奈落の底
加藤み子
序章・第一話
序
M町はT県の南東部に位置する小さな自治体で、いわゆる田舎町だ。関東の平野にあるが、四方を背の低い山に囲まれていて、面積は大半が田畑、そこにぽつぽつと民家が散らばっている。町唯一の駅がある周囲には町役場や小中学校もあり、住民の七割以上がそこに集まって住んでいた。町全体の人口は、ここ十年で三万人ほどからゆるやかに減っていて、平成最後の夏を迎えたときには、二万人少しの数になっていた。ちょっとした名所や伝統工芸が多少あるおかげで観光業もまあまあ盛んで、駅周辺の中心市街地は、長期休暇のときなどは観光客の姿が見られる。
落合酒造店は、ちょうどその中心市街地の中にあった。江戸時代後期から経営の続く大手老舗酒造店だ。厳密にいうと、とある商人がこの地で酒屋を始めたのが豊臣秀吉存命の頃の江戸時代で、それが酒造店のおおもととなり、落合酒造店はそこから派生した分家の継承店舗という経過があるので、創業は大正時代になる。酒好きであれば知らぬ者はいない、高い人気と厚い信頼を何十年も何百年も勝ち得ている有名な酒蔵で、新酒鑑評会などでも栄えある入賞を何度も果たしている。もし酒好きでなくても、その名を一度は耳にしたことがあるような銘柄を、いくつも誇り持っている。
全国に何軒か支部はあるものの、やはり本店が最も繁盛しており、建物の面構えも立派だ。少子高齢化が着実に進むこの田舎町の、数少ない観光名所のうちの一つでもあり、大型連休には観光客でごった返すほどのものだった。地元の小学校では、毎年社会科見学の授業で訪れることになっており、かつては朔太郎も、自分の家を見学するという奇妙奇天烈な体験をした。
落合
物心ついたときから、自分の父親は「親方」と呼ばれ、町中の尊敬を集めていた。息子に朔太郎などというたいそうな名前を与えたのもこの父で、平成の時代に馴染まないこの名も、町民からしてみれば「あの親方がおどめにくれた名じゃあ、へでなし言ったらだめだべぇ」とのことらしかった。朔太郎がどんなに自分の名を好きになれない表情をしていても、そう言うのである。
現在、生家で落合の姓を名乗っているのは四人で、杜氏である落合の父親と、その妻、そして、朔太郎と
一家は、酒造店として観光用にも一般開放している建物から奥に繋がった、平屋の大屋敷に住んでいる。築何百年になるのか正確な数字は不明だが、店同様、こちらも代々落合家が使っているものなので、相当古くなるはずだ。歴史ある建物を平成の今も依然として守り続けていられるのは、何度も行われてきた改築を任せられてきた建築家や、屋敷に勤めている蔵人や技師の力量のおかげなのだろう。庭師を始め、多くの優秀な人材がここで働いている。
父は杜氏の仕事、母親は来客の接待等で、自宅のほうの屋敷で姿を見ることは、ほぼなかった。乳母のような役目を任された女性が一人いるので、幼い頃から、兄弟の母親の役目は彼女が引き受けていたのだ。彼女は、長男が大学生、次男が高校生にまで育った現在も残ってはいるが、次男の操が大学に上がるのを見届けたら、退職する予定でいた。
そんな生い立ちなので、朔太郎は、乳母の宇賀神のほうが自分の母のような気さえしていた。弟の操と比べると、朔太郎はまだ実母や実父と関わっているほうだが、それでもだ。だから、小学校の授業参観で血の繋がった両親が駆けつけてきている同級生らを見ると、いつも胸の底がうじうじするような、苦く切ない気持ちになっていた。
しかしまあ、そんな愛らしい甘えも幼い頃までで、成長するにつれ、違和感のほうが膨張していった。
朔太郎は「長男だから」というだけの理由で、言葉もまだわからない頃から蔵元を継ぐよう言われていた。親方の立派な後継ぎとして知的に勇敢に育ち、堂々とこの酒蔵を継承する役目が与えられていた。生まれた瞬間から。
