第7話
それからの茜は、バス停1個か2個分を歩くように心がけている。リュックは以前使っていたのを引っ張り出した。両手が空くのは何だかんだで楽である。折角歩くので、教えてもらったパン屋さんにも時々寄る。イラストの仕事が終わって、手取りが増えた時のプチお祝いである。帰りに寄るので、いつも棚が閑散としているのが物足りないが、購買欲を過剰に刺激されずに済むというメリットもある。たまにクリームパンやデニッシュが売れ残っているとやはり欲しくなるのだが、その時は条件反射のように理央の顔が思い浮かんで手が止まる。結果的に、シンプルなハードパンを1個買って店を出ることになる。
「実は、谷口さんはダイエットの神様かもしれない。」
神様は相変わらずそっけなく、行動が素早いので、あれ以来業務外で言葉を交わすことはない。茜が靴を変えたことに気付いているやら、いないやら、それも不明だ。
今日も今日とて、茜は帰りにパン屋に向かった。小粒の案件だが立て続けにイラストを3つこなして、2万円ほどの収入になった。こんな時は、いつも封印している甘いパンを追加してもいいかもしれない。そんなことを考えていると、都合よく今日のパン棚は売れ残りが多めである。急に猛烈に暑くなったから、客足が減ったのか。茜もトングを取る前にまず顔や首の汗を拭った。暑い、暑い。体積が多いせいか、ひとたび暑くなるとなかなか冷めない。消毒用のアルコールを体に塗ったくって冷えたいくらいだが、当然ながら手首までにしておく。
「うわー、美味しそう…」
瀬戸内レモンのクリームデニッシュ。ホワイトチョコが上に掛けてあって、砕いたピスタチオがトッピングされている。見るだけでも美味しいことが分かる。ご褒美にうってつけではあるまいか。
いや待て、こっちのサーモンとキノコのキッシュも美味しそうだ。キッシュが売れ残っているのは初めて見た。今日買わないと、もう会えないのでは。でも、甘いものを買う気で来たしなあ。うわあ、キャラメルナッツタルト、これも絶対外さない味だぞ。定番のあんドーナツも捨てがたい。
普段、売れ残りが少ないことにいかに救われていたか。茜は留まるところを知らぬ欲望の渦潮に揉まれ、思わず天井を見上げた。今日は、ハードパン一個では帰れそうにない。でも、欲しいもの全部は流石に許されない。どうしよう。いっそのこと、誰かがいっぱい買い占めてくれたら諦めがつくのに。
そんな他力本願なことを考えていたら、入り口のドアが開いた。
「ふー、あっちー。」
「クーラー、生き返るー。」
外の熱気と共に入り込んできたのは、若い男女が数人だった。こじんまりとした店内が一気ににぎやかになる。
茜はこれ幸いと、隅の方に寄ってスマホを手に取った。スマホを確認する振りをして、若者たちに先に商品を減らしてもらおうという算段である。茜の目論見通り、若者たちはワイワイガヤガヤとパンを選び始めた。うつむいて耳だけそばだてていると、どうやら茜のパート先の大学生だということが窺える。この店は、大手製パン会社の菓子パンに比べれば高いが、個人のパン屋の中では手ごろな価格帯だ。学生でも気軽に買えるのだろう。
何が売れたかな、と茜は少し顔を上げてみた。その瞬間、若者の一人と目が合う。
「わ」
思わず声を上げそうになって、茜は慌てて口を閉じた。ワカメちゃんだった。何でここに。まあ、学校に近くてお買い得で美味しいからなんだろうけれど。丁度おやつの時間だし、夕方からの講義前におなかに入れておくってところか。でも、こんなところでパン買うくらいなら、ワカメ蕎麦じゃなくてかき揚げや肉月見うどんを食べればいいのに。そんなことを考えて、一瞬で跳ね上がった心拍数を何とかなだめようとする。
とにかく、知らんぷりをしよう。茜はそう決めて目を逸らそうとしたが、その前にワカメちゃんがにこりと微笑んだ。
「もしかして、これ、買う予定でしたか?最後の一個だけど、もらって良いかな。」
トレーの上には、瀬戸内レモンのクリームデニッシュが載っている。他人に取られると思うと、欲しい気持ちが高まるのがあさましくも人の性というものである。最後と聞いた途端、茜もデニッシュが惜しくなった。が、くれと言う度胸は無い。
「いえいえ、どうぞどうぞ。チョコ、持って帰る間に溶けそうだし。」
妙に上ずった声で茜は答えた。
「確かに。今日暑いですもんね。僕はすぐ食べるから、頂いちゃいますね。」
すぐ食べるんだ。やっぱり、おやつか。良いなあ。絶対美味しいぞ、あれ。じゅるりと口内に唾液がにじんできたのを感じ、茜は飲み込んだ。うっかり、ワカメちゃんの方を凝視していた。変な人だと思われてしまう。茜はスマホをポケットに入れて、何気ない素振りを装いつつ残りのパンに視線を逸らせた。若者たちのおかげで、大分選択肢が減っている。というか、さっき悩んでいた商品がすっからかんではないか。ああ、甘いパン。
茜が愕然としている隙に、ワカメちゃんたちは順にレジを済ませた。抑えきれずにちらりと目を向けた茜に、ワカメちゃんは軽く会釈をしてから店を出る。おかげで、またぞろドキンと茜の心臓が波打つ。
「ああ、もう!」
茜はフンと鼻から息を吐きだした。傍若無人な若者たちのせいで買いたいパンが無くなって怒っているおばさんの図だ、と我に返って気付いたが、もう遅い。本当は、そういう怒りではないのだが。とはいえ、菓子パンの類が無くなってしまって悲しいのもまた事実。茜は己の優柔不断さを呪い、若者たちの食欲を羨みながら、ライ麦パン一つをトレイに載せて会計へ向かったのであった。
家に帰り、窓を開けて空気を入れ替え、それでも涼しくならないのでクーラーを付ける。シャワーを浴びようかとも思ったが、体中がむらむらと糖分を欲してやまない。茜は熱気がこもったままの台所でパンをスライスし、軽くトーストしてからバターとマーマレードを塗ったくった。それをトースターの前に立ったまま、ざくっと噛みしめる。
「うまい!」
それだけ叫ぶと、あとは無我夢中で一切れ食べてしまった。流しの上でぱんぱんと手をはたいてパンくずを落とし、茜はほうっと息をつく。
「こういうので良いんですよ。」
シンプルに、パンが美味しい。多分、茜が悩んだ菓子パンも美味しいけれど、ああいうのは大したパン屋さんでなくても甘さと油分で満足できてしまうだろう。折角パンそのものの味が良いパン屋さんなのだから、ごてごて装飾で勝負するのではなく、パンの味を味わうべきなのだ。負け惜しみでなく、そう思う。
でも、あのデニッシュは…と思い出しかけ、それと二重になってワカメちゃんの笑顔を思い出し、茜は一人でまたドギマギした。これは、何。まさか、高血圧じゃなくて、恋の予感なのか?
「いやいや、それはチョロすぎでしょう。いくら何でも、ないな。」
茜はぶんぶんと首を横に振った。パート先の感じの良い常連客にいちいち恋心を抱いていたら、身がいくつあったって足りやしない。第一、向こうには美味しい飯を作ってくれる大衆食堂のおばちゃんだと思われているのだ。恋人ではなくて、おふくろポジションである。勝手に惚れたら痛い目に合うのは必定ではないか。
「最近、男の子と話してなかったからかな…。」
パートに行き、イラストを描き、の繰り返しの日々。学生時代の友達とはつながっているものの、正社員で仕事が忙しかったり、もう家庭を持っていたりで、会う機会は格段に減ってきた。ましてや、異性と出会う機会なんてすっかり途絶えて久しい。パート先は女性ばかりで、数少ない男性はおじさん既婚者。すっかり、年頃の男性に対する免疫が無くなってしまったのだろう。わびしい。
「わびしい?」
自分で考えておいて、ふと疑問を感じる。生活に異性の存在感が無いのは、イコールでわびしいなのだろうか。体調を崩したときなど、独り暮らしが心細いと感じることはあるけれど。
「うーむ、男に飢えておるのか、私は?」
首をかしげる。よく分からない。ためしに、家の中にワカメちゃんがいるところを妄想してみる。朝起きて、おはようと声を掛けたり。ワカメちゃんの服を洗濯したり、掃除をしてもらったり。授業で遅くなるワカメちゃんのためにご飯を拵えて、一緒にいただきますをしてみたり。
「この味噌汁、おいしいね!」
とか言わせてみる。妄想だから自由自在。しかし、何だかピンとこない。
ピンとこない割に、茜はその夜、絵も描かずに眉毛を整えるのに夢中であった。しかも、次の日のパートには、歩きやすいけれど地味なウォーキングシューズではなく、紐リボンが付いたスクエアトゥの可憐なパンプスを履いて出てしまった。食堂のおばちゃんと化しているときは専用の靴に履き替えるので、たとえワカメちゃんに会ったとしてもパンプスに意味は無いのだが。
それにしても、久しぶりに履くと、パンプスというものは歩くようにできていないことが分かる。最近の習慣でバス停1区画分歩いただけで、もう足が痛い。このパンプスが悪いのか、単に足に合っていないだけかは分からない。だが、帰りは歩くのをやめようと決意するには十分な性能であった。バスに揺られつつ、窓に移った自分の顔を見て、茜はため息をつく。ついつい、化粧も気合を入れてしまった。何なんだろうか。こんなことしても、無駄なのに。無駄でなくて有効であったとしても、それはそれでどうしたら良いのか分からない。それなのにわざわざ早く起きて、何をしているのやら。これが乙女心という奴か。我が事ながら面倒くさい、と茜はもう一度ため息をつく。
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