春田 美空の後日談
春田 美空、18歳。
クリスマスライヴから半年。
2026年6月2日。
「麗奈先輩、やっと全部終わったよ」
春田 美空はちょうど1年前に亡くなった黒見 麗奈の墓前に居た。
花を捧げ、線香を捧げ、両手を合わせる。
ただ1人、この静かな霊園で私はこの4年間のことを思い浮かべていた。
「──いや、全部でもないか」
小さく溜息を吐いて、ぼんやりと呟く。
「獅童 美空が遺したメモリーフィッシュの全てが葬られた訳じゃない
販売したCDの回収と破壊は粗方終わったんだけど
まだ。ネットワークの海に広がったそれの排除が残ってる
今、貞人さんと協力して、そういうのを一つ一つ排除してるところ」
私の頬は自然と綻んで、しゃがんで墓石を眺めた。
「先輩、私、もうアイドルじゃなくなったんだ
獅童 美空は5月31日、デビューしてからちょうど1年、連続殺人鬼であるかすみちゃんと……
あなたを殺した犯人との婚姻をメディアで発表したの
城木プロはもうめちゃくちゃ、みんな散り散りになっちゃった」
昔を懐かしんで、ちょっと寂しくなって、私は膝を抱えるように両手を組んで、地面をちょこまか歩くアリを見る。
「社長も死んじゃった
クリスマスライヴの時、晴音さんを庇って、かすみちゃんに刺されちゃったんだって
ほんと、らしいな、って思っちゃう
でも先輩にとっては、嬉しいことになるのかな
答えなんて、もう誰にも聞けないけど」
アリは何か小さな粒を運んでいて、いずれ、私の視界から消えた。
「少し無理言って、先輩のマネージャーさんにここの場所を教えて貰ったんだよね
もう握手とかも、何にも出来ないけど
せめて、先輩には獅童 美空の最後を知っておいて貰いたかったから」
立ち上がって、鼻をすする。
涙の溜まった目を手の甲で拭って、もう一度微笑む。
「じゃあね、先輩
もう来ないよ
先輩の分まで、私、ちゃんと生きて行くから」
私は踵を返し、霊園に穏やかなそよ風が吹いた。
駐車場まで向かうと、数台停まっている車の中から、迷わず見知ったそれの元へ向かう。
遠慮なく助手席のドアを開けて溜息混じりに私は助手席へと座った。
「もう良いんですか?」
「お別れは済ませましたから」
「そうですか
では、行きましょう」
晴音さんがサイドブレーキを戻した。
彼女の運転する車は静かに市内の病院へと向かっている。
頬杖を突いて、窓からぼんやりと外を眺めて、青々とした並木や、道端に咲いている紫陽花を私は目で追っていた。
「──これでまた、三人一緒に仕事が出来ますね」
「──晴音さんは、かすみちゃんを恨んでないんですか」
「まさか
アレは城木くんがどうしようもなく
本ッ当に、どうしようもなくお人好しだっただけですからね」
かすみちゃんは、メディアでは死刑を免れることは出来ない程の凶悪な殺人鬼と評され、遺族からの強いバッシングや、批判に溢れかえっていた。
そんな人物に、私──
いや、獅童 美空は世間にかすみちゃんと婚姻、正確には、パートナーシップ関係を結ぶことを発表した。
儀間機関の協力によって、情報統制が敷かれて、大手メディアの方は沈静化しているけど、SNSではまだとんでもない大騒ぎになっている。
城木プロも解体となり、私や晴音さんは儀間機関に身を置くこととなった。
それは、かすみちゃんも。
「……私、ちゃんとかすみちゃんと幸せになれるのかな」
「……えぇと?
ひょっとしてマリッジブルー、ですか?