中学生になり、弟も同様に中学校へ通うようになると、なぜ他の生徒は放課後もずっと遊べるのに自分だけ帰宅を強いられるのか、なぜ弟は言われないのに自分は「しっかりしろ」「ちゃんと勉強しろ」と言われ続けるのか、甚だ疑問になってきた。小学生の頃は、教師やよくわかってもいない学友から「落合くんちは蔵元さんだから特別」「朔ちゃんは次の親方さんだから」と、妙な特別扱いをされることを心地良く思っていたこともあった。しかし、自我の芽生えとともに、それは違和感と疑問へ変わっていった。
隣の市の男子高等学校を卒業したあと、両親の猛反対を押し切って東京の大学へ行ったのも、その違和感と疑問から生じた反発心が原因だった。両親、特に母親は強く、朔太郎が醸造学科のある農業大学へ進学することを望んでいた。そこを卒業し、いずれ蔵元を継ぐことを期待していたのだ。だが朔太郎にその気はなく、勝手に田舎の屋敷を出て東京にアパートを借りて、教育学部の数学学科という杜氏からはほど遠いところへ進学した。
笑ってくれたのは、弟の操のみだった。朔太郎と同じ高校に通学中だった操は、朔太郎の勝手な判断ににやりと笑って、
「兄さん、そんな行動力どこに隠してたの」
と、からかった。以来、朔太郎は、正月と夏休みくらいしか田舎に帰らない、逃亡に似た学生生活を送っていた。
弟、操は、昔から朔太郎にとって、唯一といえる心の拠り所だった。朔太郎とは性格も容姿もまるで似ていないが、年齢がふたつしか離れていないうえ、学校の友人と気軽に出かけることが許されない環境下での、たった一人の友だった。朔太郎の生きる複雑な状況を全て知っているし、そのうえで気が合い、親身だった。愉快な冗談も、いたずらも、両親の愚痴も、学校であったことの悩みも、全て操に話した。
学校で、
「あの人が、そう?」
「次の親方になる人?」
と、こそこそ噂話をされて傷付いたり、「親方の息子」「朔坊ちゃん」と揶揄されてべそをかいたり、されたくない特別扱いに辟易した日も、家に帰れば操がいると思えば、たいていのことは乗り切ることができた。朔太郎の操り人形のような人生の中で、操だけには色がついていた。
兄弟は、平成最後の夏を迎えようとしていた。
一
幼い頃、電車の窓の外を走り去る風景を、一生懸命に目で追っていたのを思い出していた。
座席に膝立ちになって窓ガラスに鼻の先を押し付けて、自分の息で曇る景色を、それでもずっと眺めていた。人の顔さえ認識できないような速さで流れる外の世界に、そういえば興味が尽きないでいたのだ、あの頃は。
今となっては、電車に揺られている時間など退屈でしかなく、見るものといえば手元のスマートフォンか吊革広告くらいだというのに、純粋で残酷で浅はかで未熟だった当時の自分には、自分が生きている世界が夢と希望できらきら輝いて見えていたのだった。そのきらめきから一瞬たりとも目が離せなかったのだ。この列車は自分をどこへ連れて行ってくれるのだろう、降りた先にはどんな世界が待ち受けているのだろう。あの胸の高鳴りは、きっともう二度と経験できない。
発音のはっきりしないアナウンスが、目当ての駅名を読み上げた。朔太郎はイヤホンを外し、もたげていた首をのっそりと起こした。揺れの収まりのあと、扉が開き、閑散とした駅のホームが出迎えた。
他に誰もいない寒々しいホームで、一人、学生服が笑った。
「おかえり、兄さん」
操はまた背が伸びていた。
最寄りの駅から車で約十五分。
見上げた我が家は、最後に来た時の見てくれと何も変わっていなかった。
「正面の松の木が一本減ったんだ。気付いた?」
車の扉を開けてくれながら、操が言う。
朔太郎はぱっとしない返事をした。何も変化のないように見えた自宅だが、まあ確かに、木が一本や二本増えたり減ったりはしているのかもしれない。
