【完結】幻想交響曲(作品240508)

菊池昭仁

幻想交響曲

第1話

 それは青空の澄み渡った五月晴れの日のことだった。

 クライアントの企業に打ち合わせに行くため、草間健吾はひとり、クルマを走らせていた。

 彼の仕事は経営コンサルタントである。

 依頼のあった企業の問題を独自の視点で抽出し、その原因を分析して改善計画を立案する。

 その計画がどのように実行されているのかを観察し、的確な指導をして社員のモチベーションを上げ、企業実績を向上させるのが税理士でもある草間の仕事だった。

 草間の経営コンサルタントとしての評価には定評がある。

 特に評価が高かったのは、企業の経営陣も気付かないような問題点の痛烈な指摘にあった。


 「社長、このように「経営方針」だとか「企業理念」、「今月のスローガン」などというものを壁に張り付けている根拠はなんですか?」

 「それはどこでもやっていることだろう? 社員にそれを徹底させるためだよ」

 「これで社員はこのお題目を遵守じゅんしゅしようとするでしょうか?

 そしてこのどこにでもある「顧客第一主義」の文字。

 この掲示のある会社で、私は顧客第一の会社にお目にかかったことがありません」


 社長は少し苛立ちながら言った、


 「じゃあどうしろというんだね? 君は?」

 「すぐに撤去して下さい。御社に必要なのは形ばかりの「顧客第一」ではなく、「従業員第一」なのです。

 そうすれば御社の業績は簡単に上がります。

 そしてこれが私の考えた新しい御社のための人事評価システムの素案になります。

 では早速ご説明いたします。このシステムの最大のポイントは・・・」


 内容は極めて単純だが、重要なのは観察力と洞察力だった。

 つまり、草間にとって目は命だったのである。




 運転中、急に一筋の墨汁ぼくじゅうが流れたように見えた。

 最初は目の疲れかと思い、そのまま運転を続けていると、徐々に目の前が曇りガラスのようになり、私は安全のためにハザードランプを点灯させ、クルマを路肩に停車させた。

 私はやむなく救急車を呼んだ。

 そして近くの大学病院へと緊急搬送されることになった。




 「糖尿性の網膜剥離が原因のようですね。

 すぐに緊急オペになりますのでご家族にご連絡をお願いします。

 ダイヤルして差し上げますので、携帯番号を仰って下さい」

 「先生、すみませんがその前に仕事の電話をしたいのですが、携帯の着信履歴に佐伯商会というのがあると思うので、すみませんがそちらに電話をしていただいてもよろしいでしょうか?」

 「わかりました、佐伯商会さんですね?」


 医師は呼び出し音を確認すると、携帯を私の手に握らせてくれた。


 「佐伯社長ですか? 本日お伺いする予定でした税理士の草間です。

 申し訳ありませんが、運転中に突然目がおかしくなってしまい、今、病院におります。

 大したことはないとは思いますが、数日の間入院するかもしれません。

 またご連絡いたしますので、誠に申し訳ありませんが本日の打ち合わせはキャンセルということでお願いします。

 はい、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありません」

 

 いつも私は仕事が優先だった。

 それから妻の静江に連絡をした。


 「俺だ、今、大学病院にいる。これから目の手術だそうだから入院の支度をしてきてくれ。

 病院の場所は・・・」


 電話を切ると私は医師に尋ねた。


 「先生、大丈夫ですよね? 手術をすればまた元通りになりますよね?」

 「とにかく最善を尽くします」


 それが確実性のない、医師からの返答だった。


 


第2話

 明日の手術のために目に注射されることになった。


 「かなり痛いかもしれませんが大丈夫ですか?」

 「大丈夫じゃありませんと言ったところでどうにもなりませんよね?」

 「まあそういうことになります。がんばって下さい」


 私は憤慨した。

 ただでさえ不安な私に「かなり痛いが大丈夫か?」とはあまりにも無神経過ぎると。


 「少し痛いかもしれませんが、頑張って下さいね?」


 そういうのが適切だと思った。

 目に睫毛まつげが入っただけでも痛いというのに、眼球に注射針を刺すなど考えただけでも身の毛が弥立つ。


 「先生、麻酔を掛けてするわけにはいかないんでしょうか?」

 「もちろんキシロカインという麻酔薬は塗りますよ」

 「それでも痛いんでしょうか?」

 「痛い人もいるということです」



 私はカーテンで仕切られた、4つの処置台が置かれている処置室の前で麻酔薬を点眼され、順番を待っていた。

 私の前で不安そうな老婆が処置室に連れて行かれた。

 そして数分後、老婆の苦痛な叫び声が聞こえて来た。

 

 いよいよ私の番である。

 処置台の上に寝かされ、私は恐ろしさのあまり目を閉じていた。


 「今、先生を呼んで来ますから少しお待ち下さい」


 看護士はそう言って処置室を出て行った。

 すぐに医師の気配がしたが、目を開ける勇気がなかった。


 「それでは草間さん。お名前と生年月日をお願いします」

 「草間健吾。昭和38年10月9日」

 「それではこれから眼球を固定しますので目を開けて下さい」

 

 私は静かに目を開けた。

 金属の金具が当てられ、眼球が固定されているようだが感覚はない。

 

 「それでは注射しますねー」


 私はいよいよかと観念した。


 (一体どれほどの激痛が来るのだろうか?)


 だがそれは杞憂きゆうに終わった。痛みは殆ど感じることはなかった。

 私は深い溜息をついた。


 「看護士が病室の方へご案内いたします。今夜は水も食物もご遠慮下さい」

 「ありがとうございました」


 凄い痛みとは一体何だったのだろう? 

 まさか私を怖がらせて楽しんでいたわけでもあるまい。

 私は車椅子に乗せられ、病室へと案内された。


 「お家の方は病院にいらっしゃいますか?」

 「はい、間もなく来ると思います」


 すると丁度そこへ静江がやって来た。


 「主人がお世話になります。草間の家内でございます」

 「ああ奥様ですね? ではこの保証人と手術の同意書にサインをお願いします」

 「わかりました」


 妻の静江は何枚かの書類にサインをしようとした。

 私はそれを制した。


 「何て書いてあるか読んでくれ」

 「はい。手術同意書。草間健吾の手術に同意します。なお術中に起こり得る・・・」

 「わかった。サインをしてくれ」


 静江は書類にサインをすると、それを看護士に渡したようだった。


 「手術は明日の午後1時からになります。2時間ほどの手術になると思います。

 後で点滴に伺います。それでは失礼します」


 看護士が出て行くと静江は心配そうに私に言った。


 「目は大丈夫なの?」

 「ああ、ただの眼底疲労だろう。パソコンを使った作業がここんところ続いたからな?」

 「血糖は大丈夫?」

 「糖尿か? 最近忙しくて医者には行っていないからどうだろう?

 高いかもしれないなあ」

 「早く治るといいわね?」

 「少し休養するようにという意味なのかもしれないな? 働き過ぎなのかもしれん」

 「着替えや日用品はここに入れておきましたから」

 「悪かったな? 急に呼び出したりして」

 「いいえ、ではゆっくり休んで下さいね?

 明日の手術にはまた来ますから」

 「ああ、クルマ、気を付けて帰れよ」

 「ええ、それでは明日」


 妻の静江は不安そうな声で病室を出て行った。




第3話

 手術は当初の予定を大幅に上回り、4時間にも及んだ。

 眼の手術としては異例だったらしい。

 当初2時間ほどの手術だと、私と一緒に説明を受けていた静江も心配そうだった。


 「かなり時間が掛かったわね? 大丈夫?」

 「今回の手術の麻酔は局部麻酔で何をされているのか気配でわかるんだ。そして手術台ではなく歯医者みたいな椅子だったしね?

 目が見えなくてよかったよ。これで実際にその光景が見えるのはかなり恐怖だからね?」


 手術が終わり、眼球の硝子体を抜き、置換したシリコン・オイルで剥離した網膜を安定させるため、一週間のうつぶせ寝が始まった。

 それはまるで拷問のようだった。

 目が不自由なので仕事をすることはもちろん、本を読むことも、テレビを見ることも出来ない。

 私はひたすら俯せ寝のままラジオを聴くか、テレビ番組の音を聴くことだけが楽しみだった。

 酷い吐き気と頭痛。いっそ殺してくれと思うほどだった。



 幾重にも施された眼帯を取る日がやって来た。


 「では草間さん、ゆっくりと眼を開けてみて下さい」


 医師は優しく私にそう語りかけた。

 これでようやく元通りに見えるようになるのかと私は大きく期待した。

 だが、そこには残酷な結果が待っていた。


 「先生! まるで曇りガラスの中にいるみたいなんですけど。

 頭からレジ袋を被っているような・・・」


 パニックになっている私に医師は静かに行った。


 「もう少し、早く処置出来ていればよかったのですが、手遅れでした。

 網膜の剥離がかなり進行していて、これが限界でした」

 「限界? 何だよ限界って? もうずっとこのままなのかよ! ふざけるな! このヤブ医者!

 これは医療ミスだ! 訴えてやるからな! お前もこの大学病院も!」

 「もちろん、それはあなたの自由です。

 ただし眼科医が10人いれば10人とも私と同じ結論になるはずです。

 そして大変お気の毒ですが・・・、やがて光も失われます」

 「全盲になると言うのか! この俺が! この『奇跡の企業再生コンサルタント』と言われたこの俺が!

 目が見えなくなると言うのか! 盲目になるというのか!」

 「誠に残念ですが」

 「お前では話にならん! 病院を変わる! お前よりもっと優秀な眼科医を探すからな!」

 

 静江のすすり泣くは声が聞こえた。


 「あなた、先生に失礼よ。すみません、夫はかなりショックを受けていて、取り乱しているようです。

 いつもは穏やかな人なんです、どうかお許し下さい」


 眼科医は憮然とした様子だった。


 「それでは失礼いたします。今後のことにつきましては担当の方から説明させていただきます。

 それから最後にひとつだけ。

 不幸にして目が見えない人は沢山いらっしゃいます、生まれた時から目が見えない人もいる。草間さんだけではありません。では」


 医師が病室を出て行くと、私は静江に言った。


 「病院を変えるぞ。お前の同級生で医者になったのぞみに連絡して、腕のいい眼科医を紹介してもらってくれ」

 「わかった。兎に角ここを退院してから相談してみましょうよ。

 諦めないで頑張りましょう。あなたの目は絶対によくなるわ。必ず」



 そして何人かの眼科医を紹介してもらい、診断書や画像資料などを見てもらって診察を受けた。



 「いかがですか先生? この目、何とかなりますよね?」


 するとどの眼科医も同じ見解だった。


 「なぜこんなになるまで放っておいたのですか? かなり前から自覚症状はあったはずですが?」

 「仕事が忙しくて、つい先送りしていました。ただの疲れ目だと思っていました」

 「残念ですが、私の意見も同じです。お力になれず申し訳ない」


 私は絶望した。


 (これから俺はどうやって生きていけばいいんだろう)


 

 帰りのクルマの中で静江が言った。


 「お腹空かない? 何か食べて帰ろうか? 何がいい?」

 「何も食べたくない」

 「でも今日は朝からまだ何も食べていないから、何か食べないと・・・」

 「食べたくないと言っているんだ! 俺は目が見えないんだぞ! どうやってメシを食えって言うんだ!」

 「・・・ごめんなさい」


 静江は黙ってしまった。


 「ラジオをつけてくれ」


 静江がクルマのラジオを点けた。

 地元のラジオ局の、どうでもいいトーク番組が夫婦の無言の隙間をようやく埋めてくれた。




第4話

 その日は突然訪れた。

 目が覚めた。朝になっている筈だが朝日を感じなかった。

 私は隣で寝ている静江を起こした。

 

 「静江、悪いがカーテンを開けてくれないか」

 

 静江は眠れずにずっと起きていたようだった。

 静江の怯えた声が聞こえた。


 「カーテン、開いて・・・、いるわよ」

 

