第二話

 翌日は猛暑だった。

 古い平屋の日本家屋を十分に冷やすには、年代物の冷房は頼りなく、朔太郎は早速、鳥肌が立つほどガンガンに効いた東京のクーラーが恋しくなってきていた。

 昼食。縁側に並んで操とそうめんを啜り、食後に宇治抹茶味のかき氷を頬張った。

 それから、お盆が近いので墓参りに行こうという話になり、兄弟は揃って「落合家代々」の墓が並ぶ墓地へ向かった。四十度近くあるのではないかと思わせるほどに暑い昼下がり、外を歩くのは容易ではなかったが、車での送迎を頼むほどの距離でもないので、二人は徒歩で行くことにした。

 くだんの墓地は、母屋の背後を守るかのように聳える裏山の、反対側の淵にあった。横に広がる田と裏山の木々の間をなぞるように歩き、反対の側まで向かう。道中、蝉の声は変わらず大きく響き、暑さをいっそう厳しいものに感じさせてきた。

 墓地に向かう途中、首の後ろの汗をハンカチで拭きながら、ふと操の視線の先を追うと、広大な田畑の向こうに、ミニチュアサイズで小学校が見えた。兄弟も通っていた学校だ。春には、校庭をぐるりと囲む桜の木々が満開になってきれいだが、夏のいま、それらは鮮やかな緑色をして風に揺られていた。これはこれで趣がある。

「小学校はまたクラスが減ったってさ」

 操が言う。

「俺たちの頃は一学年に三組あったよね。あ、兄さんの頃はもっとあったか」

「うん。五組まであった」

「今はもう二しかないって」

 過疎化が進んでいますねえ、田舎ですからしょうがないですねえ、なんて、操がふざけて言う。

「そういえば、兄さんは知らないだろうけど、最近とりせんが潰れたよ」

「え? まじ? じゃあみんな、どこで買い物してんの」

「駅の北のほうにヨークベニマルができたんだ。みんなそっちをよく使ってる。なんと百均とクリーニング屋まで入ってるんだぜ」

「うわあ。そりゃあ大人気だろうな」

「うん。先月なんて、隣にツタヤまで建ったからね。過疎化は進んでるけど、進化もしてるよ」

 操は愉快そうに笑った。

 軽トラックが一台、背後から走ってきたので、ふたりは道の端に避けて車が通り過ぎるのを待った。運転席には農協の帽子をかぶった老爺がいて、歩いていたのが落合兄弟だとわかると、窓を全開にして挨拶してきた。訛りが強すぎて、朔太郎は何を喋りかけられたのか聞き取れなかったが、操のほうは理解できたようで朗らかに笑い返していた。

 墓地に近付くと、町を横切っている線路を渡る踏切がひとつあった。渡れば森林へ続く小道があり、そこを抜けたら墓場だ。

 踏切に差しかかったとき、ちょうどかんかんと警報が鳴り響き、遮断機がゆっくりと下りてきた。兄弟は並んで立ち止まる。しばらくすると電車が通り過ぎたが、連結されて走っている車両が二両しかないため、あっという間に遮断機が上がることになった。朔太郎は普段、都内で何両もある長い列車での満員具合に慣れているため、妙な感覚になった。ここでの生活しか知らなかった頃は、これが「普通」だと思っていたのに。

 やがて目的地に到着した。ほっと一息つき、手に持っていたペットボトルのミネラルウォーターを口に含んだが、容赦なくぬるくなっていて顔をしかめた。

「誰もいないね」

 操が言った。

 背の高い木々に四方を囲まれた墓地は閑散としていて、通り抜ける風が肌に気持ち良かった。幼い頃は、ここで兄弟で「トトロごっこ」などをして遊んだものだった。木漏れ日がそよそよと揺れる様が、蝉の合唱に身を揺らす穏やかな踊りのようだった。

 石段を登り、そこから続く石畳を黙々と歩いて行くと、やがて落合家の墓石の前に出た。

 気の進まない朔太郎を置き、操は墓石の前にすっとしゃがんだ。慣れた手つきで線香に火を灯し、香炉に供え、手を合わせる。花を添える。立ち上がると朔太郎を振り向き、「さ」と促した。

「兄さん」

「面倒くさ」

「ご先祖様には礼儀を持たないと」

 咎めるような口調で言われ、朔太郎もしぶしぶ一連の動作を行った。

 線香のにおいが風に溶けていく。自分もいずれ入るのであろう墓を目の前に、朔太郎はため息をついた。

「兄さん、大学は楽しい?」

 何の脈絡もなく、操が突然聞いてきた。

 朔太郎は首を傾げた。

「楽しい……のかな。よくわかんないけど」

「よくわかんないの」

「可もなく不可もなくって感じ」

「ふうん」

 操はなぜかおかしそうに笑った。

 反対に、朔太郎はぶすっと唇を突き出した。

「ただ家から逃げたくて東京に出ただけだしなあ。やりたい勉強があって行ったわけじゃないし、友達も二人くらいしかいないし、バイトも疲れるばっかりで……、外は人が多すぎるし、アパートに一人でいるときがいちばん好きだ」

「休みの日はなにしてるの?」

「なにしてんだろ……寝てる。あー、お前がいたら東京だって楽しいのにな」

 朔太郎は真剣に言ったつもりだったが、操は吹き出して笑った。朔太郎はさらにむっとする。

「お前もこっち来ればいいよ。大学」

「東京の大学ってこと?」

 頷くと、操は腕をぐんと張って伸びをしてから、すとんと答えた。

「うーん、どうしようかなあ」

「なんで。来年から一緒に住んだら? 俺のアパートに」

「それはすごく楽しそうだけど、兄さんの華の大学生活を邪魔したくはないし」

 操は悪戯っぽい表情をした。

 朔太郎はまた弟とは真逆の、げっそりした顔をしてみせた。

「華って。どこが」

「人生の夏休みなんだろ、大学時代は」

「人生の夏休みねぇ……」

 朔太郎は空を仰いだ。太陽は西に傾き、その辺りがオレンジ色に滲み始めていて、反対側の空の端は、徐々に濃い青色に染まり出しているところだった。そのグラデーションを眺めていると、なぜか心臓が縮む思いがする。

 長期休暇のある夏は、朔太郎にとって比較的好きな季節だったが、夏の終わりの時期はどうにも苦手だった。妙に切なく、寂しくなる。落ち着いてくる太陽は死を連想させ、やって来る涼しさは死を連想させ、土に還る虫や長い眠りの準備を始める動物は、まさに死の姿だった。

 人生の夏も永遠に続けばいい。

 朔太郎は隣を盗み見た。

「操も今年三年だし、考えてるんだろ、進路。どこの大学目指してんの?」

「行けるところに行くよ。でも、就職するのもいいなと思ってるんだ」

 驚いて操を見ると、彼は思慮深い表情で遠くを眺めていた。足元に無限の選択肢が広がる弟を、羨ましく思った。

 朔太郎は少し俯いた。

「……実家のことは、隠してるんだ。大学の奴らに」

「兄さんの立場だったら、俺もそうしただろうね」

「だろ? 世襲とか許嫁なんて馬鹿馬鹿しいしきたり、恥ずかしくて説明できないし。古いんだよなあ、田舎は」

「でもそうしたら、俺は余計に東京にいないほうがいいんじゃない?」

「え」

 言葉に詰まった。

 そうではない、いやむしろ、そうだからこそ一緒に来てほしい、一緒にいてほしいということを、朔太郎は力説できなかった。実家が嫌で一日でも長く居たくなくて、両親の猛反対を押し切って身勝手に東京へ出てきたが、その「実家」に操は含まれていないということを、理論的に整然と説明するのは難しかった。



 自宅へ帰る途中、暑くて気が滅入りそうだったし、ちょうど小腹も空いてきたので、寄り道をすることにした。

 田畑の広がる方面からそれて駅の方向へ歩き進めていくと、乗用車が一台やっと通れるような窮屈さの道から、歩道を示す白線が引かれるようになり、さらに町の中心部に近付くにつれて道幅は広がっていき、観光客も訪れるようなメイン通りに行くと、ようやく二車線の道路になった。飲食店や観光客向けの土産屋や、落合酒造店の酒を販売する店舗が連なる通りに出ると、夏休みの影響もあってそこそこ人の姿が見えた。

