第二話 黒澤 和音
「よーっす」
陽気に挨拶してみながら扉を開けたが、練習部屋には一人の女性しかいなかった。
「麻子ちゃん」
「か、和音くん」
和音がお疲れ、と手を振ると、麻子は座っていた椅子が突然熱くなったかのようにパッと立ち上がった。座ってていいよと言っても聞かず、なぜか鞄を抱き締めて立ち続けた。
麻子はポスター制作の一件以来、マネージャーのような役目を引き受けてくれていた。ライブハウスの予約、諸々の経費や収入などの会計管理、スケジュール調整、そしてポスターやチケットのデザイン考案など、真面目で器用な彼女はそつなくこなした。ゆめの提案で、こんなに仕事をしてくれているのだからと、先月から活動収入の一部を麻子にも支払うことになった。これで正式なメンバーというわけだ。表舞台に立つわけではないが、メンバーにとって大きな支えになってくれている。
彼女の加入に対し釈然としない態度を取っているのは、聡のみだった。単に新参者を警戒して気に入らながっているだけだろう、と和音は確信している。人に飼われ始めたペットが懐くまで時間がかかるのと同じだ。慣れてくれば徐々に柔らかくなるだろう。
まだ暖房の効きが甘い練習部屋の冷たい床にあぐらをかき、和音はベースの準備をし始めた。
「そういえば、昨日の帰りに言いかけてた提案ってなに?」
麻子に問う。
すると、彼女は鞄からスマートフォンを取り出すと和音の隣に正座し、ユーチューブのアプリを開いた。検索画面で言葉を打ち、検索結果を流し見せてくる。
「考えたんだけど、みんなでユーチューブ始めたら素敵じゃないかなって」
「ユーチューブ?」
意外な提案に驚いて、和音は麻子との距離を詰めて彼女の手元の画面を覗き込んだ。
「バンドでやってる人いるの?」
「うん、たくさんいると思う」
「ふーん、どんな? ごめん、俺、あんまりユーチューブとか詳しくなくて」
「ライブ映像の一部を流したりとか、ミュージックビデオ投稿したりとか。全然関係ない企画やったりするのもおもしろそうだし……宣伝にもなるし、いいんじゃないかなって……」
「へぇ、なるほど」
「みんな、その、見た目も有名人みたいだから人気出ると思う」
「見た目が有名人? なにそれ?」
和音は笑った。一生懸命に説明しながらスクロールを繰り返す麻子が、少しいじらしく可愛く思えた。それに、ほとんど知らない世界を知ることができたので、ありがたい提案だ。
すると、談笑の空気と共に部屋の扉が開き、幼馴染コンビが到着した。振り向いてお疲れ、と声をかけたが、朗らかに挨拶を返してきたゆめとは違い、聡のほうは瞬時に笑顔を引っ込めて仏頂面になった。
「てか聞いてよ、うちらさっきスナップ撮られちゃった」
ゆめが和音たちの傍に座りながら言った。
「なんて雑誌だったっけ? 忘れたけど、ちゃんとバンドの宣伝もしてきたから安心しなー」
「宣伝ってレベルじゃねーだろ」
聡はそう言いつつ、ゆめのかぶっていたキャップをさっと取り自分の頭に乗せた。ゆめは特に気にしない。
「それなー。付き合ってると思われたからバンド仲間でーす、こういうバンドですよろしくー、って言ってきた」
煙草を取り出し火をつけた聡に向かって「くっさ」と顔をしかめ、ゆめはスマートフォンをいじり出した。
「二人とも、お似合いだもんね」
麻子が控え目に言う。
「私も最初、二人付き合ってるのかと思ってた」
「え、ウケる」
データもらったと言ってゆめが見せた画面には聡とのツーショット写真があり、確かに一見ちょっと目立つカップルのように見えた。ギターを背負ったパンクなファッションのゆめが聡の腰に手を回し、八重歯を覗かせ笑顔を見せている隣で、火のない煙草を咥えた聡が、ゆめの肩を組みながらニヒルな笑みを薄く浮かべている。
そして、和音が先ほどの麻子の提案の話題を持ち出すと、二人は意外に食いついてきて乗り気な様子だった。
「ノンラビとか夕闇みたいな感じ?」と、ゆめ。
「ノン……え?」
和音が聞き返すと、ゆめは再びスマートフォンの画面を見せてきた。今度はユーチューブの動画が流れている。知らないバンドのミュージックビデオだったが、耳に触る感じが心地良く、好きになる予感が拭えなかった。
「和音はもっとユーチューブとか見な? 練習ない日とか家で何してんの?」
「家で?」
うーん、と考えながらなんとなく視線を横に流すと、まだ機嫌が悪そうな聡と目が合った。
