第6話 波紋
「慈善活動がしたいと?」
「ええ、お父様」
「それは素敵ですわ、お姉様! リーチェもお手伝いいたします!」
「ありがとう、リーチェ」
アンジュは妹の申し出もありがたく受け取った。
「実は私が考えていた一つに、『施療院』を建てようと計画していた物がある。アンジュや、経営してみるかね?」
「せりょういん……って何ですの? お父様」
アンジュが答えるが早いか、先にリーチェが父に尋ねた。
「魔物討伐に行って怪我をして戻って来る冒険者や騎士たちがいるだろう。彼らが安全に、清潔に治療を受けられるような施設を作りたいと、前々から思っていたところだ」
「まあ、素敵!」
「お父様、その計画、是非私とリーチェにお願い出来ませんか?」
「ふむ、いいだろう。出来る範囲でやってみなさい。お前も、そろそろ経営を学んでもいい年頃だ」
「ありがとうございます、お父様!」
「だが、困ったことがあったらすぐお父様に報告するのだよ」
「ええ、わかっております」
「あなた、この子たちなら大丈夫ですよ」
侯爵夫人のエヴァリーナが口を挟んだ。
「何か考えがあるのね? アンジュ」
「はい!」
決して美しいとは言えない造形ではあるが、色だけは美しい新緑色の瞳がきらきらと輝いていた。
「そうと決まったら明日から頑張りましょうね、リーチェ」
「はい! リーチェはお姉様と一緒に何かを出来ることがとても嬉しく思います!」
アンジュは妹の言葉がくすぐったかった。
可愛いリーチェ。
なぜこんなにも不美人な姉に懐いてくれるのか。
もしかしたら、この世で一番心が綺麗なのはこのリーチェではないだろうか。
デビュタントまであと2年はあるこの妹が、アンジュは可愛くて仕方がなかった。
……言葉遣いに、多少難はあるが。
「料理長、少しキッチンをお借りしてもよろしいかしら」
「お、お嬢様、料理でしたらわたくしどもが……」
「いいえ、料理じゃないの」
「?」
翌日、アンジュは侯爵邸内の調理場に訪れていた。もちろん、リーチェを伴って。
「せっけん? せっけん、って、何ですの?」
不思議そうな顔をして訊いてきたリーチェに、アンジュは『前世の記憶』から持ってきた情報を伝えた。
「泡が出て、清潔になるもの……?」
「ええ、それを開発したいのよ」
「お姉様は、どこからその発想を?」
「え、ええと……そ、そう、図書館で見たのよ」
さすがに「前世の記憶よ」とは言えず、何とかかんとかリーチェを誤魔化し、今こうしてキッチンに立っているのだった。
(――中学生の頃、自由授業で作ったことがあったからだいたいは覚えているはずよ。植物油に水と苛性ソーダ……)
前世の記憶を頼りに、アンジュは物品を揃えていく。
(でも待って。苛性ソーダなんてこの世界にあったかしら……)
ダークファンタジーである『シャリテの城壁』の世界観は中世ヨーロッパ程度の文明だろうか。
化学は通じるだろうか。
いろいろ考えているうちに、アンジュは『杏珠』だった頃の記憶を思い出した。
「先生、苛性ソーダでなくてはなりませんか?」
「そうね、基本的には」
「では苛性ソーダがない時代、石鹸はどうやって作っていたのでしょう?」
「石鹸の歴史になると少し長くなるけれど……」
そんなやり取りを、中学の頃にしたことがある。
班の中でもやはり「ブスだから」という理由で一人班になってしまった杏珠だったが、それでよかったのかもしれなかった。
(原初の石鹸の元は、羊の油が木の灰に落ちて固まったものが、汚れを落とすことに気が付いたことから始まるから……)
「要するに、強アルカリであれば何でもいいですよ。硬い石鹸が出来たのは12世紀頃。オリーブオイルと海藻の灰で作られたものがあるのよ」
思えばこの化学の先生も、生徒の美醜などで判断する人ではなかったような気がする。
ゆえに、杏珠は『原初の石鹸』について詳しくなれたのだった。
試しにリーチェと二人、海藻を燃やし、灰を作って水に溶かしてみる。
そこにオリーブオイルを入れ、かき混ぜてみると、少しずつ、石鹸の元のような小さな塊が出来つつあった。
「お姉様、これが『せっけん』ですの?」
「え、ええと……どうなの……かしら……」
一応固まってきた「ソレ」を、あらかじめ用意してあったパウンドケーキの型に流し入れる。
完全に固まるまで、しばらく放置する必要があった。
最初に出来上がった『石鹸』は、若干泡立つものの、灰のにおいがきつく、汚れが落ちる、というほどでもなかった。
「失敗ね……」
3週間ほどもかけて固めた結果の第1号石鹸は失敗に終わってしまった。
料理長たち調理場で働く者たちも、この家の令嬢たちが作るものに興味津々で、第2作、第3作と試作品作りに次第に協力してくれるようになっていった。
そして石鹸の開発を始めて3か月が経った頃、ようやく『前世』で見たような石鹸が完成したのだった。
その頃にはすでに、オリーブオイルだけでなく香油を加えて香りの出る石鹸に仕上がるまでになっていた。
「わあ、お姉様、これが『せっけん』なのですね……! ふわふわで気持ちいいですわ!」
「あとはこれを世間に広めれば、公衆衛生も少しは改善すると思うの」
「ふむ」
「きゃ、お父様?!」
「ここ何か月か、二人で何をやっているのかと思ったら……これは世紀の大発明だな。革命が起こるぞ」
「そ、そこまでは……」
「いや、実によくやった、アンジュにリーチェ」
いつの間にやら二人の姉妹が仲良さげにキッチンで何かしていると勘づいていたヴァン侯爵が二人を褒め称える。
二人の頭を撫でてやり、その功績を示した。
「――となると、次は量産体制を確保しなければなりませんね」
「ふむ、さすがアンジュ。私から口を出すことはなさそうだ」
座学でも優秀だったアンジュを、ヴァン侯爵はすっかり信頼しているようだった。
施療院の建築に、薬師や医師の人材確保、また石鹸の量産と流通体制を整え、アンジュが創設者となった『アンゼリカ施療院』がようやく完成したのだった。
医師と言えば皆、『この世界』では濃度の強い酒を消毒液代わりに使い、悪いところを焼いて直す、という治療法が主だった。
しかしアンジュの治療方法――縫合や塗り薬の塗布等――、ひいては『祈り』に頼っていた部分も大いに改革されたのであった。
創設者であるアンジュは、医師たちが驚かないようヴェールで顔を隠し、扇子まで使って徹底的に顔を見せないようにしながらも、施療院の運営に勤めていった。
石鹸も、『アンゼリカサボン』と名付けられ、国中に流通するまでになっていった。
「アンゼリカ嬢のおかげで以前は助けられなかった命が助けられるようになりました」
いつの日か、医院長になった医師にアンジュは心から感謝の言葉を贈られた。
「どうしてもご尊顔を拝見出来ませんか?」
「ええ……私は『しこめひめ』ですので……」
「たとえどんなに醜かろうと、貴女ほど心の綺麗な人はおりませんとも。少なくとも私たち施療従事者はそう思っております」
「勿体ない言葉……ありがとうございます」
「顔さえ見せなければいい」――アンジュはそれからというもの、施療院を始め、平民が読み書きを学べる教会併設の学校、平民でも入れる兵士・騎士訓練所、平民にも自由に閲覧出来る図書館など、様々な事業に手を出していった。
そしてそれらは、全てが大成功を収めていき、いつの間にか平民の中では「しこめひめは姿は醜くとも一番平民に寄り添ってくれる貴族」として崇められるようになっていった。
さらには、学校ではアンジュ自らが教鞭をとり、生徒たちに読み書きや簡単な計算を教えていった。
いつも素顔をヴェールで隠し、日夜慈善事業に励むアンジュの姿に平民の心はすっかりアンジュ、ひいてはヴァン侯爵家に傾いて行った。
焦ったのは他の貴族たち。
まだ齢15のアンゼリカ嬢が次々に事業に手を出し、数々の成功を収めていく様子から、真似をする貴族たちがたくさん現れたのだ。
妬みや嫉みで学校や図書館に火をつけようと考える貴族もいたが、ヴァン侯爵が「持てる者は持たざる者に与えるべきで、奪うべきではない」と慈善事業(ノブレス・オブリージュ)の基本を説いたため、以降アンジュの事業を潰すような貴族は現れなかったのだという。
「しこめひめに後れを取るな」
「15でこの手腕があれば、王太子が婚約を申し込んだのも頷ける」
「アンゼリカサボンより良いサボンを!」
少しずつ、少しずつではあるが、アンジュの投じた一石が新たなる波紋を広げていった。
まさに、アンジュは貴族の流行の最先端を行くほどまでに成長していった。
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