幼子を抱き上げ微笑む夫婦。

 しあわせとはこれを言うのだろう。

 錬三郎が私の肩を抱いてくれた。


 「ねえ? 私たちもあんな風になるのかなあ?」

 「かわいくて仕事に行けなくなっちゃうよ」

 「じゃあお仕事辞めて、ウチにいればいいじゃない?」

 「そうしようかなー? 僕が主夫になって琴子が歌ってお金を稼いで来る。僕はヒモになるんだ。 ヒモ男。あはははは」

 「それもいいかも。でもさあ、子供ってすぐに大きくなるんだよ? 中学生になって彼氏が出来て・・・」

 「ダメダメ。そんなの絶対にダメ。歌子はお嫁には行かせないよ」

 「生まれる前からそんなことを言っていたら、先が思いやられるわね? あはははは」

 「そうだね? 早く生まれてこないかなあ。歌子」


 錬三郎は私のお腹に触り、お腹の歌子にそう話し掛けた。





 お正月も明け、洗濯物を室内に干していると、突然下腹部に痛みを覚えた。

 救急車を呼ぶまでもなかったが、私は万が一、入院してもいいようにと、取り敢えず短期の入院準備をしてタクシーで病院へと向かった。


 

 「切迫流産になりそうだから、少し入院した方がよさそうね?」

 「よろしくお願いします」

 「安定期に入ったから心配はいらないと思うけど、家に居ると家事も大変でしょう?」

 「大した家事はしていません。殆ど夫がしてくれるので」

 「いい旦那さんね?」

 「はい、とてもいい旦那さんです。うふっ」

 「あはははは それはそれはご馳走様」


 竹内医師と私は笑った。



 錬三郎には入院することになったとだけLINEで連絡をした。

 すると、すぐに電話が掛かって来た。


 「大丈夫なのか!」

 「うん、安静にしていれば大丈夫みたい。一週間ほど入院することになったけど、心配しないでね?」


 電話はすぐに切れ、そして1時間もしないうちに錬三郎が病室にやって来た。



 「はあはあ、大丈夫? 琴子、歌子も?」

 「わざわざ来てくれたの? 忙しいのにありがとう」

 「今日はたまたまデスクワークだったからね? 何か欲しい物はないかい?」

 「特にはないわ。それに下に売店もあるし」

 「さっき竹内先生にも会って来たけど、「心配はいりませんけどその方がご主人もラクでしょう?」って言われたよ。

 僕は君たちと一緒に居たいのに」

 「ありがとう、パパ」


 私は彼の手を握った。





 やがて桜の季節になり、お弁当を持って錬三郎と近くの川岸に桜を見に出掛けた。


 「あっ、またお腹を蹴ってる。ほら?」

 

 錬三郎が私のお腹に触ると、


 「ホントだ! 君のお腹を歌子が元気に蹴ってる!」

 「元気だね? 歌子」


 私もお中に手を添えた。




 初産ということもあり、予定日を過ぎても陣痛は中々来なかった。

 そして5日が過ぎた頃、ようやく陣痛が始まり、私は入院した。

 長い陣痛で苦しかった。

 破水してようやく分娩室に入った。



 オギャー! オギャー!




 やっと歌子が生まれた。


 「かわいい女の子ですよ。ママにそっくり! 将来は女優さんね?」



 出産には錬三郎は立ち会わなかった。


 「それは神聖な君の仕事だから、僕は外で待っているよ。がんばってね? 琴子、歌子」



 そして彼は何度もジャンプして、歌子の誕生を喜んでくれた。

 

 (国際弁護士で椎名財閥の跡取りなのに。うふっ カワイイ)


 私はそんな錬三郎を見て泣いた。



第四楽章

第1話 新しい伴奏者

 ご当主とお義母様の喜び様は尋常ではなかった。


 「ちっちゃい手。なんて可愛いのかしら? やはり初孫ってうれしいものね?」


 歌子を抱いた義母は満面の笑みを浮かべていた。


 「美しい指をしておる。早速バイオリンをプレゼントしよう。 

 ところで名前は決めたのかね?」

 「はい。錬三郎さんが歌子と名付けて下さいました」

 「歌子か? いい名だ」


 錬三郎は名付けた理由を話し始めた。


 「ありがとうございます。

 椎名家は代々、男子には「三郎」を、そして女の子には漢字一文字に「子」をつける決まりがあるんだ」

 「そうだったの? じゃあ「歌子」も椎名家の伝統に習って名付けてくれたのね?」

 「椎名歌子。琴子のように歌が上手な子になるようにと、女の子の名前は以前からそう決めていたんだ。

 夏目漱石は自分の娘に「筆子」と名付けた。漱石は自分が字が下手だったからだそうだ」

 「歌子。私がバアバですよー。

 最初の子供だから何かと大変でしょうけど、困ったことがあればいつでも言って頂戴ね?」

 「ありがとうございます、麗子さん」

 「歌子のためにヘリと別荘を用意してあげよう」

 「あなた、まだ産まれたばかりですよ」

 「あはははは そうだな? だが幼いうちから本物に慣れ親しむことは大切な教育になるものだよ」


 歌子はこんな素敵なご両親に愛されて凄くしあわせだと私は思った。


 



 子育てがこんなに大変だとは思わなかった。

 4時間おきの授乳、夜泣き、オムツの交換など、私と錬三郎は疲弊していた。

 それでも錬三郎は積極的に育児に参加してくれた。



 歌子は私のお乳をゴクゴクと飲んでいた。

 錬三郎はその光景をスマホで撮影していた。


 「ママと歌子。とてもいい顔をしているね? これを新しい待ち受けにしようかな?」

 「他の人には見せないでね?」

 「どうして?」

 「だって私のおっぱいが見えちゃうじゃない。恥ずかしい」

 「わかったよ、誰にも見せない」

 「事務所との契約の約款にもあるんだから。ヌードは禁止だって。あはははは」

 「あのマドンナとの契約約款なんて百科事典くらいの厚みがあるからね? 特にアメリカの大スターとの契約交渉は大変なんだよ」

 「そんなに細かく?」

 「特に衣食住の取り決めが細かく指示されるんだ。「アイスクリームはハーゲンダッツのラムレーズンだけ」とかね?」

 「本当に?」

 「それは僕の好みだけどね? あはははは」

 「でも錬三郎パパ、大丈夫? 夕べも殆ど寝てないんじゃない?」

 「それは琴子も同じだろう? 僕は別に気にならないよ。歌子の事が可愛くてしょうがないからね」

 「ねえ、ベビーシッターさんをお願いしない?」

 「そうだなあ、君もレッスンが疎かになっちゃうしね?」

 

 昼間、私が休めることが出来れば夜は何とかなる。そうすれば錬三郎をゆっくりと寝かせてあげることが出来るのだ。


 「じゃあちょっと探してみるね?」

 「うん、君にも歌子にとってもいい人を雇うといい」

 「ありがとう錬三郎」


 



 何人か面接をしたが、「帯に短し襷に長し」といった感じで、歌子を安心して任せることが出来るベビーシッターは中々見つからなかった。



 「どうだい? いい人は見つかったかい?」

 「まだなの、3カ月の歌子を任せるにはちょっとね?」

 「僕の面倒を看てくれていた、乳母の唯さんはどうかなあ?」

 「錬三郎の乳母の人?」

 「うん、とてもいい人だよ。今度、ここに来てもらおうか?」

 「錬三郎を育ててくれた人なら安心ね? でも引き受けてくれるかしら?」

 「今は椎名家で働いてくれているから、たぶん大丈夫だと思う。保育士と看護師の資格も持っているんだ」

 



 唯さんは今年で還暦だったが、40代にしか見えない、綺麗で聡明な女性だった。

 出しゃばるでもなく、穏やかだが凛とした人だった。


 

 「錬三郎お坊ちゃま。お久しぶりでございます。本日はお招きいただき誠にありがとうございます」

 「唯さん、お久しぶりです。妻の琴子です。そして娘の歌子です」

 「初めまして、河上唯と申します。錬三郎お坊ちゃまのお世話をさせていただいておりました」

 「初めまして、琴子です」

 「実は唯さんにお願いがあるんだ。歌子のベビーシッターになってもらえないだろうか?」

 「このかわいい歌子様の乳母に私がですか?」

 「朝の9時から17時まででいいんだけど」

 「私でよろしければ喜んでお世話をさせていただきます。

 ちょっと抱かせていただいてもよろしいですか?」

 

 私は歌子を唯さんに抱かせた。

 歌子は唯さんが気に入ったようで、笑っていた。



 「笑っていらっしゃいます。かわいい」

 「それでは早速明日からお願いしても構わないかい? 母には僕から話しておくから」

 「わかりました。よろしくお願いします」

 「良かったね? 歌子。唯さんがお世話を引き受けてくれるってさ」




 翌日から唯さんが家に来てくれた。

 歌子のこと以外にもお掃除にお洗濯、お料理。そして歌子の育児日誌までも書いてくれていた。もちろん、動画も添えて。

 彼女の育児、家事は完璧だった。

 さすがは名家の女中だけあって卒がない。

 決しておしゃべりではなく、私の話に上手に合わせてくれた。

 お陰でとてもカラダがラクになり、少しずつ歌の感覚も戻りつつあった。

 出産を経験したことで、少し声にしっとりとした艶が出て来た気もする。




 ウォーキングも再開し、レッスンも徐々に増やしていった。

 まずは基本的な発声訓練から始めることにした。

 

 「SORA」を十分に練習した。

 「S」を発音する時には0.001秒から0.00001秒に拘った。

 「SO」は頭蓋骨のどの部分に当てるか? 鼻腔の開閉、マスケラに沿っていかに音を乗せるか? 後ろから回すのかなど、繊細な部分に神経を集中させた。


 鏡の前での所作、容姿、口の中、唇の位置、形。

 顔の筋肉、肩の位置。全体の筋肉の確認。そしてヨガの呼吸法で学んだ肛門の力の入れ方、横隔膜の位置、背骨を中心にした内臓の位置を整える修練を心掛けた。

 スタミナが衰えていたので食生活と筋トレ、走ることで持久力を養うようにした。


 だが、問題は伴奏者だった。

 錬三郎にいつまでも頼るわけにはいかなかった。

 彼はすでにファームの共同経営者、パートナーになっていたからだ。

 オペラに復帰するためには優秀な伴奏者が必要だった。





 歌子を連れて事務所に挨拶に行った。


 「琴子さん、赤ちゃん見せてくださいよー!」

 「かわいい! 抱っこさせてもらってもいいですか?」


 私は歌子を他人に抱かせることに抵抗があった。


 「ごめんなさいね? ちょっと急いでいるのでこれ、皆さんで食べて下さい。社長は?」

 「相変わらず出掛けています」

 「専務は?」

 「はい、お部屋においでです」



 私は歌子を抱いて専務の部屋のドアをノックした。


 「どうぞ」


 室内から専務の声がした。


 「ご無沙汰しています。叔母様」

 「あら大きくなったわね? どれどれ」


 叔母は歌子を愛おしそうに抱っこした。


 「将来あなたもママみたいな歌姫になるのよ。

 丁度良かった、あなたの伴奏者の話なんだけど」

 「実はそのことでご相談がありまして。ピアニストを田所さんにしていただくわけにはいきませんか?」

 「良かったわ。私も琴子の伴奏は彼がいいと思っていたのよ。雅之なら琴子の歌に合うかなと思って」


 私は田所さんのピアノが好きだった。

 だが彼は事務所の稼ぎ頭。看板ピアニストで作曲家でもあり、伴奏をお願いするには少し気が引けていたのだ。 

 彼は私の憧れの音楽家だった。

 穏やかな物腰、卓越した音楽センス。

 何よりも私の目指す音楽と、ベクトルが一致しているように感じた。

 