 私は何度も瞬きをした。

 暗闇は変わらなかった。遂に私の目は光すら感じることが出来なくなってしまった。


 「真っ暗だ! すべて真っ暗なんだよ! 光を感じない! うわっああああああーっ」


 私は泣き叫んだ。暗闇の中で。


 「あなた、あなた! 光を感じなくなってしまったの! ううううう」


 静江も泣いていた。そして母親のように私を抱きしめた。


 「大丈夫よ大丈夫、あなたの傍にはいつも私が付いているから」

 「もう俺は終わりだあ! 寝ても起きても真っ暗闇だ! 怖い! 暗黒が怖い! ううううう」

 「あなたしっかりして! ううううう」




 目が見えなくても光を感じる生活にはまだ救いがあった。そしてその光さえも絶たれた今、私の絶望は決定的となった。

 何もする気がなくなった。当分の蓄えはある、障害者年金も貰えるだろう。だが、仕事は完全に失った。

 私は盲目の無職になってしまったのである。

 クライアントの佐伯社長が事務所に見舞いに来てくれた。


 「草間先生、今回は大変だったね? 奥さん、ありきたりかもしれないが、メロンを持って来たので召し上がって下さい」 

 「恐れ入ります。こんな高価な物を」

 「それからこれ、お返しはいらんよ」


 佐伯はテーブルの上に見舞金の入ったのし袋を置いたようだった。


 「お気遣い、ありがとうございます。あなた、佐伯社長からマスクメロンと御見舞まで頂きましたよ」

 「わざわざおいでいただいて、過分なお心遣い、ありがとうございます。この度はご迷惑をお掛けしました。中途半端な仕事になってしまい、申し訳ありませんでした。契約金はお返しします」

 「それはいいよ、草間先生には感謝しているんだ。業績も上がり始め、社員たちも見違えるように働いてくれている。先生のお陰で会社は変わったよ。礼を言うのは私の方だ」

 

 私は嗚咽した。佐伯社長のやさしさと、何も出来なくなってしまった自分の不甲斐なさに。


 「問題が出たら、また相談に来てもいいかね?」

 「も、もちろんです。ううううう」


 それだけ言うと佐伯社長は帰って行った。


 

 「いただいたメロン、どうします? 今食べますか?」

 「冷蔵庫に入れて、夕食の後にでもいただこう」

 「律儀な社長さんね? 佐伯さんって」

 「ああ、盲目の俺を見舞ってくれるんだからな? 何の役にも立たないこの俺を」

 「それだけあなたが貢献したということでしょう?」

 「貢献? まだ改革は始まったばかりなんだぞ!」

 「ごめんなさい、そんなつもりじゃ・・・」

 「何も知らないくせに! お前は口を出すな! 黙ってろ!」


 私は現実を受け入れられず、そう言って静江に当たってばかりいた。

 私たちに子供がいなかったのはせめてもの救いだったのかもしれない。

 子供に迷惑を掛けずに済むからだ。



 私はいつもイライラしていた。

 目が見えなくなった分、聴覚や味覚、触感、嗅覚が鋭敏になった。

 それゆえ些細なことが凄く気になった。



 「今日はカレーにしてみたの。もちろんあなたの好きなラッキョウもたくさん乗せたからね?」

 

 私は憮然として手探りでカレーをスプーンで掬い、一口食べた。

 目は見えないがどこに何があるか、大体の位置は把握出来た。

 匂いや音、温度がそれを私に教えてくれた。

 どうもクミンが入っていない気がした。


 「クミンは? クミンは入れたのか?」

 「ごめんなさい、買い忘れちゃって」

 「馬鹿野郎! クミンは最も重要なスパイスじゃないか! クミンの入っていないカレーはカレーじゃない!

 こんな物、食えるか!」


 私はカレースプーンをテーブルに叩きつけた。

 スプーンが弾んで床に落ちた音が聞こえた。 

 静江がそのカレースプーンを泣きながら拾っているようだった。


 

 盲目の私に沈黙の世界は不安だろうと、静江はいつも音楽やラジオを流してくれていた。

 静江がコンポのスイッチを入れた。

 それは辻井伸行のリストの超絶技巧曲、『マゼッパ』だった。

 

 「辻井さんは凄いわよね? 目が見えないのにこんな難曲が弾けるなんて」

 「俺にもピアノを弾けというのか? 俺も盲目のピアニストになれと!

 俺は彼のような天才じゃない! 何の取り柄もないただの「めくら」だ!」


 「曲、変えましょうね?」

 「そのままでいい、彼のピアノは好きだからな? 怒って悪かった」


 そんな毎日が続いていた。


 


第5話

 家の中では壁を伝い、洗面やトイレは自分で出来るようになったが、髪型を整えたり、ヒゲを剃るのは電気シェーバーで静江にやってもらった。服も下着も着せてもらっていた。

 自宅では静江と一緒に白杖はくじょうの練習もしてはみたが、断念した。


 「なるべく広く前方を白杖で探った方がいいんじゃない? それでは範囲が狭すぎて、足元ばかりを探っていて危険だから」

 「うるさい! こんな杖を頼りに外が歩けるわけがないだろう!」


 私は白杖を床に投げつけた。

 こんな杖ではとても怖くて街など歩くことは出来ないと思った。

 私は家に引き籠もり、苛立っていた。

 そんな私を心配してか、静江は私をよく外出へと誘った。


 「たまには外食しない? ラーメンとかどう?」

 「ラーメンかあ。食えるかなあ?」


 私の家での食事はスプーンで食べるのが主体だった。

 フォークは危険だし、掬い難い。

 箸は手探りでやっと掴めても、中々口へと運べなかった。


 「大丈夫、私が食べさせてあげるから」

 「そんなの、食べた気がしないよ」

 「今日はお天気もいいわ。たまにはお出かけしてみましょうよ」

 「お前ひとりで食べて来いよ」

 「ひとりで食べても美味しくないでしょう? 一緒に行きましょうよ。家にばかり居たら足腰が衰えてしまうわ。

 あなたには長生きしてもらわないと」

 「俺は長生きはしたくないけどな?」


 

 外出して一番の屈辱がトイレだった。多目的トイレがあればいいが、ない時は男子トイレに静江が一緒に入るわけにもいかず、女子トイレに自分が盲目であるということを周知させるため、白杖をついて静江に手を引かれて女子トイレに一緒に入るのだ。