 ガソリンスタンドのある角を曲がり、くねくねした通りをのんびり歩いていくと、やがて「かき氷やっています」と書道で書いたような行書体の字で印してあるのぼり旗が見えてきた。瓦屋根から吊るしてある小振りな看板には、「御菓子処」とある。ガラス戸には「まんぢう」「いもようかん」などと貼り紙がしてあった。そこは、兄弟行きつけの和菓子屋だった。大正時代に創業されたこの店は、築五十年ほどになる風情のある建築物を店舗として構えている、地元住民にも観光客にも人気の老舗和菓子専門店だ。店内で飲食もできるため、猛暑日には避暑地としても有能だった。

「こんにちはあ」

 入り口の引き戸を横に滑らせながら、操が言う。

 ちょっとすると、商品が陳列されているショーケースの奥にある出入り口から、「はあい」と返事をしながら人が現れて、腰に引っかけたエプロンで手を拭きながら、大きくにっこりした。

「いらっしゃい。あら」

 ここの和菓子屋の四代目店主の妻であるその女性は、訪問客の姿を確認するとぽっと頬を染めた。名は臼井という。

「落合さん。こんな暑いのによく来てくださいました」

 臼井の娘とその弟は、ちょうどそれぞれ朔太郎と操の同級生なので、昔から常連客以上に親しい仲なのだ。

「外は蒸すようですよ。こんなときにはここのかき氷を食べないと、と思って」

 気の良い操の言葉に、臼井は眉を下げて嬉しそうに笑う。

「かき氷ですね。二人前?」

「ええ」

「よろしくお願いします」

 ふたりは答え、店内の端に配置してある椅子に腰掛けた。座った目の前には、木目が丸出しの低いテーブルがあり、横には囲炉裏がある。朔太郎は、店内を懐かしい気持ちで見回しながら、冬に期間限定で販売されるいちごだいふくが惜しくなった。あれは本当に頬が落ちるほど美味しいのだ。仕方ない、今は夏だ。かき氷を食そう。

 臼井はかき氷を用意しながら、こちらに向かって話し続けた。

「今日は朔ちゃんも一緒なんですね。いつ帰ってきたの?」

「昨日です」

 朔太郎は答えた。

「東京もこんな暑さですか? もっとも、こことは人の多さが比べものにならないでしょうけど。人口密度がねえ」

「確かに東京は人が多いけど、向こうのほうがずっと涼しいですよ。どこに行っても冷房がかかってますから」

「まあまあ」

 と、臼井は店の天井にかけられて首を振っている扇風機を見上げた。

「じゃあ、きっとあんなものは東京にはないんでしょうねえ」

 かき氷ができ上がったので、二人は配膳を手伝ってテーブルに並べた。操は宇治抹茶味を注文していた。朔太郎はいちごだ。いただきますと合掌してから口をつけると、氷の刺すような冷たさが、きん、と脳天を直撃して鳥肌が立った。

 陳列の菓子らを並べ直しながら、臼井が言った。

「親方はお元気?」

 これには、普段から実家にいる操が答えてくれるものと思っていたので、朔太郎は黙った。が、いつまで経っても弟は「くー」などと言いながらかき氷を味わっているので、朔太郎が、はい、と返事をした。

「おかげさまで」

「奥様はこのあいだ見かけたけど、親方はなかなかお忙しいでしょうから」

 臼井はそれから、いつどこでどのように落合の奥方と会ったのかを詳細にしゃべり始めたが、朔太郎はあまり聞いていなかった。操はなにも気に留めず、あずきを口の中で転がして甘味を楽しんでいるが、先ほどの質問にもっとさっさと答えてやるべきだった、と朔太郎は悔いた。長男が東京でひとり暮らしをしているからといって、操が代わりに長男のように扱われるなんてことはないのだ。きっと両親にも全く会えていないのだろう。

