第五話

 操の死因は「事故死」とされたが、真実がただのそれで終わらないことを、朔太郎だけは知っていた。

 由緒ある家系の若い末息子の死なので、一応丁重に扱われる問題ではあったが、小さな田舎の無人駅を通過する電車に撥ねられたとなれば、ああそうですか、それは残念でしたね、としか言いようがない。その場に誘われた誰かがいたとか、その誘いを承諾して共に線路へ飛び出た誰かがいたとか、そういった類の話題は、田舎町の狭いムラ社会にも一切広がらなかった。朔太郎が当然、口外しないでいたのだ。

 弟を慕いに慕っていた兄にとって、あの晩の囁きとあの自分を導く手は、操との最後の繋がりのような気がしていた。あれを部外者に流してしまったら、その繋がりが薄まったり無くなったりしそうで、恐ろしかった。

 大学生の夏休みは必要以上に長い。まだ折り返し地点にも到達していない今日だったが、操がいない今となっては、朔太郎にとって実家に滞在し続ける意味もすっかりない。早速荷造りを終えて、出発した。

 気がついてみれば、世界は日曜日だった。毎年行われる地元のこぢんまりとした夏祭りが開催されるようで、普段は駅員さえいない駅のホームに、今日だけはちらほらと人がいた。

 浴衣に身を包んでいる人も窺える。からんがらん、と乾いた下駄の音が響く。朱や橙の鼻緒が、白い足の親指と人差し指の間を赤くしていく。付き合い出したばかりの恋人とでも待ち合わせをしているのか、改札を出たところで携帯電話片手に辺りをきょろきょろと見回す落ち着かない女性や、友人らと連れ立ってもう酔っ払ったかのように騒ぐ男女が、なんだかきらきらと目に眩しく沁みた。

 朔太郎は、くたびれた靴の踵を踏んでずっずっと引き摺ったまま、膨らんだ荷物を背負って駅の構内を横切った。何も持っていない手が寂しくて、欲しくもないのに買った緑茶が、手の平の中で汗をかき水滴を垂らした。駅を吹き抜ける夕方の風は、冷え始めのにおいがうっすらした。

 機械も人もない改札を通り過ぎた。ホームに出て、錆びた椅子に座って電車の到着を待つ。一番線しかないここは、迷う可能性もない。朔太郎は椅子の背凭れに体重を預け、屋根の向こうに広がる染まり始めた夕空を仰いだ。

 やがて、のぼりの電車が到着し、一両しかないそこから祭りの様相をした集団が下車してきた。朔太郎はすれ違いに乗り込み、疲れた様子の老婦人と、部活帰りの野球少年二人組しか乗っていない寂しい車内の、がらがらに空いた席の隅に座った。ちょうど車掌の後頭部も見える。

 そういえばたった数日前には、この駅で、操が帰省する兄を出迎えてくれたっけ。

 朔太郎は、背中の窓からホームを振り返った。やがて電車は発進する。



「麦子の好きな人、知ってる?」

 不意に、操の声が蘇ってきた。

 昨年だろうか一昨年だろうか、今日のような蒸し暑い夏、操とふたつ離れた町のデパートまで買物へ出かけた時に、この電車の中で言われた台詞だった。

 操はその日も、高校の制服の夏服をシワひとつなく着ていた。夏の強い日光に反射するワイシャツの白色が眩しく、目を細めたのを覚えている。

 電車内には誰も乗っておらず、それなのに二人して椅子には腰掛けず、吊革に捕まり立ったまま、流れ去る田舎道の風景を眺めていた。車内には珍しく冷房が利いていた。天井にぶら下がる扇風機が首を振りながら送ってくる微風だけで、移動中の暑さに耐えねばならないこともあるのに、その日は幸運だった。

「麦子の好きな人?」

 どうでもいいと思いながら、朔太郎は一応聞き返した。心底興味がなかった。

「そう、俺知ってるんだけどさ」

「ふうん、誰?」

 聞くと、待ってましたとばかりに、操は悪戯っぽくにやりとした。

「俺」

「え?」

「麦子、俺のこと好きなんだってさ」

 しばらく電車の走る音だけがごとごとと響いていた。兄弟は互いに何も言わない。

 すると、会話の沈黙に耐え兼ね、操が吹き出した。

「兄さんのそんな顔、初めて見た」

 自分が一体どのような表情をしていたのかはわからないが、弟にとってはそれがおもしろかったらしい。朔太郎は自分のしたことをからかわれたような気分になった。つい不貞腐れたような口元になる。

「なんだよ、それ。麦子に言われたの?」

「告白された。昨日」

「俺に喋っていいの?」

「いいんじゃん? 麦子、お兄さんは気付いてると思うけどって言ってたし」

「いや別に……知らないけど」

「ふうん」

 操は、一つの吊革に両手でぶら下がり、窓の外を見ながら軽く微笑んだ。

「俺は気付いてたけどね。いつ言われるかなーって思ってた」

 操は昔から、人から愛の告白をされることに慣れていた。しかし、これまで恋人という存在は一度も作らずに生きてきたので、つまり愛の告白を断ることにも慣れていた。彼は、人の好意をいかに傷付けずに避けるか、いかにそのあとの関係を良好なものとして保ち続けるか、それらの手段を熟知し、そして非常に上手くやっていた。

「実はさ、前にも言われたんだよね。麦子に」

「好きだって?」

「そう。いつだったかな。多分、中学の頃」

「それで、お前なんて答えたの」

「兄さんが家を継ぐまでそういうのは考えられないって言った」

 吊革につかまる腕の上から、漆黒の前髪の間を縫って、きらきら輝く操の瞳が、朔太郎を静かに窺ってきていた。つい、どきりとした。西洋の美術館にでも飾られていそうな輝きを放つ、その茶色みを帯びた黒の宝石から目が離せず、一瞬、ここが平成の日本の小さな田舎町の電車内だということすら忘れた。

 うつくしい。

 彼は本当に、埃を知らない凶器のような美しさを、いつでもこんなにも見せつけてくる。いっそ恐ろしかった。

「今回もそう言ったよ。麦子に」

 囁くように告げる声は、やかましいはずの電車の中さえ、しんとさせた。世界中の誰もが、今、この声に耳を傾けているはずだと思った。

 朔太郎は唾を飲んだ。

「……何も、お前がそこまでしなくたって」

「俺は俺である限り、そこまでするよ」

 そう言い、操は朔太郎から視線を外して、前に向き直った。

「兄さんは絶対に立派な蔵元になる」

「なれないだろ……」

「きっとなるよ。大丈夫」

「わかった。なったとするよ、なったとしたらさ、お前はどうなるわけ?」

「俺?」

「うん」

 俺が継いでも、お前は落合の家にいてくれるのか。

 本当に聞きたかったことは、聞けなかった。操は質問には答えず、流れる景色のように穏やかな表情で背筋を伸ばしたまま、吊革を握っていた。



 電車に揺られながら、睡魔に負けていつの間にか寝てしまっていて、顔を上げた時には、結構な時間が経っていたようだった。

 車内はずいぶんと暗く、空模様はどんよりとした曇り空で、ほんのりと夕焼けの赤も混ざっていた。乗客は、朔太郎の他に、俯いて爆睡している老爺と、同じく静かに寝ているスーツ姿の男性しかいない。冷房が効き過ぎているのか、真夏だというのに非常に肌寒かった。

 寝過ごしてしまったかもしれない。現在地がわからないので、とりあえず次の駅のアナウンスを待つことにした。ぼんやり待つ間も、朔太郎は操のことを考える。数十分など飛ぶように経過した。

 気付くと、外は夜の暗がりになっていた。次の駅までの時間が大分長いので、次第に心配に、落ち着かない気分になってきた。もうずいぶんと暗い田舎道の同じような景色の間を走り続けている。

 どれくらいそのまま走り続けていただろう。やがて、ゆっくりと電車は停まり、ドアが開いた。入り込んできた外気は、梅雨のようにじんわりと湿っていて、寒さに耐え兼ねていた肌に追い打ちをかけるかのように、べっとり貼り付いてきた。

 誰も降りない。乗ってもこない。朔太郎は立ち上がり、今の停車駅の名前を見ようと窓の外を見やった。

 はたしてそんなに深い夜だったか、どれだけ目を凝らしても外の風景が窺えなかった。ホームに立っているはずの、駅名が記載された看板さえ目視できない。遠い遠い駅の向こうでは、民家なのかぼんやりと灯りが浮かんでいるのが見えるが、手前にあるものはなんだか目で認識するのが難しかった。

 朔太郎は、電車から降りた。長い間この駅に停車したままなので、便所に寄る時間もあるだろうかと、ついでにいい加減に現在地も知りたいと思い、見知らぬ駅のホームをそろそろと歩き出した。

 すると、まるで朔太郎が下車するのを待っていたかのような絶妙なタイミングで、電車がのっそりと発車した。慌て、

「えっ、ちょっと待って」

 と、小走りに列車を追いかけて車掌の顔に伝えようとしたが、車掌席に座っている人間の顔がうまく認識できなかった。確かにこそに顔面はあるのだが、目がどこなのか、口はじゃあどこなのか、よくわからなかった。

 そうして電車は去って行った。朔太郎は、直観的に異変を察知し、腹の底から恐怖が湧き上がってくるのを感じた。なにかがおかしい。なにかが起こりそうな予兆、落ち着かない妙な高揚感を抱え、ホームに立ち尽くす。現在地さえわからない。

 荷物は電車に乗せたままだった。運良く、携帯電話と家の鍵、多少の小銭はポケットに入っていた。

 誰かに助けを求めようと携帯電話の画面を表示させると、眩しすぎるほどの明かりの中、最初に探し当てたのが実家の電話番号だったので、あまり乗り気はしなかったが、緊急事態ということを汲んでその番号を発信した。電話は、いつまで経っても繋がらなかった。呼び出し音は流れ続けるのに、誰も電話口に出ない。酒造店のほうの番号にかけても同様の結果だった。店の電話番号は、いつの時間帯にかけても必ず、係が対応するか営業時間外を教えるアナウンスが流れるかはするはずなので、さすがにこれはおかしかった。

 ぷるるる、ぷるるる、ぷるるる。

 機械的な呼び出し音が、朔太郎の不安をさらに煽る。宇賀神の携帯電話にかけても、麦子に連絡してみても、見当たる限りの友人にかけてみても、同じだった。画面の左上に「圏外」と表示されているわけでもない。

 駅の外へ出てみれば、もしかして公衆電話があるだろうか。携帯電話の普及が進みに進んだ平成の時代も終わりに向かっている今、はたしてそれが道端に設備されたままになっているのかどうか、自信はない。ただ思い返してみれば、朔太郎の実家のある町にも、町役場や図書館に現在も公衆電話のボックスがあったはずだった。朔太郎は一抹の期待を胸に、駅の改札口へと向かった。

 駅構内はだいぶ古びていて、今にも幹の途中で折れて倒れてきそうな木材がなんとかして天井を支えている。建物が自分に向かって雪崩れ落ちてくる悪夢を見たことがあったが、不意にそれを思い出して恐怖にかられ、つい足を速めた。照明は、どれもほとんど機能していない。

 小さな駅だったので、改札口はすぐに見つかった。口は一つしかない。田舎の無人駅のように、機械の改札ではなく誰かしら駅員が立って対応する形のようで、大人が一人入れるような隙間があった。現在は誰もいなかったので、一応周囲を見回してからそこを跨ぎ、急ぎ足で構内を横切った。

 なにか得体の知れないずんぐり大きなものに後をつけられているような、姿の見えないなにかに物影から観察されているような、気味の悪さが追ってきていて、無意識に呼吸が荒くなって汗が染み出した。

 靴の底が、じゃり、という。駅から外の世界に踏み出した。

 周囲は山に囲まれていて、少し赤みを帯びた夜の空に真っ黒な影が聳え立ち、それはそこの周りを固く囲んで守っているかのように、ひっそりしていた。遠くに民家の灯りもぽつぽつ見える。電車が去って行った方向にはトンネルがあり、山の麓を削って割り込むように線路が伸びているのが窺えた。

 人の気配もなければ、車の通行音もない。そのうち、静寂の中、弱い夜風に乗って、祭りのような太鼓の音が聞こえてきた。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 夏の夜、決して寒くないのに鳥肌が止まらない。身震いもした。

 朔太郎は見知らぬ土地で迷子も同然の状況に気が焦り、時間を見ようと思い掲げた手から、携帯電話をするりと取り落とした。しゃがみ、拾う。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 太鼓の音は、トンネルのある方向からだんだん近付いてくるようだった。

 携帯電話の電波表示が、ついに圏外を示すようになった。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 どうすればいい。太鼓の音が妙に魅惑的に感じてくる。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 そして、立とうとして顔を上げたそのとき、起こり得ない光景を見た。

「に、兄さん……? ……」

 時が止まったようだった。

 操のほうも、信じられないものを見た顔をしていた。

「なんで、ここに」

 硬直したままの朔太郎に、操はすぐ近寄ろうとはしなかった。

「どうして? そんな、兄さん、……」

 操は、朔太郎の記憶にある最期のときの格好のまま、真っ黒な詰襟を着て立っていた。

 どこからどう見ても落合操だった。

「……え……? は……?」

「兄さん、なんでこんなところに来たの?」

「は……? なんでってお前、そんなのこっちの……、み、操? 本当に操なのか?」

 がくがくする膝で立ち上がり、朔太郎は操の肩に触れた。しがみつくように。

「い、生きて……?」

「兄さん」

 操はくにゃりと笑った。

 腹の底で何を思っているのか想定できない、不可解な笑みだった。

「俺は死んでるよ」

 美しい笑顔が告げる。落ち着き払ったそれとは裏腹に、朔太郎は混乱していた。

「なに言ってんだよ、生きてんじゃん。なんだよ、それならそうと……こんなところで何してたんだ? ここ、どこだかわかんないけど、とにかく早く家に帰ろう。な」

 朔太郎が一歩近付くと、操は一歩後退した。笑顔のまま、それ以上近付かないでと言うように首を横に振る。

 朔太郎の背後にある駅の出入口から、静かに風が流れ込んできて、朔太郎の後頭部を撫で、そのまま操の前髪を穏やかに揺らした。

「帰れない」

「は? 帰れる」

「兄さん、落ち着いて。俺は死んでるんだ」

「死んでたらこんな風に話なんかできないだろ。なんだよ、そうしたらこれは夢だとか言うのか」

「夢ではないよ。現実さ」

 操は、観念したようにゆっくり朔太郎に近付いて、距離を縮めて兄の顔をまっすぐに見つめた。

「わかった。全部話すよ、兄さん。だから、これから俺が説明することをなにもかも信じて、終わったらまた電車に乗って、ちゃんと向こうに帰ってよ。そうじゃなきゃ俺は」

 そうじゃなきゃ俺は何なのか、彼はみなまで言わなかった。

 


 兄弟はそれから、隣に並んで、駅からゆっくり歩きながら話をした。

 操が言うには、いま二人の歩いている場所は「あの世とこの世の狭間」で、現世で言う「命」はもうないが列記とした「死」もないような存在が、一時的に留まる世界なのだという。毎日何人か(または何匹か、など)が列車に乗ってやって来て、何人か(同じく)が乗って去って行く。ここの次の駅こそが「黄泉国」だという。

 操はあの日、線路に飛び込んだあと、目が覚めると電車に揺られていて、導かれるようにこの駅で下車し、迎えが来るまでここで生活をしているらしい。

「慣れると案外快適なものだよ。ここには労働もないし、税金もない、不思議なことに政府や教育さえないのに、犯罪もない。まあ、この先はもうちょっと人間らしい社会みたいだけどね」

 地球上から観察のできる惑星なるものも存在しないのか、現世で太陽が輝いている位置には黒い丸が浮いており、それは勢力を使い切って焦げた太陽のように、力なくぼんやりと辺りを照らしていた。申し訳程度の弱い赤茶色の光のため、世界全体が茶色く薄い布を覆い被されているかのように、輪郭がぼやけていた。

 この世界には非常に不思議な、名状し難い雰囲気がある。おどろおどろしく恐ろしく、かつなんだか穏やかで、幽霊や奇形の者が現れそうで、しかし心優しい老夫婦が暮らしていそうで、朔太郎が歩いていると妙に落ち着かない。

 やがて、白川郷の合掌造りの集落を彷彿させる街並みに出た。

 ほとんどが木造の戸建て民家で、趣味程度に小さく開かれている店がたまに見受けられる程度の、なごやかな村だった。あまりに暗いのですっかり夜だと思い込んでいたが、そうではないのかもしれない。人や人らしき者とたびたびすれ違った。目を覆いたい気持ちを抑えてじっと窺うと、中には正常な人間の姿をした親子もいれば、はたしてヒトなのかそうでないのか判別の不可能な、よくわからない物体も歩いていた。犬や猫などの動物もうろうろしている。

 すれ違いざま、操に軽く会釈をしていった者がいた。操はその人物(ヒトなのかはわからない。それはヒトに近い恰好をしてはいたが、フードを深く被っていて顔が見えなかったうえ、人間にしてはかなり背丈が足りなかった)に、干芋のような物を譲り受けていた。操は受け取ると礼を言い、それを躊躇なく口へ運んだ。

「兄さんは、ここのものは食べちゃあ駄目だよ」

 何を食べているのかと見ていると、操が言った。

「帰れなくなっちゃう」

 村を抜けると、山道に差し掛かった。

 遠くの山の麓には、駅前で見たものと似たトンネルがあった。その周辺には、道祖神の石碑や石像が不気味なほど大量にずらっと置いてあり、暗闇の中にそれを認識した瞬間、ざあっと鳥肌が立った。

「あっちが黄泉だ」

 操は説明する。

「多分、俺もいつかは電車に乗って、トンネルの向こうに行くんだと思う」

 トンネルを抜け、太く深い川に架かる橋を過ぎると、その國に到着するという。朔太郎は「その川はもしかして三途の云々」と思ったが、言わないでおいた。

 操は目を細め、まるでトンネルの反対側の世界を透視しようとしているかのような表情で話した。

「ここではみんな、それを待ってるんだ。ごく少数、逆の電車に乗り込んでしまう人達もいるけど、それは決して正しい行いじゃない」

「詳しいんだな……」

 久しぶりに声を出したので喉ががらがらした。

 操は笑う。

「ここではみんな知ってるよ」

「俺は知らない」

「そりゃあ、兄さんは生きてるから」

「……」

「なんでここに来ちゃったのかわからないけど、兄さんが生きてることは確かだ」

 操は前髪をかき上げた。横顔は、いつも見ていたように美しかった。

 朔太郎は静かに腕を上げた。震える手を操の顔に近づけ、そろりとその頬に触れる。触れられた。触れられたことに強く感激した。ああ、この弟の頬にこんな風に触れたのなんて、一体いつぶりだろう。朔太郎は、あたたかい食べ物につめたい飲み物を飲んで口の中で冷やす感じを思い出した。

 操は、なんの前触れもなく急に兄に頬をさわられても、少しも動じずにじっとしていた。まっすぐに目を見つめ返してきて、穏やかな瞳孔の色でただそこにいる。朔太郎は胸がぎゅうと狭くなるのを感じた。生前、どうしてもっと愛情を伝えてこなかったのだろう。もっと、言葉とか文字とかで表現して渡して、抱き締めたりおやすみと言ったりして行動で示して、もっともっと、自分はあなたが愛おしいのだと伝えるべきだった。

 操はそっと瞼を伏せて、自分の頬に添えられている朔太郎の手の平のほうに、首をこてんと倒した。薄く微笑んでいる。操の頭は軽くて、重くて、でも体温はなかった。

「操」

 呼ぶと、操は甘えるように、頬を手にすり寄せてきた。

 朔太郎は続けた。

「お前は死ぬ必要なんてなかったよ」

「……」

「なんであのとき、死のうとしたんだ?」

 操はしばらく何も言わなかったが、やがて両目を開けて、朔太郎の手に預けていた頭を起こすと、回答に迷うような視線の揺れを見せてから、ようやく呟いた。

「俺はいらない子だから」

 その言葉を聞いた瞬間、母親の言葉が蘇ってきた。

——あなたさえ無事に産めれば、それで良かったの。落合には跡継ぎになる長男しかいらない。二人も産むなんて必要も、希望もなかった。

——それなのに……。どこかの神の母でもあるまいよ。あの子どもは基督(きりすと)じゃあない。

「……そんな、こと」

「兄さんがずっとあの家の長男が見る世界を生きてきたように、俺も、あの家の次男が見る世界を生きてきたんだ。自分がどんな立場にいるかなんて、わかるよ」

「……」

「ずっとそうやって振る舞ってきたじゃないか。俺は一度も、長男みたいなことしなかっただろ? 長男を第一に生きてきたし、いつだって兄さんが立派なかしらになるために誰よりも応援してきた」

 確かにそうだった。操はいつも身を挺して朔太郎を守り、庇い、支えていた。自分が朔太郎より先に上に前になんて、一度もしたことがなかった。たとえ、朔太郎がどんなに操は操らしく、操自身のことを優先してほしいと願っていたとしても、だ。

「そんな顔しないでよ、兄さん」

 操が眉を下げて笑う。

「勘違いしないで。兄さんなら立派にやれるって言ってきたのは、本心さ」

「……でも」

「俺はずっと、そういう生き方をしたくてしてたんだよ。兄さんが引け目を感じることはないし、なんていうかな……。兄さんのために生きるのが楽しかったんだ」

「でも、じゃあ、なんで」

 鼻の奥がつんと痛かった。喉も痛いし、目の奥も痛い。

 朔太郎はすがるように言った。

「なんであの日、俺を誘ったんだ? 俺のことも一緒に連れていって、一緒に死のうって。最期くらいは自分で選びたいって言ってたお前だから、まだ、まだわかったんだ、自分から駅に行ったのは。でも、なんであの日で、なんで俺も一緒に……」

「そうすれば、兄さんは俺のこと、忘れられなくなるだろ」

「……え?」

 操は続けた。

「奥方になる人と初めて会った日に心中を図って失敗して死んだ弟なんて、嫌でも忘れない。兄さんなら、俺の死を乗り越えてかっこいい親方になるだろうけど、なったあとも、そんな馬鹿な死に方した弟がいれば、ずっと忘れないでいてくれるだろ? もしかしたら、奥方を見るたびに思い出すかな」

 消え入りそうな声だった。ひやりと冷淡で、刺すように鋭利で、押し潰されそうに重厚で、しかし、恐ろしいほど魅惑的で。瞳はいつものように姿勢良く、まっすぐ前を見つめていたが、はたしてその視線がどこを見ているのかは、わからなかった。こんな操の声は初めて聞いたし、こんな操は、初めて見た。

「お前、なんでそんな……。いや、ていうかまさか、わざと失敗させたのか? い、一緒に死のうって言いながら、最初から、俺は生かして自分だけ死ぬつもりで……?」

 操は否定しなかった。

「なんでそんなこと! なんで……。そんなことしなくたって、忘れられるわけないだろ? 俺のたった一人の弟なのに!」

 必死にそう言ったが、操は釈然としない表情で弱々しく首を横に振った。

「お父さんを見てみなよ。あんまりにも忙しくて、あんまりにも立場が重くて、仕事以外のことは何も考えられなくなってる。俺、ここ数年、自分もお父さんと話したことなかったけど、両親が面と向かって話してるところだって見たことないぜ」

「それは……俺もない」

「おばあさまとか、おじいさまに対してもそうだった。まともに話したこと、あったのかな? 家族のはずなのに、杜氏になったお父さんにとっては、別になんでもない存在になっちゃうんだろうな。町のみんなには尊敬されて、親方あ、なんて呼ばれて親しまれてるのに、家族のことは忘れちゃうんだ」

「……俺も同じようになると思ってんの?」

 操は笑顔で首を振った。

 しかし、朔太郎は納得できずにいた。

「お前はいつも俺のこと、立派な杜氏になるとか、いい親方になるとか言ってたけど、実際、俺よりお前のほうがかしらになる素質はあるよ。俺なんか、たとえ継いだとしても絶対すぐサボっちゃうし」

「兄さんがどんなに怠けたって、俺にどんなに長男の素質があったって、俺が俺である限り、俺は親方にはならない。俺は兄さんの弟で、兄さんに勝てっこないんだから。生まれたときからずっと、俺は兄さんのいない世界を知らないんだ。死んだ今だって」

 いつの間にか、操はいつもの操に戻っていた。

 家族ってなんだろう。きょうだいって、なんなのだろう。生まれてきた順番によって役割が決まってしまったり、人から向けられる視線の種類が変わってしまったり、どうしてそんなに順番が重視されるのだろう。勝てっこないなんてそんな、操まで勝負みたいなことを言っている。どうしてだろう。わからない。あるいは、兄である自分には見えていない段差みたいなものが、操には見えているのだろうか。

 じゃあ、つまり、勝てっこない相手である朔太郎を立てるために次男として利口に生きてきた操に、朔太郎が「お前のほうが親方の素質がある」「俺より操自身のことを優先してほしい」なんて言うことは、残酷も残酷、許されない仕打ちだったのだろうか。

 操が言った。

「死はいずれ、誰のところにもくる。誰もがみんな、この電車に乗ってこの先の最終駅で降りなくちゃあいけないときが、絶対にくる。俺は、それがほんのちょっと早かっただけだよ」

 操は数歩先を歩き、すぐに止まって朔太郎を振り向いた。

「ここで待ってるよ。だから、ゆっくりきて。兄さん」

 操の指差すところを見てみると、朔太郎の爪先が薄く透けて、向こう側にある地面が見えてきているのがわかった。ぎょっとして両の手を掲げてみれば、こちらも同様に色素が抜けてきている。背筋が冷えた。

「これ以上、ここにいちゃあいけない。兄さんは帰らないと」

「お前は怖くないのか。こんなところに一人でいて」

「怖くないよ」

「でも……」

「兄さん、大丈夫? 眠そうだ」

 操の声が、徐々に遠くなっていく。

 朔太郎は焦り、温めるように両手を揉んで擦りつけた。

「兄さんは早く電車に乗って帰らないと」

「操も一緒に行こう」

「え?」

「一緒に帰ろう。俺たちの家に」

 もう、乞うような気持ちだった。

 しかし操は微笑み、首肯を許さない。

「無理だよ」

「なんとかなるだろ。電車に乗っちゃえばこっちのもんだ。俺だってここに来られたんだし」

「俺は行けないよ。行かない」

 背後で鉄格子の軋むような音がして、地面が揺れ始めた。電車が来たのだった。

 てっきり村を抜けて山の方へ進んだと思っていたのだが、操はどうやら、朔太郎を駅へ連れ戻していたようだ。列車が停まる。

「さあ、兄さん」

 操が優しく朔太郎の背を押した。出入口に掲示してある駅名が、ぐいと襲いかかってくる。ここに来たときは見て取れなかった看板の文字が目視できるようになっていたが、そこに書かれている文字は、確かに日本語なのにどうしても読み取ることができなかった。ひらがなを複数重ねたような、ひらがなを左右逆にして歪めたような変な書式で、朔太郎は急に吐き気を催した。もう二度と見たくない。

「操も乗れよ!」

 押されながら車両に乗り込んだ朔太郎を、操は変わらぬ笑顔でホームから見上げていた。

「気をつけてね。六番目の駅で降りるんだ」

「操!」

「大丈夫だよ、兄さん。もうここへは来ないで、立派な親方になってね」

 無情にも、扉は閉まった。そして朔太郎の乗車を待っていたかのように、電車は走り出す。朔太郎は窓を開け、外に身を乗り出した。

「操!」

 列車の音に負けないよう叫んだ。操に届いているかはわからない。

 操は、穏やかに朔太郎を見上げたままだった。電車が加速し始めた。

「操」

 黒い学生服がどんどん遠ざかる。

「操……」

 視界はぼやけ、ぐにゃぐにゃに歪んだ。

 かんかんかんかん。

 ぼん、ぼん、ぼん、ぼん。

 朔太郎は誰もいない電車内に膝をついた。

 そうして、ついにこぼした。

「俺も一緒に死にたかった」


 それからどうやって帰路についたか、すっぽり覚えていなかった。気がついたときには通常の様子の電車に揺られ、実家まで帰ってきてしまっていた。

 深夜。でんと構える酒造店の正門をくぐりながら、東京へ帰るはずだったのになあ、なんて、変哲のないことをぼうっと考えている自分に驚いた。ついさっき起こったであろう出来事は、あまりにも非現実的すぎて、でも、操の笑顔や匂いや頬の感触はあまりにも愛おしすぎて、わけがわからず、もう一切の思考を止めてしまうしか、なす術がなかった。

 朔太郎はそれから、みなが寝静まった屋敷の長い廊下をひとひとと歩き、操の部屋へ行った。

 そして、当然の習慣のようにそこで寝た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る