期待するトランジション

@yukihara

酒を飲む男

 週末の夜にしては、客の入りが少なかった。

 男はカウンターに座って目の前にある少しだけ中身の減ったグラスを俯くように見つめていた。いや、その瞳には確かに酒の入ったグラスが反射しているが、ただそれだけだ。普通、それを『見つめている』とは言わないだろう。

 時折思い出したようにグラスを手に取り口に運ぶ。中身はほとんど減っていないように見えた。

 カウンターにいるあいだ、酒に目をむけているあいだ中意味のないことを考え続ける。つまり、自分はどうしてこうなってしまったのかとか、そんな事を思考している。

 進学に失敗したわけでもない。就職も問題なくできた。四十年余りの人生で大きな失敗など何もなかった。

 だというのに、今の男の人生は明確に『失敗』していた。

 大きな失敗があった方がきっと男のためになっただろう。現状をその失敗のせいにできるし、もしかしたら失敗を糧に奮起できていたかもしれない。

 思い当たる『失敗』といったら生まれてきてしまった事くらいだ。

「ギネスは世界最高のビールだ」

 なんとなくそんな事を呟いてみる。声は掠れてほとんど意味のある言葉にはならなかった。別に言葉にしたかったわけではない。景気のいいことを言えばなんとなく気分も良くなるだろうと思っての事だった。

 男の思いつきはなんの効果もなく、カウンターの向こうにいる店員がつまらなそうに男の方を見ただけだった。

 男の人生は小石が坂道を緩やかにどん底に向かって転がっていくようなものだった。

このままではいけないのは男にも十分に分かっている。なにせ自分の事なのだし、状況を客観視するだけの知能は持っていた。

 改善のために何かをする、というのは、転がり続ける石に相対しそれを受け止めるという事だ。

 どうしようもない自分に向き合うのは、きつい。苦しい事だ。そんな事を出来るのは英雄くらいだし、自分は英雄などではないと男は自覚している。それくらいの知能はある。

 だから男はもっと手軽な方法を採用している。つまり、自分を客観視するのだ。ゆっくりと救いようのない結末に向かっていく自分を鳥瞰し、冷静に分析する。自分自身に立ち向かうという難事業よりもずっと簡単だ。

 目の前のギネスは三分の一まで減っていたが、すっかりぬるくなって泡も消えてしまっていた。世界最高のビールが台無しだ。

 男はその事がどうしようもなく悲しく感じた。公共の場でなければ声を上げて泣き出していただろう。

 飲食店で冴えない外見の男が声をあげて泣き出すところを想像してみるといい。目を覆いたくなるほど悲惨だろう。男の人生は失敗してはいるものの、常識的な人間ではある。

 台無しにしてしまったギネスから視線を剥がし、今度はグラスのそばにある自分の手を見た。

 傷だらけで節くれだっている。爪の間はいくら洗っても落ちない機械油で黒く汚れていて、見るたびに情けなく感じる。今までの人生でこんな手を取ってくれたひとはいなかったし、これからの人生でもきっと現れないだろう。

 教会に行きたかった。ミサが終わった後の誰もいない会堂の隅で少しの間祈る。祈ると、少しは気が楽になる。誰にも気にされないような男でも、少なくとも神だけは自分を見てくれている。そう考えて日々をしのぐのが男にとっての『信仰』だった。

 男の住む街には教会がなかった。教会のある大きな街に行くには金がかかるし、その金も今日、酒に使ってしまった。

 ぬるいギネスを飲み干し、男は店を出た。雨が降り始めたようで少し肌寒い。

 男は上着のポケットに両手を入れ、背中を丸めて歩き出した。

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