ただいま
二度寝したその日の夜、またHMDを着けて動画を見ていた。僕はパンさんが久しぶりにパブリックにいることに気づいたので、僕は勇気を出してジョインしてみた。
それに、僕のアバターはこんなにも可愛いし。
ロードが終わると、いつものあの地方都市のワールドだった。階段を昇って鏡の近くを見てみると、パンさんが別の人達と鏡の前に並んでいる。
じりじりと近づいていくと、パンさんが僕に気付いた。笑顔で握っているペンを置いて手を振ってきて、手を振るパンさんを見て周りの人たちも気付いたみたいだった。
「こんばんは~」
「こんばんは~」
「こん~」
「こんばんは~」
挨拶をしてみると、色んな人から返ってきたので安心した。狐耳の銀髪の女の子や、金髪でピンク色の服の女の子から男性の声が聞こえてくるのにも慣れた。
パンさんが黄色のペンを動かす。
「久しぶり」
ペンの裏側で空中の文字を消していく。
パンさんと会うのも数か月ぶりだった。
「お久しぶりです」
「あれ、ブレットさんのフレンド?」
狐耳の銀髪の人が明るい声で話しかけてくる、
「そうです、始めた時期が近くて…」
目をキラキラさせてパンさんが首を縦に振る。
「え〜、意外だわ!ブレッドさんってあんま同期とかいないと思ってた」
その言葉を聞いて、打って変わって怒りの表情でパンさんがポカポカ銀髪の人を叩く。
「うわ〜ごめんって!ごめんって!」
楽しそうだった。パンさんは、ここではブレットさんとして、ちゃんとやっていけるんだ。そう思うとなんだか心が苦しくて、初めて僕が初心案内のときの疎外感と同じものを感じた。怒っているジェスチャーと表情をやめて、僕のほうに近づいてくる。
「どうしたの?」
彼の手に合わせて空中に線が残る。
「昨日、他の人にお砂糖しませんかって言われたんすよ~」
パンさんが驚いた表情が見せて、宙を書きなぐる
「ほんと?」
「あ、勿論断りましたけど、ほら」
と言って、指輪を見やすいように、左手を出した。
今度は安堵の表情を見せて、ペンをまた握る
「よかった」
「モテモテじゃん」
と、安心したのか少し意地悪なことも書いてくる。
「ヨルノさんはともかく、あの人はただ僕の見た目が好きなだけだったと思いますね」
「性癖に刺さったのかな?」
「いや、女性でしたけど」
また驚いた表情で、僕の顔を二度見する。
「すごいじゃん」
怒りの表情のコントローラーのトリガーを押す、初めて押した気がする。
「僕断ったって話ししましたよね~」
笑顔の表情を次に変えて、パンさんに詰め寄ると怯える表情になった。
この流れも、一回三人でやった気がする。
詰め寄るのをやめて、普通の表情に変えた。
「冗談ですよ、話聞いてくれるだけでありがたいです」
ひと段落して、パンさんがまた書き込む、
「ヨルノさんは帰ってくるよ」
パンさんの笑顔が、ひと際輝いて見えた。昨日擦ったばかりの目の下がヒリヒリする。
「…ですよね」
「ありがとうございます」
別に直接的に求めたわけじゃない。ただ、僕が今欲しかった言葉を暗に感じ取ったのだろう。
パンさんは、手を口にあてて上品に笑う。
「がんばって」
宙に思いやりが浮く。
「はい!」
ありがとう、パンさん、本当に。今度は憎しみじゃなくて、嬉しさで目の下がヒリヒリと痛かった。
一か月が経った。あれから研修が終わって、僕はコミュ障じゃなくなった。会社の人間とはきはき挨拶もできるし、会社の同期とも自然に話ができて、会話の輪に入れて、飲み会にも参加して、仮想空間ぐらい充実し始めた。
その仮想空間では、日々のストレスを癒すために僕はFUJIYAMAのパブリックインスタンスにいて、初心者案内した外国人と、版権キャラで踊るのが趣味の変な人と鏡の前に並んでいた。最近の僕の横は、最近ネットミームで流行してるダンスがチラチラ映って喧しかった。
くだらないSNSの流行に対するお気持ち表明をフレンドから聞いていると、通知欄が光った。パンさんがジョインしてきたみたいだ。珍しい。
二人にちょっと…と言って、入口の方に向かう。
近くにペンを手に持ったパンさんがいた。
こっちを見ると、挨拶よりも先に近づいて、僕に見えやすいように高い位置に文字を書く。
「来て」
とだけ書いて、消えてしまった。
心臓の鼓動が早まる。まさか。
メニューを開いて、フレンド欄をスクロールする。ヨルノさんはログインしてなかった。
しかし、呼ばれたので僕は、パブリックの二人にフレンドに呼ばれたから行くね〜と言って、パンさんのインスタンスにジョインした。
濃い水色のロード画面が、僕の急かす気持ちをせき止めるように、続いている。
ロードが終わると、そこはいつものホームワールドだった。玄関から歩いてリビングへ向かう。リビングにはパンさんがまたペンを持ったまま待機していて、ちょこんと座っていた。
「すこし待ってて」
ともうすでに書いてあった。
視界が微かに揺れる。手が震える。夜中に聴く音楽みたいに、心を締め付けられる。
一分ぐらいだろうか、インターホンの音が聴こえる。
そして、僕の通知バーが鳴った。
廊下から彼が歩いてきた。歩くたび揺れる凛とした黒髪に、スラっとした背格好に灰色のカーディアンが似合っている。そして、見慣れている。アクアマリンみたいなその瞳は僕たちを見つめていて、左手の薬指の根元には、もう一つのアクアマリンが光っていた。
「ただいま」
廊下の中らへんまで歩いて、僕のほうを向いて、ぽつりと言う。なんでもなかったみたいに。
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