 (彼のピアノで歌いたい)


 「彼は快諾してくれるでしょうか? 私とユニットを組むことを?」

 「これは彼からの提案なのよ。どう? やってみない?」

 「是非! よろしくお願いします! 叔母様」


 夢のような話だった。これで私はもっとソプラニスタとしての高見を目指すことが出来る。


 「歌ちゃん、琴子ママは乗り気のようでちゅよー。あはははは

 じゃあ後はあなたたちのスケジュールを調整しておくわね? 子育てで大変だとは思うけど、これもあなたのキャリアのためよ、頑張りなさい」

 「よろしくお願いします」


 私の心は踊った。





 夕食時、田所さんのことを錬三郎に話した。


 「今度ね? 事務所の大御所、田所雅之さんとユニットを組むことになったの。凄いでしょう?」


 錬三郎は当然、それを喜んでくれるものだと思っていた。

 だが、錬三郎の反応は意外なものだった。


 「田所雅之かあ。僕は君には合わないと思うなあ」

 「えっ、どうして?」

 「彼のピアノにはテクニックはあるが、心がない。

 いや、寧ろ穢れているとさえ感じてしまう」

 「どうしてそんなことを言うの! 彼とユニットが組めるなんて滅多にないチャンスなのよ!」

 「とにかく僕は賛成しない。お風呂に入って来るよ」


 いつも温和な錬三郎がそんな不機嫌な顔を見せたのは初めてだった。

 だが私には妥協はない。一度自分で決めたことは最後まで遣り通すのが私の性分だったからだ。

 私は田所さんとのユニットを決めた。



 錬三郎のピアノは私を全面的に惹き立ててくれるピアノだったが、彼のピアノは私の歌と「融合するピアノ」だった。

 私の歌と呼応するように自らも主張して来る。それは武道の心得と似ていた。

 私が息を吐く時は彼は息を吸い、私が息を吸う時は息を吐く。

 私と彼の音は色、温度、湿度、香りなどがすべて同じだった。

 つまり私の歌と彼のピアノでひとつの音楽が奏でられた。

 しかも彼は作曲やアレンジも出来るので、私が歌いたい曲をよりクラシカルに品位のある音楽に仕上げてくれた。

 それはまるで愛のあるSEXのように甘美なものだった。





 田所さんとレッスンを始めてから、錬三郎は益々不機嫌になった。



 「今度の週末、田所さんとレッスンなの。歌子のこと、お願い出来る?」

 「琴子の優先順位は田所か! 折角の休みなんだぞ! 勝手にしろ!」


 (田所さんが男だから妬いているのかしら?)


 もちろん彼とは大切な音楽のパートナーであり、恋愛感情があるわけではない。

 私は錬三郎の気持ちが分からなくなっていた。



第2話 歌か? 家族か?

 私たちのユニットはまるで双子のようにぴったりと息が合っていた。

 こんなに楽しく伸び伸びと歌えるのは今までなかったことだった。

 演奏を終え、彼が言った。


 「琴子、すごく良くなったね? 高音と低音に加え、少し弱かった中音域も凄くふくよかに出ていたよ。これなら今度のCDはとても素晴らしい物になると思うよ」

 「ありがとう雅之。あなたのピアノのお陰よ。

 私たちの音楽はふたりで一つの作品だから。

 この前、専務に言われちゃった。「あなたたち、まるで夫婦みたいね? これからが楽しみだわ」ですって」

 「夫婦みたいだなんて言われると、照れちゃうな?」


 私たちは既にお互いをファースト・ネームで呼び合う関係にまで打ち解け合っていた。

 もちろん何でも言い合える親友として。


 「今度の収録は1週間の泊り込みになるけど、ご主人と子供さんは大丈夫なの?」

 「ウチの夫は音楽には理解があるから大丈夫。心配しないで。いい作品を作りましょう」

 「そう、ならいいけど」


 私は育児のストレスからも解放され、一週間の雅之との音楽三昧の毎日にワクワクが止まらなかった。




 雅之とのユニットをあまり快く思っていない錬三郎には、直前までその事は黙っておくことにした。

 反対されてもやるつもりだった。私は今度の収録にはかなりの自信を持っていたからだ。

 歌子を置いての外泊。しかも一週間となると許可してもらえない可能性は高い。

 かのマリア・カラスは言った。



    「私は一介の女であり、真面目な芸術家なのです」



 そうなのだ。私は錬三郎の妻であり、歌子の母親。

 だがもうひとりの自分は、実にストイックな芸術家でもあるのだ。

 収録合宿の前日、私は錬三郎に言った。



 「来週から一週間、収録のための合宿なんだけど、行ってもいい?」


 私は敢えて泊まりとは言わず、大勢のスタッフと一緒だということを強調するために敢えて「合宿」だと言った。  

 日本語とは便利な言葉だ。


 

