第六話・結

 それからの落合朔太郎は、見るも無惨な様子だったと言っていい。

 朔太郎は東京の大学へ戻らず、夏が終わりに近付いても、屋敷に居残り続けた。しかし、だからといって杜氏の仕事を父に学ぶわけでもなく、家業を手伝って働くわけでもなく、ただ、そこにいた。操の部屋に閉じこもり、一歩も外へ出なかった。宇賀神が何度食事を運んできても一切口にせず、徹や臼井が励ましにやって来ても襖を開けず、母親である落合の奥方が呼びつけても、決して姿を見せなかった。

 唯一、麦子にだけは口をきいた。それでも稀に、だ。麦子は、祖父である庭師の綿貫がこっそり屋敷に通してくれる隙を使って、操の死以降あきらかに生命の息吹がない朔太郎の調子を、いつも見守っていた。心底、心配していた。

 ある日のことだ。残暑。逢魔が時。

 麦子が普段のとおり操の部屋にそっと近寄り、ぴしゃりと締め切られた襖越しに声をかけると、やっと朔太郎の声が聞こえた。

「操は生きてる」

 確かにそう言ったのだ。麦子は自分の正気を疑った。

 一体なにをと思い、襖に耳をくっつける。

「操は生きてるんだ。俺は会った」

「お、お兄さん? 大丈夫ですか? 操ちゃんが何って……」

「操は生きてる」

「……ごめんなさい。あの、操ちゃんは……ああ、どうしよう。どうしたら」

「俺は操に会ったんだよ。駅の向こう側で。体にも触れられた。生きてるんだ」

「駅? お兄さん? 大丈夫ですか? 私の声、聞こえてますか?」

「連れ戻さないと。駅の向こう側にいるんだ。俺を待ってる。そう言ってた」

「……お兄さん、お兄さん? ああ、誰か……」

「あの駅に行かないと。電車に乗らないと」

「お兄さん! 誰か、誰か来てください! お兄さん!」

 操の部屋の中から突然、慌ただしい物音が聞こえてきて、それはまるで大急ぎで荷造りをして部屋を走り回っているような、または気が動転して暴れ回っているような、そんな音だった。

「なにしてるんですか? お兄さん! ここを開けて!」

 恐怖でがくがく震える指で、爪をなんとか戸の隙間に突き刺して開けようとした。びくともしない。操の部屋に鍵がかかるなんて、誰も知らなかった。

 麦子は、涙がだらだら流れ落ちる顎を拭って、声を振り絞って助けを呼んだ。朔太郎は一体どうしてこうなってしまったのだろう。操の死を受け入れられないあまり、おかしくなってしまったのだろうか。

 そのうち、騒ぎを聞きつけた女中や店の従業員が駆け付けてきて、麦子と一緒になって戸を開けようと奮闘した。その間も、落合の姓を持つ者は誰一人として来なかった。

 日は落ちた。夏の終わりを告げるように、蝉の死骸が中庭の松の幹から落ちた。

 朔太郎は、操の部屋の中で暴れ続け、ふとした瞬間に唐突に戸を開けた。そして外へ出てきた。その頃には、もう宵の刻になっていた。疲れ切っているうえ、恐怖が勝った麦子には、朔太郎を止めることはできなかった。彼は別人のようになっていた。すらりと高かった身長は猫背で縮み、髪や髭は伸びほうだいで、その隙間からかろうじて見えた瞳は、瞳孔が開きっぱなしでぎょろぎょろしていた。

 朔太郎は周囲には目もくれずに、歩き去った。麦子だけではない。誰も何もできなかった。

 それから朔太郎は、ふらつく足取りで母屋を抜け、店舗を横切り、落合酒造店の正門の手前までたどり着いた。そこで、何年ぶりか、父親と母親の姿を見かけた。車から降りてきたところだった。運転手に扉を開けられ、地面に足をつく。顔を上げる。両親が揃っている光景に、朔太郎は思わず立ち止まった。かさかさの唇が力なく開く。

「…………」

 何かを言う前に、両親の間に新たな人影が現れた。後部座席から降りてきたその人は、見たことのない青年だった。朔太郎と同い年ほどに見えた。しかし、朔太郎より気力に満ちあふれ、目には野望が灯り、足取りには迷いがなかった。

 店舗で働く若いアルバイトが、こそこそと噂話に盛り上がっているのが聞こえた。

「あの人が、そう?」

「次の親方になる人?」

 それは、さんざん朔太郎がされてきた噂話で、さんざん朔太郎に向けられてきた視線だった。矛先が変わったらしいそれは、こう続いた。

「ちょっと聞いた話なんだけどさ、なんか、落合さんの長男の朔太郎さんっていう人、もうずいぶん人前に出てこないんだって。奥方がなにを言っても、ずっと部屋にこもっちゃってるらしくて。次男の操さんは事故で亡くなっちゃったから、落合家にはもう誰も親方を引き継げる人がいないって。それで、親方が、別の後継ぎをすぐ見つけてきたらしいよ。落合の息子じゃなくていいんだったら、親方になりたい人なんていっぱいいるだろうからね」

 世界から一切の音が消えた。がらがらと、足元が崩れ落ちていくのを感じた。

「…………」

 朔太郎は憑かれたように再び歩き出した。

 親よ。どうしてあなたたちは、子を所有物のように扱うのだ。どうしてひとときもその首輪を放してやれないのだ。子に自分と同じだけの命の重さがあり、同じ人の権利と感情を持っていると理解しているのであれば、その言葉や表情や行動で、子の人生の展望に対する希望をひねり潰したりはできないはずだ。子はお前の駒ではないのだ。

 親よ。

 俺はじゃあ、一体なんだったんだ。俺は誰だったんだ。


 落合朔太郎が電車の走り去る線路に飛び込んで亡くなったと知ったとき、麦子は全てを悟った。夏。雷の夜だった。




    結


 操は、ヒトに近い恰好をしているある人物に、干芋のような物を手渡された。受け取ると礼を言い、慣れた動作で頬張った。

「兄さん、死んじゃったみたい」

「…………」

「こうなったら、お願いしてもいいかな? 本当にできるならの話だけど……」

「逕溘∪繧檎峩縺吶?」

「うん。昔に生まれ直したいんだ。やり直したい」

「縺?▽縺セ縺ァ譎る俣繧帝繧具シ?」

「いつ頃に生まれ直したいかって?」

 操は顎に手を添え、考えた。

「俺が長男になったりしないように、兄さんが生まれたあとだったらいつでもいいけど。そうだな……。じゃあ、お母さんが病で入院してる時期にしよう。なんで妊娠したのかわからない子どもなんて、気味が悪いよな? そうすれば、きっとお母さんもお父さんも、俺のことを邪険にする。弟のくせにうっかり後継ぎにされることもない」

「…………」

「兄さん、次もここに来ることにならないといいけど。俺と会っちゃったら、また俺が生きてるとか言い出して、またおかしくなって他の人に後継ぎをとられて、また自殺しちゃう。そうならないように、兄さんには立派な親方になってもらわないと」

「縺ゥ縺?@縺ヲ蜷帙′縺昴%縺セ縺ァ縺吶k縺ョ縺九>」

「そこまでする理由がわからないって?」

 操はぷっと吹き出してそう言うと、続けた。

「俺は、兄さんに忘れられたら悲しくて嫌だけど、どうせいらない子だから、役目を終えたらさっさと退場したいんだ。でも兄さんには、惨めに死んでほしくない。ちゃんと落合の長男として生ききってほしい。兄さんがそうできるようにするのがおれの役目だろ?」

 操は笑った。

「大丈夫。今度こそ全部うまくやるよ」

 次の瞬間、操は産声を上げていた。宇賀神が赤ん坊を抱き、二歳の朔太郎に見せにいく。


 平成最後の夏は終わらない。


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奈落の底 加藤み子 @ktmk99

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