第三話
その日の夕餉は、朔太郎とその許嫁が顔合わせをする予定だった。
昨日の朝早くから呼びつけたくせに、要となる行事は翌日の夜に行われるなんていう両親の勝手も、息子にとっては(不本意にも)慣れてしまったものだった。
朔太郎はまた、操の部屋にいた。一応、この屋敷にある朔太郎の部屋は、一人暮らしを始める前と変わらぬ状態でそこにあるが、実家で自分の部屋にこもることをあまりしたくなかった。操の存在がそうさせている、ということは明白だった。
そのうえ、操の部屋には両親始め身内の人間はほとんど誰も来ず、顔を出すとしても宇賀神くらいなので、警報から耳を塞ぎ航空機攻撃から身を庇う防空壕に守られている気持ちで、昔からここに居座ることが多々あった。
両親は戦火か? 朔太郎は否定しない。
夕餉は、縁談を結ぶ予定の両家のみで行われた。しかし、操は立ち入りを許されなかった。顔合わせ中はずっと弟が隣にいてくれるものと思い込んでいた朔太郎は、すっかり気落ちしてしまったが、だからといって出席しないことが許されるわけでもなかった。酷だ。朔太郎の足は重い。
対照的に操は、自分が追い出されることは事前にわかっていたかのような様子で、また何の未練もなく静かに立ち去って行った。去り際、兄を落ち着けようと笑顔まで見せていった。
その時間が終わるまで、相手の顔は見ないようにしようと決めていた。どうせ断るのだから、変に気を持たせてしまっては不憫だ。操のみてくれを持っているならまだしも、朔太郎にとってはおそらくいらない心配に気を揉んだが、食事を挟んで向かいに正座する姿が気にならないわけではなかった。
向こうだって同じ状況の可能性もあるのだ。両親が勝手に決めた結婚に腹を立て、この時間が終わったら絶対に断ってやると、もしかしたら朔太郎よりもずっと気合い満々で意気込んでいるかもしれない。もしそうだったら、良き友人になれる気がした。
ひとつ、ふたつ、質問が投げかけられ、彼女が小声で答える。高く細い声で、洗練された上品な言葉遣いで、膝の上で組み合わせた白い指先をときおり動かしながら、この場にいる誰もを気遣うような丁寧な受け答えをする。きっと目が覚めるような美人なのだろう。朔太郎の両親が彼女を褒めるたび、朔太郎の中の彼女の像が育っていく。
意地でも顔を上げない、はっきりとした声も出さない、意思表示の一つもない朔太郎は、そんな彼女にテレパシーでも送信したい気持ちだった。
二人とも断れば破局になるさ、こんな縁談。
朔太郎の食事は一向に減らない。
アルコールの入った双方の両親は、すっかり気が良くなったようで、隣で朔太郎が始終気乗りしない態度を取っていても、叱りの拳が飛んでくるようなことはなかった。一刻も早くこの場を後にしたい気持ちを抑え、耐え抜いた結果、両親の怒号を聞かぬままお開きとなった。奇跡だ。
朔太郎は速足で廊下を滑りながら、小さくガッツポーズをした。あとは明日の朝、アルコールがすっかり抜けてから、この縁談を断る話を正々堂々、両親にぶつけるだけだ。
操の部屋は空っぽだった。まっすぐに操の部屋に戻って来た朔太郎は拍子抜けしてしまい、一瞬、思考が止まった。
はて、どこにいるんだろう、と顔を左右させる。
「兄さん」
声は背後から聞こえた。
操の歩み寄る音は全く聞こえなかった。
「終わったの?」
中庭から降る白い月の光の逆光で、表情はよく見えなかったが、辛うじて口元が持ち上がっていることだけはわかった。朔太郎は安堵した。
「終わった」
「おつかれさま」
操は部屋に入らず、廊下と部屋の境目の障子あたりで立ち止まった。
「お父さんもお母さんも、珍しく酔ってたね」
「おかげで怒鳴られなかった」
「俺が女中達に頼んでおいたんだ。おめでたい席だから、いつもよりちょっとばかり度数の高い日本酒を盛るようにってね」
「そりゃあまた……食事に手を付けなくてよかった」
操は、屋敷に仕える人々や蔵人たちとも仲が良い。こうしたいたずらも、すっかりお手の物だった。
朔太郎は昔を思い出しながら、昨日からずっと気にかかっていたことを口にした。
「昨日のさ、越えちゃいけない線を越えようとしてるとかなんとかって、なに」
操は、え、と言いながら軽く笑った。
「今、その話する? 自分の縁談より俺の冗談のほうが気になるの?」
「冗談? ……冗談か」
「俺は兄さんの将来のほうが気になるけどね」
操はくるりと背を向け、両腕をぐっと宙に伸ばして深呼吸をした。
「空気が綺麗だ」
などと言いながら、自分の言葉に自分でうん、と頷き、もう一度その綺麗な空気を肺いっぱいに押し込めた。
彼は、胸を膨らませた状態のまましばらく沈黙していたが、不意にすとんと肩を下ろすと、確信したような口調で話した。
「兄さんはいい杜氏になれるよ。絶対に」
「だから俺は……」
「嫌なのはわかってるさ。でも、実際この家の長男は、他でもない兄さんなわけだし」
「だとしても」
「兄さんは頭も良いし機転も利く。誰からも好かれる人柄だし、人を束ねることも簡単にできるじゃないか」
「それ、お前のことだろ」
「違う、兄さんのことだ」
「俺はそんな器用な人間じゃない……」
「そうかな」
「そうだよ。第一、頭の良さも人からの好意も何もかも、操のほうが」
「俺と比べる必要はないんだよ」
一瞬、会話が途切れた。
操はやっと振り向き、なだめるように微笑んだ。
「この家の長男としてちゃんと生まれた時点で、もう後を継ぐのは兄さんだって決まってたんだ。これは変えられない事実さ。俺が代わってやることもできない」
だんだん風が出てきた。冷えた夜風が、兄弟の間を邪魔していく。
朔太郎は重い口を開いた。
「操なら、最後は俺の味方になってくれると思ってた」
いじけたようなその言葉を聞くと、操はふふっと微笑んだ。
「俺はいつでも兄さんの味方だよ」
「なら、一緒にこの縁談を断ってくれ」
「そんなことしたら、俺、おそらく本当の意味で殺される」
操は、親指で首を切る仕草をし、朗らかに笑った。そうして周囲には他に誰もいないというのに、さらに声を潜めて話し続けた。
「兄さんはなんだか、許嫁も縁談を嫌がってると予想してるみたいだけど、あっちの家はこの機会を身に余る光栄だと思ってるよ」
「え?」
「向こうは、断る気なんてさらさらないぜ。兄さん一人が喚いたって、取り消しになんてほぼ確実にならないだろうね」
「だったらお前も一緒に——」
「だからそれは無理だって。俺が首突っ込んでいい話じゃないことくらい、わかるだろ」
「じゃあどうすれば」
朔太郎はそこで言葉を切った。
そして、先ほど操がしていたように深く空気を吸い込み、落ち着きを取り戻そうと努めた。きいん、と、冷たい宵の酸素が肺の底に突き刺さった。吐く息は、真夏だというのに白く曇った。操の肌はそれより白い。
「俺の人生なんだ」
朔太郎は弱々しく言う。
「俺の人生を、なんで俺が決められない?」
親よ。どうしてあなたたちは、子を所有物のように扱うのだ。どうしてひとときもその首輪を放してやれないのだ。子に自分と同じだけの未来があり、今があり、過去があると理解しているのであれば、その言葉や表情や行動で、子の人生の選択肢をひねり潰したりはできないはずだ。
俺はこの家に生まれた。でも、この家で生きたくない。なぜそれを俺が決められないのだろう——朔太郎は苦しむ。毎晩。
やがて、しばしの沈黙のあとに、操がそうっと言った。
「きっと誰もそうだよ。誰もが、自分の人生を自分じゃない誰かに操られてる」
その考えにも確信があるような言い方だった。
「死ぬ瞬間さえも、おそらく自分の意志とは関係なくやって来る。そういうものだろ」
操は、廊下に立っている木目が剥き出しの柱に寄りかかり、胸の前で軽く腕を組んで目を伏せた。
「俺はそれに抗いたいけどね」
「それ?」
「自分の望まない瞬間に死んじゃうこと」
「はぁ……?」
「他人の人生を勝手に操ってる奴、誰だか知らないけど、その人に最後の最後くらいは抗ってみたくない? 最期くらいはさ、自分の思い通りのときに迎えたいじゃん」
「うーん……わからなくはないけど」
「俺は生まれた瞬間から落合操だった。兄さんは生まれた瞬間に落合朔太郎になった。でも、死んだあとだったら、もしかしたら俺は落合操じゃないかもしれない。兄さんも落合朔太郎じゃないかもしれない」
「……」
「変な話だよな。でも、そう信じちゃうんだ。死んだあとなら、俺たちは誰でもないなにかになれるのかもしれないって」
操が自分の心持を、こんな風に吐露するのは珍しかった。もしかしたら初めてかもしれない。朔太郎が一ミリも考えたことのない範疇のものを真剣に考えている弟が、また心底素晴らしいと感じたし、同時に畏怖のような感情も湧き上がってきた。
毎日のらりくらりと生きていて、諦めることと逃げることしかしていない朔太郎とは、たちが違うのだ。
そう、こいつこそ、跡継ぎにふさわしいというのに。二番目に生まれたから何なんだと問い詰めてみたくもなる。世襲? ああ、なんて時代遅れな。
夜風に乗って、まだ宴会の続きをしている声のざわめきや、食器の触れ合う音がそよそよと流れてくる。朔太郎はなぜだか、眩暈がするような頭の重さを覚えた。おかしい。アルコールは飲んでいないはずだ。
何かを言おうとして口を開いたが、躊躇してやめた。
操の顔が、ぼやけてははっきりし、ぼやけてははっきりした。自分の思う瞬間に死にたい、それはそうだな、と、ワンテンポ遅い同意をした。
思えばこれまで、生きたいと思って生きてきたわけでもなかったな——朔太郎は思った。
いつからこんなに無気力になったんだっけ。勝手に出産されて、生かされて、勝手に動かされて、ずっと生きてきた。自分で選択してこの家に生まれ落ちたわけではないし、ましてやこんな家系の長男になんて、選べたとしても選ばない。価値を見出せない、生き甲斐のない薄い人生だ。そんなだから、生への執着もない。もう自分がいつ死のうと構わなかった。
唯一この生と現世に未練があるとしたら、それは操だった。朔太郎にとっては操が家で、操が生で、操が死なのだ。操がいればそれでいい。
「…………」
死んだあと、誰でもないなにかになっても、操は俺の傍にいてくれるのだろうか。
それとも、落合の姓が消えてなくなったら、兄弟ではなくなってしまったら、その存在まるごとどこか遠くへ行ってしまうだろうか。それはいやだな。朔太郎は思った。それはいやだ。では、死んでも操の傍にいるためには、一体どうすればいいのだろう? 兄弟という関係性をどうにかして維持できれば大丈夫だろうか? 都合のいいときだけ血縁関係を利用しようとする自分に、干からびてなお動こうとするミミズのような意地汚さを感じた。
遠い宴会の音は極楽の奏でのようで、目の前に立つ姿は神の遣いのようで、朔太郎は、麻薬に毒された末期患者の気分で瞼を下した。結婚なんて、跡継ぎなんて、生も死も、もうどうでもいい。なにもかもどうでもいい。操。操だけでいい。
すると、操がいつものように音もなく歩み寄って来て、兄の耳元にそうっと口を寄せた。
ひとこと囁く。
数十分後、兄弟は、通い慣れた駅のホームに立っていた。誰もいない、深夜の寂れたホームだ。
「兄さん」
優しい声に顔を上げると、操が、朔太郎に向けて片手を伸ばしていた。
「いや……なんの真似だよ」
「いいじゃん、最後くらい。昔に戻ったみたいだろ」
そう言われてもまだ渋ったが、にこにこと笑みを絶やさぬまま手を差し出し続ける弟に参り、朔太郎は照れ臭さを噛み殺して、その手を握った。
「お前、暑くないの」
蝉の声は、まだ眠ってくれないでいた。
真っ黒な詰入の学生服を着た操の手は、それなのに汗など全くかいておらず、ベビーパウダーに触れた時のような感触でさらさらしていた。
「暑くないよ」
「あ、そ、ならいいけど」
「寒くもない」
「ふうん」
「兄さんは? 暑くない? 寒くない?」
真夏に「寒くない?」はおかしいだろと思ったが、それには特に答えなかった。
横をちらと見ると、操は穏やかな笑みのまま、線路の向こうに立っている「落合酒造店」の看板を眺めていた。ずいぶん色褪せてはいるが、依然と立派に立っているそれは、切れかけの電灯に照らされて、ちかっ、ちかっ、とどよめいていた。
しばらくぼんやり待っていると小さく、かんかんかん、と踏切の警報が鳴る音が聞こえてきた。この駅には停まらない電車がやって来る。それは、やがて突風を連れて目の前を通り過ぎるだろう。朔太郎は、点字ブロックの並ぶ黄色い線の上に足のひらを乗せ、そっと先へ越えた。
「兄さん」
なに、と操を見たが、彼は何も言わずにただ微笑んでいた。
かんかんかんかん。
操の背後に、電車の顔がどんどん迫ってくるのが見えた。
かんかんかんかん。
光はだんだん大きくなり、線路を揺らす音も、徐々に鮮明になる。
かんかんかんかん。
握った手が引っ張られる感覚がして、朔太郎は目を閉じた。
次に目が覚めたのは、見覚えのない真っ白な天井のある、冷たい場所だった。うっかり火葬場で起きてしまったのかと思ったが、そんなことがあるはずはない。
首を動かすとぎしりと体が痛んだ、と思ったのだが、痛みなど全くなく、体は自在に動かせた。さらに、自分はどうやら知らないベッドに寝かされているようだが、体には呼吸器などもつけられておらず、まるでこの場所で昼寝でもしていたかのような気楽な体勢だった。
おかしい。と思い、身を起こした。
何が起こっているのか理解も想像もできないので、とりあえず誰かを呼ぼうと声を上げかけたとき、クリーム色のカーテンの向こうから、なにやら人の声がした。心地よい低さの男性の声と、それに相槌を打つ女性の声だ。
「あの」
目覚めたことを知らせるように言う。カーテンの向こうの会話がぴたりと止まった。
しゃっ、とカーテンを引いて顔を出したのは、医者の格好をした男性と、看護師の格好をした女性だった。そうか、ここは病院か、と納得する。
「君、落合のお家の長男だね」
医者の第一声がそれだった。田舎の者はそのブランドが何より気になるらしい。
うんともいいえとも取れない返事をすると、別にその返事に期待していたわけでもない態度で、医師が続ける。
「じゃあ、一緒にいた高校生は次男の子かな」
「そうですけど、操……」
そこで一気に思い出した。
今が、ただ昼寝から目を覚ました瞬間ではないこと、意識を失くす直前のこと、それを提案してきた弟の言葉、昨夜の夕餉、昨夜の操。
血の気が引いた。
カーテンの向こうにいるはずの姿をこの目で確かめたかった。
「みさ、み、操は」
心臓の鼓動が血管を震わせ、喋りにくい。
「操、は」
急に錯乱し出した様子を見かね、医者が、妙な無表情でカーテンを全開にした。
隣のベッドには、高校生ほどの年齢の男性の体くらいの大きさに膨らんだシーツの山が、どんよりと横たわっていた。片脚があるはずの場所はすっぽり凹んでいて、顔があるはずの場所には、端の方が赤黒く染みている白い布が柔らかくかけられていた。純白のはずのベッドは、顔の布の染みと同じ色ですっかり汚れ、枕の横には、真っ黒な学生服の破片だと思われる塊が、乱雑に置かれていた。隣には見覚えのある携帯電話が、画面が粉々に割れて中身が見えている状態で、大人しく並んでいた。
看護師が、作ったような同情の顔で傍に来て、朔太郎の肩に優しい力加減で手を置いた。
「とてもかわいそうだけど」
「操、は」
「でも、苦しまなかったと思いますよ」
「操」
「きっとあなたを庇ったんでしょう。ホームから落ちてすぐ、電車が通り抜ける直前に、あなたを突き飛ばして線路の上から逃がしたみたいです。だからあなたはほぼ無傷で、衝撃によって意識だけ失った状態で発見されました。でも弟さんは」
「操……?」
「落ち着いて、ね。今、ご両親に連絡したところですから」
その先は何も聞こえなかった。
ここは地獄の底だ。朔太郎は思った。
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