短篇『水沼桐子と解《ほど》いた靴紐』

眼鏡Q一郎

『水沼桐子と解《ほど》いた靴紐』

『水沼桐子とほどいた靴紐』


 倉庫にも似た大きなガレージには機械油の匂いが漂っている。その中で、分厚い老眼鏡をかけた老人が、ボンネットを跳ね上げた古い車のエンジンルームを覗き込んでいる。薄暗いガレージの天井には橙色の電球が点々と吊り下げられ、カバーが掛けられた何台もの車を照らしている。黙々とエンジンルームを点検する老人の後ろで、一人の若い男性が必死に熱弁している。

「叔父さん。これは本当にいい話なんだ。一括ですよ。叔父さんのコレクションを丸ごと買いたいと言ってくれている人がいるんです。しかも破格な条件でです」

「何度言えばわかるんだ。車は売らない。コレクションはすべて博物館に寄贈すると決めたんだ」

「どうしてです。ここにある車だけでも資産価値は測りしれない。それをただで譲るなんて。宝の山ですよ」

「わしはもう年だ。これ以上の金は必要ない」

「叔父さん。財産をみすみす手放すんですか?」

「わしのコレクションは、車が大好きだった父と一緒に親子二代でこつこつと集めた物だ。受け継ぐ子供もいないしな。本当にクラシックカーのことを愛している人達に見てもらえる方が車も幸せだ。金稼ぎの道具にはさせんよ」

「そうか、叔父さんの気持ちは変わらないんですね」

 残念です、と男性は暗い表情で言う。

「それはこちらもだ。お前が本当に車を大事にしてくれるのなら喜んで譲ったがな。お前の頭の中にはいつも金のことしかない。本当に残念だ」

 それから老人は顔も上げずに男性に言う

「そろそろ帰れ。今日中にあと二台、エンジンをチェックしたいんだ」

「いいや、叔父さん。もう少しだけ、そろそろいい時間なんです」

「いい時間?」

 老人が怪訝そうに男性を振り返る。男性は腕時計を見ながら、3、2、1と小声でつぶやくとおもむろに老人に近付き、隠し持っていたスタンガンを押し当てる。



 先月捜査協力をした事件の手続きのために、首都警察捜査一課警部の水沼桐子は神楽町にある32分署にいた。小柄でおかっぱ頭、前髪をピンで留めた黒縁眼鏡の女性は、その風貌からいつも学生に見間違えられている。書類を提出し終えると彼女は建物の一階に下りる。刑事部の受付では一人の刑事が男性に詰め寄られているのが見え、おやと彼女は足を止める。短髪で長身、がっちりとした体形の刑事は、以前捜査を一緒にしたことのある刑事だ。たしか名前は本堂と言った。

「早く遺体を引き取らせて下さい。葬儀も出来ませんよ」

 強い口調で詰め寄る男性を、刑事は困った表情でなだめている。

「お気持ちはわかりますが、何しろ目撃のない死亡事故ですし、最低限の捜査をする必要があります。一両日中にはご遺体をお返し出来ますので、もうしばらくお待ち下さい」

「感電して心臓発作を起こした、それは明らかでしょう? 何を捜査するというのです」

 男性はしばらくごねていたが、刑事が何度も丁寧に説明し、しぶしぶ警察署から出ていく。その後ろ姿を見送ったあと、水沼は刑事の方へと歩いていく。

「本堂刑事、ご苦労様です」

「ああ、水沼警部。先日はどうも。おかげさまで事件は解決しました。本当にありがとうございました」

「お忙しそうですね」男性が出て行った出口をちらりと見ながら彼女は言う。

「いやあ、」

 本堂は曖昧な言葉で頭をかくと、それから一度あたりを見回したあと、小声で水沼に話しかける。

「あの、警部。もしよろしければ、ちょっと付き合ってただけませんか?」

 え、と何を勘違いしたのか彼女は一瞬頬を赤らめる。



 神楽町にあるオープンカフェで水沼と本堂の二人は、鮮やかな赤いチェックのクロスがかけられたテーブルを囲んでいる。水沼は唇の端にジャムをつけたままラズベリーパイに舌鼓を打ち、本堂はブラックコーヒーをすすりながら彼女が食べ終えるのを待っている。甘いクリームでいっぱいになった口をもぐもぐと動かし、ようやくフォークを置いた彼女に、本堂は事件の概要を説明する。