 「歌子を置いて?」

 「うん、今回はCDの収録もあって子連れでは無理なの」

 「君は家族より、娘の歌子よりも歌なんだね? 君の人生のプライオリティは?」

 「私にはどっちも大切よ! 錬三郎も歌子も、そして私はソプラニスタでもあるの! あなたはそれを理解してくれているとばかり思っていたわ!」

 「琴子の好きにすればいい」

 「妬いてるの? 私が田所さんと浮気でもすると思って! そんなに私が信用出来ない?」

 「浮気はね? 一緒に寝ることじゃない。相手に好意を持てばそれは立派な浮気なんだ。

 キリストは言った。「汝、邪淫するなかれ」と。もしそのような感情を持つならば、その眼を抉り出せということだ。クリスチャンの君ならそれくらいのことは知っているはずだ!」

 「バッカじゃないの! 話しにならないわ! 今回の収録はどうしても外せないの! 事務所の命令だから! これは私の歌手としての大切なお仕事なの!」


 錬三郎は歌子を抱き上げると言った。


 「ママは歌子とパパよりも、お仕事が大切らしいよ」

 「やめて! そんな言い方!」

 「君が音楽に夢中になるのはかまわない。君の才能は誰よりも僕が認めている。

 だがあの伴奏者とはこれ以上関わるな! そうでなければ君は・・・。すべてを失うことになる」

 「もういい! 事務所も歌も辞める!」


 私は泣きながら自室に閉じ篭った。

 だが、私の気持ちは既に決まっていた。

 今の私の優先順位は「歌うこと」だったからだ。

 

 (錬三郎のばか。別に不倫するわけじゃあるまいし)





 収録に出掛ける朝、私は錬三郎に言った。


 「ごめんなさい。じゃあ歌子のこと、お願いします」

 「気をつけてね?」

 「うん」


 錬三郎は歌子の小さな手を左右に振ると、


 「歌子、ママとバイバイしなさい」

 「歌子、ママ、いいお歌を唄って来るからね? パパとお利口にして待っていてね?」


 私は後ろ髪を引かれる思いでスタジオに向かった。

 錬三郎は笑ってはいなかった。そして歌子は不思議そうな顔で私を見送った。


 


 私は一秒でも無駄にはするまいと、すべてを忘れて収録に集中した。

 朝から晩まで音楽に没頭出来る最高の時間。

 私はホテルに戻ると、毎日錬三郎に電話をし、今日の収録状況を報告した。



 そして最終日、今夜もまた錬三郎に電話をした。


 「おかげさまでいい収録が出来たわ」

 「そうか? それは良かった。気を付けて帰っておいで」

 「うん。一週間とっても寂しかった。帰ったらいっぱいしてね?」

 「・・・、じゃあおやすみ」

 「おやすみなさい」


 錬三郎の返事はそっけないものだった。

 電話を切るとすぐに部屋の電話が鳴った。雅之からだった。


 「琴子、もう寝た?」

 「ううん、まだ起きてたよ」

 「今、ホテルのBARで飲んでいたんだけど、どう? 君もNight Cap(寝酒)に一杯だけ付き合わないかい?」

 「うん、わかった。これから上がって行くね?」




 私は軽く化粧と髪を整え、バーラウンジへと出て行った。



 「琴子は何がいい?」

 「授乳中だから私はウーロン茶で」

 「そうだった。君はママだったね? ごめん、誘っちゃって」


 収録の緊張も解け、雅之はかなり酔っているようだった。


 「ううん、いい収録になって本当に良かった。ありがとう、雅之」

 「こちらこそだよ、Diva。なんだか名残惜しいな? 今日で当分君とはお別れだなんてね? 今度いっしょにセッションが出来るのは2か月後だからね?」

 「そうかあ、またよろしくね?」

 「ああ、琴子とのセッション、また楽しみにしているよ」


 1時間位彼の話に付き合って、もうそろそろ限界だと思い、ふらつく大きな彼を支えながら彼の部屋まで送って行った。


 「カードキーは?」


 雅之は黙ってカードキーを私に渡した。

 カードキーを差し込んでドアを開け、おやすみを言おうとした時、彼に腕を掴まれ部屋に引っ張り込まれた。

 雅之は私を強く抱き締めキスをした。


 「やめて!」


 私は必死で抵抗したが雅之は体格もよく、私は抗うことが出来ない。


 「君のパンティーの色を確認させてくれないかな?」

 「事務所に言い付けるわよ!」

 「ごめん。冗談だよ」

 

 彼はようやく私を解放した。

 私はすぐに廊下へ飛び出し、震えながら自分の部屋に戻った。

 心臓がバクバクしている。彼のことは嫌いではない。嫌いではないが私は人妻、そんな器用な真似は私には出来ない。

 私はひとりの男性しか愛せない女なのだ。

 

 (これから雅之とどう接していけばいいんだろう?)


 私は悩んだ。



 


 「ただいまー。これ、大阪のおみやげー。

 歌子、ママでちゅよー」


 私は錬三郎にキスをし、歌子を抱いた。

 錬三郎は冷たかった。一週間も離れていたのにハグもしてくれなかった。



 夜、ベッドで錬三郎を誘った。


 「ねえ?」

 「ごめん、疲れているんだ。ずっと歌子と一緒で気を遣っていたから」

 「そう。迷惑をかけてごめんなさい」


 収録に出掛ける前、錬三郎が言った言葉がずっと引っ掛かっていた。



      「君はすべてを失うことになる」



 (あれは一体どういう意味だったの?)


