パンとワカメ

菊姫 新政

第1話

 午後三時。夕方と呼ぶには早く、昼にしては遅い。この時間は何と呼ぶのが適当なんだろう。


 片づけを終え、ロッカー室に向かいながら山本茜は考える。考えても考えなくてもいい、答えをスマホで調べるまでもない疑問だ。たぶん、着替える間に忘れる。


 ロッカー室には茜より早めに上った人たちが溢れていた。元々広くない部屋だ。昼対応のパートのシフトは11時から15時なので、その頃には決まって部屋の人口密度が上がる。そこに、他の時間帯で働く人の出退勤が加わるともう満杯となる。いや、満杯ならまだしも、待たなければならないこともしばしばだ。これって、労働基準法とか、ああいう法律的にはどうなの。茜はまたちらりと考えるが、これもおそらく着替える間に忘れる。違法だとしても自分で訴えるのはめんどくさいし、やり方も分からない。訴えたって、どうせすぐには対応してもらえないし、うるさい奴と思われるのが関の山。パート仲間にだって、変な人だと思われるだろう。そんなリスクは犯さず、大人しく待った方が良い。


 とはいえ手持ち無沙汰なので、茜は先にお手洗いを済ませることにした。こちらはそれなりに空いていたので、ゆっくりと息をつく。仕事中は帽子とマスクを着用しているので、髪形が乱れる。茜は鏡の前でさっと髪を整えた。職場は女性、それも中高年の女性ばかりで、誰に見せるアテも無いのだけれど。女子として、やはり帽子を取った形そのままのぺしゃんこボサボサでは外を歩けない。


 そうこうしていると、今度はトイレが混み始めた。着替え終わった人たちが移動してきたのだろう。調理担当は専用トイレしか使用できないので、どうしてもトイレも混みやすい。茜はそそくさとトイレを後にし、ロッカー室に入った。制服を着替え、ロッカーに付いている小さな鏡で確認しながら、薄めの口紅を引く。さすがに、マスクの下で口紅は付けないので、いつもこうして仕事を終えてからになる。


「山本さんは、いつもちゃんとしてるねえ。」


 隣で荷物をまとめていた川田千佳子が茜に言った。千佳子は茜より5年ほど前にパートに入ったベテランである。年齢は聞いたことが無いが、見た目では50歳前後というところだ。違っていたら失礼なので、とても茜の口からは確かめられない。


「全身着替えちゃうのに、お化粧もしっかりするし、ちゃんとした服も着てくるし。私なんか、つい、楽な服にしちゃうからねえ。このパンツも、ウエスト総ゴムだもん。」

「え、そうなんですか。でも、十分整って見えますよ。それにそのカーディガン、ANCHORの新作ですよね。」

「あ、分かる?若いのに、こんなおばちゃんブランドも知ってるんだ。さっすが~。これね、色が気に入って、つい衝動買いしっちゃった。パート代吹っ飛んだわー。」


 そう言ってケラケラ笑っていた千佳子は、ふっと笑みを消した。どこか咎めるような色を含んだ視線がすーっと何かを追う。茜もそちらを見ると、谷口理央がロッカーを開けたところだった。それを皮切りに理央は流れ作業のようにてきぱきと着替えを済ませてしまう。茜が口紅を化粧ポーチに片付けたのと前後して、理央はロッカーの扉を閉めた。


「お疲れさまでした。お先に失礼します。」


 軽く会釈をして、理央はロッカールームから姿を消す。もちろん、化粧直しなんてしない。というか、茜は理央が化粧をしているところを見たことが無い。いつもすっぴんだ。眉毛も多分お手入れしておらず、自由気ままに伸び放題。髪もどこで切っているのか不思議なくらい無造作なショートカットだ。自分で切っているんじゃないか、と茜は疑っている。


「谷口さんは、山本さんとは正反対だねえ。身なりに構わないというか。いっつも、クタクタのシャツとパンツだし、お化粧もしないし。」

「そうですねえ。」


 もっとはっきりと何かを言いたそうな千佳子の言葉に、内心どうでもいいと思いながらも、茜は相槌を打った。谷口理央は確かに風変りではあるが、勤務態度には全く問題は無いし、重いもの・臭いもの・汚いものも積極的に片付ける。パート仲間としては理想的な部類に入るだろう。どうせ仕事中は皆一緒の制服で、帽子とマスクで顔も見えやしないのだから、理央がボロを着た坊主であろうとロリータギャルだろうと、茜には関係無い。


 それならば、何故自分は化粧に手を抜かず、そのまま気の利いたカフェでデートでもできそうな服を着てくるのか。茜だって、ジャージだろうと浴衣だろうと構わないはずなのに。


 それはやはり、自分の中の芯を支えるためだ。身繕いをすると、しゃんと背筋が伸びる気持ちがする。人は身にまとうもので気持ちのありようが変わるものだ。だらけた格好では、だらけた気分になる。例え大学生協の食堂のパートであろうと、それではいけない。茹でうどんを湯に放り込むだけであっても、気を抜いていたら自分自身がふにゃふにゃのうどんのような腰の無い人間に堕ちてしまう。人間らしくあるためには、矜持を持たなければ。


 などと高い次元の理由を考えた茜だったが、本当はそうではない。すっぴんが怖いだけだ。職場までは、家から少し歩いてバスに乗る。コンビニやスーパーに寄ったりもする。その過程のどこにでも他人がいる。一度でも化粧をすると、もうすっぴんには戻れない。あんな顔を人目にさらすなんて、絶対無理。そうやって化粧をしっかり施すと、ジャージでは均衡が取れなくなる。必然的に、服装もおしゃれになる。


「じゃあ、お疲れさま。また明日。」


 千佳子が軽く手を振ってロッカールームを出ていく。手にはぺらぺら素材のエコバッグと、安っぽい合皮のハンドバッグ。いくら有名ブランドの新作を着ていても、釣り合っていない。谷口理央をどうこうと批判するほどのものだろうか。全体のまとまりだけで言えば、理央の方が上だ。


 と考えて、茜はため息をついた。そうやって千佳子を批判するのもまた、自分にはおこがましいことだろう。大したファッションセンスがあるわけでなし。


 また千佳子と顔を合わせるのも億劫なので、茜は敢えてゆっくりと荷物をまとめて、スマホを確認し、時間を潰してから外に向かった。ドアを開けると、外はひどい雨模様だった。朝方はまだ曇りだったのに。天気予報で聞いていたこととはいえ、気が滅入る。茜は鞄から折りたたみ傘を取り出した。この降りっぷりでは、小さい傘を差してもびしょ濡れになるだろう。無いよりはマシだけれど。


 溜め息を尽きつつ傘を広げたところで、茜は誰かが空を見上げてじっと固まっているのに気付いた。茜よりも随分先に外に出たはずの理央だった。


「あれ、谷口さん。どうかしましたか。」


茜が声をかけると、理央はハトが首を動かすようにキュッと振り返った。


「ああ、山本さん。実は、雨具を持ってくるのを忘れまして。雨脚が弱まらないかなーって期待してたんですけど、難しそうですね。」

「そうですねえ。深夜までしっかり雨だって予報でしたよ。」


傘を購買で買えと言うべきか、相合傘を申し出るか、茜は迷ってどちらも不採用とする。他愛のない雑談はするけれど、大して仲が良いわけでもない。それに、実際のところ、茜の折り畳み傘は一人でも心もとないサイズだ。どの道濡れるのに無駄に肩を寄せ合っても、かえって気詰まりかもしれない。向こうから言われたら承諾するが、こちらから申し出るのはやめておこう。


 とはいえ、ここで「ほな、さいなら!」と傘を広げて堂々と別れるのも気まずい。まあ、他のパートが周りにいないところを見ると、皆はさばさばと理央を置いて帰ったのだろう。理央が茜に帰宅を促すようなことを言ってくれたら、気が楽になるのだが。茜はどっちつかずな状態で傘の取っ手をこねくり回す。


「そろそろ諦めます。帰ってから風呂入ればいいだけですしね。じゃ。」


 茜の煩悶に気付いた様子もなく、理央は唐突に雨の中に一歩踏み出した。茜はちょっぴりほっとしてそれを眺めていたが、理央は数歩進んでからすぐに引き返してきた。


「忘れてた。山本さんってパン好きですか?」

「へ?あ、はい。好きです。」

「じゃあ、これ、食べてください。」


理央は背中のリュックをおろして、中から紙袋を取り出した。反射的に受け取った茜が中を覗き込むと、半球形のハードパンがおいしそうな香りをほんのりと漂わせていた。


「今朝来る前に買ったんですけど、紙袋ですからね。たぶん、家に着く頃にはパン粥みたいになっちゃうでしょう。」

「確かに、そうかもですねえ。えっと、ありがとうございます。おいしそう。」

「こちらこそ、もったいないし、もらってくれて助かります。じゃ、そういうことで。」


 さっと片手を上げて、理央は再び雨の中に飛び出した。


「あ、谷口さん、バス停まででよければ傘一緒にどうですか?」


パンをもらった影響か、茜は思わず声をかけていた。理央はまたハトのようにキュッと振り向く。


「自転車なんで、大丈夫です。」

「むしろそれ、大丈夫じゃないんじゃないの…」


茜の独り言は雨音にかき消され、理央は自転車置き場に向かって走って行った。

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