「昨日の午後三時頃、資産家の鏡坂時生氏七十八歳が、自宅のガレージで死亡しているのを訪問看護の看護師が発見しました。鏡坂氏はクラシックカーのコレクターで、自分でも古い車を整備していたようです。バッテリーをいじっている時に感電し、元々心臓の弱かった鏡坂氏は心臓発作を起こしたと考えられています」

「訪問看護師の方が偶然発見したんですか?」

「いいえ。鏡坂氏は元々心臓が悪く、腕に心電図を二十四時間モニターするブレスレットをつけていたそうです。心電図異常を感知すると、看護師に連絡が入る設定になっていたとかで、それで異変に気付いた看護師が自宅を訪れたということです」

 それから本堂は、昨日遺体の第一発見者となった看護師の証言を説明する。

『はい。鏡坂氏は心臓が悪く、一年ほど前から心電図をモニターするブレスレットを着けていました。そのブレスレットによって心電図がリアルタイムで屋内に置いてある本体の機械に記録され、異常な波形を検知したら私の携帯電話に連絡が入る設定になっていました。昨日の午後二時頃、ブレスレットが異常波形を感知し、私の携帯電話のアラームが鳴りました。ただ、あのブレスレットはスイッチが入った状態で腕から外すだけでも、心停止と判定されるため、まさかとは思い電話をかけたんです。いつもは携帯電話には必ず出る方だったのに応答がなくて、嫌な予感がしてすぐにご家族に連絡を取りました。ええ、はい、甥御さんです。ですが、どうも遠方にいるということで、先に屋敷に向かうように頼まれました。アラームが鳴ってから、十五分くらいで屋敷には着きましたが、やはりインターホンにも応答はなくて、私は鍵を持っていないためご家族が着くまで門の前で待っていました。三十分ほどで甥御さんが来られ、鍵を開けていただいて、ええ、はい、一緒に屋敷に入りました。甥御さんに、寝室を見てくるからガレージの方をと言われまして、そして倒れている鏡坂さんを。はい、すいません、大丈夫です。心停止は何かの間違いでブレスレットが壊れただけじゃないかと思ったのですが、脈も触れなくて、もう冷たくなっていました。無駄とはわかったのですが心臓マッサージをしていると甥御さんが来られて、アラームが鳴ってから一時間は経っていましたので、甥御さんがもうやめて警察を呼ぶようにと。母屋にある機械を確認して、心臓の止まった時間も伝えるようにと。はい、それから母屋に戻って警察に通報しました』

 看護師の証言になるほど、と彼女はうなずく。

「鏡坂氏の遺体には特別変なところはなかったのでしょうか?」

「はい。外傷もなく、本体機械に記録された心電図を解析したところ、午後二時に強い電気刺激が記録され、それから心停止となっていました」

「それで感電による心停止と結論付けられたんですね」彼女はぺろりと指についたクリームをなめる。「ただ、それだけ聞くと、ただの事故にしか聞こえませんが」

「われわれもそう思っていたのですが、実は第一発見者の看護師が、鏡坂氏は家族に殺害されたんだと騒ぎ出したんです」

 殺害された?「それは物騒な話ですね」

「鏡坂氏は高価なクラシックカーのコレクターでしたが、最近になりすべて博物館に寄贈する方向で話をすすめていたそうです。今週末にも話がまとまるはずだったんですが、そうなると家族は相続する遺産の大部分を失います。鏡坂氏には妻も子供もおらず、肉親は甥だけだそうです。最近甥が頻繁に自宅を訪れ、車の売却を巡って鏡坂氏とよくケンカをしていたようです。寄贈が成立する前に死亡すればコレクションはすべて甥の物になりますから。甥が感電死させたんじゃないかと看護師は言うんです」

「それで、32分署はそれを真に受けたんですか?」

「そういうわけではありませんが、感電した経緯もはっきりしませんし、四十八時間だけ捜査をすることになったんです。それで事件性が認められなければ事故として捜査は終了になります。一方で甥は、ただの事故なんだから早く遺体を渡せ、葬儀をさせろとうるさく言ってきていて、弱りましたよ」

