雨後の桜は道を汚す

dede

第1話


「何をしている?」

格納庫で和田二等兵の姿を見かけたので声を掛けた。

こちらに気づくと和田は姿勢を正して答える。

「ハッ、伊東少尉。汚れが気になり拭いておりました」

潔癖な彼らしいと思ったが、しかし以前のように『にーさん』とは呼んで貰えない事にはやや寂しく思う。

今でこそ表情が少なく怜悧な印象が強いが、昔はコロコロとよく表情が変わるヤツだった。

和田がうちに来た時は随分驚き、そして残念に思ったものだ。

「整備士に任せて、お前はもう休め」

「ご許可願います。私の機体です、綺麗な状態で飛びたいのです」

そう言って目を細めて『桜花』を撫でる。

「……わかった。許可しよう。だが休む事も職務だ。終わり次第休め」

「もう一つ我儘をよろしいでしょうか、少尉」

「言ってみろ」

「今晩、少尉と二人で話す機会を頂けませんか」

これもまた、彼の言うトコロの綺麗になるための一環らしい。

「……良かろう。今晩空けておく。夜になったら私の部屋に来い」

しかしそれはそれこそ綺麗ごとだ。

彼はキレイにしたいらしいが、生きていく事はキレイごとではないのだ。

私はくたびれた自分の軍服を撫でる。

私の誇りだった軍服も随分汚れてしまった。

もちろん今でも誇りはある。しかしそれ以上に重責だった。

脱ぎ捨てたいと思った事は数知れず、けれど責務を思うと捨てる訳にもいかなかった。

格納庫の外を見る。昼過ぎから静かに雨が降っていた。

夕立なら激しく振って明日には晴れただろうが、この静かな雨はしばらく止みそうになかった。

湿度が高く、むわっとした空気は息苦しい。いつだって心地よく理想通りに物事は進まない。

世の中、こんな筈ではなかったという儘ならない事で溢れている。



夜になると和田が来た。

「失礼します、少尉」

「よく来たな。座って楽にするといい」

私は机の引き出しの奥から酒瓶と湯呑を2つ取り出し、彼の前に座る。

「和田、昔のような話し方でいいぞ。今夜は無礼講だ」

「ハッ、しかし」

「構わん。ここにいるのは私とお前だけだ、階級は気にするな。今だけはこんな軍服脱ぎ捨てたいぐらいだ。蒸すしな。

けれど、さすがに裸の男二人が一晩部屋で過ごすのはなぁ」

そこでようやく和田はクスリと笑う。

「ご勘弁くださいよ、伊東のにーさん?」

私も笑う。

「ああ、私も勘弁願う。お前の嫁に悪い」

「さて、どうだか。あいつなら逆に喜ぶかもしれません」

私は肩を竦める。

「さて、どうかな。ま、いい。まずは飲もう。秘蔵の酒だ」

そう言って酒瓶を傾けて私と彼の湯呑にドボドボ注ぐ。

「にーさん、貴重なんだから他の機会に取っとくといい」

「いつ飲むんだ。お前と飲む機会はもうないんだ。これは私の我儘だ。付き合え」

「……馳走になります」

「おう」

そう言って互いの湯呑をかち合わせると、小さくチン、となった。

私と和田の間を揺蕩う蚊取線香の煙が大きく揺らいで擦れて消えた。

和田の喉がコクンとなる。

「通ったところが熱いです」

「ああ、そうだろう」

そう答えると私も湯呑の中の酒をグイっと飲み込んだ。





「和田に嫁?」

たまたま基地から実家に戻ってきてみれば、そんな話を聞いた。

昔は私の後ろをついて「にーさん、遊んでくれよ」と懐いていたな。

いつの間にか背は追い抜かれてしまった。私が士官学校に行ってからは会う機会も減ったが、会えば「伊東のにーさん」と声を掛けてくる。

未だに可愛い弟分だった。

その和田が嫁を貰ったという。時が経つのは早いと思う。

「では行ってみるか」

どんな嫁か気になったので、夜分に和田の家を手土産を持って訪れた。

「にーさん、いらっしゃい」

訪れると、和田も和田の家族も心地よく迎え入れてくれた。

和田の嫁もいた。

よく笑う、可愛らしい少女だった。

和田の家族は、よく出来た嫁だと褒めた。

しかし当の和田は嫁に対してそっけなかった。冷淡だったといってもいい。

帰り、和田が送るというので夜道を二人歩いた。

「なあ、和田。何故嫁に冷たい?」

「気に食わんのです」

「どこがだ。よい嫁さんじゃないか」

「……とにかく気に食わんのです」

「なあ、この戦争はいよいよ怪しくなってきた。いつまで一緒に居れるか分からんぞ?悪い事は言わない、後悔する前に仲良くしておけ」

「ねえ、にーさん。にーさんは嫁を貰わんのですか?」

和田が少し話を変えてきた。

「私はいいよ。もう若くもない。それよりもお前が……」

「にーさんが、嫁を取ったら考えます」

「なんでだ」

「なんででもです」

その夜その話はそこまでとなった。


「伊東さんじゃありませんか?」

町中で声を掛けられたので振り向くと、買い物かごを持った和田の嫁だった。

「この間は夜分に失礼しました」

和田とは対照的に、和田の嫁は人懐っこくニコリと笑う。

「いーえ、こちらこそお土産ありがとうございます。うちの人とは仲がよろしいのですか?」