大きな蝉がそこにとまってしきりに歌っていた。東京では聞かないレベルの音量の前を、耳の穴に指を突っ込みたい気分で通り過ぎた。
「最近、松になんだか変な虫が湧くようになっちゃってさ。綿貫さんがつい昨日、抜いてくれたんだ」
綿貫さんというのは、五年ほどここで庭師として勤務している、七十歳ほどの男性のことだ。農業関係の会社で定年まで働いたあと、退職してからも体を動かしたいという理由でこの屋敷で雇われている。元気で気の優しいおじいさんだった。
朔太郎は下向きに微笑んだ。
「綿貫さん、元気なんだな」
「まあね。相変わらず毎朝一時間走ってるよ」
操はにやっと笑い、車から降りた数メートル先を指差した。綿貫さんが日課から帰ってくる姿が見えた。透き通る朝日に照らされ、後光が差しているように見える。蜃気楼でぼうっとする道を果敢に走る老爺の姿は、感心するほど立派だ。
「みんな元気だよ」
少し声色の変わった操を振り向くと、目だけで心配そうな表情を見せていた。
みんな元気だよ、兄さん以外はね。そう言っている。
朔太郎は顔をそらした。堂々と構える屋敷に体を向け、取って付けたように深呼吸をした。
車をきちんと停車させてきた運転手が戻ってきた。そうして、正門の前で改めて朔太郎にこうべを垂れ、「よくご無事で戻られました、坊ちゃん。おかえりなさい」と、恭しく挨拶をした。
「俺ももう一回言おうか?」
操がおちゃらけて、大袈裟な動きで西洋風の礼をした。
「おかえりなさいませ、坊ちゃん」
「やめろよ、操」
「あぁ、あなたこそ蔵元の後継ぎにふさわしい。素晴らしいお人だ」
「やめろって」
登校中か、屋敷の前を通った女子高校生がこちらをじろじろと見ていた。朔太郎は早足で正門を潜る。ここの息子だと知られて騒がれる現象には、もうほとほと辟易していた。
後に続いた操は、まだけらけら笑っていた。運転手は操にも腰から礼をし、兄弟がきちんと自宅へ戻ったのを見届けてから、持ち場へと帰って行った。
「あらあ、朔坊ちゃん!」
宇賀神は、落合家の長い廊下を弟と歩く朔太郎の顔を見るなり、どたばたと駆け寄って来て、飼い犬の毛並みをかき回すような手つきで朔太郎の頭を撫でた。うんと背伸びをして、なんとか頭部に手が届いている状態だ。
「宇賀神さん、お久しぶりです」
と、朔太郎。
宇賀神はほうと微笑んだ。
「少し見ない間にまた大きくなって! お元気でした?」
「えぇ、まあ」
「長旅でしたでしょう。今日は猛暑日ですから、暑くて汗もかいたのでは? 私なんて朝から汗だくですよ。坊ちゃん、今日は大きいほうのお風呂に入ってくださいな」
「いや、別にいつものほうでいいですよ」
「すっかり大人っぽくなられましたねえ。大学のほうは順調ですか? 今は夏休みでしたっけ?」
「宇賀神さん」
放っておいたら永遠に質問責めにしてきそうな宇賀神を、操がやんわりと止めた。
「俺の部屋に冷たいお茶持ってきてくれる? 兄さんの分」
「あら、やだ、そうだったわあ。ごめんなさいね、今お持ちしますね」
宇賀神は来た時同様、またずんずん廊下を踏み鳴らして、嵐のように去って行った。
廊下を行儀よく上品に、かつ静かに歩く方法を朔太郎と操に叩き込んだのは、かつての宇賀神だというのに、最近は動作がまるっきり腕っ節の強い主婦のようになってきている。
「かわいい人だよね」
操は朗らかに言い、口角を片方上げた。
「かわいい?」
「かわいいじゃないか」
ふっと含み笑いだけ残し、操は再び廊下を進み始めた。朔太郎も後に続く。
弟の歩く後には、足音など起こらなかった。木の床の軋む音が、耳に心地良い。