 先程、分署の受付で騒いでいたのが甥か。彼女は本堂が用意した捜査資料をぺらぺらとめくる。ふと、遺体の写真が収められたページで彼女の手が止まる。じっと写真を見たあと、まいったなと小さくつぶやく。それからしばらく悩んだあと、彼女は意を決したように本堂を見る。

「ちょうど大きな事件の捜査を終えたところで時間があるんです。パイもおごってもらいましたし、現場を見に行きませんか?」



 赤と黒のツートンカラーのシトロエン2CVがふらふらと不安定な運転で街を走っていく。涼しい顔でハンドルを握る水沼とは対照的に、助手席で不安そうにシートベルトを握りしめている本堂は額に脂汗をかいている。

 二人を乗せた2CVは、鏡坂と表札のかけられた大きな屋敷の門の前で停まる。車をおりると、門の前で待っていた女性に挨拶をする。派手なフレームの眼鏡をかけてあ大柄な女性は、第一発見者の訪問看護師で、捜査協力をお願いするとよろこんでと現場にかけつけてくれていた。

 三人は現場となったガレージを見たあと、応接間にあった心電図モニターの本体機械を見に行く。看護師が手慣れた手つきで、事件当日の心電図波形を画面に映し出す。

「ああ、たしかに午後二時、これですね。大きなスパイクが入って、それから一分ほどで心臓が停止しています」

 水沼はなるほどとうなずくと、心電図の波形をさかのぼって見ていく。

「それまでは普通の波形ですね。たしかに突然、大きな電気刺激を受けたように見えますが、あれ、これ、何ですか? この部分。一分ほど、何も記録されていませんね」

「再起動です」看護師が眼鏡を押し上げながら答える。

「再起動?」

「この機械はリアルタイムで心電図を記録し通信していますが、毎日昼の十二時ちょうど、再起動するようになっているんです。約一分間、心電図は何も記録されません」

 なるほど、と水沼はうなずく。

「これを見る限り、感電したことは事実のようですが、どうして事故ではないと思われるんですか?」

 彼女の問いに、看護師は鼻息荒く自説を口にする。

「鏡坂さんは趣味とはいえ、長年車の整備をしてきました。それこそ過去に感電したこともあり、普段から十分に注意していました。ゴムの手袋も必ずはめていましたし、車の整備中に感電死なんてあり得ません」

「ガレージを締め切った状態で作業していたようですね。かなり暑く、大量の汗をかいていれば、思わぬ感電を起こしてもおかしくありません」

 本堂が言うが、看護師は信じられませんと繰り返す。

「ですが、ブレスレットを鑑識が確認しましたが、回路の一部が過負荷で壊れていました。異常な通電があったことは証明されています」

 よろしいですか、と看護師は二人の刑事に向かって強い口調で言う。

「私は訪問看護師として長年鏡坂さんとお付き合いがありました。彼のことはよく知っています。鏡坂さんは甥御さんのことをよく思っていませんでした。ろくに働きもせず、金の無心に来る、あいつには遺産を渡したくない、たびたびそう言っていました。遺産を失うと知って、彼が鏡坂さんに何かやったに決まっています」

「故意に感電させたという意味ですか?」水沼が看護師にたずねる。

「彼は昨日、事件よりも前に一度この家に来ているんです。何か仕組んだんですよ」

「昼間にここを訪れているんですか?」彼女が本当ですかとたずねると、本堂は、ええ、とうなずく。

「たしかに玄関前の防犯カメラによると午前十一時半に訪ねてきて、十二時十五分に家を出るところが記録されています。ですが鏡坂氏が死亡した二時には、彼には完璧なアリバイがあるんですよ」

「アリバイ、ですか?」

「はい。彼は当該時刻、ここから車で三十分ほど離れた場所で人と会っていました。看護師さんから連絡を受けた時も、その方と一緒にいたようです。また、昼間にこの家を出て、看護師と二人で屋敷に再び戻るまでの間に、防犯カメラにはこの家を出入りする人間は写っていません。当然、鏡坂氏を別の場所で感電させることも出来ませんし、やはり、甥がこの件に関与している可能性は考えにくいですね」

