パノプティコン・レミング
加藤み子
第一話 鳥海 麻子
前途多難。
フォトショップが少し使えるという理由だけで「バンドのポスターを作ってくれないか」と言われ、急遽、講義後に彼らの練習場所へ向かうことになった。麻子は気が重かった。
入学後、ずっと何のサークルにも入らず何のアルバイトもせず、勉強だけをしてきた麻子にとって、教授や学科の知り合い以外と関わりを持つ行為はあまり魅力的ではなかった。成績が下がったら進路に響く。そのうえ、軽音楽などの活動をするようなテンションの高い賑やかな人たちはいっそ苦手であり、できるだけ存在に気付かれずに平穏な大学生活を送り続けたかった。
講義で行われたグループ分けでたまたま一緒になった中沢ゆめに、「そういえばさあ、鳥海さんって絵上手いんでしょ?」と言われ、嬉しくなってうっかりフォトショップの話をしてしまったのが運の尽きだった。フォトショップで何をしているかといえば、決しておしゃれなポスターなどを作成しているわけではなく、好きなアニメの二次創作漫画を描いているだけなのだ。そりゃあ、何も知らない人よりは使いこなせるのかもしれないが、実在する人物の写真を使って、道端にどーんと掲示するようないいものを作った経験などない。
しかし、中沢ゆめにとってはフォトショップを使えるという事実はそれだけの意味しか持たないので、麻子が必死にポスターなんて無理と言っても聞いてはくれず、あっという間に同じ講義に出ていた仁平聡を呼んできてしまった。
「聞いて聡、鳥海さん、フォトショップ使えるんだって。やばくない?」
中沢ゆめが言うと、仁平聡も「へー。やば」と言った。
一体何が「やばい」のかわからない。人を呼んできて話を大きくされていることに戸惑い、申し訳ない気持ちになった。
中沢ゆめがなぜ仁平聡を呼んだのか、最初は理解できなかったが、会話を聞いていると二人は同じバンドチームに所属しているようだった。大学のサークル活動としての軽音サークルではなく、結構本格的に活動している有志の集まりらしい。
麻子は気落ちした。麻子自身とは違い、中沢ゆめや仁平聡は大学の中心に君臨しているようなグループの一員で、いわゆる「スクールカースト」ではトップにいる二人だった。普段は全く話さないし正直、こわい。こちらが地味すぎて人間として相手にされていないような気がする。中沢ゆめは誰とでもニコニコと話してくれるので、押しの強ささえなければ平気だが、仁平聡は不愛想だし喫煙もしているしで、得体が知れないので距離を保ちたかった。この二人と一緒にバンドをやっている人なんて、きっと皆同じような人達なのだろう。
「ね、鳥海さんお願い! うちら次のライブのポスター作れる人いなくて、困ってたんだよね。プロに頼むお金もないし、やってくれたらめっちゃ嬉しいんだけど」
中沢ゆめはマスカラでバチバチに持ち上げた睫毛をしぱしぱさせながら、言った。
あわあわしているうちに麻子は講義後に約束を取り付けられ、とりあえずポスターに収まる予定のメンバーと会うことになったのだ。
彼らの活動拠点は、駅前の大通りから少しそれた、居酒屋やちょっとした店舗が密集する細い道沿いに位置している、数階建ての狭そうな建物だった。昔は何かのテナントが入っていたのかもしれないが、今は特に何にも使われていないように見えた。そこの五階が彼らの拠点らしい。
麻子が着いたときにはすでに相当賑やかだった。ギターの弦が弾かれる音も聞こえる。麻子はため息をついた。心底このまま回れ右をしたかったが、約束を破るのは良くないし、と自分に言い聞かせ、そろりそろりと戸を開けた。
「誰か俺のチューナー取って」
「どこにあんの」
「ねえ、早くやっちゃおー」
「次のライブハウス、音響クソらしいぞ」
「まじで? どこ情報それ」
知らない人達が知らない会話を繰り広げているのを横目に、麻子は部屋の隅のほうで小さく椅子に座った。場違い甚だしかった。あんなに頼み込んできた中沢ゆめも、ギターに触れると突然麻子のことなど忘れ去ってしまって練習に興じている。誰も「何してんの?」とか「誰?」とすら声をかけてくれない。
