物干しロープとハサミ
あべせい
物干しロープとハサミ
「知らないか?」
「なに、ユウちゃん?」
「爪切り。気に入っている爪切りだ」
「また、どこかに置き忘れているのよ」
同棲中のカップルだ。同棲中といっても、2人はともに、すでに30代半ば。
男は、雨城有也(あめしろゆうや)。女は、雪河白江(ゆきかわしろえ)。半年間の交際を経て同棲に移り、まもなく1年になる。
2人の仲は、出会ったときほどの熱はなく、可もなく不可もなし、といったところ。
2人の週末の決まりごとなのだが、外で夕食をすませ、いまはリビングでくつろいでいる。外はすっかり夜だ。
「でも、爪切りだけじゃないンだ。おれが気に入っている小さなハサミも。それと、キーホルダー……」
有也は言ってから、シマッタと思ったが、もう遅い。
「ユウちゃんッ! キーホルダーって、車のカギが付けてあるのでしょ」
白江の表情が強張っている。
「いや、だから、なくす前に予備のホルダーを使っていたから、いいンだけど……」
有也は自分でもわけのわからないことを言っている。
「どういうことよッ」
「だから、車のカギは予備のホルダーに付けかえたンた」
「どうしてよ。あのキーホルダーはわたしが買ってあげたものでしょ。それに、いま思い出したけれど、爪切りも、ハサミも、わたしがユウちゃんの誕生日とクリスマスにプレゼントしたものじゃないの!」
その通りだ。
有也は、この場をどう切り抜ければいいのか。うまい考えが浮かばない。
「いい加減に扱っているからよ。わたしのプレゼントをなんだと思っているの!」
こうくることはわかっていた。だから、爪切りがなくなるまでは、こっそりハサミとキーホルダーを探していた。
有也が机を置いている、6畳の寝室はもちろん、アパートの外の駐車場、車の中、アパート周辺。
ハサミと爪切りは、いつもB5サイズのバッグの中に入れている。外でバッグを開けた際、落ちた可能性もあるが、2つともバッグの底にあるから、落ちることはあまり考えられない。
ただ、以前、部屋のなかでしか使っていない拡大鏡が、有也の借りている駐車スペースに落ちていたことがあった。出かけた先で使い、バッグにしまい忘れたこともありうる。
記憶ほどあいまいなものはない。有也が最近感じていることだ。
ひょっとして……。有也は怖いことを思い出した。
まさか、あいつのところに。それはないッ、ないとは思うが……。どうして、こんなときにあいつのことを思い出すンだ。
「ユウちゃん、ちょっと来なさい」
白江が、掃き出し窓の近くに立ったまま、手招きした。
有也は、外を見ている白江のそばに行った。
「あそこ……」
白江がカーテンを開け、窓の外を指差している。
「エッ、どこ……」
窓の外には、物干し用の金具が左右にあり、洗濯物が干せるようにビニールの物干しロープが2本、金具の間に渡してあるが……。
「あれッ」
ハサミが、有也が捜していた小さなハサミが、物干しロープに干してある。指を入れる、持ち手の2つ穴の部分が、ロープに通す形で……。
「ユウちゃんがやったの」
「おれが? やるわけないだろッ」
そんな面倒なことをどうしてやるンだ。物干しロープの両端は、2本とも結束バンドで金具に固定してある。有也がここに越してきて、白江に頼まれ、最初にやったことだ。
ハサミが通してある物干しロープは、2本のうちの壁側のロープだ。
ハサミの持ち手の2つの穴を物干しロープに通すには、結束バンドを切り、ロープの片端を金具から外して、ハサミの穴をロープに通さなければならない。結束バンドは、刃物がないと、切ることはまず出来ない。
いったい、だれが……。
第一、おれのハサミがいつ、どこで?……。有也は、懸命に思考を巡らせたが、答えが出ない。
「とにかく、ハサミを確かめるよ」
有也は掃き出しのガラス窓を開け、物干しロープを見た。
2人の部屋は2LK。6室ある二階建てアパートの、道路から最も遠い1階の角にある。
窓の外には、6台分の駐車スペースがあり、窓を開けて地面に降り、そのまま公道に面した駐車場に行くことができる。
反対に、カギさえかかっていなければ、駐車場から有也たちの部屋に入ることも出来る。
すなわち、ビニールの物干しロープをいじることは、だれにでも出来る。
有也は物干しロープをじっくり観察した。
ロープの左端は有也がした当時のまま結束バンドで金具に固定されていたが、右側のロープの端は、巻きつけるようにして金具に結びつけられている。
有也が使った結束バンドを切り落とし、ハサミを通したあと、結束バンドの代わりに結びつけたのだ。これで結束バンドが使われていたのなら、犯人の周到さが窺われるが、そこまでの準備はなかったとみえる。
有也はロープの右端を金具から外しにかかった。犯人はよほど慌てていたのか、ロープの結び目は驚くほど簡単に解けた。
有也は、ロープからハサミを抜き取り、手にとって入念に観察した。
間違いない。白江が去年の誕生日に有也にプレゼントした、長さ12センチ弱、持ち手の幅4,5センチの、手の平サイズ、オールステンレスのハサミだ。よく切れるうえ、大きさが手頃で使い勝手がいい。
持ち手に、小さく「有也へ」と文字が刻まれている。
「有也ッ、よく考えてみなさい。あなたがやったのでないのなら、あなたからハサミを盗んだ人間がやったことになるわ」
白江の言う通りだ。しかし、それはだれだ?
それより、いまは「ユウちゃん」が「有也」になったことのほうが問題だ。白江の怒りは明らかに増幅している。
「そうなンだろうけれど、そいつがだれなのか、わからない」
「わからないッ、て! 有也、わたしがあげたハサミを、わざわざ物干しロープに吊るした犯人の意図はなに? 盗んだ罪悪感に苦しめられて、わざわざ返しに来たの?」
それはあり得ない。返すだけなら、郵便受けにでも入れておけばすむことだ。
「犯人は、わたしに主張しているのよ!」
白江の目が大きくなり、目の周りが光りだした。
「主張、って、何を主張するンだ?」
そのとき有也に犯人の目星がついた。で、わざと惚けてみせた。
「有也、あなた、本当にわからないの!」
白江は、コトの真相を見抜いているような口振りだ。
「こんなことをして、いったい何の得があるというンだ」
「あるのよ。だから、ここまでやってきた……そうよ。こういうことを、犯人はいつやったのか? わたしたちが留守している間か、寝ている真夜中……ということは、いつでもだれにでもできる。でも、昨日の朝はあんなところにハサミはなかった。となると、昨日2人が出かけている間か、寝静まった夜……」
白江はひとりごとのように、しゃべっている。
有也は、白江のことがまだよくわからない。本心というか、本性がよく見えないのだ。どれほど、心を開いているのか、心を寄せているのか。
有也が深くつきあった女は、白江が2人目。同棲は初めてだから、白江の心がわからなくて当然とも言える。
ひとの心は本人にもわからないところがあるから、これでいいのかも知れないが……。
「有也、もうわかっているンでしょ」
白江が有也の目を覗き込みながら言った。
「い、いや……」
列子(れつこ)だ。
有也は、3週間前に突然彼の前から去った女を思い起こしている。
列子は、配達先の不動産屋の事務員だった。ターミナル駅から10数分の雑居ビルのなかにある小さな会社で、ひとり留守番をしていた。
2ヵ月ほど前のある日。
有也が、受取印をもらって帰ろうとすると、
「ちょっと待ってください」
列子はそう言うと、自分の事務机の下から、小さな段ボール箱を取り出した。
「これ、送りたいンです」
有也の会社では、宅配と一緒に集荷も行う。しかし、集荷には専用の伝票を貼りつけるなど手間と時間がかかる。その段ボールには、送り状らしきものは何もなかった。
「すいません。きょうは配達がたくさんあって。配達が終わってから、夕方必ず寄ります。こちら何時までですか?」
有也は彼女の退勤時刻を聞いて、そこを出た。しかし、そのあと、配達に忙殺され、彼女のことはすっかり忘れた。
思い出したのは、配達があと10数個になったときだった。
約束の時刻はすでに30分以上過ぎている。幸い彼の配達担当エリアは広くない。いまからだと、5分で行ける。
それに、有也は彼女の淋しげな美貌に、心を奪われていた。白江にはない、マイナーな魅力、とでもいっていいのか。
有也は彼女の勤める不動産屋にトラックを走らせた。すると、雑居ビルの前に、彼女が左右に視線を泳がせながら、淋しげに立っていた。
足元に段ボール箱がある。
「ごめんなさい!」
「すいません」
彼女は有也を責めるどころか、申し訳なさそうに言った。
有也はすぐに伝票をつくり、送り状を荷物に張り付け、集荷伝票を彼女に手渡した。
有也が伝票控えを見ると、差出人欄に「津軽列子(つがるれつこ)」とあり、電話番号が記されている。彼女個人の荷物なのだ。
「ぼく、雨城有也と言います。お電話していいですか?」
有也は、自分でも気がつかないうちに、彼女を誘っていた。
こうして有也は、白江と同棲していることを忘れたかのように、列子に一方的に恋して、デートを重ねた。
4度目のデートのとき、深い関係に陥った。
そのときの彼女の1DKのアパートで、思いがけない事実が発覚した。
列子は、有也より2つ下の33才だったが、ひとりこどもがいた。
「田舎の両親に預かってもらっているの」
と、言った。
結婚はしていないから、いわゆる「未婚の母」なのだろうが、有也にはそれを確かめる術はなかった。疑えるような雰囲気ではなかったから、有也は列子のことばを信じた。
ところが、その1週間後、列子は忽然と姿を消した。
行き先も告げずに。それが、3週間前。
ただ、アパートを引き払った気配はない。「津軽」と記された小さな表札は、そのまま残されていた。
列子は、有也が同棲していることを知ったのだろうか。もし、知ったのなら、列子には衝撃だったに違いない。
有也はいまも列子のアパートのカギを預かっている。スペアだが、白江から贈られたキーホルダーに列子の合鍵を付けた。そのキーホルダーは使っていなかったから、深く考えずに。ただ、何気なく。そのキーホルダーが見当たらない。
1ヵ月前、列子の部屋を初めて訪れた夜も、有也は、ハサミと爪切りをバッグのなかにしのばせていた。外出するときは、いつもそうしている。
自宅でハサミや爪切りを使うことがあれば、バッグから取り出す。それだけのことだが、キーホルダーは違う。使っていないホルダーだったから、どこかにしまったのだろうが、思い出せない。
いや、それより、ハサミだ。あの夜以降、自宅で使うことがなかったから、列子の部屋でなくしたことになる。
列子の部屋で、バッグの中を見た時、ハサミはあった。
「どうして、ハサミなんか持ち歩いているの?」
そのとき列子にそう尋ねられた。
「刃物がないと困ることがときどきあって、だから……」
有也は、手にとってハサミを見つめていた列子を思い出した。だから、爪切りも、列子の部屋にいるときは、あった。
列子は、有也の手からハサミを取りあげたとき、ハサミのなかほどに刻まれた「有也へ」という文字を見つけただろうか。有也とつきあっている相手からの贈り物であることは、容易に想像がついただろう。
列子はハサミを有也のバッグに戻したのか。いや、戻していれば、バッグの中にあるはずだ。そのあと、バッグをいじっていないから、列子の部屋に置き忘れたとは考えられない。
では、爪切りは? 列子のカギを付けたキーホルダーは?
いま車のカギとアパートのカギをつけてあるキーホルダーは、列子が2度目のデートのとき、有也にプレゼントしてくれたものだ。
有也はその場で、白江から贈られたキーホルダーからカギ束を外して、列子のキーホルダーに付けかえた。
白江には、予備のキーホルダーと言ったが、予備なンかじゃない。有也がこれからも大切にしたいキーホルダーだ。列子はそれを取り戻さずに、白江のキーホルダーを奪ったのだろうか。
列子自身の部屋のキーがついているキーホルダーなのに。有也に来て欲しくないというメッセージなのか。
「ユウちゃん」
「エッ」
白江が再び、有也を「ユウちゃん」と呼んだ。あまり、いい展開とは思えない。
「ユウちゃん、正直になろうよ。わたしも正直に話すから……」
「うん……」
有也はどう答えていいのか、わからない。
「一昨日、列子さんから電話があったわよ」
エッ!? 驚きすぎると、声が出ないものだ。有也は初めて気がついた。
「わたしのスマホに。『どうして、わたしの電話番号がわかったのですか?』って彼女に聞いたら、ユウちゃんのスマホのアドレス張を覗いた、って。あなた、油断が多過ぎるわ」
あの夜、泊まりはしなかったが、列子の部屋で、小1時間うとうとした。その隙に、列子はおれのバッグを開き、スマホをみて、白江の電話番号を知った。そして、同時にハサミと爪切りを手に入れた。有也はそう考えた。
「彼女とは、そんなに深い関係じゃない。知り合って、まだ1ヵ月ほどだから」
ひどい言い訳だ。
有也は、自分でももう少し真っ当な言い訳ができないものか。そう思うと情けなくなった。
「そうね。そういうことにしておきましょう。列子さんは、わたしがあなたと一緒に暮らしていると知って、あなたと別れると言ったわ」
有也は、列子のスマホに何度も電話をいれたが、あれ以来一度も電話に出ない。呼びだし音は鳴っているのだから、無視しているのだ。