 周囲からは好奇な目で見られているのがわかる。


 「すみません、全盲なのでトイレを使わせて下さーい」


 静江はなるべくそう言って明るく振る舞うのである。

 私と周囲を気遣いながら。


 「どうぞどうぞ」

 「奥さんも大変ね?」

 「いえ、大丈夫です」


 その時、小さな女の子の無邪気な声が聞こえた。


 「ママ、あのおじちゃん、女の子のおトイレにいるよ? ダメだよね? 早くおまわりさんに言わないと」

 「あの人は特別なの。おメメが見えない人だからいいのよ」

 「おメメが見えないの? あのおじちゃん。かわいそう」

 「いいから早くして来なさい。ママ、ここで待っているから」


 その母親は静江に申し訳無さそうに無言の会釈をしているようだった。




 そこはよく行っていたラーメン屋だった。

 昼時は混雑しているので午後2時過ぎに訪れた。

 入口の券売機の前で静江が私に訊ねた。


 「何がいい?」

 「チャーシューワンタンメンの醤油で」

 「私は中華そばでいいかなあ?」


 券売機のある飲食店では、その店のお勧め人気メニューは大抵、券売機の商品ボタンの左一番上にあることが多い。

 もちろん私ひとりでそれを購入することは出来ない。

 もし自分ひとりだったら店員を呼んで手伝ってもらうしかない。

 そして券売機でもたついていようものなら、そこに並んでいる人間から「チッ」と舌打ちされることもあるのだ。

 静江がいなければ何も出来ない、そんな自分が腹立たしかった。


 

 私と静江はいつもはカウンターに並んで座ったが、今日は4人掛けのテーブル席に座った。

 店員に食券を渡し、やがてラーメンが運ばれて来た。


 「お待たせしました、チャーシューワンタンの醤油と中華そばです」

 「ありがとうございます。あなた、かなり熱いから気をつけてね?」

 「ああ、箸とレンゲをくれないか?」

 

 静江が割箸を割って右手に握らせてくれた。

 それから私の左手にレンゲを持たせてくれた。


 「スープ、掬ってあげましょうか?」

 「いや、大丈夫だ」


 私は恐る恐るレンゲでスープを少し掬って飲んだ。


 「ああ、うまいなあ」

 「良かった」

 

 静江はそんな私を見て、うれしそうだった。

 私はラーメン丼ぶりの中を、箸を白杖のように探り、ラーメンを食べていた。

 食べるのに時間がかかるので、せっかくのラーメンがどんどん温くなっていった。

 私はようやくラーメンを完食した。


 「また食べに来ようね?」

 「ああ」




 

 家に着いた。


 「今日はありがとう。久しぶりのラーメン、美味かったよ」


 私は静江をねぎらった。


 「また行きましょうね? ・・・!」


 静江の様子がおかしい。


 「どうした?」

 「耳が、耳が聴こえなくなってしまった!」


 私はすぐにタクシーを呼び、近くの耳鼻咽喉科に静江を連れて行った。

 そのクリニックの院長は気の毒そうに言った。


 「これはウチでは難しいので、今、紹介状を書きますので大学病院で精密検査を受けて下さい」

 

 私たちはすぐに大学病院へと向かった。




 突発性難聴と診断された。

 医者の話だと「極度のストレスにより発症することもありますが、原因は不明です」と言われた。

 静江は1週間、投薬入院をすることになった。

 幸い静江は話すことは出来たが、耳は聴こえなくなってしまったらしい。

 静江はひどく落胆し、私は戸惑った。静江がいなければ何も出来ないからだ。

 仕方なく静江が入院している間は、実家から母に来てもらうことにした。



 「今度は私の耳が聞こえないなんてね? 夫のあなたは目が見えない、そして妻の私は耳が聞こえない。

 障害者夫婦ね? 私たち。

 一体私たちが何をしたというの! ただ真面目に生きて来ただけなのに! ううううう」

 「元気を出せ静江。お前の耳は必ず良くなる」


 だが残念なことに、静江には私の声は聞こえなかった。

 すると静江は紙とペンを私に握らせてくれた。


 「目は見えるから、ここに話したいことを書いて頂戴」


 目は見えなくても字は書ける。指の感覚が字を覚えているからだ。


 

      元気を出せ! 静江!



 私は紙に大きくそう書いたつもりだった。


 「うん、うん。ううううう」


 静江は泣いているようだった。

 そして俺たち夫婦は「目の見えない夫と、耳の聴こえない妻」になってしまった。

 

 


第6話

 妻の静江はかなり落ち込んでいるようだった。

 入院での投薬治療の効果は殆ど見られなかったからだ。


 メモ用紙ではゴミも増えるので、静江は子供がお絵描きなどに使うボードを用意してくれた。

 静江が難聴になって、私はいかに自分が静江に対して我儘を言って頼り切っていたのかを痛感し、反省した。


 

 「私ね? 耳が聴こえなくなって初めて、あなたの苦しみがわかった気がする。

 ごめんなさいね、あなたの気持ちに寄り添ってあげられなくて。

 耳が聴こえないだけでこんなに辛いのに、あなたは一番大切な視力を失ってしまった。

 それは凄く辛くて、苦しいことよね?」


 私はボードに返事を書いた。


 

     俺の方こそごめん 君には迷惑ばかりかけた



 「ううん、そんなことはないわ。でもあなたのチカラになりたい。夫婦だから」

 


     俺がお前の耳になってやる



 「ありがとう、私はあなたの目になってあげるわね?」



     俺は負けない 



 「私も負けないわ」



     俺はコンサルタントの仕事を続けるよ



 「あなたの目になって私も手伝うわ」



     よし これからはお前と俺とで一緒にがんばって行こう

     俺たちはバディだ



 「もう私たち、失う物は何もないしね?」




 その日から早速、私は今までの経験を基に、企業再生のビジネス書の出版準備に取り掛かることにした。

 静江もそれを一生懸命に手伝ってくれた。


 妻の静江は私の書いた原稿メモをWordで文章に起こしてくれた。

 そしてその起こしてくれた文章を読み上げて、私がそれをチェックするというものだった。



 「それじゃあいくわよ、いい? 「経営計画の立案をする上で大切なのは、最後に結果としての可能な利益目標を設定するのではなく、最初に欲しい利益額を設定することである。いくら欲しいのか、その金額を明確に掲げ、そのためにはいつ、どこで、誰が何をどうすればいいのかをフィード・バックするのである」これでいいかしら?」



