第5話

 好きな絵を描いているせいか、茜は機嫌が良い。仕事上がりは足取り軽くロッカールームに行き、手際よく着替えた。仕上げにスイっと口紅を。この間買ったばかりのものだ。前回とは少し色を変えた。というのも、商品の在庫が変わっていたから、やむなくそうなった次第である。


「あら、良い色にしたね。夏っぽい。」


隣で着替えていた川田千佳子が言った。なかなか目ざとい。


「少し明るめにして、軽くしました。」


事実をありのままに言うのは面倒なので、適当に話を合わせる。


「若いと良いねえ。私はもう面倒だから、顔なじみのお店でずっと同じやつ。」

「お気に入りの定番があるって、良いじゃないですか。」

「まあ、そうなんだけどね。山本さんはどこでお化粧品買うの?」

「ドラッグストアとかですね。お金が無いですし。」


と答えたが、実は茜の化粧品は100均によるところが大きい。口紅も100均だ。デパートの化粧品売り場で綺麗な売り子さんに試し塗りをしてもらいながら選ぶ、というのをやってみたいが、そんな金は無い。


「若いうちは肌がきれいだから、高級品使わなくたって大丈夫。」

「いやー、もう染みとかありますよー。」


 愛想笑いをしておく。人付き合いは無難に、浅く軽く。これが茜の処世術である。折角ここのパートに慣れたのに、人間関係で躓いて他の仕事を探すのも面倒くさい。着替えが済んだから早く帰りたいのだが、おとなしく千佳子の話に付き合う。千佳子は茜には手の届かない価格帯の化粧品をあれこれと挙げ、あれが欲しいこれも良いよねと喋る。確かに素敵なお品であることは知っているが、茜には縁が無い。円が無い。お、我ながらうまいこと言った、などと胸の内で呟いて茜は時間を潰す。


「うちは息子しかいなくてねー。娘がいたら、こういう話ができるんだろうけど。」


 千佳子は肩をすくめた。あれ、と茜は首をかしげる。娘さんがいると話していなかったっけ。ユミだかユイだか、そんな名前の。


「ああ、有希はねえ、中の人が娘じゃないの。って言うと語弊があるけど。何ていうかなあ、谷口さんみたいな感じかな。」

「ほお」

「化粧や服に全然興味の無い子でね。髪伸ばしたこともないし、ジャージで外歩くし。年頃の女の子なんだから、もう少しまともな格好してほしいんだけどねえ。」

「ええ」

「あれで彼氏はいるのかなあ、聞いたことないけど。彼女はいないみたい。」


最後は笑いながら言う。冗談のつもりだろう。冗談で済んでほしいという願望か。


 不意に千佳子の表情が硬くなったので、茜は後ろを振り返った。理央がロッカールームに入って来たところだった。


「聞かれちゃったかな。」


と小声で言いつつ、千佳子は片頬にぽふんと平手を当てた。理央はいつもどおり超高速で着替えているところで、表情は窺い知れない。


 何となく気まずいので、千佳子と茜はばらばらとロッカールームを後にした。外に出て、やれやれと茜は伸びをする。中の人が娘ではない、か。まあ、娘とガールズトークをしたいという母親の気持ちは分からないでもないが。理央も母親にそう思われているのだろうか。千佳子の娘や理央は、母親にそう思われていることをどう感じるのだろうか。


 茜はぶんぶんと頭を振った。他人のご家庭のことは、考えない。首を突っ込む気もないし、突っ込んで改善されるものでもない。はい、これにてこの話題終了。


 それより、今日は昨日とは打って変わっていい天気だ。そろそろ夏が近いが、まだ風が爽やかだ。運動がてら、少し歩くのも好いかもしれない。茜はバス停1区画分くらい歩こうと決意し、一歩踏み出した。


「山本さん。」


斜め後ろから声が掛かり、茜は振り返った。着替えの早い理央がもう出てきたのだった。


「お煎餅、昨日いただきました。醤油が濃くて、美味しかったです。ありがとうございました。」


ハトのようにピッと軽く頭を下げる。そして、すぐ駐輪場に立ち去ろうとするので、茜は慌てて呼び止めた。


「あっ、谷口さん」

「何ですか?」


キュッと振り向いた顔には、特に表情は無い。さっきの千佳子との会話は、聞いていたのだろうか。


 というか、何故理央を呼び止めたのか。茜は自分でも理由が分からず、言葉を継げないまま口をパクパクさせた。が、いつまでもそうしているわけにはいかない。何か、何か話題。


「あ、あのパン屋さん。あれって、どこにあるんですか?すごくおいしかったので、買いたいんですけど。」

「ああ、この近くですよ。何なら、今から行きますか?歩いて5分もかからないと思いますよ。」

「行きます、行きます。」


 この話の流れで断るのも不自然だ。歩こうと思っていたところだし、茜は即座に食いついた。


「じゃあ、ちょっと待っていてください。自転車取ってきます。」


理央の姿が駐輪場に消え、茜はふっと息を吐いた。こういうことになるから、狭い職場でナイショ話なんてするべきではないのだ。さっきの千佳子との会話は、一旦忘れよう。


「お待たせしました。」


 そう言って現れた理央は、今日も黒い直方体の配達リュックを背負っている。さっきは持っていなかったから、自転車に積んであるのだろう。荷台もかごも無いので、どうやって積んでいるかは茜には分からないが。そう言えば、ロッカーを出るときに持っていた荷物と思しきものは、どうなっているのだろう。後輪の左右に振り分け荷物みたいにくっついているやつか。茜はママチャリしか乗らないので、こういう自転車のことはよく分からない。


