第4話

 翌日も、茜はパンのお返しを荷物に入れて出勤した。始業前は、暇なし。そのまま厨房へ行き、今日も今日とて麺を茹でまくる。


「おねがいしまーす。」


との声で顔を上げると、ワカメちゃんがワカメ蕎麦の食券を出している。当然、彼は昨日会話を聞かれていたなんて知らない。いつもどおりのワカメだ。こんちくしょう、ワカメの量減らしてやろうかしら。と茜は思うが、気が小さくて真面目な性分なので、それもできず、既定の量を盛り付ける。


「ありがとー。」

「はいよー、まいどねー」


悔しまぎれに、低音ボイスでおばちゃんっぽい返しをしてみる。何の効果があったのか、ワカメちゃんはニコッと笑ってくれた。嬉しいんだか、悲しいんだか、茜はよく分からない。


 昨日の気持ちを引きずっているせいか、今日はいつもよりも疲れた。茜はとぼとぼとした足取りでロッカールームに引き上げる。動きがのろいせいか、既にロッカールームは人口密度の峠を越えた後のようだった。


「はっ、しまったあ…。」


当然、理央もいない。益々、茜の肩が落ちる。やる気が出ないが、最低限の身だしなみは整えるしかない。ロッカーの扉に付いた小さい鏡に映る自分の顔は、どろりと瞳が濁って口角が下がっている。口紅を引き直したって、魔法みたいにきれいになるはずもなく、生活に疲れた年増女そのものだ。


 いや、だからこそ、精いっぱい現状維持に勤めないと、底なし沼に堕ちていくのだ。頑張らないと。茜は己を鼓舞して、化粧ポーチを閉めた。が、そういう時に限ってファスナーが布を噛んで、にっちもさっちもいかなくなる。どうして昨日から何もかもうまく回らないんだろう。イラストのコンペも落ちたし。1枚描くのに何時間かけたと思ってるんだ。全然関係ないことまで思い出して、茜はイライラと自己嫌悪のループに陥る。


 荷物を持ち上げるときに思わずヨイショと口から漏れて、茜はげんなりした。やっぱり、心身ともにおばちゃんらしい。こういう時は空模様まで重苦しくなるらしく、ドアを開けると雨だった。予報の降水確率は確か60%くらいだったが、ドンピシャで来てしまったようだ。


「傘持ってきて良かったよ…。これだけは今日の救いかな。」


 茜はぽんっと傘を開き、バス停に向かった。それなりにしっかり降っている。理央は今日も自転車なのだろうか。またパンが鞄の中に無きゃ良いけど。そんなことを考えながらひと気のない駐輪場の脇を過ぎ、バス停に立つ。この雨ならバスは少し遅れるだろう。


 大して長くもない待ち列の最後尾に着くと、茜は前の傘をしげしげと眺めた。そうしたくなる傘だった。よくある透明のコンビニ傘とは比べるまでもないくらい骨が多く、大振りである。それだけだと紳士用品のようだが、絵柄がそうでもない。青系のグラデーションを背景に「かつを」と書いてあるが、その字がネコでできている。いきいきとポーズをとったネコが何匹も組み合わされ、総体としてひらがなの形になっているのだ。確かこれ、歌川国芳の浮世絵じゃなかったか。こんな傘、どこで買ったんだろう。プリントもなかなか精緻にできている。青の出色も良い。


 イラストレーターだけあって、茜は絵には興味津々である。ついつい傘に見入るうちに近付きすぎ、ぼよんと茜の傘が「かつを」にぶつかってしまった。


「すみません!」


 相手が振り向くより早く反射的に茜は謝る。かつをの持ち主は、傘を心持ち傾けてのんびりとした声を発した。


「ああ、山本さん。山本さんもバスですか。」

「あれ、谷口さん。」


かつをの下から覗いているのは、茜が接触を求めて止まなかった理央であった。


「今日は自転車じゃないんですね。」

「天気予報をちゃんと見てきました。また雨水でパン粥を作るわけにはいきませんからね。」

「今日もパンをお持ちなんですか。」

「ええ、ガッツリ。」


 ガッツリなんだ。良いなあ。あのパンは美味しかった。あ、そうだ。いい機会だから、どこのお店か聞こう。やったね、ラッキー。


 そうじゃなーい!と、心の中で茜は自分をしばいた。バスが来る前に、急いで荷物から袋を取り出す。


「この前立派なパンを頂いてしまったので、これ、お返しにどうぞ。」

「そうですか。では、ありがたく頂戴します。」


理央はさらっとモノを受け取った。


 こういうとき、遠慮や過剰な忖度、あるいは儀礼的に、押し付け合いのような問答になることが多い。「これどうぞ」「おや、そんなつもりじゃなかったのに、悪いなあ」「いえいえ、ほんの気持ちですから」「気を遣わせちゃって、申し訳ありません」「そんなこと気になさらないで」「でも、頂けないですよ。大したことしてないし」「そんな、こちらもつまらないものですから、ぜひ」「じゃあ、本当に良いのかしらん」「ええ、どうぞどうぞ」「じゃあ、遠慮なく頂きますね」なんて。なっが。うざ。


 どうせ無駄な問答をしたって最終的には受け取るんだから、こういうので良いんだよ。理央のあっさりとした物腰に、茜はすっと胸のすく思いである。


「わ、おっきなお煎餅。めっちゃおいしそう。」


 袋の中身を除いていた理央がぼそりと呟いた。餅屋で買った、特大煎餅である。直径が30センチくらいある。煎餅の生地が良くできているのは当然のこととして、たまり醤油の二度掛けで、シンプルながら飽きのこない味わいなのだ。ミニサイズの海苔が散らされているのも心憎い。


「それ、食べだすと止まらないんです。」

「山本さん、これ一気に食べちゃうんですか?」


 不思議そうに問われて、茜は言葉に詰まった。しまった。うっかり、口を滑らせた。普通の人は、このサイズの煎餅を一気食いすることは無いだろう。茜はでんぷん大好きなので、ぺろりと食べてしまう。だから太るのだが、だって、美味しいんだもん。とはいえ、大ぐらいであることはあまり人に言いたくはない。ぽっちゃり体系なのは見れば分かるが、それとこれとは別問題なのだ。


 気の利いた返しも思いつかず、茜は黙り込んだ。その様子に気付いたのか、気付いていないのか、理央はほうとため息をついた。


「顎が丈夫で、良いなあ。ぱっと見、華奢なのに。筋肉の質が良いのかな。」

「へ?」

「私は固いものがあんまり得意でなくて。スルメとかタコとか、本当は好きなんですけど、顎が疲れちゃうんですよね。」


煎餅なら割れば噛みやすいか、などとぶつぶつ独り言を続ける理央を、茜はぼんやりと眺めた。人生で華奢と言われたのは初めてではあるまいか。茜は身体と相応に首から上もふくよかである。首はずんぐりむっちりし、顔もぽてっと丸っこい。鏡に映る自分を見て、顎が細いと思ったことは無い。どこをどう見たら華奢なんだろうか。斜め後ろとか、自分では見えないアングルだとそういう見え方もあるのだろうか。その方向からプロフ写真撮りたい。


「あの、私、華奢ですか?」


 思わず茜は理央に問い質していた。パン屋は後回しになっている。


「そうですね。ここの骨の作りが。私だとエラ張ってますけど、山本さんはシュッと切れてます。」


理央はそう言いながら、自分の耳の下から顎にかけてつっと指で撫でた。理央には贅肉は付いていないが、自分で表したとおり、骨張った四角い顔立ちだ。茜も自分の顔を撫でてみるが、こちらはぷにぷにしているばかりである。このぷにが消えたら、シュッと切れ長になるのか?信じられない。


「あ、バス来ましたね。山本さんもあれですか?」


 理央が道路の向こうに目を向けた。顎に指をあてたまま茜もそちらを見る。丁度信号が青に変わって、バスが滑り込んでくるところだった。


「私、違う路線です。」

「そうですか。では、お疲れさまでした。お煎餅ありがとうございます。」


理央はかつをの下で軽く頭を下げ、バスに乗り込んでいった。茜は乗車口から離れつつ、それを見送る。パンと傘の購入先を聞くのを忘れた、ということに気付いたのは、自分も別のバスに乗ってからだった。


 その夜、茜は特に意味もなく和風の絵柄のイラストを描き散らした。先日入っていた仕事はもう納品し、期限と実力と報酬のつり合いが取れるコンペも見つからない。平たく言えば、今は暇なのだ。


「華奢…華奢かあ。」


 茜は何度も口の中で言葉を転がして、にやける。ワカメなんて、どっかいけ。今、私はいい気分なのだ。


 かつをに触発され、広重風のネコを描く。それだけではつまらないので、番傘を持たせてみたり、天秤棒を担がせたりしてみる。が、うまく描けない。茜は江戸時代の風俗に詳しいわけではない。時代劇や大河ドラマもあまり見ない。何となくのイメージしかないのだ。ネットで検索すれば雰囲気は分かるが、あくまで参考程度にしかならない。こりゃいかんね、と茜は自分で自分の頭をはたいた。今度の休みは図書館に行って、資料を借りてこよう。


 いつもは、発注先の要望に沿って、あるいはコンペで勝てるように、絵を作る。見た一瞬後には忘れ去られる、役所の広報誌みたいなザ・無難カット。企業や個人のロゴ。中世ヨーロッパ風の背景。意地悪な姑と浮気する夫に逆襲する妻。不自然なほどの巨乳を強調する少女や、ほぼ裸の美男子同士が絡み合うのも描いた。グロ系は得意じゃないが、ゾンビ絵でも一度稼いだ。どれも描きたいものではないが、仕事を選べる立場じゃないので仕方がない。


 それに比べると、お金にはならないが好きな物を描くのは気分が良い。まして、生まれて初めて華奢と言われた後となれば、最高だ。仕事でない方がやる気が出るというこの性分、何とかならないものか。と思いつつ、やはり絵を描くのは楽しいのである。


 それからというもの、茜は副業程度の本業そっちのけで和風ネコイラストを描いて過ごした。図書館でどっさりと資料を借り、禁帯出の本はコピーまで撮って、なかなかの腰の入れようである。


 それでも、パート中にワカメちゃんが麺を注文しに来ると、いまだにちょっぴりドキリとする。とはいえ、このドキリの正体はよく分からないまま棚上げになっている。でぶと思われていることに心が痛むのか、おばちゃんと呼ばれてガッカリ来ているのか、それでも好きと言われたことが素直に嬉しいのか。何となく、どれも近いようでいて本丸から外れている感じがするのだ。


 まあ、何でも良い。どの道、ワカメちゃんはあと何年も経たないうちに卒業して、学内からも茜の生活からも消える。そうしたら、このドキリも自然消滅だ。


「はいよ、おまっとーさん。」


今日も今日とて、大衆食堂のおばちゃんを演じた声を出す。一種のファンサービスってやつ。こんなつたない演技で喜んでもらえるなら、安いものである。

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