第3話

 仕事を終えた茜はいつもよりも急いでロッカールームに向かった。理央に合わせて茜も出たい。何しろ、人目の多い場所でお返しを渡したくはない。事情を説明するのは面倒くさいし、変なことを勘繰られたら煩わしい。一風変わっている理央と特別に親しい間柄だと思われるのは、悪目立ちしたくない茜にとっては大きなリスクだ。この種の人間関係のうっとうしさは、小学校の頃から存在する。どこにいっても永遠に続くのだろうか。うんざりする。


 幸い、茜が着替え始めた時にはまだ理央はいなかった。少し時間に余裕がありそうだ。だが、油断はできない。ほら、ふと気が付くと、部屋の隙間に理央が滑り込んできている。と思う間もなく、すぐに着替えを終えてしまった。茜は化粧直しを諦め、手櫛で髪を整えながら荷物を引っ掴んで飛び出した。


 茜は辺りを見回したが、扉の外にはすでに理央の影は無い。早すぎるだろ、とつい舌打ちをする。


「そういえば、自転車だって言ってたような。」


昨日の会話を思い出し、茜は自転車置き場に向かった。キャンパス内には公式・非公式の自転車置き場が散在していて、理央がどこを利用しているかは不明だ。とりあえず、一番近いところに行ってみる。


「お疲れさまでーす。」


 急に声を掛けられた茜が顔を上げると、クロスバイクにまたがった理央が滑り出て行った。背中には、黒い直方体のリュック。料理配達のあれだ。茜は反射的に会釈して挨拶を返したものの、呼び留める隙は見いだせなかった。


 結局、朝急いで仕入れたモノはそのままお持ち帰りとなった。日持ちはするから後日でも良いのだが、釈然としない思いが残る。茜は昨日残したパンをもりもりと食べながら、明日こそと決意した。


 ところが、翌日は理央の出勤日ではなかった。そう言えばそうじゃん、と茹で釜の前に立ってから茜は気づき、がっくりとうなだれる。お互いに出勤曜日は固定なのだから、事前に分かっているはずなのに。兎に角渡さなければと気が急いて、視野が狭くなっていた。自分の迂闊さと、無駄に荷物の中でかさばるモノとに苛まれ、茜は憂鬱になる。こういう時は、単調に忙しいと下らないことを考えずに済むから助かる。茜は粛々淡々とオートメーション装置のように麺を拵えた。


 仕事を終え、時間があるからいつもどおりに化粧と髪形を直してから外に出る。すると、一気に視界の中の人間の平均年齢が下がる。だらけていても、お喋りしていても、存在そのものから若さがあふれ出て、そのことに無自覚な大学生たち。すっぴんにカットソーとジーパンの垢ぬけない女の子でさえ、茜より眩しい。そして、誰も茜のことなど気にも留めない。茜から化粧とよそ行きの服が無くなっても、多分あの子たちの態度は何も変わらないだろう。誰の目を気にして、化粧をしているのやら。多分、ただの自意識過剰だ。でも、やめられない。


 茜はため息をついて、荷物を持ち直した。明日は理央と出勤が重なるはずだから、またこの荷物を持ってこないと。面倒だ。パンをもらってからもう数日経ってしまったのも痛い。変な人だと思われそうだ。空腹になると、茜は思考が落ち込んでいく。


 とぼとぼとうつむき加減で茜はバス停に向かう。と、横から聞き覚えのある声が耳に入った。何の考えも無しにそちらに目を向けると、ワカメちゃんが友達と談笑しているところであった。とっさに茜は物陰に身を隠した。何故か分からない。だが、制服とマスク無しの姿を見られるのは、何となく恥ずかしかった。


「ハラヘッター。それ1個くれよ。」


 ワカメちゃん、お腹が空いているらしい。確か、今日もワカメうどんだった。そりゃ、あの年頃の男子の昼がワカメうどん一杯では、すぐにお腹もすくだろう。茜がそう考えると、ワカメちゃんの友達も同じようなことを言った。ワカメちゃんと一緒に食堂に来て、彼の昼食を目撃していたのだろう。


「ワカメうどん食うくらいなら、同じ値段の卵とじ丼の方がよくね?」


うんうん、と茜も物陰でうなずく。自分ならそうする。特に、この食堂の麺は冷凍でなくて茹で麺だ。歯ごたえもなくふにゃふにゃ。ご飯の方が美味しい。


「麺のおばちゃんが好きなんだよ。」


 ワカメちゃんのこの発言を聞いて、茜はドキッとした。麺のおばちゃんとは、自分のことか。自分が話題に出たことも、好きと言われたことも、心臓を跳ねあがらせるには十分な衝撃だ。だが、おばちゃんという呼称もずしんと響く。そりゃ、多くの大学生よりは年上ではあるが、茜はまだ三十路前である。姪や甥、子どももいないから、おばちゃんと呼ばれたことは無い。茜はドキドキともやもやで苦しくなって、眉根をぎゅっと寄せた。


「どういうこと?」

「ほら、麺のおばちゃん、太ってて背低いじゃん。いかにも大衆食堂のおばちゃんって感じでさ。ああいう人が作ってると旨そうに感じるんだよね。」

「大衆食堂ならそうかもしれんけど、学食じゃ誰が作っても同じだろ。」

「気持ち、気持ち。逆に味噌汁の人とか、苦手なんだよね。」

「お前、よく見分けが付くな。麺のでぶは分かるけど、味噌汁の人は分からんわ。」


 味噌汁の人は、おそらく理央である。理央は平均的な身長で、やや細身ではあるが制服を着るとそれはよく分からなくなる。茜であっても、遠目にはその他のパート女性と区別できない。


 それはともかく、大衆食堂のおばちゃんに、麺のでぶときたか。


 確かに、茜は制服とマスクと帽子でも隠しきれない小太り体形である。肥満一歩手前である。だが、面と向かってでぶと罵倒されて黙っていられようか。


 いや、面と向かっていないか。蔭口なら、きっと他の誰かも口の端に登らせている。茜がいないロッカールームでは、おばさまたちも茜をおデブちゃんと呼んでいるかもしれない。それを阻止する気力も自信も、茜には無い。言われたとおり、自分はでぶ…いや、ぽっちゃりである。否定のしようがない。


 茜は、ついさきほどの心臓のドキドキが収まらないまま、気持ちだけがずーんと沈むのを感じた。妙な感覚だ。高揚しているのに、落ち込んでいく。ただ、身体が動かない。正論を言えば、他人の体形や年齢を揶揄するような発言をする彼らは間違っている。だからと言って、茜の心が軽くなるわけではない。


 茜はしばらくその場に立って、ぼんやりとしていた。ワカメちゃんと友人の声はとうに遠ざかり、見知らぬ学生や教員が忙しなく行き交う。動き出すきっかけがつかめない。どうしたら良いのかな。


 その時、目の前でびちゃっと何かが落ちる音がした。足元を見ると、鳥の糞である。カラスなのか、ハトなのか、ムクドリなのか、茜の知識では糞から推測することはできない。見あげてみたが、鳥の姿はすでにない。


「やれやれ。直撃しなかっただけ、運がいいか。ウンだけに…つまんね。」


自分で言って、自分に突っ込み、茜は漸くバス停に向かって動き出した。

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