「どうでしょう。子供の頃からの付き合いになりますが」

和田の嫁は柔らかい表情で首を横に振る。

「私が嫁いでから色んな方がいらっしゃいましたが、一番嬉しそうでした。正直羨ましい」

そう言うと私に向けて羨望の眼差しを向ける。気になったので尋ねてみた。

「あなたは、和田の事をどう思ってるんですか?」

和田の嫁は目を瞬かせると、クスリと笑った。

「家族の皆さんには良くして貰ってます。今の生活に何の不満もありません。ただ、あの方が私に冷たい事だけが嫌でたまりません。

あの方は『お前の事が嫌いだ』とか、『どうせ俺が戦死したあとの給付金目当てだろう』などと私の事を罵られるのです」

私はそれを聞いて驚いた。

「すまない。本来はそんな男ではないのだが……今度会ったらきつく叱っておく」

すると彼女は首を横に振った。



蒸し暑い中、部屋で二人ひとしきり昔話をしていたが、それも一段落ついた。

「懐かしいな」

「ええ。あの頃は良かった……」

私と和田は酒で喉を潤す。

「すまんな、和田。最後の酒の相手が私で。嫁の方が良かっただろう」

「なぜ嫁の名前が出るんですか。にーさんと最後に飲めて、本当に良かったですよ」

「なあ、和田。嫁に手紙は書いたのか?」

「家族には書きました。嫁には書いてません。……不要でしょう」

「なあ、何故嫁にそんなに冷たい?」

「なんでにーさんは嫁を貰わないんです?」

「私の話はいいだろ?お前の嫁の話だ」

「俺の嫁の話をしてるんです。

いいですか?俺はずっとにーさんを見てきたんです。だから……」



にーさんみたく、嫁が俺のいなくなった後も一人で生きそうで恐いんですよ。



そう、和田は零した。

「お前、そんな事思ってたのか?」

「思いますよ!素敵な奥さんで。俺にも優しくしてくれて。あんなに仲睦まじくて。でも呆気なく亡くなって。

直後のにーさんは今にも死にそうで。今でも頑なに後妻を取ろうとしないで!そんなの重ねてしまうじゃないですか。

そもそもあの嫁、気に食わないんですよ!こんな態度なのにニコニコして。俺に優しくて。俺の事を好きだという。頭おかしい!」

私は思わずため息をつく。そしてこれから私はとても残酷な事を言うんだ。

「なあ、和田。お前、それバレてるぞ?」

「え?」

「この間、言っていたよ。『あの方の私に冷たいところが嫌でたまらない』。

でも『死別した後を思って故のあの方なりの優しさなのでしょう』。『それがたらなく好きで。たまらなく悔しいのです。今はまだココにいるのに』」

散々罵られたのに何故優しいと思ったか聞いてみたが、それ以外の態度があまりに優しいんだとキッパリ言い切られた。罵る時など、私以上に辛そうなのだと。それが辛いのだと。本当に、出来た嫁だった。それだけに勿体なく思う。

「なんで……なんで今言うんですか。今更言うんですか。

どうせ居なくなるのなら、綺麗なままで終わらせたかったのに。穏やかな気持ちでいたかったし、誰かの生き方を歪めたくはなかったのに」

「なあ、和田。たぶん、私はいつかお前の嫁に会う。そして今日の話をおそらくするだろう」

「明日以降の話を俺にしないでください!」

和田は泣きそうな顔で言う。

誰よりも嫁の明日以降を考えていたお前がソレを言うかと思いながら、続ける。

「生きていくのはキレイごとじゃないんだ。必ずどこかを汚す。

いつまでも残る事は難しいが、残さない事もまた無理なんだ。次第に原形をなくしても、形跡は残る」

内地での勤務とはいえ、たくさんの友軍を死地へ送り出してきたし、敵軍を殺す手伝いをしてきた。嫁が素敵ですと喜んでくれたこの軍服は、とっくの昔に血で汚し、死臭にまみれている。

それでも、そんな軍服を着た私でないと護れないものがあったし、汚れてしまった分の責務を果たさなければならない。

首を晒す覚悟はあるが、簡単に脱げないのだこの服は。

「取返しのつかない事も多いが、まだお前はココに居る。悪い事は言わん、せめて嫁に宛てて手紙を書け。

私は、少なくとも嫁と過ごした日々を後悔していない」

私は言い切ると、ペンと紙を和田の前に差し出す。

「もう遅いですよ」

そう和田は零し、湯呑の酒を一気に飲み干すと、雨の中傘もささずに自部屋に戻って行った。

風邪をひかなければよいがと心配になったが、私の言えた義理ではなかった。


翌日、あいかわらずしっとりと雨は続いている。

今日飛び立っていく面々に一人一人挨拶を交わしていく。

やがて和田の番になった。

「一つ我儘をよろしいでしょうか、少尉」

「言ってみろ」

「『愛してた。どうかお幸せに』そうお伝え願います」

「分かった」

和田は敬礼し、私も敬礼で返した。

あとは形式的なやり取りをすると彼は操縦席に乗り込んでいった。

桜花をぶらさげた一式陸攻のパイロットに「頼む」と言うと「任せろ」と簡潔な返事が返ってきた。

そうして和田は飛び立った。


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