第8話

 パート先でいつもの配置に着き、次々と現れる食券に従って黙々と麺を茹でる。汁を掛ける。具を載せる。丁寧な化粧はマスクと帽子の下に隠れ、靴は履き替え済みだ。意味ないじゃん、いや、身だしなみと共に心が整ったのだ。などと問答をしながら、刻みネギを散らす。ネギ臭い。次の食券は、と顔を上げると、いつものようにワカメちゃんがワカメうどんの食券を出したところだった。乙女の茜のハートは途端に早鐘を打つ。茜は鍋にゆでうどんを放り込む隙に咳ばらいをし、喉の調子を整えた。温まったうどんに出汁を掛け、ネギとワカメを飾り、申し訳程度のきざみ揚げも散らせば出来上がり。


「はいよ、おまたせ。」


 良い感じにおばちゃん声が出て、茜はほっとする。なぜか、パン屋で出したような高い声は、この姿では聴かれたくない。これもまた、乙女心のなせる業かもしれない。


「ありがとー。」


いつものようににこりと微笑み、ワカメちゃんがどんぶりを受け取る。


「お前、また麺なのか。しかも、ワカメ。」


とワカメちゃんを小突いているのは、以前茜を麺のでぶと呼んだ友人か。彼はカレーライスと温玉をトレイに載せている。ワカメよりそっちが良いと、茜でも思う。ふたりは茜から遠ざかりながら、雑談をかわす。


「もしかして、デブ専なわけ?こないだ、パン屋でもデブ口説いてたろ。」

「口説いてないって。めっちゃ物欲しそうに見られてたんだから、一言必要だろ。ってか、デブ専じゃないし。」

「んなら、ぽっちゃり専か。」

「専ではない。痩せてるのは好きじゃないけどね。触って柔らかい方が気持ち良いじゃん。」

「えっろ。そっち方面が大事かよ。」


 以下、笑い声が続く。その辺りで、茜には内容を聞き取れなくなった。もっとも、聞きたくもなかったが。 もやもやとむしゃくしゃとガッカリで、かき混ぜている出汁が魔女のスープになりそうだ。乙女心なんて、くそくらえ。胸の内からむしり取って、生ごみのポリバケツに突っ込んでしまいたい。


 でも、と茜の心の中に微かな声が響く。嫌われているわけではなさそうじゃない?レモンクリームデニッシュが欲しかったのは事実だし。欲望を見抜かれてたというだけのこと。ぽっちゃりはお好きだそうだぞ。


 だからどうしたー、と茜は声にならない雄たけびを上げた。別に、ワカメちゃんに恋しているわけではない。どう思われようと関係無い。所詮、茜は食堂で麺を茹でるおばちゃんで、ワカメちゃんは常連さん。それ以上でもそれ以下でもないのだ。それなのに、気になる自分の心が鬱陶しい。


 終了時刻を迎え、茜はのしのしとロッカールームに向かった。化粧直しも、ヘアセットも、くそくらえ。どうとでもなれの心境である。ロッカーから例のパンプスを出して、うんざりする。こんな物履いて来るんじゃなかった。


「おや、今日は可愛い靴じゃない。最近、歩きやすそうなやつだったのに。」


 隣で着替えていた千佳子が声をかけてきた。よく見てること、と茜は内心で腐る。いつもにも増して雑談に気分が乗らない。が、それをあからさまに表に出すと、後々の人間関係にひびが入る。茜は適当な愛想笑いを浮かべた。


「たまには靴を休ませようかなーって思いまして。ずっと履きっぱなしは靴に悪いって言いますし。」


 茜が即興ででっち上げた理屈に、なるほどねと千佳子は納得してみせる。大抵、千佳子は自分のことを喋るために、会話のきっかけとして茜を使うだけである。茜の返答の中身は大して聞いていないはずだ。