朔太郎は前を行く弟の背を、ぼんやりと眺めながら歩いた。着ている学生服の半袖シャツの白色と、漆黒の色をした細い髪が、まばゆいコントラストでちかちか揺れる。うなじも白く、シワ一つない半袖から伸びているほっそりとした二の腕も、血管の薄く浮き出た手の甲も、同様の穢れない色をしていた。
呆けたようにただ廊下を進んでいると、母屋へと続く渡り廊下に出た。操のすらりとした指が、中庭の中心のほうへ伸びる。
「池にはまた鯉が増えたよ。珍しい種類みたいだけど、何て名前だったかな」
健康的な朝日を反射する小さな池は、中庭の中心でちかちか光って見えた。その畔には、兼六園の根上の松を彷彿させるたいそうな大松が聳え立っていて、その姿は落合家の大黒柱のようにでんと、大きく太い影を作っていた。
操は続いて、その傍に置いてある鉢植えを指差した。
「最近、盆栽にハマってるんだ」
「盆栽? 操が?」
「そう。笑っちゃうけどね」
操は肩をすくめた。
「やってみたら楽しいんだ、これが。綿貫さんに教えてもらってる」
弟の意外なブームの話をしているうちに、操の部屋に着いた。庭に面した障子の戸を横に滑らせると、以前来た時とそんなに変化のない部屋が現れた。
やっと息ができたような気分になった。朔太郎は遠慮なしに座敷に座り、テーブルの横にどさっと荷物を置いた。足を伸ばし、両手を後ろについて、後頭部を後ろに反らした。はあっとため息をつく。木目のよく見える天井を見ると、とうとう「帰ってきた」気持ちになった。
「宇賀神さんにお茶って言っちゃったけど、他の飲み物が良かった? コーラとかそういうやつ」
「そんなの飲んでるところ見られたら、間違いなく殺されるだろ」
「しゅわしゅわしてるだけなのにな」
操は愉快そうににこにこしながら、朔太郎の正面に正座した。学生服のボタンを一つ外し、ふうと息をつく。自然にすっと伸ばされた背筋は美しいほどで、不意に襖のほうを振り返った際に浮き出た首筋は、息を飲むようだった。
弟は昔から猫背を知らない。行儀の悪い動作も、はしたない仕草も、下世話な話題も、知らない。胡坐をかいているところも、横になりながら何かを食べているところも、頬杖をついているところさえ、見たことがない。疲れないのかと、問うたことがあった。操は「うーん、疲れるとは感じないかな」と、よくわからない答えをした。
操は、ひょっとしたら兄の朔太郎よりしっかりしているのに、たまに昔からそういった、はっきりしない答えを突然よこしてくる人だった。基本的にいつでもでんと構えていて、物事ははっきりきっちりさせたがるタイプなのだが、自分自身のことに関してはごまかしたがるような様子があった。
秘密主義なのだろうか。朔太郎は、操のその部分がよく理解できない。
それを除けば、彼は弟としても、家族としても、友人としても、最高の人物だと、朔太郎は常々感じていた。
しかし、そう思っているのはどうやら兄だけではないようで、操は関わる人間をみな、一人残さず魅了してしまう人物であるようだった。同級生の異性から人気があることはわざわざ説明するまでもなく、教師からの信頼もあれば、行きつけの飲食店の店長なんかからも可愛がられているし、ちょっとすれ違った散歩中の犬にまですぐ懐かれる体質だった。
笑顔を絶やさない、朗らかで気を配れる性格もあるのだろう。だがこの、俗に美形と言われるような外見も由来しているのだと思う。操は母親によく似ている。
その指が今、朔太郎の目の前でひらひらした。
「おーい、兄さん」
朔太郎は、はっとした。意識が徐々に現実に戻ってくる。
「俺の話聞いてた?」
「ごめん、何だっけ」
「どうしたの、今日いつにも増してぼーっとしてるけど」
操はそこで言葉を止め、静かに続けた。
「無理もないか」
今回の帰省は、もともと予定されていたものではなかった。
都内の大学へ通うため生まれ育った町を飛び出して二年、年齢がちょうど二十になった日の夜に、思いもよらぬ人物から連絡があって、朔太郎は腰を抜かした。高価そうな茶封筒には、宇賀神のものだと思われる丁寧な字が、朔太郎が一人暮らしをしているマンションの部屋を宛てていて、震える手で封筒を裏返すと、送り主の名が自分の実の両親のそれだった。
嫌な予感しかしかなった。
玄関に突っ立ったまま封を切れば、二十歳を迎えた息子を祝う言葉すらよこさないまま、縁談を組んだから一度帰って来いとの内容が書いてあった。
そういえば、以前にもそのような話を聞いたことがあったかもしれない。朔太郎の、両親からの手紙を握り潰した右手がぶらり、落ちる。まだ結婚がどのようなものなのかすら想像がつかないような年齢の頃に、お前の結婚相手はすでに決まっているからとか、相手は菓子作りで有名なベルギーにある老舗店の一人娘だとか、なんとか。
朔太郎は瞬きをするのを数分忘れた。自分の身分を忘れたかった自分が、現実を突きつけられている今に吐き気を催す。
なるほど、と、ぼうっとした。
これはもはや我が身の縁談ではない。我が家の商談だ。両親を恨む気にもなれなかった。
田舎の人間社会というものは、どうしてこうも窮屈なのだろう。朔太郎はしょっちゅう考えた。広い土地に余裕のある人口密度で人が暮らしているのだから、もっと悠々自適に生きられるはずではないかと思うが、実際はそれとは正反対、ミニマムなムラ社会の中のゴシップをどれだけ把握しているかで会話が盛り上がるし、大正やら昭和やらの風習をなんの疑問も持たずにただ受け継ぐだけの、閉鎖的で保守的な社会なのだ。法がどう変わろうと、国際社会の民意がどう動こうと、この社会の末端までそれらが浸透するにはかなりのタイムラグがある。
手元に視線を落とした朔太郎に反して、操はじっと兄の顔を見つめ続けた。
「実は俺も、今回のことはさすがに冗談だろって思ってたんだけどね、ずっと。許嫁なんて聞いたことある? この時代にさ」
「……」
「率直に聞くけど、どうするの。兄さん」
「どうもなにも」
朔太郎は長く重いため息をついた。
「父さんも母さんも電話じゃ話聞いてくれなかったし、会ったら直接断る」
「ふうん、断るんだ」
「断るに決まっ……」
朔太郎が顔を上げると、今度は操が目を反らした。
朔太郎は構わず続ける。
「断らないと思ってたの?」
「さあ、兄さんはどうするんだろうなって思ってただけ」
「俺は断るよ」
「そっか」
「お前だったらどうする? 操」
操は反らしていた目を朔太郎に戻し、呟くように「俺だったら」と言った。
「俺だったら、断らないよ」
朔太郎は言葉が出ない。
「断らない」
操は繰り返した。そして視線を落とし、軽く目を伏せる。
弟のその言葉は呪いのように朔太郎の体中を蝕み、指先一つさえ動けなくした。見えない縄で、体をぐるぐるに拘束されているような気分だ。
「断らなくてどうするんだよ」
「どうするって、何が?」
「断らなかったら、会ったこともない女性と結婚して、ここを継いで死ぬまで酒造って、この町から一生出られないまま墓に埋められるんだぞ。落合家代々とか書かれた墓に」
「そうなるだろうね」
「嫌じゃないのか」と聞くつもりだった口は、その質問をなぜか声の形にしてくれなかった。朔太郎は必死の形相のまま黙って操を見つめ、テーブルの上で拳を握った。自分の爪が自分の手の平に食い込んで痛い。
すると、操はふっと微笑み、
「そういう人生もありかな、と思っただけだよ。ごめんね兄さん。次男の俺にとっちゃあ、しょせん他人事さ」
と、冷酷なようにも思える回答をした。
彼は音もなく立ち上がると、朔太郎が背中を丸めて座る隣まで近付いて来て、優しい空気で膝をついて顔を覗き込んできた。
「親方になれるのは兄さんしかいないと思ってるよ」
「だからやめろって」
「朝のは冗談。今のは本気さ」
「どっちにしろやめてくれ」
