夏死
加藤み子
夏死
ピッチカートを弾く指先は命綱を断ち切る無情の刃のように、びん、と空気を振動させ、短く響いては少しの余韻だけを残して消えた。湊は顎を浮かせ、肩からバイオリンを離し、窓枠の形に切り取られた青空を見上げた。恐ろしいほど済んだ空は嘘のように蒼く、うっすらと残る飛行機雲だけがそこを横切っていた。
地獄のような暑さをどうにかするために、気休めのように隙間を開けた窓から風が入り込み、それらは前髪を揺らし、その場に未練など露ほどもない態度で去って行った。風はいつだって傍に留まっていてくれた試しがない。しかしそれを寂しいと思うわけでもなく、ぴしゃり、湊は無表情に窓を閉めた。
チャイムの音が階段の踊り場に届いてくる。
高校生活最後の夏休みの始まりだ。
湊は楽器を片付けると部室へ戻り、一緒に昼食を食べに行こうと誘う同級生の声も無視し、終わりの挨拶だけを聞いてさっさとそこを後にした。そして階段を下り、一際静かなひとつの扉を開けた。
「毎年、読書感想文は一時間で終わる」
蛍は、広げていた原稿用紙を束にまとめながら言った。
「どうせ今年も俺しか応募しないんだろうけど」
夏休みはまだ始まって数時間と経っていないというのにもう課題の一つを完成させている蛍に、湊はぐるりと目を回した。呆れ半分、尊敬半分、蛍は小学生の頃から読書が趣味で、ことさらそれの感想文を書く作業に関しては他の生徒より飛び抜けて優秀な成績を残していた。彼はよく、根っからの文系で本の虫、と自己紹介をするが、その表現が彼以上に合う人物には出会ったことがなかった。
平日だろうと夏休みだろうと、蛍は湊の部活が終了するのを図書室で読書をしながら待っていて、それから並んで帰路につくのが習慣になっていた。どちらかがそうしようと言い出したわけでもなく、気付いたらそれが毎日のことになっていた。それぞれのクラスでは別の友人と行動を共にしていても、帰りには自然と一緒になる。幼馴染とは不思議な関係だ。
湊は、ハードカバーの書籍を元の場所に戻して帰り支度をする蛍の後ろに回り、窓から下を覗き込んだ。そうして色の濃い影とそれを作っている夏の陽を眺め、なんとも言えないむず痒い気持ちになっていた。肩越しにそっと蛍を振り向くと、プールの塩素で色が抜けたふわふわした茶色の髪が、大きな口を開けて欠伸をしている。文字を追う時にはよく、鳥の嘴のようにつぼめられている口だ。それを大いに使い、彼はよくからりからりと陽気な速度で笑う。その様はお互いが保育園に通っている頃から変化していなかった。蛍は蛍たるように飄々と生きていた。湊は蛍の傍にいると、生きている心地に目を覚ませられる。
「帰るかあ」
蛍が目尻を指先で拭った。手には、乙一著『夏と花火と私の死体』があった。湊は黙って頷き、二人連れ立って図書室を後にした。
昇降口へ向かう途中、制服を流行りのように着崩した同級生の群れが蛍にだけ声をかけた。じゃあな、と、朗らかに返事をする蛍の笑顔に隠れるように、湊は自分の靴の爪先を睨んだ。第一ボタンまできっちりとめた詰め襟が息苦しい。
帰り道には、くだびれた店舗併用住宅の駄菓子屋があり、店先の道路に水を撒いている老人の姿があった。白い疲れたタンクトップに、よれよれのチノパン、農協の帽子をかぶった姿は遠くから見ると蜃気楼でぼやけていて、今年も夏休みが来たなあとしみじみした気分になった。老人は二人が歩いて来る気配に顔を向け、入れ歯を覗かせて薄く笑った。
「おうおうこんな昼間から。もう夏休みかい」
「うん」
「おっちゃん、アイス冷えてる?」
蛍の問いに老人は手を振り、こじんまりとした店内を指示した。焦げたような色の皺で覆われた手が、駄菓子屋の入り口付近にあるアイスボックスを指差す。中は、毎年そうであるように、市街のデパートやスーパーで見る流行りの種類から一歩遅れた、パッとしないアイスバーやアイスクリームで埋まっていた。
二人は適当にアイスを選び、駄菓子屋から老人の住まいへと繋がっている出入り口の階段に腰かけてぼんやり食べた。老人はまだ水を撒いている。ここでこうしてアイスを食べ、蝉の声を聴きながら、駄菓子屋の老人の水撒き姿を眺めていると、やはりどうしてもしんみりとした気持ちになった。
「夏休みって感じするなあ」
蛍が、湊の今の心境と似た、感傷的な物言いで呟いた。
「来年からはもうおっちゃんにも会えないのか。ちょっと寂しいかも」
「結局、東京の大学受けんのか」
「うん。湊は?」
答えは決まってはいたが、なんとなく言葉にすることが躊躇われた。
「わかんない。センター試験次第」
「ふうん」
「こっちの大学に行くことになると思うけど。多分」
「まあ、湊が出て行ったらおばさん一人になっちゃうしな」
曖昧な返事をし、アイスを頬張る。冷たさに頭痛がした。
母子家庭で生きていくことには慣れていた。父親とは、湊がまだ保育園に通っていた頃に両親が離婚してから、一度も再会したことがなかった。男の一人っ子だったし、祖母と祖父は二人とも自前の資金で自ら老人ホームへ入った。今や家には母親と自分しかいない。本音では、蛍同様に都会の大学で華やかなキャンパスライフを夢見てはいたが、息子一人のためにパートを掛け持ちして楽ではない生活を強いられている実の母を残してさっさと家を出てしまうのは、世間で言う「親不孝」になるのではないかと、多少恐れている部分があった。
「蛍は東京行ったら一人暮らしすんの」
「んー、するんじゃない。受かったらの話だけど」
蛍は続ける。
「実はさ、来月にもう俺の志望校の試験があってさ。AO入試とかいったかな、それは受けに行く」
「え、早くないか」
「な。そこで合格できたらあとはもう遊んで暮らせるのになあ」
老人が店内に戻ってきた。引き摺っているサンダルが多少濡れていたが、意にも介さない様子だった。もしかしたら気が付いていないのかもしれない。そのままレジの向こう側に置いてあるパイプ椅子にどっかり座り、定位置に収まった。
「おっちゃん、俺、来年からはもうここ来られないかも。東京に行く」
蛍が言うと、老人は悲しそうにも何も感じていなそうにも見える微妙な表情をこちらに見せて、入れ歯をもごもご動かした。
「東京かい。俺ァもう何十年も行ってねえなあ」
「俺もあんま行ったことないよ。でも大学受かったら行くんだ」
「そうかい。お前さんはここに残るのか」
老人が湊に向かって問う。湊はこっくりした。
「俺も東京とか住んでみたいけど、田舎のが向いてる気するし」
「そうかな。湊ならすぐ慣れそうだけど」
蛍が言った。アイスの棒を前歯で咥えてきょとんとした顔は、一切黒いものを抱えていなさそうだ。
こんなに純粋な目をした穢れなき蛍が、いきなり都会に一人飛び出て行っても無事生きていけるのかどうか、湊には判断し兼ねるところがあった。俺がついて行って家事やら何やらやってあげないと、こいつはともすれば一日中本にかじり付いて離れず、ふと顔を上げれば夕方、ろくに食事もしないまま一週間経っていた、なんてことが起こり得そうだ。湊は家事のほとんどができる。一方で蛍は、大きい家族の中で頼れる兄や姉に可愛がられながら育ったので、一人暮らしをこなせるほどの能力が身に付いているとは到底思えなかった。
「俺も東京行こっかな」
呟いた一言は老人の咳に掻き消された。
八月に突入するといよいよ暑さが本格的になってきた。湊は部活動のコンクールを控えていたため、練習にもこれまで以上に熱が入るようになった。それでも蛍を待たせない時間にぴたりと練習を切り上げ、午後を知らせるチャイムと共に部室を出る姿は、我ながらなかなかにあっぱれだと思った。一年で最も重要なコンクールであろうと、それが高校生活最後の大会であろうと、その習慣を崩す理由にはならなかった。
ある日、下敷きで自分を扇ぎながら駄菓子屋へ立ち寄ると、老人の他に人の姿があった。保育園生ほどの年齢の女の子で、茶色がかった細く艶のある髪を耳の横でふたつに結い、オレンジ色の薄い長袖ワンピースを着ていた。転んだのか、膝小僧や脛に大きな絆創膏をべったり貼っていて、お気に入りなのか、雨でもないのに大きなピンクの長靴を履いていた。活発そうに頬を真っ赤に染めた様子は微笑ましかったが、人見知りをする時期のようで、二人がアイスを買いに店内に入るとぴゅっと走って老人の裏に隠れてしまった。
「孫?」
聞くと、老人は見たことのない色で破顔した。
「お盆に両親と帰って来てるんだが、ちょっと野暮用があるとか言ってな、その間預かってるんだ」
少女は老人の座る椅子の裏からこちらを窺うように顔を覗かせたが、目が合うとすぐに引っ込んでしまった。
「都会に住んでるからな、こっちにいる間に俺の田んぼ連れて行って、
「へえ。かわいいね。君、何歳?」
「孫は目に入れても痛くないって言うけど、おっちゃんもそうだったんだね」
蛍はにやにやした。今日は駄菓子屋には長居せず、すぐ帰路についた。
「そういえば、明日って湊、部活のコンクールだっけ」
「あぁ、そう、だから明日は午後には終わらないや」
「おっけー。どこでやんの?」
「S県。バスでM市まで行って新幹線で行く」
「S県かあ」
湊は、そう呟いた蛍を横目で盗み見た。「東京」に思いを馳せているように見えた。S県は東京都のすぐ隣に位置している。無意識に握り締めた手の平に、自分の爪が食い込んだ。痛さにはっとした。
コンクールの結果は「ダメ金」だった。一般的な吹奏楽コンクールには、上から金賞、銀賞、入賞、入選、順位に関係なく目立った学校に贈られる優秀賞、審査員特別賞など様々な賞があるが、予選を通過して次の大会へ出場する切符を手に入れることができるのは、必ずしも金賞を獲得した学校全てとは限らない。例えば本選に進める学校数が三と決められていて、金賞を受賞した学校が四あったとしたら、金賞を取ったのに本選に出場できない一校が出てくる。それが「ダメ金」だった。
湊は一人、家路につきながら、普段蛍と帰る道をわざと避けて歩いた。若干遠回りにはなったが、引退の大会を終えた落ち着かない気分を紛らわせるのにはちょうど良い時間の使い方だった。
帰宅すると、母が買ったばかりの冷蔵庫の前でうんうん唸っていた。これはつい最近、知り合いの小さな家具屋から格安で手に入れたと言っていたが、どうやら突然動かなくなってしまったらしい。以前から調子が良いわけではなかったようだが、あまりに安い値段で売られたそれのことは、湊ははなから信用していなかった。詳細を聞けば、やたら安価である理由は教えてもらえなかったし、やはり最初から不良品のようだった。
「それ、瑕疵担保責任でお金取れるんじゃないの」
湊が言うと、母親は顔を上げて聞き慣れない単語に怪訝な表情をした。
「かしたんぽせきにん?」
「買ったものに見つけにくい問題とか欠点とかがあったときは、売った人に責任があるってこと。ちゃんと説明してもらえなかったんでしょ。売った人に損害賠償請求できるよ」
「そうなの? よく知ってるねえ」
母は「やだわあ」とか「あらまあ」などと言いながら、うんともすんとも言わないただの物体である冷蔵庫を、それでも諦め切れずに開けたり閉めたり叩いたりしていた。湊は、部員の母親から差し入れでもらったまま持っていたアイスの保管場所に困り、袋をぶらぶらさせたが、いつまでも持っていても仕方がないので、とりあえず自分の部屋へと運んだ。他の部屋と同様、もちろん暑い。駄菓子屋のおっちゃんに頼めば、あの大きなアイスボックスに入れてとっておいてくれるだろうと思ったが、今からあそこまで歩く気にはなれなかった。窓の外はすっかり日没だ。
お盆の間は学校側もほとんど閉じられているので、部室にも鍵がかかり図書館も閉館されていた。それなのでしぶしぶ自宅に缶詰状態だったが、蛍に会うことのできない連休など色彩のない絵画のようで、無理矢理連載を引き伸ばされた少年漫画の続編のようで、湊は八月の後半をただただ心待ちにしていた。
一週間ほどぶりに会った蛍は少しだけ日に焼けていた。この短期間、どこへ行き何をして過ごしていたのか気になったが、わざわざ問うのも野暮だと思い特に何も言わなかった。
「な、プール寄って行かない」
図書館から昇降口へ向かう道のりで、蛍は爽やかな誘い文句を言い、猛暑に我慢できなくなりそうな湊を救った。これまでも二人は、侵入すべきではない時期の誰もいないプールに忍び込み、勝手に涼んで爪の先までびっしょりになりがら帰宅したことが何度かあった。プールはお盆期間開けだろうとなぜか毎日水が張り直されていて(プール管理を任されている業者がお盆期間中でも律儀に働いていたのかもしれない)、透明なみなもを巨大なゼリーのようにゆらゆらさせていた。その魅力ったらなかった。
更衣室は消毒液の臭いに侵されていた。他に誰もいないのを良いことに、制服をそこらへんに脱ぎ散らかし、蛍は走ってプールへ飛び込んだ。ばしゃあん、と、叩きつけたシンバルのような大きな水音としぶきが上がった。湊は日差しに煌めくそれらに目を細めた。蛍は水面から顔を出すと、乾いたプールサイドにぼうっと立っている湊に向かって声を張り上げた。
「すっごい気持ちいいぜ!」
そうして手招きをした。
「お前も来いよ、湊!」
湊も後に続いた。
熱いプールサイドを一心に走る。飛び込み台に跳ね乗る。地面を蹴る。体重が地球の重力に逆らえず、頭から真っ逆さまに入水する。突然辺りが無音になり、吸うべき酸素もなくなり、視界は真っ青、世界に一人だけになる。
泡の軍団が湊の体を伝って上昇していった。ゴーグルをつけていない視界は輪郭を失い、ゆらゆらとぼやけた物ばかりだったが、やがて世界に蛍の姿が現れると、コバルトブルーの気泡に包まれた悪戯な笑顔が、湊を向いてきらきら光っているのが鮮明に見えた。
限界まで潜った後に空気を吸うと、肺を圧迫していた巨大な手から逃げおおせた達成感があった。長く真っ黒な前髪が視界を邪魔した。湊は髪をよけ、爪先でプールの底に触れながら、蛍の顔がみなもから出てくるのを探した。蛍は湊のすぐ目の前に出現した。
「やっぱこれ最高だな! 夏休みの醍醐味」
蛍が犬のようにかぶりを振り、水飛沫を周囲に撒き散らした。湊の頬にそれが当たる。
二人はそれから気が済むまで泳いだ。疲れてプールサイドに上がった時は、まだ日こそ沈んでいなかったが、そろそろ空もオレンジ色に染まりそうな気配が漂っていた。重い体に鞭を打ち、制服に腕を通した。あの駄菓子屋で、今日はがっつり弁当でも買いたい気分だった。そもそも弁当なんて売っていただろうか。
「湊」
弾む呼吸もそのままに、しかし毅然とした調子で呼ばれて目を上げると、蛍はしっとり濡れた髪を風に揺らしてしゃんと立っていた。
「湊、俺、来年から東京行くわ」
「え、」
「受かった。大学、合格したんだ」
再び世界が無音になった。足元が崩れ落ちる感覚に襲われた。
何も反応を見せない湊に、蛍は含みを持たせた苦笑をして言った。
「一緒に来る?」
「は?」
「ルームシェアでもして、一緒に都会で暮らす?」
「……何言ってんだよ」
「例えばの話だけどさ。俺達ガキの頃から一緒だったじゃん。だからこれからも、俺らなら上手くやれるんじゃね?」
「本気かよ」
「もちろん、冗談」
にひ、と笑う蛍がぐにゃりと歪んで、湊は慌てて下を向いた。鼻の奥が沁みるように痛くなった。ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴り、蛍が怪訝な顔で「なんで夏休み中なのにチャイム鳴るんだ?」と背後を見たので、ごまかす必要がなくなって安堵した。
家路。駄菓子屋の前まで行くと、もうとっくに閉店しているはずの時間だというのに、入口からうっすらと明かりが漏れていたので、二人は不思議に思い中を覗いた。老人の姿はなかった。気味が悪いほど静かだ。どうかしたのかと、ごちゃごちゃ物で溢れた薄暗い店内をぐるりと見回してみても、人の気配は窺えなかった。
「湊」
小声で囁くように呼ぶ声に振り向くと、神妙な表情をした蛍が、変に緊張した様子でアイスボックスの前に立っていた。ボックスの開いた引き戸に手をかけたまま突っ立っている。
促されたままアイスボックスの中を覗き込んだ。
湊は叫び声を上げそうになった。
ひんやりとした空気に包まれ、アイス各種のみが詰まっているはずのボックスの中に、幼い女の子の体が、まるでアイスの影に隠れるように埋もれていた。ふたつに結んだ細い髪、オレンジ色のワンピース、膝小僧や脛に貼った大きな絆創膏、ピンクの長靴。先日の老人の満面の笑みが思い出された。
「ねえ、君、大丈夫?」
身動きひとつしない彼女の肩を蛍が軽く揺らしたが、ぴくりともしなかった。力なくだらりと下を向いたままの顔は見えない。年齢のわりに細すぎる手首や足首は青白く、長靴が冗談のように大きく見えた。
蛍がそっと頬に触れた。
「冷たい」
そう言って湊を振り返った見開かれた目には、恐怖がうっすらと浮かんで見えた。
沈黙が流れる。
「なんだ、こんな時間に。誰かと思えばお前さんらか」
突然現れた声にどきりとして振り向くと、普段通りの出で立ちをした老人が暗闇の中にぼうっと立っていた。背後の自宅からの灯りの逆光で、表情はよく窺えない。
老人はゆっくりと目のみを動かして少年二人のいる場所を確認すると、観念したように深く長いため息をつき、震える脚をどうにかするよう傍にあったレジに手をかけ、体重を支えた。
「早く帰ったほうがいい。時期に警察が来る」
老人がしわがれた声で話した。蛍が問う。
「おっちゃん、それどういうこと。この子どうしたんだよ」
老人はまたため息をついたが、吐かれた息は震え、手も小刻みに震え始めていた。
「俺がやった。俺が殺したんだ。耐えられなかった」
怖々、再びアイスボックスの中を見遣ると、何も知らず寝ているかのような少女が丸まったままじっとしていた。死体だと認識した途端に逃げたいほど恐ろしくなり、湊はすぐに目をそらした。
老人は続けた。
「昨夜、
老人はどうしようもなく震える手で顔を覆い、しとしとと泣いた。
高校生活最後の夏休みが終わろうとしていた。八月の後半は梅雨が戻ってきたかのような雨模様が続き、肌に貼り付いてくる湿気で気が滅入り、湊はただからりとした夏が恋しかった。
夏休み最終日、その日だけは真っ青な快晴だった。二人は、
永遠に片付かない駄菓子屋の狭い隙間に、蝉の合唱が入り込んできた。アイスボックスからは、まだ稼働している証拠に低い機械音が聞こえていた。うなじに照り付ける日光はただただ静かに痛い。店の前のコンクリートに落ちる木漏れ日の形が風にそよぎ、そこだけ時間が正常に進んでいるようで、湊は言葉が紡げなかった。
「おっちゃん、自首したんだな」
蛍が言う。
「来年からは俺、ここ来れないし、ちょうど良かったかも」
彼は一体何が「ちょうど良かった」のか、説明はしなかった。
その日も例によってプールへこっそり忍び込み、二人はくたくたに疲れるまで泳いだ。蛍は、脳裏に焼き付いた老人と孫の姿をかき消そうとしているようにがむしゃらに泳いでいて、もういっそ、汗と共にこの夏の記憶を流し落とそうとしているかのようだった。
プールの四方を囲む背の高い木は、校庭や校舎の窓からプール内の様子が見えないよう視界を塞いでいた。そこに住む蝉はいっそううるさい。
湊は飛び込み台の上に立ち、底を手で撫でながら悠々と潜水をしている蛍の姿を目で追った。日に照らされた光る肌をきらきらさせてプールの青い底を音もなく進むその姿は、まるで夜空を優雅に舞い飛ぶ
湊は足から思い切り水に飛び込み、
蛍の首を両手で包むように持ち、湊は力をこめた。蛍は驚いた表情をし、自分の呼吸を遮ろうとしている湊の手首を掴んだ。湊はやめない。水中、全身で押し問答をしていると、やがて蛍が口からひときわ大きな泡を吐いた。最期の呼吸だった。諦めたような、呆れたような、優しいような顔をした蛍は手を離し、湊を見つめた。
駄菓子屋の入口は先ほどと同様、開け放してあった。湊は蛍の死体をアイスボックスの中にしまいこんだ。中の空気は凍える冷たさだ。湊もそこに入り、中から蓋を閉め、蛍と一緒に眠りについた。
夏死 加藤み子 @ktmk99
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