このとき有也は気がついた。おれは捨てられた男なのだ、と。
「列子さん、こうも言ったわ。『しばらく考えて、結論を出します』って」
「結論? どういうこと?」
「別れる決心がついたら、ハサミを返します、って……」
「このハサミは、別れのメッセージか……」
信じられない。有也は考える。
列子とのつきあいは、わずか2ヵ月ほど。彼女について知っていることはごくわずか。
しかし、別れるために、ハサミを返しにここまで来るだろうか。白江が列子の存在を知らないのならまだしも、バレているのに、そんな面倒なことをするとは思えない。
「2人の関係を断ち切るという意味でハサミなの。わたしも、あなたに改めて、このハサミを贈るわ」
「どういうことだよ」
「きょうを限りに、あなたはこの部屋から出ていくの。この部屋はわたしが借りているのだから」
「急にそんなこといわれても、いまから、どこに行けばいいンだ。もう、夜だよ」
時計は、午後7時20分を指している。
「漫画喫茶でもどこでも行けばいい。寝るところぐらい見つかるでしょ」
白江は本気だ。
わかった。浮気をしたおれが悪いのだから、どんな仕打ちでも甘んじてうける。有也は潔く覚悟を決めた。
有也は寝室に行き自分の机の抽斗を開け、預金通帳など貴重品を手早くまとめた。
こんなところに。
有也はそれだけはズボンのポケットに入れ、ほかは数点の衣類と一緒に、トートバッグに詰めた。
「世話になった」
有也は、居間のカーペットに座り、テレビを見ている白江をチラッと見てから、玄関で靴を履いた。
「ユウちゃん!」
白江が玄関に駆けてきた。
「冗談よ。ジョウダンでしょ。わたしがユウちゃんと別れられるわけないじゃない。大好き!」
白江は有也の首に両手を回して抱きついた。
「し、しかし、列子が、ここにハサミを持ってきている。この部屋がバレているンだ」
有也は、心の中で、無意識のうちに、白江と列子をはかりに掛けていた。
「あのハサミはわたしがやったの。結束バンドを切るのに時間がかかったわ。あのハサミでも、うまく切れないンだもの……」
そうだ。あの結束バンドは幅広だから、ペンチかニッパでないと難しい。
「でも、列子さんから電話があったのは本当よ。ユウちゃんが彼女のこと、いつ打ち明けてくれるか待っていたのに。隠しているから腹が立って……」
白江は、つきあいだした頃のように、ベタベタと有也にまとわりつく。
「列子さん、別れると言ってたわ。彼女のことは諦めなさい」
本当だろうか。別れる決意をしたのに、わざわざ、女房同然の女に電話するだろうか。
白江は、列子から電話がきたことに怒り、おれのバッグから爪切りとハサミを取りだし、隠した。そして、ハサミを物干しロープに吊るして、おれの反応を確かめようとした。
有也はそう思うと、白江の気持ちがいじらしくなった。
「出ていくのはやめだ。仲直りのしるしに、駅前に飲みに行こうか」
「いいわね」
白江は笑顔になった。すてきな笑顔だ。
おれはこの顔に惚れたのだ。有也は思い出した。出会った頃の白江の魅力的な笑顔を。
2人はアパートを出て、駅までの道を、手を繋いで歩いた。
しかし、有也は考える。
列子が電話をしてきた本当の理由だ。会いに来いというサインじゃないのか、と。
アパートは引き払っていない。列子のカギは、白江にもらったキーホルダーにまだついている。さきほど、机の抽斗をかきまわしたとき、一番奥に隠れていたのを見つけた。
いま、ズボンのポケットにある。いつでも、列子の部屋に入れる。
列子がおれを拒否しているのなら、ドアのカギをそっくり取り替えただろう。
有也は、白江の手を握りながら考える。
明日、配達を終えたら、そのままトラックを運転して、列子のアパートに行って確かめよう。彼女には、白江にはない、正反対の魅力があるから。
(了)
物干しロープとハサミ あべせい @abesei
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