「うちの娘も、そういう靴を一度でも良いから履いて欲しいんだけどね。スニーカーって言うか、最早ズックだね、あれは。そんなのばっかりで。」

「歩きやすくて良いですよ。」

「そうだけどねえ。娘と靴屋行っても、お買い得スニーカーをパッとカゴに入れて終わりだよ?色とかこれで良いのって聞いても、見た目はどうでもいいって。」


迷わず特売品を選ぶなんて殊勝な子ではないか、と茜は思ったが、千佳子はただ愚痴を吐き出したいだけだろうから口を差し挟まないことにする。


「何も、ピンクのフリルを着ろって言ってるんじゃないんだよ。青でも黒でもいいの。ただ、女の子なんだから、もう少し見た目を気にしてほしいって言うか。」

「まあ、男女関係無く、身だしなみは大切ですねえ。」


 微かに違和感を覚えた茜はちらりと訂正意見を挟み込んでみた。が、千佳子はそういう細かいところには気付かない。


「もういい歳なんだからさ、彼氏までいかずとも、好きな男の子くらいいてほしいけど。あれじゃ、将来孫の顔を拝めるかどうか。」


違和感がチクチクと茜を刺す。その上、男の子の話題は今、茜にとって非常にホットでナイーブな問題である。茜は相槌も打たずに、黙ってロッカーの鏡で髪を整えるふりをした。その気力はなかったが、千佳子の愚痴とがっぷり組み合う元気がないので、他ごとでごまかすしかない。


「ほんと、山本さんみたいに、ちゃんと女の子してくれたらなあ。」


 女の子する、とはいかに。と思ったが、それは言わずに適当に流す。


「シンプルだと、素材そのままの良さが出て良いんじゃないですか。鰺の塩焼き、みたいな。」

「あはは、なるほどねえ。でも、それには素材が良くないと。モデルさんならすっぴんで勝負できるけど、うちの子はただガサツなだけで。谷口さんみたいだもの。」


 千佳子はさっと周囲を見回し、本人がいないことを確認して言った。千佳子には理央に対する悪意はないようだが、その身だしなみには否定的である。扱い辛い娘と印象が似通っているせいかもしれない。いつもなら、娘さんが心配なのねー、と心の中で流して済ませる茜だが、今日はささくれ立っているのでいちいち引っ掛かる。


「谷口さんは、あのスタイルでもカッコいいと思いますよ。」

「いやいや。だって、同じシャツ何日も着てるし。」

「同じ服何を枚か持ってるんじゃないですか。制服みたいに。」

「そうだとしてもねえ。言い方は悪いけど、あれは、いわゆる女を捨ててるってやつじゃない?化粧もしないし、髪も服も構わないし。うちの娘には、ああなってほしくないんだけどなあ。」


 悪いと分かっているなら、そういう表現は使うなよ。と、心の中で罵るが、さすがにそれは言えない。


 それにしても、古めかしい表現だ。今だと、男性や義母を悪役に仕立てた寸劇で、その悪役のセリフに使われるくらいじゃなかろうか。それにムカッと来た女性主人公が、なにがしかの方法で逆襲してやりこめるというやつ。茜が背景を描いているネット動画やネット漫画にもごまんとあるだろう。逆に言えば、口に出す機会は減ったけれど、そう思っている人はいるということなのだろうか。千佳子のように。


 おしゃれをしないことで捨てられる女とは、なんぞ。自分の乙女心を持て余して疲れ気味の茜は、何の気なしに呟いてしまった。


「オンナってめんどくさいし、そんなことで簡単に捨てられるなら便利ですよね。」


 言ってしまってから、はっと気づいて千佳子を見遣る。と、茜の発言を聞いていたやらいなかったやら、気まずそうな表情でそそくさと荷物をまとめ始めていた。もしやと思うと、案の定、いつの間にか理央がロッカールームで着替えていた。


「じゃあ、お疲れ様~。」


 千佳子はいつもどおりの様子で周りに挨拶し、退場した。理央には話を聞かれていなかった、ということにしたのだろう。お互い、無かったことにして水に流す。狭い職場ではありがちな対応だ。千佳子と茜の会話が聞こえていたであろう他のパートも、素知らぬ顔で先ほどの会話を黙殺している。当然ながら、茜にとっても快適で居心地の良い空間ではない。本日は口紅も省略し、茜はロッカーをばたんと閉めた。


 今日は身も心も疲れた。いや、むしろ心の方が疲労困憊だ。茜はのそりのそりと外に出る。帰ってから夕飯を作るのが面倒くさい。コンビニにでも寄って帰るか。大学の購買は近寄りたくない気分なので、バスを降りてからにしよう。立ち止まってそんなことを考えていたら、背後から軽やかな足音が近付いてきた。


「山本さん、お疲れ様です。」


 そう声をかけてきたのは理央だ。同じ立ち仕事を終えた後なのに、何故こんなに身軽なステップなのか。そう言えばと足元に目を向けると、ユーズドテイストの濃厚なスニーカーである。これもまた、お買い得ワゴンから無造作に掴みだしたものかもしれない。先ほどの千佳子との会話を思い出し、茜は嫌な気分になった。


「谷口さん、先日は靴のアドバイスありがとうございました。おかげで、少し歩くようになりました。」


 こちらの話題にしておこう。今日ウォーキングシューズをやめたのは実に失策だった。ワカメのせいだ。と、折角気持ちを入れ替えようとしたのに、またぞろもくもくと不快な気持ちが涌き出てくる。いかん。そうではなくて、健全な靴の話だ。


「今日は、ウォーキングシューズの休日です。なので、久々にチャラい靴履いたんですが、やっぱり足が痛いですね。」

「そうですか。」


理央はロッカールームの会話を聞いていたのか、茜の靴の件を覚えているのか、判然としない無表情である。会話を切り上げて帰るか、と茜が早々に白旗を上げかけた時、理央はハトのようにキュッと首を傾げた。


「山本さんは女を捨てたいんですか?」

「ぬへっ」


 何だ。やっぱり聞いていたんじゃないか。それより、何故急に茜に球を投げ返してくるのだ。言い出しっぺは茜ではなくて千佳子だ。不満はそちらへどうぞ、である。


「ああ、突然すみません。ちょっと面白かったので。」

「面白い?」

「川田さんが、ハトが豆鉄砲喰らったみたいな顔したのが珍しくて。何事にも動じない方なのに。」


 理央は何かを思い出すように遠くに視線を向け、楽しそうにくくっと笑った。笑うと、大きな口がニッと横に広がって、愛嬌のある顔になる。


「谷口さんは、どうなんですか?」


思わず茜は尋ねていた。外見は中性的というか、むしろ男性寄りな理央だが、乙女心で悩んだりするのだろうか。


「捨てるとか拾うとか、そういうものではないと思います。」

「そりゃそうだ。」


当たり前のご意見に、思わず茜は素で合いの手を入れてしまった。そういう答えを聞きたかったのではないのだけどな。誤魔化したのか本気の回答だったのかは定かでないが、理央はそれ以上説明する気はなさそうだ。その代わりに、鋭い指摘が飛び出す。


「でも、山本さんは何か悩んでおいでですね。」

「はあ、分かりますか。」

「実は、私も困ってることがあるものですから。」

「えっ」


まさか、恋バナ?聞いてみたいような。しかし、いきなりガッつくのも体裁が悪い。かといって、ここまで話しておいて、ではお疲れさまでした~と帰るのもおかしい。尻切れトンボどころか、胴体真っ二つトンボである。どうしようかな、と茜がもじもじしていると、理央がすっと校門の外を指差した。


「どうですか、冷たいものでも一杯。今日も暑いですし。」

「え…ビールとかですか。」

「あー、めっちゃ飲みたいところですが、飲酒運転になっちゃうので、かき氷です。近くにあるんですよ。」

「行きます!」


茜は即答した。


「はは、そういうとこ、良いですね。」


ニカリと笑うと、理央は自転車を取ってくると言い残して小走りに駐輪場へ去った。

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