だとしたら、美空さんらしくありませんね」
「そうかな
憑き物が落ちちゃったからかも」
言い得て妙だな、なんて思いながら、晴音さんの方を見ていると、僅かに微笑んでいる……のかな。
いつものように表情は変わらないように見えるけど、彼女のそれに影はない。
「それだけ面白い冗談が言えるなら大丈夫でしょう
あなたのやりたいことを応援するのが、マネージャーとしての私の仕事ですから」
「マネージャーっていうか、お目付け役っていうか……」
私の叩く軽口も、今ではもう涼しげに流す晴音さん。
やっぱりどこかうれしそうで、楽しそうで、何故か、城木さんの姿が重なって見えて。
自然と涙が溢れてくる。
どうしてこんな涙脆くなっちゃったかなァ。
不意に、晴音さんがハンカチを寄越した。
「今度はちゃんとコレで拭いてください」
ハンカチを受け取って、零れる涙をそれで拭って、ぎゅっとそれを握り締める。
「花嫁を迎えに行くんですから、もっと堂々としていなくては
どんな時でも勝気に笑ってるのが、春田 美空っていう人でしょう?」
「敵わないなぁ、晴音さんには」
──────
──同時刻、白鳥市内の病院。
「おはようございます、与田かすみさん
予定通り、あなたの退院準備が整いました
ご同行願えますね?」
「……はい」
ベッドに腰掛け、窓から外を眺めていた与田かすみは、小さく息を飲んだ。
──稲光 晴音から受けた傷もさることながら、心神喪失状態にあるとして、獅童 美空のクリスマスライヴが終わって以降、彼女はずっと入院生活を送っていた。
儀間機関の手入れは思った以上に早く、同日時点で彼女の身柄は儀間機関が確保するに至る。
儀間 貞人は相も変わらず冷淡に、事務的に。
春田 美空の暴走を防ぐ目的で、与田かすみの身柄を確保していること、儀間機関の目的のため、与田かすみを利用したいこと。
そして、もしこの誘いを断れば、与田かすみは死刑を免れないだろうということ。
それらを伝え、彼はずっと彼女からの返事を待っていた。
「時間的にもそろそろです
あなたの花婿も時期に到着するでしょう
あなたもよく決断してくれました
感謝します」
「──いえ、私は……」
「まだ迷っておられますか?」
「それは、その……
迷っている訳では……」
『──かすみちゃんがしてしまったことの責任は、私にもある
でも、どんなことがあったって、私の想いも、決意も、ずっと変わらない
かすみちゃんは私の恋する唯一無二で大切な人……
かすみちゃんと一緒に生きて行くためなら、何だって出来る
──だから、かすみちゃんの犯してしまった罪を、私にも一緒に背負わせて』
与田かすみの脳裏には、美空のそんな強い決意と、純粋な恋慕と、少しだけ震えていた声が刻み付いている。
「……私としても、彼女にはしてやられたという気分です
彼女がどれほど貴女を想っているかなど、私の興味の埒外ではありますが
私もある意味、それに救われてしまった」
儀間 貞人は呆れ返りながら自嘲気味に笑い、自身の開いた右手に視線を落とした。
「私は結局、引き金を引かなかった
或いは、引けなかったのか
稲光 晴音も私と同じく引き金を引かなかった
えぇ、だからこそ
そう、少しだけ、ほんの少しだけ
私はそんな彼女の強い意志に賭けてみたくなったんですよ」
静かに彼の話を聞いていたかすみが、深く溜め息を吐いた。
「本当に、美空ちゃんは大馬鹿です
どうして私のことなんかって、思っちゃいますけど
なんというか、まるで──」
「城木さんを、思い出しますか?」
「……おかしいですよね
どうしてか、あの時の美空ちゃんから彼の面影を感じてしまって──
──結局、私は逃げているだけなのかもしれない
それでもやっぱり、私は美空ちゃんの気持ちにちゃんと応えようって思ったんです
これ以上後悔するのはもう、嫌になってしまいましたから」
立ち上がったかすみが、荷物を手に病室の入り口で待つ貞人の元へと向かう。
「こんな私が美空ちゃんと一緒にやって行けるのかな、って不安はあります
それに私の犯してしまった罪が消えることもありません
けれど、私は、私も美空ちゃんと生きて行きたい
そんな我儘を通してしまいたくなるほど
私、城木さんの面影を感じていたからじゃなく、ちゃんと好きだったみたいです
ずっと私を想ってくれていた、春田 美空という、私の大切な人のことが」
「そうですか、それは結構
さぁ、二人ももう着く頃です
行きましょう」
──────
──貞人さんからは病院に着いたら、従業員出入口の前で待つよう指示を受けていた。
さっと腕時計を確認した晴音さんが小さく頷く。
すると、従業員出入口のロック解除音がなり扉が開かれた。
「お待たせ致しました」
相変わらず素っ気ない様子の貞人さんの後ろには、見慣れた困り顔をしたかすみちゃんが立っていた。
「ええと……」
「さぁ行こうか、かすみちゃん」
私はかすみちゃんの荷物と、その手を取って晴音さんの車へと向かう。
「美空ちゃん!?」
「急がないと、でしょ?」
後部座席のドアを開けて彼女を載せて、そのまま私も後部座席へと乗り込んだ。
続いて、晴音さんが運転席へ乗り込む。
貞人さんも自分の車に乗り込んで、二つの車両は病院を後にした。
車の中は少し静かだ。
私も、なんて話をしたらいいかわからなくて、かすみちゃんも気まずそうに私と窓の外を交互に見ている。
あぁもう、勇気を出せ美空。
深呼吸して、かすみちゃんの方を向く。
「──あのさ」
「あのね──」
声が重なる。
少し恥ずかしそうにしているかすみちゃんを見て、なんだかおかしくなって。
「なぁに、かすみちゃん?」
「ううん、美空ちゃんこそ」
たったこれだけ、これだけで私の緊張は解けて、私はかすみちゃんの右手に、左手を重ねた。
「──これからもよろしくね、かすみちゃん」
「──うん、よろしくね、美空ちゃん」
二人でにへらと笑いあって、晴音さんもクスリと笑う。
でも、なんだか涙が出て来て、それが止まらなくて、かすみちゃんも釣られて涙を零して、二人でわんわん泣いて。
あぁ、ちゃんと、かすみちゃんに私の気持ちって通じてるんだなって。
それが嬉しくて、これまで我慢した分、涙が溢れて、零れて、どうしようもなくかすみちゃんが大好きで。
「かすみちゃん!
私かすみちゃんが好き!
大好きだよ、ずっと一緒に居たい……!」
「……私も、私も美空ちゃんが好き!
美空ちゃんが大切なの!
美空ちゃんと一緒に生きていたい!」
取り留めもないチープなフレーズだけど、誰よりも、何よりも欲しい言葉が積み重なって、折り重なって。
車の中は涙の大合唱。
二人で泣きじゃくって、くしゃくしゃになって、気持ちが通じ合ってたのが嬉しくて。
あぁやっと──
やっと願いは叶った、呪いが祝福になった。
これ以上望むことなんてないほど、私は今満たされているのだと。
──車が辿り着いたのは、先程まで私の居た霊園だ。
車を降りて、しばらく待つと、貞人さんがギターケースを手にやってきた。
「……思った以上に泣き虫ですね、美空さんは」
「こんな状況で泣かないやつがあるかァ!?」
「おやおや、随分と怖い顔をしますね
僭越ながら、私も貴女方に結婚祝いのプレゼントをご用意させて頂きましたので、早く彼の元へ行きましょう」
彼──
私達の目的は、城木社長の墓参りだ。
もう社長ではないし、城木プロもないのだけれど、それでも私にとっての彼は社長だ。
花束や線香、ライターを持った晴音さんが先導して 、4人でぞろぞろ、彼の眠る場所へ向かう。
私はかすみちゃんの手を握って、かすみちゃんも私の手を強く握り返す。
朝からすれば、陽射しが少し強くなり、風もそれほどない。
初夏だけれど、真夏のような暑い日だ。
それなのに、晴音さんと貞人さんはいつもの背広。
しかも汗一つかかずに表情は涼しげ。
私とかすみちゃんは、暑いね、なんて言って、多分きっと、二人でそんな陽気と重なる城木社長の姿が浮かんでいて。
零れそうになる涙を一緒に我慢して、汗を拭って、やがて彼の元に辿り着いた。
みんなで花を活け、お線香を供えて手を合わせる。
全員が顔を上げたところで、貞人さんが私に視線を寄越した。
「さて、貴女にはこれを」
彼は立膝を突いて、自分の膝にギターケースを置くと、その中身を見せてくれた。
それは、アコースティックギターだ。
私がずっと使っていたお父さんからの借り物は、家を出る前に返してしまったし。
獅童 美空が使っていたエレキギターは正月には供養に出して燃やしてしまっていた。
いずれどこかで、自分とかすみちゃんが聞きたくなったら買おうと思っていたそれが、そこにはあった。
「人払いは済ませてあります
何か1曲、城木さんに手向けて頂いても構いません」
「貞人さん……」
私はギターと、ギターピックを受け取り、ギターのベルトを肩に掛けて、軽く音を出す。
初々しく、瑞々しい、まだ誰の手にも染まっていない白い音。
簡単にチューニングを済ませて、私は城木社長の墓の正面に立った。
「……少しだけ、歌を借りるよ
獅童 美空」
私は右のこめかみを軽く6回人差し指で叩きながら、素数を2から13まで数える。
燃え残った微かな火種を呼び起こすように、あの頃の日々をフラッシュバックさせながら。
奏でるべきは何か、歌うべきは何か、伝えるべきは何か。
考えるでもなく、私の指が、ギターピックが、音を生み出していく。
それは赤、空を染めるように、彼の瞳の奥にあった炎のように。
私とメモリーフィッシュによって起こされた大感染の子らを焼き尽くす為に書いた歌。
社長が聞けなかった、あの歌を──
「──さぁ、始めよう
勝利の運命をこの手に掴む為に──」
もう二度と歌うことなどないだろう、そう思っていたこの歌が、もう一度だけ息を吹き返す。
本当に、これが最後だ。
獅童 美空の残り火を借りるように、私は一つ一つ音を紡いでいく。
天の彼には届いただろうか?
呪いは祝福に変わっただろうか?
私は、願い、祈り、歌うことしか出来ない。
それでも、だとしても。
私の愛する人が恋した貴方に、この赤が届きますように。
パンデミックレッド。
──世界で1番のアイドルとは『流行り』だ、と、私は彼らに答えた。
本音を言うと、それは流布され、曝され、熱に浮かされる疫病のようだからだ、と、そう思っていた。
所詮、1番なんてものは移り変わるものだ。
それでも、輝く瞬間はある。
みんなで見た流れ星のように、一瞬でも誰かの心に残れたのなら。
そう思ってしまったのが、メモリーフィッシュのせいだったのかはわからない。
そんな気持ちの象徴が、この歌だった。
私は証明したかったんだ。
メモリーフィッシュの手助けがなくても、私の音楽に喝采が溢れることを。
そして、獅童 美空という赤い疫病は、メモリーフィッシュという寄生者を骨の髄まで焼き尽くした。
──私の
私の為にペンライトを振ってくれた人々が居たことを私は忘れない。
貴方が見出したアイドルは、あの日、きっと誰かの一番星になれたよ。
これから、誰も傷付かない、誰も傷付けない、そんなメモリーフィッシュなんてものが居ない優しい世界で、誰もが憧れる新しいアイドルが生まれるといいな。
そんな願いを最後にそっと込めて、獅童 美空というアイドルは今、春田 美空の内側で燃え尽きた。
──歌い終わると、全身から力が抜けて、膝から崩れ落ちそうになる。
それを晴音さんと、かすみちゃんと、貞人さんが受け止めてくれて。
私の名を呼ぶ声が一斉に交差した。
「大丈夫、大丈夫だよ
気が抜けちゃっただけ」
「美空さん、お水飲んでください
ゆっくりで大丈夫ですからね」
「ありがとう、晴音さん」
晴音さんの用意してくれた水を少し口に含んで、飲み込んで、少しだけ頭を回す。
もう、何かに成り代わって生きる必要はない。
何かに擬態して生きる必要もない。
私は初めて、春田 美空という1人の人間として生きた心地がした。
昔憧れた歯車ではなく、生身の人間になれた気がした。
あぁ、そうか。
私は自分の為に生きていいんだ。
誰かが求める何かじゃなくて、私が求める私として。
どうか許して欲しい。
私、これから我儘に生きて行きたいんだ。
私はみんなに支えられて立ち上がった。
「ありがとう、みんな」
「美空ちゃん、大丈夫?」
「もう大丈夫だよ
心配かけてごめんね、かすみちゃん
なんか、緊張が解けて腰抜けちゃった」
ほっと胸を撫で下ろした三人は安心した様子で微笑んで、小さく溜め息を吐いた。
「さて、与田かすみさん」
「は、はい
何でしょう、儀間さん」
「貴女にはこれを」
そう言って貞人さんは懐からキーホルダーの付いた鍵をかすみちゃんに手渡した。
「これから貴女方2人の住む家の鍵です
少し手狭ですが、白鳥市の郊外にある古民家を1件用意しました
今後は、そこで生活してください
住所はもう稲光さんに伝えてあります」
かすみちゃんは目を見開いて、理解が及ばないと言った表情を浮かべる。
いや、それは私もそうなんだが、古民家1件と来たか……。
「そういうことなので、お2人とも
儀間邸で昼食を済ませたら、お家に案内します」
貞人さんが何かするとは思っていたが、流石に古民家1件は意味がわからん。
どうした?
「み、美空ちゃん……
良かった……ね?」
「う、うん……
いや、嬉しいけど、ちょっと怖い……」
「何を言っているんですか?
あなた方は今や我々儀間機関の人間です
今後一切、社会からは隔絶され、その存在は秘匿されなければならない
私は水槽を用意したに過ぎません」
淡々としていていながら、悪い笑みを浮かべている儀間は、小さく鼻を鳴らす。
「これは皮肉ですが、水槽を飛び出した魚は死ぬとは、よく言ったものでしょう?
春田 美空さん、私に大見得を切ったのですから、それなりの働きは期待していますよ
私に頼るとはそういうことです」
「貞人さん、やっぱり悪役似合わないね」
貞人さんは少し目を逸らして踵を返し、肩を竦めた。
「ともあれ、皆さん朝からお忙しかったでしょうから
先程、稲光さんも仰られたように、この後、私の屋敷で昼食に致しましょう」
「はーい」
先に歩き出した貞人さんを追って私も歩く。
かすみちゃんと晴音さんもその後に続いた。
「──あの、晴音さん」
「なんですか?」
「その、美空ちゃん、儀間さんのこと……」
「……あぁ、下の名前で呼んでることについてですか?」
ふと、そんな二人の会話が耳に入る。
そう言えば、貞人さんのこと、いつの間にか下の名前で呼んでたな……。
「……嫉妬させちゃった?」
立ち止まって振り向く。
「……うん、少しだけね」
「そっか、そうだよね」
並んで歩く。
「ぶっちゃけるとさ、あのライヴのあと
誰にも頼れる人居なくて、やっとのことで、あの人の連絡先見つけたんだよね
その時からかな、貞人さん、って呼んでるの」
「あぁ、それで事務所の撤収作業の時に城木くんの机が荒れてたんですか
全く、褒められたものではありませんよ?」
目を細めた晴音さんに苦笑いを向けて、1つ溜め息を吐く。
「私ね、あの人が引き金を引かなかったの、感謝してるんだ
空っぽな私を信じて、若気の至りとか言って馬鹿にしないで、ただ純粋に私の言葉に耳を傾けて、私に賭けてくれた
そんな正義の味方みたいな彼を、私は尊敬してる」
少し目を伏せて、前を歩く貞人さんを見る。
「あの人は、私のこれからの目標なんだ
あの人みたいな正義の味方に私はなりたい
でもって──」
私はかすみちゃんの顔を覗き込んで、ふにゃりと顔が綻んで、でも、堂々と。
「私、かすみちゃんだけの正義の味方になりたいんだ」
ぽっ、と頬を赤らめたかすみちゃんを見て、くるりとまた前を向く。
「これから上司になる人だけど、あの人に他人行儀で居たくない
学ばなきゃ行けないことが沢山ある
良い意味で、あの人に私が頼りにしてるって、尊敬してるって、伝えたいんだ
それで、下の名前で呼ぶことにした」
彼は足が早くて、もう随分離れた所まで行っている。
私はかすみちゃんの手を引いた。
「あの人は二人と同じ、頼れる大人なんだ
だから、ちゃんとに仲良くしたい
憧れは理解から最も遠い感情だってよく言うけど
目標とか理想にはちょうどいいじゃん?」
「……うん、わかるよ、その気持ち
でも、やっぱりヤダなって思っちゃった
美空ちゃんが他の人のこと見てたり、仲良くしてるの、私、嫌なんだね……」
かすみちゃんが物憂げに視線を下げて、私の手を強く握る。
「せめて、私の前で、あの人のこと、名前で呼ばないで
じゃないと、私……」
「──うん、そうする
だって、私、かすみちゃんだけの正義の味方だもん
ちゃんと言ってくれてありがとう」
小さく頷いたかすみちゃんの手を強く握り返して、私達は駐車場へと足早に向かった。
──あの人の屋敷で昼食を済ませて、晴音さんの案内の元、あの人の屋敷よりも更に山の奥、小さな古民家に私達は辿り着いた。
晴音さんの車から降りると、彼女は今後について少し話をしてくれた。
「食料品や日常生活雑貨はある程度買い込んで置いてありますが、他に必要なものがありましたら、いつでも遠慮なく私にご連絡ください
しばらく、目下一週間の私的な外出は禁止、仕事の際は私がお迎えに上がります
言うまでもないとは思いますが、約束が守られなかった場合は、分かっていますね?」
私とかすみちゃんは1つ小さく頷いて、古民家の扉へ向かった。
かすみちゃんが鍵を開けて、内装を見ると、リフォーム済なのか、かなり綺麗になっている。
「すごい……」
思わず感嘆の声をあげたかすみちゃんの後ろ、晴音さんは玄関の前で微笑んでいた。
「それでは、私は戻ります
お二人とも、今日はゆっくり休んでください」
晴音さんが玄関の扉を閉め、やがて車が去っていく音が聞こえた。
それを合図に、かすみちゃんが玄関の扉の鍵を閉める。
「かすみちゃ──」
名前を呼び切る間もなく、彼女は勢い良く私に抱き着いて、私は彼女を抱き留めた。
彼女は消え入りそうな声で囁く。
「……夢じゃないよね?」
「夢なんかじゃないよ」
「ずっと、ずっと一緒だよね?」
「ずっと、一緒だよ」
かすみちゃんが顔を上げて、私もかすみちゃんの顔をまじまじと見た。
潤んだ瞳、少しだけ目の周りが赤く腫れていて、頬も朱に染って。
私はそんな彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
遠くで切なげに鳴くヒグラシの声だけが聞こえて、静けさに溶け落ちるよう。
優しく蕩かすような口付けを終えて、私達は見詰め合った。
「おかえり、かすみちゃん」
「ただいま、美空ちゃん」
──死が二人を分かつその時まで。
私達はずっと一緒に生きて行く。
この、天国の外側にある楽園で。
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