第12話

 夕闇が夜闇に変化しはじめた刻限。


「今日はそろそろ先に進むのをやめて、どこか寝所を探したほうがよさそうね」

 

 と、ディアナが言い出した。


「フェルウッドまで、あと四、五時間くらいだけど、夜の森を歩くのは色々な意味で危険だわ。私も夜だとこの辺を迷わず案内できる自信はないし……」

 

 今宵は月明かりが淡い。二人とも松明は持っているが、道は闇に近かった。


「あと、正直、私……体力的に限界に近いの。今の疲弊した体だともっと時間がかかると思うわ」

 

 言って、ディアナは一応笑みをたたえているものの、疲れの色が濃いとバルドルは感じた。

 

 竜による飛行のあと、ほとんど歩きっぱなしである。平坦ではない道も多かった。疲れていて当然だ。それはバルドルもほぼ同じである。


「そうだよね。もう休んだほうがいいと思う」

 

 バルドルはそう答えたが、このあたりとなると野宿しかないのではないかと思った。ほとんど森林と言える場所で、宿屋などないはずだ。

 

 もうすぐ三月とはいえ、夜の冷え込みは厳しい。二人とも防寒用の毛皮のコートを着て厚着をしているが、野外の寒さをしのげるかどうか……。

 と、バルドルが考えていたら、ディアナが、


「じゃあ、ここからしばらく歩いたところに廃屋があるはずだから、そこで一夜を明かしましょう」


「え、そんな廃屋があるんだ! よく知ってるね」


「ここからだと周りが木ばかりだし、今は暗いからわからないけど、一年ほど前に、このあたりを通ったときに遠くから見えたのを覚えているのよ。誰も住んでいないと思うわ」

 

 森を南北に貫いている道から、その横の獣道に二人は移動した。ある程度は整備されていた地面が、草木の生い茂った地面に変わる。

 

 しばらく進んだら、荒れはてた家屋が視界に現れた。石造で中程度の大きさ。つたや苔に覆われており、部分的に外壁がはがれていた。


「家の横に小さな畑のあとがあるし、以前は民家だったのかもね」

 

 ディアナが言った。

 

 壊れて半分外れかかっている扉を開けて中に入った。暗闇を松明で照らしてみる。

 

 床に散乱している木片やごみの数々。原形をとどめていない棚。清潔とは対極の椅子とテーブル。すすけた天井にかかった蜘蛛の巣。

 

 当然というべきだが、なかなかのありさまだった。早速、二人は室内を軽く片づけた。床を四角に切り抜いた炉のようなものが部屋の中央にあった。枯れ枝を集めに行き、戻ってきたら、それを炉に入れて火をくべる。

 

 それからバルドルが夜食を作った。豚の脂肉と野菜を煮込んだスープと、パンである。夕方頃に寄った村で材料は買っておいたのだ。

 

 炉の前に並んで座って夜食を食べる。ようやく二人は人心地つけたのだった。

 

 なんとなく、バルドルはディアナに視線を向けた。そして――目を奪われた。

 エメラルドグリーンの瞳が、炎のゆらめきを映してあやしいほどの輝きを放っていた。月光をこぼしたような銀色の前髪と、しみひとつない白皙の肌が美貌にさらなる彩りを加えている。炎の明かりに照らされたディアナは、神秘的なまでに美しかった。――もっとも、スープにひたしたパンを彼女が豪快にほおばりだした途端、神秘性もいささか損なわれたのだが。


「うん、おいしい。バルドルが料理得意でよかったわ」

 

 ディアナがバルドルに目を向けて言った。


「バルドルにだけ作らせてごめんね。言い訳だけど私は料理が苦手で……」


「いや、べつにいいよ。道案内や旅の進め方は君任せだったし、これくらいはしないと。……もっと時間と材料があれば、さらにいいものが作れたんだけどね」


「これで充分よ?」


「うーん、思えば、誰かに作るの久しぶりだし、やっぱりもう少し手の込んだのを作りたかったな」


「お父上に見咎められる前は、色々な人に作ってたの?」

 

 バルドルは微笑して首を横に振った。


「色んな人に振る舞うほどの自信はないよ。大勢に作ったら父に知られる可能性もあったしね。だから、作ってた相手は大体……」

 

 バルドルは言葉を途切れさせ、少し間を空けてから続けた。


「姉だったな」


「……そう。エリア様ね」

 

 ラーザの第一王女だったエリア。バルドルより十歳も年長だった。幼くして母を亡くしたバルドルからすれば、エリアは母の代わりに似た存在でもあった。

 

 女であってもラーザで名うての戦士であり、竜騎士であった。だが二年前、ブリタニアとの戦で戦死した。没年二十五歳という若さ。その命を奪ったのは流れ矢であり、誰が殺したのかは不明である。ブリタニアの一兵士かもしれず、その者も戦死した可能性が高い。

 

 そういう事例は両国の戦史において無数にある。ラーザもブリタニア人の命を数限りないほど奪っている。そういう国同士なのだ。しかし、それでエリアの死を割り切れるほどバルドルは無感情ではない。

 

 姉の死はすなわち、バルドルにとって最愛の人間の喪失を意味していた。バルドルは兄ヴラドのことも好いているが、姉ほどの距離感の近さはない。その姉が死んだと聞かされたときのバルドルの衝撃は計り知れなかった。そして今でもその喪失感は埋まっていない。

 

 と、そんな物思いに沈んでいたのが表情に出たのだろう、ディアナが気遣わしげにバルドルの顔を覗き込んでいた。エリアが戦で死んだことはディアナも間違いなく知っている。だからか、彼女は意味深な質問をした。


「バルドルはブリタニアが嫌い?」

 

 聞かれ、バルドルは答えもうなずきもしなかったが、ブリタニアに対して悪感情があるのは否めない。

 

 沈黙が答えのようなものであり、ディアナは察したようだ。


「まあ、嫌いで当然よね」


「……」


「でも、私たちはもう友達でしょう?」


「……え?」


「ん、違うの? 私は勝手にそう思ってるのだけど」

 

 友達という表現が二人の関係にぴったり当てはまるのかはわからないが、そう言われてバルドルも悪い気はもちろんしなかった。たしかに、ただの協力者という関係もすでに過ぎている気がする。


「友達か。うん、そうだね」

 

 バルドルがそう言うと、ディアナは嬉しそうに笑った。


「バルドル」

 

 微笑みつつも、ディアナは真剣な瞳をバルドルにすえた。


「今日は、色々と大変な思いをさせてごめんなさい。それから、助けてくれて……一緒にいてくれて本当に感謝しているわ。ありがとう」

 

 感謝と謝罪の言葉。使い方次第では薄っぺらくなるものだが、しかし彼女の声には誠実さが込められていた。


「いや……僕はなにも。ドラゴシュの飛行という役目も果たせなかったし……」


「あれは、あなただけのせいじゃないわ……それはもういいの。そばにいてくれたことが大事だから。あなたには必ずお礼をするからね」

 

 火の明かりしかなくともきらめきを放つ瞳で見つめられて、バルドルは心がざわつき、うまく言葉を返せなかった。

 

 この感情がどういう種類のものか、バルドルは気づきはじめていた。

 

 それから、夜食を食べ終えた二人は眠りにつくことにした。明日も朝早く出発しなければならない。なるべく早めに眠っておいたほうがいい。

 

 こうして、逃亡一日目は、それほどの苦難はなく終了した。バルドルとディアナは互いに信頼感を深めた。二日目もこのまま仲を深めるかと思われたのだが……。

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