【完結】歌姫(前編)(作品230427)

菊池昭仁

歌姫(前編)

第一楽章

第1話 薔薇『マリア・カラス』

           「私はあなたに#相応__ふさわ__#しい」


 それがこの薔薇、『マリア・カラス』の花言葉だった。


 太い茎にしっかりとした葉を広げ、大輪の花を咲かせる「孤高の薔薇」

 花びらの色は鮮血のような鮮やかな赤と淡い恋の色を混ぜたような、唯一無二の色をしていた。


 絶世のプリマドンナ、マリア・カラス。

 偉大なソプラニスタに与えられた称号。

 

 世界の聴衆を魅了し、いくつかの恋に身を焦がし、破れ、絶望の中で不慮の死を遂げた悲劇の#Diva__歌姫__#、マリア・カラス。


 #海音寺琴子__かいおんじことこ__#。彼女もまた、そんな儚くも美しいDivaだった。




 今日の聡子のピアノ伴奏のピアニッシモは、明らかに強すぎた。

 私は水鳥のダウンフェザーのような柔らかな音が欲しかった。

 ピアニッシモとは弱く弾くことではない。「女が男にやさしく囁くように弾く」という意味なのだ。



 琴子はベッドの軋む音にうんざりしながら、今日のソロコンサートのことを思い出していた。



 「はあ、はあ、はあ・・・」


 夫の荒い息遣いと単調な腰の律動が続いていた。


 (早く終わってくれないかしら? 明日も早いのに)


  夫、#輝信__てるのぶ__#の性処理の道具になっている自分が滑稽だった。

 私たち夫婦の終わりが始まろうとしていた。


 医学部の心臓外科の准教授をしている夫は、大きな手術を終えた後は必ず私を求めて来た。

 その行為はいつも自分勝手なもので、私のことなどお構いなしに行為は続けられた。

 私が生理の時でさえも平気で私を抱く夫。

 失敗の許されない命との闘い。激しいストレスを感じているのも分かるし、興奮している夫を癒してあげたいとも思う。だがそれは夫の輝信だけではない。ソプラノ歌手としての私も同じなのだ。

 毎日の体調管理と過酷なレッスン、筋トレ。ただでさえ私は食事アレルギーも多く、病弱だった。

 いかにその曲の歌詞の真髄を理解し、旋律に乗せてそれをどう表現するか? 毎日が戦いだった。

 家事との両立はすでに限界を超えていた。


 

 ある日、朝食を摂りながら私は夫に家政婦を雇うことを提案した。


 「ねえ、お金は私が払うから、家政婦さんを雇ってもいいかしら?」

 「家政婦? そんなの無駄だよ。君が専業主婦になればいいじゃないか? そしてその道楽の時間を減らせばいいだけの話だ」

 「歌うことが道楽だって言うの? 私は声楽を遊びでやっているわけじゃないわ! 親に大学院にまで行かせてもらったのよ! それを道楽だなんて酷い!」

 「琴子は声楽家である前に僕の妻だということを忘れないで欲しい。妻なら夫に尽くすのが当然じゃないか? 君は僕に教授になって欲しくはないのか? 兎に角、家政婦は必要ない!」


 夫はそれだけ言うと、そのまま病院へと家を出て行った。


 夫とは見合い結婚だった。

 開業医をしていた父親からの勧めもあり、私は彼とお付き合いを始めた。

 嫌いなタイプではなかった。横顔に知性が漂っていた。

 音大時代に同棲していた彼もいたが、彼は卒業してニューヨークへ留学し、私は院に進学して研究生となり、いつの間にかその恋は自然消滅してしまった。

 叶わぬ遠距離恋愛だった


 その後、彼はニューヨークでアメリカ人女性と結婚したと聡子から聞かされた。


 夫の家も医者の家系で、実家の病院は義兄が継ぎ、義父もまだ健在だった。

 ペンシルバニアから帰国したばかりの輝信は、私にはとても輝いて見えた。


 デートで南青山を散策している時、彼が言った。


 「一度、琴子さんのコンサートを観てみたいなあ。駄目ですか?」

 「じゃあ今度、上野の東京文化会館でべッリーニのオペラ、『ノルマ』をやるので見に来ます? チケットは用意しておきますから」

 「5枚買わせてもらってもいいですか? 医局の仲間にも琴子さんを自慢したいので。

 僕のお嫁さんになる君のことを」


 うれしかった。自分の仕事仲間にまで私のことを紹介したいと言ってくれた輝信が。

 そこで歌うCasta Diva『清らかな女神』はかなりの難曲だったが、私には歌いこなす自信があった。

 そんな彼との結婚も悪くはないと、私は思い始めていた。


第2話 情熱の薔薇

 チケットは完売となり、東京文化会館の大ホールの1階から5階までの全2,300席はすべてこのオペラを望む聴衆で埋め尽くされていた。


 この美しい建築物は上野西洋美術館などを手掛けたル・コルビジェの弟子でもあった建築家、前川國男の代表作でもあり、師匠の設計した正面の西洋美術館と対をなすモダニズム建築の傑作でもある。

 計算され尽くされた素晴らしい音響効果には定評があり、東京都交響楽団の本拠地で、海外の歌劇場が来日することも多く、ウイーン国立歌劇場の来日の際にはここを利用することが殆どだった。

 オペラを演じられる劇場はいくつかあるが、私はここ、東京文化会館の歴史に刻まれた音楽家たちの匂いと息遣い、音楽が好きだった。

 


 舞台袖で待機している時、自分の心臓の鼓動が聞こえるほど緊張する。

 出来ることなら今すぐこの場から逃げ出したいとさえ思う。

 体が震え、手と腋にじっとりと汗が滲んいるのが分かる。

 私はハンカチで手の汗を拭った。



 ベルディはベッリーニのこの長い旋律が、ショパンのノクターンに影響を与えたことは間違いないと言っている。


 ドルイド教徒の聖なる森で行われる神聖なる儀式。

 それに必要なヤドリ木を伐りに来た巫女の長、ノルマ。

 ただし、巫女でありながらノルマは総領事と恋に落ち、ふたりの子供を宿して密かに産んでいた。

 神、イルミンスールは預言する。

 ローマの占領軍の反乱は近いと。

 ドルイド教徒はその神託に期待をする。 


 森の中を流れる、小川のせせらぎのような弦楽器の旋律に乗せ、木漏れ日のようなフルートの音色がそれに続く。

 私は大きく深呼吸をして、お腹に手を当て腹筋を支えた。

 少し長い序章が続く。


 『ノルマ』第一幕 アリア Casta Diva「貞淑なる女神」


 「美しく清らかな女神よ その銀色に輝く聖なるヤドリ木よ その美しき輝きを我らにお向け下さい・・・」


 そう私が歌い始めた時、すべての雑念は吹き飛び、私はいつの間にか聖なる森の中にいた。


 細かな音符を歌いこなすコロラトゥーラと、オーケストラに負けない声量。私の演じるノルマは完璧だった。



 聴衆の溜息が聴こえる。私は聴衆と交わり、ひとつになった。 

 最高のエクスタシー。

 伸びやかな歌声が私の頭蓋骨を振動させ、この舞台に響き渡る。

  


 歌い終わると水を打ったように鎮まりかえるホール。

 そして、少し遅れて押し寄せた津波のようなスタンディング・オヴェーションと、鳴りやまない夏の夕立のような万雷の拍手喝采を私は全身に浴び続けた。

 私のアリア『貞淑なる女神』はそこにいるすべての人々を魅了した。

 

 


 「凄いな、木村、おまえのフィアンセは!」

 「俺も驚いたよ! まさかこんなに凄いとは思わなかった!

 俺は震えが止まらないよ!」

 「俺もオペラは好きだが、この『貞淑なる女神』はかなりの難曲でな、それをこれだけ完璧に歌いこなすとはなあ。

 すごく音符が細かい曲なんだ。マリア・カラスは500回にも及ぶオペラ公演の中で、この『貞淑なる女神』を89回も歌った。カンティエーラを形成して高いB♭を美しく歌い上げるテクニックは実に秀悦だ」

 「僕も高校の時、合唱部のピアノ伴奏をしていたからわかるけど、彼女のソプラノはかなりのレベルだね。イタリア語も完璧だがイタリアへの留学経験もあるのかい?」

 「さあどうかな? 今度聞いてみるよ」

 「歌の上手い日本人は多いが、殆どはイタリア語で躓く。

 外人が片言の日本語で歌う、演歌のようなものになってしまうからだ。彼女はイタリア語も歌声も、実に素晴らしいよ!」




 コンサートが終わり、楽屋に戻ると沢山の花束が届けられ、甘い華の香りに包まれていた。


 そしてその中でもひと際目を惹く、鮮やかな赤い薔薇の花束を私は見つけた。


 それは私の好きな薔薇、『マリア・カラス』の花束だった。

 薄い水色のメッセージカードが添えられていた。輝信からだった。



     海音寺琴子様


     君はすばらしいDivaだ!

     君にこの薔薇『Maria Callas』を贈ります。

     僕は君に狂ってしまいそうだ!


                    木村輝信


 私はその薔薇の花束を抱いて呟いた。


 「私もあなたを生涯を掛けて愛し続けます」と。


 カラダがとても熱く震えた。


第3話 恋のプレリュード

 彼に花束のお礼の電話をした。


 「海音寺です。昨日は素敵なお花をありがとうございました。

 私、あの薔薇が大好きなんです!」

 「それは良かった。琴子さんに似合う花だと思ってそれにしました。琴子さん同様、一目惚れです。

 その『マリア・カラス』という名前も気に入りました。

 舞台で朗々と歌う琴子さんを見ていると、プリマドンナ、マリア・カラスを見ているようでした。

 いや、それ以上かもしれない。

 実は僕、初めてだったんですよ、生でオペラを観るのが。

 オペラがあんなに素晴らしいものだとは思いませんでした。

 是非、また琴子さんの歌が聴きたいです」

 「ありがとうございます。私、歌う事が大好きなんです。歌が恋人であり、私の子供たちなんです」

 「歌が恋人かあ。僕もなりたいなあ、琴子さんの恋人に」


 うれしかった。私と私の歌を好きだというこの人が。

 それはつまり海音寺琴子という私自身と、声楽家、海音寺琴子のふたりを同時に愛してくれているということだった。

 それは私たちふたりが「似て非なるもの」として、同じ肉体の中に共存していることを意味する。

 歌っている時の私は琴子を離れ、その歌の主人公そのものが私に憑依していた。

 

 「またデートしませんか? 土曜日の夜はどうです? その日は病院の当直も無いので」

 「土曜日はレッスンと夜、打ち合わせがあるので日曜日の昼なら空いていますけど、輝信さんのご都合はいかがですか?」

 「わかりました。大丈夫です。では日曜日の昼10時にご自宅にお迎えに上がります」

 「わざわざすみません。でも私、ご存知の通りかなりの食アレルギーなので、また外食は限られてしまいますけど構いませんか?」

 「ご心配なく。僕、料理するのは好きなんですよ。BLTサンドとかなら食べられますか?」

 「食べられますけど、だったら私がお弁当を作りますよ。お料理は私も好きなので。でも味は保証出来ませんけどね? うふっ」


 私は密かに料理の腕を自慢するつもりだった。


 「ありがとうございます。でも、僕に作らせて欲しいんです。そしてもし、琴子さんに僕のBLTサンドを「美味しい」と褒めてもらえたら、その時は結婚を前提に正式にお付き合いをしていただきたいんです。それでどうでしょう? 駄目ですか?」

 「木村さんって面白い人ね? 私、結構味にはうるさいのよ。食べられる物が限られている分、舌が鋭敏なんです。では折角なのでお言葉に甘えて、お弁当、お願いしちゃおうかしら?」

 「はい! よろこんで!」


 その時、すでに私の判定は決まっていた。「凄く美味しいです!」に。




 日曜日は生憎の雨だった。

 彼は予定の時間より、少し早く家に迎えに来てくれた。

 私は服装を整え、ギリギリまで入念にお化粧をした。

 下着は「もしもの時」に備え、清楚な物を身に着けた。

 いつも時間には正確な輝信だった。

 医者としての誠実で几帳面な性格が伺える。


 シルバーのアルファロメオ。

 いかにも彼らしいクルマだと思った。

 父と母も輝信を温かく迎えてくれた。


 「輝信君、今日は少し天気が悪いようだが運転にはくれぐれも慎重にな。琴子のこと、よろしくお願いします」

 「はい、安全運転で行ってまいりますのでご安心下さい。

 きちんと法定速度は遵守いたしますので」

 「あはは、今日はどちらへ?」


 母も上機嫌だった。音楽家としてはそれなりのポジションを得ていた私ではあったが、両親からすれば適齢期を過ぎた娘の結婚は、最重要案件だったからだ。


 「はい、茨木の大洗水族館に行こうと考えています」

 「水族館デートなんてかわいいわね? 気を付けてね?」

 「うん、明るい内には帰ってくる予定だから大丈夫」

 「今夜はウチで夕食でもどうかね?」

 「ありがとうございます。では新鮮な魚介をたくさん仕入れて参ります」

 「じゃあ楽しみに待っているわね? 行ってらっしゃい」


 そう言って両親は私たちを見送ってくれた。


 この縁談は父も母も望んでいたものだった。

 顔も性格も良く、家柄も申し分はない。将来を嘱望された優秀な外科医の彼は、医大ではそれなりの地位に昇ることは確実だろう。

 同じ医者同士の家系でもあり、私の両親にとっても、これ以上の結婚相手はいない。

 だがその一方で、私は恋愛の難しさも十分味わった。

 どんなに好きで愛し合っていても、「縁」がなければ結婚には到達することは出来ないということを。

 そして所詮、結婚とは自分たちだけのものではなく、お互いの家同士の結び付きだということも。

 私は遠距離恋愛の彼との破局でそれを学んだ。



 ペンシルバニアでは白人女と付き合っていたのか、彼はごく自然に助手席のドアを開け、私をエスコートしてくれた。


 クルマが走り出すと、動くワイパーがメトロノームのように見えた。雨がスウィープされて弾き飛ばされてゆく。

 私はこんな雨のドライブデートも悪くはないと思った。



 「雨の水族館なんてヘンですよね?」

 「そうかしら? 私は好きですよ。水族館。

 動物園と水族館なら断然水族館です」

 「僕もです。良かった、気に入ってもらえて。かと言って雨の日のディズニーというのも何だかね?

 音楽、かけてもいいですか?」

 「どうぞ」

 「琴子さんはクラッシックじゃないとイヤですか?」

 「そんなことはありませんよ、いろいろ聴きます、私も。

 石川さゆりとか甲本ヒロトも好きですし、何でも聴きます。たまにカラオケで竹内まりやも歌いますよ」


 私は口に手を当て、少し笑ってみせた。

 私に対する「お堅い女」というイメージを払拭しておきたかったからだ。そうすることでこれからのお付き合いも、お互いにラクになるはずだから。


 「少し古いかもしれませんが、大瀧詠一でもいいですか?」

 「私も好きです、いいですよね? 大瀧詠一」


 彼がカーコンポのスイッチを入れた。

 私は大瀧詠一で良かったと思った。

 これでカーペンターズの『雨の日と月曜日は』などを聴かされた日には、たぶん彼への愛は冷めてしまっていたかもしれない。


 彼の運転するアルファロメオは、間も無く雨の首都高に乗った。


第4話 雨に濡れた砂浜

 ビルの森を抜け、倉庫街や工業地帯を過ぎると、クルマは海沿いの田園地帯に出た。

 大瀧詠一のアルバム『A LONG VACATION』も終わり、彼が私に訊ねた。


 「次は何を掛けます?」

 「雨も小降りになったから、少し窓を開けてもいいかしら?」

 「どうぞ。気分でも悪くなりましたか?」

 「ううん、東京の海とは違うから、海の香りを嗅いでみたくて」

 「そうでしたか? 海の香りっていいですよね? そして潮騒の音も」


 私は少し窓を開けた。

 やや湿った風が車内を潤す。

 ほんのりと磯の香りがした。耳を澄ますと微かに波音も聞こえる。

 私はようやくリラックスすることが出来た。


 「ここからあと1時間ほどです。昨夜は遅かったのですか? もし眠かったらシートを倒して眠って下さい。大洗に着いたら起こしてあげますから」

 「大丈夫です、眠くはありませんから。

 私、イタリアの海が大好きなんです。ここの海は地中海と同じ匂いがします。

 留学していたのは北イタリアの海のない街、ヴェローナだったんですけど、週末にはよくアドリア海やリビエラの海にも出掛けました」

 「やはり琴子さんはイタリアに留学をしていたんですね? どうりでイタリア語が堪能なわけだ」

 「オペラとイタリア語の勉強をするために3年間」

 「先日琴子さんのコンサートに一緒に伺った、同じ医局の奴が言っていたんです。「お前の彼女のイタリア語は完璧だ」って」

 「まだまだですよ、その地方によってはかなり言い回しや発音が異なりますから」

 「なるほど。イタリアも日本と同じで南北に長い国ですからね? 北海道、東北、関東、東海、関西。それに中国、四国、九州、沖縄など、言葉はかなり違いますからね?」

 「私の住んでいたヴェローナは、かなりフランスの影響を強く受けていました。特に食事。だから自炊することも多くて大変でした。

 魚を焼いていると下の大家さんのオバサンから、「死臭みたいな匂いがするから止めとくれ! まったく日本人はよくそんな物が喰えるね!」なんて叱られていました。だから日本に帰国した時は母に泣かれちゃいました。「こんなに痩せて・・・」って。うふっ」

 「じゃあハネムーンはイタリアにしましょう。僕も琴子さんが暮らしていた、そのヴェローナを見てみたいから」

 

 私は何も言わずに横顔で微笑んでみせた。




 大洗の水族館は太平洋に面した、水族館としては比較的こじんまりとしてはいたが、休日の日曜日ということもあり、館内は家族連れやカップルで賑わっていた。


 深海のような暗い館内を巡り、クラゲやマンボウの水槽を見ながらイワシの群れなどが泳ぐ、大型水槽のサメの前まで来ると、彼がさりげなく私と手を繫いだ。まるで目の前に置かれたオレンジを手に取るかのように、それはきわめて自然な行為だった。

 私たちは今、水族館デートをしていることを自覚した。


 「大きなサメですよねえ? こんなのに海では遭遇したらひとたまりもありませんよ。ここの大洗水族館のサメの飼育種類は日本一だそうです」

 

 イヤではなかった。私はその手を振り、解くこともせず、時折少し軽く握り返してもみた。

 それはふわふわとした、淡雪にやさしく触れるかのように。


 「サメって食べておいしいの? 食べたことないけど」

 「煮付けにして食べるところもあるようだけど、僕は食べたことがないなあ。ナマで刺身にしようとするとアンモニア臭が酷いらしい。

 中国人の食への執念は凄いよね? あのシッポを食べちゃうんだから。しかもあんな旨い料理にして」


 話し方が急にタメ口に変わった。

 女扱いに慣れていると思った。おそらく彼は私と手を繫ぐことで、酸性度を測るリトマス試験紙のように、私の自分への好感度を確認したようだ。

 私が彼に対してかなり愛情を抱いているということを。


 「ふかひれの姿煮とかなら私、食べられますよ。贅沢な女でしょう? 私って」

 「へえー、そうなんだ。フカヒレを食べることが出来るなら、今度、ご馳走するよ」

 「姿煮だけだけどね? それをアレンジした物はちょと苦手かも」


 私は慎重に言葉を選んだ。

 「駄目」というより「苦手」と言った方が、私の食を容認してくれそうな気がしたからだ。


 


 売店で、私が聡子へのおみやげにと、キーホルダーを見ていると、


 「誰かにおみやげ?」

 「うん、いつも私のピアノ伴奏をしてくれている音大からの友人に」

 「これなんかどう? イルカのやつ」


 彼はイルカのキーホルダーを私に見せた。


 「これ、かわいいかも」

 「じゃあこれにしよう」


 そう言って彼はそのイルカのキーホルダーをふたつ取るとレジへ向かった。そしてひとつを私にプレゼントしてくれた。


 「はい、これは琴子ちゃんの分。婚約キーホルダー。あはははは」


 (琴子ちゃん?)


 彼はその時、初めて私のことを「琴子ちゃん」と、ちゃん付けで呼んだ。

 

 「ありがとう」


 照れ臭かった。イルカのキーホルダーよりも、「琴子ちゃん」と親しみを込めて私を呼んでくれたことに。

 私はすっかり彼にリードされていた。



 自動販売機で彼が飲み物を買おうとした時、


 「琴子ちゃんは珈琲とコーラなら飲めるんだったよね? どっちがいい? 僕の作ったサンドイッチにはコーラが合うと思うんだけど」

 「じゃあコーラで」

 「それじゃ僕もコーラにしようかな? 琴子ちゃんと同じコーラに」


 そう言って彼はコーラを2本買った。

 遠距離恋愛をしていた彼と別れて、その後何人かの男性とも付き合ったが長くは続かず、ここ1年はこんなときめきを忘れていたことに私は気付いた。

 そして自分は寂しかったのだと。

 



 小雨が降っていたのでランチは外のベンチではなく、クルマの中で摂ることにした。


 正面に太平洋を臨む、比較的駐車しているクルマが少ないところにクルマを移動させ、彼がサンドイッチの入ったスタバの手提げ袋からサンドイッチの入ったアルミホイルを取り出し、私に渡してくれた。


 「本当は綺麗な箱に入れて来ようと思ったんだけど、帰りに荷物になるし、後で洗い物をするのも面倒だしね? 捨てられるようにアルミホイルで包んで紙袋に入れて来たんだ。

 紙袋はスタバのやつにした。ちょっと美味しそうに見えるかと思ってね?」


 すると彼は予め用意してくれていた、紙ナプキンを広げ、私の膝に掛けてくれた。


 「綺麗な服が汚れちゃうといけないから」


 こんな気配りが出来る男性は初めてだった。

 おそらく他の女にも同じこことをしているだろう。

 それでも平気だった。私を王女様のようにやさしく接してくれる彼の心遣いがうれしかった。

 

 「ありがとう。おいしければ何でもいいわ。たとえお気に入りのこのワンピが汚れてしまっても」


 そう、このサンドイッチの味の評価はすでに決まっている。「すごく美味しい!」と。

 そしてそれは彼を受け入れることへの同意なのだ。



 だが、彼のBLTサンドはありきたりのそれではなかった。

 それは私の予想をはるかに超えた物だった。


 採れたての有機野菜であろう、少し青臭さのあるトマトとシャキシャキとした歯触りのよさそうな新鮮な力強いレタス。そしてベーコンは、おそらくパルマ産だと推測されるような物が少し厚く切られ、フライパンを敢えて使わず、過度に油っぽくならないように軽くグリルでローストされていた。


 もちろんパンも名の知れたパン屋の物で、全粒粉を使い、パンの厚みも具材とのバランスをよく考えられた、絶妙にスライスされた物だった。

 パンには軽く粒マスタードを混ぜたマヨネーズが塗られているようで、敢えて私が食べることの出来ないバターは外してあった。


 ベーコンをマイルドにするために、チーズはゴーダとチェダーの2種類が使われていた。


 おそらく彼は、これを作るために前日から食材を集め、朝早く起きて私の為にこれを一生懸命作ってくれたはずだった。


 私はそれを見ただけで泣き出してしまった。

 慌てる輝信。


 「どうしたの琴子ちゃん? 何か気に障るようなサンドイッチだった? 食べられない物は残していいよ! 僕が食べるから!」


 私は首を横に振った。


 「そうじゃないの、そうじゃないのよ、うれしいの、とっても」

 「えっ?」

 「あなたが私のために作ってくれたこのサンドイッチ。勿体なくて食べることが出来ないくらい。嬉しくて」


 すると彼はホッとしたようで、


 「なーんだあ、それなら良かった。俺、何かやらかしたかと思ったよ。でも泣くなら食べてからにして欲しいな」

 「うん・・・、いただきます」


 私は一口それを食べた。

 今まで食べたどのサンドイッチよりも美味しかった。


 「美味しい! こんなに美味しいサンドイッチ、初めて食べた!」


 私はあまりの美味しさとうれしさで、予め用意していたセリフがすべて吹き飛んでしまった。


 「じゃあ約束通り、僕と婚約してくれるね?」


 私はコクリと頷いた。


 「琴子のこと、必ずしあわせにするよ。約束する、絶対に」


 「琴子ちゃん」から今度は「琴子」に昇格した。

 そして彼の唇が私の唇をやさしく捉えた。

 それはとてもスウィーティなキスの味がした。


 私たちは再び食事を再開した。

 

 「うん、これは美味い! 自分で言うのもどうかと思うけどね? あはははは」



 雨が上がった。

 彼が大瀧詠一の『雨のウエンズデイ』を流し始めると、曲に合わせて軽く口ずさむ彼がいた。

   

   壊れかけたワーゲンの ボンネットに腰掛けて

   何か少ししゃべりなよ 静か過ぎるから・・・


 彼は私の肩を抱いて、今度は少し長いキスをした。

 BLTサンドと、コーラの味がした。



 食事を終え、私たちはクルマを降りて雨に濡れた砂浜を手を繫いで裸足で歩いた。

 イタリアの海辺を散歩しているようだった。


 本気の熱いキスをした。

 それは私がとうに忘れていた、カラダが蕩けてしまいそうな「愛のある口づけ」だった。


 その時私の頭の中ではプッチーニの『蝶々夫人』のアリア、マリア・カラスが唄う「ある晴れた日に」が鳴っていた。


 私たちの恋の第1幕が今、始まろうとしていた。


第5話 家族の一員としての晩餐

 身体が火照る。

 普通の男ならそのままホテルへ誘うところだが、彼はそうはしなかった。


 「市場に寄って食材を仕入れないとね? そういえば琴子のお父さんとお母さんは辛子明太子は好き?」

 「父は大好物よ。よく日本酒や焼酎を明太子で呑んでいるわ。

 もちろんご飯のおかずとしてもお気に入りよ」


 うれしかった。私のカラダだけが目的じゃなく、私との結婚を本気で考えてくれているからこそ、私の両親にまで気を遣ってくれていることに。


 私の食アレルギーは母親譲りだった。

 厄介なものを受継いでしまったと思うこともあるが、音楽の素養はその母からの贈物だったから文句は言えない。


 「大洗には見学が出来る明太子の加工工場があるんだ。そこで直売されている物をおみやげに買って帰ろう。辛子明太子のソフトクリームもあるんだよ。ちょっと琴子には無理だろうけどね?

 アイスに辛子明太子なんてね?」


 輝信の細やかな気配りがここでも感じられた。

 私が魚卵を受け付けないかどうか、それとなく確認してくれていた。

 もし私が「それ、食べてみたい!」とはしゃげばマル。それに反応がなければバツだと考えているはずだ。

 ある意味、私は分かり易いとも言える。食べられない物を挙げるよりも、食べられる物を列挙した方が少ないからだ。


 「私 魚卵系はダメなの」

 「そうか? じゃあ琴子には市場で別な物を買ってあげるよ」

 「ありがとう」


 私たちは輝信の作ったサンドイッチを食べ終えると、その明太子のテーマパークへと向かった。




 私は彼と腕を組み、甘えた。

 ガラス越しに明太子の製造加工工程を見学した。

 それはまるで私たちが以前からずっと付き合っている恋人同士のように。

 


 彼が明太子の味見コーナーで切子の試食をした。


 「うん、旨い! これならお義父さんもきっと喜んでくれるはずだ! この会社と同じスーパーの商品と比較しても、まるで違う物だよ!」


 彼は医局と自分の分も合わせて、たくさんの明太子を買った。


 「そんなに買うの? 明太子のお店でもやるつもり?」

 「だって俺、好きなんだよ、辛子明太子」


 そう言って笑う彼が少年のようで、とても可愛らしく思えた。


 「ねえ琴子。辛子明太子のおにぎりもここの名物らしいんだけど、食べてもいいかな?」

 「もちろん。あなたがそうしたければ私に遠慮しないで。そうじゃないとお互い永くは付き合えないから」


 それはこれからの私たち家族への「未来宣言」だった。

 私は彼について行く覚悟を決めた。



 漁協の近くの魚市場では様々な魚介類を購入し、私たちは帰途に就いた。


 クルマの中ではずっと彼の太腿に手を置き、彼も片手でステアリングを握り、私と手を重ねてくれた。

 私は彼の肩に頬を寄せた。


 帰りのクルマではずっと『横浜エフエム』を聞いていた。

 

 懐かしいエア・サプライのナンバー。

 夕焼けが眩しくガラスウォールのビルにオレンジ色に反射している。

 私たちにはもう、言葉は要らなかった。




 実家の両親は彼を歓待してくれた。


 「まあこんなに沢山! 当分お魚は買わなくても済むわね?

 お魚屋さんが出来るくらいだわ。

 あなたの好きな辛子明太子もあるわよ」

 「悪いね輝信君。私の大好物なんだよコレ。患者さんには痛風になるから魚卵はダメだと言っているのに自分は辞められないんだ。困った医者だよ。あはははは」



 私たちは家族のように打ち解け、飲んで食べて、そして笑った。

 彼だけはクルマなのでウーロン茶だった。


 

 「そうか? 大洗も良さそうなところだなあ。

 特にその「めんたいパーク」とやらが気になる。

 母さん、私たちも今度の週末に行ってみるか? 大洗に?」


 「海もしばらく行ってないわね?」


 母は少し寂しそうな顔をした。父はクリニックの女医と不倫をしていた。


 「輝信君、今日はウチに泊まっていったらどうだね?」

 「ありがとうございます。今度ゆっくりとご相伴させていただきます。もちろん先輩医学者としてのご意見も伺いながら」

 「そうかあ、それは残念だなあ」

 「すみません。明日は午後から教授のオペの第一助手につくものですから今日はこれで」

 「それなら仕方がない。君はゆくゆくはあの大学の学長になるドクターだからな? 心臓外科の世界的権威として」

 「ありがとうございます。ではまたお邪魔させて下さい」

 

 すると父は洋酒のキャビネットからお気に入りのヘネシーのXOを彼に渡した。


 「帰ったらこれで寝酒に一杯やりなさい」

 「いいんですか? こんな高価な物を?」

 「帰り、クルマの運転に気を付けてな」

 「はい。ありがとうございます」



 私たちは彼のクルマを見送った。


 「いい青年じゃないか? 彼なら婿として合格だ」

 「琴子にその気があるならね。彼、モテそうだから」


 母からそんな話が出るとは思わなかった。

 母も父とはお見合い結婚だったと聞いたことがある。

 そして父が人を褒めるのも、あまりないことだった。

 やはり輝信は結婚相手としては申し分のない相手なのかもしれない。


 

 母と後片付けを終え、少し長めの入浴をし、私は今日の事を振り返った。

 それはまるで韓流ドラマのように爽やかでしあわせな一日だった。


 

 ベッドに入っても中々寝付けなかった。今日があまりにも楽し過ぎて。

 その時、彼からのLINEの着信を知らせるアラームが鳴った。


    今日は楽しかったよ

    ありがとう

    今度はゆっくり会おうね

    おやすみ 琴子


 私もすぐに返事を返した。


              私も凄く楽しかった♡

              今度は私がお料理を作って

              ごちそうします!

              お楽しみに♡

              運転、疲れたでしょう?

              ゆっくり休んでね!

              おやすみなさい、ダーリン♡


 するとまたすぐに彼から返信が来た。


    愛しているよ 琴子


         

              私も♡


 

 そんな中学生のような遣り取りがうれしかった。

 

 私は彼を抱き締めるように、スマホを抱いたまま眠りに落ちて行った。


第6話 青天の霹靂

 朝起きて洗顔を終えると、私はエスプレッソ・マシーンのスイッチを入れる。

 それがいつもの朝のルーティーンだった。

 朝食は摂らない。


 デミタスカップに注がれたエスプレッソにお砂糖を3杯。

 

 ヴェローナに留学している時からの習慣だった。


 中丸三千繪のアリアを聴く。

 まるでイタリア人のようなイタリア語の発音、そして凄まじいまでの表現力。

 この小さな体でこのようにダイナミック且つパワフルで繊細な発声が可能になるのだろう? 

 彼女はアスリートのような毎日の筋肉トレーニングを欠かさないという。


 イタリア人以外で初めて、『マリア・カラス コンクール』で優勝を飾ったプリマドンナ、中丸三千繪。


 私はカップの底に残ったエスプレッソ・シュガーをスプーンで掬い、それを舐めた。

 私は彼女の歌声を聴く度に、軽い嫉妬を覚える。

 

 「いつか超えてみせる」と。





 今日の手術室で流されている音楽もまた、黒沢教授のお気に入りのワーグナーだった。

 カラヤン指揮、ベルリンフィル演奏の『歌劇 タンホイザー』  


 「ではこれより大動脈弁置換術を行う」

 「おろしくお願いします」


 かなり難易度の高い術式に、オペ室は心地良い緊張感に包まれていた。

 

 まるで有名なフレンチ・シェフが料理をするかのように優雅で美しいオペ。

 カテーテル治療の技術が飛躍的に進歩したとは言え、やはり外科的心臓手術はまだ主流なのだ。


 「メッツェン」

 「はい」


 オペ看の沙也は次に何を繰り出すべきかを常にシュミレーションしている。

 絶妙なタイミングとスピードで黒沢教授に正確なパスをしていく。

 沙也はきわめて優秀なオペ看だった。



 オペをしながら教授が私に話し掛けて来た。


 「木村君はペンシルバニアのシュナイダー教授のところにいたんだっけ?」

 「はい、2年ほどお世話になりました」


 私は縫合を続けながらそのように返答した。


 「縫合が早くて正確だね?」

 「ありがとうございます」

 「ペアン」

 「はい」

 「オペでは予想外の突発的なことが起きることもある。

 開腹してみないとわからないことも多い。その時、いかに冷静にその状況を打開するか、そこに外科医としてのスキルが問われる。電メス」

 「はい」


 肉の焼け焦げる嫌な匂いがした。


 「右、冠動脈弁剥離完了。人工心臓スタンバイ」

 「スタンバイしました」

 「フローダウン、バックアップ」


 黒沢教授がまるで千手観音のように見える。

 淀みのない鮮やかな手の動き。

 

 凄まじい集中力の中での私との会話。

 この人の頭脳はいったいどうなっているのだろう?

 おそらく教授にはこの患者のカラダが3Dで捉えられているはずだ。


 早い。そして実に正確だった。

 これが「ゴッドハンド」と称される所以なのだろうと感心する。




 8時間にも及ぶ大手術が終了した。

 肉体はクタクタだったが頭は冴え渡り、命を救った達成感に私はいつものように興奮していた。


 「おつかれさん」

 「お疲れ様でした!」


 

 手術室を出る時、沙也とアイコンタクトをした。


 (先に行っているわね?)

 (俺もすぐに行くよ)




 大学病院を出ようとした時、黒沢教授から呼び止められた。


 「木村君、ちょっと付き合え」

 「はい」


 教授からの誘いは絶対だった。

 私はタクシーの中で沙也にLINEを送った。


 

 ゴメン 教授に捕まった


             しょうがないよ

             じゃあ また今度ね?

             大好きよ 輝信



 

 黒沢教授が常連だという、銀座の鉄板焼きの店でステーキをご馳走になった。

 

 パワフルな人だった。1ポンドの肉を旨そうに食べている。

 天才とは常人離れしているものだが、まさに黒沢教授はその典型だった。


 「オペの後はいつもこれなんだよ、肉がいちばんだ」


 教授はボルドーのヴィンテージワインのグラスを一気に空けた。


 「実に旨いワインだ! 特に無事に手術が成功した後はな! あはははは」


 黒沢教授はご機嫌だった。

 私は空になったワイングラスにすぐにワインを注いだ。



 「今日の君の第一助手は見事だった。君は確かまだ独身だったよな?」

 「はい」

 「将来はどうするつもりだ? 大学に残るのかね? それとも町医者として開業するとか?」

 「大学で臨床を続けたいと思っています」

 「だったら好きな女とは結婚は出来ないな?」

 「どうしてですか?」

 「白い巨塔で上に行くためには腕がいいだけじゃ駄目だ。それなりの政治力が必要になる。

 そしてその時に有効な力になるのが女、女房だ」


 教授は一口大にカットされた松坂牛を続けて2つ、口に入れた。


 「君には期待しているんだ、木村君。

 俺はいずれこの大学の学長になるつもりだ。そして君には僕の跡を継いで循環器外科の教授になってもらいたいと考えている」

 「ありがとうございます」

 「俺の女房はな? 神奈川県医師会の会長の娘なんだよ。知性と教養、美貌を持ち合わせた「万人受けする教授夫人」だ。

 だが好きではないし、愛してもいない。アクセサリーのような女だ。

 まあ男にとって女は所詮、アクセサリーだがね?

 俺はそうして30台の若さで教授になった。

 公務員と銀行員がエリートだという田舎の地方都市で生まれ、俺は貧しい農家の次男坊として育った。

 だから俺は医者になって金持ちになりたかった。

 でかい屋敷に住んで高級車の後部座席に乗り、旨いメシをたらふく食べて、何人もの女を抱く。

 開業医のボンボンでもなく、会社の社長の御曹司でもないこの俺が出世するには「種馬」として女とその一族を利用するしかなかった。

 いいか木村、女なんてカネと権力さえあれば選び放題、やりたい放題だ。勝手に向こうから寄って来る。

 角砂糖に群がるアリのようにだ。

 愛だの恋だの、つまらん恋愛に溺れてはいかん。人生を棒に振るな木村。

 今、好きな女はいるのか?」

 「ええ、まあ。結婚しようと考えている女性がいます」

 「その女は使える女か?」

 「使える?・・・」

 「利用する価値はあるのかと言う話だ。悪いことは言わん。その結婚は諦めろ。

 そしてその代わりと言っては何だが、俺の娘と結婚しろ。種馬になれ。

 親の俺が言うのもなんだが才色兼備の自慢の娘だ。君は次男坊だったよな? 悪いようにはせん、俺たちで日本の医学界を支配しようじゃないか! なあ息子よ! あはははは」


 その時は酒の席での酔いにまかせた戯言だと思っていた。

 だがそれはそうではなかった。



 翌日の昼近く、私は黒沢教授に呼ばれた。


 教授室に伺うと、そこにはロングヘアーのスレンダーな女性が微笑んで立っていた。


 「夕べ話していた娘の#朋華__ともか__#だ。どうだ? 中々の美人だろう?」


 教授の娘はそれに照れることもなく、自信たっぷりに言った。


 「はじめまして、黒沢朋華です。

 父がいつもお世話#して__・__#います。あはははは。

 輝信さんって写真で拝見するよりも実物の方がずっと素敵ね?

 パパ、私、この人でいいわ。この人にする!」

 「そうか? 気に入ったか? 木村君のことが? それじゃパパと同じだな? パパも木村君が好きだ。わはははは」


 教授は財布から1万円を出し、それを私に渡した。


 「もうすぐ昼だ。これでふたりで何か美味い物でも食べて来なさい」

 「ありがとうパパ! 私、今日の気分はお寿司かなあ? 早く行きましょう、お店が混まないうちに。て、る、の、ぶ。あはははは」



 そう言って教授の娘は私と腕を組んだ。

 それはまさに「青天の霹靂」だった。


第7話 広がる3つの波紋

 まだ12時を過ぎていないせいか、サラリーマンやOLの姿は疎らだった。

 

 商店街を鮨屋に向かって歩いていると、


 「ねえ、食べてから#する__・__#? それとも#して__・__#から食べる?」

 

 私はそんな彼女の戯言に付き合う気はなかった。



 「早く行かないと折角の人気ランチが品切れになってしまいますよ」


 私は彼女を急かせた。



 その店は名の知れた高級店で、ランチと言っても5,000円からが相場だった。

 商談としての昼の接待か、イタリアンやフレンチを食べ飽きた、セレブママたちの見栄を張り合う店だった。

 先日はママ友たちの会話にうんざりした。


 「あら田代さんの奥様。新作のCHANELじゃないですかあ」

 「ウチの旦那、ちょっと最近#おいた__・__#をしたからその罰金で買っちゃったのよ」

 「とってもお似合いです」

 「ありがとう。ところで佐伯さん、直人君の中学お受験、よろしければ力になるわよ。#今回の__・__#本命はどこにしたの? 幼稚園と小学校ではお気の毒でしたものねえ」

 「学力的には合格ラインのようなんですけれど、主人の両親と意見が合わなくて」

 「そんなの無視しちゃえばいいのよ。だって決めるのは子供でも、ましてや姑たちでもないんだから」

 「では田代さんのお宅ではどなたがお決めになられたのですか?」

 「わたくしに決まっているじゃありませんか。面白い方ね? 佐伯さんは。

 息子を産んで育てたのはこの私なんですから。子供は母親の分身でしょ?」

 「凄いですわ田代様は。ご長男は東大を出て財務官僚、ご次男は脳外科医だなんて。子育ての秘訣を本にされてはどうですか?」

 「お勉強しなさいなんて一度も言ったことはありませんのよ。勉強しているところもあまり見たことがありませんでした。親に似ないで#天才肌__・__#なのよねえ」

 「羨ましいわ、そんな優秀なお子さんたちをお持ちで」

 「優秀? 優秀な子は沢山いるけど、天才は突然変異ですからねえ」


 ママ友たちの見栄の張り合いに、折角の鮨もその時は不味く感じた。

 でも敢えてこの店を選んだのには理由があった。

 このご令嬢がうんざりして、長居しなくても済むと期待したからだ。



 「別にお寿司じゃなくても良かったのにー。

 私的にはエッチしてからお食事なんだけどなあ。

 だって食べてからだと正常位の時、お腹が膨れちゃて邪魔になるでしょう? 激しくすると気持ち悪くなるし。

 空腹でやるSEXは感じ易いし、それに運動した後のビールって最高じゃない?」

 「からかわないで下さいよ。僕はあなたの父上に「ランチをして来なさい」とは言われましたが、そんなことまでしろなんて言われていませんから。

 あなたは私の大切な接待相手、ゲストなんです」

 「そんなつまらないこと言ってないでホテル、行こうよ。

 ラブホでもいいわよ。きれいで広くて防音だし、色んなグッズも置いてあるしね?

 ねっ、早くホテル行こ! ホ・テ・ル!

 男と女が長続きするかどうかなんて、所詮はカラダの相性なのよ。

 だってそういうカラダの構造になっているでしょう? 男と女は。

 そもそも日本人はセックスを特別視しすぎるのよ。不潔で淫靡な行為として捉えている。

 それはセックスの本当の快感を知らないからよ。

 愛の延長線にあるのが「男女の交わり」なのに。バッカみたい。

 あなた医者なんだからそれくらい理解出来るわよね?」


 (試されている)


 私はそう感じた。

 彼女は私の「男としての器」を測っているのだと。

 その誘いには正解など存在しない。仮に彼女とベッドを共にしたとしても、彼女が満足しなければそれで終わる。そしてそれを拒否しても「無粋な男」として評価されてしまうだろう。

 

 「兎に角お寿司を食べましょう。ここの鮨屋はおすすめですから」

 「しょうがないなあ。じゃあお寿司を食べてからしましょうね? うふっ」


 私はその問いを無視して鮨屋の暖簾をくぐった。

 


 「いらっしゃいませ」


 私たちはカウンターに並んで座った。


 「お任せ握りを2つお願いします。朋華さんは苦手な物はありますか?」

 「真面目でつまらない男が苦手」


 30代半ばの若い店主は笑った。海外の一流ホテルで寿司を握っていた経験もあり、白人相手のジョークはかなり鍛えられていた。

 その場が急に和やかになった。



 「大将、ジャンジャン握って頂戴。苦手な物は全部この人に食べさせるから大丈夫」

 「それならお任せ下さいマドモアゼル。木村様のお好きな物をご提供させていただきますので。

 それから私はお魚と女性を見る目だけは確かだと自負しております。

 お客様は本当はやさしい素敵な方です」

 「流石は大将。女を見る目はありそうね? あはははは。

 ビール頂戴! 輝信、あなたも飲みなさいよ」

 「僕は3時から午後の外来がありますから駄目ですよ」

 「いいじゃない、ちょっとくらい。

 酒臭い医者なんかザラにいるわよ? アル中の医者もね?」

 「私は「真面目でつまらない医者」なので」

 「ホント、つまんない男。

 でもいいわ、私が面白い男に育ててあげる」


 朋華は不思議な魅力を持った女だった。

 話せば話すほど興味が湧いて来る。

 医局員たちの話では、彼女はマサチューセッツ工科大学で量子力学を学んだ才媛だと言っていた。

 いわゆる「理系女子」というヤツらしい。

 理系なら何故、父親の跡を継いで医者にならなかったのだろう?



 「なんなの! この蒸し穴子! チョー美味しいんですけど! 大将、お替り!」

 「ありがとうございます。一応、江戸前ですからね」

 「穴子の美味しい店に外れはないってパパも言っていたわ。それから生もお替りーっ!」


 カウンターの老紳士たちも朋華にやさしい目を向けて微笑んでいた。



 楽しいランチタイムだった。

 店を出ると彼女が歩きながらどこかへ電話を掛けた。


 「あっパパ? 私。うん、とても気に入ったわ。うんうん。私もそう思った! あはははは。この人に決めたから。うん、じゃあね。バイバーイ」


 朋華が電話を切ると、


 「今日の夜はヒマかしら?」

 「今日の夜はちょっと」

 「何? 彼女とヤル日なの? じゃあ明日は? 明日の夜ならいいでしょう? 金曜の夜だし」

 「金曜の夜なら・・・」


 迂闊だった。私は正直に答えてしまった。


 「じゃあ決まり! 金曜の夜7時にさっきのお鮨屋さんで。遅れちゃ駄目よ! 遅れたらお尻に浣腸しちゃうから! あはははは」


 台風のような女だった。

 高速で動く頭の回転の速さといい、その豪快な笑い方といい、どことなく父親である黒沢教授に似ていると思った。



 

 今夜は沙也との密会だった。

 沙也は放射線技師の旦那と結婚してはいたが、子供はいなかった。既にセックスレスだとも言っていた。


 「スキンシップなんて結婚して半年でなくなったわ。

 でもね、仲が悪いわけじゃないの。夫婦なんてそんなものよ」


 私と彼女は世に言う「不倫」だった。

 大きな手術の後には必ずお互いを激しく求めた。



 「夕べはすごく寂しくて、しょうがないから自分でしちゃった」

 「ごめん、昨日はかなり遅くまで黒沢教授に付き合わされてしまったんだ」

 「それはおつかれさま・・・」



 私たちのいつもの儀式が始まった。


 うっ んっつ あ あ あ・・・ はっ うんっ はっ はっ あん・・・


 沙也の快感を必死に堪えようとする淫らな喘ぎと、結合した濡れた局部の音がホテルの中を彷徨っていた。


 沙也は行為の最中、殆ど言葉を発しない。

 普通の女のように「イク」とか、「それ、いい」とかは言わず、いつも喘ぎ声のみだった。

 彼女に一度、それについて訊いてみたことがある。


 「沙也はどうして「イク」とか、「いいわ」とか言わないの? 俺では不満なのか?」


 すると沙也は恥ずかしそうに言った。


 「だって気持ち良すぎて、そんなこと言っているヒマがないからよ」


 いい女だと思った。

 そして沙也は「都合のいい人妻」だった。


 医学生の頃から女に不自由はしなかった。

 だが、実際には膨大な勉強量を課せられ、デートをしている余裕などあまりなかったのが現実だった。

 医学部に在学中に医学生同士で学生結婚する奴らも少なくはなかった。

 特に親が開業医の女子学生たちはそうだった。

 将来有望な医者になりそうな男と既成事実を作ってしまうしたたかな女子学生もいた。

 彼女たちは幼い頃から人生の損得について十分に教育されて育っていたのだ。

 


 そんな沙也との関係も、次第にマンネリ化していった。

 そんな時だった、琴子との見合いの話が来たのは。



 ホテルでの帰り際、私は彼女に言った。


 「見合い、したんだ」

 「あらそう? じゃあ今度からはダブル不倫ね?」

 「そろそろ俺たち、終わりにしないか?」

 「どうして? それなら安心して、「私と結婚して!」なんて泣き喚いたりしないから。私は別に構わないわよ、今まで通り、あなたの「都合のいいセフレ」で」


 沙也はニヤリと笑った。

 その時私の背筋に悪寒が走った。

 どうやら彼女は私と別れる気はないらしい。


 私はシャツを着て、ネクタイを締めながらぼんやりと考えていた。


 (それもアリか?)と。



 

 約束の金曜日の夜がやって来た。

 待ち合わせの時間より少し早く店に着いた。

 店の引戸を開けると、すでに朋華は日本酒を飲みながら刺身を摘まんでいた。


 「あーあ、大将、私の負けね? じゃあ、私の苦手なウニを握って頂戴」

 「かしこまりました」

 

 すると店主はサッとウニ軍艦を朋華のカウンターの前に置いた。


 「じゃあ、食べるわよ! いい? ちゃんと見ていてね?」

 

 彼女は目をつぶってウニを食べた。


 「んっん? 美味しい! すごく美味しい! なにこれ!」


 彼女は食べず嫌いだったのだ。


 「どうです? おいしいでしょう? 三陸のバフンウニです」

 「大将! お替わりー!」


 店主は笑っていた。


 「大将と賭けをしていたのよ。あなたが遅れて来るかどうか?

 私はね、遅れて来る方に賭けたの。そしたら負けちゃった」

 「私は木村様をよく存じ上げております故、この賭けに勝つことは確信しておりました。木村様は時間に正確な方ですから。

 でもそれでお嫌いだったウニの美味しさを知ることが出来たのですから良かったじゃないですか? Win,Winでしたねこの勝負。朋華さん?」


 彼女はすでに自分のことを店主に「朋華さん」と、ファーストネームで呼ばせていた。

 父親譲りの人心掌握術だった。


 「それもそうね? あはははは」


 朋華と大将が笑っている。


 「取り敢えずビールを下さい。後は天ぷらをお任せで」



 楽しい酒だった。

 天真爛漫の朋華。大人の色香漂う沙也。

 そして歌姫、琴子。


 私は黒沢教授の言葉を思い出していた。


   「医学者になりたければ好きな女とは結婚は出来ない」


 というあの言葉を。


 私の心に3つの石が投じられた。

 そしてその波紋は互いに干渉し合い、不思議な模様を私の心に広げていった。


第8話 切ない横顔

 店を出ると、ウイスキーグラスに入れたボール・アイスのような月が夜空に飾られていた。


 朋華は私と腕を絡ませ、甘えてみせた。


 「夜のヨコハマの海が見たい」

 「横浜の海?」

 「そう、横浜の海が見たいの。ねえ、連れて行って」

 「電車でもいい? ここからタクシーは勿体ないから」

 「タクシーじゃなくて、電車がいい」


 私たちはJR湘南・新宿ラインに乗った。

 


 眠らないメタルシティ、東京。

 私たちを乗せた電車は、都会の光の森の中を駆け抜けてゆく。

 朋華は終始無言で、私と手を恋人繋ぎをして寄り添っている。

 鮨屋では香水を着けていなかった朋華だが、今はやさしいフローラルの香りを纏っていた。


 (ブルガリ?)


 おそらく電車に乗る前に寄った化粧室で着けたのだろう。

 食事での香水は料理の味と香りを損ない、料理人はもちろん、周りのお客への非礼になってしまう。

 このじゃじゃ馬も、それくらいの気配りは心得ているようだ。




 横浜駅からシーバスに乗船し、潮風が心地良いデッキに出ると、朋華は私の腕をしっかりと掴んで頬を寄せた。

 

 海面に揺れる横浜の夜景がまるでクリスマス・イルミネーションのように煌めいていた。

 たくさんの船舶が停泊している。

 大桟橋にも外国の巨大豪華客船が接岸されていた。


 「夜の横浜港って好き・・・」


 朋華は誰に言うでもなく、そう呟いた。



 終点の山下公園桟橋で降りた私たちは、公園のベンチに並んで座った。

 

 「君はどうしてお父さんの跡を継いで医者にならなかったの?」

 「幼い頃からずっと天才外科医と言われた父を見て来たからよ」

 「大変だと思った?」

 「その逆。やがて人間の医者は必要なくなると思ったから。

 特に外科医はね?」

 「僕もそう思うよ。いずれ人は死ななくなるのかもしれない」

 「外科医のくせに面白いことを言うのね?」

 「昔、男の寿命は50年だった。そして1世紀も過ぎないうちに100歳を超えてもなお人は生きている。

 ちょっと前までは60才で定年を迎えると、そこから10年そこそこで年金も殆ど受け取ることもなく、痴呆になる前に死んでいった。

 機械のカラダと人工知能。

 そう遠くない未来に、そんなことが御伽噺ではなくなる日が来るかもしれない。まだ肉体があった頃の人間の記憶だけを残して」

 「だから私は日本を飛び出してアメリカのMIT(マサチューセッツ工科大学)で量子力学を学ぶことにしたの。

 あなたは医者だから、多少の知識はあるかもしれないわね?」

 「量子力学と量子物理学って違うんだろう?」

 「物理学と経済学くらいの違いがあるわ」

 「高校の時、物理の教師が『シュレンガー方程式』についてレクチャーしてくれたのは覚えているよ。

 原子の世界ではニュートンの運動方程式、F=ma が成立しないことと、光は粒子と波動で出来ているという話をしていた気がする。

 アインシュタインの「時間の流れとは相対的である」という特殊相対性理論は大学で学んだ。

 X、Y、Zの三次元に時間という概念を加えた四次元理論を」

 「この宇宙に存在するすべての物質は陽子、電子、中性子で出来ているということよ。

 壮大な真理だと思わない? 量子力学って?

 そして私は高校生の時に『Dirac方程式』と出会い、その美しい数式に魅了されてしまったの」

 「それなのにどうして研究環境の整ったアメリカを離れ、日本へ戻って来たの?」

 「あなたと出会って結婚するためよ。そして赤ちゃんをたくさん産んで育てるの。私の王国を作るためにね?」


 彼女はそう、お道化て見せた。

 私はそれ以上追及するのを止めた。

 彼女がなぜ日本に帰って来たのかなど、私にはどうでもいい話だったからだ。


 「悪いが僕には婚約者がいるんだ」

 「だから何? 例えあなたが結婚していて子供までいようとも私には何の障害にもならないわ。別れちゃえばいい話なんだから。その恋人や家族と。この世は殆どの事はお金で解決出来ちゃうでしょ? でも私の価値はお金では計れないわよ。必ずあなたを私の虜にしてみせる」

 「君は随分と自信家なんだね?」

 「あなたもペンシルバニアで学んだはずよ。自信を持って自分の考えをぶつけないと、彼ら白人はその考えがどんなに優れていようとも、けっしてそれを認めようとはしないということを」


 彼女の言う通りだった。

 日本人は自分の本心を隠すことが美徳だとされて来た。

 だかそれは国際社会では通用しない。

 ディベートではすぐに敗北してしまう。


 朋華に突然キスをされた。

 私は拒否することもせずに、それを受け入れてしまった。

 

 「強く抱き締めて。そして愛してるって言って」

 

 私は彼女を少し強く抱き締めたが、何も言わなかった。

 

 「もっと強く、骨が折れてもいいから。

 不安なの、すごく。

 愛されたいの、あなたに・・・。

 だから今は嘘でもいい、愛してるって言って欲しいの、お願い」


 そう懇願する朋華はまるで別人のようだった。

 伝わる。彼女の深い寂しさと、言い知れようのない哀しみが。

 おそらく彼女には恋人も友人もいないはずだ。

 それは出来ないのではなく、敢えて作らないのだろう。

 面倒だから? 私にはそれを失いたくないからではないかと思えた。


 「好きだよ、君が。

 でも愛してるとは言えない。僕には婚約者がいて、そしてまだ君のことを知らないし、君も僕のことをよく知らないからだ」

 「じゃあ、わかり合いましょうよ、あそこで」

 

 彼女はホテル『NEW GRAND』に目を向けた。

 その横顔がとても切なかった。守ってやりたいと思った。


 私たちはそこへ向かって静かに歩き始めた。

 私は確かめてみたかったのだ。黒沢朋華という、演技ではないこの女の真の姿を。

 そしてどれが本当の私の進むべき道なのかを。




 その頃、琴子は何度も輝信にLINEをしたが既読にはならなかった。

 彼の携帯にかけてみても留守電になってしまう。


 (忙しいのかしら? 緊急のオペとか?)


 輝信とは毎日、電話やLINEをしてはいたが、いつも連絡をするのは私の方からだった。

 彼から「会いたい」という言葉もなく、私が「今度いつ会えるの?」と訊いても、「今、来月学会で発表する論文の作成で忙しいんだ。それが完成したら会おう」


 何かが以前の輝信とは明らかに違う気がした。

 あんなにやさしく、積極的だった輝信が。


 私は防音室でTHE BLUE HEARTSの『情熱の薔薇』を大音量で聴いた。


 (輝信のばか・・・)


 手に持ったままのスマホが冷たく感じた。


第9話 親友 聡子

 朋華とのデュエトは、今までに経験したことがないほど甘美なものだった。


 私の乳首を長い舌でチロチロと舐めながら、硬直した私のそれを弄んでいる。


 「これ、いいでしょう?」

 「うっ、うん・・・」


 あまりの彼女のテクニックに、私はつい声を出してしまった。

 このまま彼女にイニシアチブを握られるわけにはいかない。今度は私が上になろうとした時、先に彼女に滑り込まれてしまった。


 朋華は私のはち切れそうに硬く膨張したそれを口に含むと、


 「もっと気持ち良くしてあげましょうか? でもダメよ、すぐに出しちゃ」


 彼女の髪が私の下半身をスウィープし、朋華の温かい口の感触が心地いい。

 それを絶妙な緩急をつけて上下させながら、淫らな音を立て、朋華はリズミカルにそれを繰り返した。


 このままでは彼女の口内に射精してしまうと考えた私は、彼女の口から自分を抜き去り、身体を反転させると反撃を始めた。


 かなり大きめの彼女の陰核を、私は何の予告もなしに強く吸った。

 通常であれば触れるか触れないかくらいのやさしさで開始されるクンニリングスが、彼女には意外だったようで、朋華のカラダがビクンと大きく反応した。


 すでに花弁は蜜で溢れ、私は熟した桃にしゃぶりつくように、音を立てて愛液を啜った。


 ジュルジュル ジュルジュプ


 次第に高音になってゆく朋華の喘ぎ声。

 さほど時を待たずして朋華はガクガクとカラダを痙攣させ、途切れ途切れに言った。


 「イッちゃった・・・」


 彼女の荒い息遣いに私は我を忘れて行為に没頭した。

 そして朋華も何度も私に戦いを挑んで来た。



 私たちはいつの間にか疲れて眠ってしまい、そのまま朝を迎えた。

 ヨコハマの街はまだ薄紫のまま沈黙している。

 時折通る新聞配達のバイクの音だけが聞こえた。


 「かわいい顔して眠っていたわ」

  

 彼女はそう言って私にフレンチ・キスをした。

 船の出港する合図なのか、霧笛が聴こえる。


 彼女はベッドを降り、何も纏わず窓辺に立った。

 きゅっとせり上がった美しいヒップライン、くびれたウエスト、形のいいツンとしたバストはまるでパリコレのモデルのようだった。

 私は彼女のカラダに見惚れた。


 「此処から見える山下公園、そしてヨコハマの港。すごく素敵」

 「そんな恰好でいると、ジョギングしているランナーに見られてしまうよ」

 「見られても平気よ。私のヌードは世界一だから」

 「君が平気でも僕が困る」


 私はパウダールームからバスローブを取って来ると、朋華の背中にそれをそっと掛け、後ろからやさしく抱きしめた。


 「ありがとう、やさしいのね?」

 「先にシャワーを浴びるよ。君はゆっくり湯舟に浸かるといい」

 「その前にもう一度、夕べの続きがしたい」


 私たちのフレンチ・モーニングは続いた。





 琴子は音楽サロンのリハーサル室でベルディの代表作、歌劇『アイーダ』の練習を始めようとしていた。


 ファラオの時代に引き裂かれたエジプトとエチオピアの男女の悲恋を描いたオペラだ。


 ラダメスは神託によりエジプトの若き司令官となるが、王女アムネリスに仕える隷女、アイーダと恋に落ちてしまう。

 ラダメスに恋心を寄せるアムネリスはアイーダに嫉妬する。

 アイーダはエチオピア王の娘だった。

 そしてアイーダはラダメスと父が争うのを嘆き、神に自らの死を願う。

 最後にラダメスは反逆者としての烙印を押され、「地下牢で生き埋めの刑にせよ」と判決が下されてしまう。

 地下牢にはアイーダが潜んでいて、この世で愛を遂げられないのであれば、死んであの世で一緒になることを誓い合うふたり。  

 そしてラダメスとアイーダが死んでゆくという悲しい物語だ。

 


 「始めるわよ聡子、よろしくね?」

 「まかせて頂戴、私の大好きなベルディちゃんの『アイーダ』なんだから」

 「じゃあ第一幕の頭からお願い」


 だが今日は思ったような声が出せなかった。

 理由はわかっている。彼のことで頭が一杯になっていたからだ。


 聡子がピアノ伴奏を止めた。


 「どうしたの琴子? ぜんぜん駄目じゃない! 体調でも悪いの?」

 「ちょっと疲れてるだけ。最近、寝不足だし」

 「体調管理はプロとして最も大切な事よ。琴子の歌が聴きたくて、お客さんたちはお金を払ってコンサートに来てくれるんだから。

 何か悩みでもあるの? 彼とは順調なんでしょう? あの「イルカ王子」の彼とは?」


 聡子はクルマのキーに付けた、あのイルカのキーホルダーをぶらぶらさせて見せた。


 「最近ご無沙汰なのよ、彼と」

 「いやらしいわねえ? ご無沙汰だなんて」

 「勘違いしないでよ、まだ彼とはそんな関係じゃないんだから」

 「えーっ! 昭和なの! 結婚の約束までしているのにまだヤッてないなんて信じらんない! 

 もしカラダの相性が合わなかったら最悪じゃない!」


 聡子の言う通りだった。

 別にお互いにその気がないわけではなかったが、タイミングを逸してしまっていたのは事実だった。


 もちろん私はバージンではなかった。だが今度の恋は結婚を前提とした真剣なものだったので単なる成り行きでは関係を持ちたくはなかったのだ。


 「これじゃ今日は練習にならないわね? ちょっと早いけど飲みに行かない? これじゃどうせやっても喉を傷めるだけよ」


 私と聡子は行きつけのオーガニックBARへと向かった。



 

 「いつものでいいわよね?」

 「うん」

 「すみませーん!」


 するとウエイターのジュンがやって来た。

 金髪サラサラヘアのジャニーズ系美男子。

 彼は機械工学を学ぶ大学生バイトで、聡子とは10才以上も歳が離れている。


 聡子は姉とふたり姉妹だったこともあり、弟みたいな年下のジュンが好みだった。

 そして2年前に彼と別れた聡子は今、恋人募集中。


 

 「取り敢えずいつものね?」

 「モヒートと野菜のバーニャカウダー、アサリのガーリック炒め。それから茹でピーナッツにカプレーゼでしたよね? 殆どおつまみは聡子ネエが食べちゃいますけどね?」

 「いいじゃないのよお、琴子は小食動物で私は肉食獣なんだからあ。ガオーッ! あはははは」


 聡子はジュンに襲い掛かるふりをしておどけて笑っていた。


 「ボク、ライオンとか好きですよ。聡子ネエみたいなライオンさんなら食べられちゃいたいなあ」

 「いいわよー、じゃあ今度デートしよう! 焼肉デート。

 ジュンはまだ学生だから聡子お姉ちゃんが御馳走してあげる!」

 「えーっ、本気にしちゃいますよー。ボク、年上が好みですから」

 「じゃあ後で連絡するから携帯番号教えて?」

 「はい、よろこんで!」


 聡子の行動の素早さにはいつも迷いがない。

 結果を気にせす行動出来る聡子を私はいつも羨ましく思っていた。


 音大時代からそうだった。

 「これは!」というかわいい男子がいると、すぐに自分から声を掛けてしまうのだ。

 だがそれはどれも長続きはしなかった。

 彼女は音楽も恋愛も、熱し易くて冷めやすい性格でもあったからだ。

 それでもピアニストの聡子はそれでいいのかもしれない。

 オペラと違い、ピアノ曲は無限に存在しているからだ。


 私はその時、リヒャルト・シュトラウスの歌劇『薔薇の騎士』を思い出していた。


 18世紀のウイーン。ハプスブルグ家のマリア・テレジアに統治されていた時代、17歳の若き貴族、オクタヴィアンをカンカンと愛称で呼び、歳の離れた夫の陸軍元帥のいない間を狙って寝室に彼を招き入れ、度々関係を持ってしまう元帥侯爵夫人、テレーズ31才。

 テレーズはそんな若い彼との情愛を重ねてゆく度、自分が老いていくことへの恐怖を覚え始める。


 「この城のすべての時計を停めてしまいたい」と。


 そして彼女は預言するのだ。


 「カンカン、じきにあなたは私よりも若くて美しい女性に夢中になるはずよ」

 「そんなことはありません。私はあなたを愛しています」


 だがテレーズの予言した通り、彼はゾソフィーという若い娘に一目惚れしてしまい、「銀の薔薇」を彼女に差し出して愛を告げる。


 テレーゼは言う。


 「わたくしはあなたと、あなたが愛するゾソフィーをも愛します」と。


 私も聡子もどんどん年を重ねて行くのだ。

 時は私たちを待ってはくれない。


 聡子はモヒートを飲み、私は親指と人差し指で人参スティックを摘まむと、バーニャカウダーを付けて肩肘をついてそれを齧ってみた。


 「それでその後、お医者様の彼とは会っていないの?」

 「こっちから連絡してデートに誘っても、論文作成で忙しいとか言われて」

 「まあ大学病院の臨床医だから仕方がないけどねー。ヤリたくないのかしら? だってまだヤリたい盛りでしょう? 彼?

 もしかしてそっち系だったりして?」

 「それはないと思うけど・・・」

 「琴子だってアメリカに行っちゃった彼と別れてからずっとご無沙汰なんでしょう? あるわよね? 性欲?」

 「あんたもう酔ってるの?」

 「真面目な話よ。男と女の真面目なエッチの話」


 聡子が言うのも頷けなくもない。

 男性の肌の温もりに癒されたいと思うこともある。

 だがそれは私から誘うべきことではない。聡子と私では性格が違い過ぎた。


 「でも琴子、ちょっと不謹慎かもしれないけど、今度の定期公演の『アイーダ』にはぴったりかもね?

 恋に揺れる乙女心、琴子の歌唱力とその彼への揺れる想いが合体すれば、きっとすばらしい『アイーダ』になるんじゃないかしら?」

 「そうかなあ。でもそれってちっと辛いかも・・・」


 その時、テーブルに置いた琴子のスマホが鳴った。輝信からだった。


 「今、電話しても大丈夫?」

 「ちょっと待ってて、今、移動するから」


 胸が高鳴った。

 私は聡子にゴメンのポーズをした。

 すると彼女は親指を立てて微笑み、「よかったね」と口パクをして喜んでくれた。


 

 小走りに女子トイレに駆け込み、息を切らせて私はスマホを口元に寄せた。


 「ごめんなさい、はあはあ、聡子と今、食事をしていたものだから」

 「そうだったんだ。じゃあ用件だけ言うね? 今度の金曜日の予定は?」

 「何もないけど?」


 私はデートのお誘いだと直感した。


 「ふたりで「ブルーノート東京」に行かないか? 僕の好きな小野リサが歌うんだけどどう?」

 「別にいいけど」

 

 今すぐにでも彼に抱き付きたい気分だったが、私は必死で悦びを抑えた。


 「じゃあ金曜日、開けて置いてね? チケットは用意しておくから」

 「うん、わかった!」


 電話を切った後、私はスマホを握り締め、軽くジャンプしてしまった。

 金曜の夜が待ち遠しかった。



 テーブルに戻ると聡子がニヤニヤして私を待っていた。


 「その顔はデートのお誘いね?

 ということで今日は琴子の奢りだからね?

 ジュン、モヒートお替りーっ! ジョッキで頂戴!」


 私たちは学生時代の時のように笑った。

 持つべきものは親友だと感じた。


 (ありがとう、聡子)


第10話 とまどうペリカン

 明日のブルーノート東京のことを考えるとワクワクして眠ることが出来なかった。


 輝信と会える。


 彼との話題について行きたくて、小野リサのCDを買い求め、何度も聴いて予習をした。

 

 彼と秋の夜に聴く透明感のあるリサのボサノバ。

 明日着て行く服を選ぶためにどんどん時間が費やされていく。


 香水は既に決めていた。


   CHANEL#19


 調香師 アンリ・ロベールの傑作。ココ・シャネルの最後の一品といわれ、#19とは彼女の誕生日である8月19日から名付けられたパルファムだった。


 大胆で凛とした香り。「求められる 自由で意志の強い女性」をイメージして作られた香水。




 いつもなら家まで迎えに来てくれる輝信だったが、今日は直接現地で待ち合わせだった。

 私は家を出る時間ギリギリまで入念にメイクを施し、今日、そうなるであろうために、下着はほのかな桜色のかわいい物を身に着けた。




 ブルーノートには待ち合わせの5分前に到着したが、輝信はすでに入口で私を待っていてくれた。

 眉間に皺を寄せ、スマホを見ている。


 「ごめんね? 待った?」


 彼はカーキー色のロングコートのポケットにスマホをすぐに仕舞った。

 さっきまでの険しい表情は消え、いつものやさしい笑顔になっていた。


 「僕も今来たところだよ。それに約束の時間にまだ5分もある。寒いからとりあえず中に入ろう」



 私たちはクロークにコートを預け、レストランのテーブルに腰を据えた。

 料理はコース料理にした。

 食べられない物は輝信が食べてくれた。食事中の会話は少なかった。


 

 小野リサのコンサートが始まった。ブルーに照明が落とされ、リサだけがスポットライトに照らされている。


 最初の曲は『イパネマの娘』だった。


 ピアノ、ウッドベース、ガット・ギター、フルート、パーカッション、ドラム。そしてブラスはトランペットとテナーサックスという編成だった。

 

 ボサノバはエイト・ビートが基本のブラジル発祥の音楽だ。

 ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンは日本でも知られている。


 語り掛けるような温かく軽やかな歌声。

 まるでイパネマの街のような旋律に乗って、気持ち良く漂うように歌う小野リサ。

 私はデートに来ていることも忘れ、同じ歌い手としての小野リサの歌声に聴き入っていた。


 『カリオカ』『コルコヴァード』『黒いオルフェ』そしてボサノバにアレンジされた『シェルブールの雨傘』『Fly me to the Moon』と懐かしいナンバーが続く。


 小野リサは歌う、


私を月に連れて行って

   そしてキスして

   手を握って キスをして

   私の心を歌で満たして

   そして ずっと歌っていたいの

   あなたは私の待ち望んだすべてだから

   尊敬と愛情のすべてなの



 オペラのような大掛かりなものではないが、客席との距離が近いため、聴衆との一体感が直に伝わる。


 曲によって表情と声が微妙に変化して行く。

 歌詞の内容をよく理解し、その情景をイメージしながら大切に歌っているのが伺えた。




 あっという間のコンサートだった。

 ブルーノートを出た時、私はさりげなく彼と腕を絡ませた。

 彼の横顔を見た時、その厳しい横顔に思わず私は腕を解いてしまった。


 「少し歩くんだけど、いいBARがあるんだ」

 「うん」


 私たちは無言のまま、その店に向かって歩いた。

 さっきまでの熱く満たされた時間がみるみる冷めていった。

 私は嫌な予感がした。 




 そのBARは渋谷のセンター街にあった。

 店内に沁み付いたタバコの匂いと、邪魔にならないスタンダードなJAZZが流れている。



 「この店は昔、松田優作もよく来ていたらしい。 

 そしていつもここでラム・ソーダを飲んでいたそうだ。

 松田優作らしい酒だと思わないかい? ラム・ソーダなんて。

 琴子は何がいい?」

 「私はテキーラ・サンセットを」


 それは「今夜、私を慰めて」という意味のカクテルだった。


 「すみません、テキーラ・サンセットとジプシーを」

 「かしこまりました」


 (この人、テキーラ・サンセットのカクテルの意味を知っているのかしら?)


 だが私が彼の頼んだ「ジプシー」というカクテルの言葉の意味を知るのは、間もなくのことだった。

 そのカクテル言葉は「しばしの別れ」という意味だった。


 目の前に置かれたふたつのカクテル。

 その時、彼が耳を疑うようなことを言った。


 「婚約、白紙に戻したい」


 その時、すべての音が消え、時間が止まった。

 

 (私、悪い夢でも見ているの?)


 私は言葉を失った。


 「・・・」

 「ゴメン、僕からお願いした婚約だったのに」

 「なんで? どうして? 私、あなたに嫌われるようなことした?」


 馬鹿なことを訊いてしまったと後悔した。

 それは普通の女が言う陳腐なセリフだ。

 それで彼の出した結論が覆るわけでもないのに。



 「君をしあわせにする自信がなくなったんだ」


 (しあわせにする自信がない? しあわせにするのにどうして自信が必要なの?)


 私はようやくそれを怒りに変換することが出来た。


 「何それ! 結婚してくれって言ったのはあなたの方じゃない!」


 私はカクテルを彼の顔に浴びせ、席を立った。


 「人をなんだと思っているの! 二度と私の前に現れないで!」



 私はそのまま店を飛び出した。

 彼に追いかけて来て欲しかった。

 でも彼は私を追いかけては来なかった。


 どこからか、陽水の『とまどうペリカン』が聴こえて来た。



   夜のどこかに隠された あなたの瞳が囁く

   どうか今夜の行き先を 教えておくれと囁く

   私も今 寂しい時だから 教えるのはすぐ出来る・・・



 私はライオンに捨てられた、とまどうペリカンだった。 

 夜の渋谷の街が涙の海に沈んで行く。



 

 私はどうやって家に帰って来たのかさえ覚えてはいなかった。

 氷のナイフのような彼の言葉が胸に突き刺さったまま溶けない。

 涙が止まらない。泣いても泣いても涙が止まらなかった。

 本気で彼を愛していた。私の未来予想図は呆気なく消えたのだ。


 (忘れよう、傷はまだ浅いはずだから。

 私は悪い夢を見ていたんだわ)


 せめてもの救いは、まだ迷宮の入口だったということだった。

 私はお風呂にも入らず、そのままベッドに仰向けになった。

 天井が歪んで見えた。


 眠ることも出来ず、私はそのまま朝を迎えた。

 外は冷たい雨が降っているようだった。


第11話 卑怯者になれ

 琴子が激怒するのも無理はなかった。

 私は琴子によって掛けられた、テキーラ・サンセットを拭いもせず、自分のカクテル、「ジプシー」を一気に飲み干した。


 バーテンダーがおしぼりを渡してくれた。


 「よろしければお使い下さい」

 「ありがとう。テキーラを下さい」

 「かしこまりました」


 テキーラにライムを絞り、呷った。

 喉が焼けるように熱い。鼻から抜けるテキーラとライムの鮮烈な香り。

 そしてジョン・コルトレーンのJAZZ。

 今の私は思い切り酔いたい気分だった。


 さっき琴子が店を出て行った時、すぐにでも彼女を追い駆けたい自分と、それを必死に止めようとするふたりの自分がいた。

 琴子は何も悪くはない。私が彼女に酷い仕打ちをしたのだ。

 私はなんて身勝手な男なのだろう。

 琴子と朋華を天秤に掛けるなんて。


 即断即決が本分の、外科医の私が聞いて呆れる。

 医学者としての保証された未来と、人間らしく愛に満ちた人生。

 損得勘定だけで考えるのなら、もちろん朋華を選ぶべきだろう。

 だが、それが素直に出来ない自分もいた。

 

 琴子と結婚したい。愛した女と結婚したい。

 だがその決断をするには勇気が必要だった。

 普通の外科医として生きる勇気が。


 私は琴子を本気で愛していた。

 彼女の女としての魅力と、あの女神のような歌声。


 朋華とのセックスは忘れ難いものではあったが、私が彼女を抱いたのはおそらく、彼女への「同情」だったはずだ。

 ふと彼女が見せた、普段は誰にも見せないであろう「淋しげな横顔」に私は惹かれたのだ。

 だがそれは愛ではない。

 


 その時、朋華から着信があったが、私はそれを無視した。

 今はとても話せるような気分ではなかった。


 すると今度はLINEが何度も送られて来た。短文だったので既読にはしなかった。


    今どこ?


    すぐ来て!


    今すぐ来て!



 私はスマホの電源を切った。





 コンコンコン


 「琴ちゃん、入るわよー」


 朝、私がいつものエスプレッソを飲みに降りて来ないのを心配して、母が部屋にやって来た。

 服を着たままベッドに横になっている私を見て、母はすべてを悟ったようだった。


 「木村君と喧嘩でもしたの?」

 「婚約、白紙にしたいって・・・」

 

 母は私の傍に来て、私の髪を子供の頃のように撫でてくれた。


 「そうだったの。それは辛かったわね?」

 「ママーっ!」


 私は母にしがみ付いて号泣した。

 母は私の背中をやさしく摩りながら言った。


 「白紙に戻したいってただそれだけ? 他に何か言われなかった?」


 私は首を横に振った。


 「ただ一言、「白紙にしたい」ってそれだけ。

 そして注文した彼のカクテルが「ジプシー」だったの」

 「そのカクテルの意味は確か「しばしの別れ」だったわよね?

 でもそれなら大丈夫。木村君は琴ちゃんのことを振ったわけじゃないわ。多分、迷っているんだと思う。

だから「しばしの別れ」なんじゃないかしら?

 それにもしキッパリと琴ちゃんと別れたいのなら、小野リサのコンサートになんかに誘うかしら?「別れてくれ」ってメールか電話で済む話じゃないの?

 「白紙にしたい」ということは、心の整理がつくまで「少し待っていて欲しい」ということじゃないかしら。

 出会った頃の気持ちに戻って真剣に琴ちゃんとの将来を考えてみたいということだとママは思うけど。

 もしかすると大学病院の偉い人から「ウチの娘と付き合わないか?」なんて言われたんじゃないの? 出世のためにとか?」

 「そうかしら?」


 私の心に少しだけ希望の光が差した。

 思えばその言葉があまりにショックで店をそのまま飛び出しては来たが、その後にもしかするとまだ彼の話が残っていたのかもしれない。

 私はようやく自分を俯瞰して見ることが出来た。


 「でもね、これは恋愛マイスターのママからのアドバイスだけど、もし彼から連絡が来ても、1度はそれを無視しなさい。

 すると彼は焦るはずだから。

 「あの時、自分はなんて馬鹿なことを言ってしまったんだろう」と後悔させてあげなさい。

 でも2回目の電話には出なさい。そしてなるべく冷めた態度でこう言うの。「今更何の用?」って。

 そうして立場を逆転させないと後がたいへんだから。

 賢い女は男を立ててあげながら、ちゃんと操縦しないとね? ママみたいに。うふっ。

 だって琴子は木村君と一緒になりたいんでしょう?」


 私は子供のようにコクリと頷いた。

 

 「ママもあなた位の時にね、結婚の約束をした人がいたの。凄く素敵な人だったわ。ハンサムでやさしくて頭も良くてね。今でもその人の事が好き。

 琴子が本当に木村君のことが好きならこの勝負、必ず勝ちなさい」

 「でも、彼から連絡なんて本当に来るかしら?」

 「安心しなさい。週明けには必ず電話してくるはずだから。

 ママを信じなさい。この恋愛経験豊富なママの言うことを」


 そう言って、母は笑って私を励ましてくれた。


 「さあお風呂に入ってらっしゃい。ゆっくりとね?

 エスプレッソ、用意しておいてあげるから」

 「ありがとうママ」



 私は湯舟に浸かりながら昨夜のことを考えていた。

 冷静に思い起こせば母の言う通りだと思った。

 別れ話をするために、わざわざ私を小野リサのコンサートになんか誘うはずはない。

 兎に角母が言うように、彼から連絡が来るのを待ってみよう。

 それでもし、彼からのアプローチがなければそれまでの話だ。


 私は竹内まりやの『不思議なピーチパイ』をハミングした。




 医局でシュナイダー博士の最新論文を読んでいると、黒沢教授から呼び出された。

 話の内容は大体の予想はついていた。


 

 教授室に入る前、秘書の潤子さんに用件を伝えた。


 「教授に呼ばれたのですが」

 「珈琲がいいかしら? それともルイボスティ?」

 「すみません、じゃあ珈琲で」

 「了解」


 彼女の電話応対には定評があった。

 どんなクレームや難題を吹っ掛けて来る相手にも皆、最後には笑顔に変えてしまう。

 帰国子女でもあり英語はネイティブ、そしてフランス語と中国語にも堪能だった。

 教授秘書として彼女の右に出る者はいない。

 ナースや女医たちの憧れの存在でもあった。


 「教授、木村先生がいらっしゃいました」

 「通してくれ」

 「かしこまりました」


 私が教授室に入ろうとした時、潤子さんがそっと私に耳打ちしてくれた。

 

 「10分ほど前に朋華さんが中に入って行ったわよ。がんばってね? 負けちゃ駄目よ」


 だがそれは私の想定内だった。



 「失礼します」

 「おお悪いねー、忙しいところを呼び出してしまって」

 「いえ、ご用件は?」

 「まあ座りたまえ」


 だがそこに朋華の姿はなかった。おそらくベランダか、クローゼットにでも隠れているのだろう。私と教授の話を聞くために。

 

 潤子さんが珈琲を持って入って来た。

 私の前にそっと珈琲を置いて、彼女は教授室を出て行った。


 潤子さんが退室して、黒沢教授はゆっくりと話しを始めた。


 「カネと権力を持つにはどうすればいいと思うかね?」

 「まずそれを求めることが必要だと思います」

 「そりゃそうだ。そしてカネも権力も要らないという人間はいない。ガンジーやマザーテレサでもない限りはな? 結論から言おう。それは「卑怯者になる」ということだよ。

 周りからのやっかみ、嫉妬、妬みや誹謗中傷などを気にせず、「この卑怯者! 死ね!」と罵られる、本物の卑怯者になることだよ。それが出来なければ君はそこそこの心臓外科医で終わる。

 最近、朋華を無視しているそうじゃないか? 父親としては穏やかではないなあ。

 まさか君は私の大切な娘を「中古車」にして乗り捨てるつもりではないだろうね? うちの朋華はレンタカーではないよ、木村君?」

 「・・・」

 

 黒沢教授がソファー・テーブルの上のシガレット・ケースからタバコを取り出して咥えようとした時、私は咄嗟に置かれていたライターに手を伸ばし、火を点けた。


 教授は深く煙を吸い込んで、それをゆっくりと吐いた。


 「ふうーっ、僕は親バカでね? ひとり娘の朋華は目に入れてもいいくらいに可愛くて仕方がないんだ。

 そのカワイイ#愛娘__まなむすめ__#が落ち込んいる姿を見るのは、親として実に忍び難い。わかるね? 木村君? 僕が君に何を言いたいのか?

 そこでどうだろう? 娘の朋華といっそ婚約しては? もちろん娘はそれを望んでいる」

 「少しお時間をいただきたく存じます」

 「その珈琲が冷めないうちに返事をしたまえ」


 私は目の前に置かれた珈琲に手を付けようとはしなかった。


 「木村君も卑怯者の#誹__そし__#りを受けなさい。

 勝てば官軍だよ、木村君。

 そして私の跡を継いで、将来この白い巨塔の王になれ」


 それは考えるまでもなかった。

 今、この場で「Yes」と言えばそれで私の将来は安泰となる。すべてを手中に収めることが出来るのだ。

 朋華は才色兼備の申し分のない女だ。一体彼女の何に不満があるというのだ。


 「教授、1週間だけ考えさせて下さい」

 「フィアンセのプリマドンナ、海音寺琴子さんはそんなに魅力的な女性なのかね? 私も一度、お会いしてみたいものだよ」

 「・・・」


 この男の情報網を甘く見てはいけない。

 おそらく医局の誰かが教授に喋ったに違いなかった。


 「そんなにオペラが好きならオーチャード・ホールにでも行けばいいじゃないか? ミラノ・スカラ座でもいい。君は外科医ではなく、音楽家志望だったのかね? まあいいだろう。では1週間後の19時までに返事をしなさい」

 「分かりました」

 

 私が部屋を出て行こうとすると、黒沢教授から呼び止められた。


 「木村君、今度の教授会で君を准教授に推薦しようと考えている。君には期待しているんだ。娘の婿として。

 そうそう、それからもう一つ、青森の本学の系列病院から頼まれてね? ウチの医局員の中から#優秀な__・__#心臓外科医をとお願いされているんだよ。

 もし万が一、君が青森に行くようなことがあれば、青森のリンゴジュースを僕に送ってくれないかなあ。僕はあの濃厚な青森のリンゴジュースが大好きなんだよ。でも青森は寒いらしいぞー、日本有数の豪雪地帯だしな? あはははは」

 

 私は深く頭を下げ、教授室を退室した。

 そして潤子さんに詫びた。


 「すみません、折角淹れていただいた珈琲に手をつけられませんでした」

 「あらまあ、教授のお嬢さんには手をつけちゃったのにね? うふっ」


 

 輝信が出て行くとクローゼットの中から朋華が出て来た。


 「ありがとうパパ! あれだけ言われて「うん」と言わなければここの精神科で診察を受けた方がいいわね? あはははは」

 「ますます俺は彼が欲しくなったぞ。黒沢家の種馬としてな? あはははは。

 いいか朋華。この世には2つの人間しかいない。

 「支配される者」と「支配する者」だ」

 「私は支配されるのはイヤ」

 「私もだよ。やはり朋華は俺と血を分けた親子だな? あはははは」 

 

 (見てらっしゃい海音寺さん。私は運命に身を委ねるほど甘ちゃんじゃないわ。どんな卑怯な手を使ってでも彼を私のモノにして見せる)


 朋華は残酷な快感に心が奮えた。


第12話 愛の選択

 子供の頃から医者になるのは当然だと思っていた。

 代々続く、街の診療所を総合病院にまで発展させた祖父と親父。

 母の家が資産家だったこともあり、病院経営は順調だった。


 兄も私も常に学校での成績はトップ。そして母の口癖はいつもこうだった。


 「あなたたちはお爺様やお父様のような立派なお医者様になるのよ」


 母は毎日、私と兄にその呪文を掛け続けた。


 その母たちの期待通り、私たち兄弟は医者になった。


 兄は大学病院の臨床医を辞め、内科医として実家の病院を継ぎ、私はレジデントとしてペンシルバニアへ渡り、帰国後、この大学病院で心臓外科医として働き始めた。


 病院とは不思議な場所だ。毎日多くの命が救われ、そして命の灯が消えてゆく。

 手術が無事成功し、「先生のお陰です、本当にありがとうございました」と、涙を流して私の手を両手で握り、安堵して退院して行く患者もいれば、病院で死を迎える患者もいる。


 「何でおふくろを殺した! おふくろを返せ!」


 そう言って私の白衣の胸ぐらを掴み、泣き叫ぶ遺族もいる。


 大学病院の外科医には、それが常にワンセットで付いて来るのだ。

 涙を流して感謝してくれる患者もいれば、憎まれ、罵られることもある。


 目の前の命をどうしたら救えるか? 


 それには医療技術の高みを常に目指すしかない。

 私は世界中の症例報告と最新の論文を読み漁り、同じ心臓外科医との勉強会にも積極的に参加し、多くの手術を手掛けていた。

 それが少しでも多くの患者の命を救うことになるからだ。


 そして今日もまたひとり、私の患者が死んだ。

 

 手術は完璧だったが術後の経過が思わしくなく、患者はあっけなく亡くなってしまった。


 「手術は無事に成功しました」

 「ありがとう先生。これでまた、好きなゴルフが出来ますよね?」

 「あまり無理しない程度にして下さいよ」

 「はいはい」


 家族から罵られることは無かった。

 それは私が患者とその家族に出来る限り寄り添い、誠実に向き合っていたからだろう。

 私を責める気にはならなかったようだ。


 そして家族の悲しみの表情の中には、安堵の表情が見て取れたのも事実だった。

 家族は何度も患者の死を覚悟していた。

 無理もない、2年にも及ぶ一進一退の入院生活の看病と、経済的負担はかなり大きかったはずだ。

 既に家族は疲れ切っていたのだ。



 私は死亡診断書を書き終えると、ひとり屋上に出てイヤホンでサンサーンスの『白鳥』を聴いた。

 涙は出なかった。だが失われた命の儚さに溜息が出た。


 (私は人の死に慣れ始めてしまっているのだろうか?)


 すると隣に沙也がやって来た。

 彼女は何も言わなかった。


 そして曲が終わり、私がイヤホンを外すと、


 「残念だったわね?」

 「人はいずれ死ぬものだよ」

 「いいの? 医者のあなたがそんなことを言っても?」


 沙也は笑った。


 「俺は神じゃない、ただの外科医だ」

 「ねえ、今夜慰めてあげましょうか?」

 「今日はいいよ」

 「黒沢教授の娘と結婚するんだって? 病院中の噂になっているわよ」

 「もうそんな話になっているのか・・・」


 私は深い溜息を吐いた。


 「良かったじゃない? これであなたも教授の椅子は確定ね? おめでとう、#木村教授__・__#。今度お祝いしてあげるわね? うふふ」

 「もしかすると俺、青森に行かされるかもしれないんだ」

 「どうして青森なの?」

 「教授のお嬢さんと結婚しないと、俺は青森だそうだ」

 「馬鹿ね? そんなの結婚すればいい話じゃない? 大学教授の奥さんなんて、どうせ「お飾り」なんだから」


 私は何も言わずその場を離れた。



 大学病院の中にあるスタバで、私は琴子にLINEを送った。


     もう一度会って

     話がしたい


 すぐに既読にはなったが、彼女からの返信は来なかった。

 私の気持ちは既に決まっていたのだ。青森へ行くことに。





 『アイーダ』は大ネタだった。

 まだ歌詞の理解も足らず、細かな表現にも私は納得がいかなかった。


 「聡子、もう一度四小節目からお願い」

 「いいけど、ちょっと休憩しない? 喉が渇いちゃった」

 「じゃあ買って来るよ、何がいい?」

 「私も一緒に行く。あったかいのにするか、冷たいのにするか迷ってるんだ」



 私と聡子は音楽ホールのエントランスの隅にある、自販機へと歩いて行った。


 その時スマホのLINEの着信音が鳴った。輝信からだった。

 私はすぐにそのLINEを開いた。


           もう一度会って

           話がしたい


 危うく飛び跳ねてしまいそうになるくらい嬉しかった。

 母の予言は見事に的中した。

 今すぐにでも彼に電話をして声を聞きたかったが、私は母の言いつけを守り、それを必死に我慢した。


 「イルカ君から?」

 「うん」

 「早く返信しなさいよ」

 「いいの」

 「どうして? 喧嘩でもした?」


 聡子には先日のことは話してはいなかった。

 詮索されるのがイヤだったからだ。


 「どうでもいい内容だから後で電話するから大丈夫」

 「でもやけにうれしそうじゃない? いいなあ、これから冬だって言うのに琴子はもう春だもんね? あはははは」


 私には一足早く春が来たのだ。

 私は改めて母を尊敬した。恋愛マイスターの母のことを。


 もしここに聡子がいなければ、おそらく私は自販機まで軽やかにスキップを踏んで行くはずだった。


第13話 突然の愛

 マリア・カラス。20世紀唯一無二の歌姫は1923年、ニューヨークの五番街で生を受けた。


 ギリシャからの移民であった両親。父親のジョージは薬剤師をして財を成したが、ニューヨークの株の大暴落により破産してしまう。

 母、エヴァンゲリオンは次の子供は男の子を望んでいたらしい。

 姉のジャッキーにはピアノを、そしてマリアには歌を習わせた。

 

 両親の離婚により、姉とマリアは母と共にギリシャへ戻ることになり、ある日、母はまだ12歳だったマリア・カラスをアテネのラジオ番組に出演させ、評判を得る。

 そして17歳以上でなければ入学資格が得られない、アテネ音楽院に当時まだ13歳だったマリアを17歳だと年令を詐称させ、奨学金まで得て入学させてしまう。

 その時のオーディションで歌ったマリア・カラスの素晴らしい歌声とその並外れた声量に、一同は驚愕してしまう。

 マリア・カラスが15歳になると、アテネ劇場で歌手としてのデビューを飾る。


 第二次世界大戦が勃発し、ギリシャはイタリアとドイツによって占領されてしまうが、母親はマリアに占領軍の兵士の前でオペラを歌わせて生計を立てていた。


 やがてギリシャはイギリス軍によって解放され、マリアは占領軍へ貢献したと非難されて国を追われ、父親を頼って再びニューヨークへ戻ってゆく。


 2年間は鳴かず飛ばずだったらしいが、プッチーニのオペラ、『トスカ』を歌うことで認められ、ここからマリア・カラスの歌姫としての快進撃が始まった。



 

 家に帰った琴子は、すぐに輝信から連絡が来たことを興奮して母親の久子にそれを話した。


 「ママが言った通りだった! 今日の午後、彼からLINEが届いたの、「もう一度会って、話がしたい」ですって!」

 「良かったじゃないの、琴ちゃん! 今日中にまた電話が来るはずだから、その時はすぐに出ちゃ駄目。彼が5回コールするまで待ちなさい。

 3回では駄目よ、あなたが木村君の事をまだ好きだとバレてしまうから。

 でも7回では切られてしまう可能性がある。だから呼出音が5回鳴ってから出なさい。わかったわね?」

 「了解しました! 恋愛マイスター殿! あはははは」

 「よろしい。うふふっ。だったら早くお風呂に入っていらっしゃい、電話がいつ来てもいいように」

 「はーい」



 私はいつ彼から電話が来てもいいように、お風呂にもスマホを持って入った。


 (いつまで待たせるのよ、早くかけて来なさいよ)


 自分で返信すればいいものを、そんな自分勝手な自分を私は嗤った。




 食事を終え、部屋でスコアに目を通していると、突然携帯から『エリーゼのために』が流れ始めた。

 それは彼からの着信合図の音楽だった。


 私は慎重に5回、コールを数えて電話に出た。


 「もしもし」

 

 私は黙っていた。


 「・・・」

 「琴子? 僕だけど、今、電話しても大丈夫?」

 「今更何の用?」

 

 私は出来る限り冷たく彼をあしらった。


 「琴子と会って話がしたい」

 「私にはもう何も話すことなんてないわ」

 「君は僕の話を最後まで聞いてくれなかった。だから今度は最後まで僕の話を聞いて欲しいんだ」

 「白紙にしたいんでしょ? 私とのことは。

 だったら会ってもしょうがないんじゃない? 私と別れたいってことだもんね?」

 「白紙にしたいと言ったのは「最初に戻って君を愛し直したい」という意味だよ」


 私は天にも昇る気持ちだった。


 「面倒臭い人ね? 私、明日の夜しか空いてないわよ」


 私はあまり時間を空けない方がいいと思った。その間に彼の考えが変わるかもしれないと思ったからだ。


 「これから琴子の実家に迎えに行っては駄目かな?」

 「これから?」

 「駄目かい?」

 「別にいいけど」

 「じゃあ20時までには迎えに行くよ」

 「気をつけてね、少しくらい遅れてもいいから」


 母のアドバイスに従って、お風呂を済ませておいて良かったと思った。


 私は下着を#それ用__・__#に着け替え、予めデート用に用意しておいた服を着て、すぐに化粧を始めた。




 時間通りに彼がアルファロメオで迎えにやって来た。


 「じゃあママ、行って来るね?」

 「ちょっと待って、琴子、香水は?」

 「あっ、忘れてた」

 「ちょっと待っていなさい」


 母は洗面所の化粧棚からDiorの『Rose de Rose』を持って来ると、それを私の頭の上で天井に向けて軽く噴霧してくれた。

 私はそのパフュームの中で一回転し、甘い薔薇の香りを全身に纏った。


 「今日は少し遅くなってもいいわよ、お泊りでもいいわ。

 パパには聡子ちゃんの家にお泊まりに行ったって言っておくから。恋愛は待ってるだけじゃ駄目、こちらから迎えに行かないとね?」


 意外だった。母からそんな言葉を聞くなんて。


 「ありがとうママ。それじゃ行って来ます」

 「頑張ってね? 琴子」


 母は私の背中を軽くポンと叩いて送り出してくれた。




 輝信はいつものように助手席のドアを開けてくれた。

 私はコートを着たまま助手席に座った。

 車内は『マリア・カラス』の淡い薔薇の香りに包まれていた。

 その花束は後部座席に置かれてあった。


 (もしかして、私のために?)


 それ以外に考えることは出来ない。

 私の心は、もうすでに一杯になっていた。


 クルマが静かに動き出した。


 「ごめん、突然呼び出したりして」

 「話しって何?」


 私は期待で胸がドキドキした。

 まるでオペラの初舞台の時のように緊張していた。


 「本当はあの時、白紙に戻してもう一度、友だちから琴子とやり直したいと言おうとしたんだ。でも琴子は怒って帰ってしまった」

 「当たり前でしょう? 自分から私を口説いて置いてそれはないんじゃない? まったく!」

 「ごめん。でもあの後色々考えてみて思ったんだ。何を失っても君と結婚しようと」


 彼はハザードランプを点けて路肩にクルマを停車させると、後部座席に手を伸ばし、『マリア・カラス』の花束を私に渡してくれた。


 「これはこの前のお詫びだよ」


 私はその大きな花束を受け取って泣いた。

 それは輝信の真心だと思ったからだ。

 失ったと思っていたものが今、再び私の手の中に戻って来たのだ。


 だが、プレゼントはそれだけではなかった。


 彼は小さな紙袋を取り出すと、シルバーのリボンの掛けられた小箱の包みを解き、


 「僕と結婚して下さい」

 「あっ、・・・はい」


 それは予想だにしていない、突然のプロポーズだった。

 彼はそのロイヤルブルーの箱を開けてサファイアリングを取り出すと、私の左手の薬指に婚約指輪をはめてくれた。指輪のサイズはぴったりだった。薬指に輝くサファイア。


 私は声をあげて泣いた。感情を曝け出して泣いた。

 彼は私にやさしくキスをしてくれた。

 私はそれに情熱的に熱く応えた。



 その夜、私たちは結ばれ、初めての朝を迎えた。


第二楽章

第1話 幻想即興曲

 ホテルのカーテンの隙間から、朝の気配を感じた。

 男の人の心地良い肌の温もり、深い安心感。久しく私はこの感触を忘れていた。


 守られているという喜び。

 左手の薬指にはめられたサファイアリング。私はそれをサイドスタンドの灯りに翳して見ていた。


 (夢じゃないのね?)


 疲れていたのだろう。スヤスヤと寝息を立てて輝信は眠っていた。端正な顔立ち。

 私は彼の唇にやさしくキスをした。


 彼が目を覚ました。

 

 「今、何時?」

 「5時半だよ。ゴメン、起こしちゃったね?」

 「7時にはここを出ないと。今日は朝一で重要なカンファレンスがあるんだ」

 「じゃあ、まだこうしていられる?」

 

 輝信は私を抱き締めてくれた。


 「琴子のことは絶対に俺が守る。結婚しよう」

 「ありがとう」


 私たちは再びお互いを求め合った。




 大学病院に行く彼を見送り、父がクリニックへ出勤するのを待って、私はホテルのラウンジでいつもの朝食、デミタスカップのエスプレッソに砂糖を3杯入れて飲んでいた。



 「海音寺琴子さんですよね? 私、黒沢朋華といいます。木村輝信の婚約者です」


 女優のように美しく聡明なその女は、臆することなくハッキリと私にそう自己紹介をした。

 私は一瞬、今、目の前で何が起きているのか認識することが出来なかった。


 「あなたが婚約者? 輝信の?」

 「ええ、来週の月曜日に婚約することになっています。

 正確には婚約者になる「予定」ですけどね?」

 「・・・」

 「彼、ああ見えてベッドでは激しいでしょう? 中々のテクニシャンだし。私も彼にはいつもメロメロにされてしまうのよ。うふっ。彼のお尻の左にあるホクロ、カワイイわよね?」

 

 (私、彼に騙されていたの?)


 私は反撃を開始した。


 「何なのいきなり? 私のモーニングタイムの邪魔をして! どこかへ消えて! 今すぐに!」

 「なるほどー、ただのオペラ馬鹿のお嬢様じゃなさそうね?

 輝信があなたに惚れるのもわからなくもないわ。でもわたくしとは格が違い過ぎるのよ。女としても、人間としての格もね」

 「いいから消えて! 今すぐ私の目の前から!」


 朋華が私の左手薬指の指輪に気付くと、


 「それ、婚約指輪? 私が買い取ってあげる。その趣味の悪い安物の指輪を渡して頂戴。あなたにその指輪をする資格はないわ」


 朋華はケリーバッグの中から100万円の札束を取り出すと、私の前に静かに置いた。


 「おつりはいいわよ、慰謝料代わりにあなたにあげる」

 

 私はそのお金を彼女に投げつけた。


 「お金を粗末にしてはダメじゃないのー。琴子さん?

 あなた、そんなに彼を青森に行かせたいの?」

 「青森?」

 「聞いてないの? 輝信はね? 私と婚約しなければならないの。そうしなければ彼の心臓外科医としての将来はないわ。

 私の父は彼の大学の心臓外科の教授なの。もし彼が私との結婚を承諾しなければ、彼は青森の小さな病院で働くことになるのよ。あはははは」


 私は目の前が真っ暗になり、私からその場を飛び出した。



 (何なのその話! 何も聞いてない! それにあの女! 青森って何よ!)


 私の頭の中はぐちゃぐちゃに混乱していた。





 カンファレンスを終えて会議室を出て来ると、そこに朋華が立っていた。


 「ちょっといいかしら?」

 「僕も君に話があるんだ」



 私たちは大学病院の屋上に移動した。



 「君の話は何?」

 「昨日はお楽しみだったようね? 海音寺さんと。

 どう? 彼女とのセックスは良かった?」

 「・・・」


 (後をつけられたのか?)


 「さっきホテルで彼女と会って来たわ。あなたから手を引きなさいって。そうじゃないとあなたが青森に行くことになるわよってね?」

 「僕は青森に行くことにした。君とは婚約出来ない。すまない」


 私は彼女に頭を下げて詫びた。


 すると彼女は手に持っていたミネラルウォーターのボトルの水を、私の下げた頭にゆっくりと注いだ。


 「大丈夫? 少しは目が覚めたかしら?」


 私はハンカチで頭を拭いた。


 「あなたバカなの? そんなにあの女が好き?

 自分の一生を棒に振ってまであの女と結婚したいの! 

 一度、ここの精神科で診てもらった方がいいんじゃない?」

 「君は魅力的な女性だ。美人だし頭もいい。

 だが君を好きにはなれても愛せないんだ。君には深い哀しみがあるはずだ。僕にはそれを受け止めるだけの器量がない」


 すると彼女の表情が急に穏やかになった。


 「やっと理想の相手に巡り会えたと思った。あの人を忘れることが出来る理想の男に。

 私がアメリカから日本に戻って来たのは、大好きだった彼を殺されたからよ。彼は同じ量子力学の研究仲間だった。

 彼とハンバーガーショップで食事をしている時、いきなり強盗が入って来て私に銃を向けたの。

 そして私を庇って彼が撃たれて死んだ。即死だった。

 私の時間はそこで停まったまま」

 「そうだったのか・・・」

 「まあいいわ、私は絶対にあなたを諦めない。欲しいものは必ず手に入れる。それが黒沢家の家訓だから。

 安心して、そんな私の大切な「婚約者」を青森なんかに行かせはしない。あはははは」




 私は黒沢教授に呼ばれた。


 「増々気に入ったよ、その君の青臭いところが。

 残念だが青森には三崎君に行ってもらうことにした。彼は僕のチームには相応しくないからね?

 それから君の准教授への昇格の件は任せておきなさい。

 朋華にどうしても君を准教授にして欲しいと頼まれてね?

 モテる男はつらいなあ、あはははは」




 

 家に帰ると母から心配された。


 「どうしたの? 明日、世界が終わるような顔をして? 彼と喧嘩でもしたの? そんな大きな素敵なお花を貰ったのに?」

 「彼、青森に飛ばされちゃうんだって。私と結婚すると。

 ママ、私はどうすればいいと思う?」

 「つまり木村君は上司に盾突いてまでも琴子との結婚を望んだということでしょう? いいんじゃない? 一時退却でも。

 何事も「万事塞翁が午」よ。

 彼がそう決めたんなら応援してあげなさい。彼は自分の人生を賭けて琴子を選んだんだから。

 しばらく別居でもいいんじゃない? 彼が本当に実力のある外科医なら、必ずまた東京に戻って来られるから大丈夫。彼を信じてあげなさい」


 母の言う通りだった。


 「それ、婚約指輪? よかったわね? 琴子」

 「ありがとうママ。私、もう迷わない。彼について行こうと思う」

 「それでいいのよ、結婚は勢いなんだから。

 それにね、先のことは誰にもわからないものよ」


 私はまた母に救われた。


 彼から貰った『マリア・カラス』のバラを花瓶に差していると、母の弾くショパンの『幻想即興曲』が聴こえて来た。


 私は母の娘で本当に良かったと思った。


第2話 泡沫と消えた恋

 その夜、私は輝信に電話で厳しく#詰問__きつもん__#した。


 「今日、教授の娘だという女から、「私、輝信と婚約するの」って言われたんだけど、私、あなたに騙されていたのね!」

 「騙してなんかいないよ、僕は彼女とは婚約はしない。僕は君と結婚したいんだ!」

 「あなたと「別れて」とも言われたのよ! あなたがくれた婚約指輪を見て、「買い取ってあげるから」って、100万円を渡そうとするから投げ返してあげたけど、指輪はあなたに返すから取りに来て! 今すぐに!」


 もちろんそれは私の本心ではなかった。

 私は彼の次の言葉を待っていたのだ。


 「その指輪は琴子の物だ。僕が愛しているのは君だけだ!」


 期待通りの言葉に私は満足だった。


 「でも私と結婚すると青森に飛ばされるんでしょう? なんで言ってくれなかったの?」

 「琴子に心配を掛けたくなかったんだ。でもその話はもうなくなったよ。今日、教授と話したんだ。青森には行かなくてもよくなったから安心してくれ」

 「馬鹿な人。そのまま教授の娘と結婚すれば将来は保証されたのに」

 「琴子のいない将来なんて、僕には何の希望もないよ。

 僕の人生には琴子が必要なんだ!」


 うれしかった。こんなに愛されたことは今まで一度もなかった。

 私は今すぐにでも輝信に会いたかった。

 

 「今すぐ会いたい! 迎えに来て!」

 「あと1時間で当直が終わるから、2時間ほどで君を迎えに行くよ」

 「急がなくてもいいから安全運転で来て。待ってる!」


 私は彼に夢中だった。





 激しく愛し合った後、彼は私に腕枕をしてくれた。


 「もしも青森になったらどうするつもりだったの?」

 「君は東京で活動しているわけだから、僕だけ青森に単身赴任するつもりだった」

 「私と別居でも寂しくない?」

 「毎日電話するつもりだったし、週末にはお互いを行き来すればいいと思っていた」

 「青森って冬は寒いんでしょう?」

 「琴子、冬は何処でも寒いものだよ」

 

 私は輝信に身体を寄せ、甘えた。彼の温かい体温が伝わる。


 「ねえ、本当にいいの? 私で?」

 「琴子じゃなきゃ駄目なんだ」


 私は少し意地悪をしたくなった。


 「それなのに朋華としたくせに」

 「仕方なかったんだ。ゴメン」


 嘘を吐いて欲しかった。「そんなことはない! 僕を信じてくれ」と。

 彼の育ちの良さがそれを阻んだ。


 確かに嘘は良くない。それは自分の保身だからだ。

 だが「偽る」ことは時として必要なこともある。

 それは「人の為」だからだ。


 朋華と輝信の関係はもう過去のことだ。今更それを嫌悪するほど私も#初__うぶ__#じゃない。


 「あなたも男だもんね?」

 「もう彼女とは二度と会わない。それでも僕のことを許せないかい?」

 「私は高校生じゃないわ、大人の女よ。でも約束して、二度と浮気はしないって」

 「約束するよ」

 「じゃあ指切り」


 私は彼と指切りをした。


 「指切りげんまん、嘘ついたらオチンチンちょん切るぞ。うふっ」

 「怖いな、それ」

 「駄目よ、外科医だからって自分でくっつけちゃ」

 「その前にそんなことはしないよ、琴子」


 彼の手が私の乳房に触れ、彼は私の口をキスで塞いだ。

 私もそれに熱く応じた。





 やっと午前中の外来も終わり、食堂で少し遅めの食事をしていると、食事を終えた沙也から声を掛けられた。


 「木村先生、ちょっといいかしら? 屋上で待っているから食事が終わったら来てくれない? ちょっと話があるの」

 「わかった。すぐに食べて行くよ」

 


 

 晩秋の風はキリリと冷たかった。


 「私、旦那と離婚したの」

 「えっ、どうして?」 

 「夫を欺くことは平気。でも、これ以上自分の気持ちを偽ることに疲れちゃったみたい」

 「これからどうするの?」

 「旦那と同じ職場って言うのもなんだから、他の病院に転職することにした。実家のある栃木の大学病院に来月からまたオペ看として働くつもり」

 「そうか」


 優秀なオペ看の沙也がいなくなるのは私にとって痛手だが、正直、ホッとした自分がいた。

 だが同時に、このやるせない喪失感はどうしてだろう?

 もしかすると私は、いつの間にか沙也を愛していたのだろうか?

 琴子との結婚が正式に決まり、私はもう沙也を抱くことはなくなっていた。

 いずれ沙也とは別れなければならないと考えていた矢先のことだった。


 「オペラ歌手さんと結婚するんだってね? おめでとう」

 「・・・」

 「私ね、やっぱり無理だった。あなたとのカラダだけの関係では自分を抑えきれなくなっていたの。

 本当はあなたが好きだった。大好きだった。

 愛しているの、あなたのことが。私を愛して欲しかった。

 だから邪魔者は消えることにしたの。それがあなたを本気で愛した証にしたかった。

 絶対にしあわせになってね? そうじゃないと私があなたを諦めたことが無駄になってしまうから」

 「ごめん、沙也」

 「元気でね? さようなら」


 失うはずのないものが失われようとしていた。だが私には沙也に「行くな!」とは言えなかった。

 私の心に秋風が吹き抜けて行った。


 私は去って行く沙也の後ろ姿を黙って見送った。

 沙也は一度も私を振り返ることはなかった。

 白衣の沙也の後姿が哀しく切なかった。




 屋上の階段を降りて行こうとすると、朋華がそこに待っていた。


 「罪な男。女を泣かせるなんて。

 彼女、泣いていたわよ。流石は優秀なオペ看ね? あなたの前では涙を見せなかった」

 「からかうのは止めてくれ」

 

 私がそのまま階下へ降りて行こうとすると、


 「かわいそうな沙也さん。でも本当に都合のいいバカな女。

 自分を捨てた男に復讐もしないで身を引くなんて、どうかしてるわ。

 私は諦めないわよ。たとえあなたがあの音楽バカと結婚しようと、私はあなたを絶対に諦めない。

 そしてあなたは必ず彼女との結婚生活に疑念を持つことになる。予言するわ」

 「もう僕に付き纏わないでくれ!」

 「せいぜい我が世の春を楽しむといいわ。今のうちにね? あはははは」


 疑念? 私が琴子に疑念を抱くことなどあり得ない。

 私はその時はまだ、彼女の言葉の意味をよく理解してはいなかった。

 だがやがてそれが、朋華の予言通りの現実となるとは、その時の私は夢にも思わなかった。


第3話 テンプテーション

 黒沢教授の強力なバックアップのお陰で私は准教授になることが出来たが、医局の連中からはかなり妬まれた。

 特に5才年上の中川講師からは、


 「お前はいいよなあ、教授と教授のお嬢さんのお気に入りで」


 そうあからさまに揶揄する者もいた。




 赤坂の老舗フレンチレストランで両家の顔合わせも兼ねた、私の准教授就任の宴席が開かれた。


 「凄いじゃないか! 輝信君! その若さで准教授だなんて!

 良かったなあ琴子。彼は日本の、いや世界の医学界を牽引していく医者になることだろう。さあ今日はとことん飲もうじゃありませんか! あはははは」


 義父はとても上機嫌だった。


 「でもこれからが大変ですよ。教授になるにはそれなりの政治力も「実弾」も必要ですからなあ。その点ウチの息子は心臓外科医としては多少認知されるようにはなりましたが、そちらの方は得意ではないようです。

 どうか海音寺さんからもよく指導してやって下さい」

 「私が輝信君に教えることなど何もありませんが、「実弾」の方は多少なりとも協力させていただきますよ」

 「それは実に心強い。我々一族の誇りになってもらいたいものです。なあ、輝信」

 「まだまだこれからですが、どうぞよろしくお願いします」

 「任せておきなさい。木村家と海音寺家がついておるから安心して実績を積んで行きなさい。わはははは」


 悪い気はしなかった。

 だが問題はこれからだ。教授になるには黒沢教授の力がどうしても必要になってくる。

 そして私は朋華ではなく琴子を選んだ。前途は多難だった。

 万年准教授ということもあり得ない話ではない。


 「琴子さん、今度のオペラはヴェルディの『アイーダ』でしたわよね? 懐かしいわ、パリのソルボンヌに留学していた頃、よくオペラ座に通ったものよ。イタリア語がよく理解出来ませんでしたけれど、まるで心臓を鷲掴みにされるようでした。20世紀最高の歌姫、マリア・カラスの舞台を一度でいいから観て見たかったわ」

 「お義母様、今度の公演は是非、お義父様とご一緒においで下さい。お席の方はご用意させていただきますので。チケットは後日、輝信さんにお渡ししておきますから」

 「あらうれしい! プラチナ・チケットで中々手に入らないので諦めていたところなのよ。良かったわ、お嫁さんが「アイーダ」で。ふふふっ」

 「では木村様の奥様、私たち夫婦も娘の晴れ姿を楽しみにしておりますので、よろしければご一緒いたしません?」

 「もちろんですわ。でもウチの人は音楽には全く興味がない人ですから隣で寝ているかもしれませんわ。 あはははは」

 「馬鹿を言いなさい。琴子さんのような美女が歌うんだ。他の退屈なクラッシックとは訳が違う。絶対に眠らんぞ。今度こそはな。あはははは。ところでミュージカルとオペラとは何が違うんだ?」

 「止めて下さいよあなた。こんな席で恥ずかしい。

 ミュージカルとオペラは大きく分けて4つの違いがあるんですよ。

 まず1つはオペラにはセリフはなく、歌ですべてが表現されるということ。

 それからオペラは踊らない。歌劇だからね? これが2つ目。

 3つ目は歌唱法。オペラはマイクを使わないから劇場に響き渡る声量が必要なの。長時間にも渡って歌うために、横隔膜を上下させて歌う「ベルカント唱法」が用いられるの。

 そして4つ目は音楽。オペラはクラッシックのみで悲劇の物語が多い。でもミュージカルはJAZZやポップス、それに民族音楽なども取り入れられてバラエティに富んだ舞台構成になっているのよ。

 音楽に興味がなくてもそれくらいは常識よ、理事長。うふっ」

 「はいはい、ウチの女房は博識でね? 医者の俺でもついていけなくてね。あはははは」

 「ところで輝信。式の段取りは進んでいるの?」

 「琴子さんも僕も忙しいから今回のオペラ公演が終わってからゆっくり相談しようと思っているんだ」

 「駄目よ、そんな悠長なことを言っていては。あなたが主体になってどんどん進めなさい。

 それから式場の方は帝国ホテルにお母さんの知り合いがいますから安心しなさい。一番広くて豪華なお部屋を手配しておきますから。

 ご招待する方も両家共にかなり多くなるでしょうから、なるべく早くしなさいよ。

 海音寺さん、本当にごめんなさいね? ウチの輝信はこういうことには疎いものですから」

 「いえ、こちらは木村様がお手配下されば、娘の方は私が手伝いますので、よろしくお願いいたします」

 「ではお式の方はわたくしにお任せ下さい。お料理、御引物等については今度ご一緒に吟味いたしましょうよ。子供たちだけでは心配ですから」

 

 琴子は賢い女だった。姑になる母の顔を上手に立ててくれていた。


 「何から何まですみません。お義母様とウチの母は最高のブライダル・コーディネーターだから安心です。ありがとうございます」

 「任せておいて頂戴、琴ちゃん。あなたのママとふたりで最高のウエディングにしてあげますからね?」


 母はいつの間にか琴子のことを「琴ちゃん」と呼んでいた。

 すべてが順調だった。

 

 



 合同カンファレンスが行われた。

 患者は68歳の男性で、冷汗を伴う激しい胸痛を訴え緊急搬送されて来た。

 血液検査の結果、クレアチンキナーゼの値が上昇しており、小領域の心筋梗塞が疑われた。

 そこで心臓カテーテル検査を行うと、左回旋枝の入口に95%の狭窄と、右冠動脈の近位部に90%の狭窄が認められた。

 大腿動脈が動脈硬化をしており、カテーテル操作を容易にするため、ロングシースに変更した。

 造影検査の最中に、心房細動に伴う不整脈が出現したという説明だった。



 「早急に冠動脈の狭窄を拡張する必要があります」

 「急性心筋梗塞による突然死の可能性が高いな? この患者さんは癒着が酷いから、経皮的冠動脈形成術しかないだろう。

 どうだね木村准教授? 君が執刀するかね?」

 「ではPTCAによる施術を行うという方向で進めさせていただきます」

 「頼むぞ、木村准教授。わはははは」

 


 

 私はすぐにPTCAの施術を始めた。

 ガイドワイヤーを鼠径部の大腿動脈から大動脈を通して冠動脈狭窄部位に達したので、バルーンカテーテルをガイドワイヤーに沿って挿入し、狭窄部を加圧してバルーンを膨張させ、狭窄した血管を内側から補強するためのステントを留置した。


 ところが突然血圧が低下したので昇圧剤を投与した。

 右冠動脈の狭窄に対して3回の拡張を実施すると、血圧が再び70台に低下してしまった。

 心電図に心筋梗塞を示すST上昇の波形が確認され、患者は呼吸困難となってしまった。

 血圧は125まで回復したが、患者は大きな唸り声をあげて意識を失った。

 自発呼吸が停止し、心室細動が現れたので心臓マッサージを試みたが、すぐに電気ショックに切り替えた。

 そして止む無く人工心肺装置を装着したが血流は得られなかった。

 腹部に膨隆が認められたため、急性腹腔内出血と判断してICUへと移動させ、心肺蘇生を施すも患者はあっけなく死亡してしまった。



 私の施術には問題はなかった。

 だが、遺族は国、病院、そして黒沢教授と私に対して損害賠償請求訴訟を提起して来た。

 大学病院は私に過失がないと認め、法廷で争うことになってしまった。



 私の心身は酷く疲弊していた。

 こんな時こそ、琴子に慰めて欲しかった。

 だが、琴子はオペラの公演を間近に控え、電話で話しをすることは出来たが会ってはくれなかった。


 「少し会えないかなあ?」

 「ごめんなさい、毎日リハ続きで抜けられないのよ。

 私もテルに早く会いたい。もう少し待ってて。

 今度会ったらいっぱいサービスしてあげるから」


 琴子には今の私の状況が理解出来てはいなかった。

 裁判のことは彼女に心配を掛けまいと黙っていた。



 女を抱きたいと思った。

 セフレだった沙也は病院を辞め、もうここにはいない。

 私がスタバで放心していると、そこへ朋華がやって来た。


 「聞いたわ、裁判だなんて大変だったわね?」

 「・・・」

 「そんな顔してると増々運気が逃げて行くわよ。

 プリマにもどうせ相手してもらえないんでしょう?

 ねえ、踊りに行かない? 六本木のクラブで思いっ切り騒いでイヤな事なんか忘れてしまうの。

 大丈夫よ、何もしないから。

 お酒を飲んで一緒に踊るだけ? それなら浮気にはならないでしょう?」


 私は朋華のその誘いに乗ってしまった。


第4話 ストロベリーチョコレート

 六本木のクラブは大勢の若者たちで溢れ、様々なパフュームやムスクの香りが汗と髪の匂いと相まって、独特な香りが充満していた。

 ラッパーがマイクを握り、聴衆を呷る。

 クラブDJが繰り出す緩急のあるサウンドに人々は酔いしれた。

 サイクロンのようなライトシャワーを全身に浴びて叫び、踊り狂う者たち。

 レーザー光線にストロボ、スモーク。大型ヴィジョンに映し出される原色の世界。

 酒を飲み、爆音の中、トランス状態で沸き起こる手拍子。迸る汗。

 私は宙に浮いているような感覚を得ていた。

 すべての苦痛から解放されるエクスタシー。


 曲がスロー・バラードに変わった時、不法滞在者らしきアラブ系の男が近づいて来た。


 「ヘイ ミスター。ご機嫌だな? どう? もっとハイになりたくないかい? これからその美人さんとお楽しみなんだろう? これを使えば凄いことになるぜ?」

 

 私がそれを無視して踊っていると、朋華が男に言った。


 「物は?」

 「#草__・__#だ」

 「エクスタシーかコークはある?」

 「あるよ」


 私は朋華の手を引いてその場から離れた。


 「どうしたの? そんな怖い顔して?」

 「ヘンな奴に関わるな! 君は医学部教授の娘で俺はその部下の准教授だ! 万が一それで捕まったらどれほどの物を失うと思っているんだ!」

 「別にいいんじゃない? それもそれで。あはははは

 アメリカならレストランのトイレでボーイからだって簡単に買えるじゃない? ペンシルバニアではやらなかったの? セックス・ドラッグ?

 アレを使ってするSEXは最高よ。医者のくせに試したこともないの? 真面目ね? バカみたい。うふっ」


 朋華はそう言って俺を笑った。


 「今日はもう十分楽しんだよ。家まで送るよ」

 「もう帰っちゃうのおー、つまんないのー」

 

 その時ふいに朋華が私にキスをした。

 蕩けそうなストロベリーチョコレートのような甘いキスだった。

 私はここ1カ月の禁欲生活で、下半身が熱く反応しているのを感じていた。


 (抱きたい。今すぐこの女を)


 私の理性は崩壊寸前だった。だが朋華とキスをしながら、私はもう一人の自分と葛藤していた。


 (お前はまた、琴子を裏切るつもりなのか?)


 そして遂に私は決断した。

 私は諸々の苦悩から解き放たれることを選択した。

 私は性欲に負けた。


 (俺を放ったらかしにしている琴子が悪いじゃないか!)



 

 そこは猥雑な悪趣味のラブホだった。

 私は何度も朋華を求め、彼女も私に挑んで来た。


 激しく腰を朋華に打ち付けながら、下になっている彼女の胸に私の顔から汗が滴り落ちる。


 「凄い! すごくいいの! また来そうよ! は、は、は、は・・・。 来る来る! あっ、ダメ、まだ出さないで!」


 すると朋華はいきなり起き上がると体を離し、私のペニスからコンドームを取り去った。


 「フィニッシュは一緒に迎えたいの。今日は大丈夫な日だから中に出してもいいわよ。スキンしてすると痛いのよ」

 「医者の俺を騙そうとしても無駄だ」

 「怖い? 私が妊娠するのが?」

 「・・・」

 「大丈夫よ、認知してなんて言わないから。ただあなたの優秀な遺伝子には魅力を感じるけどね? あなたと私の子供なら、凄まじい天才が生まれるはずよ」

 

 私はようやく自分のしていることを後悔した。

 私は琴子をまた裏切ってしまった。


 「どうしたの? スッキリしたくないの? 歌姫に悪い? 溜まっているんでしょ? いいのよ、これからは私が沙也さんの代わりになってあげる。都合のいいセフレにね?

 難しいオペの後はいつも、沙也さんに慰めてもらっていたんでしょ?」

 

 私はすでに禁断の果実を口にしてしまった。

 食べた以上、1個食べるも10個食べるも同じだった。

 もう食べた事実を覆すことは出来ない。


 私は乱暴に彼女を押し倒すと、彼女の両足を広げた。

 薄い彼女のアンダーヘアが張り付くほど、そこは十分に潤っていた。

 私はそこへ自分を宛がい、ゆっくりと内部を探検するように押入り、リズミカルに律動を再開させた。

 朋華の喘ぎ声が次第に高音になってゆく。


 「うっ、はあ、あ、あ、あ・・・、今よ、中に、お願い! 中に出して!」


 私が更に動きを加速させてゆくと、彼女は短い擬音を発して果てた。

 私は彼女がオルガスムスに達したことを確認すると、射精直前に彼女から自身を引き抜き、彼女の下腹部にそれを放出した。ドクンドクンと脈打つペニス。それは私とは別人格の物だった。


 荒い息遣い、小刻みに震える朋華。

 時折カラダがビクンと反応していた。


 我に返った彼女が寂しそうに言った。


 「意気地なし・・・。そんなに怖い? 歌姫のことが?」


 そう、私は卑怯な意気地なしだった。

 そして虚しさと、激しい罪悪感が私を襲った。 





 秘書の潤子と黒沢は、いつものように潤子のマンションで逢瀬を楽しんでいた。

 潤子は黒沢教授の愛人だった。


 コトが終わり、潤子はショート・ホープに火を点けると、それを黒沢の口に咥えさせ、自分もまたタバコに火を点けた。

 薄明りの間接照明の中で、時折光るふたつのタバコの灯は、まるでホタルのように揺れていた。


 「お前とした後のこの一服は堪らないなあ」

 「私も。食事の後のタバコよりも、SEXの後のタバコほど美味しい物はないわ」

 


 黒沢は考えていた。3カ月後に行われる学長選挙のことを。


 (そろそろ身辺整理をしなければならんな? この女ともおさらばだ)


 「なあ潤子、もう秘書の仕事も飽きたろう?」

 「学長選も近づいて来ましたからね? 愛人はもうお払箱ってこと?」

 「君は仕事の出来る女だ。このまま秘書にしておくのは実に勿体ない。

 そこでだ、どうだろう? 我が校の千葉の総合メディカルセンターの総務課長のポストは? 給料も今の1.5倍になるぞ」

 「邪魔者ですものね? 私」

 「君はまだ若い。そろそろ自分の将来を考えるべき時が来たということだよ」

 「心配してくれてありがとう。じゃあ私、千葉に行って将来有望なドクターを手懐けて、教授夫人にでもなることにするわ」

 「それがいい。それからこのマンションは君にやるよ。今まで俺に尽くしてくれた礼だ」

 「かなり高い手切れ金ね? 私のカラダにそんな価値があるかしら?」

 「お前にはそれだけの価値があるということだ。

 今までどうもありがとう」

 「どういたしまして、こんなお粗末な私でごめんなさいね」


 黒沢は安堵していた。

 これで学長の椅子はすぐ目の前まで来たと。


第5話 もう逃げない

 何度電話しても、LINEをしてもテルと連絡がつかなかった。


 ひと目でいい、テルに会いたい。凄く会いたい。

 明日はようやく1日オフになり、私はテルに無性に甘えたかった。


 (何かあったのかしら?)


 不安になった私は、直接病院に彼を訪ねることにした。




 偶然、病院の廊下ですれ違った看護師たちが話しているのを聞いてしまった。


 「でも木村准教授も大変よね? 裁判だなんて穏やかじゃないわよね?」

 「あの若さで准教授になったばかりなのにね?」

 「でも大丈夫だと思う。だって医療裁判なんて殆ど負けないから。最高裁まで行けば分からないけど、普通の人ではそんな悠長に裁判なんて続けられないもの」

 「それもそうよね? それに次期学長と噂されている黒沢教授がついているから安心よ。あのやり手の黒沢教授がついていれば」


 私は自分の耳を疑った。


 (何? 何なの今の話? 木村准教授って言ってたわよね? それに医療裁判って何?)


 私の頭の中は混乱していたが、とりあえず心臓外科の医局に彼を訪ねることにした。


 

 医局の前まで行くと、ちょうど銀縁のメガネをかけた神経質そうな若い医師がいたので訊ねた。


 「いつもお世話になっております。木村輝信の身内の者ですが、おりますでしょうか?」

 「ああ、木村准教授ですね? こちらこそいつも大変お世話になっております。ではご案内いたします」



 廊下を少し歩くとその部屋のドアには「准教授室」と金属プレートが貼られており、ドア枠の脇には「木村輝信」と、彼のネームプレートが入れてあった。

 テルの名前を見た時、私は初めて彼の偉大さを知った。

 彼はすでにエリート医師になっていたのだ。


 「准教授はこちらにいらっしゃると思います。では私はこれで失礼いたします」

 「ご親切にありがとうございました」


 その医師はその場を去って行った。


 ドアを3回ノックしたが部屋の中から返事はなかった。

 私は無意識にドアを開けた。

 するとその瞬間、私は目の前で行われている光景を認識することが出来なかった。


 そこには白衣を着たテルと、彼の膝の上に乗ってスカートがたくし上げられ、下着が顕になった朋華の姿があった。

 私を見て驚くテルと、勝ち誇ったように微笑む朋華。

 

 「これはどういうことなの! テル! また私を裏切ったのね!」

 「裏切ったですって? 彼が今、どんなに大変な状況にあるのか知りもしないでよくそんなことが言えたものね?

 あなたがいけないんでしょう? お歌にばかり夢中になって彼を放ったらかしにするから。

 悪いのはどっちかしら?」


 彼が私に鋭い眼差しを向けて言い放った。


 「何だ! いきなり病院まで来るなんて!」

 「だって電話をしても全然出てくれないじゃないの! 心配したのよ! 何かあったんじゃないかと思って! そして来てみたらこの仕打ち! 何なの一体!」

 「今、僕はそれどころじゃないんだ! 帰ってくれ!」


 私は怯まなかった。


 「それに何でアンタがここにいるのよ!」


 私は語気を更に荒げた。


 「私はただ、輝信に呼ばれただけよ。あなたこそ何? 彼の仕事場にまで押し掛けて来て。はしたない女」

 「出てって! 私は彼と話しがあるの!」

 「いつも音楽優先で彼を放っておいて、何よ今更。 

 どんなに彼があなたに会いたかったか知りもしないくせに。

 自分の都合で彼を振り回さないで頂戴。今、輝信は患者から訴えられて大変なんだから!」


 輝信は黙っていた。


 「本当なの? 裁判って?」

 「今、僕と黒沢教授、そして大学病院と厚労省までもが損害賠償請求訴訟を提起されているのは事実だ。

 彼女とは今、その裁判資料の作成を手伝ってもらって、打ち合わせをしていたところだ。教授の命令でね? やましいことは何もない」


 朋華は薄ら笑いを浮かべていた。


 「輝信の言う通りよ、私たちに疚しいことは何もないから安心しなさい。歌姫ちゃん」


 彼の口元には彼女のルージュの痕が残っていた。

 そして彼の白衣の襟元には、朋華の細くて美しく長い髪の毛が一本付着したままだった。

 彼女の白いブラウスのボタンが2つ外され、白いブラが見えていた。

 私はテルの頬を思いっきり往復ビンタをすると、そのまま泣きながら部屋を飛び出した。

 彼は追いかけて来てはくれなかった。

 私は逃げるように病院を出た。涙が溢れて止まらなかった。

 そんな私を街の人たちは好奇の目で見ていた。




 近くのカフェのトイレに入り、化粧を直した。


 私は彼の病院を訪れたことを後悔した。

 呼出して貰えば良かったものを、運命の悪戯なのか? 彼の部屋を訪れてしまった自分が悔しかった。

 彼の元を訪れなければあんな光景を目にすることもなく、あの女に好き放題言われることもなかったのだ。


 (私が悪いの? テルの辛い気持ちも理解しない私が)


 私はアメリカに行って破局した、元カレの最後の言葉を思い出した。


 「琴子の一番は俺じゃない、オペラだから」


 確かにそうだった。

 私は歌うことに夢中だった。だからこそプロとして沢山の聴衆の前で歌い、万来の拍手喝采を浴びて舞台に立つことが出来るのだ。

 その快感はセックスでの快楽とは比べ物にはならないものなのだ。

 歌と恋愛を両立させることは難しいのだろうか?

 愛し愛され、傷付き傷付けて人は成長していく。

 プリマドンナとして、私がもっと進化して行くためには恋愛は不可欠な要素だ。

 だが私は音楽に没頭するあまり、恋をいつも疎かにしてしまう。

 元カレと上手くいかなかったのも遠距離だったからではなく、私は彼を忘れてしまっていたのかもしれない。


 (もうテルのことは諦めるしかないのかしら? 何よ、ちょっとくらい会えなかっただけでまたあの女と浮気するなんて!)


 別れる?

 でもそれには抵抗がある。みんなが私たちの結婚を楽しみにしてくれているからだ。

 それを今更「彼に浮気されたから結婚するのを辞めます」なんてとても言えない。


 「あなたに女としての魅力がないから浮気されるのよ」


 そう嘲笑されるのがオチだ。

 幸か不幸か、まだ彼から婚約の解消は宣告されていない。

 おそらく彼は迷っているはずだ。

 今度で2度目。「三度目」までは多めに見るのが賢い女なのだろうか?


 そして思った。「あの女にだけは負けたくはない」と。

 あんなに偉そうに人を見下すような女に彼を盗られてしまうわけにはいかない。

 そもそもなんで私が引き下がらなければいけないの?

 冗談じゃないわ!

 あの女狐から彼を絶対に取り戻してみせる!

 もう恋愛から逃げることはしない! 彼は「私のもの」だから!


 不思議と勇気が湧いて来た。


 (私は歌姫、ディーバなのよ!)


 この恋愛は決して悲劇で終わらせたくない!

 私なのよ、この恋のオペラの主役は!

 この舞台の主役を最後まで私は演じ切ってみせる!



 私は温くなってしまった珈琲を一気に飲み干し、再び彼に電話を掛けた。

 もし彼が電話に出なければ、また病院に押しかけるまでだ。


 すると3回のコールで彼が電話に出た。


 「さっきはすまなかった」

 「5分でいいの、会えないかしら? このままでは納得出来ない!」

 「今日、リハは?」

 「今日はお休みだったの。だからテルに会いに来たの」

 「そうか、少しゆっくり話そう。18時に渋谷のあのBARで待ってる」

 「わかったわ。18時に渋谷ね?」

 「気を付けてな」


 テルは以前のやさしいテルに戻っていた。

 うれしかった。さっきの光景を私はもう忘れていた。

 夜までまだ時間があったので、私は一旦家に帰ることにした。



 

 家に帰ると母に言われた。


 「あら、もう帰って来たの? 久しぶりのデートにしては早かったんじゃない?」


 私は母に今日あったことのすべてを打ち明けた。

 話している最中、また怒りが込み上げて来たが泣くことはなかった。


 「大変だったわね? それで今夜、また木村君と会うのね?」

 「うん。私、間違ってないわよね?」

 「間違ってはいないけど、正しくはないわね?

 男はね、そういう本能の動物なの。そこを上手く手懐けないとね?」


 母は笑っていた。


 「手懐ける?」

 「男は女以上に寂しがり屋さんなの。つまりいつまでも子供みたいなものなのよ。いつも女に母性を求める。

 琴ちゃんが今大変なのはわかるわ。でもね、会う努力は必要よ。恋愛の破局はお互いの思い違いが原因だから。

 「ボクはこう思っていた」「私はこう考えていたわ」なんてね? 大丈夫、傷はまだ浅いわ。木村君も准教授になったばかりでおまけに裁判でクタクタなのよ。何も言わなくていいの、ただ彼のことを許して、慰めてあげなさい。彼の母親になったつもりで」

 「嫌われちゃったかな? 私」

 「嫌いなら、ゆっくり会って話したいなんて言わないし、電話にも出ないわよ。うふっ」


 また母の言葉に私は救われた。

 今日のことには触れず、まずは彼をゆっくり癒してあげよう。

 包み込むようなやさしい愛で、広い心で、そしてカラダで。

 この恋を確実なものにするために。



 今日の下着はいつもの清楚な物ではなく、かなり大胆な攻めた物にした。

 膝上のニットのグレーのワンピース。そして母の香水棚からDiorの『POISON』を拝借した。

 私の中に秘めた獣を彼に曝け出すために。


 「私がただのソプラニスタじゃないことを教えてあげる」


 私は歌劇『サロメ』の主人公となって勇敢に家を出た。


第6話 サロメ

 歌劇『サロメ』は新約聖書にある挿話をオスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』をヘートヴィヒ・ラハマンがドイツ語に訳したものを台本として、リヒャルト・シュトラウスが第一幕しかない短いオペラに仕上げたものだ。


 サロメは自分に気がある衛兵ナラボートを誘惑し、地下牢に幽閉されている預言者、ヨハネを連れ出させてサロメはヨハネに愛を囁く。


 だが、ヨハネはサロメの愛を拒絶してしまう。

 ナラボートは片想いするサロメのヨハネに対する深い愛情に絶望して自害してしまう。


 サロメは自分に欲情している義父、ヘロデ王の前で7枚の薄衣を纏い、踊りながら挑発するように薄衣を一枚ずつ脱ぎ捨ててゆく。

 ヘロデ王はサロメに熱狂し、「褒美を与えてやる。何でも所望するがよい」と告げる。

 するとサロメは言うのだ、


 「預言者ヨハネの生首が欲しい」


 それには流石に躊躇するヘロデ王。

 だがヘロデは止む無くそれを承諾し、サロメの母でもある王妃、ヘロディアスはヘロデ王の指から「死の指輪」を外し、それを首切り役人に渡してヨハネの首を刎ねることを命じる。


 地下牢のヨハネの首を刎ねることを躊躇っている首切り役人に業を煮やすサロメ。


 そして刑は執行され、銀の大皿に乗せられたヨハネの生首がサロメに差し出される。


 サロメは「お前は私に口づけをさせてはくれなかった。だから今こうして・・・」と長いモノローグを歌い終えると、サロメはヨハネの生首にキスをする。


 それを見たヘロデ王は激怒し、兵隊に「サロメを殺せ!」と叫び、サロメは兵士たちの楯に押しつぶされて圧死してゆくという悲劇のオペラだ。

 

 サロメを演じるオペラ歌手はひとりで殆どを歌いまくる。


 清純な少女であったり、性愛に耽る淫蕩な女であったりと、喜怒哀楽を変幻自在に表現しなければならない、難しい役どころだ。


 私は今日、テルの前でサロメを演じることを決めていた。




 BARには少し早く着いたが、いつものようにテルはすでに到着し、バーボンをロックで飲んでいた。

 端正な横顔。


 「さあ行くわよ。静かなところへ」


 彼はバーボンを飲み干し、席を立った。




 私は道玄坂のラブホテルに彼を誘った。



 ソファに座ると彼は言った。


 「今日は悪かった。本当は・・・」


 私は彼の口をキスで塞いだ。彼の口に私が舌を差し入れると、彼は戸惑いながらも私の舌に舌を絡ませて来た。


 「ずっと琴子に会いたかった」

 「何も言わなくていいから。今日は私があなたをたっぷり慰めてあげる。だからあなたは何もしなくていい。

 私に従いなさい」


 私はコートを脱ぎ、彼のズボンを下ろすといきり立った彼のそれをパンツの上からゆっくりと焦らすように摩った。

 彼のモノはさらに成長し、みるみる硬さを増していった。


 彼のパンツを下ろし、硬直したペニスを#嬲__なぶ__#るように舐めまわし、それを口に含むと顔を動かし、涎を垂らしながら彼のそれを慰めた。

 エアコンの音と、淫らなオーラル・セックスの音が静かなホテルの部屋に響いていた。


 自分でも信じられなかった。今、自分が彼にしている行為が不思議だった。

 いつもは彼任せだった性行為が、今は自分がイニシアチブを握っている。

 知識としてはあったが、フェラチオをしたのは初めてだった。


 フェラを続けながら彼の顔を見上げると、テルは目を閉じ、時折、「うっ」と顔をしかめたり、恍惚とした表情をしている。

 それが愉快でもあった。


 私はより強く彼を吸いあげながら、動きを速めていった。

 そして数分が過ぎた頃、


 「出そうだよ、琴子」

 「そのままお口の中に出しなさい。飲んであげるから」


 それは私ではなく、淫らなサロメが言った言葉だった。


 「あっ・・・」


 彼は短く呻き、熱い精液を私の口の中に放出し始めた。

 私は動きを止め、それを一滴たりとも零さぬようにと慎重に彼の精子を飲み続けた。それは少し苦い味がした。

 

 射精が終わっても私はしばらくの間、それを咥えたままでいた。

 彼のペニスがドクンドクンと脈打って、熱くなっているのが伝わる。


 「飲んでくれたんだね? 感激だよ、琴子」

 「どう? 気持ち良かった?」

 「ああ、すごく良かったよ」

 「私も脱がせて頂戴」


 テルは私のニットのワンピースをどう脱がせていいのか戸惑っているようだったので、私は自ら服を脱いだ。


 露わになったアナスイのような黒と紫を基調にしたブラとTバックのショーツに、彼は息を呑んだ。


 「こんな下着も持っていたんだね?」

 「嫌い?」

 「いや、よく似合っているよ。いつもの清純な琴子じゃないみたいだ」

 「そう? もっと違う私を見せてあげる。さあ、あなたも早く脱ぎなさい」


 彼はもどかしそうに服を脱ぎ始めた。

 そして私を抱き締めると、彼は私の『ポワゾン』の香りに酔いしれたようだった。


 「凄くいい香りがする。琴子の甘い体臭と相まって、とても刺激的な香りだ。興奮するよ。シャワーを浴びて来る」

 「シャワーは浴びなくてもいいから」


 人の記憶に残るのは視覚でも聴覚でもなく、嗅覚だ。

 私は彼に強烈な私の香りを刻み込むことに成功した。


 彼をベッドに突き飛ばし、私は彼の頭上に仁王立ちになった。

 私の行動に驚くテル。


 「今日はあなたは私の奴隷。さあ、今度は私にたっぷりご奉仕しなさい。分かった?」

 「うん、わかったよ」

 「違う!「うん」じゃない!「ハイ」でしょう?」

 「・・・はい」


 面白いように彼は私に従順だった。

 私は更に興奮して来た。この全裸の男は本当にあの「象牙の塔」の准教授なのだろうか?

 いつも女を隷従させていたテルにはかなり刺激的だったようで、すっかり被虐的なマゾ医者になっていた。


 私の戦略、戦術は完璧だった。

 

 (彼を調教してやるわ。私好みの男に)


 私はパンティを脱ぎ捨てブラをしたまま女性上位の体位を取り、彼の腰に跨ると、膨張した彼のペニスを自分の中にゆっくりと導いていった。


 すでにぬめり具合は十分となっており、それは容易に私の中に吸い込まれていった。


 「あん、はうっ・・・」


 私が腰を振り始めると彼は歓喜し、私も久しぶりの感触に我を忘れて没頭した。


 「コンドームをしないと」

 「いいから今日は中に出しなさい。どうせ結婚するんだから」


 子供は好きだったが私は出産を諦めていた。

 それはオペラを歌い続けるためだ。

 出産による身体や声に対するダメージは大きい。

 彼には言わなかったが、私は子供を産む気はなかった。

 私は彼との子供ではなく、歌を取ったのだ。


 ただコンドームの感触は嫌いだったので、私は最近ピルを飲み始めていた。



 「それもそうだね?」

 「それもそうだねじゃないでしょう!「はい」でしょう!」

 「はい!」

 「あはははは」


 私は大声で笑った。私はすべてに勝利したのだ。


 

 その後も私は彼を翻弄し、3回射精させた。

 彼の子供を妊娠したような気分だった。

 私はついにサロメを演じ切ったのだ。


 

 激しいセックスを終えた後、私は彼を母親のように抱き締め、やさしく彼の髪を撫でてあげた。


 「琴子、僕を赦してくれるのかい?」

 「しょうがない子ね? 悪いのはコイツか?」


 私はテルのペニスを強く握った。


 「痛いよ琴子」

 「もうしないか! コラッ!」

 「うん、いや・・・、はい」

 「結婚するわよ私たち。分かった?」

 「はい! 琴子と結婚します」


 母が言ったとおり、テルは寂しかっただけだった。

 私はやっと彼の本質を理解することが出来た。

 彼はささやかな私の胸に耳を当てた。

 

 「健やかな心臓の音が聴こえる」

 「あなたがそう言うなら安心ね?」


 テルは私に髪を撫でられたまま、いつの間にか寝息を立てて眠ってしまった。


 私はそんな彼に見惚れていた。


第7話 愛すればこそ

 輝信たちの医療裁判は原告によって取下げられた。



 「木村君、民事裁判なんて簡単なものだよ。カネと権力のある奴が勝つように出来ている。

 裁判が公平? あの天秤を持った女神、テミスは罪の重さを測っているのではない。カネと権力、そして法律を天秤に掛けているのさ。

 テミスが「不変なる掟」なんてまやかしだ。

 あんなものは裁判所の詭弁でしかない。裁判は正しい者の味方、正義だとね? 実に滑稽じゃないか?

 ただの時間の無駄遣いだよ、裁判なんて。

 原告と相手のポンコツ弁護士を徹底的に調べさせた。するとアイツらの弱点が見えて来る。そこを叩けばいい、容赦せずにな。

 今回は実に簡単だった。原告はカネもなく、社会的地位も権力もない一般人だった。

 そして正義漢を気取った三流弁護士の若造は、ウチが依頼した大手ファームに在籍している医療訴訟専門の弁護士が笑っていたよ。「この弁護士では裁判にはなりませんよ」とな?

 アホな患者はすぐに医療ミスだと騒ぎ立てる。

 素人に医療の何が分かる? 医者は神ではない、ただのそこら辺の人間よりちょっとばかり賢いだけだ。外科医なんて仕事はノコギリやノミ、トンカチなどを使う「高等職人」だからな?

 人は病気や事故で死ぬのではない。寿命で死ぬんだ。

 手術は成功して当たり前。失敗すれば裁判だなんて実に馬鹿げた話ではないかね?

 だったら「助けてくれ!」なんて病院に来なければいい。

 昔はそうやってカネのない人間は医者にも診てもらえずに殆どが死んでいった。

 今は笑うだろう「たかが盲腸だろう?」とな? でもその「たかが盲腸」でどれだけ多くの尊い命が消えていったことか。

 いいかね木村准教授。この世には二種類の人間しかいない。「支配する人間」と「支配される人間」だ。

 そうだよな? 朋華?」

 「その通りよお父様。結局お金も知恵もない人間は支配者の「エサ」にされちゃうわ。だから私たちのような「選ばれし民」は勝ち続けるの。人生のすべてにおいてね」

 「良く出来た娘だろう? ウチの朋華は? どうだね木村君? 朋華との結婚、もう一度考え直してみては?」

 「いいのよお父様。どうせ結婚しても数年でバツがついて戻って来るんだから。私の元へ。

 如何にあのオペラ馬鹿がつまらない退屈な女で、私という女が素晴らしい女かを思い知ることになるんだから。あはははは」



 あの日から、私の頭の中は琴子のことで一杯になっていた。

 今、私たちは時間をやりくりして頻繁に会うようになっている。




 その日、私は裁判が解決したことを琴子に報告した。


 「裁判、なくなったんだ」

 「ホント? これでやっと裁判の悩みから解放されたのね? おめでとう、テル!」


 琴子はすごく喜んでくれた。

 

 「ああ、これでホッとしたよ。琴子は僕の女神だ」

 「大袈裟ねー、女神だなんて。じゃあ今夜もたっぷりサービスしてあげるわね?」

 「僕も琴子にたくさん奉仕させてもらうよ」

 「いっぱい気持ちよくしてね?」



 私は琴子によって自分の性癖を次第に覚醒されていった。

 だが一方で、朋華とはまだ体の関係は続いていたのだった。

 それはまるで「月と太陽」のように対照的なふたりだったが、どちらも手放す勇気が私にはなかった。


 偉大な歌姫、琴子と天才量子力学者、朋華。

 どちらも私にとっては捨て難い女たちだった。

 朋華にはいつも余裕があった。朋華はけっして琴子に嫉妬することはしなかった。


 「もっとあのオペラ馬鹿とやりなさいよ。どうせすぐに飽きるんだから。あはははは」


 彼女はそう言って笑っていた。


 

 そして私と琴子は盛大に華燭の典を挙げ、私は朋華を愛人にしたまま、結婚生活をスタートさせた。

 


 「ねえ、イタリアのヴェローナにはいつ連れて行ってくれるの?」

 「黒沢教授の学長選が近いから、その応援と教授の手術もこなさなければならないから当分は無理だよ。

 学長選が終わったら出掛けよう。少し遅い新婚旅行に」

 「約束よ」


 琴子はまた私に指切りを迫った。私は何度、琴子と指切りをしたことだろう? そして私はその指切りの約束を一度も守ったことがなかった。そして今も私はその約束を破っている。


 「朋華とはもう二度と会わない」


 という約束を。




 

 朝、大学病院に出勤すると、病院内は騒然としていた。

 医局に入るとみんな各々のパソコンに釘付けになっていた。


 「おはようございます、木村准教授! 大変なことになりました、これをご覧ください! 黒沢教授が・・・」


 私が彼の背後からその画面を覗くと、黒沢教授と秘書の潤子さんのベッドシーンの動画が流されていた。

 ただし、音声はなかった。

 だがそれは、黒沢教授の学長への道を断つには十分過ぎる破壊力があった。

 黒沢教授の学長への夢は儚くも消えた。




 黒沢教授は分院の院長としての降格人事を拒否し、大学病院を辞めた。

 奥さんとも別れ、教授はすべてを失ったのである。



 だが驚いたことに、それをネットに公開したのは潤子さん自身だった。もちろん潤子さんも大学病院を辞めた。

 




 ふたりはハワイでバカンスを楽しんでいた。


 「潤子、どうしてお前はあんなことをしたんだ?」

 「教授のことを愛していたからよ」

 「ふふっ 馬鹿な女だ」


 黒沢は満足げに笑った。


 「あなたもね?」

 「そうだな? 俺はいつの間にか大切なものを忘れていた」

 「何を?」


 すると黒沢は潤子を優しく抱き締めてこう言った。


 「お前だよ、潤子」

 「私、自分がしたことを後悔してはいないわよ。だから絶対に謝らない」

 「いいのか? 俺で?」

 「俺「で」じゃなくて、あなた「が」いいの」

 「瀬戸内海に人口が1,000人しかいない離島の診療所の医者を探しているらしい。どうだ? お前も一緒に来るか?」

 「もちろんよ、私はあなたの秘書ですもの」

 「魚とミカンは旨いらしいぞ。それに俺は農家の倅だから、ついでに野菜でも作るか?」

 「素敵、楽しみね?」

 「そうだな? あはははは」


 黒沢と潤子は手を繋ぎ、ワイキキビーチを駆け抜けて海へとダイブした。

 ふたりは声を出して笑った。

 それはとても爽やかな笑い声だった。




 何もかも失った黒沢と潤子は離島の小さな診療所で暮らし始めた。黒沢は赤銅色に日焼けしていた。


 「黒沢先生! 昨日から腹の調子がおかしいんじゃ!」

 「下痢はしているのか?」

 「ちょっと緩いかもしれん」

 「そうか」


 すると黒沢は聴診器を当て自ら患者の体温を測り、採血をし、バイタルをチェックした。

 

 「とりあえずレントゲンを撮ってみよう」

 「ワシ、ガンなんじゃろうか?」

 「心配はいらんよ、源さんはガンなんて高級な病気にはかかりゃあせんから。潤子、レントゲンの準備を頼む」

 「はーい。源さん、こちらにどうぞ」

 「この島もホンマに良うなったで! 黒沢先生と潤子さんのような「おしどり夫婦」が島に来てくれたおかげじゃ! 黒沢先生ならワシの命、預けてもいいけん!」


 潤子は「黒沢潤子」になった。


 「命なんか預けんでくれよ、重くてかなわん。あはははは」

 「わはははは!」


 黒沢と潤子はやっと、本当のしあわせを見つけることが出来た。

 しあわせとはカネや権力を持つ事ではなく、毎日をしあわせを感じながら生きることだと。





 そして朋華は日本を離れ、アメリカへ旅立つことになった。



 「日本にいればいいじゃないか?」

 「父がケジメをつけた以上、私も自分のお尻は自分で拭くわ。

 残念だけどあなたとはお別れ。輝信、結構エキサイティングで楽しませてもらったわ。今までありがとう」


 その時私は初めて気づいた。

 本当に私が愛していたのは朋華だったのかもしれないと。



 

 私はひとり、羽田に朋華を見送りに行った。


 「羽田ってどうしてもローカルな気がするのよね? 海外に行くならやっぱり成田じゃないとね? 羽田の別れなんてダサいわよね? やっぱりお別れは成田じゃないと」

 「カラダに気を付けてな?」

 「あなたもね? 絶対に教授になってよ、お父さん以上のすばらしい医者に。そして学長になって私を秘書として呼んで頂戴。アメリカで首を長くして待っているから」

 

 朋華は目に涙をいっぱいに浮かべ、それが溢れて頬を伝った。

 私は思わず朋華を抱き締めた。


 「行くな朋華! 行かないでくれ!」

 「その言葉、もう少し早く聞きたかったなあ」


 彼女は満足げに笑っていた。

 器用な女だと思った。涙を流して笑うなんて。

 私はただ泣くことしか出来なかった。



 朋華を乗せたボーイングは羽田を飛び立ち、ラムネ色の空に吸い込まれて行った。



 その夜、私は銀座でホステスを相手に酒を飲み、女を抱いた。

 ひとりで呑むにはあまりに寂しい夜だったから。


第三楽章

第1話 砂の城

 結婚して三年。

 私たち夫婦は「婚姻」という書類上の存在だけになり、そこには愛情の欠片さえも残ってはいなかった。

 夫はいつの間にか私に飽きたようで、私もそんな夫に興味すら失っていた。


     ただの同居人

 

 人形同士のような毎日の生活。私は事あるごとに夫から叱責を受けていた。

 輝信はすっかり人間が変わってしまった。

 その理由がなんなのか? 私には皆目見当がつかなかった。



 それはいつも、食事のことから始まった。



 「なんでシチューにブロッコリーを入れるんだ!」

 「だって栄養もあるし、緑があると美味しそうに見えるから」


 私はブロッコリーが苦手だった。

 それは彼の健康と、料理の見た目を考えて作った料理だ。


 「シチューにブロッコリーなど、そこら辺の料理自慢の女がすることだ。

 ブロッコリーは軽く塩茹でして少し醤油を垂らし、マヨネーズをかけて食べるのが一番旨いんだ! お前はそんなこともわからないのか!」


 そして私は「お前」呼ばわりされるようになっていた。

 夫はもう、私の名前など忘れてしまったらしい。

 「琴子」という私の名前を。


 夫はなんにでもマヨネーズを掛ける。

 ある日、夫にそれを咎めると、


 「どうして何にでもマヨネーズを掛けて食べるの? 納豆にもマヨネーズだなんて」

 「好きだからだよ。マヨネーズの味が」

 「お義母さん、あんなにお料理が上手なのに」

 「おふくろの料理が旨いだって? 料理なんかしたことはねえよあの女は。

 メシはいつも能面みたいなお手伝いが作っていたから食べられたもんじゃねえよ。おふくろの料理なんて。

 だから俺はマヨネーズさえあればそれでいいんだ。

 食えればそれでいい」


 それは結婚してから聞いた話だった。

 あんなに美味しいサンドイッチを作ってくれた夫は、一体どこへ消えてしまったのだろう?


 そして夜の生活も一変した。

 夫はさっさと事を済ませると、私のことは何も労わることもなく眠ってしまう。

 それはまるで私のカラダを使ってマスターベーションをしているような行為だった。

 以前のように私の頭から足先まで舐め回してくれた夫はもういない。


 難しいオペをして帰ると、夫は必ず私を求めて来る。

 一度どうしてもその気になれずにそれを拒否した時、私は思いっ切りビンタされ、犯された。


 「誰のおかげでメシが喰えて歌が歌えると思っているんだ!

 いつになったら子供が出来るんだよ! 産婦人科に行って来い! 俺の知り合いの女医に優秀な産婦人科医がいるから!」


 夫には私がピルで避妊していることは秘密にしていた。

 夫は子供が欲しかった。




 私は仕方なくその女医を訪ねた。



 「あなた、ピルを飲んでいるわよね? どうしてそんなことをするの? ママにはなりたくないの?」

 「先生、このことは夫には黙っていていただけませんか?」

 「彼の子供を産みたくない理由は何?」


 彼女は眼鏡を外し、電子カルテから目を離した。


 「私がオペラ歌手だからです。出産でカラダは衰えるし、子育てで今まで築き上げたキャリアを失いたくはないんです」


 そしてもうひとつ、今のような彼の子供など絶対に生みたくはなかったからだ。

 もちろんそれは女医には話してはいない。



 「実はね? 私もオペラが好きで、琴子さんのコンサートにも何度かお邪魔したこともあるのよ。だから今日はお会いするのが凄く楽しみだったの。

 そうだったの? 歌のためにママになることを諦めたという訳かあ。

 わかったわ。とりあえず、彼には異常はなかったと言っておくから安心して。

 でも、ちゃんと話した方がいいわよ、彼ならきっとわかってくれるはずだから」


 そんな物わかりのいい優しい夫はもういない。


 「すみません、ご迷惑をお掛けして」

 「ううん、今度の公演は『蝶々夫人』だったわよね? 楽しみにしているわね?」

 「ありがとうございました」




 夜、食事の時、夫から言われた。


 「特に問題はないそうじゃないか?」

 「ええ」

 「お前、基礎体温とかちゃんと記録しているんだろうな?」

 「うん」

 「それじゃあ今月はいつすればいい? 今度生理が終わるのはいつだ?」

 

 私は思い切って夫に打ち明けることにした。


 「実は私、子供は欲しくないの・・・」

 「お前、自分が何を言っているのか分かって言っているのか! 子供がいなければそれは家族じゃない! ただの同居人じゃないか!」

 「ごめんなさい、私はこれからも歌いたいの! 歌い続けたいの! だから子供は無理!」


 彼は持っていた箸を私に投げつけた。


 「ふざけるな! 毎日毎日、歌! 歌! 歌! 歌!

 お前はなぜ俺と結婚した! そんなに歌が好きなら、歌と結婚すれば良かったじゃないか! ずっと俺を騙していたのか! 子供が出来ないなどと! 俺は一族からも病院の連中からも陰でなんて言われているか知っているか? 「種なし」だぞ!」


 夫は私の髪を引っ張り、往復ビンタをして太腿を蹴った。


 「もうやめて! 私と離婚して下さい!」


 すると夫は急に大人しくなった。

 彼は私の口からその言葉が出るのをずっと待っていたのだ。


 夫は凄く晴れやかな顔をしていた。

 それは希望に満ちた表情だった。

 


 「明日、区役所に行って離婚届を取って来い。そしてそれにお前のサインをしてこの家から出て行け。

 もちろん慰謝料はなしだ。財産分与もしない。

 お前の顔など二度と見たくはない」



 輝信は思っていた。

 

 (朋華の予言は的中した。疑念は遂に破局へと繋がってしまった)



 思えばよく3年も持ったものだ。

 どうやら私は結婚相手を間違えてしまったようだ。

 それとも初めから私たちには「縁」がなかったのだろうか?



 結婚とは修行だと思う。Wedding Bell は戦いのゴングだ。

 一緒に暮らし始めると、お互いに気を遣わなくなる。

 それが「吉」と出ることもあれば、それで夫婦関係が拗れてしまうこともある。


 休みの日にはあんなに外に連れ出してくれた夫は家の中でゴロゴロしてばかりで何もしなくなり、結婚する前まではお弁当をよく作ってくれた奥さんも、結婚した途端料理することもめっきりと減り、殆ど外食とコンビニ弁当になってしまう夫婦もいる。

 私は出来る限りいい妻でいようと努力した。

 それはもしかすると夫への愛情ではなく、好きな歌を続けさせてもらうための代償だったのかもしれなかった。

 

 私はひとり、レッスン室で泣いた。声をあげて思い切り泣いた。

 それは夫と別れることへの悲しみの涙ではなく、この大切な3年間を無駄にしてしまったことへの悔し涙だった。




 翌日私は自分の荷物を実家に送り、離婚届にサインをして家を出た。


 私の心はズタズタだったが、気分はとても晴れやかだった。


 今日のこの秋晴れの空のように。


第2話 再びのパリ

 琴子が家を出て行ってから1週間、私は彼女に自分が如何に依存していたかを思い知らされた。


 トマトジュースを飲みながら朝食の準備を始めた。

 ベーコンをカリカリに焼き、フライパンに卵をふたつ落そうとした時、卵の黄身が崩れてしまった。


 「くそっ!」


 私はコンロの火を止め、フライ返しをシンクへ叩きつけた。

 その残響が孤独の虚しさだった。

 

 

 ひとり、ダイニングテーブルで摂る朝食。少し焦げたトーストにバターを塗り、つぶれたベーコンエッグにマヨネーズを掛けて食べた。

 不味い朝食だった。

 そしてたった1週間で家の中はゴミ屋敷に変貌し、酒瓶が転がっていた。

 

 掃除に洗濯、料理。私の身の回のことすべてを琴子がしてくれていた。

 俺の靴を磨いてくれる妻はもういない。

 私は仕事に忙殺され、アメリカに行ってしまった朋華のことを懐かしむあまり、琴子に辛くあたってしまったことを後悔した。

 

 

 寂しさに耐えきれず、私はアメリカにいる朋華に電話をした。

 だがその携帯は既に解約され、使用不可となっていた。 

 私は月と太陽を同時に失い、暗黒の中を漂っていた。


 (俺は一体何をしていたんだろう?)


 それは自業自得だった。


 (せめて琴子に誠意のある謝罪がしたい)


 私は理事長である父に頼み、自分の預金口座から実家の病院の当座預金に1,000万円を送金し、小切手を振り出してもらった。

 

 「輝信、女はカネが掛かる生き物だ。今度再婚する時は慎重にな? 仕事と「そっちの方」は家庭に持ち込んではいかん」


 そう言って父は苦笑いをしていた。

 事実、父と母は戸籍上の夫婦というだけで、父は自分の病院の若い女医と、そして母はテニスクラブのコーチと不倫をしていた。

 父は母親の実家の財産だけが目当てだったようだ。

 だがそのおかげで病院経営は安定していた。

 そんな父は「成功者だ」と周囲から称賛されている。




 実家に戻ったが、母と父は何も言わなかった。

 義母から母に電話があったらしい。


 「どういう事ですの? 離婚だなんてみっともない!」

 「娘は息子さんから長い間、酷いDVを受けていたようです。警察に届けようとも思いましたがご安心下さい、息子さんの将来と、そちら様のこともありますので、被害届は出さないことにいたしました。ただ・・・」

 「ただ何です!」

 「謝って下さい、私に」

 「なんでわたくしがあなたに謝罪しなければならないの!」

 「謝りなさい! ロクデナシの息子を育てた母親として!」


 もちろん義母は母に謝ることはせず、そのまま電話を一方的に切ったらしい。



 父は母に言ったそうだ。


 「彼はまだ、大学病院の医者としての自覚がなかったんだ。教授には向かん男だよ」

 「あなたみたいに銀座のホステスでもいれば良かったんでしょうけどね?」


 父には愛人がいた。

 結婚してすぐ、母は私を身籠りピアニストを辞めた。

 母はそんな父を野放しにし、妻として父に尽くしていた。


   良妻賢母


 それは母の代名詞だった。

 母はずっと苦しんでいた。

 その悲しみと苦悩は母の弾くショパンに込められていた。

 母はショパンしか弾かなかった。


 「琴ちゃん、今回はいい勉強になったわね? これであなたはもっといい女になったはずよ。今度こそいい恋愛をしなさい。子供の事を考えなければ結婚に拘る必要はないんだから」


 そう言って母は私を励ましてくれた。




 結婚生活のストレスから解放された私は、水を得た魚のように音楽に打ち込むことが出来た。

 オペラのアリアの楽譜は音符のひとつひとつに歌詞がついている。それは演奏に合わせて歌詞を忠実に表現するためだ。

 私は楽譜に曲に対する注意や気付いた点、イメージなどを出来るだけ詳細に書き記していく。

 赤や青のペンを使い、様々な色の蛍光ペンでLINEを引いたり、付箋紙で楽譜はいつもグチャグチャだった。

 それは私にしか解読することが出来ない。

 私は常に楽譜を三冊用意して、徹底的にその歌劇を理解するように努めている。


 もちろん、管弦楽のスコアも合わせて暗譜する。

 私は間奏の時も休みはしない。

 それはその音楽によってプリマドンナの心情の変化に自分をシンクロさせるためでもある。

 3時間近くにも及ぶ歌劇は真剣勝負だ。オペラは歌手と指揮者、オーケストラ、舞台、衣装が混然一体でなければ成立しない総合芸術なのだ。




 リハーサルは順調に進んでいた。

 プッチーニ作、『蝶々夫人』


 裕福だった実家が没落し、弱冠15歳だった娘、蝶々は芸者に身売りをしてしまう。


 アメリカ海軍士官であったピンカートンは、軽い気持ちで蝶々と結婚してしまう。

 その時の長崎のアメリカ総領事、シャープレスはピンカートンを問い質す。


 「君は本当に彼女を愛しているのかね?」

 「愛が気まぐれかどうかはわかりませんが、蝶々が私の心を捉えたことは確かです」


 『捨てられても私は幸福よ』と歌う蝶々夫人とピンカートンの愛のデュエット。


 そして幸せな3年間はあっという間に過ぎ、ピンカートンはアメリカに帰国してしまい、ケイトという女性と本国で結婚してしまう。


 あの有名なアリア、『ある晴れた日に』を歌い上げる蝶々夫人と女中のスズキ。


 そんなことを知らない蝶々夫人はピンカートンの子供を身籠っており、彼の帰国後、子供を出産する。


 再び妻のケイトを伴い、長崎を訪れるピンカートン。

 アメリカの船が長崎に入港したことを知り、歓喜する蝶々夫人。


 シャープレス領事は蝶々夫人の女中のスズキに「ピンカートンの子供をケイトに預ける方がいい」と助言する。


 蝶々夫人もそれに同意し、子供に目隠しをさせ、蝶々は絶望して短刀で自害してしまうという悲劇のオペラだ。



 琴子の蝶々夫人は素晴らしい出来だった。

 公演は大成功だった。聴衆は涙している者さえいた。


 「Bravo! Madam Butterfly!」


 聴衆は総立ちだった。





 楽屋に戻るとマネージャーがやって来て、


 「琴子さん、旦那さんがお見えです」


 離婚したことはまだ公表してはいなかった。

 私はステージネームをそのまま「海音寺琴子」にしておいて本当に良かったと思った。

 既婚者であるということで、イヤな男に言い寄られることもないからだ。


 「通して頂戴」


 別に断る理由はなかった。もう彼は他人なのだから。


 楽屋のドアをノックする音が聞こえた。


 「どうぞ」


 彼は微笑んで近づいて来た。

 嫌悪感に鳥肌が立った。もし何かされそうになったらすぐに大声を出そうと私は身構えた。


 「素晴らしい蝶々夫人だったよ」

 「ご用件は?」


 私は敢えて冷たく言い放った。

 話が長くなるのを避けたかったからだ。


 「今までありがとう、そしてすまなかった。

 ただそれを言いに来たんだ。あと、これを君に」

 

 彼は私に封筒を差し出した。


 「何これ?」

 「今までの給料だ、受け取って欲しい」


 封筒を開けると1,000万円の小切手が入っていた。


 「君が僕に尽くしてくれた3年分としては少ないかもしれないが、それで勘弁してくれ」

 「ありがとう。助かるわ」

 「それじゃ元気で」

 「あなたもね」


 彼は振り返らずに楽屋を出て行った。

 今となっては彼に対して何の感慨もなく、私は小切手を無造作にバッグに仕舞った。

 



 私は自分をリセットするために旅に出ることにした。

 旅先はパリに選んだ。

 パリは以前に何度か訪れており、土地勘もあったからだ。

 

 目的地を敢えてイタリアにしなかったのは、少しの間、オペラから離れて自分の人生を俯瞰して見たかったからだ。

 


 

 

 晩秋のシャルル・ド・ゴール空港は快晴だった。

 芸術の都、パリ。花の都、パリ。

 

 パリは傷付いた私をあたたかく迎え入れてくれた。


第3話 パリのヴァガボンド(放浪者)

 パリで定宿にしているルーブル美術館の近くにあるホテルに着くと、ベル・キャプテンのレイモンドが私を温かく笑顔で迎えてくれた。


 「おお、マダム琴子! ようこそ我がホテルへ!」

 「覚えていてくれたのね? うれしいわ、レイモンド」

 「美しい女性は忘れませんよ」

 「でももうマダムじゃないの、「Mademoiselle(マドモアゼル)」に戻っちゃった」


 長身のレイモンドは大きく両手を広げ、


 「それはおめでとうございます! マドモアゼル琴子はまた「自由」を手に入れたのですね?」

 「そういうことね? うふっ」

 「今回はお荷物が多いようですが?」

 「今年の年越しはパリで過ごすつもりなの」

 「Bravo! どうぞこの美の都、パリで新年をお迎え下さい! マドモアゼルの新しい人生の門出を!」

 「Merci beaucoup(どうもありがとう)」



 フロント・スタッフもポーターも、みんな私のことを覚えていてくれた。


 「ようこそ、マダム琴子。お待ち申し上げておりました」


 フロント・チーフのアランは鼻筋の通った銀髪の紳士だった。


 「アラン、今回は長くお世話になるから宜しくね?」

 「なんでしたら、このままパリにお住まいになられてはいかがですか? パリはあなたを歓迎しますよ」

 「ありがとう、それもいいかもね?」


 私は笑ってアランにそう答えた。



 時差ボケと飛行機の長旅で疲れた私は、ゆっくりとバスタブに浸かりベッドに横になるとすぐに深い眠りに落ちた。


 夢を見ていた。

 パリのオペラ座でアリアを歌おうとした私は声が出ない。

 私はひとり、広い劇場でパニックに陥って目が覚めた。

 嫌な夢だった。

 

 私は広すぎるキングサイズのベッドでひとり、白い天井を見ていた。

 パリは高緯度にあるため、秋分を過ぎると日照が著しく短かくなって行く。

 窓の外はすっかり暗くなっていた。

 時計を見ると既に20時を回っている。

 私は今、異国の地、パリにいることを実感した。


 

 初めてこのホテルに宿泊したのは音大生の時だった。

 私たち男女4人は春休みを利用して音楽の勉強をするために欧州を回ることになった。

 イタリア、ドイツ、オーストリア、チェコに行くついでに、折角なのでパリ観光をすることになったのだ。

 5日間をこのホテルで過ごした。


 女子は私とピアノ科の聡子。男子はチェロ科の室井君と作曲科の雅之だった。

 もちろん私たちは男子と女子の別々の相部屋に分かれて宿泊することになっていた。


 私は室井君から告白されていたが、当時はアメリカに行った彼とお付き合いをしていたので彼の申し出は断った。

 それに私は彼が苦手だった。

 

 「ごめんなさい、私、お付き合いしている人がいるの」


 彼は酷くガッカリした様子で、少し気まずい思いをしていた。

 雅之と私はよくウマが合い、親友だったが、聡子はそんな雅之のことが好きだった。

 

 

 部屋で私と聡子が荷物の整理をしていると、そこへ雅之がやって来た。


 「今日、この部屋に泊めてくれないかなあ?」

 「どうしたの? 室井君と喧嘩でもしたの?」

 「室井のやつさあ、鼾と歯軋りが酷くて眠れないんだよー」


 すると聡子はうれしそうに言った。

 

 「いいわよ、ソファで寝たら? いいわよね? 琴子?」

 

 正直私は迷った。すっぴんも寝顔も見られるのがイヤだったからだ。


 「ソファじゃ寝た気がしねえよー」

 「だってベッドはシングルなのよ、ダブルだったら私と琴子が一緒に寝て、もう一つのベッドを雅之が使えるかもしれないけど。私と琴子は仲良しだけどレズじゃないしね? シングルではちょっとねー。あはは」


 雅之は驚くような提案をして来た。


 「だったらこのベッドをくっつけて3人で眠ればいいじゃないか? 俺が真ん中に寝るから」

 「そっかー! それじゃあベッドをくっつけちゃおう!」


 私はかなり抵抗があったが、聡子の嬉しそうな顔を見ると、とても逆らえる雰囲気ではなかった。

 私は仕方なくそれに同意した。



 

 その夜、私たちは室井君に声を掛けることはせず、お酒とおつまみを買って来て、部屋でお酒を飲んで盛り上がっていた。


 

 「明日はルーブルだから、そろそろ寝ようか?」


 と、私が言うと、


 「そうだな、寝よう寝よう」

 「ねえ、3Pしない?」

 

 聡子がお道化てそう言った。


 「俺、お前らふたりを同時に相手になんか出来ねえよ。不器用だから」

 「あはははは、雅之って下手そうだもんね? でも大丈夫、私と琴子で#して__・__#あげるから、あんたはただ寝ているだけでいいから。マグロでいいわよ。あはははは」

 「バカヤロー! これでも俺はテクニシャンだぜ。あはははは」



 私たちは順番に洗面と歯磨きを済ませ、雅之を真ん中にしてベッドに川の字になった。だが雅之は長身なので実際には川の字ではなく「小の字」だったと言える。

 最初はドキドキしたが、疲れて酔っていたこともあり、私はいつの間にか眠ってしまった。



 私は聡子のくぐもった声と、ベッドの軋む音で目を覚ました。人が動いている気配がする。

 ふたりに背を向けて私は寝ていたが、今、何が行われているのかはゆうに想像がついた。


 (聡子と雅之がしている)


 聡子と雅之は、聡子側のベッドで重なっているようだった。

 聡子の喘ぎ声が次第にハイトーンになり、クレッシェンドして途絶えるとベッドの軋み音も止んだ。

 どうやら二人はフィニッシュを迎えたようだった。


 いつ用意したのか雅之がコンドームを外し、それを縛る音とティッシュを三枚引き抜く音が聞こえた。

 そして彼がそれをゴミ箱に捨てると、聡子が慌ててそれを拾い小声で雅之に囁いた。


 「駄目よ、そんなところに捨てちゃ。琴子に見つかっちゃうじゃない」

 「わかんねえだろう? 琴子はゴミ箱なんて覗かねえよ」

 「馬鹿ね? 女はそういうことに鋭いものよ」


 聡子はそれを自分のコートのポケットに入れたようだった。


 ふたりが抱き合い、キスをする音が聞こえた。聡子のうっとりとした声が洩れ聞こえてきた。

 どうやら二回戦が始まったらしい。



 私は隣でしているふたりの行為にカラダが熱くなり、女の部分が潤っているのが分かったが、今、それをするわけにはいかなかった。

 私は息を殺し、トイレに行きたいのも我慢していた。




 翌朝、私たち4人は何事も無かったかのように、朝食を食べていた。


 「雅之、昨日はどこに行っていたんだよ?」


 室井君は雅之が私たちと一緒にいることを知っていたからわざとそう拗ねてみせた。


 「お前の鼾と歯軋りがうるさくて眠れねえから、聡子たちの部屋のソファで寝てたんだぞ」

 「ごめん、そうだったのか?」

 「でも心配すんな、あと4日だからこいつらの部屋に居候するよ。お前は遠慮なく鼾と歯軋りをすればいい」


 室井君は自分だけが仲間外れにされたことに、とても寂しそうだった。

 これから毎日、ふたりが愛し合うのを隣で聞かされるのかと思うと辟易したが、聡子はとても嬉しそうだった。



 聡子がお風呂に入っている時、雅之から昨夜のことを告白された。


 「琴子、夕べ、起きてたんだろう? ごめんな」

 「・・・」

 「俺、本当は琴子の事が好きだったんだ。でもお前の学内一のマエストロには敵わねえからな。だから諦めたんだ、お前のことを」


 私はそれには気付いていたが、敢えて雅之から告白されないように友だちを装っていたのだった。



 今となっては懐かしい思い出だ。

 結局、聡子と雅之は長続きせず、聡子は私の伴奏者となり、雅之は大阪の音楽プロダクションへと就職した。


 


 パリでの夜の女のひとり歩きは危険なので、夕食はホテルのレストランで摂ることにした。

 食アレルギーの多い私にはフルコースは無理なので、いつものようにアラカルトにした。

 サラダとポトフ、エスカルゴとバゲットをオーダーした。

 ポトフのコンソメはとても上品で、パンは日本のそれとは比較にならないほどの美味さだった。

 

 お腹が一杯になると、私はようやく落ち着いた。

 

 

 就寝前にはいつものように腕立て伏せとスクワット、腹筋を3セット行い、迷惑にならない程度のボイトレをした。

 最後にヨガで深い瞑想状態に入り、その後舞台で歌うイメージ・トレーニングをした。



 シャワーを浴びてバスローブに着替え、私はiPadを開いてメールをチェックし、パリでの行動予定の作成に取り掛かった。


 


 翌朝9時になると、ようやくパリに日が差して来た。

 私はルーブルに行く前に、近くのカフェでいつものように朝食代わりのエスプレッソを飲んでいると、黒のタートルネックにカシミアのコートを着た、少し小柄な東洋人が新聞を持って店に入って来た。

 天然パーマのボサボサの髪に丸い銀縁メガネを掛け、端正な顔立をしていた。

 横顔に知性が窺えた。

 年齢は四十前後といったところだろうか? 


 彼はギャルソンと知り合いのようで、流暢なフランス語でオーバーアクションで笑っていた。

 彼は私に気付くと、微笑んで軽く会釈をしてテーブルについた。


 (日本人なのかしら?)


 私は話し掛けられるのも面倒だったので、彼からわざと目を逸らし、外に視線を向けた。


 

 別に私に近づいて来るでもなく、彼はル・モンド紙を読み始め、昼間からジンライムを飲んでいた。


 (昼間からお酒を飲むなんて、自堕落な人)


 私はパリの地図を広げ、メトロのルートを確認していた。

 するとそこに2人の黒人がやって来て、


 「お嬢ちゃん? パリは初めてかい? 俺たちが案内してやるよ」


 そう言って勝手に私のテーブルの椅子に座ると、私を舐め回すように見て薄ら笑いを浮かべた。


 「ひとりになりたいの。あっちに行って」


 私は少しきつく彼らに言ったが効果はなかった。


 「つれないこと言うなよ、子猫ちゃん?」


 私がギャルソンを呼ぼうとした時、さっきの東洋人がやって来てその男たちにフランス語で言った。


 「俺の女房に何か用か?」

 「お前の女房? テーブルが別々じゃねえか?」

 「今、喧嘩して別居しているんだ」

 「俺たちの#ビジネス__・__#を邪魔する気か?」

 「とんでもない! 君たちの犯罪行為を邪魔する気はないよ。

 ヘイ、ミッシェル! お客様がお帰りだ、パリ市警に通報してくれ」

 「Oui、Monsieur(かしこまりました)」

 「イエロー・ジャップ!」


 男たちは悪態を吐いてスゴスゴと店を出て行った。


 「助けてくれてどうもありがとう。あなた、日本人なの?」

 「一応ね」

 

 彼は自分のテーブルから読みかけの新聞を脇に挟み、ジンライムを持って私のテーブルに座った。

 近くでその男の顔をよく見ると、綺麗に澄んだ鳶色の瞳をしていた。

 私はその彼の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥っていた。


 「いつパリへ?」

 「昨日」

 「パリは初めてじゃなさそうだね?」

 「何度か来ているんだけど、ひとりで来たのは今回が初めて」

 「今の季節のパリはいい。秋から冬へ。そして何よりパリは酒が旨い」


 男はジンライムのグラスを掲げた。


 「お酒、好きなのね?」

 「好きというよりクスリだな? これがないと俺は生きられない」

 「私もお酒は好きよ」

 「だったら飲めばいいじゃないか? エスプレッソなんか飲まずに」

 「お日様があるうちは飲まないことにしているの」

 「真面目か? フフッ」


 彼は口を開けずに笑った。


 「旅行者ではなさそうね?」

 「Vagabond(放浪者)だよ、ただの」

 

 私はなぜか笑ってしまった。

 それが彼、#星野銀河__ほしのぎんが__#との出会いだった。


第4話 好きから始まる恋

 彼との会話に夢中になり、私は二杯目の飲み物をお替りしていた。

 家でエスプレッソを飲む時は、デミタスカップの底に沈んだグラニュー糖は、そのままカップを口につけてお行儀悪く流れて来るのを待って味わっていたが、ここはパリのお洒落なカフェ。目の前にはさっき知り合ったばかりの男性もいる。私はカップに残った大好きなお砂糖を、かわいらしくスプーンで掬って舐めていた。 


 「俺もエスプレッソに残った砂糖を舐めるのが好きだ。「珈琲飴」みたいだよな? アイツらイタリア人は旨い物、旨い食べ方をよく知っているよ。

 何しろ「食べて、歌って、恋をしろ!」のいい加減な国民だからな? 憧れるよ、イタリア人に」


 お酒の勢いもあり、彼は少し饒舌になっていた。


 「私も好きよ、そんな人生を楽しむイタリア人が」

 「昼間からこうして酒を飲む俺を非難するクセにか? ヘンな女だな? 君は?」


 (この人のことをもっと知りたい)


 私はそう思った。


 「私は海音寺琴子。あなたは?」

 「君の事は知っているよ。オペラ好きに君を知らない人間はいないからな? 先日の『蝶々夫人』、良かったよ。何か吹っ切れたような伸びやかなソプラノだった」

 「知っていたの? 私の事」

 「そんな憧れのプリマドンナとこうしてパリのカフェで一緒にいるなんて、夢のようだよ。この世に神様は存在するんだな? 絶対に。

 俺の本名は星野銀河。#芸名__・__#はもう少し仲良くなってから教えるよ」

 「芸名もあるの? でも銀河なんて凄いお名前ね?」

 「よく言われるよ。親父が付けてくれたんだ。「星野だから「銀河」でいいんじゃないか?」って軽いノリで付けたらしい。

 でも俺は結構気に入っているんだ、この名前。

 みんなは俺のことを「銀ちゃん」と呼んだり、海賊みたいに「シルバー」と呼ぶ奴もいる」

 「じゃあ私は「銀ちゃん」で。私のことは「琴子」でいいわ。みんなそう呼んでくれるから」

 「俺は君のことを「ハープちゃん」と呼ぶことにするよ。でもいいのかなあ、偉大なプリマの海音寺琴子姫をそんな気易く呼んでも?」

 「お好きなようにどうぞ」


 私はちょっとうれしかった。「Harp」なんてカワイイ渾名を付けてくれた銀河に。

 

 「でもこれからだけどね? ハープちゃんがもっと凄いDivaになるのは」

 「どうして?」

 「君が年を重ねてもっと声に円熟味が増して、そして・・・」

 「そして?」

 「いい恋愛をすることだ。すると君の歌に「#艶__つや__#」が出て来る。恋愛をすることで歌が磨かれていくんだ。ヴィンテージ物のワインのようにね?」


 (この人、私を口説いているのかしら?)


 「もう当分恋愛はしないつもり。男の人は懲り懲り」


 私は軽く彼を牽制してみた。


 「そんな傷心旅行にこれからのパリはお勧めだよ。ハープちゃんの心の傷を十分癒してくれる、やさしさのある街だからね? このパリは」


 (何なのこの酔っ払い! 気障な奴! 偉そうに!)


 急に涙が溢れて来た。

 今まで人前で泣くのを我慢してきた私が、さっき出会ったばかりの目の前の男に掛けられた、そのやさしい言葉に私は迂闊にも泣いてしまったのだ。


 何も言わずにポケット・チーフを私に差し出す銀河。

 私はそれを目に当て、泣き続けた。

 店にいた客の視線を感じたが、気にはしなかった。


 今までの男はみんな自分勝手な男ばかりだった。

 私のことよりも自分のことばかり。

 私は「尽くすだけの女」に疲れていたのだ。そんな子供みたいな男たちに振り回されて。

 私は彼らの「ママ」ではないのだ。

 初めてだった。自分のことをちゃんと見てくれる人に会ったのは。



 「今日のハープちゃんの予定は?」

 「ルーブルに行こうと思ってる」

 「俺も一緒に行ってもいいかな?」


 うれしかった。ひとりで回るのは心細くもあったからだ。


 「今日1日、私のガイドさんになってよ。ご飯をご馳走するから」

 「よし、契約成立だな?」

 「銀ちゃんはルーブルなんて見飽きたんじゃないの?」

 「見飽きる? あの38万点にも及ぶ、人類の叡智の収蔵品をか? 

 一生懸けても見切れないよ。それにどんどん作品は増えていくんだからね?」

 「音楽と数学にしか興味がなかったからそれ以外のことはよく知らないの。だから銀ちゃんに解説して欲しい」

 「じゃあ行こうか? 歌姫殿」


 私たちはセーヌ川を渡り、ルーブルのガラスのピラミッドの入口を目指した。




 「世界中から年間1,000万人もの人たちがルーブルにやって来る。

 アメリカのメトロポリタン、ロシアのエルミタージュ。そしてその世界三大美術館の頂点に立つのがここ、ルーブル美術館だ。

 この堅牢で優雅な建物は、12世紀にフィリップ2世が要塞として建造し、歴代の王が宮殿として使っていたが17世紀になるとルイ14世がベルサイユに宮殿を移したことで、ここは王宮の展示宝物館となったんだ」


 説明してくれる彼のテノールボイスが私の耳に心地良く響いた。

 聞き取り易く耳障りのない声だった。 


 「まずはダ・ヴィンチから行こうか?」


 (ダ・ヴィンチから? ちょっと意外)


 だが彼はその私の想いを見透かしたかのように言った。


 「ダ・ヴィンチは日本でも有名だ。彼は人間じゃないんだよ」

 「じゃあ何?」

 「宇宙人」


 彼は『モナ・リザ』に向かって歩いている間、ダ・ヴィンチについて詳しく話をしてくれた。


 「レオナルド・ダ・ヴィンチは「ヴィンチ村のレオナルド」という簡単な名前なんだが、彼はあらゆる分野に精通し、研究を続けた天才だった。

 レオナルドには芸術と科学、建築、医学等には境界線を引いてはいない。彼にはカテゴライズが存在しないのさ。

 つまり芸術とは驚きであり感動なんだよ。だからすべてが彼にとっては芸術なんだ。

 1452年4月15日、公証人と農夫の娘との間に非嫡出子としてレオナルドは生まれた。

 1466年、14才になったレオナルドはフィレンツェの芸術家、ヴェロッキオに弟子入りする。

 画家としての初期にはミラノ公爵に仕え、その後はローマ、ボローニャ、ヴェネチアで活動し、晩年にはフランス王、フランソワ1世に庇護され、屋敷まで与えられていた。

 ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』は知っているよね?」

 「中学の時、歴史の教科書で見たわ」

 「レオナルドの絵画作品は15点程しか発見されていない。

 それは彼が異常なまでの完璧主義者であり、気に入らない作品を破棄したことと、新たな画法に傾注して、ひとつの作品に長年の時間を掛けて手を加え続けたからだと言われている。

 彼は生涯独身だった。一説では男色であったとも言われている。

 臨終はフランソワ1世の腕に抱かれて死んだらしい。王は彼の死を酷く悼んだそうだ」

 「独身だったのね?」

 「それは彼にとって賢明な判断だったかもしれないけどね?

 結婚することが必ずしもしあわせに通じるとは限らない。

 人には向き、不向きがあるように、結婚が向いていない奴もいる」


 (銀河は独身なのかしら? それともバツイチとか?)


 私は彼の私生活に興味が湧いた。

 

 「彼の作品は有名だ。『モナ・リザ』はフランスでは「ラ・ジョコンダ」とも呼ばれている。フィレンツェの富豪、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻、リザ・グルディーニがモデルであったとされているが、レオナルドの母親、あるいは自分自身を重ねて描かれているとも言われているんだ」


 私たちはようやく人集りのしている『モナ・リザ』の前まで辿り着いた。


 「モナ・リザは当時としては画期的な肖像画だったんだ。

 当時、肖像画は王族や貴族階級の権威を顕示するための物であり、衣装も絢爛豪華な物だったがこの『モナ・リザ』の服はとても地味だろう?」

 「華やかなルネッサンス期の肖像画としては質素ね?」

 「この絵には女性の永遠なる「貞節」を表現しているとも言われている。またダ・ヴィンチと愛人関係にあったという下品な評論家もいるがね?」

 「・・・」

 「この絵には色彩の透明な層を上塗りすることによって重厚感を表すスフマート技法と、遠くの物は近くの物から比べて霞むという空気遠近法を用いて描かれている。

 顔の輪郭線がないだろう? だからより写実的に見えるんだ。

 そして最大で15層にも上塗りされて描かれている箇所があるこも判明している。

 そしてこの『モナ・リザ』は未完成のままなんだ」

 「これで未完成なの?」

 「彼は死の直前までこの『モナ・リザ』に筆を入れていたと言われている。

 ダ・ヴィンチの絵画は単なる絵画ではない。神が彼に描かせた宗教画、仏画なんだよ」


 以前見た『モナ・リザ』がとても愛おしく思えた。

 オペラ歌手の私にはダ・ヴィンチの想いがよく分かる。

 私が歌うオペラにも100点満点は存在しない。

 声の音色、艶、温度、湿度、オーケストラとの1,000分の1秒のシンクロなど、キリがないのだ。

 私はソプラニスタとしていつも完璧を目指した。

 だが私はそれを自分の私生活にも求め過ぎていたのかもしれない。


   「完璧な妻でありたい」


 私は自分で自分の首を絞めていたのだ。

 『モナ・リザ』を見て解説してくれている銀河の横顔を見た時、私は彼に男性を感じ始めていた。


 それは「好きから始まる恋」だった。


第5話 昼間のビール

 「今日はダ・ヴィンチだけを見ることにしよう」

 「ダ・ヴィンチだけ?」

 「君は食事をする時、いきなり分厚いヒレステーキを食べて、寿司を摘み、Pizzaを食べて大福を食べるのかい?「折角ルーブルまで来たんだから、今日一日で全部見たい」とでも?

 それはこれらの人類の至宝をゆっくり味わうこともせず、食堂の食品サンプルを見て回るようなものだよ。

 「私ね、パリのルーブル美術館に行って来たの」とただ写真や動画を撮ってSNSに投稿してどんな意味がある?

 高い旅行代金を払って写真を撮るだけなら、日本でルーブルのDVDでも観て、時計やバッグを買った方がよっぽどいいよ。

 旅は気付きなんだ。その旅での出会いを感じることに意味がある。目的地に行くだけではなく、その行き帰りの道すがらも旅なんだ。

 ハープちゃんはそんな日本の観光客ではないだろう?」

 

 銀河の言う通りだった。

 日本人はあれもこれもとヨーロッパに来ると、なるべく多くの国を見て回ろうとする。

 イギリス、フランス、ドイツ、イタリアなど、それをたった7日間で見て回ることは無謀だ。

 ひとつの都市に絞って旅をするのが本来のヨーロッパ観光だと言える。

 日本に来た外国人が東京から奈良、京都。そして北海道を見て回るのとは訳が違う。

 言語も文化も異なる国を、とても1週間程度で巡ることは出来ない。


 (銀河って何者?)


 「レオナルドはルネッサンス期を代表する芸術家だ。ルーブルには『モナ・リザ』を含めて、レオナルドの作品が5点収蔵されている。

 その作品に触れることで、その時代の様子を窺い知ることも出来るんだ。

 では次のダ・ヴィンチの作品、『岩窟の聖母』を鑑賞しよう」



 その絵画はお洒落な装飾窓のような額縁に収められていた。


 「この作品はレオナルドが31才の時に描いた、サン・フランチェスカ・グランデ教会の祭壇画として描かれた物だ。

 これは同じ物が2つある。もうひとつはロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されている。

 依頼主とのトラブルがあって、サン・フランチェスカ教会の礼拝堂に飾られた物はナショナル・ギャラリーの物で、ルーブルに飾られている物は後で制作された物で、フランスのフォンテンブロー城に飾られていた物なんだ」

 「これと同じ物を描けるなんて、それもまた凄いわね?」

 「だから彼は宇宙人なんだよ、地球人じゃない。あはははは」


 銀河は楽しそうに笑った。


 (うふっ、子供みたい)


 「まだ幼児のキリストに礼拝する洗礼者ヨハネ。

 左の幼児がヨハネで右にいるのが幼児のキリストなんだ。

 そしてその中央に描かれているのが聖母マリア。その隣にいるのが天使だ。

 モナ・リザと同じようにスフマート技法で描かれている。

 この作品がレオナルドが最初に描いた物だとされている」

 「欧米の芸術の根幹はキリスト教だもんね?」

 「キリスト教によって絵画や音楽、文学、建築などがここまで発展して来たんだ。そして同時に惨い拷問や戦争をして来たのもキリスト教徒だ。核兵器を開発し、広島、長崎に躊躇うことなく原子爆弾を投下した。とても「愛の宗教」だとは俺には思えない」


 私は洗礼こそ受けてはいなかったがクリスチャンだった。

 高校までは私立の仏教系の進学校に通っていたが、音大に進学し、更に大学院で声楽を学ぶようになると、クラッシックを学ぶ上ではどうしてもキリスト教を理解する必要があった。

 クリスチャンの友人の勧めもあって、私はプロテスタントに入信した。

 だが子供の頃から仏教の中で育ったこともあり、洗礼には多少の抵抗があったのだった。


 夫だった輝信でさえも、私がクリスチャンであったことは知らない。

 夜、就寝する時、私はイエスに周りの人たちの幸福を願い、祈りを捧げてから床に就いた。

 舞台に立つ時はいつもシルバー・クロスのネックレスを身に着けて舞台に上がった。



 「これが『洗礼者ヨハネ』だ。これは1513年から1516年の間に作られたそうだ。これがレオナルド最後の作品だと言われている。

 ヨハネの右手が天を差しているのはキリストの生誕を告知しているからだ。

 手に持った長い十字架とラクダの皮の衣装が、彼が洗礼者ヨハネであることを表している。

 これにもスフマート技法が用いられている」


 熱心に説明してくれる彼の瞳は、キラキラと美しく輝いていた。

 私は絵画よりも、そんな銀河に見惚れていた。



「そしてこれが『ラ・ベル・フェロニエール』。1490年から1496年の6年間に描かれた作品だ。

 日本では『ミラノの貴婦人の肖像』と呼ばれている。

 フランス語では『美しき金物商』という意味になるだろうか?

 モデルが金物商の娘か妻だという説が有力になったからだ。

 女性が頭に巻く宝石の付いたアクセサリーのことを「フェロニエール」と呼ぶようになったのは、このレオナルドの絵画作品に由来している。

 でもこの作品がレオナルドの描いた作品だと認定されたのは20世紀に入ってからなんだけどね?」



 そして私たちは最後のダ・ヴィンチの作品の前にやって来た。



 「この絵がルーブルにあるレオナルド最後の作品だ。

 これは『聖アンナと聖母子』という作品で、1508年に制作された宗教画だ。

 幼児のキリストに手を伸ばす聖母マリアとマリアの母、聖アンナ。これは微笑ましい光景だが、実は受難の象徴である子羊を撫でるキリストが描かれているのは、将来、自分が架刑にされることを予言した物だと言われている。

 これも未完成なんだ。良く見てご覧、アンナの右足とマリアの顔が途中になっているだろう?

 聖家族はラファエロもよく描いたが、マリアが自分の母であるアンナの膝に手を置いている構図はきわめて珍しい。

 イエスは「神の子羊」とも呼ばれ、我々人間の罪を一身に背負い、生贄になった。

 俺の罪もキリストが俺の代わりに#贖__あがな__#ってくれているのかもしれない」

 「銀ちゃんは何か悪い事でもしたの?」


 その時の銀河は、酷く暗い表情をしていた。


 「・・・。今日はここまでにしよう。

 もうお昼だ。約束通りご馳走してもらおうかな?」

 「なんでも好きな物をどうぞ。お店は銀ちゃんに任せるわ」

 「小さなビストロだけどいい店があるんだ。プランタンの近くだからタクシーで行こう。トイレは大丈夫?」

 「ちょっと寄って来るね?」


 (女慣れしてる? それとも気が利くだけ?)


 私はトイレを済ませ、髪型とメイクを整えた。

 鏡に映る自分が微笑んでいる。


 (何がそんなに楽しいの?)


 私は鏡の自分にそう問いかけた。

 既にその答えは分かっているのに。 


 


 そのビストロはカフェが並ぶ細い石畳の路地にあった。

 古い街並みに灯りの点いたお店が、佐伯祐三の描く絵画のように連なっていた。

 


 「この店なんだけど、何でもあるし何でもウマいよ。

 日本の食堂みたいな店だけど、シェフはかつて2つ星レストランにいた男だ」


 銀河はガラスの扉を開け、私をエスコートしてくれた。

 彼の手が私の腰の辺りに触れた。一瞬ドキッとしたが嫌ではなかった。


 天井はやや低いが、店内には食欲をそそるいい香りが漂っていた。

 キアヌ・リーブスのようなギャルソンがやって来た。


 「シルバー、よく来たね? 君の席は開けておいたよ」

 「開けておいたんじゃなくて、「空いていた」だろう?

 でもめずらしいな? ランチタイムに今日はやけに空いているじゃないか?」

 

 するとギャルソンは肩を#竦__すく__#めて見せた。


 「マイケル・ジャクソンでもパリに来てるんじゃないかなあ?」

 「マドンナじゃねえか?」

 「ジャスティン・ビーバーかもね?」


 そう言って私たちは笑った。



 テーブルにつくと銀河は真っ先にビールを注文した。


 「ハープちゃんは何にする?」

 「ポトフとエスカルゴ。それから私にもビールを」

 「いいのかい? 真面目な歌姫が昼間からビールなんか飲んで?」


 彼と一緒に同じビール飲みたかった。私はちょっと不良の真似がしたかった。


 「ビールはお酒じゃないわ。ただの「麦のジュース」よ」


 銀河と私は笑った。



 「この出会いに乾杯」

 「なんだか不思議ね? 私たちずっと前から一緒にいるみたい」

 「俺も不思議だよ。目の前に『蝶々夫人』がいるんだからな?」

 

 乾いた喉に冷たいビールが流れていく。

 昼間にビールを飲んだのは初めてだった。


 「あー、美味しいー!」

 

 私はエスカルゴを食べた。

 こんなに美味しいエスカルゴは食べたことがなかった。

 日本で出されるエスカルゴとは大きさも味も歯応えも全然違う物だった。


 「エスカルゴの汁にハーブバター、それにニンニクが沁み込んだスープをバゲットに付けて食べると美味いよ」


 私はバゲットを手でちぎり、そこに殻に入ったエキスを垂らした。


 「どれどれ。うーん、美味しいー! 冷たい麦ジュースに合う合う!」


 彼はうれしそうに微笑んだ。清らかな笑顔だった。


 「俺にもちょっとくれないか?」

 「いいけどその鳩のローストを私にも少し頂戴」


 私と彼はお互いのお皿を交換した。


 私はこんな食事を望んでいた。

 パリに来て本当に良かったと思った。


 

 その日、私は珍しく酔った。

 それは銀河といることで安心している自分がいたからだ。

 私は銀河に訊ねた。


 「銀ちゃんのお仕事は何?」

 「人殺し。俺は人殺しなんだ」

 「もうー、真面目に答えてよー」


 銀河は私と目を逸らし、ギャルソンを呼んだ。

 

 「テキーラをショットで」

 「じゃあ私もお替わり。カルバドスを下さい」

 「Oui、mademoiselle!(かしこまりました、お嬢様)」


 

 秋のパリの日暮れは早い。

 まだ夕方の4時だというのにいつの間にか辺りはすっかり夜の#帳__とばり__#が落ちていた。


第6話 燃えるシャンゼリゼ通り

 「ホテルまで送ってあげるよ」

 「ねえ、シャンゼリゼをコンコルド広場までお散歩しない?」


 私はお酒を飲んでかなりいい気分だった。


 「歩けるのか? そんなに飲んで」

 「これくらいへっちゃらよ。なめないでちょうだい。これでも私、毎日筋トレしているんだから。腕立て伏せにスクワット、それに腹筋を3セット。日本にいる時はいつも5?のランニングは欠かさなかったのよ。パリではひとりでジョギングするのは危険だからしないけど、その代わりホテルのランニング・マシーンで1時間は走っているのよ」


 それは声楽家としての毎日の日課だった。

 歌うことは自分自身が楽器になることだから、自分のコンディションは常に維持していなければならない。


 銀河はギャルソンにチャックを求めた。


 「いくら?」

 「いいよ、女に払わせるほど、まだ俺は落ちぶれちゃいない」

 

 そう言うと、彼はキアヌに少し多めにチップを渡した。


 「ありがとうシルバー、マドモワゼル、素敵な夜を」

 「また明日も来るからよろしくな」

 「もちろん! このテーブル席を開けて待っているよ」

 

 するとコックコートを着た大男が私たちところにやって来た。


 「やあシルバー、この別嬪さんは君の恋人かい?」

 「彼女はPrima donnaだよ。ただのAmi(友人)だ。日本では凄く有名なオペラ歌手なんだぜ」

 「それは素晴らしい! オペラ座に歌いに来たのか?」

 「今回はバカンスなんだ」

 「シェフ、とても美味しかったわ。琴子といいます」

 「ありがとう琴子。俺はジャンだ。よろしく」


 ジャンは胸に片手をやり、私に礼を尽くしてくれた。


 「上手くやれよ、シルバー。

 恋もみんな最初は「友だち」から始まるもんだ。

 ところでどうだった? 今日の俺の作品は?」

 「完璧だったよ。今度フランスの大統領に会ったら言っておくよ。「この小さな路地裏に素晴らしい芸術家のオーナー・シェフがいる」とね?」

 「俺もみんなに自慢するよ。今日、ウチの店にDivaがやって来たとね?」

 「ありがとう、ジャン。また来るわね?」

 「お待ちしていますよ、Diva,琴子」




 ビストロを出ると外は日も暮れ、かなり冷え込んでいた。

 私はホテルに手袋を忘れて来たことを後悔した。



 「さっきはありがとう。ご馳走になっちゃって」

 「安いもんだよ、ハープちゃんとの食事なんてたかが知れている」


 彼は自分の皮手袋を脱ぐと、それを私に差し出した。



 「俺ので悪いけど、その美しい手が凍るよりはマシだろう?」

 「大丈夫、こうすればいいから」


 私は片方の手をコートに入れ、もう片方の手を彼と繋ぎ、その繋いだ手を彼のコートのポケットの中に入れた。

 銀河のゴツゴツとした温かい手の温もり。

 私は男性の手の感触をここ数年、すっかり忘れていた。

 私は少し酔ったフリをして、彼に寄り添って歩いた。


 横断歩道を渡った時、彼は車道側を歩く私と入れ替わってくれた。

 私はその時やっと気付いた。

 彼は私をクルマから守るため車道側を歩いてくれていることに。


 「車道側を歩いてくれているのね?」

 「パリのドライバーも人も、交通ルールなんて守らないからな? パリの人間は個人主義なんかじゃない、ただのエゴイストだからな?」


 彼は当然だと言わんばかりに私を見ずに笑っていた。


 (私は銀河に守られている)


 泣きそうになった。

 私は銀河と繋いだ彼のポケットの中の手に力を込めた。

 そして彼もまた、私の手を握り返してくれた。

 私はしあわせだった。



 そしてシャンゼリゼ通りに出た瞬間、私は涙が止まらなくなってしまった。


 青白く輝く夥しいイルミネーション。まるでシャンゼリゼの街路樹が燃えているようだった。

 コンコルド広場に向かって続く「光の街道」。

 私は思い出した。これがパリの美しさだ。


 「すごくキレイ・・・」


 私は立ち止まり、溜息を吐いた。

 吐く息が白い。

 私たちは再びコンコルド広場に向かって歩き始めた。



 「いつ見てもシャンゼリゼは美しい。コンコルド広場へ向かうクルマの赤いテールランプはルビーの首飾りのようで、こちらに向かって来るヘッドライトは真珠のネックレスのようだ」

 「あなたは詩人なのね?」

 「そうかい? ありがとうハープ」


 銀河は私のことを「ちゃん」を外して呼び捨てにしてくれた。

 だから私も銀河のことを「ちゃん」を抜いて呼び捨てにすることにした。恋人同士のように。


 「銀、疲れたからおんぶして」

 「我儘なお嬢さんだ」

 

 彼は少し照れながら、私の前に屈んで背中を向けた。


 「ほら早く乗れよ。王女様」


 私は彼におんぶしてもらった。

 銀河が立ち上がって歩き始めると、小柄だが背中がとても広く感じた。

 私は銀河の背中に頬を乗せた。


 「軽いでしょ? 私」

 「まるでお地蔵さんを運んでいるみたいだ」

 「失礼ね、うふっ」


 彼のカシミアのコートから防虫剤の香りがした。

 心地良い男の背中。


 「ファンデーション、コートに付けちゃった」 

 「しょうがねえなあ、クリーニング代、出せよ」

 「うん、わかった。じゃあもっと付けちゃおうっと」


 私は彼の背中に頬擦りをして甘えた。

 男性におんぶをしてもらったのは、子供の時、父親にしてもらって以来のことだった。


 「もういいわ。降ろしてちょうだい」


 私は彼の背中から降りた。


 「ホテルまで送って」

 「いいのかい? コンコルド広場には行かなくても?」

 「あの血生臭いフランス革命でギロチンの露と消えたアントワネットたちの亡霊を見てもしょうがないわ」


 私は嫌な女を演じた。

 彼はタクシーを停め、私をホテルまで送ってくれた。

 



 「ねえ、私のお部屋で一緒に呑まない?」


 私は彼を誘った。もちろん朝を銀河と一緒に迎えるために。

 だが、彼の返事は意外なほと素っ気ない物だった。



 「ハープも疲れただろう? 今夜はゆっくりとバスタブに浸かって眠るといい」

 「じゃあ携帯番号を教えて」

 「明日の朝9時、ここへ迎えに来るよ。そしてまた、ルーブルからスタートしよう」


 彼は携帯番号を教えてはくれなかった。


 (フラれたの? 私)


 「わかったわ。明日9時ね?」

 「そうだ」

 「じゃあ待ってる。ねえ、おやすみのキスして」


 自分からキスをせがむなんて自分でも信じられなかった。


 (酔ったから? それとも彼を好きになった? あるいはその両方?)


 すると銀河は私に顔を近づけると唇にではなく、私の頬に頬を寄せ、エア・キスをした。

 

 (私に魅力がないの?)


 私は酷く落胆した。


 「おやすみ、ハープ。また明日」

 「おやすみなさい、銀」


 私は銀河の後ろ姿を見送った。

 その彼の背中には、今すぐにでも抱き付きたいくらいの哀愁に満ちていた。


 (なんて悲しい後姿なの?)




 私は部屋に戻り、バスタブに湯を張り身体を沈めた。

 

 「銀のばか。もっと一緒にいたかったのに」


 

 私はベッドに入ると、久しぶりに自分を慰めた。

 

 (早く銀河に会いたい)


 私はそのまま深い眠りに落ちて行った。 


第7話 巴里の吟遊詩人

 早起きをしてシャワーを浴び、入念に服を選んだ。

 下着は清楚な白にした。

 私は約束の時間ギリギリまでメイクをし、ヘアスタイルを整えた。

 気持ちはすっかりデート・モードだった。


 

 待ち合わせの時間ピッタリにロビーに降りて行くと、彼はソファに座り新聞を読んでいた。


 「おはよう! お待たせ」


 私は元気に銀河に挨拶をした。彼は新聞から顔を上げると私を真っすぐに見詰めて言った。


 「おはよう、ぐっすり眠れたかい?」

 「おかげさまで目覚めスッキリよ」


 今日も冷えると思い、私は厚手のタイツにロングスカート、ニットのセーターにダウンコートを着て首にはアンゴラの白い襟巻をした。手袋は用意して来たが、コートのポケットに忍ばせておいた。

 夕べと同じように銀河と手を繋ぎたかったからだ。



 彼が私に一冊の薄い文庫本を渡した。


 (『ランボー詩集』?)


 「これ、あげるよ。アルチュール・ランボーの詩集だ。知っているかい?」

 「聞いた事はあるけど、読んだことはないなあ。

 読んでみるね? ありがとう」

 「彼は15才から20才までの5年間に、沢山の素晴らしい詩を残したんだ。その後は詩を書くことを辞め、砂漠などへも旅をするBohemian(放浪者)となった。

 ランボーは凄まじい炎の詩人だ。

 本当はフランス語で読んだ方がいいんだけれど、これは金子光晴の日本語訳の物だ。

 やはり詩はその詩人の母国語で味わうべきだと俺は思う。

 例えばLove。Loveはただの「愛」ではない。Loveなんだよ。

 それは日本人の「愛」に対する概念とは異なるものだ。

 I love youは「私はあなたを愛しています」でも、ましてや「月がキレイですね?」でもない。

 言葉は文化で言霊なんだ。

 文字のひとつひとつが組み合わされて言霊になる。

 言葉には人を動かすチカラがある。


   「亡国の民、言葉忘れじ」


 国が滅んでも言葉は残る。

 詩人は言葉の魔法使いなんだ。日本人が語学に弱いのは、耳や口や声帯の構造が日本語の発音には適しているが、アルファベットを組み合わせて作る「表音文字」には向かない。欧米人の聴覚能力は日本人よりも優れているらしい。

 日本人が聴き取れない周波数帯があると言われている。

 文法はネイティブよりも日本人の方が優れているのに、外国語で会話が出来ないのは何でも日本語に訳そうとするからだ。

 umbrellaを傘と日本語に訳してから頭にイメージする。それでは彼らの会話のスピードには到底ついては行けない。

 umbrellaのままイメージすればいいのだ。訳す必要などないんだから。

 英語で話す時は英語で考え、フランス語の時はフランス語で考える。

 それは他の言語でも同じだ。

 Billy Joelの唄う『Honesty』は「誠実」ではない、あくまで「Honesty」なんだ。

 ゴメン、朝からいい気になって面倒なことをしゃべってしまった」


 私は彼から貰った詩集をバッグに入れた。



 「朝ごはんは食べたのか?」

 「私は朝はエスプレッソだけなの。銀は食べたの?」

 「俺もまだなんだ。じゃあ昨日のカフェで「飲み物の朝食」にしようか? 俺も朝は食べないんだ。君と同じで「飲むだけ」だ」

 「また朝からお酒?」

 「もう秋だからね?」


 銀河と私は笑った。

 不思議だった。もし自分の大切な人がお酒ばかりを飲んでいたら、


 「カラダを壊すわよ!」


 と、私はお酒を取り上げてしまうだろう。

 でも銀河にはその気持ちが起きないのは何故だろう?

 いや、正確には彼の取る行動に対して「口を挟む気にはなれなかった」と言うのが正しい。お酒がないと彼が死んでしまいそうな気がした。

 

    滅びゆく美しさ? 


 私は解決出来ない矛盾を抱えていた。




 昨日のカフェで私はエスプレッソとアプリコットの入ったクッキーを注文し、銀河も昨日と同じようにジン・ライムをオーダーした。


 私がかわいらしくリスのようにクッキーを齧っていると、日本人の観光客らしき女性がふたりでやって来て、突然銀河に話し掛けた。


 「詩人の森田人生さんですよね? ファンです! 握手してもらってもいいですか?」


 (詩人? 銀河が? 何、森田人生って?)


 銀河はその女性たちと気軽に握手を交わした。

 彼女たちはとてもうれしそうにはしゃいでいた。


 「いつからパリに?」

 「昨日からです! それまではロンドンでした!

 ロンドンとパリの二都市巡りのツアーなんです!

 すみません、サインもいただけませんか?」

 「いいですよ」

 

 一人の女性は可愛らしいピンクの手帳を出し、そしてもう一人の女性はバッグから文庫本を取り出すと、中表紙を開いてペンを銀河に差し出した。それは森田人生の詩集『湖の貴婦人』の文庫本だった。


 「ごめんなさい、失礼ですけどこれにお願い出来ますか?」

 「構いませんよ。お名前は?」

 「板倉真紀です!」

 「水橋麻衣、です」

 「どんな漢字ですか?」

 「板に倉庫の倉で板倉。真紀は真実の真に紀州みかんの紀です!」

 「私は水の橋に麻に衣で水橋麻衣です」

 「わかりました」

 

 銀河は慣れた手付きで彼女たちの名前を入れてそれぞれにサインをして渡した。


 「感激です! 森田先生とパリで会えるなんて! 本当にありがとうございました! すみません、奥様とご一緒のところをお邪魔してしまって。奥様、ごめんなさい、大変失礼しました」

 「奥さんすごく美人!」


 彼女たちは私にまで頭を下げた。


 (奥様? 美人?)


 私は何も言わず、ただ笑顔で軽く会釈をした。


 それだけ言うと、ふたりは嬉しそうに店を出て行った。

 どうやら私は銀河の奥さんに間違えられたようだった。

 それが少しうれしくもあった。



 「銀ってあの「幻の吟遊詩人」、森田人生なの?」

 「昔のことだ。今はただのアル中だよ。朝からこうして酒浸りのダメな人間だ」


 彼はジンライムのグラスを持ち上げ、寂しそうに笑った。


 名前は聞いた事はあるが、彼の詩は読んだことはなかった。

 私の頭の中は常に音楽で一杯だったから文学に対する知識も興味もなかった。

 どちらかと言えば男性思考の私は、女性が喜びそうな一進一退のまどろっこしい恋愛小説や、「歯の浮くような詩」が苦手だった。


 (銀河は詩人だったのね?)


 「なんでもっと早く教えてくれなかったのよー。詩人の「森田人生」だって」

 「いきなり「俺は詩人だ」なんて言ったら、精神異常者かペテン師だと思われるだろう?」

 「それもそうだけど、でも今なら信じられるわよ。銀河が詩人の森田人生だと言っても」

 「それに俺はもう詩人じゃない、詩を書けなくなってしまったただの飲んだくれだ」

 「夕べ、銀がおんぶしてくれた時に感じたのよ、「温かい人だなあ」って」

 「歌姫をおんぶする吟遊詩人か?」


 私たちは笑った。


 「それじゃあ今日もルーブルから始めようか?」

 「今日は別なところに連れて行って欲しい」

 「別なって、どんなところに行きたいんだ?」

 「愛を語り合えるような静かな場所」

 「愛を語る? 誰と?」

 「銀とに決まってるでしょう。そこまで言わすなバカ」

 「じゃあついておいで」


 (どこに連れて行ってくれるの銀河?

 あなたの家? それとも私のホテル?

 銀のお家が見てみたい)


 私の胸はときめいた。

 だが、その妄想は見事に打ち砕かれた。


 「カルチェ・ラタンはどうだい?」

 「あの学生街の?」

 「サンジェルマンを一緒に散歩しないか?」

 「いいけど・・・」


 少しがっかりした。


 「折角だから今日はメトロで行こうか?」

 「うん」


 私と銀河は近くのメトロの駅に向かって歩き出した。


第8話 突然の口づけ

 メトロの駅に降りて行くと、地下のメトロの構内ではストリートミュージシャンがアルト・サックスを吹いていた。

 響き渡る乾いたJAZZのメロディー。


 ホームには大きな老犬を連れた、太ったジプシーの老婆がメトロを待っていた。


 メトロがホームに滑り込んで来て、その犬と老婆も私たちと一緒にメトロに乗車した。


 メトロが走り出すと、いきなり老婆が大きな声で語り出した。

 それは聞き覚えのある『枯葉』のヴァース、前奏だった。


       Les feuilles mortes


  Oh! Je voudrais tant que tu te souviennes

  Des jours heureux où nous étions amis.

  En ce temps-là la vie était plus belle,

  Et le soleil plus brûlant qu’aujourd’hui.


         『枯葉』


  思い出しておくれ 

  私たちが恋人だった幸福な日々を

  あの時は人生がとても美しく

  太陽も今よりも輝いていた


 

 そして彼女は歌い始めた。お酒とタバコ、そしてずっと無理をして歌って来て潰れた喉で。

 


  Les feuilles mortes se ramassent à la pelle・・・

 

  枯葉は風に集められてゆく・・・。



 私は自分がソプラニスタであることを思い出していた。

 歌うことが好き、私は何よりも歌を愛していることを。


 

 彼女が歌い終わると、メトロの車内に疎らな拍手が起きた。

 おそらくこの犬と老婆はこの路線の常連なのだろう。

 殆どの乗客はこのパフォーマーを無視していた。


 犬が乗客のところを回り、チップを集め始めた。

 私たちの前にもやって来た時、銀河はポケットから小銭を掴み出すと、その犬の首から下げられた缶の中にそれを入れた。

 犬は嬉しそうに尻尾を振り、首を縦に何度も振った。

 私は犬の胸の辺りを撫でてあげた。



 「この『枯葉』という歌は1945年、つまり第二次世界大戦が終わった頃、先にジョセフ・コズマがメロディーを作曲し、その後、ジャック・プレヴェールが歌詞を付けた。

 6/8拍子の前奏と、4拍子の歌。

 アメリカの『枯葉』にはヴァースがなく、いきなり歌から始まる。

 歌詞もフランス語の原詩とは異なるものになっている。

 散ってしまった枯葉が集められ、再び秋風に吹かれて飛ばされてしまう無情と、砂浜を歩く恋人たちの足跡が波に洗われ消えてゆく。そこに人生の悲哀が表現されている。すべては無駄なことだと。

 ジプシーの老婆のしゃがれた歌声が切ない。

 プロの君からすれば不合格かもしれないけどね?」

 「私も好きよ、シャンソンの『枯葉』が。リサイタルでは歌うこともあるわ。英語バージョンだけどね?

 でも詩はやっぱりフランス語の方が好き」


 すると彼が私の手に自分の手を重ねた。

 それはとてもやさしく、温かい手だった。




 ソルボンヌ駅に到着してパンテオンに向かって歩いた。


 「ここはルイ15世の病気の平癒を祝って建てられた霊廟なんだ。フランスの歴史に残る偉業を成し遂げた偉人たちがここに眠っている。この264段の階段を上がるとパリが見渡せるけど、どうする? 登るか?」

 「前に見たからもういいわ。階段上りたくないし」

 「それを聞いて安心したよ。もしハープが「上りたい!」って言ったらどうしようかと思ったからね?」


 銀河は楽しそうに笑った。


 「じゃあやっぱり登ろうかなあ、この階段」

 「俺はここで待ってるよ」

 「ズルい! レディだけ行かせるつもりなの?」

 「わかったよ、ついて行くよ」

 「冗談よ。私も登りたくないもの。こんな階段」

 

 私は銀河の手を取り、昨日と同じように彼のコートのポケットに繋いだ手を入れた。

 お散歩がしたかったのはこれが目的だったのだ。温かい銀河の大きな手。

 私たちはポケットの中で、お互いの手を握り合った。



 「カルチェラタンの「カルチェ」とは「地区」、ラタンは「ラテン語」のという意味がある。つまり「ラテン語地区」という意味なんだ。

 まだフランス語が統一されていなかった頃、ここにヨーロッパ各地から集まって来た学生や宗教家などの公用語はラテン語だった。要するに「ラテン語の街」がカルチェラタンの由来になっているわけだ。

 ソルボンヌを始め、沢山の大学や教育、文化研究施設がここにある。

 千代田区の駿河台はここ、カルチェラタンを手本に作られた街なんだ。

 神田も「神田のカルチェラタン」とも言うだろう? 文具店や古本屋も多いしね? それから宮崎五郎のアニメ『コクリコ坂』の部活寮も「カルチェラタン」と言っていたなあ」

 「名古屋にもあるわよ。千種区の八事とか」

 「トヨタの創業者、豊田喜一郎や中日新聞の創業家、大島一族も住んでいた高級住宅街で大学なども多く、名古屋の文化の中心だもんな? 僕の知り合いも何人かそこに住んでいるよ」

 「ここカルチェラタンはお利口そうな学生さんたちが多いわよね?」

 「サルトルとボーヴォワールもここの師範学校で学んだんだ。成績はサルトルが首席でボーヴォワールが次席だったらしい」

 「実存主義を提唱した人よね?」

 「そうだ、結婚とは契約であり、恋愛は自由だとサルトルは唱えた。自らもそれを実践してみせ、多くの愛人を持った。

 初めはボーヴォワールもそれを支持していたが、よりサルトルに惹かれて行くうちにそれが苦痛になっていった」

 「彼女の書いた『第二の性』は高校の時、倫社の先生に勧められて読んだけれど、あまり印象には残ってないなあ」

 「フランスの文化、知識人の多くは愛人を持っている。それがサルトルの影響かどうかは知らないが、おそらくフランス人はただ単にセックスが好きなんだと思う。

 朝、遅刻すると「朝からFrench kissしてたのか?」と揶揄されるしね?」

 「私は嫌よ、そんな浮気者。私は一途な女だから浮気なんて考えられないし、考えたこともないわ。相手に浮気されるのも絶対にイヤ」

 「琴子は真面目だからな?」

 

 (琴子?)


 私は銀河に初めて名前を呼び捨てにされたのがうれしかった。

 また私たちの距離が縮まった気がした。



 「ねえ、布施明の『カルチェラタンの雪』って曲、知ってる?」

 「ああ知っているよ、「カルチェラタンの 鐘が鳴る」だろう?」

 「その次は?」

 「口づけは 歩きながら・・・」


 その時、私は銀河にキスをした。

 

 「こんな風にかしら?」

 「・・・」


 銀河は母親に叱られた子供のように、急に大人しくなってしまった。


 (嫌われたの? 私)


 「ごめん、君の唇を穢してしまった。僕は君とキスをしてはいけない人間なんだ」

 「もうこうして手を繋いでいるのに?」

 「kissは愛した人としかしてはいけない」

 「私は銀河が好き。だからキスをしたの。私は間違ってはいないわ。私はあなたを愛しているの」

 「君は間違ってはいない。間違っているのは僕の方だ」

 「銀河は私の事が嫌いなの?」

 「嫌いじゃない、嫌いな訳がない! 琴子は僕の憧れの歌姫だ! 逆にどんどん君が愛おしくなって行く。まだ出会って2日しか経っていないというのに!

 その澄んだ瞳、唇、声、髪、香り。みんな好きだ! 全部好きだ! 君のすべてが好きだ!

 やはり僕は間違っている。僕には君を好きになる、愛する資格がないんだ!」

 「銀河の言ってる意味がわからないわ! どうして私を愛してはいけないの? 他に好きな人でもいるの?」

 「そんなのいるわけがない! こんなに君を愛しているのに! 僕はサルトルではない!」

 「私は銀河のことが好き! 大好き!」

 

 私は駄々を捏ねる子供をあやすように、銀河を強く抱き締めた。銀河は次第に静かになった。


 「やめよう、もうこんな話は」


 そして彼はポケットから私と繋いだ手を出して、繋いだ手を解いてしまった。

 彼は私に、昨日と同じように自分の皮手袋を私に差し出した。


 「寒いから使いなよ」


 今日は私も皮の手袋があることは告げず彼の手袋を受け取り、それを両手にはめた。


 温かいはずの手袋が、酷く冷たく感じた。

 私は彼の気持ちを推し量ることが出来なかった。


 彼にキスをしたことを私は後悔した


第9話 冷たい雨

 私と銀河は黙ったまま、サンジェルマンの街を当てもなく漂っていた。


 キアヌ・リーブスとシャーリーズ・セロンの映画、『Sweet November』みたいな「11月だけの恋」なんてイヤ。

 私は行きずりの恋がしたいんじゃない、私はずっと銀河を愛し続けたい。

 恋愛も人生も同じ。どれだけ長く付き合ったかではなく、いかに愛したか? それは長さではなく深さなのだ。

 たとえそれが二日前の出会いだとしても、5分前の出会いだとしても、それは愛するための「運命の出会い」だったはず。

 何十年一緒に居ても、実らぬ恋もあるではないか。


 私がパリに導かれたのも、銀河に出会うためだったはずだ。

 手を繋いでくれなくてもいい、せめて彼のコートの裾を摘んで歩きたい。私は彼と同じ人生の舟に乗りたかった。


 (ダメ、もう限界!)


 私が銀河と腕を組もうとした時、彼が私を振り返った。

 

 「寒いだろう? このカフェで少し暖まらないか?」


 私は黙って頷き、彼とそのカフェへと入って行った。



 店内はすごく混雑していた。


 『Les Deux Magots(ドゥ・マゴ)』


 歴史を感じさせる街角のカフェ。

 ギャルソンに窓際の席を案内されたが銀河は、


 「暖房の近くにしてくれ」


 と言った。

 そして暖房機の近くに私を座らせてくれた。


 「俺はホット・ウイスキーを。琴子は?」

 「私はカフェラテで」

 「お腹空かない?」

 「少し空いた」

 「ポタージュとサラダ、フライドチキンでいいか?」

 「あと、ナッツとチーズも食べたい」

 「なんだかオツマミみたいな食事だな? 寒くないか?」

 「うん、大丈夫」


 銀河は元の銀河に戻っていた。


 「寒くてすっかり酔いが醒めてしまったよ」


 銀河はホット・ウイスキーのグラスを両手で持つと、労わるようにウイスキーを飲んだ。

 私はカフェラテを慎重に啜った。

 すると銀河が笑った。


 「ミルク、ここに付いてるよ」


 と、自分の口のその部分を指差して笑った。

 私も微笑んでナプキンでそれを拭いた。



 お料理が運ばれ、私は音楽の話を、そして銀河は最近読んだ小説の話をしながら私たちは食事を楽しんだ。

 それは他愛もない日常会話だったが、とてもしあわせなひと時だった。



 私はカフェラテをホットワインに変え、銀河もお酒をビールに変えた。

 ホットワインにはレモンが浮いていた。

 レモンが邪魔をしてワインが飲み難い。でもそのおかげで火傷をしなくて済んでいた。


 「このカフェ、『マゴ』なんてヘンな名前だろう?」

 「どんな意味なの?」

 「中国のグロテスクな陶器製の人形のことなんだ」

 「見たことあるかも」

 「実はね、琴子をここに連れて来たかったんだ。

 この店には色んな芸術家や文化人などが集まって来た。そして今もね?」

 「たとえば?」

 「サルトルにボーヴォワール、ピカソにヘミングウェイ。ここはダダイズムやシュールレアリズム、実存主義のメッカでもあったんだ。

 最近では映画、スターウォーズの『フォースの覚醒』のJ・J・エイブラハムとローレンス・カズダンがここでインスピレーションを得るために8時間も掛けて台本を書いていたらしい」

 「すごく由緒のあるお店なのね?」

 「そして詩人、アルチュール・ランボーもここに来ていた。

 今日は君にランボーの話をしたかったんだ。この場所で」


 そして銀河は美味しそうに喉を鳴らしてビールを飲むと、ゆっくりと語り始めた。


 「ランボーは子供の時から神童と呼ばれたほどの天才でね。15才から20才までの5年間で沢山の詩を書きまくったんだ。だがランボーは20才を過ぎると詩を書くのを辞めてしまう。辞めるというより「書けなくなってしまった」と言った方が妥当かもしれない。

 アルプス山脈を徒歩で越え、アフリカやアラビアの砂漠地帯、東南アジアなどを巡り、傭兵や貿易商としても働いた。

 アルベール・ディボーデは、ヴェルレーヌ、マラルメ、コルビエール、ロートレアモン伯爵と並んで、ランボーを「1870年代の5人の異端者」とも評した。

 堀口大學、中原中也、小林英雄にも多大な影響を与えた詩人だ。

 「酔いどれ船」「地獄の季節」「イルミナシオン」など、次々に偉大な詩が生まれた。

 『見者の手紙』という詩人論でランボーは、


   詩人とはあらゆる感覚の、長期に渡る広大無辺で、

   しかも理に即した錯乱により見者となることだ


 と言った。

 ブルジョア道徳をはじめとする、すべての因習と固定概念、秩序を捨て去り、精神、道徳、肉体の限界を超え、未知を体系的に探究しようとした「反逆の詩人」、ランボー。

 ダダイズム、シュールレアリズムを開いた戦う詩人。

 俺はランボーに憧れた。


   私が考えるのではない。人が私を考えるのだ。

   私とは一個の他者にすぎないのだから。


   詩人とは自己探求なのだ。自分を追求し毒を出す。


 愛と狂気。偉大な病人、罪人、そして呪われし人。ランボー。

 ランボーは写真家のカルジャと晩餐会で口論となり、アルベールメラの仕込み杖で彼に切り掛かり、怪我を負わせてしまう。

 激怒したカルジャはランボーの写真のネガをすべて焼き尽くしてしまったらしい。故に彼の現存する写真はただ1枚しか残っていない。

 同性愛者でもあった彼は、同じ詩人のヴェルレーヌと共にロンドンやベルギー、北欧などを旅して回る。

 ヴェルレーヌには妻子があったが別れてしまう。

 ふたりは反目し合い、仲良くなったり、喧嘩したり別れたりを繰り返した。

 そして遂にヴェルレーヌはランボーを愛しすぎるあまり、ランボーを忘れるために女房と復縁を求めようとし、もしそれが叶わなければ、ピストル自殺をすることを決意していた。

 だがその銃口は自分にではなく、ランボーに向けられてしまう。

 彼は負傷し、精神を病み、最後はガンが全身に転移して死んでしまう。たった37歳の若さで。

 ランボーは言う、


   人生とは誰もが演じなければならない道化芝居だ。


 そして俺はランボーの後を全力で追いかけた」

 「すばらしいことじゃないの、そんな人生なんて。

 私は結婚に失敗し、そしてここパリにやって来た。自分の人生をリセットするために。

 そしてあなたと出会い、私の悲しみはどこかへ消えてしまった。

 あなたと一緒にいたいの! 好きなの! どうしようもないくらいあなたが好き! 銀河のことが大好き!」


 彼は真顔で言った。


 「すごくうれしいよ琴子。でもそれは出来ない」

 「どうして! 理由を教えて!」

 

 そして銀河は重い口を開いた。


 「俺が人殺しだからだよ。

 俺には#詩音__シオン__#という恋人がいた。彼女は俺にとても良く尽くしてくれた。

 その頃の俺は定職にも就かず、いつも自堕落な生活をして詩ばかりを書いていた。どうしようもないクズのロクデナシだった。

 ランボーに負けないくらいに駄目な男だった。

 毎日飲む、打つ、買うの三拍子。

 高校の国語の教師をしていた詩音は、そんな俺を経済的にも精神的にも支えてくれた。

 そしてある日、いつものように俺がパチンコをしていると、詩音から携帯に着信があったが俺はそれを無視してパチンコを打ち続けていた。

 カネを使い果たした俺が家に帰ると、彼女は死んでいた。

 急性心筋梗塞だった。

 彼女を殺したのはこの俺なんだ。だから俺は人殺しさ。

 もう二度と誰も愛してはいけないんだ。

 それなのに琴子と出会ってしまった。憧れていたプリマドンナ、海音寺琴子に。

 そして俺は危うく自分の犯した罪を忘れてしまうところだった。だからもう今日で君に会うのは止めることにするよ。今ならまだ引き返せるから」


 私は銀河を睨み付けて言った。


 「そうやって毎日お酒ばかり飲んで、自分は罪人だと自暴自棄になってそれが亡くなった彼女への償いのつもりなの? あなたは間違ってる! ただ弱い自分から逃げたいだけよ!

 ただ傷付きたくないだけじゃない!

 じゃあ私はどうなるの? あなたをこんなに好きになった私はどうすればいいのよ! バカ! 銀のバカ! あんたなんか大っ嫌い!」


 私はそのままコートとバッグを持って店を飛び出した。

 すると銀河はすぐに私を追い駆けて来てくれた。


 「待ってくれ琴子!」


 そして彼は私の腕をグイッと掴んだ。


 「ホテルまで送るよ!」

 「放っておいて! 私のことなんか!」

 

 でも彼は私の腕を離そうとはしなかった。


 「お願いだ、最後に君を宿まで送らせて欲しい」


 うれしかった。輝信も私を追い駆けて来てはくれなかったが、銀河は私を追い駆けて来てくれた。


 私は黙って銀河とタクシーに乗った。


 外は冷たい雨が降っていた。


第10話 ムーラン・ルージュ

 タクシーの後部座席の窓に流れる#雨雫__あめしずく__#が、風に流され斜めに落ちてゆく。

 

 (私と同じだわ・・・)


 今、私の心もこの雨と同じように斜めに落ちていた。

 雨に滲む街の灯り。タクシーはモンマルトルの辺りを走っていた。

 華やかな街の照明が、私の気持ちをよりブルーにしていた。



 大きな風車が見えて来た。『ムーラン・ルージュ』だった。

 私は運転手に言った。


 「Arrêter(止まって)」


 タクシーは路肩に寄せ、停まった。


 「どうした? 琴子」

 「私、ここでいい。ここで降りる」

 「馬鹿を言うな。ここに君一人を置いて行くわけにはいかないよ。ここはパリでも治安の悪い所だ。スリも多い」

 「平気よ。命までは盗られないでしょう? じゃあ、さようなら」


 私は勝手にドアを開け、タクシーを降りようとした。

 すると銀河は「これで足りるか?」と紙幣を渡すと、ドライバーは嬉しそうに言った。


 「旦那、素敵な夜を」



 私はムーラン・ルージュを見上げた。創業130年のキャバレーを。


 「ムーラン・ルージュに入りたいのかい?」

 「どうせ予約しないと無理でしょう?」

 「ここはドレスコードがあるが、琴子も俺もこれなら大丈夫だろう」


 銀河は財布からユーロ紙幣を取り出し、タバコの箱にそれを畳んで入れた。

 そして銀河と私はエントランスに向かって歩き始めた。


 「エドモンドを呼んでくれ。「シルバーが来た」と」

 「少々お待ちを」



 するとすぐにスタッフジャケットを着た、ブロンドの中年男がやって来た。


 「やあシルバー、席は用意するよ、入りたまえ」

 「いつも悪いな?」

 「こっちこそ助かるよ ありがとう」


 その男は銀河にそう耳打ちをした。

 

 銀河は彼にタバコの箱を渡した。

 エドモンドというその男は、すぐにそれをポケットに入れた。


 「すまない、エドモンド。彼女は俺の大切なゲストなんだ」

 「いつでも言ってくれ。シルバーの頼みならイヤとは言えんよ」


 彼は私を見てウインクした。


 「Mademoiselle、我がムーランルージュへようこそ。世界一のショーと食事、そしてシャンパンをお楽しみ下さい」


 

 ムーラン・ルージュの中に入ったのは初めてだった。

 ベルエポックの淫靡なほど赤い場内。楽団のムード音楽が流れ、ステージではダンスに興じている白人の紳士、淑女がいた。


 「一般客も踊っていいの?」

 「ショーが始まる前まではね?」

 「踊りたい、銀と」


 私は銀河の手を引いてステージへと上がり、彼とチークを踊った。彼の仄かに香るムスクとお酒の匂いがした。

 温かい手、厚い胸板。

 彼の手が私の腰に添えられ、私は銀河の肩に顎を乗せた。


 私は彼の耳元で囁いた。


 「ダンス、上手いのね?」

 「君に合わせて動いているだけだよ」

 「ウソ、私はあなたに合わせているのよ」


 私はこのまま、いつまでもこの曲が続けばいいと思った。カノンのように。

 もうショーなんかどうでもよかった。だがその願いも虚しく、ダンスタイムはすぐにお開きとなってしまった。



 私たちはテーブル席に戻った。


 「ここはオードブル、メイン、デザートのミスタンゲットなんだ。そしてシャンパンが付く。ここで供されるシャンパンは年間24万本だとも言われ、世界最大のシャンパン消費量を誇っている」

 「歌舞伎町のホストクラブの比じゃないわね?」

 「プリンス・オブ・ウェールズ、エドワード7世も観覧に訪れたんだ。客席は全部で840席もある。

 シャルル・トレネ、シャルル・アズナブールもここで歌っていた。エルビス・プレスリーやフランク・シナトラも出演したことがある。

 歌にダンス、手品にアクロバットなど、2時間のショータイムは観客を飽きさせることはない。

 ひとつの新しいダンスには、最低でも5週間ものレッスンを課すそうだ」

 「さっき渡したタバコの箱にはお金が入れてあったわよね?」

 「世の中、大抵のことはカネでケリがつくものだ。そして折角予約してもNo showということもある。お互いにWin Winだよ」

 「お金、使わせちゃったね?」

 「お詫びだよ、君を振り回してしまったからね?」

 「本当よ、私をこんなに惚れさせて、まったく!」


 彼は話題を変えた。


 「ロートレックって知っているかい?」

 「うん、大正ロマンのような絵を描く人でしょう?」

 「ロートレックはフランスの由緒ある伯爵家の長男だった。だが両親が別居し、彼と母親は南仏のアルビからパリにやって来たんだ。

 病弱だった彼は15才の成長期に足を2度も骨折し、それが元で下半身の成長が止まってしまい、障碍者となってしまう。

 それは近親婚が原因ではないかともいわれているが、昔の貴族にはありがちなことだったからな。

 そんな彼は虐められ、居場所がなかった。

 いつの間にか彼はムーランルージュに入り浸るようになり、絵の才能があったロートレックはここで親しくなった娼婦やダンサーをモデルに、ムーランルージュのポスターを描くようになる。それがあのレトロな大衆画だ。

 おそらく彼は、社会から軽蔑されている障碍者の自分と、娼婦や踊り子に親近感を抱いていたのかもしれない。同じ社会的弱者として」



 ショーが始まった。

 オープニングはパーシーフェイスの作曲した『ムーラン・ルージュの歌』の演奏から始まった。


 そしてマドンナのメロディーで踊る、衝撃的な黒いランジェリーのダンサーたち。素晴らしい歌唱力。息が全く上がっていない。


 ダイナミックでセクシーなフレンチ・カンカン。

 ミュージカルにもオペラにもない猥雑な舞台の中で、自分の持てるすべてをぶつける演技には迫力があった。

 今日のご飯をこのステージで稼いで見せるというその気迫がだ。


 私は大きな音楽ホールで歌う自分を思い出していた。

 私が歌い終わり、フィナーレを迎える。

 スクランブル交差点の信号が赤から青に変わるような一瞬の静けさの後、突然沸き起こる凄まじい拍手喝采のスタンディング・オベーション。

 その時私は最高のエクスタシーを全身で感じる。



 「どうだい? 専門家の君から見たムーランルージュのショーは?」


 銀河は何本もシャンパンを開け、ご機嫌だった。

 彼にとってシャンパンなど、まるで子供が飲むサイダーのような物だった。


 「私たちのようなアカデミックなクラッシックの声楽とは違い、まるでアフリカのサバンナを駆け抜けてゆく雌ライオンみたい」

 「ここの舞台に立つということは、世界の頂点に立つということなんだ。ブロードウェイにも決して引けを取らない」

 「私、また歌いたくなっちゃった」

 「日本に帰るのか?」

 「ううん、もっともっと歌いたくなるまでパリにいるつもり。

 歌うことを我慢するの。そして爆発させるわ、ソプラニスタとしての自分の歌の芸術を」

 「明日、オペラ座に行かないか?」

 「オペラ座に私と?」

 「ああ、友だちとしてな。それならいいだろう?」

 「ヘンな人。さっきはあれほど私と別れたいって言ってたくせに」

 「無理にとは言わないよ」

 「行くわよ。行くに決まってるじゃない」


 オペラ座を見ることは考えていた。

 銀河はそれを見越していたかのようにそれを提案してくれた。


 (なぜそれほどまで私の事を?)


 その答えは既に出ていた。




 2時間のショーが終わり、ムーランルージュを出てすぐのメトロ、ブランシュ駅からメトロに乗ってホテルに帰ることにした。


 メトロがホームに入って来た時、私は急に銀河に抱き締められた。


 「俺はどうしたらいい? もうお前を忘れることが出来ない。好きだ琴子。お前の事が」

 「私を愛して」


 私たちはそのまま石像のようにじっと抱き合っていた。


 私たちが乗車するハズだったメトロは既にホームを走り去って行った。


 愛し合う私たちふたりを残して。


第11話 愛の覚醒

 (キスはしてくれないのかしら?)


 私たちはカラダを離し、メトロに乗った。

 銀河の手を握り、座席に座って彼に寄り添う私。

 何も話すことが出来ない。すべてが嘘になりそうで。



 私たちを乗せたメトロは過去に遡るの? それとも未来へ?

 

 (ああ、銀河の温もりが欲しい。今すぐあのムーランルージュの踊り子さんのように服を脱ぎ捨て、彼を素肌に感じたい)


 メトロは揺れながら、暗いトンネルの中を突き進んで行った。




 ホテルに着いた。

 私たちはロビーのソファに座り、名残りを惜しんだ。



 「泊まって行けば?」

 「今日も忙しくさせてゴメン。疲れただろうからゆっくり休むといい。明日はオペラ座だからね」

 「ありがとう、とても素敵な夜だったわ。銀もゆっくり休んでね?」

 

 そして銀河と私は立ち上がってハグをした。

 それは溶けてしまいそうな抱擁だった。


 「おやすみのキスはしてくれないの?」

 

 その私の問い掛けはスルーされてしまった。


 (恋人同士の「おやすみのお別れ」にはキスは付き物でしょう? 銀のバカ!)


 「明日は16時に迎えに来るよ。いくらパリと言えども、ドレスとタキシードで街を歩くわけにはいかないからね?」

 「じゃあカジュアルな服装でデートしようよ。そしてまたホテルに戻って一緒に着替えてからオペラ座に行けばいいんじゃない?」

 「毎日出掛けて疲れないのかい?」

 「銀が疲れてるなら諦めるけど、私は平気よ」


 私は銀を上目遣いに見て、かわいい女を演じてみせた。


 「それなら明日、また9時にお前を迎えに来るよ」


 銀河に初めて「お前」と言われた。

 夫の輝信にでさえ、「お前」と呼ばれるのは嫌悪を感じていたのに、銀河に「お前」と言われるのはより親密になれた気がして嬉しかった。

 やはり私は夫を愛してはいなかったのだ。




 部屋に戻り、広いベッドにコートを着たまま私はうつ伏せに大の字になった。

 私は手で白いシーツを撫でた。


 (今夜も独りぼっちかあ・・・)


 この切ない気持ちが「恋」なのだろう。

 私は今まで「恋」をしてはいなかったのかもしれない。

 この「恋」を「愛」に発展させたいと私は願った。




 翌朝、時間通りに銀河はやって来た。衣装ケースを携えて。


 「じゃあその荷物を部屋に置いて来ましょうよ。私について来て」


 それは彼をホテルの部屋に招き入れるための口実だった。

 彼は素直に私の後をついて来た。


 

 「ここよ」


 私がドアを開けると、彼は部屋の中を見渡し、


 「広くていい部屋だね?」

 「ベッドもこんなに広いのよ。ほら」


 私はワザとベッドに腹這いになり、彼を目で誘った。


 (「据え膳食わぬは男の恥」よ。銀河)


 しかし銀河は私の誘いには乗らず、衣装ケースを広げ、コートハンガーにタキシードを掛けた。


 「それじゃあ出掛けようか? 今日はどこに行きたい?」


 私は銀河の背中に抱き付いた。


 「オペラまで一緒に寝ようよ」

 「それでは夕方ここへ来るのと同じになってしまうじゃないか?」


 そう言って銀河は私と向き合い、私をやさしく抱き締めてくれた。

 昨夜と同じムスクの香りがした。


 「また私のことが嫌いになっちゃった?」

 「いや、寧ろお前のことがどんどん好きになって行く。どうしていいか分からないほど。

 だから大切にしたいんだ。琴子のことは」

 「大切にするって、何もしないってことなの?」

 「・・・」


 私はついに自分の感情が抑え切れなくなってしまった。


 「いつまで死んでしまった彼女さんのことを考えているのよ!

 彼女はもうこの世にはいないの! 天国に行ってしまったの! あなたのしあわせを願って!

 人は病気や事故で死ぬんじゃないわ! 神様がお決めになった寿命で死ぬのよ!

 それなのにあなたはいつまでも彼女さんが死んだのは自分のせいだと自分を責め続けている! バッカじゃないの! だったら私に中途半端にやさしくしないで!

 私はあなたのそんな寂しさ埋めるためにパリにいるんじゃないわ!」


 遂に言ってしまった。

 銀河は黙っていた。


 「君の言う通りだよ」


 今度は「君」と他人行儀になった。


 「俺はどうしていいのか? 自分でもよくわからないんだ。

 俺は君のことが好きで好きで堪らない、でももう一方の自分は、「君と別れるべきだ」という自分も自分の中に混在しているんだ。

 俺も琴子ともっと深く愛し合いたい。

 でも俺にはその一歩を踏み出す勇気がないんだ」


 彼がとても小さく感じた。

 それは銀河を見下しているのではなく、深い苦悩に沈んでいる銀河のその姿にだ。

 私は心を決めた。


 (彼を癒してあげたい)


 私は服を一枚ずつ脱いでゆき、ストッキングも脱ぎ捨て、下着姿になった。


 「銀も脱いで」


 銀河も服を脱ぎ始めた。

 そしてトランクス一枚だけになった。

 すでに彼のその部分はトランクスを突き破るかのように膨張していた。


 私はベッドの毛布を捲り、彼を招き入れた。

 そして私たちは初めて、お互いの温もりを感じた。


 「とても温かい・・・、銀のカラダ」

 「君は少し冷たい」


 すると銀河は私の冷たい足を自分の足の間に挟み、私の手を私たちが抱き合っているお腹の辺りに導いてくれた。


 (なんて温かいのかしら)


 私の手はあと数センチ、伸ばしただけで彼の硬くなったそこに触れてしまいそうな位置に来ていた。

 こんなにやさしく男性に包まれたことは今までになかった。

 私はもっと彼を感じたいと思った。



 「だんだん琴子の足も手も、温かくなって来たよ」


 私の女のそこは、恥ずかしいほど潤んでいるのがわかる。


 「ねえ、どうしてしちゃ駄目なの?」

 「なんとなく」

 「じゃあずっとこのまま? オペラ座まで?」

 「駄目かい? こうしているだけでは?」

 「それっておかしいわよ」

 「どうして?」

 「私、思うの。キスより、カラダを重ねることより、手を握ることの方がよっぽど情愛が深いと。違う?」

 「手を握ることがかい?」

 「素手で好きな人と手を握るという行為は、キスよりも、身体を合わせることよりも愛に満ちた行為だと思う。

 そしてあなたは何も悪くない。彼女はそれが寿命だったのよ。

 私だっていつ死ぬかなんてわからないわ。3年後か、50年後か? あるいは5分後かもしれない。

 でも私はイヤ。私が死んで、悲しんで屍のように生きる銀なんか見たくない」

 「琴子・・・」


 彼は私の髪を優しく撫で、私と唇を重ねた。

 それはとても柔らかな唇だった。


 「ごめん、琴子」

 「どうして謝るの?」

 「ここは「ごめん」じゃなく、「ありがとう」と言うべきだね?」

 「そうよ銀、「ありがとう」よ。そして銀、私を見つけてくれて本当にありがとう」

 

 私は銀のお口に自分の舌を大胆に差し入れた。

 銀河も私に舌を絡ませて来た。それは炎のように熱いキスだった。


 私は体をずらし、彼のトランクスを脱がせた。

 いつもの銀河からは想像も出来ないくらい、そそり立ったそれが愛おしく思えた。私はそれにキスをし、舐め回し始めた。

 それを喜ぶ彼の表情がかわいい。

 そして少し焦らすようにそれをお口の中に収めると、私はゆっくりと顔を上下させ、時に強く、時にやさしく緩急をつけて彼にご奉仕をしてあげた。

 

 (なんでこんなに愛おしいのかしら? 銀河のことが)


 私はそれを途中で止めると、彼に命じた。


 「私にもして頂戴」


 彼はブラには手を掛けず、そのまま私のショーツを引き下し、それを枕元に置いた。


 彼の舌が私の蕾を正確に捉え、舌を絶妙に動かし始めた。

 そしてすでに硬くなった陰核の皮を丁寧に舌で剥いて、音を立ててそれを吸ってくれた。


 「あっ・・・」


 短い声が出てしまった。

 彼はその私の声に反応したようで、そのあたりを集中的に攻めて来た。


 どんどん私のそこから蜜が溢れて来る。

 そしてその溢れて来る蜜を、銀河はいやらしい音を立てて啜った。


 ジュルル ジュル


 まるで熟した桃にしゃぶりつくように、銀河は夢中だった。


 「う、うーん、はあ、はあ。うっ、うーん、はっ、うん、うんもうダメ、イク、かも、イっちゃう、うあっ・・・」


 私のカラダが弓なりに硬直し、エクスタシーを迎えた。

 それは的確なクンニリングスだった。



 少し快感が収まった頃、彼はブラをずらし、乳首を舐め始めた。

 時折軽く噛んだり、吸ったりもした。

 彼はまた、次第に私を高めてくれていった。


 そして私のブラを外した彼は私の足を広げた。

 彼のモノが私の中に入って来る期待に興奮した。


 すると彼は私がたっぷりと舐めてあげたそれを、私の女の入口に当てがった。


 「ゆっくりと入れるから安心して」

 「久しぶりだから・・・、激しくしないでね? 最初はゆっくりお願い・・・」


 彼の先の部分が私のそれを押し広げて入って来た。

 今までの男とは違い、太くて長くて硬かった。

 だが私のそこはかなり濡れていたのでスルッと入って来た。

 メリメリとそれは根元までやって来て、私の奥の子宮にまで到達した。


 「痛くない?」

 「大丈夫、そのまま続けて。あっ」


 そして彼はゆっくりと腰の律動を開始した。


 「あ、あ、あ、あっ・・・」


 私の喘ぎ声がスタッカートになり、次第にハイトーン・ボイスになって行く。


 「うっ、はう、くっーっつ、あうっ、銀、銀も一緒に! そのまま出して、私、ピル、ピルを飲んで、いる、から、だから、だから平気だから、そのまま頂戴!」


 加速してゆく彼の腰のグラインド。

 そして私が頂点に達したのを確認すると、銀河は私の中にたっぷり射精した。


 ドクン ドクン


 私の中に放出されてゆく銀の精子、脈打つペニスを感じて私はじっとしていた。

 痙攣し、収縮を繰り返すヴァギナ。


 私はその液体の熱い感触にどうすることも出来ず、凄まじい快感に襲われ、自分のカラダのコントロールを完全に失っていた。

 銀河が自身を私から抜き去ると、私の愛液と混じり合った彼の精液が流れ出し、シーツを濡らした。



 

 そしてお昼も摂らずに私たちは久しぶりの行為に耽った。



 「そろそろ出掛けないと、『フィガロの結婚』に間に合わなくなってしまうよ」

 「あともう少しだけ、もう少しだけ銀とこうしていたい」


 私たちは心地良い疲労感に浸っていた。

 もういつ死んでもいいとさえ、私は思った。


 窓の外はすっかり暗くなってしまったが、私たちのカラダと心は満たされていた。


 私は初めて、女としての性の悦びを知った。


第12話 オペラ座の怪人

 お互いの身体を知り尽くした後、私と銀河はシャワーを浴び、ドレスとタキシードに着替えた。


 「琴子、お前のそのボルドー・レッドのドレス、とてもよく似合っているよ」

 「銀のタキシードも凄く素敵。まるで頭がボサボサのニコラス・ケイジみたい」


 私たちは性を覚えたての高校生みたいに何度もキスをした。


 「お化粧するから少し待っててね?」

 「まだ時間があるから慌てなくてもいいよ。ビール貰ってもいいかい?」

 「どうぞ、冷蔵庫にハイネケンがあると思うわ」

 「ありがとう」

 

 彼は冷蔵庫からグリーンボトルのハイネケンを取り出し、栓を抜いてラッパ飲みをし、マネークリップから10ユーロ紙幣を抜いてテーブルに置いた。


 「いいわよ、お金なんて」

 「一応、男の礼儀だから」


 銀河はそういう男だった。

 女と食事に行って割り勘にするような情けない男ではない。


 「ありがとう。じゃあメイドさんへの枕チップにするわ。シーツも汚しちゃったしね?」


 私たちは笑った。




 ロビーに降りて行くと、フロント・チーフのアランたちに冷やかされた。


 「大変失礼いたしました。ただいまスタッフに薔薇の花を買いに行かせたところです。お二人の足元に撒く、花びらを用意するために。とてもお似合いのお二人ですので。

 若き日のダイアナとチャールズのようです!」

 「どうせなら下品なチャールズではなく、不倫男のあのドクトルの方にして欲しいな?」 

 「かしこまりました。ではドクトル、プリンセス・ダイアナ、お気を付けて」

 「ありがとうアラン、これからガルニエ宮でオペラ鑑賞なの」

 「それは素晴らしい! オペラ座の怪人によろしくお伝え下さい」



 ベル・キャプテンのレイモンドにも言われた。

 

 「今夜はベルサイユ宮殿で舞踏会ですか? それともこれからカンヌ映画祭へ?

 すみません、残念ながらレッドカーペットはここまでとなっております。ジュリア・ロバーツ様、アルパチーノ様」

 「レイモンドさん、これが私たちが乗るカボチャの馬車かしら? 早く行かないと「カボチャのタクシー」になってしまうわ」

 「では午前零時までにはお戻り下さい。魔法が解けてタクシーがカボチャに変わらぬうちに」


 そう言ってレイモンドは恭しくタクシーの後部座席のドアを開けてくれた。




 私たちはタクシーの中でもずっと手を握り、キスをした。

 

 「まるでプリンセスになったような気分。オペラ座は今回が初めてなの。だから凄く楽しみ」


 私は銀河のタキシードにリップやファンデが付かないように注意した。


 「俺も1年前にボリショイ・バレーを観に行ったきりだよ。あんなに立派な欧州一の劇場なのに、あそこのオケだけが残念だ」

 「そんなに下手なの? オペラ座のオケは?」

 「日本の地方オーケストラのようだよ。

 プロの琴子が聴けば、かなり落胆するはずだ。

 でもオペラ座は本当に素晴らしい建物なんだ。ネオ・バロック様式の宮殿のようで、大休憩室はベルサイユの『鏡の間』のようだし、正面のファサードにはペガサスやアポロンの像も誂えてある。

 ガルニエ宮と呼ばれるのは、設計者がガルニエだったからだ。

 何度かパリの劇場は建て替えられている。今のオペラ座は13代目にあたるんだ。

 あのナポレオン・ボナパルトやナポレオン3世もオペラを観覧しようとして爆弾テロにあったこともある」

 「やだ怖い」


 私は銀河の手を握った。

 銀河との厚い壁が取り払われて、私はイヤな事すべてを忘れてしまった。

 愛は人間に勇気と力を与えてくれる。

 私は今、最高のしあわせを噛みしめていた。




 オペラ座はまるで華やかな映画祭のようだった。

 着飾った老若男女たち。銀河は私をやさしくエスコートしてくれた。



 オペラ座の内部は私の想像を遥かに超えていた。


 「絢爛豪華とはこれを言うんだろうなあ。

 オペラ座は当時としてはめずらしい、鉄骨構造になっている。だから柱の間を梁や桁で長く飛ばすことが出来て、このような大空間が実現した。

 ここのガルニエ宮は1989年に『オペラ・バスティーユ』として新設された歌劇場なんだ。

 小道具さんがこのオペラ座の屋上で養蜂もしているらしいよ」

 「えーっ! 銀座の屋上みたい! 舐めてみたいなあ、オペラ座の蜂蜜!」

 「確か販売していたかもしれないから、帰りに買ってあげるよ」

 「うれしい! 銀に塗って舐めちゃおうっと!」


 そう言って私たちは笑った。


 「5階建。収容人数1979名。イタリアの伝統的な馬蹄形の歌劇場形態となっている。

 1940年にはアドルフ・ヒトラーが日帰りのパリ観光で最初に訪れたのがオペラ座だった」

 「私もいつか、こんな舞台で歌ってみたいなあ」

 「大丈夫、琴子なら必ずここで歌えるソプラニスタになれるよ」

 「ありがとう、銀」


 私はここで朗々とアリアを歌う自分をイメージした。

 心が奮えた。


 「最初にオペラ座が計画されたのは、宮廷作曲家のロベール・カンベールと詩人のピエール・ペランが当時、フランス財務総督だったコルベールに請願し、ルイ14世を動かして造らせた建物だ。

 見てご覧、この素晴らしい天井壁画を。

 これはあのマルク・シャガールが描いた物なんだ。

 14人の偉大な音楽家たちが描かれている。

 ムソルグスキー、モーツァルト、アドルフ・アダム、ワーグナー、ベルリオーズ、ラモー、ドビュッシー、ラヴェルにストラビンスキー。チャイコフスキー、ビゼー、ヴェルディ、グルッグ、えーとあともう一人、そうだ、ベートーヴェンだ」

 「凄い記憶力ね?」

 「音楽はいいよ、音楽とお前がいなければこの世は闇だ」

 「まあ、詩人みたい」


 私は銀河の背中に手を置いた。甦る銀河との行為に身体が火照る。


 「僕はもう、詩を書けない詩人だけどね?」

 「どうしてもう詩が書けないの?」

 「詩人はしあわせになってしまうと詩が浮かばなくなってしまうんだ」

 「だったら詩人はいつも不幸じゃないといけないの?」

 「しあわせになるか? 詩を書くために不幸を選ぶか・・・」


 そう言って彼は寂しく笑った。


 (もう詩を書けないの? 銀河?)


 私は銀河のその言葉が気になった。



 「琴子は『オペラ座の怪人』のミュージカルは観たことがあるかい?」

 「一度は観たいと思っているんだけど、中々機会がなくて」

 「この広い宮殿のようなガルニエ宮には数々の伝説や怪談話があるんだ。

 原作者のガストン・ルルーは、1896年に起きた、客席へのシャンデリアの落下事故と、ウエーバーの『魔弾の射手』にヒントを得てこのバロック小説を書いた。

 あらすじはこうだ。

 舞台は1880年代のパリ。年老いたオペラ座の支配人が退職するという夜、ここの看板歌姫のクリスティーヌがガラに出演し、喝采を浴びる。

 このオペラ座には地下に棲む仮面を着けたファントム(怪人)がいて、彼はここの支配人とある密約を交わすんだ。

 それは月に2万フランの報酬を怪人に支払うことと、5番のボックス観覧席を常に開けておくことだった。

 彼は投げ縄と奇術の達人で、音楽の天才だった。

 そんな彼が劇場のプリマドンナ、クリスティーヌに恋をする。

 彼女には幼馴染の子爵、ラウルがいた。

 ラウルもまた、彼女に恋をしていた。

 そんな時、事件は起きる。

 怪人は支配人に「今度のオペラ『ファウスト』の主役はクリスティーヌにするように」と命じる。だがその時のプリマは怪人の意に反してカルロッタがプリマを演じてしまう。

 激怒した怪人は巨大な劇場のシャンデリアを落下させ、カルロッタは声を失ってしまう。

 その後、クリスティーヌはメキメキと頭角を現してゆく。

 でもそれには秘密があった。それは彼女の楽屋裏から囁かれる怪人の歌唱指導のお陰だったのだ。

 彼女はそれを『天使の声』と言っていた。

 彼女の美しさに耐えかねた怪人は、遂にクリスティーヌを自分の棲む地下の拷問室に連れ去り、自 分はエリックだと名乗る。

 数日間を地下でクリスティーヌと一緒に過ごしたエリックは、クリスティーヌに愛を迫る。

 そしてその時、彼女はエリックの仮面を剥いでしまうんだ」

 「それで仮面の下はどんなお顔だったの?」

 「その顔には鼻も唇もなく、落ち窪んだ目と、壊死した黄色い剥き出しの皮膚があった」

 「うわ、厭」

 「自分の素顔を見られてしまったエリックは、クリスティーヌを永久に地下に閉じ込めようとする。

 だが2週間後、エリックはクリスティーヌに地上に出て歌うことを許可する。その代わりに交換条件を出すんだ。

 それは自分の指輪をはめて、自分との信頼を裏切らないことだった。そして彼女は地上へと戻って行く。

 だがクリスティーヌはエリックを裏切り、屋上でその秘密をラウルに打ち明けてしまう。

 だが彼女はそんなエリックを哀れに思い、「エリックのために歌うわ。それまでここを出ては行かない」と。

 その会話をエリックは盗聴していた。

 そしてまた『ファウスト』の上演中にクリスティーヌをさらい、今度は地下室で彼女に自分との結婚を迫るんだ」

 「でも結婚はしないんでしょう? クリスティーヌは?」

 「どうしてそう思うんだい?」

 「だってイケメンのやさしい幼馴染み、子爵のラウルのことが好きだから」

 「なるほど。エリックは言う、「もし、自分との結婚を拒否すれば、オペラ座を爆破する」と彼女を脅迫するんだ。それでも彼女はエリックとの結婚を拒否する。

 なんとか彼女を救いたいラウルはペルシャ人のタロガと共に地下の拷問室に忍び込むんだが、それはエリックの仕組んだ罠だった。

 エリックはふたりを『合わせ鏡のトリック』の中へと誘導し、赤道直下の熱を彼らに浴びせる。

 クリスティーヌはふたりを助け、爆弾を爆発させないためにと、怪人との結婚を承諾し、「生ける花嫁」となる覚悟を決める。

 だがエリックはそんなラウルに嫉妬し、タロガだけを解放し、ラウルはそのまま地下に幽閉してしまう。

 タロガを解放して地下に戻ったエリックは、もう彼女は地下室から逃げていなくなってしまっているだろうと思ってしまう。

 だが彼女はエリックを待っていた。

 帰って来たエリックがクリスティーヌに近づき、彼女の額にキスをしようとする。そして彼女はそれを拒もうとはしなかった。

 自分を産んだ、実の母親ですら拒んだエリックのキスを。

 そしてエリックはクリスティーヌの足元に跪き、泣き崩れてしまう。

 エリックはふたりを解放し、最後の願いをクリスティーヌに託すんだ」

 「それはどんなお願いなの?」

 「彼は言う、「もし自分が死んだら僕の亡骸にその金の指輪をはめてくれ」と。

 そして別れ際、クリスティーヌはエリックの額に自らキスをする。

 エリックはタロガにも自分の死に際して、願いを託すんだ。

 「私が遺品を君に送る時、それは自分が死んだことを意味する。だからそれを新聞広告に掲載して欲しいんだ」と」

 「クリスティーヌに自分の死を知らせるためね?」

 「そうだ。そしてその三週間後、新聞広告に「エリック死す」と掲載される」

 「なんだか切ないお話ね? でもわかるなあ、そんな醜いエリックを捨てられないクリスティーヌの気持ちが。

 『ノートルダムのせむし男』みたいなお話ね?

 たとえ姿は醜くくても心は綺麗。

 音楽を愛する人はみんな、心がキレイだもん」

 「そうだね? 琴子は外見も心も美しい」

 「私ね、今まで人を憎んだり怒ったりしたことがないの。

 それに私、クリスチャンだしね?」

 「ちょっとエッチなクリスチャンだけどね?」

 「コラーッ!」


 私はふざけて銀河を殴るフリをした。


 「琴子、君はもし僕がエリックのようになっても愛し続けてくれるかい?」

 「もちろん!」


 私は即答した。


 「俺も同じだよ。たとえお前が白髪の皺くちゃの老婆になっても、君を生涯愛し続けると誓うよ」

 「ありがとう、銀。私もあなたのオムツをちゃんと交換してあげるね?」

 「よろしく頼むよ。さあ席に着こう、もうすぐ『フィガロの結婚』が始まる」


 私たちは長年連れ添った夫婦のように腕を組み、自分たちのシートに並んで座った。


第13話 幸福な詩人

 オペラの上演が始まった。

 モーツァルトの有名な歌劇『フィガロの結婚』。序曲を聴くだけでこのオペラのすべてが想像出来るようだ。


 私が肘掛けの銀河の手に自分の手を重ねると、彼は手の平を返して私の手を握ってくれた。

 そして彼のその手を握り返す私。

  


 『フィガロの結婚』はロッシーニの『セビリアの理髪師』の成功を受けて作られた続編のオペラだ。

 フランスの劇作家、ボーマルシェの戯曲にモーツァルトが曲を書き、オペラに仕上げた。

 当時の貴族社会の倫理腐敗を風刺した喜劇であり、かのルイ16世はこのオペラの上演を最初は禁じた。


 「この『フィガロの結婚』の上演を許可するくらいなら、バスティーユ監獄を破壊するのが先だ」と言わしめたほどの権力ヒエラルキーを痛烈に批判するものだったからだ。


 わずか3才でチェンバロを演奏し、5才で『アンダンテ ハ長調』を作曲した神童、モーツァルト。

 6歳の時、ウイーンでマリア・テレジアの王宮の床で転び、後のマリー・アントワネットに抱き起こされた時、


 「ボクが大きくなったらお嫁さんにしてあげるね?」


 と言ったというアマデウスが私は好きだった。

 もしそれが実現していれば、アントワネットもギロチンに掛けられることもなかったであろうに。

 

 モーツァルトは言う、


 「作曲とは精力的な思考と何時間にも及ぶ努力なのだ」と。


 『フィガロの結婚』は5人の主役と3人の準主役、そして3人の脇役という11人ものオペラ歌手たちの共演だ。

 複雑な心理描写と躍動感。サラリと軽快な和音の中に隠された笑いと哀しみ。

 モーツァルトでなければ成し得ない偉業のオペラがこれだ。

 これは単なる喜劇ではない。


 確かにオケは粗いが歌い手のレベルはかなり高かった。

 一人がミスをすればすべてが台無しになってしまう凄まじいほどの緊張感。


 『フィガロの結婚』はイタリア語で演じられる。

 オペラを歌うにはそれを演じる言語に対してネイティブでなければならない。

 日本の文化、生活、人間関係、恋愛感情の機微を理解せず、ただ片言の日本語で歌う外国人の演歌のようになってしまうからだ。



 私はいつの間にか銀河と繋いだ手を強く握り、口パクをして前のめりになるほど、このオペラの世界に引き込まれて行った。

 もちろん私の役はスザンナ。そしてフィガロは銀河だ。


 


 途中休憩を挟み、3時間半の公演が終わった。

 私の興奮は収まらず、このまますぐにでも銀河に挑みたかった。


 「早くホテルに帰りましょう。馬車がカボチャに変わる前に」

 「琴子、ガラスの靴を落とさないようにね? フィガロやアルマヴィーヴァ伯爵に拾われたら大変だから」




 ホテルの部屋に入るとすぐに、私たちはドレスとタキシードを脱ぎ捨て、激しくお互いを求めあった。


 銀河は私を四つん這いにさせると、後背位の体制から激しく私に自分を打ち付けて来た。

 私の蜜口から溢れ出る愛液と、銀河の男根が淫らな音を立てていた。



 「はっ、はっ、はっ、あんっ、いいわ、いいの、銀!・・・」



 銀河の荒い息遣いが聴こえる。

 銀河が正常位に体位を変えようとした時、私は慌ててそれを制した。



 「そのまま来て、そのままで!」

 「わかった」


 銀河は射精が近づいていたようで、私とクライマックスを合わせるために少しスピードを緩めた。

 そして私の喘ぎ声に合わせるように、今度は律動をトップギアに入れ、最後はギアをオーバートップにシフトすると、私たちは同時に果てた。


 銀河は枕元に置かれたティッシュボックスからティッシュペーパーを三枚抜き取り、私のそこを拭いてから自分のそれを拭き取ってぐったりとした。

 彼の放出したザーメンが、まだ自分の中に残っている感触があった。



 「高校生の時、NHKのFMラジオのプロデューサーと話す機会があってね? 俺はそのオジサンに文句を言ったんだ。

 「日曜日の午後4時からのオペラは止めてくれませんか? どうせ誰も聴いていないでしょう? サザンやブルーハーツを流して下さいよ」とね?」

 

 私は銀河の厚い胸板に自分の顔を載せて訊ねた。

 正確にリズムを刻んでいる銀河の心臓の音が聞こえる。 


 「プロデューサーさんは何て言ったの?」

 「その人は「オペラのファンは意外と多いんだよ」と言った。

 でも今なら分かる、オペラの良さと琴子の良さが」

 

 私はピアノの鍵盤を弾くように、彼の胸に人差指と中指を遊ばせて言った。


 「私の歌を?」

 「歌と琴子のすべてをね?」

 「私たちって相性がいいもんね?」


 私はまだ硬直したままの銀のそれを悪戯っぽく握ってあげた。


 「君はイタリア語に精通しているから感動もひとしおだったろうな? 俺はイタリア語は出来ないが、予習はしていたからなんとなく雰囲気は分かったよ。

 琴子が身を乗り出して口を動かしている横顔を見て、心が震えた。ここにもう一人、スザンナがいるとね?」

 「惚れ直した?」

 「うん、すごく」


 私は銀と軽いキスをした。


 「でもね? あの有名なアリア、「恋とはどんなものかしら」を聴いた時は思わず笑いそうになっちゃったわ」

 「あの『キューピー3分クッキング』のオープニング曲になっているからな?」

 「ふふっ。でも凄く混乱したお話なのに、第四幕のフィナーレのハッピーエンドがとても爽快だった。流石は神の子、天才モーツァルトだわ」

 「戯曲を書いたボーマルシェも凄いよ。いわゆる近親相姦を芸術として見事に昇華させてしまうんだからね?

 あの当時、結婚する花嫁と領主が旦那よりも先に「味見」が出来る『初夜権』なんて本当にあったのかなあ?」

 「銀も領主になりたい?」

 「俺は琴子がいればそれでいいよ」

 「ホントに? 嘘ばっかり」


 私は銀河の鼻を軽く摘まんで見せた。


 「フィガロと愛を重ね、復縁を望み、お金を貸したその証文には「万が一、返済出来ない場合は私と結婚すること」と迫ったマルチェリーナがフィガロの本当の母親だったんだからな?」

 「そして彼女と結託した医師のドン・バルトロが実のフィガロの父親で、その両親に息子である自分が裁判で訴えられるなんてね?」

 「そして最後はみんなで歓びを分かち合うんだからな?」

 「ドタバタの結婚式だったわね?」

 

 私は顔を上げて銀河を見詰めた。

 

 「好きよ銀、あなたが好き」

 「俺もお前が好きだ、琴子」


 私たちは強く抱き合った。


 「じゃあまた明日、9時にお前を迎えに来るよ」

 「明日はお部屋で待ってるね?」

 「わかった。おやすみ、琴子」

 「おやすみなさい、銀」


 おやすみのキスを交わし、銀河は帰って行った。





 銀河は自分のメゾンに帰ると灯りを点け、マントルピースに火を入れ、ショット・グラスにバーボンを注いだ。

 喉が焼け、#松脂__まつやに__#の香りが鼻を抜けて行く。



 「詩音、今日はプリマとオペラ座で『フィガロの結婚』を鑑賞して来たよ。パリにも冬が近づいて来た。

 今、暖炉に火を入れたから、じきに暖かくなるからね? ゴメンね、ひとりにして」



 銀河はフォトスタンドの詩音にそう話し掛け、グラスに再びバーボンを注いだ。

 

 暖炉の炎が少しずつ大きくなり、やがて火は落ち着いた。


 「詩音、焼餅を焼いちゃうかい? 大丈夫、詩音のことは忘れはしない。

 でもね、俺は琴子と出会ってから詩が浮かばなくなってしまったんだ。やはり詩人は不幸であるべきなんだろうね?」


 そして銀河はいつの間にか深い眠りへと落ちて行った。


第14話 詩を書けない詩人

 「銀ちゃん、良かったわね? 素敵な恋人が出来て」

 「ごめん、詩音。俺ばっかりしあわせになってしまって」

 「ううん、うれしいわよ、私。銀ちゃんがやっと笑えるようになって」

 「でも、詩が書けないんだ。もう詩が降りて来ないんだよ。俺は詩人なのに」

 「悲しい詩人より、幸福な銀ちゃんの方が私は好きよ」

 「俺は詩人でいたいんだ。詩音が愛してくれた詩人、森田人生でいたいんだ」

 「我儘言わないの。琴子さんと結婚するの?」

 「結婚?」

 「彼女はあなたと結婚したい筈よ」

 「俺が結婚に向かない男だということは、詩音がいちばん良く知っているじゃないか?」

 「でも今の銀ちゃんなら大丈夫。だって銀ちゃん、とても楽しそうだから。私と暮らしていた時よりもずっと」

 「俺は人をしあわせにする自信がないんだ」

 「銀ちゃん・・・」

  


 暖炉の火が消えて、俺は寒さで目を覚ました。

 俺は詩音の夢を見ていた。詩音は聖母マリアのように慈愛に満ちた眼差しで、俺にやさしく微笑んでくれていた。



 最近、微熱があり、身体が怠く感じる。

 琴子との営みで張り切り過ぎたせいかもしれない。俺はそう考えることにした。



 いつもの手の震えが始まった。

 俺は冷蔵庫からペリエを出してグラスに注ぎ、そこにゴードン・ジンを入れ、ライムを櫛型にカットして絞り、軽くステアして飲んだ。

 手の震えはすぐに収まった。



 俺は再び暖炉の火を起こし、揺れる赤い炎を見ながらジン・ライムを飲み、余ったライムを齧った。

 ライムの鮮烈な香りと苦くて酸っぱい味に、脳とカラダが覚醒した。

 グラスの炭酸が弾ける音。俺は鉢植えのミントの葉を千切ると手の平に乗せ、パンと叩いてミントの香りを強めるとそれをグラスに浮かべ、再びジンを足した。

 俺は夢から現実の世界へと戻った。


 初めは琴子とすぐに別れるつもりだった。それがお互いのためだと思ったからだ。

 だが俺は琴子を抱いてしまった。

 彼女に会えば会う程、どんどん琴子を好きになってしまう自分がいる。

 好きから恋に変わる前に別れるべきだったのにだ。

 それがこの僅か数日の間に、俺の琴子への想いは恋をすっ飛ばして、愛に変わってしまった。

 ゆらゆらと燃える暖炉の炎。俺の心も揺らいでいた。




 私はKIOSKで新聞とタバコを買い、琴子のホテルへと向かった。


 

 9時ジャストにドアを3回ノックした。

 琴子の弾んだ声が聞こえる。


 「はーい! 今開けまーす!」


 ドアが開き、琴子は黒のカシミアのコートを着て立っていた。

 すると突然、彼女はコートの前を開いて見せた。

 彼女は全裸だった。


 「一度、やってみたかったの。これ」


 少し恥ずかしそうにはにかむ琴子。


 「その#透明な服__・__#、とても素敵だね?」

 「さああなたも早く着替えて頂戴。#透明なタキシード__・__#に」

 「はい、はい」

 「ハイは1回!」

 「はい」


 俺は琴子の口をキスで塞いだ。

 琴子との熱い朝の「French kiss」が始まった。



 琴子は何度かオルガスムスを迎え、俺は琴子に2回射精した。



 「ねえ、今日は何処に連れて行ってくれるの?」

 「ノートル・ダムはどうかな? 今日は日曜日だからミサがあるんだ。パイプオルガンでバッハでもどうだい?」

 「あら素敵じゃない? ノートル・ダムには行ったけどパイプオルガンは聴いたことがないわ」

 「じゃあ決まりだ」


 



 日曜日の夕方は既に暗く、ノートル・ダム大聖堂は闇の中にライトアップされていた。


 「寒いね?」


 琴子は俺に身を寄せた。


 「この正面のポルタイユの三つの門は知ってるよね?」

 「音大の春休みの海外レッスンでパリに寄った時に見たわ」

 「そうか。向かって左が聖母マリアの被昇天を表している。その中に1体だけ、首がなくその首を抱いている像があるだろう? あれが斬首されても布教を続けた聖サン・ドニだ。

 右は聖母マリアの母、聖アンナが彫られている。こちらにいるのが聖マルセル。このシテ島に架かるポンヌフ橋で生まれ、セーヌ川に棲む嵐や水害をもたらし、人を食べてしまうというドラゴンを退治したという伝説の聖人だ。

 この建物に見られる様々なガーゴイルやキマイラが、いくつか教会の雨水を吐き出しているのもそれに由来するらしい。

 そして真ん中が『キリスト最後の審判』だ」

 「世界が滅亡した後のあれね?」

 「様々な解釈があるが、ここの『最後の審判』はあの第一層目にある天使が吹くラッパの音で死者が蘇るところから始まる。

 そして第二層目では大天使、ミカエルが天秤で死者の魂の重さを量るんだ」

 「もしも魂の重さが重かったら?」

 「大天使ミカエルの方の天秤が重くなっているのが見えるだろう? 魂が重いとミカエルの左側、天国へとその死人は迎えられるんだ」

 「じゃあ軽いと地獄なのね?」

 「その通り、そうすると悪魔の待っている右側、地獄へと連行されてしまうという訳だ」

 「なんだかリアルで怖いわ」

 「そして一番上の層で最終審判をしているのがイエス・キリストだ。

 右に大きな十字架を持った天使と、左には槍と#楔__くさび__#を持った天使がいて、すべての人々の罪をイエス・キリストが#贖__あがな__#ったという受難が表現され、イエスの左側には聖母マリアが、そして右側にはキリストに跪く洗礼者、聖ヨハネがいる」

 「私は地獄はイヤだなあ。銀といっしょに天国がいい。今日のベッドでの時みたいに」

 「でもそれは無理だな? お前は天国でも俺は地獄だから。

 さあ、寒いから教会の中へ入ろう」



 

 教会の中ではオルガニストがパイプオルガンの調整をしていた。

 俺たちが硬い木の長椅子に座ると、荘厳なパイプオルガンの演奏が礼拝堂に響き渡り、司祭のミサが始まった。

 胸の前で十字を切り、祈りを捧げる琴子に俺は見惚れた。





 ミサが終わり、俺たちは近くのカフェで夕食を摂った。

 牡蠣の旨い季節になったので、俺は生牡蠣とアルザスの白ワインを注文し、琴子は平目のムニエルにして同じワインを飲んだ。



 「琴子はプロテスタントだったよな? ノートル・ダムは聖ローマカトリック教会だったが、誘ってよかったのか?」

 「大丈夫だよ、パイプオルガン、初めて聴くことが出来て良かったわ。ありがとう、銀。連れて来てくれて。

 ノートル・ダムで結婚式なんて挙げられたら素敵だろうなあ?」


 琴子はそう言って笑うとワインを飲み、上品にムニエルを口にした。


 「ノートル・ダムはフランス革命では内部は破壊、略奪され、かなり酷い状態だったらしい。

 作家のビクトル・ユーゴーが小説『パリのノートル・ダム』を書いて、それにより市民運動が起こり、ノートル・ダム、すなわち「われらが貴婦人」、聖母マリア大聖堂は再建されたんだ。

 大聖堂の建築には200年の歳月を要したんだ。

 白人は日本人と違って急がないし、慌てない。

 日本人は1年単位で物事を考えるが、彼らは100年単位で考える。

 余談になるがパリの距離を示すゼロ起点は凱旋門ではなく、ここノートル・ダムになっている。

 パリの本当の中心はここ、ノートル・ダムなんだよ」

 「へえー、そうなんだあ。銀はなんでも知ってるんだね?

 一緒にいて飽きないわ。ふふっ」


 俺はこの美しく微笑む琴子を今すぐにでも抱き締めたいと思った。

 おそらくこれから琴子をホテルに送って行けば、今日の昼と同じことになるだろう。

 だが今夜は琴子と触れ合うことは止めようと、俺は考えていた。




 食事を終えてホテルに向かうタクシーの中で、俺たちはずっと手を繋いでいた。

 琴子が俺の耳元で囁いた。


 「今夜は泊まっていってね?」

 「ゴメン、どうやらノートル・ダムで風邪を引いたらしい。

 今夜は帰るよ、お前に移しちゃ悪いから」

 「移してもいいわよ。ふたりでお風邪を引けば、ずっと一緒に寝ていられるじゃない?」

 「ありがとう、琴子。今夜は家に帰ってエッグ・ノッグでも飲んで早く寝るよ。

 いつも俺がお前を勝手に引っ張り回しているけど、君の用事はないのかい?」

 「私は大丈夫だよ。もしも明日も具合が悪かったら看病に行ってあげようか?」

 「その気持ちだけいただいておくよ」

 「銀のバカ! 携帯番号も教えてくれないし家にも呼んでくれないなんてヘンよ! 本当は家に奥さんとか子供までいたりして! 怪しい!」

 「あはは、そうかもしれないよ? もしそうだったらどうする? 俺と別れるか?」

 「泣く、泣いちゃう・・・」

 「ごめん、そのうち俺の自宅にも琴子を招待するよ」

 「じゃあ携帯番号教えて」

 「俺、携帯持ってないんだ」

 「銀の嘘つき!}


 琴子は俺の鼻を摘まんで笑った。

 賢い女だと俺は思った。

 琴子に携帯番号を教えたら俺と連絡がつかなくなった時、その履歴が琴子を苦しめてしまうことになってしまう。携帯番号を教える訳には行かなかった。

 彼女も女だ、そう考えるのは無理もない。

 琴子は俺のことは殆ど何も知らないのだから。


 「絶対だよ! じゃあ指切り!」


 と言ったが、琴子は指切りをしなかった。


 「指切りはいいや。銀を信じているから。

 明日は午後に迎えに来て。部屋で待ってるから」

 「じゃあ13時に迎えに行くよ」




 ホテルの前に着いた。


 「今日は悪いがここで失礼するよ。部屋まで送れなくてごめん。おやすみ琴子」


 琴子は私の頬にキスをしてくれた。


 「おやすみなさい。銀」

 「おやすみ、俺の歌姫」


 俺はタクシーの中からホテルに入って行く琴子の小さな後ろ姿を見送った。





 部屋に戻り、照明を点けた。

 朝、エアコンを点けたまま家を出たので部屋は暖かかった。

 私は詩音の写真を手に取り、話し掛けた。



 「彼女がここに来たいそうなんだけど、連れて来てもいいかい?」

 

 彼女はいつもと変わらず、ただ笑っているだけだった。


 俺はバーボンをラッパ飲みし、ジュリー・ロンドンの『涙の河』を掛けた。


 俺はようやく孤独から解放された。


第15話 杞憂

 銀河の視線を背中に感じながら、私は振り返らずにホテルへと入って行った。

 ロビーの窓から彼の乗ったタクシーが去って行くのをそっと見送った。



 部屋に帰ると涙が溢れて来た。


 「携帯を持ってないなんて嘘ばっかり! 銀のバカ!」


 どうして携帯番号を教えてくれないのか、私がしつこく電話をするとでも思っているの?

 私は銀河といつも繋がっていたいだけなのに。

 銀河にもしも何かあればすぐに駆け付けて助けてあげたい。

 アル中で苦しんでいる彼を傍でずっと見守ってあげたいだけなのに。

 私は銀河からお酒を取り上げることが出来ない。

 だって彼は詩人だから。詩は自分を傷付けて、苦しみ悩んだ思いを文字にして書き残して行くことだから。

 同じアーティストとして、お互いの生活や思想に干渉はしたくないし、されるのもイヤ。

 声楽家としての私の邪魔にはなりたくないという銀河の想いは凄く伝わる。

 でも彼が辛い時、寂しい時には私が癒してあげたい。

 ただそれだけなのに。

 

 

 (私って、本当に愛されているのかしら?)



 私は彼に詩音さんという恋人がいた事と、彼が森田人生という詩人で、パリに住んでいるということしか知らない。

 身体の相性は凄くいいのに、彼の心が見えない。


 (私はただ遊ばれているだけなの?)


 それはない、絶対に。銀河はそんな男ではないはず。

 せめて彼の暮らしを覗いてみたい。銀河がどんな暮らしをしているのか、とても気になる。



 お風呂に入ろうと服を脱ぎ始めた時、携帯が鳴った。

 母からだった。


 「どうしたの? ママ?」

 「どうしたのじゃないでしょう? パリに着いたと連絡したっきり電話も寄越さないで。ママ、すごく心配していたのよ。大丈夫なの?」

 「ごめんなさい、連絡もしないで。

 でも何も心配は要らないわ。毎日があっと言う間に過ぎて行くの」

 「そう? ならいいんだけど。元気そうで安心したわ。

 ママもパリの音楽院にも少しだけいたことがあるからわかるけど、モンマルトルとかにはあまり行かない方がいいわよ。

 あなたみたいな#お嬢様__・__#はすぐに悪い男に引っかかっちゃうから。スリも多いし。

 琴子は人を疑うことを知らない娘だからママはとても心配なのよ」


 私は思い切って銀河のことを母に打ち明けた。


 「あのねママ、実は今、パリで親しくなった人がいるの」

 「ただの知り合いではなさそうね? どうりで電話も来ないわけだ。ふふっ」


 母はいつも私のことはお見通しだった。


 「お金とか渡しちゃ駄目よ。それから赤ちゃんもね?」

 「それは大丈夫。ねえママ、森田人生って詩人、知ってる?」

 「知ってるわよ。ママ、森田人生のファンだもの」

 「えっ? そうなの?」

 「何冊か詩集も持っているわよ。『魂の絶叫』『夜を待って泣け』、そして『消えた明日』とか。どうしたのいきなり、森田人生だなんて?」

 「実はその森田人生とお付き合いしているの」

 「えっ、本当に? もじゃもじゃ頭の人よ、丸い銀縁メガネを掛けた」

 「うん、そんな感じ。カフェで一緒にいた時、日本人の女の子たちにサインを求められてた」

 「すごいじゃないの琴子! 森田人生とパリで出会うなんて。

 実は来週、ママもパリに行こうかと思って、それで電話したのよ。琴子と同じホテルを取ってもらおうと思って。

 あっ、部屋は別々でいいわよ、あなたも#色々__・__#と事情があるようだし。じゃあ来週、ド・ゴール空港まで迎えに来て頂戴。よろしくね? おやすみなさい、琴子。森田人生にもよろしくね。母が是非、お会いしたいって」

 「わかったわ、お部屋は取っておくから気を付けて来てね?

 おやすみなさい、ママ」


 

 来週、母がパリに来ることになった。だがそれは、パリに来る前から予想していたことだった。

 母は私の事を口実にして、必ずパリにやって来る筈だと。

 今まで色んなことで母には迷惑と心配を掛けてしまった。

 パリでは沢山親孝行をしようと思った。


 



 深夜、愛人のところからこっそりと帰宅した夫に、琴子の母、久子は言った。


 「お帰りなさい、あなた。毎日遅くまで#お仕事__・__#お疲れ様です」

 「お前、まだ起きていたのか? めずらしいな?」

 「琴子のことが心配だから琴子に電話していたの。来週、琴子のところに行ってもいいかしら?」

 「パリへか? 別に構わんよ、行って来なさい。

 久しぶりのパリだろうからゆっくりして来るといい。母と娘、水入らずでな?」

 「ではそうさせていただきます。その方があなたにとっても都合がいいでしょうから。うふっ」


 私は思わず笑ってしまった。

 それは図星だったようで、悪戯を見つかった子供のような夫の表情が滑稽だった。

 これで愛人と私に気兼ねすることなく、自由に逢瀬を楽しむことが出来ると、わずかに口元がほころぶ夫が憎らしくもあった。


 「風呂に入って来る」

 「あら? またお入りになるの? #外で__・__#入って来たのに?」


 夫はそそくさと、私の嫌味から逃れる様に脱衣場へと向かった。

 


 今回の娘の離婚では、私も多くを学んだ。

 愛のない夫婦に存在意義はあるのかと。

 老人ではないが、かと言って、もう若くもない中途半端な私。 

 人はそんな私を「ミセス」と呼ぶ。

 子供も大人になり、夫は若い愛人を作り、私はいつのまにかただの家政婦になっていた。


 子供の頃からピアノが好きだった。

 私はピアニストになるのが夢だった。

 親は初め、ピアノは将来の花嫁修業の一環であり、いい所へ嫁がせるための教養としか考えてはいないようだった。

 学校の式典で、校歌を伴奏する程度でいいと。

 だが私は取り憑かれたようにピアノの練習にのめり込んでいった。

 数々のピアノコンクールを総なめにした私は東京藝大に進学し、さらにジュリアードでもピアノを学んだ。

 

 その時私は指揮者を目指していた彼と恋に落ちた。

 だが彼は世界的な指揮者になるため、レニングラードへと留学してしまった。

 私を捨てて。


 私はショックのあまり、ピアノが弾けなくなってしまった。

 ジュリアードには世界中から天才たちが集まって来る。私は落ちこぼれとなり、失意の中、日本に帰国せず、パリの音楽院へ転校した。


 そして私はパリで絵の勉強に来ていた悟と恋に落ち、同棲していた。

 何が理由で別れたのかは、今では記憶も曖昧になってしまったが、嫌いで別れたわけではないことは確かだった。


 日本に帰国して、開業医をしていた今の夫と親の勧めもあり、結婚して琴子を産んだ。

 夫となぜ結婚したのかも、私はその理由が思い出せない。

 おそらくそれは恋愛感情ではなく、ただの「結婚してもいい人」というレベルだった筈だ。

 経済的には何の不自由もない生活。

 私と娘は似ている。似ているからこそ、娘には片手に声楽家としての人生と、もう片方には女としてのしあわせを掴んで欲しいと思っている。琴子は今、その瀬戸際に立っているのだ。

 私は琴子に会って、それをちゃんと伝えたいと思っていた。

 「どんなことがあっても音楽を捨ててはいけない」と。





 琴子はバスタブに浸かりながら考えていた。


 どうして銀河は仮病を使ってまで、私を避けたんだろう?

 私に飽きた? それとも美人なパリジェンヌとでも同棲しているとか? あるいはその両方・・・。


 私は日本から持って来た入浴剤を入れたお湯を手で掬った。

 

 携帯番号も教えてくれない。そして自宅も教えない。

 やはり銀河には他に女がいるんだわ。

 一人? それとも二人? あるいはもっと沢山いたりして?


 私はそんな不安な気持ちを押し返そうと、湯舟のお湯を手で前に押しやった。


 するとそのお湯は私の元へとまた戻って来た。


 私は深い溜息を吐くと、バスタブから出て熱いシャワーを浴びた。


 そして声をあげて泣いた。


第16話 ミラボー橋

 俺は13時きっかりに琴子のホテルを訪ねた。


 「お風邪はもう大丈夫なの?」

 「おかげ様で夕べはグッスリ寝たから元気になったよ。風邪じゃなくてただの疲れだったのかもしれない。お前とやりすぎて」

 「ちょっとお、詩人がそんな下品な言葉を使ってもいいのかしら? 「やる」じゃなくて「愛を重ねる」でしょ?」

 「じゃあ愛を重ねようか?」


 彼女は恥ずかしそうに頷いた。かわいい女だと思った。

 これがあの大舞台で堂々とアリアを歌う、海音寺琴子だとは誰も思わないだろう。

 琴子は俺がここへ来ることを知りながら、薄化粧だけしてトレーニングウエアのままだった。

 俺は琴子をベッドに寝かせ、キスをしながらTシャツの下から手を入れ、琴子のささやかな胸に触れ、乳首を軽く抓った。


 「あっ、ん・・・」


 琴子の艶やかな唇から甘い吐息が漏れ、身体をのけ反らせた。

 私はそこで行為を中断した。


 「どうしたの? 急に?」

 「この続きは夜にしよう。日が暮れてしまうから。

 明るいうちに君と行きたい場所があるんだ」

 「だったら初めからそう言ってよね? そういうモードになっちゃったじゃないのー。バカ銀!」 

 「お昼ご飯はまだなんだろう? 出掛ける支度をしなさい」

 「何よ「しなさい」って、銀はいつから私のパパになったの?」

 「パパじゃなくてお兄ちゃんだろう?」


 琴子は俺の首に腕を回して軽くキスをして甘えた。


 「好きよ、#銀お兄ちゃん__・__#」





 ミラボー橋にやって来た。

 緩やかに流れるセーヌ川、俺は琴子をここに連れて来たかったのだ。まだ明るい内に。



 「此処はどこなの?」

 「ミラボー橋だよ」

 「ミラボー橋?」

 「アポリネールはここで、愛するマリー・ローランサンに詩を書いたんだ」

 「どんな詩?」


 俺はアポリネールの詩を口ずさんだ。

 


   ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

   われらの恋が流れてゆく

   わたしは思い出す

   悩みのあとには楽しみが来ることを


   日も暮れよ、鐘よ鳴れ

   月日は流れ、わたしは留まる


    手に手をつなぎ 顔と顔を向け合い抱擁していると 

   われ等の腕の橋の下を

   疲れたまなざしの無窮の時が流れる


   日も暮れよ、鐘よ鳴れ

   月日は流れ、わたしは留まる


   流れる水のように 恋もまた死んでゆく

   生命ばかりが長く

   希望ばかりが大きい

   

   日も暮れよ、鐘よ鳴れ

   月日は流れ、わたしは留まる


    日が去り、月がゆき

     過ぎた時も 昔の恋も 二度と帰っては来ない

   ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる

 

   日も暮れよ、鐘よ鳴れ

   月日は流れ、わたしは留まる



 「どうだい? とても美しくて切ない詩だとは思わないかい?」

 

 すると琴子は鋭い眼差しを俺に向け、言った。


 「私と別れたいの?」

 「お前とは別れなければならない。でも別れられないんだ。

 サンジェルマンのカフェで俺はお前に別れを告げた。

 今ならまだ間に合うと! 引き返すことが出来ると!

 そして俺はお前に諭された。「死はすべての人間に平等に訪れる」と。「詩音が死んだのは俺のせいではない」と言ってくれた。

 琴子は俺が、自分で自分に掛けた呪いを解いてくれた。

 俺は死ぬほどお前が好きだ。会えば会う程どんどんお前を好きになっていく。抑え切れないほど、俺はお前が好きだ!」


 俺は琴子を強く抱き締め、琴子も俺を強く抱き締めてくれた。


 「私も銀が大好きよ。大、大、大好き! ずっと銀とこうしていたいの! 何もかも捨てて、私はあなたとこのパリで暮らしたい!」

 

 俺は琴子から離れ、琴子のか細い両腕を掴んでハッキリと言った。


 「俺はもう詩が書けなくなってしまった。

 それは琴子と出会って不幸ではなくなったからだ。俺は今、天にも昇るような気持ちでいる。

 詩人じゃなくなってしまった俺を、森田人生ではなくなった俺を、琴子は愛してくれるのかい?」

 「森田人生なんて知らない! 私が愛しているのは星野銀河! あなただけよ!」


 俺たちは再び強く抱き合い、熱い口づけを交わした。

 ミラボー橋に教会の鐘の音が聞こえる。


 「これからどんなことがあろうとも、俺はお前を守る。

 琴子、俺はお前が好きだ。もう迷わない!」

 「銀、今度こそしあわせになりましょう! 私たち!」

 「夕暮れになって冷えて来た。ウチに帰ろう、俺の家に」

 「銀のお家に? 銀のお家に私を連れて行ってくれるの?」

 「ホテル代が勿体ないだろう? 一緒に暮らそう、琴子」

 

 琴子は泣いていた。

 俺は琴子の涙と鼻水をハンカチで拭いてやった。


 「ありがとう・・・」

 「さあ帰ろう、俺たちの家に」

 「うん・・・」

 「その前に食器とか、琴子の身の回りの物や食べ物を買わないとな。シャンパンも買って、今日の記念日を祝おうじゃないか!」

 「銀とお揃いのやつがいい」

 「今日が俺たちの「愛が生まれた日」、『恋愛記念日』だ」




 プランタンで俺たちは買物をした。

 日本の高島屋とも提携しているので箸や茶碗、珈琲カップやカトラリーなどもペアで買い揃えた。

 うれしそうにはしゃぐ琴子。


 「後は食材ね? シチューも作ってあげるね? 白味噌を買わなきゃ」

 「シチューに味噌?」

 「うん、隠し味に入れると美味しいんだよ」

 「へえー、琴子は料理も上手なんだね?」

 「銀のためなら何でもしてあげる!」

 「ありがとう。でも琴子はあまり体が丈夫ではないんだから、まずは自分を労わることを優先するべきだよ。

 俺はひとり暮らしには慣れているから、一通りのことは出来る。

 琴子のセクシーパンティも洗濯してあげるよ」

 「じゃあセクシーなの、買わなきゃ。あはははは」

 



  俺の家に着いた。


 「ここが銀のメゾンなのね? コの字になっているんだ? アンティークな感じがとても素敵。パリのメゾンっていうカンジがするわ。私のホテルからも近いのね?」

 「琴子のホテルには歩いて行けるくらいだったんだ。

 だからあのカフェの常連でもある。

 パリにはこういうメゾンが多いんだ。

 中庭を設けることで、ここが「光の井戸」のようになり、各部屋に風と光が入り易くしている。世帯数も多く確保出来て、セキュリティーもいい。

 パリはドイツに占領された歴史があるからね?」

 「ふーん」

 「ここの3階なんだ、あの部屋だよ」


 俺は自分の部屋を指差した。




 朝からエアコンは点けたままにしておいたので、部屋は暖かかった。

 

 「さあどうぞ、何もないけどね? これからは琴子の好きに飾っていいからね?」

 「すごくキレイにしているのね? 独身男性の部屋に入ったのは初めてだから、ちょっと想像と違った」

 「今、暖炉に火を入れるからね?」

 「じゃあ私は夕食の準備をするわね?」

 「ああ、お願いするよ」


 琴子は買って来たエプロンを身に着けると、夕食の準備を始めた。

 琴子が来てくれたお陰で、殺風景な部屋が急に華やかになった。


 そして琴子はすぐに詩音のフォトスタンドを見つけていた。


 「この人が詩音さんね? 凄く綺麗な人。女優さんみたい」

 「ありがとう。詩音もきっと喜んでいると思うよ、君に褒められて」

 「さてと、まずはおつまみから作るわね?」

 「そうだね? 乾杯しよう」


 暖炉の薪がパチパチと燃え始めた。


 「いいなあ、お部屋に暖炉があるなんて。

 私、夢だったの、暖炉のあるお家でクリスマスツリーを飾るのが」

 「煙突からサンタクロースがやって来るからかい?」

 「そうなの! いいなあ暖炉!

 また私の夢がひとつ、叶っちゃった! 早くクリスマスにならないかなあ」

 「この家にはツリーも何もないから、明日、一緒に買いに行こう」


 琴子は私にキスをした。

 俺はこっそり後ろ手に、詩音のフォトスタンドを伏せた。


 (ゴメンね、詩音)


 そして俺たちの『恋愛記念日』の祝宴が始まった。



第17話 二度目の初夜

 苺をザク切りにし、銀河はそれを細長いシャンパングラスに入れると、そこに冷えたシャンパンを注いだ。


 「お洒落ね?」

 「酒には甘い物がよく似合う。俺にお前が必要なように」

 「私は苺?」

 「そして俺はお前の酒になって、琴子をいつも酔わせていたい。それじゃあ乾杯しよう。これから始まる俺たちの恋愛物語の幕開けを祝して。乾杯」

 「乾杯」


 私たちはシャンパンを飲み、キスをした。苺の甘い香りがした。

 ヨーロッパの苺は香りも甘味も日本のそれとは格段に上質な物だった。

 私はグラスを軽く振り、苺がシャンパンと一緒に流れて来るようにし、美酒に酔った。



 銀河と色んな話をした。

 銀河は文学のことやパリでの様々な面白い失敗談を。

 私は音楽のことや、今、日本で流行っていることを。

 そして私たちはお互いの過去についても打ち明けた。


 銀河は家が貧しく、働きながら高校を卒業したことや、学費が払えず大学を中退したことなどを話し、私も子供の頃の話や音大での話、オペラの裏話などをして、私たちは相槌を打ったり、大きな声で笑ったりした。

 でも、お互いに過去の恋愛については語ることはなかった。

 これからの私たちに過去の恋愛話は不要だったからだ。

 パンとワインとお花、歌。そして銀河がいれば他には何もいらない。私はやっと本当のしあわせに辿り着いた。

 



 初夜を迎えた。二回目の初夜を。

 彼の家で抱かれることはとても新鮮で、エロティシズムに溢れていた。

 私のカラダをいくつものエクスタシーの槍が貫いていく。

 時折耳元で囁く銀河の声が、媚薬のように私の脳を刺激する。

 

 「君から薔薇の香りがする。そして甘い蜜がどんどん溢れて来る。ほら、こんなに」

 

 私は声にならない声をあげる。


 「はうっ、はっはっ、あ、あ・・・んっ」



 詩音さんに見られているような気がした。

 天井の隅からずっと。

 怖くはない。寧ろ一緒に彼を「共有」している感さえある。


 (3人でしているみたい)


 音大生の時、合宿の合同レッスンで、危うく聡子とそうなりかけた時があったが、私はその場を離れ、聡子と彼はそれを続けた。


 愛のない、肉欲だけのセックスに私は興味を感じない。

 私にとって性行為は、いつも愛情の延長線上にあるものだった。

 初体験は大学1年のイブの夜だった。

 私も彼も初めてで、その時は「こんなものか?」と思ったものだ。

 

 大好きな彼と、もっと深く繋がりたい。もっと深く愛し合いたい。

 愛のないセックスをするくらいなら、虚しくオナニーでもしている方がマシだ。

 銀河と私のそれは、まるでバーンスタインが指揮を振る、ベルリオーズの『幻想交響曲』のようだった。

 さざ波のような前戯、そしてやがて押し寄せて来る津波のような激しいオルガスムス。

 私たちは完全に溶け合い、一体となった。


 (今までのそれは何だったのかしら?)


 思えば今までのパートナーは自分本位のセックスで、私はただ、彼らに尽くし、彼らの悦びそうなことを奉仕してあげるだけの行為だった。

 特に元夫、輝信との行為には幻滅した。

 彼の口癖はいつもこうだった。


 「いいのか? いいんだろう?」


 興覚めした。だから私は早く終わらせようと、いつもイッたふりをした。

 結婚してからの輝信との行為で、私は満足したことは一度もなかった。

 夫は射精をするとすぐに鼾をかいて寝むってしまう。

 私はそんな夫の隣で、別の男性とのそれを想像し、虚しく自分を慰めることもあった。

 

 

 この宙に浮くような頭が真っ白になる感覚。自分では制御不能になってしまう肢体。

 銀河の「耐え切れない」という声が聞こえた。


 「出すよ・・・、うっ」


 彼の短い呻き声と共に、私の中にドクンドクンと放出される熱い銀河の精液。

 私は彼を満足させられた歓びに痙攣が止まらなかった。心地良い達成感があった。

 私は自分の「セカンド・ヴァージン」を彼に捧げ、初夜を終えた。



 私は横向きになり、ベッドから赤く燃える暖炉の炎を見詰めていた。

 私の背中に寄り添う銀河。とても温かく、安心感のある温もりが伝わって来る。


 守られている、愛されているという実感。



 「いいわね? 暖炉の火を見詰めて、あなたとこうしているのが夢みたい」

 「俺もだよ、琴子」


 そう言って彼は私の首筋に吐息を吹きかけ、やさしくキスをした。ゾクっとする快感に、つい体が反応してしまう。


 「本当にいいの? 私がここで銀と一緒に暮らしても?」

 「当たり前じゃないか? 今更どうしたんだい?」

 「しあわせすぎて怖いから」


 銀河は私の乳房をやさしく揉んだ。


 「俺と一緒にいてくれ、琴子」

 「じゃあ今日、ホテルを引き払って精算して来るわよ?」

 「俺も一緒に行くよ、荷物もあるだろうしね?」

 「ありがとう。それから銀、実は来週、日本から母がパリにやって来るの」

 「お母さんが? それは良かったじゃないか?

 でも、ここで一緒に生活するには狭いかな? 俺は構わないよ。ソファで寝るから」


 銀河はそういう男だった。私の大切な人まで大切にしようとしてくれる。


 「ありがとう銀。でもそれじゃあ母が落ち着かないわ。それに私たち、重なれないわよ?」

 「1週間位の滞在だろう? 我慢するよ」

 「それじゃ私が我慢出来ないの! それに「私もあなたたちとパリに住む」なんて言いかねない人だから」

 「あはは。それならもう少し広いメゾンに引っ越さないと」

 「そうね? うふっ」



 マリア・カラスも何人かの男と恋をしたが、あまり長続きはしなかった。

 それは彼女の音楽に対する想いを、彼らが理解しようとしなかったからだ。いや、しなかったのではなく、「出来なかった」という方が正しいかもしれない。


    歌うことがすべて


 だということを。

 彼女の愛は、それに見合う男でなければその愛を受け取ることは出来なかった。


 指揮者のセラフィン、実業家のメネギン、そして最後に愛したギリシャの海運王、オナシス。

 彼女の愛を受け入れることが出来たのは、一介の電話交換手から成りあがった同じ境遇を持ったオナシスだけだった。

 だが、彼にとってマリア・カラスはただの愛人としての存在だった。




 ホテルで清算を済ませ、私は新たに母の部屋を予約した。

 

 「来週から私の母がお世話になるからよろしくね? アラン」

 「かしこまりました。Mademoiselle がいなくなってしまうのは寂しいですが、代わりにMadam海音寺に当ホテルをご利用いただけるのであれば、それはとても喜ばしいことです」

 「ありがとうアラン」

 「琴子様はこれからはどちらへ?」

 「この人のメゾンに居候することにしたの。近くだからまた寄らせてもらうわね? 母のこともあるし」

 「それは良かった。彼なら安心です」

 「どうして?」

 「この仕事を長年しておりますと、人を見る目だけはあるつもりでございます」

 「そう言ってもらえると嬉しいよ、アラン。俺は彼女にハートを撃ち抜かれてしまったんだ」

 「存じておりますよ、それが何よりの信頼でございます」



 

 毎日があっという間に過ぎて行った。

 朝起きてお掃除にお洗濯、そして近くの公園でのエクササイズと歌のレッスン。その後はいつものカフェで彼はジン・ライムを飲み、私はエスプレッソとマドレーヌの朝食を摂った。

 パリを散策し、家で本を読んだり音楽を聴いたりして銀河とまったりと過ごす時間。

 夕食ではたくさんお話をして、一緒に眠るだけの生活。

 私は本当のしあわせを知った。

 しあわせとは。


    しあわせを感じること


 なのだと。





 銀河と一緒に母を空港に迎えにやって来た。


 「ママーっ! こっちこっち!」


 私は入国ゲートからスーツケースを牽いて来る母に大きく手を振った。

 母も私たちに気付き、手を振り返した。


 

 「迎えに来てくれてありがとう」

 「飛行機は揺れなかった?」

 「シベリア上空で少しだけ」


 そして母は銀河を眩しそうに見て言った。


 「初めまして、海音寺久子と申します。いつも娘がたいへんお世話になっているようで、ありがとうございます。

 私、先生のファンなんです! まさかパリで先生にお会い出来るなんて、しかもこんな形で光栄です!」


 銀河はめずらしくボサボサの頭を掻いて照れていた。


 「流石は琴子さんのお母さん、とてもお綺麗ですね?

 初めまして、星野銀河です。こちらこそ娘さんには大変良くしていただいています。宜しくお願いします」

 「あら綺麗だなんて、正直な先生。あはは。琴子、良かったわね? 森田先生とお近づきになれて」

 「ありがとうママ。疲れたでしょう? 取り敢えずホテルに荷物を置いて、お食事に行きましょう」

 「そうね? ご飯はママが御馳走するわ」

 「やったー! ママありがとう! じゃあなるべく高い物をご馳走にならなきゃ。ねえ銀?」

 「銀? あなた先生のことを「銀」なんて呼んでいるの?」

 「そうよ」

 「あははは、そういうことです」


 銀河も笑っていた。


 タクシー乗り場に向かって歩いていると、母がこっそり私に耳打ちした。


 「先生、お酒臭いけど酔ってるの?」

 「今日はたまたまよ」


 私は母を心配させまいと、嘘を吐いた。


 ド・ゴール空港には少し、雪が舞い始めていた。


 パリには冬が訪れていた。


第18話 ジャンヌダルクの私

 ホテルでチェックインを済ませ、あの銀河の馴染みのビストロに母を案内した。


 「いかにもパリのビストロって感じの素敵なお店ね?」

 

 いつものようにキアヌが笑顔で私たちを迎えてくれた。

 私はこのギャルソンのことを勝手に「キアヌ」とニックネームを付けて呼んでいた。映画俳優のキアヌ・リーブスに似ていたからだ。


 「やあシルバー! 今日は両手に薔薇の花束を抱えてのご来店、誠にありがとうございます! いつもの君たちの「恋人たちのテーブル」はちゃんと空けておいたよ」

 「そりゃそうだ、今日は予約して来ているんだからな。あはははは」

 「あはははは。予約? 忘れていたよそんな古い言葉。

 Diva、こちらは君の姉上かい?」

 「私の恋仇よ。うふっ」

 「それは穏やかじゃないな? お店だけは壊さないでくれよ、バトルなら外で頼む」

 「気を付けるわね?」

 「あら琴子。このギャルソンさん、キアヌ・リーブスみたいじゃない?

 いつハリウッドからパリへ?」

 「映画にボクの出番がない時はここでバイトしているんですよ。Mademoiselle。どうぞご#贔屓__ひいき__#に。

 あなた様はパリに映画の撮影ですか? 美人女優さん?」

 「カンヌの映画祭に行く途中に寄ったのよ、このビストロがパリで一番のお店だとの評判を聞いて」

 「Bravo! 後でサインをお願いします!」

 「よろこんで」


 キアヌは私たちをいつもの席に案内してくれた。


 「琴子のお姉さんって言われちゃった」

 「おまけに映画女優だもんね? #お姉ちゃん__・__#、今日も綺麗よ」

 「ありがとう琴子」

 

 母はとても上機嫌だった。母のこんなしあわせそうな顔を見たのは初めてだった。


 「ここのお店はね、何を食べても美味しいのよ」

 「俺と同じこと言ってる」

 「ホントだ。あはははは」


 母はメニューを見ながら言った。


 「今は牡蠣の季節よね?」

 「ママ、牡蠣は苦手じゃなかったの? 私と同じで?」

 「最近克服したのよ。ほら、あの「ざます」の奥様たちとの会食も多いから。

 それにフランスの牡蠣は日本の牡蠣みたいにあの独特の臭みがないし、小粒でクセがないのよ。

 でも長旅で疲れているから生は止めておくわ」

 「では『牡蠣のシャンパーニュ』はどうですか?」

 「流石は先生、よくご存知ね? 牡蠣をシャンパンで蒸してオランディーヌ・ソースを掛けたあれね?」

 「えっ、シャンパンで牡蠣を蒸しちゃうの? 勿体ない」

 「じゃあまずはそれを。いいわよ、どうせママが払うんだから。それからシャンパンもお願い。乾杯しなきゃね?」


 銀河は「ラム・チョップの香草焼き」を注文し、私はいつもの平目のコンフィーにした。



 私たちはシャンパンで乾杯をした。


 「この『牡蠣のシャンパーニュ』、すごく美味しいわ。

 琴子も少し食べてみる?」

 「じゃあ、ちょっとだけ」


 私はそれにナイフを入れると、端だけ少し食べて後は銀河に回した。


 「銀も食べてみる?」

 

 銀河はそれをフォークに乗せ、一口で食べた。


 「これはシャンパンに合いますね?」

 「よろしければ先生もオーダーして下さいね?」

 「ありがとうございます。では遠慮なく。

 あのー、お酒も宜しいですか?」

 「もちろんです、気が利かなくてごめんなさいね?」

 「では、アルザスの白を」

 「みんなでいただきましょうか? 私も早く時差ボケが治るように飲まなきゃね? うふっつ」

 「シャンパーニュの一大醸造元はパリの北部にあるReims(ランス)なんだ。イギリスとの百年戦争でオルレアンを解放したジャンヌ・ダルクが、王太子だったシャルル7世を導いて戴冠させた場所でもある」

 「私、以前占い師から「あなたの前世はジャンヌ・ダルクです」って言われたことがあるの。面白いでしょ? 私があのジャンヌ・ダルクの「生まれ変わり」よ。あはははは」


 銀河はシャンパングラスを一気に空けると、


 「確かに君はジャンヌ・ダルクだよ。俺を苦悩から解放してくれたんだから」

 「あなたたちの話を聞かされていると、ママの方が熱くなって来ちゃうわ。あー、アツいアツい」


 母はお道化て自分の手で自分を扇いで見せた。


 「あはははは。ごめんねママ、さあ、今日は食べて飲みましょう。そして明日はゆっくりとパリの街を散策しましょうよ。

 ママの行きたいところへ連れて行ってあげるから」

 「そうねー? ノルマンディーの港町、Dieppe(ディエッペ)にも行きたいんだけど。知り合いがいるのよ、絵描の」

 「昔の恋人とか?」

 「ううん、「恋人になりかけた人」かな?」


 母は少女のようにはにかんで笑って見せた。



 「すごく美味しかったわ。お酒も沢山飲んだし、これで時差ボケも早く良くなりそう。お会計をして頂戴」

 

 すると銀河は母を制した。


 「今日は私にご馳走させて下さい。久子さんの歓迎会ということですので。

 久子さんにはもっと高級なお店でご馳走になりますから」

 「それじゃあ今度は私にご馳走させて下さいね? 娘もお世話になっていることですし、お礼をしないと。

 久しぶりに見ました。心から笑う娘の笑顔を」

 「そう言っていただけると嬉しいです」


 銀河はキアヌを呼んでチェックをし、チップを渡した。


 「いつもありがとう、シルバー。

 あのテーブルはたとえフランス大統領が来ても座らせないよ」


 彼はそう言って彼にウインクした。


 「おやすみなさい、美しき薔薇」

 「おやすみなさい、キアヌ」

 

 




 私は銀河をロビーに待たせ、ホテルの部屋まで母を送って行った。


 「明日、お昼過ぎに迎えに来るから」

 「良かったわね、琴子。先生と出会えて。

 あんなジェントルマンはそうはいないわよ。頭はボサボサだけど。うふっ。

 今度こそ、しあわせになりなさい。もちろん音楽も続けて」

 「本当にやさしい人よ、銀河は」

 「今日はすっかりご馳走になっちゃったわね? 先生に宜しく言っておいてね?」

 「うん。彼はいつも絶対に私にも支払いをさせない人なの」

 「今どきめずらしいわね?」

 「色んなことを知っているし、すごく私のことを大切にしてくれるの。

 ママがパリに来ると言った時、「ウチに泊まってもらってもいいよ、俺はソファで寝るから」って言ってくれて。私の大切なママも大切にしてくれる人なの。

 「パリで同居するならもっと広いメゾンに引越さないとね?」なんて言ってくれるのよ」

 「それ、いいかも。ママも琴子たちとパリで暮らしたいなあ」

 「私と銀河は大歓迎よ」

 「あの人は、私がいなくても別に困らないようだし・・・」


 母は急に寂しそうな顔をした。


 「ほら、銀ちゃんが下で待っているから早く行きなさい、待たせちゃ悪いわよ」

 「うん、ママもゆっくり休んでね? おやすみママ」

 「気を付けて帰るのよ。おやすみ、琴子」




 「銀、お待ちどうさまー。 お家に帰ろう。ママ、凄く喜んでいたわ。銀に「よろしく」って。

 お酒も飲んだからグッスリ眠れると思うわ」

 「それは良かった」




 私たちは家に戻り、シャワーを浴びてベッドに就いた。


 「今日はどうもありがとう。疲れたでしょう?」

 「大丈夫だよ。琴子のお母さんらしい人だね? 久子さんは?

 やさしくて知性もあって美人で」

 「私の自慢の母なの。そして私の良き師匠」

 「師匠かあ? いい師匠だね?」

 

 私は銀のパジャマをトランクスごと脱がした。


 「今日のお礼をしてあげる」

 「いいよ、今日は琴子も疲れただろうし」

 「平気よ、スッキリさせてあげる。そのまま飲んであげるからお口に出してもいいわよ」


 私は銀にたっぷりと「ご奉仕」をしてあげた。



 「ねえ、今度は私にもご褒美ちょうだい」

 「舐めて欲しいの?」

 「違うでしょう? そこまで言わすな! い・れ・て」



 私たちは愛を重ねた。


 私はジャンヌ・ダルクのように銀河に騎乗し、彼と一緒に天国へと駆けて行った。


第19話 昔の恋

 バスタブにゆっくりと浸かり、ベッドに横になったが中々眠れなかった。

 12時間のフライトと、よく飲んで食べた私だったが時差ボケなのだろうか? いや、そうではない。なぜか嫌な予感がしていたからだ。


 (彼はアル中なのかしら?)


 どうしても森田人生の表情が気になっていた。

 深い哀しみを背負ったようなあの悲しそうな瞳。

 それが何なのかは分からないが、私の胸騒ぎは収まらなかった。

 あんな嬉しそうな娘に、そんなことは言えるはずもない。

 そんなことを考えているうちに夜が明けてしまった。

 私は一睡もすることが出来なかった。





 俺は隣で寝ている琴子を起こさないように静かにベッドを離れ、キャビネットからラム酒を取り出して飲んだ。

 次第に酒の量が増えていた。

 俺は消え掛かった暖炉に薪を焚べると暖炉の前のファザーズ・チェアに座り、ただ炎を見詰めていた。


 (これでいい、これでいいのだ)


 俺はキャビネットの上にある、詩音の写真を見た。


 (詩音、俺は今、とてもしあわせだよ)


 フォトスタンドの詩音は笑っていた。



 「起きたの?」


 琴子がそのままベッドから声を掛けて来た。


 「ごめん、起こしてしまったね?」

 

 すると彼女はガウンを羽織り、私の膝の上に乗った。

 

 「ねえ、ママの言っていたDieppeってここから遠いの?」

 「クルマで片道3時間くらいかな?」

 「どんなところ?」

 「ドーバー海峡に近い、中世の面影が残る美しい港町だよ。今日はお母さんの行きたい場所を案内して、ディエッペには明日行こう」

 「銀はお酒を飲みたいでしょうから私が運転するね? レンタカーを借りて行きましょうよ」

 「琴子の運転では心配だ。パリの連中は運転が荒いから。

 明日は知り合いのミッシェルに連れて行ってもらうつもりだ」

 「良かった。ホントはね、少し自信がなかったの。クルマの運転」


 琴子は俺の胸に顔を寄せた。

 彼女の髪からやさしい香りがした。


 「重くない?」

 「たった35?の君がかい?」

 「じゃあもっと太る。しあわせ太りになる」

 「あはは。重くなったらお前を抱えて出来なくなるじゃないか?」

 「銀のエッチ」


 暖炉の炎が赤く燃えていた。





 

 琴子の母親のリクエストでルーブルに行くことにした。



 「ルーブルは何回来ても飽きないわね?」

 「しっかり見ようとしたら、一生かかっても無理だもんね?」

 「今日は『サモトラケのニケ』が見たいの。それだけで今日はいいわ」

 「どうして?」

 「だってファミレスのメニューを最初から全部なんて食べられないでしょう? それと同じよ」

 「ママ、銀と同じこと言ってる」

 「あら、先生も?」

 「そうですよね? 八宝菜の後に天ぷら蕎麦を食べてステーキ、パフェを食べて味噌ラーメンを食べるようなものですからね? 芸術鑑賞は食事と同じです」

 「音楽もブラームスの後に北島三郎は聴かないもんね? あはは」

 「特に美術鑑賞にはゆっくりと時間を掛けないと。一日では到底無理よ」




 勝利の女神、ニケはダリュの大階段の踊り場で俺たちを待っていてくれた。



 「このニケはまるで生きたまま石になったみたいね? 今にも翼を羽ばたいて飛んで行きそう」

 「腕も頭もないのが、返って創造力を掻き立てられるようだわ」

 「ギリシャ神話の勝利の女神、ニケ。スポーツメーカーのNIKEはこのサモトラケ島で発見された、この女神像に由来している。

 発見時は胴体しかなく、周りに残っていた右の翼などを基に復元された物だ。

 船の舳先に航海の安全を祈願して祀られていた物らしい。

 ちなみに映画『パリの恋人』でもここでのシーンが撮られ、あの映画『タイタニック』のケイト・ウインスレットが舳先でデカプリオに支えられて取るあのポーズは、このニケを真似たものだ」

 

 母はニケの女神像の前で手を組み、祈りを捧げた。


 「ママ、何をお願いしたの?」

 「内緒。さあ行きましょうか?」

 「今度はどこへ?」

 「サンジェルマン・デュ・プレよ」



 ルーブルを出る時、俺はちょっとだけ、ある絵画の前で足を止めた。

 デューラー作『アザミを持った自画像』だ。


 アザミは「キリストの受難」を表わしている。

 そしてこの自画像の上部には、



    我こそは天の定めしままに



 とドイツ語で書かれている。

 今の俺にはこのデューラーの心境がよく理解出来る。





 

 『カフェ・ド・フロール』にやって来た。

 ここは『デュ・マゴ』と並び評されるカフェの老舗である。


 「ピカソ、ダリ、サルトル、ボーヴォワール、コクトーらが集い、議論を交わしていた春の女神「フロール」という名のカフェ。

 サルトルはボーヴォワールとよくここを訪れ、「ここに同棲しているようなものだった」と言わしめるほどの常連だった。

 ここには名物ギャルソンの日本人、山下哲也氏がいる。

 文化大臣だったジャック・ラング、オランド大統領からはエリゼ宮での公式晩餐会にも招待され、同僚のギャルソンからは「マスター」と呼ばれている日本人だ。

 フランスでのギャルソンはただの給仕ではない。誇り高い職業なのだ。白人以外でギャルソンになれたのは山下さんだけだ。

 フランスの理念である「自由、平等、博愛」の精神がこのカフェには生きている」

 「このお店はディエッペにいる画家の彼との思い出の場所なの。

 私はショコラ・ショーとウエルシュ・レアビットをお願い。レアビットはグラタンなんだけど、量が多いからみんなでシェアして食べましょう。すごく美味しいのよ」

 

 母はその男性との思い出を見詰めるかのように、うっとりと遠い目をしていた。



 「私もショコラ・ショーがいいな。寒いし」

 

 俺はギャルソンを呼び、琴子とお母さんの注文と、ジン・ライムをオーダーした。


 「先生はお酒がご飯なのね?」

 「ええ、そんな感じです」


 琴子は俺に気を遣い、話題を変えようとした。


 「このお店でママはその彼と愛を育んだわけね?」

 「友だちで終わったわ。もしそうなっていたらあなたは生まれて来なかったかもしれないわよ」

 「ママは好きだったの? その絵描さんのこと?」

 「どうかしらねー? 昔の事でもう忘れたわ。

 でも、彼と一緒にいるとすごくラクだった。何でも話せる仲だったから。

 当時私は駆け出しのピアニストで、彼は売れない貧乏画家。

 貧しかったけど楽しかった」

 「明日、ディエッペに行きませんか? クルマと運転手は手配しましたから」

 「チャーター料は請求して頂戴ね?」

 「友人なのでタダですからご心配なく」

 「でもガソリン代くらいはお支払いしないと」

 「彼にはいつも、酒という名の「ガソリン」を入れていますから気にしないで下さい」

 「ありがとう先生、早々と段取りをしてくれて」

 「片道に3時間かかるそうだから、向こうにはお昼くらいに着くように、9時には出発するから準備しておいてね?」

 「悪いわね? 私のために付き合わせてしまって」

 「ディエッペは私も初めてだから楽しみ。それにママの元カレも気になるし。

 『ドーバーのホワイト・クリフ』が見えるのね? その絵描きさんには連絡したの? パリに行ったら逢いに行くと」

 「日本から絵ハガキを送っておいたわ。彼、携帯を持っていないそうだから今夜、ホテルに帰ったら電話しておくわ。「明日のお昼にそっちに行くから、みんなで一緒にご飯でも食べましょう」って」


 俺はその時、肝臓が少し張っているように感じた。

 あともう少し、あともう少しだけ持っていて欲しいと願った。

 既にサンジェルマンの大通りには夜の帳が降りていた。





 ホテルに帰った久子は彼に電話を掛けた。


 「お久しぶり、久子よ。パリに着いたから明日、そっちに娘と、娘の彼氏と三人で行くから宜しくね? お昼でも一緒に食べましょうよ」

 「本当にパリに来たんだね? 外食はしなくていいよ、僕の手料理を振舞うから」

 「そう? なんだか楽しみだなあ。あれからもう30年だもんね?

 お婆ちゃんになった私を見て、幻滅しないでね?」

 「それは俺の方だよ。嫌われちゃうだろうな? 久子に?」

 「じゃあ明日、お邪魔するわね?」

 「気を付けて来るんだよ」

 「ええ、楽しみにしているわ。お爺ちゃんになった悟を見るのが」

 「あはははは、おやすみ、久子」

 「おやすみなさい、悟」


 電話を切った私は年甲斐もなく、早く明日にならないかと思った。

 夕べは一睡も出来なかったせいか、私はすぐに深い眠りに落ちて行った。


第20話 ドーヴァーの白い壁

 クルマはフランスの田舎道を走っていた。

 広大な牧草地や葡萄畑、点在するシャトー。


 (悟に会える)


 悟がお爺さんになっても私は気にしないが、彼はどうだろう?

 若く見えるとはいえ、もうあの頃の私ではない。

 琴子たちには恋人ではないと言ったが、私と悟はパリで同棲していたのだ。

 女としての悦びに目覚めたのは悟がそうさせた。

 ピアノと彼の絵と小さなテーブル、そしてベッドがあるだけの小さな部屋。

 だがそこには沢山の愛と悦びが詰まっていた。

 私は今、過去に向かって走っているのだろうか? それとも未来へ?



 「だから俺は彼女に言ってやったんだ、「パンとワインとチーズは買った、あとは花だけだ」ってな? そしたら彼女「お花はいらないでしょう?」って言うんだよ。「花がなきゃ食卓にならねえだろう?」って言うと彼女は言った。「お花ならここにあるでしょう? 私と言うお花が」って俺にキスしてくれたんだ。その日から俺は彼女と一緒に暮らしている」

 「結婚するの?」

 「わからない。するかもしれないし、しないかもしれない」

 「彼女さん、可哀そう。赤ちゃんとかはどうするの?」

 「欲しくなったら作ればいい。もちろん俺たちで育てるよ」

 「結婚もしないで? 子供はどうなるの?」

 「逆になんで日本人はそんなに結婚に拘るんだい? 結婚なんてただの契約だろう? それに愛が永遠かどうかなんてわかりはしねえよ。愛することはお互いに自由だろう?」

 「フランス人にはそういう考えが多いんだよ」



 この詩人はさっきのトイレ休憩に寄った店で買った、ポケットウイスキーを飲んでいた。

 私は娘が不憫に思えて、つい彼に問い質してしまった。


 「先生は娘と結婚するんでしょう?」

 

 琴子は聞こえないふりをしていたが、固唾を飲んで彼の返事を待っていた。

 彼の答えは意外なものだった。


 「こんな飲んだくれの詩も書けなくなった森田人生と、娘さんは結婚してくれるとは思えませんけどね?」


 そう言って彼はまた酒を呷った。


 「琴子はどうなの? 先生と結婚したいわよね?」

 

 娘は少し考えてから、慎重に言葉を選んで言った。


 「私は別にこのままでもいいよ。中古車だし」

 「琴子、俺も中古車だよ」

 「そうだった! 私たちって傷だらけのポンコツだもんね? あはははは」


 ミッシェルがいたので、私たちはフランス語で話しをした。

 気まずい雰囲気を察してくれた彼は、音楽を掛けてくれた。

 ミッシェル・ポルナレフ、『愛の休日』

 粋な男だと思った。そう、娘たちには「愛の休日」が必要だったのだ。お互いに本当の自分を見つめ直す時間が。


 「なつかしいわね? ポルナレフなんて。若い頃よく聴いたわ」

 「久子はそんな歳には見えねえけどな? でもいいだろう? ポルナレフは。俺と同じミッシェルだしね? あはははは」


 


 いつの間にか景色は、田園地帯からハーフティンバーの家々が並ぶ田舎町に変わって行った。

 悟の住む街、Dieppeに近づいているようだった。




 「この辺りなんだけどなあ」

 「電話してみるわね? あっ、もしもし悟? 近くまで来たんだけど」

 「ちょっと待ってて、今、通りに出るから」


 すると背の高い男が建物から出て来た。

 長い髪、それは遠くからでも分かる見覚えのある姿、悟だった。

 高鳴る心臓と不安。

 彼はあまり変わってはいないようだったが、少し会うのが怖い気がした。

 私はバッグからすぐにコンパクトを取り出し、髪型を指で整えた。



 パッシングをしたミッシェルに気付いた悟は、大きく手を振って私たちのクルマに駆け寄って来た。

 後部座席の私を微笑んで覗き込む悟。

 私は窓を開けた。


 「パリから大変だったね? さあみなさん、あの建物が私の家であり、アトリエです」


 懐かしさに泣きそうになった。白髪も目立ってはいるが、綺麗な瞳はあの時のままだった。

 だが、新たな不安が私の脳裏をかすめた。


 (こんな素敵な画家の彼がひとりでいるわけがない。

 家に行くとフランス人の若くて美人な奥さんがいるかもしれない)



 私たちは家の前の石畳にクルマを停め、悟の後に続いた。

 

 「ようこそ我が家へ」


 広いサロンには暖炉が赤々と燃え、テーブルにはたくさんのお料理とワインが並んでいた。


 「さあみなさん! 適当に座って下さい! まずは乾杯をしましょう! グラスをお手にどうぞ!

 ドライバーさんは何がいいですか?」

 「俺はミネラルウォーターでいいよ、Monsieur」

 「悪いね? みんなで泊まってくれてもいいんだよ」

 「残念だけど、明日は大統領とエリゼ宮で晩餐会なんだ。シルバーたちは泊めてもらえよ、後で迎えに来てやるから」

 「それは失礼。ではみなさん、取り敢えず乾杯を!」

 「Cin,Cin!(乾杯)」



 私たちの会話はフランス語と日本語のチャンポンだった。

 だが、私はフランス語の単語が出て来ない。


 「驚いたよ久子! 君はあの頃のままだ!」

 「ありがとう悟、お世辞でもうれしいわ。

 あなたも素敵なダンディになったわね?」

 「ありがとう。さあみんな食べて飲んでくれ。味は保証するよ。なにしろ僕はずっとひとりで料理をしている#シェフ__・__#だからね? 何十年も自分のためにね?」


 そう言って悟はフランス人のようにウインクしてみせた。


 「美味しそう! いただきまーす!」


 そう言って琴子は野菜だけを口にした。


 「このお二人が久子の娘さんの琴子さんで、そしてあなたがあの詩人、森田人生さんですね? 先生の詩集、『魂の叫び』は僕も持っています。後でサインして下さい」

 「もう詩人ではありませんけどね? ただのアル中です」


 そう言って詩人は自嘲した。


 「初めまして、母の自慢の娘、海音寺琴子です。うふっ。よろしくね? 悟おじ様」

 「プリマドンナだそうですね? 是非今度、パリのオペラ座で歌って欲しい。オペラ座を薔薇の花、『マリア・カラス』で埋め尽くして差し上げますよ」

 「わあ楽しみ!」

 「ではジャガイモのポタージュを温めて来ますのでどうぞごゆっくり」


 私はホッとしていた。

 部屋には女がいる形跡は見当たらなかったし、そんなウソを吐くような悟ではないからだ。



 彼の取り分けてくれたポタージュに私たちは舌を巻いた。

 ミッシェルが叫んだ。


 「パリの『ル・トラン・ブルー』より美味いよ!」

 「褒め過ぎだよミッシェル君、僕はただの絵描きなんだから」


 画家としての彼の感性が、よく料理に反映されていた。

 彼の作った料理が五感を刺激する。


 「昔からお料理は得意だったわよね?」

 「高い食材は買えなかったからね? すべて画材に消えてしまったよ」


 私はその時、詩人の手が微かに震えているのに気付いた。




 食事を終えると、琴子が気を利かせてくれた。


 「私たちがいると昔の甘い思い出話も出来ないでしょうから、私たちは街をドライブして来るわね? じゃあママ、おじ様、ごゆっくり。2時間は戻っては来ませんから安心して下さい」

 「馬鹿ね? ラブホテルのお休憩じゃあるまいし。気をつけて行くのよ?」

 「はーい。悟おじ様、ママをよろしくお願いしまーす!」


 そう言って琴子たちは街へと出て行った。

 少し照れ臭かった。それは悟も同じだったようだ。



 「結婚しなかったの? あれから一度も?」

 「昔、惚れた女がいてね? 今でもその女を待っているんだ。

 俺の「永遠の片想い」だけどね?

 だってその女は「人の妻」になってしまったから」

 「人妻なんて、私は「物」じゃないわ」

 

 その時私は悟から突然抱き締められた。

 全身から力が抜け、溶けてしまいそうだった。


 「今でも久子が好きだ。すっと久子を待っていたんだ。そしてやっと夢が叶った。もう一生会えないと思っていた久子に逢えたんだ!」


 私はすぐに返事をすることが出来なかった。

 その代わり、悟にキスをした。


 「私を悟のお嫁さんにしてくれる?」

 「僕はいつまでも久子を待っているよ」

 「ここで悟と一緒に暮らしたい。昔のように」

 「ああ、いつでもおいで、待っているから」

 「じゃあ、今夜からそうさせてもらうわね?」

 「ホントかい! 日本に帰らなくてもいいのかい? ご主人はどうするの?」

 「どうしようかしらね? ふふっ。でも夫は喜んで祝福してくれる筈よ。私たちには最初から「愛」が無かったから。

 私、相変わらず寝相は悪いけど大丈夫かしら?」

 「僕も鼾を掻くよ、昔のようにね?」


 私たちは自然に口づけを交わした。古いフランス映画のように。

 それは忘れていた初恋のキスの味がした。


 

 (面倒なことは後でゆっくりと考えればいい)



 私のルーブルのニケにした願いは叶った。

 


   (彼がまだ、私を愛してくれていますように)


 

 悟はまだ私を愛してくれていた。このオバサンになった私を。


 私は悟とこのDieppeで暮らすことを決めた。

 同時に私は愛のない今の暮らしを捨てた。

 もう何もいらない、悟さえいればそれで。





 「母があんな乙女のような顔をするなんて驚いちゃった。

 あんなしあわせそうな顔を見たのは私が音大に合格した時と、私が初舞台を踏んだ時だけよ。

 父には愛人がいてね、母はそれからあまり笑わなくなってしまったの」

 「フランスじゃあ、めずらしいことじゃねえけどな?

 結婚と恋愛は別だろう?」

 「そんなのイヤ! 恋愛と結婚は一緒であるべきよ、ミッシェル」


 (琴子、俺が君と結婚しないのは、お前をバツ2にしたくないからだよ)


 「仏英海峡でも観に行くか?」

 「DoverのWhite・Cliffかあ。いいなあ、あの風」

 「シルバー、また詩が浮かぶかもな?」

 「そうだな?」


 俺たちは岬へと向かった。


 

 岬は夕暮れにオレンジ色に染まっていた。

 海からの風に俺たちは晒され、沖を通る沢山の船が見える


 ミッシェルが気を利かせてくれた。


 「俺はクルマで待っているよ。寒くなって来たからな?

 あー、寒い寒い」



 俺たちはミッシェルの後姿を確認すると、抱き合い熱いキスをした。


 「キスだけ?」

 「あとはパリに戻ったらな?」

 「今夜は寝かせてあげないかもよ?」

 「今日は1回も出来ないかもな?」


 俺は潮風に邪魔されながら、オイルライターで煙草に火を点けた。最高に旨い一服だった。


 「大丈夫、私が出来るようにしてあげるから」


 今日はかなり飲んだ。

 飲んだが酔えない気分だった。





 琴子たちが戻って来た。


 「どうだった? ディエッペの街は?」


 悟が自分の娘に話し掛ける様に琴子に訊ねた。


 「中世の香りのする素敵な街ですね? ドーヴァーのホワイト・クリフも絶景でした」

 「それは良かった。今日はここへ泊まっていけばいい」

 「駄目ですよー、今日は帰らないと。

 ミッシェルも明日お仕事だし」

 「あなたたちは帰っていいわよ。私はここに残るから」

 「じゃあ後で迎えに来るね? ゆっくりすればいいよ、ママ」

 「迎えには来なくていいわ。ママはパパと離婚して彼とここで暮らすことにしたから」

 

 琴子はホッとしたように微笑んだ。


 「ママのこと、よろしくお願いしますね? 「新しいパパさん」?」

 「琴子ちゃん・・・」

 「気を付けて帰るのよ」

 「うん。ママ、今度こそしあわせになってね?」

 「ありがとう、琴子。あなたもね?」

 「もちろん!」


 ゲボッ


 「銀!」

 「シルバー!」

 

 突然、詩人が吐血した。

 私の杞憂が現実となってしまった。

 

 「すぐに病院へ!」

 「ミッシェル、今日はありがとう! お礼は後でさせてね? 気をつけて帰って!」

 「俺も残るよ」

 「ありがとう、でも大丈夫だから。私が付いているから」


 

 私たちは悟のクルマに詩人を乗せ、病院へと急いだ。

 琴子はバスタオルを彼の口に当て、心配そうに彼の名を呼び続けた。すぐにバスタオルが血で真っ赤に染まった。


 「銀、がんばってね? もうすぐ病院だからね!」


 助手席の私はそんな娘を心配していた。


 (もしもこのまま・・・)


 私はその想いを必死に払拭しようとした。


第21話 愛の灯火

 病院に着くと、銀河はすぐにERに運ばれた。

 緊急処置を施され、私たちは担当医に呼ばれた。


 その医師は40才くらいの白人の外科医だった。


 「ご家族の方ですね?」

 「はい」

 「あなたは奥様ですか?」

 「婚約者です」


 私はそうはっきりとそのドクトルに答えた。

 すると彼は呼吸を整え、鎮痛な面持ちで言った。


 「彼の身体はカルテに病状が書き切れないほどの状態でした。よくここまで生きていられたものです。手術は出来ません」


 気を失いかけた私を母と悟さんが支えてくれた。

 母がドクトルに訊ねた。


 「あとどのくらいですか?」

 「何を言ってるのママ! 銀は死なないわ! 必ず治る!

 日本に連れて帰って絶対に私が治してあげる!

 フランス人の医者なんか出鱈目よ! 信用出来ない!」


 その外科医は静かに言った。


 「世界中のどんな医師でも、私と同じ意見だと思います。

 残念ですが」




 女子トイレで化粧を直し、鏡の前で笑って見ようとしたが駄目だった。笑うなんて無理。

 私は鏡に映る自分の顔を睨み付けた。


 「あなたのせいよ。銀がこうなったのは」


 直したばかりのお化粧が、また涙で崩れてしまった。





 ICUに移された銀河を私たちは見舞った。

 モニターに繋がれ、三本の点滴と輸血が施されていた。


 私は銀河の手を握り、酸素マスクをした銀河に語り掛けた。


 「銀、痛い?」


 彼は首を横に振った。


 「ゆっくり休んでね? あっちこっちに引っ張り回してごめんなさい」


 泣くまいと思ったが涙が止まらない。母が私の背中を摩ってくれた。


 「琴子・・・」

 「何? 銀ちゃん?」

 「ごめん、折角の久子さんたちの門出に・・・、水を、差して・・・しまって」

 「何を言ってるの! あなたのお陰で私は悟と再会出来て、また人生を遣り直すことが出来るのよ! 先生は私たちの恩人よ!」

 「良かった・・・、久子さんと悟さんがしあわせにな、れて・・・」

 「ありがとう先生。早く日本の病院で診ていただきましょう。私も一度、日本に戻ってやらなければならないこともあるし、うちはクリニックだから優秀な医者も大勢知っているわ。それに娘の琴子もついているから大丈夫、安心して治して下さいね?」

  

 銀河は力なく頷いた。


 「琴子、先生を少し休ませてあげましょう」

 「ママと悟さんは帰ってもいいよ。私はここに残るから」

 「じゃあ明日、入院に必要な物を持って来てあげるわね?」

 「ありがとう、ママ」



 私は病院で一晩中泣いた。




 

 銀河はICUから一般病棟に移された。


 「銀・・・」


 私は銀のモジャモジャの頭を撫でた。

 顔が冷たくなっている。

 銀河が私の手を握った。

 私は銀河の手を両手で包んだ。


 「みんなに迷惑を掛けてしまったね? もちろんお前にも」

 「誰も迷惑だなんて思ってないよ、早く良くなって日本に帰ろう」

 「琴子、寝てないんだろう? 少し眠るといい。ほらここに頭を乗せてご覧」


 私は銀河の胸の上に頭を乗せた。

 銀河はやさしく私の髪を撫でてくれた。子供の頃、母がそうしてくれたように。

 いつもの銀河の感触ではなかった。すごく胸が薄く感じた。

 私は嗚咽した。


 (銀河が死んじゃう。そんなのイヤ。絶対にイヤ!)


 そんな私に銀河は背中をトントンしてくれた。


 「ごめんね? お前に声を掛けたばっかりに・・・。

 好きになってごめん・・・」

 「何を言っているの? 好きになったのは私の方よ。

 私こそごめんなさい・・・、ボロボロの身体なのに、お酒を取り上げることもせず、お医者さんにも連れて行ってあげなくて。

 私は怖かったんだと思う。あなたが普通の男になってしまうことが。

 あなたがこうなったのは私のせいよ。そしてあなたが詩人でいられなくなったのも私のせい・・・」

 「もしお前が俺から酒やタバコを取り上げたら、俺は琴子と別れていたよ。詩が書けなくなったのは決して悪いことじゃない、それは俺がお前から愛されて幸福になったからだ。ありがとう、琴子」

 「ありがとうなんて言わないで! もう会えないみたいじゃないの!」

 「俺は大好きなパリで死ぬつもりだった。でも出来なかった。

 俺は詩音を忘れるために酒に溺れた。

 自らの手で命を絶つほどの勇気もない弱虫な俺は、琴子に出会うまではただの生きる屍のようだった。

 負け惜しみではなく、本当に俺は今、しあわせなんだ」

 「私、銀のためなら何を捨てても構わない。なんでも捨てることが出来るわ。歌だって辞めてもいい。命もいらない。あなたが好き、銀が大好き!」

 「琴子、俺もお前が好きだ。いや、愛しているんだ、とても」

 

 銀河は私を優しく抱き締めてくれた。


 「私も銀のことをすごく愛している。うれしいの、銀河が初めて私を「愛している」と言ってくれたことが」

 「愛しているの言葉は重い。気軽に口にしてしまうとそれが嘘になってしまう。

 俺は愛した女を亡くし、失意のどん底にいた。

 それを救ってくれたのはお前、琴子だ。

 お前は言ってくれた。人は病気や事故で亡くなるのではなく、寿命で死ぬのだと。そして死は必ずすべての人間に平等に訪れる。それが早いか遅いかの違いだけだと

 これが俺の寿命なんだ。

 出会いと別れはいつもワンセットだ。どんな物語も始まれば必らず終わる。

 だからお願いだ、俺がいなくなっても悲しまないでくれ。

 琴子はこれからもソプラニスタとして歌い続けて欲しい。

 人生は振り子のような物だ。幸福と不幸の間を同じ振り幅で揺れている。

 そして今、俺の振り子はニュートラルになった。プラマイ・ゼロにね? だから後悔はない」

 「いやよ! あなたが死んだら私も死ぬって言ったでしょう!」

 「人はひとりで生まれ、ひとりで死んでゆくものだよ。それが定めなんだ。

 琴子はこれからの人生を精一杯生きてくれ。

 そして今度は俺よりももっといい奴としあわせになって欲しい。俺の分まで輝いて欲しいんだ。お前は歌姫、ディーバなんだから」

 「そんなこと言わないで!」


 (私は今まで人を恨んだり、妬んだりしたこともない。

 真面目に誠実に生きて、歌い続けて来たのよ。

 それなのにどうしてこんな残酷な目に遭うの! 私が何をしたと言うの!)


 銀河の目から、一筋の涙が零れた。





 

 私と悟は詩人の入院に必要な下着や身の回りの物を買い揃え、朝一番で琴子と看護を交代するつもりだった。

 琴子は寝ていないはずだから、明日はベッドで寝かせてあげたかった。



 彼のアトリエに戻って来た。

 私たちはそれぞれにシャワーを浴び、一緒にベッドに入った。

 悟の髪から懐かしい油絵具の匂いがした。


 「大変な一日だったね? 疲れただろう?」


 彼は私を抱き寄せた。


 「私ね、彼が具合が悪い事は気付いていたの。

 でもそれを娘には言えなかった。聞いてくれないのは分かっていたから。琴子は彼のすべてを受け入れた。彼の全部が好きだったのよ。

 これからの琴子のことが心配だわ」

 「僕たちが見守ってあげよう。琴子ちゃんのことは」

 「ありがとう、悟」


 悟の手が私の弛んでしまった乳房に触れた。

 

 「明かりを消して頂戴」

 「久子の顔が見えなくなってしまう」

 「子供を産んだ体だから、恥ずかしいの」

 「愛しているんだ、君のすべてを」

 「ふふっ、痛くしないでね? もうずっとご無沙汰だから」

 「それはお互い様だよ。久子、お願いがあるんだ」

 「何? して欲しいの?」

 「君のヌードを描きたい」

 「それはダメ、もうきれいじゃないから」

 「君は十分きれいだよ、美しい」



 私たちは遠回りした時間を埋めるかのように、大人の交わりを始めた。

 私はまだ自分が女であることが嬉しかった。





 病院に行くと、娘は瞼を泣き腫らしていた。

 私は娘を抱き締めた。


 「悟が琴子のために、病院の近くにホテルを取ってくれたから、お風呂に入って少し寝て来なさい。ここに買って来た着替えとか入れておいたから」

 「ありがとう、ママ。でも私は平気よ、銀の傍にいてあげたいの」

 「あなたが無理をして、今度はあなたが倒れたらどうするの?

 すぐにどうなるわけじゃないんだから、あなたがしっかりしないと駄目よ。

 それに琴子の大切な彼は、私たちの大切な家族でもあるんだから。

 先生を独り占めなんてズルいわよ。私たちにも詩人「森田人生」のお世話をさせて頂戴」

 「ママ」

 「琴ちゃん、僕たちは家族じゃないか?」

 「おじ様」


 銀河は言った。


 「久子さんと悟さんに甘えさせてもらおう。俺は君に倒れられると困るからね?」

 「銀・・・」

 「さあ行きなさい、あそこのホテルよ」

 

 私は病室から見えるホテルを指差した。


 「ありがとうママ、悟おじ様」

 「少し休んでいつもの美人な琴子を先生に見せてあげなさい。

 お化粧も崩れて酷い顔よ、瞼も腫れているし」

 「銀、しっかり治してね。安静にしているのよ」

 「ハイハイ、琴ちゃん」

 「ハイは1回よ」

 「そうだったね?」

 

 琴子は頷いて病室を出て行った。



 「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません」

 「迷惑だなんて思ってないわ。むしろ嬉しいくらい。

 だって私も悟も森田人生のファンなんだから。

 そして琴子の大切なお婿さんだしね?」

 「ありがとうございます」

 「とにかく、先生の言うことをよく聞いて、早く退院しましょう。

 何か欲しい物はある? お酒以外よ、うふっ」

 「詩集をお願い出来ますか?」

 「誰の? ご自分の?」

 「いえ、私の詩集はここの本屋にはありませんよ。

 ランボーの詩集をお願いします。彼のものなら何でもいいです」

 「わかったよ、ランボーだね? 用意して来よう」

 「すみません」


 銀河は私にお金を渡そうとした。

 私はそれを受け取らなかった。

 

 「先生にはたくさんお金を出してもらったわ。本くらい買わせて」

 「受け取って下さい。もう私にお金は必要がないので」

 「馬鹿なこと言わないの! あなたには娘をしあわせにしてもらわなければならないのよ!」


 彼は虚ろな瞳で窓の外を見ていた。

 お札を持った手がだらりと下がり、ユーロ紙幣が床に落ちた。


 私はそれを拾い、貴重品ボックスの中に戻した。


 「じゃあ行って来るわね?」

 「・・・」



 彼はすでに生きる気力を失っていた。


最終話 音も光も消えた世界

 入院して3日目。明日、銀河は退院させられることになった。


 「残念ですが、やれるだけのことはしました」


 落胆したように医師は言った。

 ここはアジア人の延命を図るところではないらしい。


 「先生、彼はあと、どのくらい?」

 「止めてママ! またそんな話!」

 「・・・」

 「銀は死なないわ! 私が銀を死なせはしない! 奇跡は必ず起きるの! 私と銀がパリで出会ったように!」




 私たちは病室に銀河を見舞った。


 「銀、明日退院で良かったね? 悟おじ様がパリまでクルマで送ってくれるそうよ」

 「ご迷惑を掛けてすみません。ありがとうございます」

 「礼には及ばないよ、僕も久しぶりにパリで久子とデートをしたいしね。そのついでだよ、先生たちをパリに送るのは。あはははは」


 悟さんはお道化て母の手を握ってみせた。


 「楽しみだわ、オルセー美術館にもまだ行ってないし」

 「明日の退院の時の着替えはここに入っているからね?」

 「ありがとう。今日は明日のロングドライブに備えてゆっくりと休むから、琴子もホテルに帰っていいよ」

 「そう? じゃあ明日、迎えに来るからね?」



 そして私たちは病院を後にした。

 だがそれが、自分が一生後悔することになるとはその時微塵も思わなかった。






 その夜、俺は琴子が持って来てくれた服に着替えると、こっそり病院を抜け出し、フェリー埠頭へと向かい、船に乗船した。静かな海だった。行き交う多くの船舶、街の明かりが見えた。

 潮風がとても心地良い。



 日が昇り、フェリーがドーバー海峡の中央に差し掛かった。

 朝日に輝く黄金の海、スクリューが噛み砕く水流の音が聞こえていた。


 俺はポケットからランボーの詩集を取り出し、『永遠』の詩を朗読した。

 


    L'Éternité : Arthur Rimbaud Mai 1872


    Elle est retrouvée.

    Quoi? - L'Éternité.

    C'est la mer allée

    Avec le soleil.


    Ame sentinelle,

    Murmurons l'aveu

    De la nuit si nulle

    Et du jour en feu.


    Des humains suffrages,

    Des communs élans

    Là tu te dégages

    Et voles selon.


    Puisque de vous seules,

    Braises de satin,

    Le Devoir s'exhale

    Sans qu'on dise : enfin.


    Là pas d'espérance,

    Nul orietur.

    Science avec patience,

    Le supplice est sûr.


    Elle est retrouvée.

    Quoi ? - L'Éternité.

    C'est la mer allée

    Avec le soleil.



        『永遠』 


    見つけたんだ

    何を? 永遠だよ

    太陽と融合した海が


    用心深い心よ 懺悔しよう

    虚無の夜と 灼熱の昼を


    人間どもの下らぬことから身を放ち

    自由に飛べ


    お前自身のから サテンのような残り火よ

    義務は生じるのだ

    誰に言われるでもなく


    ここに希望はない

    立ち上がる望みもない

    智恵も不屈の精神も

    ただの責め苦に過ぎない


    見つけたぞ

    何が? 永遠だよ

    太陽と融合した海が


     


 俺はランボーの詩の朗読を終えると、船尾のハンドレイルに足を掛け、飛んだ。

 サモトラケのニケの翼のように、大きく両手を広げて俺は高く飛んだ。





 その日の朝、ママと悟さんとカフェで紅茶を飲んでいた時、銀河の声が聞こえた。


 「琴子」


 ハッキリと聞こえた、確かに聞こえた。銀河の声が。

 

 「ママ! 今、銀の声が聞こえた! 病院に行って来る!」


 私は病院へと走り、私の後を母と悟さんが追いかけて来た。


 


 ベッドはきちんと整理され、銀河は消えていた。

 そこにナースがやって来た。


 「彼がいなくなってしまいました。そしてこれがベッドに置かれていました」


 ナースは手紙を私に差し出した。

 私は震える手で手紙を開封し、読んだ。




    俺の愛したプリマドンナ、琴子へ


     黙って君の前から消えることを許して欲しい。

    俺は詩人のまま、死にたかったんだ。

    君の腕に抱かれて死ねるのは幸福の極みだ。

    だが、それでは最期の詩が書けない。

    俺は今、君の愛に#抱__いだ__#かれている。

    そして詩がやさしく俺に降り注いでいるんだ。粉雪

    のようにふんわりとした、琴子への愛の詩が。


    君は俺に沢山の愛と思い出をくれた。

    琴子がいなければ、俺はとっくにパリの冷たい石畳の

    上で野垂れ死んでいたはずだ。

    琴子、素敵な夢をありがとう。


    俺たちの恋はたった2週間で終焉を迎えた。

    だが俺は後悔してはいない。

    なぜなら恋愛とは長さではなく、深さだからだ。

    君は俺を全力で愛してくれた。

    そして俺も琴子を力の限り愛した。

    このまま、君との思い出を美しいままで終わらせたい。

    わかってくれ、琴子。


    後は時間がいい思い出だけを残してくれるだろう。

    人には神が与えて下さった、「忘れる」という恩恵をい 

    ただいている。

    3年の恋を忘れるには3年の、20年の恋には20年の歳月

    が必要だ。

    だが幸いな事に、俺たちの恋は2週間で終わった。

    だから君が俺を思い出に変えるには、2週間もあれば十

    分なはずだ。

    君の歌はいつも俺を勇気付けてくれた。慰めてくれた。

    癒してくれたんだ。

    これからもその素晴らしい女神のソプラノで、世界中の

    人たちの希望になって欲しい。

    

    最後に君に伝えたい。


     「琴子を愛していたよ。そして今も愛している」


    今までは「好きだ」とした言えなかった。

    「愛している」の言葉は重い、最後にとって置くものだ

    から。


    さようなら、琴子。そしてありがとう。

    最後に君に詩を贈ります。



           『歌姫』


     君の歌声は 耳からは聴こえない

     君の歌声は 脳に直接響いて来る

     音楽は心から発し 心へ帰る

     

     君の歌声は 僕に愛を教えてくれた

     君の歌声は 女神の歌声


     すべての民も 草木や花 動物や昆虫さえも

     君の歌声に聴き惚れる


     愛は海のように深く

     愛は空のように果てしない


     夜は夜明けのために存在し

     花は蝶のために咲き誇り 鳥はその花の種を残す


     君の歌声は僕の宝石 僕の宝物

     

     すべての美は その終焉にこそあるのだ

     終わりが輝く記憶となる




               海音寺琴子へ 愛を込めて 

 

    

     森田人生こと星野銀河




    追伸


    久子さん、悟画伯。短い間でしたがとても良くして

    いただき、ありがとうございました。

    最後にあなたたちと家族になれたこと、嬉しく思い

    ます。

    どうか、しあわせになって下さい。



    俺は身寄りがない。俺の財産はすべて君に譲る手続き

    をしてある。

    邪魔になる物ではないだろうから、君のしあわせのため

    に役立ててもらえると幸いだ。

    日本に帰国したら、弁護士の椎名錬三郎を訪ねてくれ。

    君の事はすべて彼に話してある。

    住所と電話番号はこの手紙に書いてある通りだ。

    帰国する前に、まずは電話をしてみてくれ。

    彼は俺の親友だ。必ず琴子の力になってくれる。

    それからこれは婚姻届だ。もし手続きが必要な場合には

    使って欲しい。俺のサインはしておいたから。



                


 「私、銀を探して来る!」


 私が病室を出ようとした時、母が私の腕を強く掴んだ。


 「追いかけては駄目よ! あなたは彼の愛を無駄にするつもりなの!

 これは琴子へ森田先生からの最後の「ラブレター」なのよ!

 黙って見送るのも愛というものなの! それも愛なのよ!」


 いつも気丈な母が私を強く抱き締めて泣いた。

 私も母にしがみ付いて号泣した。

   


 


 その日の夜、警察がやって来た。


 「ギンガ・ホシノさんのご家族ですね?」

 「はい」


 私は自分が自分ではないように感じていた。


 「彼がDover Strait(ドーバー海峡)でフェリーから投身自殺を図り、お亡くなりになりました」




 それからのことは私は気を失い、何も覚えてはいない。


 身寄りのない銀河の葬儀を済ませ、私は母と一緒にDieppeに残った。



 「ちょっと出掛けて来る」

 「どこへ?」

 「カフェでお茶して来る」

 「ママも一緒に行くから待ってて」

 「ひとりで行って来るよ、これからの事も考えたいし」

 「そう? 気を付けて行くのよ」



 

 私は花屋で赤い薔薇、『マリア・カラス』の花束を買い、ドーバーの岬に向かって歩いて行った。

 私は銀河に教えてもらった、マリー・ローランサンの詩を口ずさみながら。



          『鎮静剤』

  

  退屈な女より もっと哀れなのは 悲しい女です。

  悲しい女より もっと哀れなのは 不幸な女です。

  不幸な女より もっと哀れなのは 病気の女です。

  病気の女より もっと哀れなのは 捨てられた女です。

  捨てられた女より もっと哀れなのは よるべない女です。

  よるべない女より もっと哀れなのは 追われた女です。

  追われた女より もっと哀れなのは 死んだ女です。

  死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です。



       LE CALMANT

                 Marie Laurencin


     Plus qu'ennuyée Triste.

     Plus que triste Malheureuse.

     Plus que malheureuse Souffrante.

     Plus que souffrante Abandonnée.

     Plus qu'abandonnée Seule au monde.

     Plus que seule au monde Exilée.

     Plus qu'exilée Morte.

     Plus que morte Oubliée.



 

 私は岬に立って海に花束を投げた。

 そして私が崖から飛び降りようとした時、呼び止められた。

 母と悟さんだった。


 「琴子っつ!」

 「琴子ちゃん!」

 「来ないで! もう私は生きていたくない! 生きられないの!」


 母は私の頬を平手打ちした。


 「しっかりしなさい! 彼の想いがあなたには分からないの!

 彼は死んだの! それが彼の寿命だったの!

 未練を残さず死んだのは、彼の魂が崇高だったからよ!

 あなたに生きて欲しい、もっともっと歌って欲しいから、彼は病院で死ぬことを拒んだの!

 今は辛いかもしれない! 私にもあなたのその悲しみを分けて頂戴! 私も琴子と泣いてあげる! 彼の為に! そして琴子の為に!

 琴子は私の生甲斐なの! 大切な娘なのよ!

 親より先に死ぬ、親不孝はないわ!」


 母は感情を剥き出しにして泣き叫んだ。

 悟さんが母の肩を抱いた。


 英仏海峡から風が強く吹いていた。


 そして私はその日から、耳が聴こえなくなってしまった。


 私のオペラ歌手としての人生も終わった。


 目の前が真っ暗になり。私の心は光を失った


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【完結】歌姫(前編)(作品230427) 菊池昭仁 @landfall0810

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