 その夜、私は強引な雅之に抱かれる自分を想像し、錬三郎に背向け自分を慰めた。

 惨めな快感に私は泣いた。




 平穏な日々が続いていた。

 そして2か月後、雅之との活動が再開した。

 雅之はあの夜のことは忘れたかのように、今まで通りのセッションを続けた。

 だがお互いの音には遠慮があった。

 心に不協和音が生まれ、最悪のセッションだった。




 「今度のサロンコンサート、錬三郎も来てくれるわよね?」

 「僕はもう、君と田所君のリサイタルには行かないつもりだ」

 「まだ怒っているの?」

 「僕のような仕事をしていると、いろんな金持ちのクライアントがやって来る。その中には慈善事業をしている人もいる。

 だがそれは彼らの場合、往々にして節税対策と見栄だ。

 白人との挨拶ではよく、「どうだね? 最近の君のボランティアは?」と訊ねられることがある。慈善事業を利用するのは悪いことではない。それによって少しでも恵まれない人たちが助かるのであれば、高級車に乗って、豪邸に住んで、何人もの女を抱いても構わないと僕は思っている。ただし、それを人に言わなければの話だ。

 「私は慈善事業をしています、どうか恵まれないこの子たちを助けてあげて下さい」と。だがそれは偽善だ。

 僕が田所君を音楽家として認めない理由はそこにある。

 彼の作曲は過去の音楽家たちの真似事に過ぎない。音楽とは心から発し、心へと還るものだ。僕は君の歌が好きだ。だが今の君の音楽は聴くに堪えない」

 「それには理由があるの。私の口からは言えないけど、彼は、田所さんはそんな人じゃないわ」

 「そうか。それが琴子の答えなんだね?

 高級車に乗って慈善事業をしていることを公言する。「僕はこのかわいそうな子供たちを助けたい」と。

 1,000万円以上もする高級車に乗ってだ。国産の中古車に乗って行う慈善事業なら共感出来る。そこに正当な理由など何もない。100万円の中古車を買って、家賃5万円のアパートに住んで自炊をする。その節約したお金で人助けをするべきではないのか? もし自分で慈善事業を主宰しているのであれば尚更の話だ。

 それが嫌ならそこの代表をしているなんて言わなければいい。

 音楽には二通りある。それは大衆のための音楽と、上流階級のためだけの安っぽい音楽だ。あのサルエリのようにだ。

 君はどんな音楽を表現したい? 誰のために歌いたいんだ?」

 「それはヒエラルキーのない、みんなに平等な音楽よ」

 「君たちが今している音楽は、小指を立てフレンチを食べているようなにせクラッシックファンのための音楽だ。

 自分たちがいかに限られた上流階級の人間であるかを自認するための音楽。それには本当の感動はない。心が動かないんだ。琴子の今やっている音楽は芸術ではない、君と田所君の自己満足の音楽だ」

 「酷い・・・」

 「宗教が生まれ、そして音楽は分かれた。庶民の辛い肉体労働を和ませる労働歌や子供のための子守唄、そして自然や人々の人生や恋愛感情、政治や哲学などを歌った反戦歌。そしてキリスト教などの神を讃えるための宗教音楽は、やがて権力者たちの庇護の元、職業としての音楽へと発展して行った。

 もちろんそれは音楽だけではない。絵画や彫刻、文学や演劇なども暇を持て余した金持ちたちの「道楽」となり、今の音楽の原型はその頃に作られたものの模倣だ。アレンジなんだよ、そこにオリジナリティは存在しない。

 作曲家のリストなんて殆どが盗作だ。

 もうモーツアルトのような天才は生まれては来ない。モーツアルトの音楽は彼が作った物ではないんだ。

 神が彼を通じて我々に与えてくれた「美」なんだよ。

 君の歌はアカデミックな技術に裏打ちされた、大衆のための安らぎのクラッシック音楽だとばかり思っていたが、どうやらそれは僕の勘違いだったようだ」

 


 すると彼は書斎からダレスバッグを携え、そこからあの緑の用紙を取り出して私の前に静かに置いた。離婚届を。

 そこにはすでに錬三郎のサインと捺印がされていた。


 「そんなことで離婚するの? 頭でもおかしくなったの?」

 「僕はいたって正常だよ。君は君の決めた音楽を貫けばいい。僕と歌子は君から卒業することにする。君は歌がすべての歌姫、マリア・カラスだから。

 そんな君にもう家族は必要ないだろう?」

 「どうしてわかってくれないの! 私は歌手なの! 歌うことが好きなの! 歌は私のすべて!

 離婚なんてしない! 絶対に!」



 あまりの突然の衝撃に、私はその日から声を失ってしまった。



第3話 絶望の中に潜む希望

 錬三郎が病院に付き添ってはくれたが、なぜ声が出なくなり、耳も聴こえなくなってしまったのか? 私は内科と耳鼻咽喉科などをタライ回しにされ、様々な検査を受けたが原因は不明だった。


 そして咽頭ストロボスコープを使った内視鏡検査で、咽頭ジストニアであることが判明した。

 喉の粘膜を保護するためのお薬と、声帯炎症抑止薬が処方され、青ネギとエノキ茸が有効であると知り、食事に取り入れたが効果はさほどではなかった。

 私は絶望した。


 未だ聴力も回復せず、私はお見舞いに来て下さる方の口の動きで会話を推測し、自分の意志は筆談で応対した。

 そのうち、人と会うのが嫌になった。


 一度、雅之もお花を持って病室にお見舞いに来てくれたが、それっきり私を見舞うこともなく、私たちのユニットは自然消滅となってしまった。



 SNSでの心無い誹謗中傷も続いた。

 その殆どは、彼のファンからのものだった。


 「バチがあたったのよ!」

 「ずっと声が出ませんようにwww」

 「お口チャック(笑)」


 など、酷いものだった。

 私は歌うことも、話しをすることも出来ず、どん底の中にいた。


 (生きていてもなんの意味もないわ)