      OK、では次だ



 「次ね?「経営計画発表会に全社員、銀行や取引先を招き、企業経営のゴールを関係者全員に明示して、それに基づく具体的マイル・ポストを提示するのである。つまり税引き後の利益をいくらにするためには経常利益はいくらにすればよいか? そのための営業利益は? 損益計算書や貸借対照表のどの数字に着目すればいいのか? そしてその数字を上げる、あるいは抑えるための手段はどうすればいいのか? それが物的資源なのか? 人的要因なのかを分析して提案する必要がある」どう? これで大丈夫?」

 


      疲れただろう? 少し休憩しよう



 「何か冷たい物を用意するわね?」


 私たちはやっと絶望の淵から這い上がりつつあった。

 確かに時間は掛かるが、お互いに協力して仕事をすることにはやり甲斐を感じていた。


 

 私たちはアイス・ココアを飲みながら私は筆談で、そして静江は口頭で夫婦の会話を楽しんだ。



      俺、今度は手話を覚えてみようかなあ



 「それいいかも。私は点字を覚えてあなたに翻訳してあげる」

 


      となると 俺は点字を覚えないとだな?



 「あなたは頭が良くて努力家だからすぐに覚えられるわよ」


  

      なんだか楽しくなって来たな?



 私はボードを消してすぐに続けた。



     人は絶望しても やるべきことが出来れば

     こんなにもうれしいものなんだな?



 「そうよ、人生に必要なのは生き甲斐なのかもしれないわね?

 私の生き甲斐はあなたよ、あなたの役に立つこと。

 そしてあなたを誰よりもしあわせにすることが私の生き甲斐」



      俺の生き甲斐はお前 静江だ


     

 「ありがとう、あなた」


 静江が私を強く抱きしめてくれた。

 私はこの時、夫婦の絆を初めて噛み締めていた。

 私は盲目にはなってしまったが、それが心の眼が開いた瞬間だった。




第7話

 原稿をまとめるのに3ヶ月掛かった。

 それから約1ヶ月、編集者と打ち合わせをしながら本のタイトルを決めた。



 「ビジネス書にはやはり数字を入れた方がいいと思います」

 「なるほど。数字で表現すると分かり易いですからね?」

 「例えば仮に「売上が多くなる本」というよりも、「売上が5倍になる本!」といった具合にです」

 「会社経営の成功の鍵はそこで働く社員さんにあります。しかも女性社員にです。

 彼女たちには野心を持っている人が少ない。重責を嫌うからです。女性はあまり多くを望まない傾向にあります。

 政治家とかは別ですよ。あはははは 彼女たちは女性ではありません、欲にまみれたただのオッサンです。

 給料は欲しいがそこそこでいいと考えている人が多い。自分の家庭やプライベートを犠牲にしてまで働く気はありません。

 つまり自分の与えられた仕事を完璧にこなすことに集中して仕事をする。それ以下でもそれ以上でもない。

 彼女たちはいつも会社を「第三者」として冷静に俯瞰しているのです。利害関係がないからです。

 ゆえに女子社員を見ればその会社の現状、将来性が見えてくるというわけです。

 すなわち彼女たちこそ、会社の現状と将来を示す「リトマス試験紙」なのです。

 その会社の女子社員の電話の応対、来客者へのお茶出しなどを見ればその会社を判断することが出来るというわけです」

 「ということは女子社員の働き甲斐のある会社にすることが会社を伸ばす秘訣であるというわけですね?

 草間先生のこのご著書を拝読させていただくと、それが実に分かりやすく書かれていると思いました。

 となるとキーワードは「女子社員」として、如何に注目を集める数字にするかですね?」

 「サブタイトルに付けたい言葉があるのですが」

 「それはどんな言葉ですか?」


 私は編集者の後藤君が言い難い言葉を言った。


 「それは『全盲の夫と難聴の妻が作った会社経営虎の巻』という文言です」

 「よろしいんですか? 御夫婦の障碍のことを告白しても」

 「この本は経営者向けのものですから購入される方は限られています。

 私はこの本を足掛かりにして、再び現場で会社再建に取り組みたいと考えているのです。

 そのためには敢えて自分が全盲であること、そして妻が突発性難聴であることを公表することで、経営者からの理解が得られると思うからです」

 「わかりました。ではメインのタイトルですが、障碍者の方たちにも勇気を持っていただけるようなものにしたいと思います。そこでタイトルは、



    目の見えない税理士の夫と、耳の聴こえない妻が書いた「奇跡の共著」


 帯はこれでいかがでしょう? そしてこの本タイトルは、

 


    『女子社員の笑顔が会社の業績を3倍にする!』



 これでいかがでしょう?」

 「いいと思います。妻にも確認してみますね?」


 私は手話でそれを静江に伝えた。


 「素敵なタイトルだと思うわ。

 あなたがそれで良ければ私は依存はないけど」

 「じゃあそういうことで後藤さん、よろしくお願いします」

 「わかりました。ではこれで校閲に回しておきます。

 素晴らしいビジネス書になりそうですね?」



 

 校閲も終わり、書店に本が並ぶまで更に2ヶ月を要した。

 半年掛かってようやく本が完成した。



 意外にも実用書としては異例の売上をあげ、数か所の大型書店で夫婦でサイン会も開いた。



 「応援しています、がんばって下さい」

 「すごいですね? 先生は目が不自由で奥様は耳が聴こえないのに本まで出版されるなんて」

 

 中には障碍を持った方もいらして、手話で静江と会話している人もいた。

 白杖を持った読者もいたようだった。



 「私も先生と同じ全盲なんですが、目が見えなくても健常者さんの協力があれば本も出版することが出来るんですね? 勇気が湧いて来ました。ありがとうございます」

 「何事も病や境遇のせいにしてはいけませんよね? 障碍がある人にもやれることは必ずあるわけですから。

 生きている限り」

 「おっしゃる通りです。私も何か書いてみたいと思っています。たとえ本にならなくても、自分の生き甲斐として」

 「お互いにがんばりましょうね?」

 「はい」




 それから1週間後、後藤君から電話が来た。

 後藤君はかなり興奮している様子だった。


 「草間先生! 凄いことになりましたよ!」

 「凄いことって重版出来じゅうはんしったいが決まったということですか?」

 「それもありますが、もっと凄いことです! 

 先生ご夫妻のことをあのテレビの人気番組、『情熱をあなたに』で、是非取材させて欲しいとさっき局から依頼がありました! 先生、おめでとうございます!

 これで本の売れ行きもあがり、コンサルタントのお仕事や講演の依頼、テレビ出演も多くなると思います!」


 私は妻の静江にそれを手話で伝えた。


 「あまり多くのご依頼は無理かもしれないけど、あなたの出来る範囲でお受けすればいいんじゃない?

 あっそうか? 私も出るのね? それはいつになりそうなの? 素敵なお洋服を買ってね? 美容室も予約しなくちゃ」


 遂に夢が現実のものとなった。


 「もしもし、もしもし、草間先生、聞こえますか! もしもし!」


 「良かったわね? あなた」

 「ありがとう、お前のお陰だ」


 私たちはお互いを強く抱きしめて泣いた。


 


第8話

 テレビのドキュメンタリーの取材が始まった。

 スタッフとの打ち合わせの後、普段の日常生活がインタビュー形式で撮影されて行った。

 静江のために手話通訳の人も用意してくれた。


 「それではスーパーでの買物風景から撮影して行きます。

 いつもは奥様の静江さんがクルマを運転するわけですよね?」

 「はいそうです。私は目が見えないのでいつも妻がクルマを運転してくれています」

 「では奥様がクルマを運転しているシーンから撮影させて下さい。

 運転中は手話通訳は出来ませんから、運転している横顔だけ撮影させて下さい」

 

 それを手話通訳者が静江に伝えた。


 「わかりました。キレイに撮って下さいね。あはは」




 スーパーの駐車場に着いた。

 私はクルマに積んである車椅子を静江に出してもらい、車椅子に座った。

 デレクターのインタビューが始まった。


 「スーパーでは車椅子なんですか?」

 「ええ、白杖をついて妻と歩いているよりも、妻が買い物をするのにも便利だからです。

 つまり私はショピング・カート代わりというわけです。あはははは」


 手話通訳がそれを通訳した。


 「そうなんですよ、それに車椅子の方が他のお客様のご迷惑にもなりませんから」

 「なるほど」

 「今日は何にしようかしら? みなさん、お食事は?」

 「出来れば食事風景も撮影したいのですが、食事は撮影が終わってから摂りますから大丈夫です、お気遣いなく」

 「もしご迷惑でなければみなさんもご一緒にいかがですか?」

 「よろしいんですか?」

 「私もお手伝いします!」

 

 女性のAD、阿川さんがそう言ってくれた。


 「それではすき焼きにしましょうか? みなさんと一緒なら」

 「食材を買ったお金は局でお支払いしますので領収書を下さい。ではよろしくお願いします」

 「じゃあうんと高級なお肉にしないと。でもここにはそんな高級なお肉はありませんけどね? あはははは」

 「あはははは」

 「うふふふ」


 みんなが楽しそうに笑っている。

 静江は人を和ませる天才だと思った。



 「おクルマを運転する方やお酒が駄目なスタッフさんもいらっしゃるかもしれませんからノンアルも必要ですよね? 何がいいですか?」

 「それじゃあノンアルビールで」

 「すみません、私はオレンジジュースで」

 「阿川、お前すき焼きにオレンジジュースはねえだろう?」

 「だって私、オレンジジュースが好きなんですもん」

 「わかりました。オレンジジュースもちゃんと買いましょうね?」



 一通り食材は買い終えたようだった。

 

 「すき焼きの食材は揃ったのか?」

 

 私は手話で静江に訊いた。


 「お肉でしょ? 白滝に椎茸、ネギも白菜も買ったけど・・・」

 「焼き豆腐は?」

 「あっ、忘れてた。焼き豆腐ってすき焼きには重要だもんね?」

 「お前が牛肉で俺が焼き豆腐だな?」

 「あなたがアンガス牛で私は白滝かもよ」

 「御夫婦お二人がすき焼きそのものですよ」


 デレクターの前島が言った。その通りだと思った。私たちは全部で一つなのだと。




 その後も様々なシーンを撮影した。

 いかに私が手話を習得し、静江が私のために点字を打っているシーンなども撮影した。


 「目が見えなくて一番困ることは何ですか?」

 「困ることはありませんが・・・、すみません、ここから先は手話通訳はしないで下さい」

 「わかりました。困ることはないわけですか?」

 「それは妻がいてくれるからです。でも時々家内には迷惑を掛けてすまないと思っています。

 障碍者の夫の面倒を看ることは並大抵のことではありません、自分の時間の殆どが私に費やされてしまうわけですから。

 私は目が見えなくなったことへの焦燥感と絶望から、かなり妻にはキツく当たってしまいました。

 だから妻はそのストレスで突発性難聴になったのだと思います。

 妻から音を奪ったのはこの私なんです。

 だから今度は私が妻を支えなければならないと思っています」

 「いいお話をありがとうございました。ハイ、カット!」


 手話通訳者の女性は一言だけ静江に語りかけた。


 「いいご主人をお持ちですね?」

 「はい、とてもいい夫です」


 私は思わず泣きそうになってしまった。

 慌ててカメラマンが私を撮影した。

 するとそれをデレクターが制した。


 「そのシーンは撮るな」

 「わかりました」




 テレビクルーのみなさんとのすき焼きパーティーは楽しかった。


 「ウチのすき焼きには市販の割下は使いません。

 肉を炒める時に白砂糖を少し多めに入れて、日本酒の代わりにビールを入れます。その方がお肉が柔らかくなるからです。

 それから出汁醤油を入れてお肉に味を染み込ませたらお野菜を入れて、最後に白滝をお肉の対角線上に離して置きます」

 「白滝は石灰でカルシウムが多くが含まれていて、お肉のタンパク質がそれに作用して固くなってしまうのを避けるためですよね?」

 「よくご存知ね? お若いお嬢さんなのに?」

 「コイツの実家は金持ちなんですよ。すき焼きの肉はいつも松坂牛だもんな?」

 「そんなことありませんよ、飛騨牛とか米沢牛だって食べますよ」

 「駄目だこりゃ、住む世界が違い過ぎる。俺は牛丼しか食べたことがねえ」

 「あはははは」

 「どうぞみなさん、遠慮なく召し上がって下さい。もちろんテレビ局さんの奢りですけど? うふっ」

 「あはははは」


 宴は続いた。

 今度はカメラを回していた。


 「最初に目が見えなくなった時はどんな感じでしたか?」

 「朝になったはずだと思って家内にカーテンを開けてくれと頼んだんですけど、妻はもうカーテンは開いているとうろたえていました。

 私は何度も瞬きをしました。でも閉じても開けても真っ暗なんです。

 私は泣き叫びました。

 暗黒の世界は恐怖でしたから」

 「そうですか? 奥様はいかがですか? その時の心情は?」

 「遂にこの日が来たかと思いました。泣きました」

 「そしてご自分の耳が聴こえなくなってしまった時はどんな思いでしたか?」

 「何かの間違いだと思いました、私は子どもの頃からずっと健康には自信がありましたから。

 とてもショックでした。死のうかと思いました。

 でも夫を残して死ぬわけには行きませんからね? 諦めました」

 「お互いがお互いを必要としていた訳ですね?」

 「そういうことになります。そして今はとてもしあわせです。

 嫌なことは嫌とハッキリ主人に言えますから。

 もう我慢しないことにしたんです、それは主人に失礼だと思ったからです。

 夫婦って、何でも言い合えるから夫婦だと私は思うんです」




 帰り際、静江は前島デレクターに一万円札を折って入れたポチ袋を渡したようだった。


 「帰りにコンビニにでも寄った時のアイス代にして下さい、今日は本当にお疲れ様でした」

 「受け取るわけには行きません、お世話になったのは私たちの方ですから」

 「大金が入っているわけではありません、ほんのお車代です」

 「かえってお気遣いをさせてしまいました。申し訳ありません。

 みんな、草間さんからチップを頂戴したぞ」


 前島デレクターはそれをADの阿川さんに渡したようだった。


 「みんな、草間さんご夫妻にお礼を」

 「ありがとうございました!」

 「それではまた、何日か密着取材をさせていただきますのでよろしくお願いします。今日は本当にご馳走様でした」

 「こちらこそよろしくお願いします」



 そして撮影が終了し、オンエアーされると物凄い反響があった。

 放送後、テレビ局の電話が鳴り止まず、メールが嵐のように届いたらしい。

 編集者の後藤君の言った通り、数社からコンサルタントの依頼や、講演依頼も殺到した。




 「なあ、静江。盲導犬って大変なのかな?」

 「盲導犬なんていらないでしょう? 私という優秀ながいるんだから」 


 これからは忙しくなる。私は少しでも静江の負担を軽くしてあげたかったのだ。


 「俺、犬が好きだからさ」

 「初めて聞いたわ、そんな話」

 



最終話

 私たちは最初、盲導犬を飼うことを躊躇ためらった。

 それは命ある犬を、盲目の自分の介助をさせるために働かせてもいいのだろうかという点であった。

 そして盲導犬に対して、嫌がらせや虐待、悪ふざけもあると聞いていたからである。

 以前、盲導犬の映画で盲導犬にタバコの火を押し付けるシーンがあり、それを真似た模倣犯が現れたり、盲導犬をナイフで刺したりする者まで現れたと聞いたこともあった。

 それでも罪は「器物破損」になるだけだという。

 盲導犬は介助対象者を守るように訓練されてはいるが、自分が危険に遭遇しても吠えたり抵抗したりしないという。そんな盲導犬を危険にさらしてまで我が家に来てもらってもいいのだろうかと考えたからだ。


 「盲導犬だと思わなければいいんじゃない? 私たちの子供、家族だと思えば」

 「家族かあ。家族として犬を飼う?」

 「そう、私だってあなたの介助を嫌々やっているんじゃないもの。ワンちゃんだって同じだと思う。

 自分を愛してくれる大好きなご主人の役に立つことは喜びだと思うけど。

 だからそんなワンちゃんを愛してあげればいいじゃない?」


 私たちは盲導犬を招き入れることを決め、さっそく日本盲導犬協会に相談することにした。



 驚いたのは盲導犬は買うのではなく、「一時貸与」であるということだった。無償貸与なのである。

 盲導犬の犬種にはラブラドール・レトリーバーが採用されるが、それは人間に対して懐きやすく適度な大きさで、非常に賢いことがあげられるからだという。

 子犬が生まれると、ボランティアである飼育家族としての「パピー・ウォーカー」に預けられ、1年後、盲導犬の訓練センターに半年から1年間預けられ、様々な訓練や適正テストを受け、その後視覚障碍者のところで10歳、人間でいうところの60歳になるまで介助に当たるのである。 

 そしてその後は希望する飼い主と普通に余生を暮らすことになるのだそうだ。


 


 私たちも盲導犬の導入に当たっての指導を受け、そして2年後、ジャスティスは家にやって来た。

 ジャスティスという名前はパピー・ウォーカーが名付けた名前だった。「正義」

 盲導犬の名は、パピー・ウォーカーが名前を付ける。

 ジャスティスは驚くほど素晴らしい盲導犬であった。

 目の見えない私には、ジャスティスは犬ではなく、言葉が話せない人間の「相棒」のようだった。

 ジャスティスと一緒なら外出も「ふたり」で安心して出来た。

 バスや電車にも乗ることも出来た。

 だが少し嫌だったのが、盲導犬めずらしさに人が集まって来ることだった。


 「わあ、かわいい」

 「賢い犬ね?」

 「コイツは流石だ。ワシらが触っても愛想もない」

 「すみませんがデリケートな犬なのでそっとしてあげておいて下さい」

 「デリケートなのはお前の方じゃろう?」


 私は自分の大切なジャスティスを、好奇の目で見られたり、触られたりするのが嫌だった。

 ジャスティスは大事な「我が子」だったからだ。


 


 ジャスティスが来てからは、静江も自分の時間が少し持てるようになった。


 「聴導犬もいるともっと楽しくなるかもな?」

 「ジャスティスがいるだけで十分楽しいわ、だってジャスティスは私たちの子供ですもの。

 それに私は大丈夫よ、「音が見える」ようになったから」

 「音が見える?」

 「そうよ、そのシーンを見て、風を感じるだけで音が見えるの。

 だから私は大丈夫よ。それに近頃は読唇術って言うの? 人の口の動きで何を話しているのかも大体わかるようになって来たから」

 「すごいな静江は?」

 

 ジャスティスと私たちはまるで親子だった。




 ある日、公会堂での3,000人の聴衆を前に、私は講演を行った。

 演題は『障碍者雇用の現状と展望』だった。

 障碍者とその家族、関係者も多数来場されていたので、手話の同時通訳者も依頼しておいた。



 「みなさん、講演のテーマは以上になりますが、今日は妻の静江ともうひとり、ウチの息子である、ジャスティスを紹介させて下さい」


 そして舞台袖から静江とジャスティスが現れると、拍手が沸き起こった。


 「みなさん、こんにちは。妻の静江でーす。

 耳が不自由なので「美人!」とか「ブス!」「おばさんかよ」と言われても分からない思うかもしれませんが、それはみなさんのお顔を拝見していればわかっちゃいますからね? 気を付けて下さいよ。 あははは」

 「あはははは」


 聴衆もつられて笑った。


 「ジャスティスは盲導犬です。親バカですが、とても良く出来た息子です。そして妻の静江も実に素晴らしい嫁です。亭主バカです。私は妻が大好きです。今はですけど。

 昔は家政婦くらいにしか考えていませんでした。

 私はそんな酷い亭主でした。

 私は4年前、糖尿性網膜症で全盲になってしまいました。

 その時はすべてが嫌になり、いっそ死んでしまおうかとも考えました。

 だって寝ても起きても真っ暗なんですよ? そりゃあ恐怖でしたよ、私の人生はもう終わったと思いました。

 私は自暴自棄になり、ここにいる妻にも辛く八つ当たりをしてしまいました。

 でもそんな私を妻は、他に男を作って見捨てることもせず・・・」

 「あはは」

 

 観客が笑った。


 「それでも私は許しましたけどね? だって私は寛大な夫だから。あはは

 本当に妻はよくやってくれました。文句も言わず、まるで母親のように目の見えないこの私を、献身的に支えてくれました。

 でも妻は我慢していたんだと思います、そんな夫を支える生活に。

 無理をしていたんだと思います、こんな弱い、情けない夫を支えることに。

 そして妻はそのストレスが原因で、突発性難聴になってしまいました。

 妻の耳が聴こえなくなってしまったのは私のせいなんです。

 私は妻から音を奪ってしまいました。大切な音を。

 人生とは残酷なものです。人間は傷つき傷つけて生きています。

 人間はそんな悲しい生き物です。

 私は目が見えなくなって良かったと思っています。それは視力を失って、女房から音を奪ってしまった私が、妻の静江の「無償の愛」を知ることが出来たからです。

 失明する前の私は尊大で鼻持ちならない男でした。いつも自分が一番だと思っていました。

 でも、今は思うのです。夫婦とは人生を一緒に戦う「戦友」なんだと。

 私は一生を賭けて、妻の静江を守ることに決めました。

 それは戦友だからです。大切なバディだからです。

 そして一年前、我が家にやって来てくれたのが私たちの息子、盲導犬のジャスティスです。

 私たち夫婦は毎日ジャスティスに教えられています。生きることの素晴らしさを、そして喜びを。

 私たちは目の見えない夫と、耳の聴こえない妻という障碍者夫婦です。

 私たちはベルリオーズが愛憎に満ちた、アヘンを吸って幻覚の中で作曲したと言われている『幻想交響曲』の中で生きているようなものなんです。

 架空の世界で必死に生きているんです。ある時は夢のように楽しくしあわせを感じながら、そしてまたある時は絶望に苦しみながら生きている。みなさんも同じではないでしょうか?

 私たちは幻想の中の人生を必死に生きているんです。

 長い人生では色んな障害が出て来ます。病気になったり、仕事で追い詰められたり・・・。

 人生は障害物競走ではありますが、また同時に「借物競走」でもあります。

 頼ってもいいじゃありませんか? 頼られてもいいじゃないですか? 夫婦なんですから、それが夫婦なんですから。

 そしてここにいるジャスティスもまた同じです。

 目が見えない私のために外出を手助けしてくれるのには最初、抵抗がありました。

 自分のために走ることもさせてあげられない、心無いひとたちにイジメられることもあるからです。

 でも思ったのです、彼の助けを借りようと。

 そして私も精一杯の愛情を彼に注ぎたいと。彼は盲導犬である前に、私たち夫婦の大切な家族ですから」

 

 会場が水を打ったように静まり返った。


 「どうかみなさん、この私の素晴らしいふたりの相棒に、温かい拍手をお願いします」


 沸き起こる会場全体が震えるほどのスタンディングオベーション。


 静江とジャスティスは聴衆に深々と頭を下げ、私に近づき私たちは強く抱き合った。


 みんなが泣いた。手話通訳の女性も泣いて手話が出来なくなってしまった。

 いつまでも拍手が鳴り止まなかった。




 心地良い5月の風を受け、静江とジャスティス、そして私のは川辺りの土手の道を散歩していた。


 「一年のうちで5月が一番好き」

 「どうしてだ?」

 「風がとても爽やかだから。5月の風のことを船乗りさんたちは May Kiss って呼ぶそうよ」

 「そうなのか?」


 そして静江は私の頬にキスをした。


 「どう? 私からの『5月の風』は?」

 「とてもやさしくて甘いそよ風だな?」


 うららかな春の散歩だった。


               『幻想交響曲』完



 


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【完結】幻想交響曲(作品240508) 菊池昭仁 @landfall0810

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