「ですが、」看護師が反論しようとするのを本堂がぴしゃりと言い返す。

「これが何らかの事件だとしても、少なくとも甥御さんには実行出来ません」

 本堂の強い口調に、看護師は憮然とした表情で黙り込む。

 看護師自身も甥に対してはあまりいい感情を抱いていないのだろう。だが単に甥への個人的感情でいたずらに騒ぎ立てているとも思えない。心から鏡坂氏の死を悼んでいるし、本当に何か引っかかるものがあるのだろう。長い付き合いだからこそわかる気付きや違和感は無視するべきではないのだが。

 水沼はしばらく考え込んだあと、自分がこの屋敷に来た当初の目的を思い出す。

「本堂さん。実は、一度玄関を見たいのですが」

「玄関、ですか?」

 玄関に案内されると、彼女は靴箱を開いて、中から紐靴をすべて取り出す。玄関にずらりと並べられた靴を前に、彼女は本堂にたずねる。

「どう思います?」

「どう、と言われましても」本堂は困惑した表情を浮かべている。

「靴紐は全部同じ結び方をしています」

「普通は靴ごとに結び方を変えたりしないと思いますが」

「ですが、見つかった遺体の靴紐の結び方は左右で違っていました」

 ええ、と本堂は声を上げると、慌てて捜査資料をめくる。たしかに写真に写る遺体の足元は、左右の靴紐が違う結び方をしている。

「まったく気が付きませんでした」

「変ですよね。すべての靴が同じ結び方をしているのに、亡くなった時に履いていた左の靴の靴紐だけが、違う結び方をしています」

「本人以外の誰かが紐を結んだということですか?」

「普通に考えればそうですね」

「遺体発見時に靴が脱げていて、誰か捜査官が履かせ直したのでしょうか? そんなことするはずはないのですが」

「普通に考えればあり得ませんね」

「だったら、一体誰が何のために靴紐を結び直したんでしょうか?」

 本堂さん、違いますよ、と彼女は大きく首を振る。「違います。いいですか、靴紐を結び直したことは問題ではないんです。問題は、何故靴紐をほどいたのか、ということですよ」



 現場を出た二人は看護師と別れ、監察医務医院に向かう。

「感電して心臓発作を起こしたというのは十分あり得る話ですが、仮にです、仮にこれが事故ではなく意図的に起こされたとします」

「誰かが事故に見せかけて感電させたということですか?」

「はい」彼女はうなずく。「ですが問題は、感電では確実に死亡するかどうかはわからないということです。感電した心電図が残っている以上、何らかの電気刺激があったのは間違いありませんが、それで死亡するとは限りません。もし事故に見せかけて確実に殺害したいのなら、感電以外の手を用意していたとしても不思議はありません。もちろん外傷を負わせるわけにはいきません。事故死には見えなくなりますから」

「それがあの靴紐と何か関係があるということですか?」

 ええ、彼女は再びうなずくとハンドルを切る。「それをたしかめに行くんです」

観察医務医院の駐車場に車を停めると、二人は地下の遺体安置所を訪れる。本堂が書類を提出すると、監察医が二人を遺体が収容されている安置棚の前に案内する。今にもボタンがはじけてお腹が飛び出しそうな大柄な白衣の男は、冷房がきんきんに効いているのに額に汗をかきながら遺体安置棚の扉を開く。がらがらと銀色の引き出しが引っ張り出されると、そこに真っ白い体の老人が横たわっている。二人は足元に回り込むとじっくりと足を観察する。

 靴紐の結び方が違っていたのは左足だった。一見すると何も左足に怪しいところはない。傷などもなく、本堂は外れだったかと思うが、彼女は彼の方を見るとにいと笑う。

「ありましたよ、本堂さん。これを見て下さい」

 水沼の言葉に、本堂は親指と人差し指の間を開いて覗き込む。指と指の間に赤い斑点のような傷が見える。「これは、」

「注射の跡、ではないでしょうか?」

 水沼の言葉に監察医は、ええ、とすっとんきょうな声を上げる。

「薬物検査は行われたんですよね」

「え、ええ。ですが、ルーチンのスクリーニングだけで、詳しい毒物検査などは行っていません」

「追加で毒物検査をお願い出来ますか?」



 それから事態は急転する。

 追加で行われた検査で、鏡坂の体内から微量ながら毒物が検出される。心臓の動きを強く抑制する心毒性があり、正式に殺人事件としての捜査が開始される。

「看護師も被害者が作業中に感電するなんてあり得ないと言っていましたよね。これは感電による心停止を演出した偽装です。心電図が記録されていることを知っていた犯人が、スタンガンのようなものを打ち、気絶させたところで毒物を注射したんだと思います」