「今から配達のお仕事なんですか?」

「そうですね。今日は少しやりながら帰ります。」

「大変ですね。」

「体動かすのが好きなんで、暇つぶしですよ。無目的に動くよりは、ゴールがあった方が面白いので。」


それならスポーツでも良いんじゃないの、と茜は考える。サッカーとかテニスとか、貸しコートで楽しんでいる人は多い。ボルダリングやヨガも流行っている。フィットネスジムもあちこちにできているようだ。


 いや、待て。あのパートだけじゃ生活が成り立たないし、スポーツやジムはお金が掛かるし、配達の方がよっぽど理にかなっている。そういうことだろう。ここは納得した顔で、深入りしないのが吉である。


 しかし、これ以上この話題を進めないとすると、会話が途絶える。中途半端な知り合いと沈黙したまま並んで歩くのは気まずい。茜は何か会話の糸口が無いかと思考をフル回転させる。こういう時は天気が鉄板だが、多分一瞬で終わる。気持ちのいい季節ですね、そうですね、以上終了だ。せいぜい、明日も晴れるそうですよ、そうですか、が続くくらいか。それなら話さない方がなんぼかマシな気がする。


 どうしたものか。何も思いつかないまま、茜は理央の様子を窺った。いつの間にやら、1、2メートルほど置いて行かれている。茜は小走りで追いかける。


「歩くの速かったですか。」


気付いた理央が立ち止まった。何とか追いついた茜は、手をブンブンと横に振って応える。


「いえ、私が運動不足で遅いだけですから。」

「そのようですね。」


 ぐさり、と理央のストレートな言葉に突き刺され、茜は思わず立ち止まった。息も止まった。何ということを言うのだ、こやつは。言い方が痛すぎる。


「あ、すみません。思ったことがすぐ口に出ちゃって。だから、なるべく人と話さないようにしてるんですけど。」


理央はばつの悪そうな顔をして謝った。


「ごめんなさい。もう黙ります。」

「あの、いえ、大丈夫です、黙らなくても。何も気にしてませんから。」


 茜は慌てて打ち消す。このままむっつり黙られる方が空気が重くてやりきれない。何かもっとこう、どうでもいいことを話していてくれた方が助かる。そもそも、運動不足なのは茜が自分で言ったことだし、動かしようのない事実でもある。それを肯定されたからと言って怒るのは、筋違いだろう。たぶん。


「えーと、運動不足って、どうしたら良いんでしょうねえ。」


 運動するんだよ、と茜は自分で自分に心の中で返す。さっきから、発言の出来が悪すぎる。しかし、沈黙が気まずすぎて、一刻も早く何か言いたかったのである。頭を抱えたい気持ちでいっぱいの茜であるが、理央はちらりとその様子を見ただけで何も言わない。黙り続けるつもりなのか、茜の質問が下らな過ぎたのか、しばし間をおいても理央はだんまりである。


 茜はこっそりため息をついた。もう、会話は諦めよう。パン屋の位置さえわかればそれで目標は達成だ。茜が心折れたその時、理央がぼそぼそと話しだした。


「靴が足に合っていない気がします。あと、歩く姿勢が悪いです。」

「へ?」

「靴底の減り方が、すごく偏ってます。肩掛け鞄、いつも同じ側に掛けてませんか?」


言われてみれば、いつも左肩に鞄を掛けているような。無意識すぎてはっきりとは思い出せない。それはともかく、靴底とはなんぞ。茜は立ち止まって、靴の裏を見ようとした。が、身体の硬さとバランス感覚の欠如がたたり、よく分からない。


「危ないですから、家に帰って脱いでから見てください。」

「はい、そうします。」


 茜は素直に返事をした。こんなところでひっくり返りたくはない。


「ええと、だから、靴屋さんで足に合った靴を買って、それから歩いてみてはどうでしょうか。できれば、荷物は無しか、リュックとか左右バランスのいいものにして。」

「形から入るわけですか。」

「運動は形から入るのも大事ですよ。無理に動かすと体のどこかにダメージが返ってきますから。」

「なるほどー。」

「それに、お金出して形整えると、使わないともったいないから、やる気が出ます。」

「なるほど!」


茜はポンと手を打った。そのとおりだ。結構カツカツの生活を送っている茜にとって、新しい靴はそれなりに大きな出費になる。靴屋でしっかり歩きやすい物を選ぶとなれば、なおさらだろう。そこまで準備して埃をかぶせておいたら、自己嫌悪のスパイラルに陥ること間違いなしだ。多分、それが自分の重いお尻を叩いてくれるだろう。さすが、同じパートで飯を食っている理央だけのことはある。茜と共通する心理をお持ちのようだ。


 茜は大いに納得し、幾度もふむふむと頷く。その様子を見ていた理央が、ふっと噴き出した。


「ははは、参考になったみたいで、良かったです。」

「え、あ、はい。」

「パン屋さん、そこです。」


唐突に指をさされ、茜は何とか顔だけそちらに向けた。確かに、パン屋が目の前にあった。


「じゃあ、私はこれで。」

「ああ、案内してくれてありがとうございました。」

「いえ。」


 理央はさっと足を後ろに上げて自転車にまたがった。


「お疲れ様です。」


茜に向かって軽く片手を上げると、理央はまっすぐ前を見据えて風のように駆け抜けて行った。言うことが直球なら、行動は速球だ。目的を達成したら、あっという間に消えてしまった。会議や飲み会の後のように、切り上げ時を掴めないまま何となくたむろするということは理央には無いのだろう。茜は、あの無意味な居残りからうまく抜け出せずにずるずる付き合うタイプである。しかし、ざっくりと切り離してくれて、小気味よいくらいに清々しい。どうやら、自分は思っている以上に、こういうあっさりとした人づきあいが性に合っているのかもしれない。茜は理央の姿がすっかり見えなくなった通りの向こうを眺めながら、一つ頷いた。

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