「大丈夫。兄さんなら全部うまくやれるよ」
「俺は嫌だ。嫌なんだ」
「継ぐのが嫌なの? 一生この屋敷から出られないのが嫌なの? それとも、」
「それとも、何だよ」
「それとも、結婚するのが嫌なの」
操の声は徐々に小さく細くなってきて、最後の質問を投げかけてきた頃には、ほとんど囁き声になっていた。朔太郎は少しだけ顔を上げ、弟の睫毛を見た。
突然、操の部屋を支配した静寂が、兄弟の間の空気を変なものにする。呼吸の音さえ遠慮したい空間だった。操の手の平が畳を滑り、体重を感じさせないような音とともにそこに座った。朔太郎の胡坐と操の正座の、膝と膝が擦れるようにほんの少し触れ合った。互いに息をひそめているのがわかった。何かのタイミングを見計らっているかのように、一秒、二秒、コンマの世界で意思を数える。
つい、朔太郎が唾を飲み込むと、その音につられるように操が目を上げた。
時が止まる。力が抜けたように数ミリ離れた操の上下の唇から、真っ白な歯がちらと覗いたのを見た朔太郎は、わけがわからないまま背徳的な感情になった。
操はじっと朔太郎の目を見てくる。その視線は揺れない。彼のこの、何事にも動じないような、人生何周目かのような、常に落ち着いて地に足をつけているどしりとした態度は、一体どうやって保たれているのか、一度本当に知ってみたい。頼りなさげにも見えるやわらかな彼の容姿からは、とても想像がつかないくらいの落ち着きだ。
朔太郎は自分が先に目を反らしてしまうような予感がしていて、いっそ怖かった。
息をつくような気持ちで発言を試みる。
「結婚するのが、嫌だ」
ようやく言うと、操が二、三度瞬きをした。
「ここを継ぐことになるのは昔からわかってたし、この屋敷に縛られた生涯になったって、どうでもいいっていうか。都会に憧れてるわけでもないし、親が放してくれるなんて期待してないから、もう諦めてる。でも」
「……」
「嫌だ。許嫁と結婚するのは」
だからといって、結婚したい他の誰かがいるわけでもなかった。そもそも「結婚」に幸せを見出せないでいるので、それに必要性を感じないのだ。逃げているのかもしれない。
朔太郎にとっては、この先どこで何をすることになろうが、またこの部屋に帰って来ることができれば、またこの声に「おかえり、兄さん」と迎えてもらえれば、またこの目を、鼻を、口を、指を、足首を、うなじを、眺めることができれば、それで良かった。
誰かと結婚をして家庭を作り、そこを「家」としてしまうのが、そこを生きがいにしてしまうのが、そこを死ぬ場所にしてしまうのが、耐えられないのだ。朔太郎にとっては、家も生も死もすでにひとつの場所にしかない。
揺れる瞳で操を見ると、彼は変わらずじっくりと朔太郎の目を見つめ続けていた。
一呼吸置くと操は鼻からため息し、ふっと畳に視線を落とした。
「あのさ、兄さん。俺、さっきからすっげえその、予感がしてるんだけどさ」
操の「すっげえ」なんて砕けすぎる言葉遣いを聞いたのは初めてで、朔太郎は面食らった。
ちょうど朔太郎と操の間に、スッと線を引くように、操が細い指を滑らせる。そうして小首を傾げ、笑う。
「越えちゃいけない線、越えようとしてない?」
「……え」
「だめだよ。ちゃんと線の内側にいなきゃ」
するとそのとき、こんこん、とノック音がして、続いて宇賀神の優しい声が障子の向こう側から聞こえてきた。
「朔ちゃん、操ちゃん、お茶をお持ちしましたよ」
「ん。ありがとう、宇賀神さん」
操はそう答えながら、その場に何の未練もないような軽やかさで立ち上がり、障子を開けて宇賀神を迎えた。
朔太郎はどことなく落ち着かない気分で、視線を彷徨わせる。
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