第9話

 後に残された茜はというと、謎のドキドキが再来していた。ワカメちゃん案件でもないのに、またぞろ心臓が不穏にジャンピングを続けている。とりあえず、熱中症だといけないので日陰へ行く。何故このタイミングで心拍数が上がっているのか、理由が分からない。ワカメちゃんと、理央には共通点があるのか?見てくれも性別も何もかも違い過ぎるが。


「まさか…他人との会話そのものが欠乏しているということ、か…?」


 パート仲間とはあまり雑談をしない。千佳子との会話のように、当たり障りのない相槌を返すだけで終始する。言葉のキャッチボールとは程遠い、心も何もこもっていないロボットワークである。友達とはSNSでやりとりし、イラストの発注元との連絡は専用のチャットソフトばかり。電話などの音声通話すら、日常から消えている。声を出し、頭で考え、人と話す。この能力が著しく低下していて、たまに人間らしい会話を求められると緊張するのではないか。


 なんてこったい。人間としての基礎能力が落ちているのか。乙女心がこじれるより、始末に負えない。ストレスをワカメちゃん及びその友達に責任転嫁して、申し訳なかった。それもこれも、対人能力が底辺に堕ちているせいなのだ。今度ワカメ蕎麦を注文されたら、ほんの少しだけ多めにワカメを載せてあげよう。


 茜はドキドキしながらしょんぼりし、複雑な面持ちのまま理央と連れ立って歩いた。かき氷屋は大学からは近いが、住宅街の細い道をくねくねと入り込んだところにあり、バスで通勤する茜では到底発見できなさそうな立地だった。それでも、近所の住人か、SNSで釣り込まれた人か、それなりに客足は多いようだ。


「本業は氷屋だそうです。かき氷でなくて、塊の。なので、氷本体が美味しいです。」

「へえー。」


 理央の説明に、改めて店の外観を眺める。年季の入った木の看板に、八百萬氷店との黒い文字が読める。氷を売るという商売がピンとこないが、ロック氷の原料とか、氷像の素材とか、そういうことだろうか。家庭に電気の冷蔵庫が無かった大昔は、木の箱に氷を入れて保冷庫にしていたらしいが。


 とにもかくにも、かき氷だ。周りを見ると、ご高齢の方は宇治金時にミルクを掛けて召し上がっている。子どもたちは伝統的な赤いのが多いが、黄色やピンクもいる。あの茶色は何だろう。お祭りでかき氷を買うと、シロップ掛け放題なので、全部の味を混ぜて色も香りも味もしっちゃかめっちゃかにしたものだったが。


 やはりここは王道の、イチゴミルクにするか。と考えてから、茜は理央の後ろに並ぶ。理央は何にするのだろうか。


「せんじ一つ。」


理央の注文を聞いて、茜は首をかしげた。聞き慣れない名前だ。だが、メニューの札を見ると確かにせんじと書いてある。戦時?意味不明だ。ならば、煎じる?しかし、お茶系なら宇治がある。正体が分からないでいるうちに、ぐいーんと電動で削られた山盛りの氷がとんと置かれた。しかし、シロップの色が無い。素氷なのかとも思ったが、よく目を凝らすと表面が一部溶けているから、透明なシロップが掛けられているのかもしれない。


「みぞれ?」

「はい、せんじ一丁!」


 しまった。独り言がオーダーとして通ってしまった。しかも、勝手に翻訳されている。どうやら、この店におけるせんじとは、透明な蜜のことらしい。茜の家ではそれをみぞれと呼んでいた。


 イチゴミルクのつもりだったが、まあ、いいや。氷が美味しいというのだから、まずはストレートにそのお味を楽しみましょうか。茜は真っ白な氷の山を受け取って、ボロボロの椅子に座った。看板と同じくらい、いすや机も年季が入っている。どこで拾って来たのか、小学校でよく使われている、木と金属パイプでできたアレだ。木の部分は風雨のせいかすっかり光沢を失い、木目がザラザラと肌に当たる。


 なんだか不思議な店だなあ、とノスタルジーのような物を感じながら、茜はスプーンで氷をすくって口に入れた。


「うまい!」


氷に味なんてないだろうと思っていたのに、美味しい。びっくりして更にもう一口食べたが、やっぱり美味しい。間違いない。氷には美味しいのと美味しくないのがあるのだ。ぱくぱくぱく、と勢いづいて口に放り込み、うっかり頭が痛くなる。


「いたー」


 こめかみを押さえていたら、笑い声が聞こえて茜は我に返った。そう言えば、理央と一緒なんだった。かき氷のすばらしさに、一瞬その存在を忘れていた。


「すみません、卑しくて。」

「いえいえ。美味しいですよね。かき氷って、こうやって外でのんびり食べると最高です。」

「確かに。」


喫茶店のクーラーの中で食べるかき氷は、すぐに身体が冷えてしまって持てあます。店に入った瞬間の暑さで注文してしまいがちだが、結局寒さに震えながら溶けかけの甘ったるい砂糖水をすすることになって後悔するのだ。それに対して、蒸し暑い外気に包まれながら露店でかき氷を食べるのは、体の底から美味しいと感じる。お値段も格安だし、絶対また来る。茜は既に決意を固めていた。


「うちではこの色の無いかき氷、みぞれって言うんです。せんじが何か、分からなかった。」

「我が家ではすいって呼んでました。友達は白みつでしたね。」

「あー、白みつは、そのまんまですね。」


もしかしたら、さっき見かけた茶色いのは、黒蜜なのかもしれない。次回の楽しみにしよう。


「そうだ、谷口さんの困りごとって、何なんですか?」


 かき氷を美味しく頂いてさようなら、でも良いのだが、恋バナを聞けるかもしれないのだった。茜はまたこめかみをぐりぐりと押さえながら尋ねた。これくらいの方が、興味津々野次馬的な感じがしなくて程よいだろう。


「実は、姪の誕生日プレゼントで悩んでまして。」

「姪御さん。」


 なんだ、恋バナじゃないのか、と茜は内心でがっかりする。


「10歳になるんですが、何が欲しいかを聞いたら、化粧品らしいんです。私は化粧したことが無いので、どこで何を買ったらいいか分からず、困っています。」

「なかなか、おませさんですねえ。」


 茜はふふふと笑った。茜自身も、母親の化粧品を勝手に持ち出して塗りたくり、ひどい顔になった上にしこたま怒られたことがある。多分、10歳くらいのことだっただろう。爪にペンで色を塗ってマニュキアごっこもした。そういうことに興味が出てくる年頃なのだ。


「谷口さんはお化粧しないんですか。」

「ええ、不細工なので。」


 話の流れで他意なく尋ねた茜は、何の衒いもない理央の答えを聞いてかき氷を吹き出しそうになった。肌が弱いとか、お金が掛かるとか、時間が勿体ないとか、そういうのを想定していた。どういうことだ。


「化粧したところで、顔では勝負できません。だから、その労力とお金は他に回すことにしています。」

「へえ」

「短所を補うより、長所を活かした方が効率が良いでしょう。私の長所は外見ではないので。」


 そう言われてしまうと、ついまじまじと理央の顔を眺めてしまう。本人の言うとおり、理央の造作は美しいとは言い難い。えらの張った四角い骨格、太い眉、低い鼻梁、パッチリはしているが小さい目、それに不釣り合いな大きな口。個々のパーツも、全体のバランスも、美人たる要素には乏しい。だからと言って、醜怪と呼ぶには至らないし、一目で忘れられなくなるような強烈な印象を与えたりもしない。ひとことでいえば、普通だ。茜を含め、その辺りを歩いている一般人はこんなものだろう。


「お化粧したら、可愛くなると思いますよ?」

「ありがとうございます。でも、私はそれより、身体を動かしたりする方が得意です。見た目のかわいらしさは必要ない所で働いてますから、要らないんです。」

「良いなあ、潔いなあ。」


 ちょっぴり羨ましい気持ちで、茜は嘆息した。茜は化粧が嫌いではない。めんどくさいし、お金が掛かるし、煩わしいと思うことも多いが、ここぞという時はやっぱり化粧したい。きれいになりたい。ただ、すっぴんをさらす恐怖に追われて、苦役か義務のように化粧をするのは疲れる。マスクで顔が隠れるパートも、ちょっとそこまで買い物に出る程度でも、本当は化粧を省略して肌も気持ちものびのびさせたいのだが、できない。理央ほどではないにせよ、もう少し割り切って考えられたらいいのに、とも思う。これもまた、面倒な乙女心の罪なのかもしれない。


「山本さんは変わってますね。」

「へ?谷口さんに言われたかないですけど。」


 茜はそう言いつつ、溶けかけの甘い氷を皿から飲む。理央と話していると、どうも勝手に言葉が出てしまう。パート仲間との雑談のように、防衛機能が働かない。正直に言い過ぎた、と思ったときにはもう遅い。まあ、もうどうとでもなれだ。


「確かにそうですね。でも、山本さんも十分ユニークですよ。」

「そうですかねえ。」

「はい。化粧しないっていう話をすると、大方、川田さんみたいな反応をされますからね。特にご年配の女性は、女が化粧しないなんて下着を穿かないのと同じだなんて言いますよ。」

「ああ…似たような感想に聞き覚えがあります。」


 茜の脳裏に浮かんだのは、ご年配と呼んだら気を悪くしそうな中年のご婦人である。学校を出た後で就職した会社にいた人だ。顔の横のところで白粉と肌色の境界がくっきり出るくらい濃い目の化粧だった。若かった茜は昭和のセンスだと感じたが、服や髪形にも常に気を抜かない姿勢には素直に感動した。彼女なら自宅待機中であっても化粧を欠かさないだろうし、化粧しない人間は女にあらずと主張するだろう。


「だから、山本さんのご意見は希少です。」

「若い人は割と、化粧もおしゃれも個人の自由じゃんって感じじゃないですか。」

「そう言いつつ、自分ならありえないけど、って続きます。」

「ああ、そうですね。多様性を認める体で、結局は否定してきますよね。」

「その点、山本さんは正直ですから。時折ポロッと。」


 ポロッと、と茜は繰り返した。全く、その通り。理央と話していると、合間合間に本音がこぼれる。理央に飾り気が無くて自然体だからかもしれない。


 あるいは、人との会話能力が低下しているからか。空気を読んだり忖度したり、相手を慮って発言を調整する能力が衰えているのかもしれない。まずいぞ、と茜は軽く眉を寄せた。


「山本さんのお悩みは何なんですか?」

「あー、それはですねえ、さっき解決したというか、原因が分かったからどうしようというか。」


 理央に指摘された時には、てっきり自分は乙女心の取り扱い法で難儀しているのだと思っていたが。もっと根源的な、人間が社会生活を送るのに必要不可欠なレベルでの問題が発生しているとは。茜は空想の中でだけ、ぺしんと額を平手で打った。こんな悩み、理央に言って何とかなるものでもない。

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