「何してんだろ、俺。何もしてないかも」
「出た。和音の秘密主義」
自分では何かを秘密にしがちだとは思っていないのだが、度々ゆめにはこう揶揄される。そうじゃないけどと言いながら笑うと、今度は麻子と目が合った。しかし、視線はすぐに逸らされた。麻子の頬がみるみるうちに赤く染まっていく。落ち着きなくしきりに髪を撫でつける仕草は、すっかりよく見るものだった。知らないふりをしているわけではない。
ユーチューブ進出の提案は、案外すんなりみなの了解を得た。麻子は嬉しそうだった。バンドメンバーがその日の練習をしているうちに、麻子はなんとユーチューブとツイッターのアカウントを取得し、それ用のロゴデザインと企画を数本用意していた。
ゼミでの研究発表が予定外に延長してしまったので、和音はその日の練習を諦めようかと思っていたが、大学からの帰り道に「今日、練習休みですか? できれば今日お会いしたかったのですが……」と麻子からラインがきたので、何かあるのだろうかと気になって練習部屋へ立ち寄った。そこにはゆめと麻子がいた。
ゆめは、和音の到着を待っていたかのように立ち上がり、「お疲れー」と言い残しあっという間に帰って行った。練習はそもそもなくなったようだ。
すっかり宵も更けた真っ黒な窓が、和音と麻子の二人の姿を映す。和音はまだ冬の街を歩くような服装のままだった。口元まで上げたマフラーが肌をくすぐる。着苦しく感じてコートのボタンを外し、脱ごうとして後退すると、足元に散乱していた譜面をつい踏んでしまった。拾うため屈み、身を起こすと、麻子がついさっきより近くに来ていたので少し驚いた。
「あの」
麻子の声が震えている。
和音はもしやと思ったが、予感が当たっていたとしてもどうにも出来なかった。
「これ……」
そうして目の前に差し出されたのは、オーガンジーの透けた袋に包まれた小振りな箱だった。麻子は手も震えていた。下を向いているのでよくわからないが、おそらく真っ赤な顔をしている。
「受け取ってもらえますか。め、迷惑じゃなければ」
そこで和音は思い出した。今日は二月十四日、バレンタインデーだ。
「俺に? ありがとう」
和音が受け取ると、麻子はほっとしたように微妙に微笑んだ。本命かどうかは聞かなかったが、答えはなんとなくわかってしまう気がした。
「じゃ、私はこれで……」
麻子は用が済むと、和音を通り越しそそくさと扉へ向かった。
ノブに手をかけると、もう一度お礼を言おうと振り返った和音に向かって、ようやっと顔を上げた。寒さの中を走ってきたかのように鼻先まで赤くしている彼女は、さすがに可愛かった。
「和音くんは他にもいっぱいチョコもらってるだろうから、私のは別に、食べなくてもいいから……」
「いや、俺、麻子ちゃん以外からもらってないよ」
「えっ?」
「うん」
甘いものは好きなので単純に嬉しく、絶対に食べようと誓った。
「冗談ですよね? 和音くん絶対モテるのに」
その言葉には特に反応をしないでおいた。
それから、もう時間も遅かったので麻子を自宅まで送っていった。彼女は実家から通学しているらしく、大学入学を機に田舎から出てきた和音とは育った環境が全く異なっていて、話をしていて面白かった。
「和音くんはどうしてバンド始めたの?」
何かを聞きたそうにしてるなあ、と思っていたら、麻子がそう問うてきた。
「んー、なんでだろ。特別な理由があるわけじゃないけど」
「秘密主義?」
隣を歩く麻子を見ると、なんと珍しい、悪戯っ子のような笑みで和音のほうを見ていた。へえ、そんな顔もするんだ、と思った。気持ち悔しくなったので、それらしい理由を述べることにした。
「せっかく田舎から出てきたし何か始めよっかなーと思っててさ。そしたらゆめからバンド誘われて、見に行ったらかっこいいじゃん、歌ってる聡。あいつに憧れて始めたところあるかも」
帰宅後、箱をそろりと開けてみると、惑星の形をしたチョコレートが並んだ、小さな銀河系のような光景が和音を出迎えてくれた。よく見ると太陽系の惑星を象ったものになっている。甘い香りが鼻を撫でた。全て一気に食べてしまうのはもったいなかったので、まずは地球を模したひとつを口に含み、残りは箱ごと冷蔵庫へしまっておいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます