日々の雑感 〜可哀想のコト

「可哀想」という言葉が好きではありません。


 誰かから「可哀想にね」と言われると、同情と憐れみと、所詮は他人事ひとごとだという感じがして、もやっとします。


 可哀想と口にする時は、上から目線で、相手を不幸や不運だと決めつけて、「誰かを憐れむことのできる優しい自分」に自己満足しているかのように思えるのです。


 寄付やボランティアなど、可哀想だという気持ちが、行動する第一歩につながることはあります。

 けれども、自分ではあまり使いたくない言葉だと思っています。


 現在、私は長期療養中なのですが、療養に入る前にひとつ心に決めたことがあります。


 それは

「私って可哀想」という自己憐憫の穴に落ちないこと。


 悲劇のヒロインになるのは、ある意味、心地よかったりしますよね。(もうヒロインという歳じゃナイケド。苦笑)

 穴はあちこちにいていて、うっかり落ちてしまうと、なかなか這い上がれません。可哀想な自分、という場所にとどまっていては、何事も前に進まない気がします。


 病気、怪我、事故、災害など、どれほど気をつけていても、ある日突然、巻き込まれて、避けられないことがあります。

 そして、今まで通りにはいかないこと、ひとりではできないこと、誰かの助けが必要になることがあります。


 例えば家事でも、今まで当たり前にやっていたこと(特に感謝をされるわけでもなく)は、私ひとりだけがやるべきなのではなく、誰がやっても良いことのはずなのです。

 

 できないことを代わりにやってもらう、それを申し訳ない、悪いなぁと思うのは、やめることにしました。

 こんなこともできない自分、とダメ出しして落ち込むことに繋がるからです。

 できないものはできない、できることを私はやれば良い、そう思うことにしました。


 やってもらって当たり前、ではないです。

 「すみません」ではなく、「ありがとう」「助かります」と、感謝とねぎらう気持ちを忘れることのないように。


 「可哀想に」と言われたら、自分を心配してくれているのだと、その部分だけを受け取って、その他の余計なことは全て聞き流して、スルーできるように。

 

 強く強く、なりたいです。

 




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