 兄弟がかき氷を完食した頃、別の客が店に顔を出した。

「おばちゃん、お邪魔しまあす」

 のどかな声と、やわらかい鈴の音に扉が開いたことを知らされ、二人が同時に顔を向けると、まさに「はっ」という顔をした女性と目が合った。

 かぶっている大きな麦藁帽子の両端を持ち、影になっている目元から薄茶色の瞳を覗かせ、同じ色の細い髪は肩ほどの長さで揺れている。ワンピースの裾が揺れる膝小僧には大きな絆創膏が貼ってあり、どこかで転びでもしたのか、まだじんわりと出血している色を写していた。こんがり焼けた小麦色の肌は、快活で健康そうな雰囲気を、今年も変わらず携えていた。彼女のことはよく知っていた。

「操ちゃん!」

 と、大きな瞳をまんまるにして驚く。

 そして、手を挙げて軽く挨拶した操から、横に目を滑らせた。

「それにお兄さんも! 帰ってきてたんですね」

 この子に「お兄さん」と呼ばれることにはずっと抵抗があった。

 しかし、朔太郎は特に指摘はせず、のべっとした物言いで続けた。

「久しぶり、麦子さん」

「その呼び方やめてください。嫌です」

 麦子のほうはすぐに反応し、指摘した。

 彼女は操の幼馴染で、幼少期から関わりの深い、操と同い年の女の子だった。今はここから数キロと離れていない高校に通っているそうだ。

「麦子」というのは、朔太郎と操が考えた彼女の呼び名で、そのゆえんは至って簡単で「いつも麦藁帽子をかぶっているから」の一点のみだった。

 麦子の家は農家で、麦子の父親と年の離れた兄とで、米を中心に農作物を育てている。たまにそこに彼女も加わり、田に入り稼業の手伝いをすることも多いので、麦藁帽子をかぶっていることがしょっちゅうなのだ。あとは単純に、麦子自身が麦藁帽子を好きなのかもしれない。夏のみでなく秋や春や、しまいには冬の日にもかぶっていることさえある。活発な性格もあり、太陽光のもとにいることも多々なので、一年中小麦色の肌を光らせており、夏という季節のまばゆい面をそのまま具現化したような子だった。

 麦子は、へんてこなあだなに腹を立てたような表情は見せたものの、次の瞬間にはけろりとして兄弟の正面の長椅子に座った。

「こんなところで偶然だねえ。二人もかき氷を?」

「うん、いま食べたところ」

 と、操。

「麦子、どうしたの? その膝。転んだ?」

「さっき兄ちゃんの手伝いしてたら、トラクターから落ちちゃって。兄ちゃん、新潟の叔父さんから新しいトラクター買ってもらったんだよ。それもめっちゃいいやつ。結婚祝いだってさ」

「結婚?」

 朔太郎が慌てて口を挟んだ。

「結婚したの? 徹くんが?」

「結婚するの。来月。そっか、お兄さんは知らないですよね。兄ちゃん、実は、役場で税金の窓口やってるかーわいい女の子と付き合ってたんですよ。ちょうど二年前くらいからかなあ?」

 麦子は楽しそうにしゃべり続けた。

「兄ちゃんって空手やってたでしょ? 文化会館の近くの道場で。あの道場の隣に住んでる人だったみたいでして、兄ちゃんのいっこ年下なんだって。すごくかわいいの。父親が親方と同級生って言ってましたよ。その子と結婚するんだ」

 麦子は、朔太郎と操のどちらにも話しかけ、顔を交互に向けながら喋っていたため、たまに敬語が混ざる不思議な話し方になっていた。相変わらずジェットコースターみたいな子で、見ていて楽しい気持ちになれた。

「そっか、徹くん結婚するんだ。今度、俺がおめでとうって言ってたって伝えておいてくれる?」

「わー、兄ちゃん、光栄だって言って喜ぶと思います。ありがとうございます」

 麦子はそう言って微笑んだが、朔太郎はもやっとした。

「光栄って……。なにその感じ。徹くんとはただの友達じゃん。昔よく遊んだし、むしろ学校では徹くんが先輩で俺が後輩だったのに」

「それはそうだけど、でも」

 と、麦子は一瞬だけ言葉を切って、なにを当然なとでも言いたげに続けた。

「あなたは落合の長男ですよ?」

 ああ、またか。朔太郎は心の中で肩を落とした。

 いつでも同じ目線で並んでいられた、階段のなかった子どもの世界は終わったのだ。ただあの家の息子というだけで、「大人」の町民はみな、やたらと朔太郎と操のことまで崇めたがる。とりわけ朔太郎は長男で将来の親方だから、誰もが今のうちに取り入ろうとへこへこしてくるのだ。

 子どもは大人をよく見ている。大人が思っているよりも、ずっと。自分の親が、落合の家の大人にへこへこしてごまをすっている姿を実はじっくり見ていて、いざ自分が大人になったときにすぐ真似をするのだ。地元中小企業や、町で個人経営をしているような業者、また町役場に勤める者にとって、このあたりの経済や観光の要となっている落合酒造店にどのような印象を持たれるかは、きっと死活問題なのだろう。だとしても、まだ「大人」になりきれない朔太郎にとっては、それはただ痛く悔しい事実だった。

 良い友人だった麦子の兄、徹のことを思った。鼻水を垂らして遊んでいた頃は、朔太郎に対してもあんなに屈託ない笑顔を見せてくれていたが、きっといま再会したら全く違う種類の顔をされるのだろう。妻になる人は役所の公務員だと言ったか。彼女もきっと、同じ姿勢でくるはずだった。悲しかった。

 そのとき、テーブルの影でそっと膝に触れてくる手があった。操だった。麦子の前で大きな反応は見せずにいたが、すぐにわかった。慰めるみたいなあたたかい手の平だ。

「麦子、やっぱり今年も宇治抹茶味が一番美味しいよ」

 などと、涼しい顔をして話しているが、その片手では優しく兄に同情を示していた。朔太郎は泣きそうになった。

 麦子が言う。

「そういえば、兄ちゃんの奥さんの父親が親方と同級生ってことは、親方とも知り合いかもしれないね? お兄さんは知ってます? 大塚って名字の女性なんですけど」

「俺は知らない……」

 朔太郎は鼻からため息をついた。

「それに、父さんも知ってるかどうかわかんない。あの人とは、俺たちだってここ数年、まともに話してないんだから」

 麦子は眉根を寄せた。

「誰と?」

「父さんと」

「数年まともに話してない?」

「うん」

「家族なのに?」

「うん。親子なのに」

「え……一緒に住んでるんですよね?」

「あの屋敷の中でのことを言ってるなら、そうだね。一緒に住んでるね」

「それなのに全然話さないの?」

「話すどころか、見かけることもそうないよ」

 麦子はあんぐりして数秒固まったのち、操のほうを見た。

「操ちゃんも?」

 操はにっこりした。

「俺は数年なんかじゃあ済まないよ。兄さんよりもーっと関わりないんだから」

「お前、最後に父さんと喋ったの、いつ?」

 朔太郎が横から聞くと、操はうーんと唸った。

「いつだろう。覚えてないなあ」

「それは……親方は、ものすんごく忙しいってこと? ……だよね?」

 想定していなかった事態だったようで、麦子は唖然としてしばらく黙った。

 確かに、ここの町民はみな親方を尊敬するあまり、彼はきっと素晴らしい父親に違いないと最初から思い込んでいる傾向があった。地元業者も、町役場職員も、そのあたりの老人も、全員が、親方が踏ん張って酒造店を営んでいるおかげで町が黒字だと、観光地として栄えていると感謝しているのに、誰も親方の素行を知ろうとはしないのだ。多忙とその責任感の重さゆえにか、息子を始めとする身内ともまともに関わっていないという事実も、誰も知らない。

 会話を続けながら座っていると、徐々に窓の外が暗くなってきた。朔太郎と操は先にかき氷を食べ終えていたので、麦子が美味しそうにむしゃむしゃしているのを向かいから見ているという妙な光景になっていた。

