第四話

 狭い田舎町に走る噂話は秒速だ。操の訃報は、すぐさま町中に広まった。

 葬儀は、見せびらかすように大々的に行われたが、朔太郎の思考は始終底を這っていたため、何がどう行われてどう終わったのか全く覚えていなかった。気が付いた時には喪の衣装を脱ぎ、操の部屋でぼうっと天井を見上げていた。

 ひんやりとした畳に投げ出した四肢に、感情はない。収骨さえ終わったというのに、脳には「?」しか浮かび上がらず、昨日と今日で何が変化したのか、一寸も飲み込めていなかった。

 ひぐらしの声が、開け放した障子の戸を通じて響いてくる。夏の夕方のにおいが充満する操の部屋は、呼吸をひそめているかのような空気を抱えていた。庭の木々が風に揺られるさやさやという音に耳を傾けながら目を閉じると、意識はゆっくりと沈んでいった。

 そのうち、朔太郎は人の気配で目を覚ました。畳に大の字になったまま縁側の方へ顔だけ向けると、まさに「はっ」という顔をした女性と目が合った。二度目だ。

 あぁと思う。

「また勝手に入って来たの……」

 朔太郎の厭きれたような声を聞くや否や、麦子は勢い良く頭を下げた。

「ごめんなさい!」

「操の葬式なら終わったよ」

 朔太郎は、自分が何を発言しているのかよくわからないまま言った。

「知ってます。参列させていただきました」

 彼女は殊勝な顔をして静かに言った。

 それから飼い主を探している捨て犬のような様子で、辺りを一周だけ見回した。

「操ちゃんも、最後まで本名で呼んでくれなかったな」

 操の急すぎる、そして早すぎる訃報についていけていないのは、屋敷中の動揺を見るに朔太郎のみではないようだったが、麦子だけは始終落ち着いていた。このような事態になったとき、一番動転して大騒ぎするのは麦子だと思っていたが、その予想は見事にはずれたようだ。

「そりゃあ動揺しましたよ。私だって」

 麦子は、暗くなってきた空を見上げながら話した。

「じいちゃんから聞いた時は、全然意味がわからなかったし、意味がわからなかったっていうか、冗談でも言ってるのかな、みたいな。飲み込めない感じで」

 うん、と、朔太郎は心の中で頷いた。朔太郎自身も全く同じ状態だった。

 操の死の現場にいた唯一の当事者だというのに、無責任にも心底、同感した。

「操ちゃんはいなくなったはずなのに、操ちゃんの靴とか、操ちゃんの書いたメモとか、操ちゃんの写った写真とか、そういう操ちゃんが生きてた跡は残ってて、本人だけ突然もういないとか、よくわかんない」

 本当にそうだ。その通りだ。

 朔太郎は沈黙で同意を示した。

「死んだってなに? 操ちゃんが死んだなんて、嘘なんじゃないかな。よぼよぼのおじいちゃんになったわけでもないのに」

「……」

「明日になれば、また戻って来る気がする。ちょっとの間だけ、見えないところに隠れてるだけで、もう二度と会えないなんてことは絶対ないよ。うん。CD貸したまんまだし」

 麦子は、そう自分に言い聞かせていた。

 彼女と同じように楽な方へ思い込みたい朔太郎と、操の死体の臭いが忘れられない朔太郎が、ひとりの朔太郎の中で拮抗しているようだった。もう実家に留まっていたくない気持ちもしたが、都会での一人暮らしに戻る理由も見当たらなかった。

 操の部屋から中庭へ続く縁側に座った、麦子の橙色の膝が宙に泳ぐ。つまさきが不規則なリズムでいったりきたりして、壊れたメトロノームのように、乾いた振り子時計のように、ぶらぶらした。



 操の死をきっかけにすっかり窶れてしまった宇賀神も、麦子と同じようなことを言っていた。

「亡くなった人は、消えてしまったわけではないんですよ、朔坊ちゃん。少しの間だけ、ここから見えない場所に隠れてしまっただけなんです」

 じゃあなんで隠れてるんだよ、かくれんぼでもしてるつもりか? もうそんな歳じゃないだろうに。

 声には出さなかったが、朔太郎がそんなことを腹の中で思っているのを感じたのか、宇賀神は、あやすように弱々しく笑ってみせた。

 操を実の息子のように育てていた彼女にとっては、その死は言葉で表せないほどの衝撃だったはずだ。それでも決して欠勤しない彼女の立ち姿を見て、朔太郎の脳裏につい「母は強し」というあまり好きではない言葉が過った。

「宇賀神さん、母さんはどうしてる?」

 急にぶっきらぼうに聞かれたことに驚き、宇賀神は一瞬たじろいだ。

だが、すぐに答える。

「奥様でしたら、お部屋でお休みになられていますよ」

 実際の両親のことは、操の葬儀の際に、やたらと綺麗な喪服で首元に真珠を輝かせながら親戚やそのほかの重役そうな関係者に挨拶をしている姿を遠目に見かけた以来、目にしていなかった。

 何がお休みだと、腹の底が煮えくり返る思いだった。本当に休むべきは宇賀神を始めとする、日頃から操と関わりの深かった人々だろう。

「朔坊ちゃん、お抹茶でもお持ちしましょうか」

 絵に描いたような「母親」の笑顔で言う宇賀神を見て、朔太郎は胸が締めつけられた。



 昔、まだ兄弟がランドセルを背負っていた頃、宇賀神はよく、広い庭で走り回って遊ぶ二人を、縁側に腰掛けて見守ってくれていた。湯気の立つ茶が揺れる湯飲みを持って穏やかに微笑む宇賀神は、実際より幾分歳が増して見えたが、それが余計に兄弟を落ち着かせていたのだった。「母親」が見守ってくれている空間というものは、子どもにとって、無意識にも平和な世界になり得るのかもしれなかった。

「宇賀神さん!」

 操が器用に庭池を飛び越え、片手を掲げながらぱたぱたと縁側へ駆け寄った。

 それを追いかけながら「あちー」とこぼし、シャツの胸辺りを揺らして風を起こそうとしているのは朔太郎で、走る気力も、そもそもやる気もないように、潰した革靴を引きずりながら歩いていった。朔太郎のほうも、片手に物を持っていた。

「見てください! 俺のと兄さんの、どっちが大きい?」

 日焼けなどなんのその、雪のように白い肌を太陽の光で輝かせながら笑う操は、蝉の抜け殻を指先で持っていた。遅れて到着した朔太郎も同様に、蝉の抜け殻をでんと掲げ、宇賀神の目の高さにする。

「ぜってー俺のが大きいよなあ」

「そうかなあ? 翅は兄さんのほうが大きいけど、体長は俺のほうが大きいよ。〇.四センチくらい」

「こまかー!」

 優劣をつけたくないため、宇賀神はどちらのものが大きいか、答えは出さなかった。

「どっちも大きいと思いますよ。同じくらい」

 しかし彼女の優しい答えでは、朔太郎も操も、幼いながら満足しなかった。

「同じじゃだめなんだって!」

「じゃあ、定規で測ってみる?」

「うーん……定規って、なんか勉強してるみたいじゃない?」

 うんざり、という表情をする朔太郎に、操は笑いかけた。

「そうだね、やめたやめた」

 また新しい蝉の抜け殻を探索しに行く兄弟は、何も疑わず本当に楽しく遊んだ。このような場面だと、やたらと広大な庭も魅力的な遊び場になる。

 宇賀神の座る縁側から続く座敷の部屋には、涼しげな風鈴の音が響いていた。テーブルの上で、扇風機の風に勝手にページをめくられているのは、操の「夏休みのとも」だった。飲みかけの麦茶が入ったガラスのコップは汗をかき、テーブルの茶色を濡らしていた。中の氷は、すっかり溶けてしまっている。

「お二人とも、喉乾いてませんか? なにか用意しましょうか」

 汗で色が変化している朔太郎のシャツを見て、宇賀神が声をかけた。

「冷たいやつがいいです!」

「うん、氷入れてほしい!」

 二人は遠慮なく注文した。

「冷たい何ですか、お水? 麦茶?」

「おまっちゃ!」

「操ちゃんはお抹茶ですね。朔坊ちゃんは何にしましょう?」

「俺も同じのでいいや!」

 二人は、そんな調子で長い間、炎天下の下で夢中になって遊んでいた。

 が、突然、屋根の下へ戻るよう言う声がかかった。

 兄弟の産みの母親は、直射日光を避けるように真夏らくしない着込み方をして、意地でも庭に出るものかと廊下に立ったまま、外気なんて不潔なものは吸い込みたくないとでも言わんばかりに口を袖で覆いながら、宇賀神の横に立っていた。

「朔太郎、宿題は終わったの?」

 二つの小さな足音が、ぴたりと止んだ。

 朔太郎は、表情の消えた顔を横に振った。

「早く終わらせなさい。いつまで汚い真似をしてるの」

「汚くないよ、母さん。蝉の抜け殻を見つけたんだ」

「そんなもの集めて何になるの。捨てなさい」

「だって」

「言い訳は聞きません」

 だって、操と遊ぶの楽しいんだ。

 母親は、夏休みはおととい始まったばかりだというのに、宿題をすっかり終わらせるまで自由な時間にも口を挟んでくる気のようだった。そうでなくても、早朝から昼食まで休憩なしで勉強をさせられ、夕方は家業の見学、夜も大人しく机に向かっていないと怒られるのに、まだ束縛してくるつもりらしい。

 不服そうに黙る朔太郎の横で、操はしばらく口を閉ざしていたが、やがて遠慮気味にひとこと、発言した。

「僕もお兄さまと遊びたいです。お母さま」

 母の目がほんの一瞬、朔太郎の横に滑りそうになったが、結局そうはならなかった。

 宇賀神が、色が白く変わるほど下唇を強く噛んで顔を背けた。目元は暗い。

「朔太郎、今すぐ勉強に戻りなさい」

「でも、母さん」

「戻らないとお父さんに言いつけるからね。あなたはここの長男なんだから、他の人たちと同じように遊んでる暇はないの。たくさん勉強して、お父さんのように優秀な蔵元になりなさい」

 そう言い残して音もなく去って行く母親の後ろ姿は、とんでもなく悪質な魔女のように見えた。凍った空気を壊すように、宇賀神が朗らかに撤収を提案し直してくれる。

 寂しい夕暮れ時のひぐらしの鳴き声が、あの懐かしい夏休みの思い出と重なった。

 やがて、あの頃よりさらに年季の入った宇賀神が、操の部屋で呆けたようにただ横になっている朔太郎に、そろりと冷えた抹茶を運んできてくれた。

 氷がグラスに当たる冷たい音が、耳に痛い。胸にも痛い。

 抹茶が好きだったのは、操のほうなのだ。



「人の人生を勝手に操ってる奴、誰だか知らないけど、その人に最後の最後くらいは抗ってみたくない? 最期くらいはさ、自分の思い通りのときに迎えたいじゃん」

 最後の晩にそう語っていた操の言葉が、ずっと忘れられないでいた。

 時間が経過し、脳と体が操の死の事実に慣れてくるにつれ、操の死に様のことを考えて過ごす時間が長く、長くなっていった。最期は自分の思い通りのときに迎えたいと言っていた彼が、今際にああいった行動を取ったのは、無理無理には納得はできるが、だとしてもなぜ今だったのか、なぜ朔太郎を巻き込んだ(巻き込もうとした)のか、それらに関しては見当すらつかなかった。

 あの晩、操の囁き声で言われたものは、まるで魔術かなにかの呪文のようだった。他の部位がどんなに落ち着いてこようと、心は慣れてはくれない。感情は依然、麻痺したままだ。

 操のいない世界に寄り添えずにいた。理解はできず、しようともせず、したくもない、よもやできるまい。操の死から何も口にしていないせいで、朔太郎は始終ぼうっとしていた。

「母さん」

 母屋の廊下を進んだ奥に位置している寝室の前に膝をつき、襖を開けずに声をかけた。返事はない。しばらく待っても静寂があるだけなので、朔太郎は諦めてそのまま続けた。

「東京に帰ろうと思う」

 反対意見の怒号が飛んでくるかと身構えていたが、向こう側から流れてきたのは、蚊取り線香の煙たい匂いだった。

「荷造りが済んだら帰る」

「帰る、なんて言うの」

 静かに返ってきた母の言葉は、寝起きのようで寝落ちる寸前のようで、それでいて妙に発音がはっきりしていた。

「あなたの家はここでしょう、朔太郎。帰る場所はここであって、東京は一時の住処」

 朔太郎は、これには特に返事をしなかった。操のいない家を「帰る場所」とは言いたくなかった。

 沈黙したまま立ち上がり、その場を後にする姿勢に入る。

「母さん」

「なあに」

「どうして病院に来なかったの。操が死んだとき」

 母からの返答はない。

 朔太郎は詰問した。

「母さんは、夜、屋敷での客の応対くらいしか仕事はないだろ。なのにあの事故——朔太郎は、自分の発した事故という言葉に抵抗を覚え、軽く眉を寄せた——のとき、病院に駆けつけてくれなかった。なんでですか」

 それでも母は何も言わなかった。

 寝たわけはないと思ったので、朔太郎はそのままの口調で、とどめを刺した。

「操もあなたの息子だ」

「……」

「死んだのが俺だったら、駆けつけたくせに」

 怒りというよりは、厭きれのような感情だった。朔太郎は廊下を歩き出した。

 すると、ようやく返答の声が聞こえてきた。

「あの子どもが自分の子だったか、自信はない」

 あゆみが止まる。耳を疑った。

「産みはした。産みはしたけど、誰の子かすらわからない」

「何をふざけて……」

「朔太郎、あなたはまだ小さかったから知らないでしょうけれど。あの子どもを妊娠した頃は、わたし、ちょうど他のことで入院していて、しばらく誰とも寝ていなかったの。だから落合の子かどうか以前に、なぜ孕んだのかもわからない、とても気味が悪かった」

「……は……?」

「話してたら、本当に気分が悪くなってきた。いやだ」

 布の擦れる音が聞こえ、その次には軽く咳込む気配も聞こえてきた。朔太郎は、聞き難い話を聞きながら、両腕にざわざわと鳥肌が立つのを感じた。

「そもそもわたしは体も弱いし、あなたさえ無事に産めれば、それで良かったの。落合には跡継ぎになる長男しかいらない。二人も産むなんて必要も、希望もなかった」

 母はまた咳込んだ。

「それなのに……。どこかの神の母でもあるまいよ。あの子どもは基督きりすとじゃあない」

「操をあの子どもと呼ぶのはやめてくれ」

「人にものを頼む時は、ください、でしょう。朔太郎」

 朔太郎は、襖を睨んだ。母親の、他の色が混ざったことのない漆黒の髪や、直射日光を嫌う病的に白い肌、病原体でも扱うように動かす指、相手の内面まで観察したがるように動く瞳、人体に害のある瓦斯でも吸うかのように呼吸する雰囲気が、それ越しにありありと浮かぶようだった。

 かつては、操の容貌は母親譲りなのかと考えたこともあった。決して美丈夫とは言えない父親と、外見の良さだけで生きてきたような母親の間に産まれた子どもだ。長男のみてくれは父に似ているところが多々あるが、次男に関しては、母の美しさをこれでもかと腹の中で吸収して生まれてきたように見えていた。

「確かにわたしの腹からは産まれた。でも。名さえ与えていない子どもに情など——」

 朔太郎は唾を飲み込んだ。

「名さえ与えてないって、どういうこと」

「あの子どもの名前のこと」

 母はまた咳込んだ。

 落ち着くと、再び話し出す。

「あなたの名前は責任を持ってお父さんがつけたけど、あの子どもの名前は宇賀神がつけたの。彼女を雇ったのは、あの子どもが生まれたから、だから。ここに来てまず名付けの仕事を命じた。朔太郎とは似ても似つかない子になるように、そんな名を。そのあとの育児もわたしは一切していないでしょう、全て宇賀神に任せたから。正妻の仕事ではないの、あんな子の面倒見など」

「やめてくれ……」

「やめるなんて、もう終わったじゃない。あの子どもは死んだ」

 母は、疲れたようにため息を伸ばした。

「でも、まだ早いうちにこうなってくれて、良かった。最初は中絶する予定だったの、あの子ども」

「だから、操だっつってんだろ!」

 わけもわからず、朔太郎は泣き出した。

 涙がぼたぼたと溢れて流れて、止まらない。それらは木の床に次々と染みを作り、乾く暇もなくぽつぽつ、ぽつぽつと、丸い柄を描くように続いた。操が突如としていなくなったあの晩から、初めて泣いた。初めて「苦しい」という感情が起こった。

 苦しい。苦しい苦しい。操がいない。くるしい。

 耳の中で警報が鳴る。遮断機が下りる。

 かんかんかんかん、かんかんかんかん。

 みさおはしんだ。操がいない。かんかんかんかん。

 声もなく涙がただ垂れていたのに、徐々に泣き声が起こってきて、ついには嗚咽が抑えられなくなった。目眩を感じ、朔太郎は、廊下を染めている涙の跡によろよろと膝をついた。酸素を吸うのが困難になる。見下ろした自分の手の甲が、信じられないほど青かった。

「口の利き方に気を付けなさい。朔太郎」

 母の冷酷な言葉が、襖の向こうから下される。

「それと、お正月にはまた帰って来なさい。あなたの許嫁もここに来るから」

 朔太郎は立ち上がれない。

 もう、狂ってしまいそうなほど、今すぐ操に優しい抱擁をしてやりたくて、たまらなかった。

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