第2話
とりあえず、今日はもう帰ってパンを食べよう。この雨ではスーパーに寄り道する気も起きないから、あり合わせで何とか。茜はパンの入ったカバンに雨粒が掛からないよう、体の真ん中に抱えこんだ。微かにいい香りがする。雨の憂鬱さが、パンの香りで少し軽くなる。茜はふふんとひとフレーズだけ鼻歌を歌い、バス停に向かった。
茜が家に帰り着く頃には、案の定靴の中まで水が染み、服も全身じっとり湿っていた。無事だったのは、両腕で必死にガードしたパンだけである。
凝ったことをする気力は雨とともに流れてしまった。ので、とりあえず食べる分だけパンをスライスする。その隙に目玉焼きを作って、ハムとスライスチーズと一緒に、マーガリンを塗ったパンで挟む。野菜は挟んでもこぼれるので、端から諦めて別途サラダを拵える。といっても、レタスを手でびりびりに破り、ベビーリーフ代わりの小松菜をまた手でぶちぶちちぎり、丼の中でざっくり混ぜるだけだ。キュウリはスライスとかめんどくさいので、洗ってそのまま葉っぱ類の中に突き立てる。あとは、お湯を沸かして、かぼちゃのポタージュスープをマグカップに溶けば、あーらよっと。モーニングみたいな夕飯の出来上がりだ。
「いただきまーす。」
茜は豪快に口を開けて、サンドイッチにかぶりついた。誰に気兼ねする必要もない、一人暮らしだ。心置きなく食事を楽しめる。卵の黄身が垂れたって、構うものか。
「うまひー」
気の利いた表現はできないが、美味しいパンだ。ちょっと酸味があるから、ライ麦が入っているのかもしれない。それがハムやチーズの塩気と混ざって美味しいのだ。卵を足したのは、蛇足だったかも。シンプルにパンの味を楽しんだ方が良いかな。
「どこで買ったんだろ。」
お行儀が悪くても、咎める者とていない。茜はぼりぼりとキュウリを齧りながら部屋を移動し、パンの紙袋を持ってきた。だが、紙袋には何の印刷もなく、うっかりレシートが混入しているということもない。どこのパン屋の出やら、全く見当がつかない。
「まあ、いっか。おいしい。」
物足りなくて、茜は追加でもう少しスライスした。今度は厚めである。トースターでこんがり焼いたところにシンプルにバターを乗っける。
「これがあると無いとじゃ、大違い。」
ごりごりと黒コショウを挽き、パンに掛ける。食卓代わりの座卓まで持って行くのももどかしく、台所に立ったまま茜は大きく一口噛り付いた。バターの塩気と脂と、パンの焦げてカリカリなところ、中のふわっとした部分、それに黒コショウ。口いっぱいに広がる、幸福。
「うますぎるー」
無我夢中でペッパー・バター・トーストにむしゃぶりつき、結局最後まで台所で立ち食いとなってしまった。
「だが、後悔など無い。うまかった。」
茜は断言し、腹を撫でた。さすがにおなかいっぱいである。我が子のように大事に抱えてきた半球が、さらに半分になっている。苦労して持ち帰った甲斐があった。理央がパンのお浸し雨露風味を製造せずに済んで良かった。
「残りは明日食べよ。たしかソーセージがあったよね。それ焼いて、カレースープ作って…。いや、待て待て。甘い系も試したいなあ。」
満腹なのに、次のメニューを妄想してしまう。
「このパン、また買ってきてくれないかなあ。」
そこまで考えて、茜はハッと気づいた。こんなに美味しくて、大きなパンだ。コンビニの菓子パンとは違う。それなりにお値段も張るだろう。同じパートなのだから、理央の収入のほどは見当が付く。はっきり言って、苦しい。おばさま方のように配偶者の収入が家計のメインとして立っているならまだしも、あのパートだけで生活するのは無理である。そして、人づてに聞いた情報だが、理央は一人暮らしのはず。真っ当な会社の正社員だったらパン屋のパンを買うくらいどうってことは無いだろうが、少なくともパートの茜なら悩むところだ。理央にとっても、思い切った贅沢だったかもしれない。ただでもらっておいて「めっちゃおいしかったですう~」なんてアホっぽい報告して終わりでは、申し訳ない。
しかし、明日になってお金払いますと申し出るのも、あまりにタイミングを逸しすぎだ。では、何か代わりにお礼の品を渡すか。じゃあ、何を?いくらくらいが適正?いつ渡すの?なんて言えば良い?
「うっわー、めんどくっさー。」
ぐるぐると検討事項が頭の中で渦を巻き、茜はごろりと床にひっくり返った。こんなことならもらわなきゃ良かった、という思いがよぎる。でも、あの時は急な展開で、考える暇がなかった。パンももったいなかったし。それにしても、台所に残っているパンの存在が重い。
「あー、こんな気分のときは、仕事したくないなあ。」
茜は副業でイラストを描いている。いや、そっちがメインだ。と言いたいが、そう胸を張れるほど仕事が無いので、単純な金額だけで判断すればイラストは副業となる。昼前から夕方手前まで食堂で働き、帰ってから深夜まで絵を描く。イラストの仕事がもっとあればパートはしないのだが、やはり安定した収入があるとないとでは精神の健全性がまるで違う。しばらくは辞められないだろう。
「あ、そうか。今仕事があるんだった。これが上がれば、臨時収入だよね…。」
メイン業務を臨時収入と呼んでいる時点で、茜のイラスト業の閑古鳥っぷりが窺える。
それはともかく、翌日、茜は出勤前にお気に入りの和菓子屋に寄った。ここは本業は餅屋であるが、煎餅やあられ、生菓子も売っている。そして、何しろ餅は餅屋なので、餅を多用したその菓子類がめっぽうおいしい。パンのお返しをここで仕入れようというのである。買うものはもう決めてある。昨晩、イラストの色調をいじりながら考えておいた。そうしないと、ああだこうだと考え出して時間が無くなる。
さっさと渡してこの件は解決したかったのだが、生憎と今日も今日とて始業前のロッカー室はみちみち。仕事前にはその暇がなかった。ゆでそばを鍋に突っ込んだり出したり、だし汁をぶっかけたりする間も、宿題が棚上げなので茜は落ち着かない。何でこの学生どもは、いくらでも食えるし食っても太らない年頃なのにかけ蕎麦なんて食べてんの。キツネくらい入れなさいよ。どうでもいいツッコミがマスクの中で漏れる。
無駄にイライラを募らせていると、ワカメ蕎麦の食券が目に飛び込んできた。もしやと思うと、目の前にはふわふわとボリュームのある天然パーマを自然のまま伸びやかにうねらせる青年が立っていた。長髪というほどではないが、これで銀行の就職面接を受けるのは無謀だろう。しかし、そんな大人社会のつまらない枠組みにとらわれない自由な空気が、この髪質には良く似合う。一度でも見れば記憶に残る頭の青年を、茜は心の中でワカメちゃんと呼んでいる。何しろこのワカメちゃん、しょっちゅうワカメ蕎麦かワカメうどんを食べるのだ。
「ありがとー」
どんぶりを受け取ると、ちゃんとお礼を言ってくれるのも魅力的だ。ほとんどの人間は一言も発しない。目も合わせない。まあ、茜も外食の際に、相手の目を見てありがとうございますなんて絶対やらないし、必要だとも思わない。店はモノを提供する。客は金を払って受け取る。接客なんてロボットにだってできるんだから、店と客のコミュニケーションなんて元来不要なのだ。と、客側の時はそう感じるのだが、店側に立つとこの一言のありがとうが嬉しいのだから現金なものである。うっすら積もったままだったイライラは消え、茜はせっせとかけ蕎麦製作に勤しんだ。
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