「そんな計画、被害者が心電図モニターのブレスレットを装着していることを知らなければ思い付きませんね」

「そういう意味では甥は十分怪しいのですが、記録された心電図によると、電気ショックのスパイクから心停止までわずか一分ほどで起きています。つまりスタンガンで襲って、靴を脱がせて注射するのにたったの一分です。かなり手慣れています。仮に、甥にアリバイがなかったとしても、そんな短時間で毒が注射出来るのでしょうか?」

「注射に手慣れている、まさか、あの看護師、ですか?」

 どうでしょうか。彼女は考え込む。もし看護師が犯人なら、そもそも捜査をするように警察に頼んだりはしないだろう。殺害する動機があるとも思えない。だが毒殺だとすると、これは計画的な殺人だ。普通の人間は毒物も、ましてや注射器も持ち歩いたりはしない。計画的な殺人ということは明確な動機があるということだ。動機の面からはやはり甥が一番怪しいが、彼には完璧なアリバイがある。つまりこれは、いかにアリバイを崩すのかという問題だ。

 しばらく考え込んだあと、彼女は本堂にたずねる。

「被害者の着けていたブレスレット、まだ警察署にあるんですよね」

「ええ。鑑識に預けていますが」

「もう一度、調べてみませんか。面白いものが見つかるかもしれませんよ」



 毒物が検出された翌日、事件から四十八時間が経過し、死亡した鏡坂氏の甥である鏡坂圭吾が32分署にやってくる。本堂は、遺体の引き取りの書類のサインが必要だと、鏡坂圭吾を四階の刑事部屋へと案内する。奥にある小さな小部屋に通すと、鏡坂圭吾はあからさまに警戒した表情を浮かべる。

「何ですここは? 取調室じゃありませんか」

「すいません。ちょっと内密でお話をしたいことがありまして」

「話? どういうことです。書類にサインをするだけでしょう? さっさと叔父の遺体を引き渡して下さい」

 そこに扉をノックして水沼が入ってくる。

「誰ですか?」

「水沼です」

「葬儀屋か何かですか?」

 いいえ、と笑顔で首を振ると、水沼は鏡坂圭吾に対峙するように、取調室のイスに座る。「首都警察の水沼警部と申します」

 首都警察という響きに鏡坂圭吾の顔色が変わる。水沼はにこりと笑ったまま机の上で手を組んでたずねる。

「火傷はしませんでしたか?」

「火傷、何のことです?」

「出力を抑えていても、相当痛かったでしょう? トイレにでも立った時にやったんですか? よくそのあと、平気な顔でお友達と談笑出来ましたね」

「あんた、何を言っているんだ?」

「あの日、一体何が起きたのか。経緯はこうです。あなたは昼、鏡坂氏を訪ねました。防犯カメラにもそれは記録されています。そしてモニター心電図が再起動に入る、何も記録されない空白の一分間にスタンガンで被害者を気絶させたあと、ブレスレットを外し自分の腕にはめると、毒物を足の指と指の間に注射し鏡坂氏を殺害しました。ブレスレットを自分の腕にはめることで、あなたの心電図が記録され、モニター上はまだ鏡坂氏が生きていると偽装することが出来ます。現場は蒸し暑い倉庫の中です。モニターの記録が決め手になって死亡時刻は二時と考えられていましたが、実際には死亡推定時刻には幅があり、もっと早い時間、昼過ぎの可能性もあるとのことです。鏡坂氏を殺害後、あなたは友人と会います。そして二時になるとトイレに立ち、自分にスタンガンを当てたあと、ブレスレットを外したんです。これで、電気刺激と心停止を記録することが出来ます。異常波形と心停止をモニターが感知し、看護師の携帯電話のアラームが鳴ります。そして屋敷の鍵を持たない看護師があなたに電話をかけてくることも計画通りだったはずです。あなたは看護師の電話を受け、自分の計画が上手く行ったことを確信します。それからあなたは悠々と現場に赴き、看護師に最初に死体を発見させたあと、心電図を確認して通報するようにとガレージから追い出します。そして看護師がいない間に、鏡坂氏が腕にはめていた偽物のブレスレットと本物のブレスレットを入れ替えたんです。これでアリバイは完成しました。周到に準備し、実行した。お見事です」

 彼女がすらすらと淀みなく説明し終えると、鏡坂圭吾は頬を引きつらせながら、必死の形相で言い返す。

「何を、あんた何を言っているんだ。俺が、叔父を殺したと言うのか?」

 うーん、とちょっと考えるように首を傾げたあと、彼女はにっこりと笑う。「はい」

「あんたが言っているのはただの空想だろう。何か証拠があるのか?」

「毒は足の指と指の間に打たれていました。そんなところに注射するには、本人の自由を奪う必要があります。普通は抵抗しますからね。ですが睡眠薬を飲ませれば、検死の基本的な検査で検出されますし、外傷を残すわけにもいきません。その点でスタンガンを使用するのは利にかなっていますが、結果的に被害者のブレスレットは二度、スタンガンの電流を受けることになりました。じつはあのブレスレットには、本体機械が壊れた時のために直前三十分間は心電図を記録することが出来るんです。常に上書きしながら、三十分間心電図を記録しているんです。ですがブレスレットを確認したところ、強い電流のせいで回路の一部が壊れ、記録が止まっていました。通信機能は無事だったため、その後も本体機械に心電図を送り続けていましたが、ブレスレット自体の記録は停止していました。停止時刻は十二時ちょうど、つまりですね、本体機械に残っていた午後二時の電気刺激よりも二時間も前に、十二時の時点でブレスレットが一部壊れるような強い電流が流れているんです。おかしいですね。鏡坂氏は二度も感電したんでしょうか?」

「あり得ない話じゃないでしょう。二度、感電したから、心臓が耐えられなかっただけでしょう」

「いいえ、あり得ません」

「何故です。何故そんなことが言い切れるんです?」

「最初の感電は本体機械には記録されていませんでした。つまり、本体の再起動の間、一分間にその感電は起きているんです。二十四時間でたったの一分間しかない再起動時間に偶然感電したなんて都合が良過ぎます」

「可能性が低いからと言って、なかったとは言い切れないでしょう」

「おかしいですね。どうしてそんな曖昧な言い方になるんです? 再起動は十二時ちょうどですよ。あなたが鏡坂氏と会っていた時間じゃないですか。あなただけは、十二時に感電したかどうか、はっきりとわかるはずなんですが」

 鏡坂圭吾はぐううと喉を鳴らし、必死な形相で抵抗する。

「叔父の家にいた時、ずっと一緒にいたわけじゃありません。私がコレクションの車を見ている間に、目を離した時に感電したのかもしれない。何の証拠にもなりませんよ」

「ご心配なく。証拠はまだあります」

「まだ、ある?」

 鏡坂圭吾の声が上ずる。

「鏡坂氏がつけていたブレスレットをもう一度調べたんです。そうしたら面白いことがわかりました。あのブレスレットにあるべき物がなかったんです」

「あるべき物?」

「はい。看護師の指紋です」

「そんな物、なくて当然ですよ。あれは病院で処方されたわけではありません。叔父が個人的に買ったものですから」

「ですが、実は彼女、死体を発見した時、心停止が何かの間違いじゃないかとブレスレットが壊れていないか確認したそうなんです。この意味がわかりますか? 彼女はブレスレットに触ったんです。それなのに今、警察署にあるブレスレットには彼女の指紋がついていません。鏡坂氏の指紋は残っていますから、誰かが指紋を拭き取ったわけでもありません。とすると、遺体を発見した時に被害者が着けていたブレスレットと、今、警察署にあるブレスレットは別物ということになります。そして、看護師がブレスレットに触ってから警察がブレスレットを回収するまでの間に、ブレスレットをすり替えることが出来たのはあなただけなんですよ、鏡坂圭吾さん。どうしてブレスレットをすり替える必要があったのか、納得のいく説明をしていただけると大変助かるんですが」

 鏡坂圭吾の顔色は蒼白を通り越して土気色になっている。

 水沼はふっと小さく息を吐くと、大げさに肩をすくめてみせる。

ほどいた靴紐に、足元をすくわれましたね」


20240615

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