第2話
私一人だけになった。
どうやら会員はそれぞれ別の空間に飛ばされたらしい。
美術館のような、広々とした空間。しかしここは半屋外で、新緑の香りのする風が微かに私の髪を揺らしている。
この世界にもう緑なんてないのに。
「あった…」
目の前にはこれみよがしにソファがあり、その座面に本が一冊置いてある。
夢にまでみた読書。
すぐに読み終わってしまわないよう、大切に読まなければ。
幸い時間制限はない。1年かけて読んでもいいし、最後の一文字さえ読まなければ何度読み直してもいいのだろう。
先程までいた場所へ戻る条件は、一冊読み終わったら…だから。
こんなふうにズル賢く考える人間がいるから、この読書クラブの開催も第2回目なのだろう。第1回目が終わったのはつい一週間ほど前のことだから。
ソファに腰を下ろし、本を開く。
なかなかに面白い内容で、すぐにページをめくってしまわないよう噛み締めながら一文字一文字を読んだ。
この時間が終わってしまったら、私にはもう何もないから。
ふと、人の気配がして顔を上げる。
先程まで誰もいなかった場所に、長髪の青年がいる。
それも、ただじっとしゃがみこみ何もない白い壁をぼーっと眺めている。
先程集まっていた会員たちの中にはいなかった。いたらすぐに気がついただろう。
それほどまでに、彼は妙な空気感を纏っていた。風に揺れる花のような、音もなく積もりゆく雪のような、他の人間にはない柔らかな何か。
「何してるの?」
気がつくと私は読書を中断して彼に話しかけていた。
「見ているんだ」
「何を?」
「壁」
改めて壁を見直しても、ただの白い壁でしかない。
壁を見ていて楽しいのだろうか。だとしたら、この青年は幸せだ。
読書に戻ろうと踵を返した時
「ここには赤が映えると思わない?」
青年はそう口にした。
ソファへ戻ろうとしていた足を止め、私も彼の隣にしゃがみこんだ。
「そうね、ここには赤が映えそう」
「それにね、ここを見て?」
青年は壁を撫でるように指さした。
「この模様。触り心地がいいね。まるで水のようだ。だけど、日が当たっているから温かい」
壁に抱きつくように腹からもたれかかった青年はふと微笑する。
「君名前は?」
「
「君の話を聞かせてほしいな」
誰かと話をするの、いつぶりだろう。
そうか。
話せばすぐに諍いになってしまうほど、私たちの心は廃れた。
でもこの青年は違うみたい。
「あなたの名前も教えて?」
「んー今作は
「?。ねえ、遊離。あなたは会員じゃないでしょう?」
「うん」
「なら、運営側の人?」
「どうかな。そんなの君が決めていいんだよ」
決めていいって…
「訝しむのもわかるよ。でもさ、僕が例えどう答えたとしても、それが事実かどうかなんてわからないでしょ?」
「そうね」
だって人は嘘をつく生き物だから。
「私が思いたいあなたでいい…そういうこと?」
「うん、その通り」
なんだか、楽しそう。
「むしろ君が思い描く僕はどんな人間なのか、聞かせてほしいな」
人は質問に対して3つの答え方がある。
一つは事実。
一つは沈黙。
一つは嘘。
そのどれもつまらないもの。
事実ばかりを話す人は正直だけど、悪意に溢れているこの世界では生きずらい人。
沈黙する人は、自分のことは話さずに相手のことばかりを知りたがってずるいけど、賢い人。
嘘をつく人は生きやすいかもしれないけど、私は信用しない人。
けど、彼はそのどれとも違う。
私が信じたい、思い描く彼を演出してくれるって、そういうつもりなの?
まるでお人形さんごっこだわ。
この上なく自分に都合がよくて、想像を掻き立てられて…そんなの、無機物の本よりも私に何かを訴えかけてくる最高の娯楽じゃない?。
「遊離は、きっと画家よ」
「どうして?」
「白い壁をじっと見てどんな色が映えるか考えてるなんて、画家っぽいでしょ?」
「そうかもね。じゃあ画家の僕の一番好きな色は?」
彼と目が合うと、そのどこまでも柔らかな視線に引き込まれそうになる。
「…赤」
「どうしてか聞いてもいいかな?」
「たまたまよ。さっき赤の話をしたし、私の好きな色が赤だから」
私は不思議な彼と話すのに夢中で、もう、読書のことなんて忘れていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます