第7話
ドラゴシュから降りたバルドルの視線の先に、ディアナ王女がいた。
ディアナは、じっとバルドルを見つめていた。およそ二ヶ月ぶりの再会である。
今日の王女は、ぴったりとしたウールの胴衣とズボンを身につけていて、それらがやや背の高い、均整のとれた肢体を際立たせていた。逃亡生活による疲れゆえだろう、彼女の表情からは憔悴した様子も見受けられたが、瞳には確かな光輝が残されている。
嬉しさとかすかな緊張が入り混じったような面持ちのディアナが口を開きかけた。が、その後ろから別の声が飛んできた。
「バルドル殿、よくぞ、おいでくださいました」
ダニエルだった。相変わらず人の良さそうな笑みを浮かべている。
「ありがとう存じます。よもや、いらしてくださらないのではと一抹の不安を抱いておりましたが、杞憂でしたな。アングルシーからは首尾よく出られましたでしょうか?」
「はい、ダニエル殿。脱出自体はさしたる支障はなく」
実際、アングルシーからの逃亡は造作もなかった。バルドルのいた館にドラゴシュを呼び寄せ、突然の竜の到来にアングルシーの者たちが呆然としているところ、バルドルは全力疾走し、ドラゴシュの背に乗り、すぐさま飛び立った。そこからは彼らにはどうすることもできない。
「さようでございましたか。とはいえ、寒空の下での飛行はお体も冷えてお疲れでしょう。部屋の暖炉の前で少しお休みになりますか?」
と、ダニエルは気づかってくれたが、バルドルは首を横にふった。
「いえ、それほど長く飛んでいたわけではなかったので大丈夫です」
アングルシーからここまで何十キロかあるのだが、ドラゴシュの飛行速度であれば、長くはかからなかった。むろん、冬の飛行であるから短時間であっても体は冷えているし、疲労はある。が、耐え難いというほどではない――今の時点では。
「それよりも、ディアナ様もなるべく早くノースモアランドに向かいたいでしょうから、すぐに出発したほうがよいのでは?」
同意したダニエルはディアナに問いかけた。
「では、ディアナ殿下、すぐにご出発なさるということでよろしいですか?」
「わかったわ」
「では、私は旅に必要な物を取ってまいりますので、しばしバルドル殿とお待ちください」
「ありがとう、ダニエル」
ダニエルが山荘に戻り、バルドルはディアナと二人きりになった。
ディアナはバルドルに向き合い、感謝の言葉を述べた。
「バルドル様、おいでいただき、ありがたく存じます」
それから、柔らかだが真剣な眼差しでバルドルを見つめながらつけ加えた。
「出発の前に大事な確認が一つございます。こちらからお願いにあがりながら、こう申すのも変ですが……私と行動することでバルドル様も危うい
バルドルは――彼にとってはかなり珍しいことなのだが――ディアナの目をしっかりと見つめ返し、大きくうなずいた。
「危険を伴うことは承知の上です」
ディアナはバルドルの決意を感じ取ったようだった。彼女は深く頭を垂れた。
「バルドル王子殿下、幾重にも御礼申し上げます」
それにバルドルも丁重に応じた。
その後、二人は視線をドラゴシュのほうに転じた。むろん王子と王女は竜に乗り、空路、ノースモアランドに向かうつもりである。
「ドラゴシュは本当に大きくなりましたね。でも、やはり二人しか乗れないのね……」
「ええ、ドラゴシュは大きく見えてその実、しっかりと乗れる部分は限定されてますからね」
安定した体勢で飛行できるかどうかバルドルは懸念した。
乗れる部分は二カ所――首のつけ根あたりと、その後ろの背中部分。前方のバルドルが座る、首のつけ根あたりはまたがれるので、体が安定するからまだよい。問題なのは、後方のディアナが乗る背中部分だった。そこは左右が翼のつけ根となっていてまたがれず、ただ座るだけになる。体勢が不安定になるだろう。今のドラゴシュの体では、乗る体勢がそうならざるをえなかった。
(まあ、彼女が僕にがっちり捕まっていてくれたら大丈夫だろう)
ふと、バルドルは妙な視線を感じた。横を見ると、ディアナが観察するような、不思議がるような目でバルドルを眺めていた。
「……何ですか?」
「いえ、今日のバルドル様のご様子は、あの試合のときと随分違っていらっしゃるな、と」
「ハーバート殿との試合のことですか?」
「そうです。より正確に言うと、試合の途中からのバルドル様とは違うな、と。あのときのバルドル様は……鬼神のように強かったけれど、傲然としていて刺々しい印象でした。でも今は、とても物腰が柔らかい」
「ああ……実は、あの試合の途中から、僕、記憶が途切れているんです」
「えっ、記憶がない?」
「はい。ハーバート殿に追い込まれたあたりから、翌朝、目が覚めるまでの記憶がなくて……ですから、試合後、ディアナ殿下とまたお話をしたのかもしれませんが、覚えていないんです」
ディアナが心配と興味が混合した表情で、
「それは、試合による損傷で記憶を失われたのでしょうか? いや……もしそうなら意識もなくされてしまうか……」
「自分でもわからないです」
ここで、ダニエルが戻ってきたので、二人の会話は中断された。
「お待たせいたしました」
ダニエルはディアナに、旅の道具などが入っている革袋と、毛皮のコートを手渡した。ダニエルの部下たちも来ていて、その一人がバルドルに温かい紅茶の入ったカップをくれた。バルドルは礼を言い、それを飲む。飛行で冷えた体内が温まるのを感じた。ディアナは肩まで流れる髪を邪魔にならないようリボンで結んでいた。
「それと、お二人にこちらもお渡しいたします」
と言ったダニエルは、バルドルとディアナに剣を一本ずつ渡した。剣を鞘から少し抜いて剣身を確認したバルドルは、これが上等な代物であると理解できた。
確かに何が起こるかわからない以上、最低限の武装は必要に違いなかった。剣帯ももらい、バルドルは腰に剣を
時間に余裕もないため、二人は出発することにした。ドラゴシュに二人しか乗れない以上、ここでダニエルたちとはお別れだ。ディアナ王女は別れと感謝の言葉を彼らにひとしきり伝えた。リカードの追っ手が探しているのはディアナ王女だけなので、ダニエルたちが追われることはないだろう。
バルドルはドラゴシュを腹ばいにさせ、後ろ足を伸ばさせて足場をつくった。自分の後方に乗るようにとバルドルはディアナに伝えた。そして二人は乗れたのだった。あとは飛んでみなければわからない。
「バルドル殿、ディアナ殿下をお頼み申し上げます」
騎竜したバルドルを見あげる形でダニエルが言った。
「承知しました。ダニエル殿もどうかご無事で」
ディアナとダニエルも再び別れの言葉を交わした。
「では、ディアナ殿下、上空の飛行はゆれますので、僕にしっかりと捕まっていてください」
「はい」
バルドルの体に後ろから腕を回してディアナが密着した。それでバルドルは鼓動が妙に高鳴るのを覚えた。お互い厚着とはいえ、ある程度はディアナの体の感触が伝わってくる。
(……それどころじゃないだろ)
雑念を振り払った。
飛ぶように、とバルドルはドラゴシュに意思を伝える。これは竜騎士の能力であり、言葉に出さずとも、竜騎士は竜の意識に接触できるのだ。竜をどのくらい巧みにコントロールできるかは、竜騎士の実力、竜の性質、双方の相性次第である。
バルドルは、竜の首に生えている角をつかむ。首をはさむ太腿にも力を入れた。
バサッバサッ、とドラゴシュが翼を羽ばたかせる。力強く地面を蹴った。一瞬ののち、視界から周囲の木々と山荘が消え去った。
竜は天に向かってぐんぐん舞いあがっていく。
こうして――。
バルドルは、敵国ブリタニアの王女と二人で逃亡するという奇妙な旅に出たのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます