第6話
茜はくるりと踵を返し、パン屋に入った。夕方が近いせいか、あまり商品が残っていない。ちょっぴり残念な思いで、茜は棚の前を一巡した。まずはずんぐりむっくりしたグラハムパン、これを夕飯にしよう。残ったら朝ごはんにもなる。それと、クリームチーズとオレンジのデニッシュって、めちゃくちゃ美味しそう。夜食かおやつに、いいんじゃないかな。
トングを持った手を伸ばした時、茜の視界の中で不意にデニッシュと理央が重なった。それも、ついさっき見た笑顔の理央だ。理央が笑ったところを見たのは、初めてだった気もする。あまり人と話さないし、とっつきにくい印象の理央だが、笑顔には人懐っこさを感じた。
そう思った瞬間、何故か茜の胸がドキリと跳ねる。待って待って、何で?と自分に問いかけても、よく分からない。そもそも、デニッシュで理央を思い出したのも意味不明だ。理央は日に焼けているから、デニッシュと色が似ているか。いやいや、さすがにこんなにこんがりはしていない。デニッシュは丸型で、理央は割と四角い顔だから形も違う。自分の動揺の原因が皆目見当つかず、茜はひとまずトングを引っ込めた。それから、見るともなしに他の棚を見たりして、しばし黙考する。
「分かった…カロリーだ。」
茜は口の中で呟いた。これから靴を買って運動不足を解消しようというのに、こんなカロリー爆弾を買うのは行動の方向性が逆である。だから、靴を勧めてくれた理央を思い出し、罪悪感でドキリとしたのだ。間違いない。これが正解だ。
デニッシュはやめておこう。茜はすたすたと足早にレジに向かった。
どうも最近、意味不明なドキンが続く。心臓でも悪いのだろうか。血圧が高いとか。茜は夕食にグラハムパンを食べながら考える。まだ若いから、人間ドックなんて受けたことは無い。だが、若さに胡坐をかいていると近い将来しっぺ返しを食らうことくらい、茜にも分かる。少し減塩した方が良いか。お金を掛けずに手軽にできることと言えばそれくらいだ。セロリにマヨネーズを掛けようとして、茜は思いとどまる。
「後は運動だよね。」
何も付けずにぱりぱりと素セロリを齧り、茜は独りうなずいた。今度の休みは、靴を買おう。
次の休日、茜は早速ショッピングモールの靴屋に行き、軽快なウォーキングシューズを購入した。ぱっと見の可愛さとお値段で選んでいた今までの靴に比べて、格段に歩きやすい。試しに自宅の周囲をとことこと小一時間歩いてみたが、全然足が疲れなかった。今までの靴だと、足の裏や足首や脛が痛くなって、すぐ座りたくなったのに。
「餅は餅屋。歩くならウォーキングシューズ。ちょっと違うか。」
独り言を言いながら、古い靴を検分する。茜の住居は狭い賃貸住宅である。そんなに何足も靴を置いてはおけない。これを機にいくつか片付けてしまおうという腹積もりだ。裏返してみると、理央の言ったとおり、靴裏がひどく斜めに擦り減っている。どの靴も同じ様相なので、靴のせいではなくて茜の歩き方が原因だろう。こんなところによく気付いた、と茜は感心する。やはり、いつも体を動かす習慣のある人は、運動に不可欠なところにすぐ目が行くということか。
それにしても、どの靴もよくくたびれている。可愛いと思って選んだはずなのに、しどけなく横に伸び、型崩れし、変なしわもついて、見る影もない。こんな靴を買ったつもりではないのに。多分、靴を作る足型より茜の足が横に広いのだ。だから、靴は変形し、本来持っているはずの魅力的を発揮できなくなる。洋服のマネキンと同じだ。あれも、すらっとして細面のマネキンが着ているから騙されてしまう。いい買い物をしたとホクホクしながら家に帰っても、小柄でぽっちゃりの茜が着た途端に色あせる。
「マネキンも、靴も、ドラム缶みたいな形だと良いのに。そうしたら、着ているところを想像しやすいんだけどな。」
ゴミ袋に古い靴を入れながら、茜は愚痴る。とはいえ、マネキンがぼてぼての三段腹に二重顎だったら、購買意欲が刺激されるかどうか怪しいところである。
着てみたいと思うものと、自分に似合うもの。この二つがあまりにかけ離れている。面倒くさい、と茜はため息をついた。似合わなきゃダメなんだろうか。素敵だと思ったものを身に着けて、素直に喜べばいいんじゃないのか。小さい子は、キャラクターの付いた服や靴を喜んで使う。好きな物に触れることがただ嬉しいのだ。あんな感じで、気に入った服を楽しんで着られたらいいのに。何で自分に「似合わない!」なんてダメ出しをするんだろうか。その「似合わない」は、どこからやって来るのだろう。本当に、絶望的に似合わないなんてことがあるのか。
思考がグルグル回り始めたので、茜は玄関から立ち上がった。広くもない部屋の中を奥へ行き、更に奥地から全然着ていない一着を取り出す。雑誌で見て、店で見て、最高に可愛いと思って奮発した服だ。家で試着してそのままお蔵入りとなったため、タグもそのまま。フリマアプリに出そうと思ったけれど、それも悔しくてできていない、完全なる箪笥の肥やしである。
茜は姿見の前で手早く着替えた。ミントホワイトのアンサンブルニットに、オフホワイトのクロップドパンツ。細くて華奢なモデルさんが着ると、今すぐ海辺のBBQにでも繰り出しそうな溌剌感と、リゾートホテルで優雅にカクテルを傾けそうな上品さが並立していて、茜はズギュウンとハートを射抜かれた。この佇まいなら自分も颯爽と街を歩ける気がした。だが、現実はどうだ。ニットは今すぐ型崩れしそうなくらいピチピチに伸びている。パンツはもちろん太もももふくらはぎもぱっつぱつで、最早タイツと呼ぶにふさわしい。デブが無理して小さい服に肉を詰め込んで、入りきらずにはみ出している。茜は鏡に映る自分を見てそう感じた。こんなの恥ずかしくて、外に出られるわけがない。
「でもなあ…やっぱり、この服好きだな。」
モデルさんのイメージとは違うけれど、可愛いものは可愛い。自信のないボディラインがくっきり出てしまっていて、とても人には見せられないけれど。
「似合うとか似合わないじゃないのかもなあ。もっと年取って、タフな精神を手に入れられたら着られるのかも。」
茜はそっと服を脱いだ。将来、痩せるかもしれないし、そうでなくても、好きな服を好きに着る覚悟ができるかもしれない。大事に取っておこう。丁寧にたたみ直しながら、茜はふと思いつく。
「これ、谷口さんならきっと爽やかに着こなせるなあ。」
このいでたちでクロスバイクを漕いだら、アクティブで有能なOLっぽい。宅配のリュックは省略してほしいが。
「でも、ウェストが合わないよね。谷口さん、細いし。」
ぱたんとクローゼットを閉めてから、茜は更に妄想する。
「だけど、谷口さんなら、紐でウェスト縛って着そうだよね…。」
ベルトでない辺りが茜の妄想の鋭い部分である。茜は知る由もないが、理央は着古したイージーパンツの紐を抜いて、他のパンツでベルトの代わりに使うことがある。
「谷口さんがあの服着て出勤したら、他のパートさんたちが驚くだろうな。」
茜はぐふふと含み笑いをした。特に、飾り気のない娘と理央を重ねて思い悩んでいる千佳子は、びっくり仰天して理央の変わり身についてあれこれ詮索するだろう。でもきっと、理央は相変わらず何も説明することなく速攻で帰っちゃうのだ。何だか、スカッとする。
気分が良くなった茜は、パソコンのスイッチを入れてイラストの仕事に取り掛かった。今日は風景画だ。コンビニのレジ周り、それに病院の待合室。何に使うか知らないけれど、多分無料で視聴できる動画の背景だ。茜の絵の上にキャラクターのイラストを載せて、何か解説したり喧嘩させたり漫才させたりするんだろう。大量生産、大量消費のイラストだ。こんなものは描き慣れているから、やる気を出しさえすれば着々と終えられる。
ぽんぽん、と仕事を終え、茜は伸びをした。すっかり夜だが、まだ少し遊ぶ時間がある。それなら、と茜はまたぞろ江戸風ねこ絵をちまちま描き始めた。仕事もお絵描き、ストレス発散もお絵描きである。いい具合に一枚仕上がったので、SNSに適当にアップしておく。イラストで身を立てたいなら、こういうツールを使って営業しなきゃいけないことは分かっているのだが、それは絵描きとはまた別の才がいるので難しい。気が向いたら絵を上げておく程度で、活用までは至らない。ちょこ、ちょこ、といいねが付くだけで満足してしまう。
布団の中でSNSをチェックしたら、ちょびっとだけいいねが増えていて、茜は充実感に包まれて寝入ってしまった。
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