 私はすっかり鬱状態になっていた。

 錬三郎や義母、聡子や葵さんに励まされるのも苦痛でしかなかった。



 「君の病気は必ず治る。僕たち夫婦はお互いひとりになって、もう一度自分の人生を見つめ直す時間が必要だと思う」


 椎名家のご当主のご配慮により、私は椎名コンツェルンの系列病院に転院した。

 だがそれっきり、錬三郎と歌子は見舞いに来ることはなかった。


 錬三郎が予言した通り、私はすべてを失った。


 子供の頃から病弱だった私は、実家が病院だったこともあり、入院生活には慣れていた。

 水疱瘡から髄膜炎を併発したり、萎縮性胃炎に胃潰瘍、偏頭痛にメニエル症候群。その他様々な病気を抱えて生きて来た。

 そしてどんなに苦しい時も歌い続けて来た。歌うことが私の生甲斐だった。

 そして今、私は希望もなく、毎日死ぬことばかりを考えて、魂の抜けたしかばねのように生きていた。

 いや、死んでいたと言っても過言ではない。


 (私が悪いの? もう歌うことが出来ないなんて・・・)



 更にそこに追い打ちをかけるようにお腹に激痛を感じ、私は失神してしまった。

 迷走神経発作による腸の痛みが原因だった。



 入院生活は既に1年を超えていた。

 少し声は回復したが、反回神経性麻痺により、低音と高音が思うように出なくなってしまっていた。

 そして今度は頸部エコーにより、頸部リンパ節腫瘍が多発して神経を圧迫していることが判明した。

 手術はせずに、声帯の負担を減らすリハビリで対処することにした。

 そしてそこに重度の逆流性食道炎も加わり、私のカラダは病気の総合デパートのような状態になってしまっていた。

 私は女として、ソプラニスタとして、更に人間としても終わってしまった。



 そんな時、病室のベッドの上にマリア・カラスの伝記が置かれてあった。

 こんな本をここに届けてくれたのは、おそらく錬三郎だろう。

 私は苛立ち、それを病室の床に叩きつけた。


 (マリア・カラスが何? 今の私にマリア・カラスは憎しみでしかないわ!)


 床に落ちたマリア・カラスの表紙は、そんな私を見て微笑んでいるかのように見えた。

 私はその本を拾い上げ、読み始めた。



 マリア・カラスもやっと前夫と離婚することが出来たが、オナシスはマリア・カラスを籍に入れようとはしなかった。

 9年間のオナシスとの愛人生活。マリアは35才になっていた。

 女ざかりの自分を、惜しみなく彼に捧げたマリア・カラス。

 だがオナシスはあっさりとジャクリーン・ケネディと再婚してしまう。

 彼女はショックのあまり、歌うことが出来なくなってしまう。

 自殺未遂、女優にもなったがそれほど人気は出なかった。

 いくつかの恋もしたが、彼女を満足させる男は現れなかった。


 最後の力を振り絞り、マリア・カラスは世界公演の旅に出る。

 オペラはすでに歌えなくなっており、自分のデビュー作でもあるプッチーニの『トスカ』のソロコンサートを開いたが酷評され、1965年の日本公演を最後に事実上の引退をしてしまう。

 オナシスはマリアと別れた7年後、この世を去り、その2年後にマリア・カラスは53才という若さで孤独な死をパリで迎えた。


 彼女はふたりのメイドにはよく、


     「お願いだから私を独りにしないで」


 と懇願していたらしい。

 睡眠薬と興奮剤の同時服用による心臓発作が原因で亡くなったと言われてはいるが、死の真相は謎のままだ。


 マリア・カラスの遺骨が盗まれたこともあった。

 そして最後は大好きだったオナシスとの思い出のあるエーゲ海に散骨されたという。



     「一流の音楽家は完璧な音楽センスが必要よ。

     恋愛も同じ。愛し敬い、それを全うすること。

     決して嘘を吐かず、裏切らない。

     愛するとはそういうことよ」



 壮絶なマリア・カラスの人生。だがそれは歌姫として選ばれた彼女の宿命でもあったと私は思う。

 足の爪先から髪の毛の先まで、私のカラダは歌で出来ていた。

 どんなことがあっても歌うことだけは諦めたくはない。

 歌は私のすべてだから。




 みんなが私から離れて行った中、義母の麗子さんと聡子、葵さんだけは私を励まし続けてくれた。


 「毎日のようにメロンが送られて来て大変なの。さあ琴ちゃん、召し上がれ」


 忙しい中、麗子さんは一日おきにいつも何かしらの差し入れをしてくれていた。

 


 「いつまでベッドで寝てばかりいるの? アンタ、歌姫なんでしょう? 甘えてるんじゃないわよ! また素敵な歌声をみんなに聴かせなさいよ! ライバルがいないとつまんないじゃないの!」


 聡子はそう言って泣いた。

 葵さんはいつも私の話を聞いてくれた。


 「琴子、何も焦ることはないわ。今は休憩時間なのよ、オペラ公演の途中のね? 