 ぽつ、ぽつ、そして、ざああ、と雨が降り出す。麦子がかき氷を頬張る手を止め、窓の外を見上げた。

「らいさま来そう」

 ぽつりと言う。すると、その瞬間、本当に雷がぴしゃりと光った。次にはごろごろという重い音。まるで、誰かが空の上で巨大なフンコロガシを飼っているかのような音だった。

 そんな様子を眺めながら、朔太郎は、前回この面子でいたときのことを思い出していた。

 あれは三年前の夏のことだった。

「東京に行くんですか?」

 驚きを露わにしたその高音は、予想をしていない展開にまだついていけていなかった。あの夏はまだそこまで猛暑ではなくて、どちらかというと過ごしやすい季節だったのを覚えている。

「どうして? お兄さんは酒造店を継ぐんですよね? そのために東京へ勉強しに行くとか?」

「だから、俺はここを継ぐ気はない」

「長男なのに? そしたら操ちゃんは、」

「操は関係ない!」

「関係ある!」

 その日はひどい雷空だった。豪雨と雷鳴のせいで喋るのもままならず、落合家の母屋の縁側にいた二人は、お互い怒鳴るように話していた。

 大雨のおかげで日中の暑さは和らぎ、随分と涼しくなった。少し肌寒いくらいだ。灰色の空はまだ若干明るいが、停電の影響で薄暗い夏の夕方は、不気味な雰囲気さえあった。

 麦子は、雨でももちろん、麦藁帽子を離さない。

「それか、もしかして操ちゃんも一緒に行くんですか? 東京に」

 ここのような田舎で生まれ育つと、都会を知らない者はみな「東京」は異国のようなものと思っていた。麦子も、その地名を少し慎重に口に出している。

 朔太郎は首を横に振った。人差し指を一本立てて見せ、そして自分を指し、「俺が一人で行く」ということを伝える。麦子は顔を強張らせたまま、何かを言おうとして思い切り息を吸ったが、結局何も言わずに唇をきゅっと結んだだけだった。

 そこに、強めの雷光を一瞬連れて、席を外していた操が戻ってきた。大荒れの空模様だというのに、それを見上げて「もうじき晴れそうだね」などと、なぜか確信的に言っている。

 麦子が反応した。

「晴れるかな? こんなにらいさま鳴ってるのに」

「晴れるよ、きっとね」

 操は、普段通りにこやかな表情で襖を閉め、朔太郎の隣に正座をした。朔太郎は麦子と二人きりの空間から脱出できた安堵感に、ついほっと肩を落ち着けた。

 そうしているうちに、不思議と徐々に雨の勢いが収まり、多少話しやすくなっていった。

「何の話してたの?」

 操の問いに、麦子は、彼の仏の笑みに射撃されたかのような様子で黙り込んだ。先ほどまでの話題は避けたいようだった。

 しかし朔太郎は構わず、話題を蒸し返した。

「俺が来年から東京の大学行くことに反対された」

「え、どうして?」

 操の純粋な目が麦子に向いた。

 彼女は声を取り戻した。

「だって、お兄さんはここを継ぐでしょう」

「まあ、その可能性はなくはないけど」

「東京に行ったら、もう戻って来ない気がして」

 朔太郎は、麦子が誰の何を思って朔太郎の東京行きに憤慨しているのか、全く想像できないでいた。

 もしかして操は勘付いたのだろうか。穏やかに麦子の発言を受け止める。

「向こうでの生活が気に入ったら、そうなるかもね。麦子だって、ちょっと住んでみた場所が素敵な街だったら、ああずっとここにいたいなあ、と思うかもしれないだろ?」

「でも、お兄さんは落合の長男だよ。そんなの許されないでしょう」

「大丈夫、兄さんは帰って来るよ」

 操はまた、確信したような言い方で言った。

 操にこの話し方をされると、朔太郎は、自分がその通りに動くのを約束させられた気分になってしまう。言霊は恐ろしい。

「ほうら見て麦子、晴れてきた」

 雲間から差し始めた金の光を見て、操がにっこりした。つられて朔太郎も空を見上げたが、麦子だけは、操をまっすぐ見つめたまま動かなかった。空から興味が失せたあと、操の肩越しに麦子のその目を見てしまったとき、朔太郎はほんの少しだけ後悔した。

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