居心地悪く縮こまっていると、ペットボトルの水を飲んだ仁平聡が一瞬だけ麻子を見たが、すぐに興味をなくし、通り過ぎざま傍にいたゆめに声をかけた。
「和音は? 遅くね」
ゆめは首をかしげ、わからないと意思表示をした。
「あいつのことだし、遅刻はしないでしょ。すぐ来るよ」
ゆめは鼻歌を奏でていた。知らない曲だ。
それから数分が経過したとき、ギターの形をした荷物を背に抱えた青年がやって来た。
「和音。おせぇぞ」
聡が言い、到着した男性に歩み寄る。和音は苦笑した。
「ごめん。ゼミが長引いちゃって」
他のメンバーがみな明るい髪色の中、彼だけが黒髪だった。なんとなく目を引く人だ。
和音は背負っていた楽器を下ろすと、部屋の奥へ移ろうとして顔を上げた瞬間、足を止めた。隅の椅子に猫背で座っている麻子を見て、怪訝な顔をする。
「え、聡。ちょっと」
呼ばれた聡は、和音の口元に片耳を寄せて彼の潜められた声を聞き取り、「あぁ、ポスター作ってくれる人」「知らん」「なんだっけ、鳥海? さん、だったっけ」などと答えた。ついそちらを見てしまった。
「ポスター作れる人いたんだ? 良かったじゃん」
和音は麻子と目が合っても気にせず微笑みかけ、軽く会釈をしてきた。
「黒澤和音っていいます。よろしく。聡たちと同じ大学?」
麻子はコクコクと頷いた。
「へぇ、学部は? ゆめと一緒?」
こちらに全く興味が向かない空間にただ座っているのも辛抱が必要だったが、急に興味を向けられるのも戸惑った。和音は嫌味なく傍のアンプに腰掛け、子犬のような目で麻子に次々と話題を振った。隣では聡が眉を寄せながら「和音、練習」と声をかけていたが、和音はそれより麻子の生態のほうに興味があるらしかった。
和音いわく、このバンドはボーカルでありリーダーである聡から発足したらしい。聡は幼馴染であるゆめにまず声をかけ、元々アコースティックギターが趣味だった彼女がギター担当になった。ドラムはほぼプロで活動している社会人が担当している。彼は他のドラムの仕事もあるうえ、もうひとつのバンドのドラムも務めているので、なかなか一緒に練習はできないようだ(和音は「ドラムとかキーボードできる人って少ないからね。貴重な戦力だよ」と眉を下げて笑った)。
そしてベースが和音だ。和音は麻子や聡やゆめとは別の大学に通っている同級生だ。大学名を尋ねて驚いた。麻子は絶対に勉強のコツを教えてもらおうと誓った。アルバイト先がゆめと一緒だったようで(今は二人とも辞めている。バンド活動での稼ぎがあるからだ)、一緒に活動する流れになったらしい。
それから、ゆめを通して改めて紹介してもらった後、麻子は彼らの練習を見学することにした。
練習していたのは聞いたことのない曲だった。先ほどのゆめの鼻歌が耳によみがえる。これは、彼らの何曲目かになるオリジナルソングらしい。作詞作曲は聡が行っているようだ。
普段聞かない爆音が体を揺らした。聡の声は力強く、安定している。緩くパーマのかかった金髪から汗が飛び、流星のようにチカッと輝いた。細身の黒いパンツが躍るように動き、音符の流れに乗る。ドラムの音は録音したものを流していた。そこに重ねるようにギターとベースの音が鳴る。普段へらへらしているゆめが、楽曲の開始と同時に急にキリリとした表情になりギターをかき鳴らす様は唾を飲むほど凛々しく、人懐こい犬のような印象だった和音が、筋肉と血管の浮いた腕を駆使し腰の辺りで弦を弾く様子は、目を反らしてしまうほど色気があった。
その夜、麻子は初めて実写の写真を使ってポスターなるものの作製に取り組んだ。我に返ったときには朝になっており、新聞配達のバイクの音に驚いたが、なんとか人に見せられる程度まで持っていけたと思った。
麻子は、ポスター作成用にもらったバンドメンバーたちの写真のうち、和音が写っているものだけを複製して自分のパソコンにこっそり保存した。次に彼らの練習部屋に向かうときには、もう少しきちんとメイクをしていこう、と誓った。
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