 錬三郎も本当は琴子に会いたくてしょうがないはず。でも彼はじっとそれを我慢しているわ。

 なぜだかわかる? それはあなたのことを本当に愛しているからよ。

 琴子に強くなって欲しいから、伝説の歌姫になって欲しいからだと思う。

 彼もまた自分と戦っているのよ。あなたと一緒に。

 歌子ちゃんも歩くようになったわ。だから琴子もがんばりなさい。これは絶望と言う名の「希望」なの。

 あなたが本当の歌姫になるための、神様が与えて下さった試練なの。

 神様は越えられない試練はお与えにならないわ。きっと琴子をいつも見守っていて下さるはずよ」

 「ありがとう。葵さん」


 彼女はベッドの私を優しく抱き締めてくれた。


 白血病で亡くなったミュージカル女優の本田美奈子は、歌っていると口の中に血が溜まり、それを吐き出し、うがいをしながら歌い続けたという。

 

 私はベッドから降りて点滴スタンドを引き摺りながら、病院の中を歩く訓練を始めた。

 それはまるで生まれたての小鹿のように。



最終話 Amazing Grace

 1年半の入院生活を終え、私は再び鎌倉の祖母の家に身を寄せることにした。

 私は意地っ張りな性格なので、錬三郎と歌子が暮らす自宅に帰る訳にはいかなかった。

 素直になれない自分がいた。



 「琴子。良かったわね? やっと退院出来て」

 「お婆ちゃま、またお世話になります」

 「人生は意外と永いものよ。これからどうするか? どうした方がいいか? よく考えることね?」

 

 私の心は既に決まっていた。

 

 (錬三郎と歌子とまた一緒に暮らしたい)


 だがそのきっかけが見つからなかった。





 クリスチャンだった私は、退院出来たことを神様に感謝するためにいつもの教会に礼拝に訪れていた。


 (イエス様、私はようやく退院することが出来ました。ありがとうございます)


 祈りを終えると牧師先生に声を掛けられた。



 「海音寺兄妹きょうだい、退院出来て本当に良かったですね? ところであなたのような著名なプリマドンナにこんなお願いをすることは失礼かもしれませんが、今度のクリスマス・イブのミサであの讃美歌、『Amazing Grace』をチャリティとして歌ってもらう訳にはいきませんでしょうか?」

 「牧師先生、今の私の声はまだこのような状態です。みなさんの前で歌うのはまだ時期尚早かと?」

 「歌は心で歌うものではありませんか? 私たちはあなたの「心の歌」が聴きたいのです」

 「心の歌?」

 「そうです、あなたが再び蘇った姿を見ることで、信者さんたちに生きることの素晴らしさを感じていただきたいのです」


 心の歌? 私は歌うべきだと思った。

 いや、歌わなければならないと思った。偉大なる主、イエスのために。そして信者さんと私のために。

 だがまだ歌うには声に不安があり、体調も万全とは言えない。

 毎日たくさんの薬を服用することで、私の体と精神はやっと支えられていたからだ。



 「わかりました。少し考えさせていただいてもよろしいでしょうか?」

 「もちろんです。いいお返事をお待ちしております」



 『Amazing Grace』を作詞したのはイギリス人の牧師、ジョン・ニュートンだった。

 讃美歌第二編第167番、『すばらしき神の恵み』


 彼は幼い頃から、敬虔なクリスチャンであった母親から聖書の読み聞かせをされるなど、キリスト教に強い影響を受けて育ったが、ジョンが7歳になって母が他界してからは、商船士官だった父親と一緒に船乗り見習いとなり、やがてアフリカの黒人奴隷貿易にも関わるようになり、富を築いて自堕落な生活に溺れていた。


 当時の奴隷輸送船はかなりの劣悪な環境で、人間として扱われていない奴隷たちの多くは、航海中に感染症や飢えで死んでしまったという。

 そんなある日のこと、英国への航海の途中、激しい嵐に遭遇し、流石のジョンも神に命乞いの祈りを捧げた。



    「主よ、どうか私をお助け下さい」



 すると積荷が船体に空いた穴を塞ぎ、浸水は収まり、ジョンは命拾いをした。

 ジョンはその日を契機に酒や賭博、女遊びを一切辞め、キリスト教に心酔していったが奴隷貿易を辞めることはなかった。

 ただし、これまでの奴隷に対する処遇の改善をしたらしい。


 それから7年後、彼は病気を理由に船を降り、神学を学び、教会への多額の献金を行い牧師となった。

 彼は様々な自分の奴隷に対する悪業を悔い改め、神の許しに感謝してこれを作詞したのが『Amazing Grace』だった。

 まだ声がちゃんと出ない自分に、この曲は重すぎた。


 

 それを聡子に話すと、


 「いいじゃない? やりなよそれ」

 「でもまだちゃんと歌うことが出来ないし・・・」

 「何を迷っているの? 歌はテクニックで歌うものではないでしょう? どうしてそんなことに拘るの? オルガンなら私が弾いてあげる。バカにしないで頂戴、もう以前の私じゃないんだから」

 「それは分かっているわよ。でも私はプロとして完璧に歌いたいの」

 「琴子の歌でみんなが励まされるなら素敵なことじゃない? そうだ、今夜、ちょっと私に付き合いなさいよ」

 「別にいいけど」





 聡子は私を新宿二丁目のゴールデン街に連れて行った。


 「何? オカマBARなら行かないわよ」

 「ちゃんとしたスナックだから安心して。コーラでいいから」


 

 その店は『アカシアの雨』という店だった。

 入口は間口1けんほどの店で、カウンターが6席だけの小さなお店に、お客は私たちふたりだけだった。

 花魁のような着物をだらしなく着た、50代くらいの色白細面ほそおもての妖艶なママがハイライトを吸っていた。

 左手首には無数の傷跡が覗いていた。


 (リストカッター?)


 「ママ、今日は私のマブダチを連れて来たんだ」

 「あら、綺麗な人ね?」

 「私のボトルまだある?」

 「アンタのじゃなくて裕太のボトルならあるわよ」

 「それは私のボトルだよ、だってお金を出したのは私だもん」

 「そりゃそうだ。あはははは」


 ママはそう言って、美味しそうにジャックダニエルのストレートを口にした。

 時代遅れのお店とママ。ここは昭和で時間が停止していた。



 「琴子はコーラでいいよね?」

 「うん」

 「ママの歌、すごくいいんだよ。心からの歌なんだ。

 ねえまま、いつものあれ、歌ってよ」


 ママはお酒とコーラを準備しながら、


 「いいわよ。でもあれを歌うとまたお酒が飲みたくなっちゃう。あはははは」

 「いいわよ驕るから」

 「そう? じゃあ歌おうかしら?」



 ママは私たちに各々グラスを置くと、カラオケのリモコンを操作してマイクを握った。

 曲は美空ひばりの『佐渡情話』だった。


 (演歌?)


 彼女が歌い始めた瞬間、私の全身の毛穴が粟立った。



     『佐渡情話』


     佐渡の荒磯の 岩かげに


     咲くは鹿の子の 百合の花・・・



 後から後から涙が零れた。

 お酒とタバコでしゃがれたダミ声。だがそこには彼女の壮絶な人生が浮かんで見えるようだった。

 ママは泣いていた。



 「ジーンと来ちゃった。ママの歌は最高だよ!

 ねえ琴子? 凄いでしょ? ママの歌の迫力!」


 私は完全に負けたと思った。この歌姫の私が。


 (そうなんだ! 歌は心で歌うものなんだ!)


 私は上手く歌う事ばかりを考えていた。錬三郎はそれを私に伝えたかったのだ!



 「ママはね? これを歌う時、抗争で亡くなったヤクザのご主人を偲んで歌うそうよ。心が締め付けられるようでしょう?

 あの本田美奈子が一時帰宅を許された時、ナースステーションの前でスタッフさんたちにお礼を込めて『Amazing Grace』を歌ったそうよ。

 お医者さんも看護師さんたちもみんな泣いたんですって。

 歌って、音楽って人を感動させることよね?」

 「ありがとう聡子。イブの夜、オルガンを弾いてくれる?」

 「もちろん! 琴子にはその力があるわ」


 私と聡子は抱き合って泣いた。





 

 当日、教会には錬三郎と義母の麗子さん、そして歌子。葵さんも来てくれた。



 (歌子、大きくなったなあ)


 歌子はもう2歳になっていた。

 錬三郎の膝の上にかわいい白のドレスを着て、お行儀よく座っていた。



 聡子のオルガン伴奏が始まった。私は錬三郎と歌子、そしてみんなのために精一杯の想いを込めて、『Amazing Grace』を歌った。




        『Amazing Grace』


    Amazing Grace

    How sweet the sound,

    That saved a wretch like me. .

    I once was lost but now am found,

    Was blind, but now, I see.



        『素晴らしき神の恵み』


    何と甘美な響きであろう

    私のような者までも救ってくださった

    かつて私は道に迷ったが

    見出してくださり

    盲目だった私は、今は見える



    ‘Twas Grace that taught.

    my heart to fear.

    And Grace, my fears relieved.

    How precious did that Grace appear. .

    the hour I first believed.


    神の恵みが私の心に恐れることを教えた

    そして、その恵みが私の恐れを解き放ってくれた

    神の恵みのなんと尊いことか

    私が初めて信じたその時



    Through many dangers, toils and snares. .

    we have already come.

    T’was Grace that brought us safe thus far. .

    and Grace will lead us home.


    これまで数多くの危機や苦しみ、誘惑を

    私は乗り越えてきたが、

    神の恵みこそが、私にこれほどの安らぎを与え

    ふるさとへと導いてくれた



    The Lord has promised good to me.

    His word my hope secures.

    He will my shield and portion be. .

    as long as life endures.


    主は私に良いことを約束された

    主のお言葉は私の望みを守ってくださる

    主は私の盾となり一部となるだろう

    わが命の続く限り



    When we’ve been here ten thousand years. .

    bright shining as the sun.

    We’ve no less days to sing God’s praise. .

    than when we’ve first begun.


    何万年経とうとも

    太陽のように明るく輝き続ける

    神への讃美を歌ってきた

    初めて歌った時と同じように。



    Amazing Grace, how sweet the sound,

    That saved a wretch like me. .

    I once was lost but now am found,

    Was blind, but now, I see.


    アメージング・グレース

    何と甘美な響きであろう

    私のような者までも救ってくださった

    かつて私は道に迷ったが

    見出してくださり

    盲目だった私は、今は見える




 私が歌い終わっても、教会の中は静まり返っていた。

 拍手をするのも忘れて、みんなが泣いている。




 「ママーっ!」



 歌子が私に向かって走って来るのが見えた。

 私も思わず歌子に駆け寄り、歌子を抱き締めて泣いた。

 ミルクの甘い香りがした。

 一斉に沸き起こる拍手喝采のスタンディングオベーション。

 その後からゆっくりと錬三郎が私に近づいて来る。



 「さあ帰ろう。僕たちの家に。

 今夜はイブの夜だから」



 聡子はオルガンでバッハの名曲、『主よ 人の望みの喜びを』を弾いてくれた。

 私は今、全身に神様を感じていた。



                      『歌姫(後編)』完



 【作者あとがき】


 これはフィクションであり、登場人物はすべて架空の人たちです。

 歌うことにすべてを捧げる琴子に伝説の歌姫、マリア・カラスの儚くも美しい人生を重ねてみました。

 すべての音楽を愛する人たちのために。


 お読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。


                            菊池昭仁





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【完結】歌姫(後編)(作品230824) 菊池昭仁 @landfall0810

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