5. 隠蔽・2
都内では珍しくなった、喫煙出来る喫茶店。
高瀬は穴の開いた古めかしい臙脂の別珍張りのソファーに腰かけ、煙草をふかしながら片手を上げた。
「よう、矢部。久しぶり」
「よう、高瀬。忙しそうじゃん、対策室」
「嫌味かよ。二課に比べたら開店休業だと思ってんだろ」
矢部はニタニタと笑うと、高瀬の斜向かいに腰を下ろした。
高瀬とは違い、皺ひとつないスーツを着こなし、髪も小ぎれいにセットしている。
一見するとデパートで宝石でも扱っているような出で立ちであるが、男は警視庁刑事部捜査二課の主任で、高瀬とは同期だ。
勿論、高瀬と馬が合うと言うだけあって、一筋縄ではいかない男である。
「で? 対策室の主任殿が、俺に何の用だって?」
矢部は煙草のフィルターをテーブルでトントンと打つと、にやりと高瀬を見た。
もう既に『何かある』と分かっている節だ。
だったら何も隠すことはなかろう。高瀬は単刀直入に聞くことにした。
「お前んとこの五姓田について教えろ」
「五姓田?」
矢部はその名を聞いた途端、あからさまに嫌な顔をした。
「なんだ、その顔」
「いや~、五姓田には関わらない方がいいよ?」
「なんかあったのか」
矢部はう~んと唸り、暫し逡巡する様子を見せていたが、前のめりになると小さく高瀬を手招きした。
「お前だから言うけど……」
矢部は声を落とすと、五姓田が今、秘密裏に内偵にかけられていると言った。
「五姓田のヤツが、捜査で知り得た情報を使って強請を働いているってタレ込みがあってさ」
「強請?」
「そ。で、直近で野郎が噛んでたヤマが有名大学の裏口入学なんだけど、その調査リストの中から消えた大物がいるんだよ」
「失礼致しま──」
「うわ!」
矢部は大きな声を上げ、テーブルの灰皿をひっくり返した。
「おぉい、ビビんなよ。水を持って来てくれたんだろ」
矢部の驚き様に、高瀬も思わず笑い出す。
矢部は有難うと言うと、ウエイトレスが持ってきた水を一気に飲み干した。
「あ~。びっくりした。あ、お姉さん、俺もコーヒーね。アイスで」
「ま、落ち着けよ」
そう言うと、高瀬は矢部の煙草に火をつけてやる。矢部は深く吸い込むと、大きく吐き出した。
「なるほどな」
そう言うと、高瀬は何本目かの煙草に火をつけた。
矢部の話によると、伊庭紳一郎は、長男、伊庭和利を裏口入学で大学に入れた。
偶然、二課の収賄による裏口入学の捜査上に、人気フリーアナウンサーの伊庭紳一郎の名前が上がっていることに気付いた五姓田は、これをネタに恐喝する事を思いつき、密かに捜査リストから伊庭を抹消。伊庭に金を強請っていた。
「いずれ、五姓田にワッパが掛かる」
矢部はそう言って、追加で頼んだチョコレートパフェを頬張った。
「んまー」
「だろ。そいつは俺の奢りだ」
「え、いいの?」
「構わんよ。その代わり、確かめたいことがある。ひとつ頼まれてくれ」
* * *
「ウォイ」
高瀬は掛かって来た電話に出ながら、駐車場に止めた覆面パトカーに乗り込んだ。
梅雨前の時期とは言え、陽に当たっていた車内は据えた臭いが籠っており、流石の高瀬も思わず顔を顰める。
『文孝? 今から東京監察医務院に来れる?』
電話の主は月見里だった。
「おう、どうした? 奴さん、再解剖に承諾したのか」
言いながら窓を閉め、エアコンを入れる。吹き出し口からヤニ臭い風が吹き出した。あまりの臭いに顔を背ける。
臭いの原因は100%自分なのだが、高瀬は腹の中でこの覆面が古いせいだと毒づいた。
『残念ながら、再解剖は承諾して貰えなかったよ。でも、葛城先生に物申さないといけなくなった』
「解剖がヘタクソだとか?」
『あれじゃあ、腕の程は分からないな。包帯法はお上手だったけど』
そう言うと、月見里は、優馬の家での一件を話して聞かせた。
あの後、由美子は席を外し、月見里と犬飼は、優馬の死装束を広げて胸の包帯を押し下げ息をのんだ。
そこにあるべき切開痕が全くなかったのである。
「解剖してなかったのか……」
『信じられないけど、そう言う事だね。これから監察医務院へ行って、葛城正直に事情を聞くべきだと思う』
「分かっ──ん、ちょっと待ってくれ」
耳元で、スマホがメールの着信を告げている。
高瀬はメールを確認した。柴田からだ。
<五姓田敦と五姓田雅臣は親子>
やはりそうか。
高瀬は柴田に短い返事を送った。
<雅臣を揺さぶれ>
「とりあえず、監察医務院で落ち合おう。けど、もう18時をとっくに過ぎてる。件の大先生は居るのか?」
確か監察医務院の医師は17時15分で退勤だった筈だ。
『大丈夫。念の為アポはとったよ。随分と訝っていらっしゃったけどね』
「大泡吹かせてやろうぜ。──と、その前に。俺が仕入れた情報を共有しておく」
そう言って、高瀬は通話をハンズフリーに切り替え、矢部から聞いた話を2人に聞かせた。
* * *
監察医務院に到着すると、時刻は既に19時を回っていた。帰宅ラッシュに巻き込まれた形だ。
駐車場には既に月見里の車があった。
高瀬もサイドブレーキを引き、車を降りる。
すると、ワイシャツの胸ポケットから、着信音が聞こえた。矢部からメールである。
<五姓田のロッカーから、血のついたブリーフが出た>
短い文章には画像が添付されていた。
ジップロックの上に広げられた、血まみれのブリーフである。
特に前面の二枚合わせの部分酷く染みている。
高瀬は口の端が上がり、気分が高揚するのを押さえられなかった。
──繋がったか。
「文孝」
月見里が手を上げてこちらに向かって来た。その後ろには犬飼もいる。
高瀬は乱暴に車のドアを閉めると、2人にスマホを突き出した。
「月見里。パンツが見つかったぞ。こいつを見ろ」
「これは……」
月見里は目を見開いた。
犬飼は顔色を失い、口元に手を当てている。その手は小さく震えていた。
「血尿だね。腹部を激しく、執拗に蹴られたんだろうな」
「っつーことは」
「自殺じゃなく、暴行による傷害致死の線が濃厚になって来た」
月見里の言葉に、高瀬は満足げに頷いた。
「つまり整理すると、五姓田の息子は行き過ぎた虐めで優馬を殺害してしまった。息子の逮捕を恐れた五姓田は、事故死とするよう葛城に依頼し、証拠品のブリーフを隠した。ってところか」
「まだ、推測の域を出ないけど」
「裏付けが必要ですね」
「そうだな。それじゃあ、黒い解剖医に会ってこようぜ」
* * *
「確かに悪代官ですね」
犬飼が高瀬に囁く。
「だろ」
高瀬、月見里、犬飼の3人の前に現れたのは、ずんぐりとした体躯を白衣に包み、深い皴が刻まれ脂の浮いた四角い顔の、還暦前の男だった。
「お久しぶりです」
月見里が恭しく頭を下げる。
それをちらと見遣ると、葛城は言った。
「一体何の用かね。月見里君がどうしてもと言うから時間を取ったが、私は22時から緊急生放送の出演予定があるんでね。簡潔にお願いしたい。君たちは昨夜、凄惨な一家殺人事件があったのを知らないのかね?」
葛城はソファーに深く腰を鎮めると、テーブルの上のケースから葉巻を取り、ゆっくりとした動作で葉巻カッターで先端を切り落とした。
その、大物然とした態度は、気の短い高瀬の癇に障る。
ずかずかと前に進み出ると、葛城の手から火の点いたばかりの葉巻を取り上げ、バカラの灰皿に思い切りねじつける。そして、脂ぎった顔をじろりと覗き込んだ。
「その必要も無くなると思うぜ? オッサン。なんならアンタ、その番組で速報として流れるかもな」
「な、何だ君は! 随分と失礼な男だな! 月見里君、君のようなエリートが、こんなヤクザと付き合い始めたとは。失望する!」
ここ数年、其処此処でちやほやと持て囃されて来た葛城は、高瀬の至極無礼な態度に、顔を真っ赤にして憤慨した。
対して月見里は涼しい顔だ。
「彼とは20年来の付き合いですよ。僕の親友を侮辱しないで頂きたい」
そう言うと、唖然とする葛城の前に腰を下ろした。
「ところで葛城先生、先日先生の所に、伊庭紳一郎さんのご子息が運ばれてきましたね?」
「ふん、あの自殺した子か。覚えとるよ。伊庭さんたっての望みで、私が解剖したからな」
「伊庭の?」
思わず高瀬が声を上げる。
3人は互いに顔を見合わせたが、高瀬は極小さく顎をしゃくる様に動かし、月見里に続けるよう指示した。
「もう一度お聞きします。先生が解剖された?」
「そうだ」
「本当に解剖されましたか?」
「くどいな、君も。一体どういうことかね」
葛城はかなり苛ついていた。
小刻みに踵を動かし、忙しなく視線を動かしている。
「失礼ながら葛城先生。僕は先ほど、その伊庭優馬くんに会って参りました」
途端、葛城の顔色が変わった。
彷徨っていた視線はぴたりと止まり、瞬きもせずにテーブルの上のひしゃげた葉巻を見つめている。
「先生は解剖なさったと仰る。しかし妙ですね。包帯の下に、解剖の痕はありませんでした。これは一体どういう事でしょうか」
「知らん」
「なんだと、テメ──」
掴みかかろうとする高瀬を、月見里が制した。
そして、冷ややかな目で、葛城を見据える。
「ご存じないと」
「知らん! 知らん! 知らん!」
そこからは睨み合いだった。
刻々と時間が過ぎていく。
「先生。そろそろテレ夜に向かわないと……」
部屋のドアの隙間から、男が顔を出した。時刻は20時半を回っており、移動とリハーサルを考えると最早タイムリミットだった。
葛城はそれが天の声にでも聞こえたか、少しほっとしたような表情を見せると立ち上がった。
「そういう事だ。失礼する」
言ってその場を立ち去ろうとするも、それは犬飼によって阻まれた。
「先生」
月見里も立ち上がる。そして、お座りくださいと椅子を勧めると、ふわりと柔らかな笑顔を浮かべた。
「勝手ながら、先程、そちらの犬飼先生に保健医療局次長の谷口先生にご連絡願いました。事情を説明し、今、こちらに向かっていらっしゃいます」
「な……」
葛城は、糸の切れた操り人形のように、ふらふらと後退り、どさりとソファーに腰を落とし項垂れた。
「あの、先生? もう時間が……」
葛城は答えない。男はもう一度繰り返した。
「うるさい! 断れ! キャンセルだ!」
男の足元に、葛城がヒステリックに叫びながら投げたバカラの灰皿が落下し、粉々になった。
それはまるで砕け散った葛城の名誉同然だった。
男は慌ててその場を走り去り、それと入れ違いに、東京都保健医療局次長の、谷口幸三が入室した。
自宅でリラックスしていたのだろう、ラフな出で立ちだった。
谷口はずかずかと葛城の前まで進み、鬼の形相で葛城を見下ろすと、怒りに震える声で言った。
「葛城君、一体どいう事かね。一体君は何をした!」
「何も……」
「なんだと?」
谷口は声を荒げる。
それを、まあまあと諫めると、高瀬は『本当に、何もしなかったんですよ』と、谷口の胸をポンと叩いた。
「なんてことだ……」
谷口はふらふらと足元がおぼつかない。
高瀬はそっと介助すると、谷口をソファーに座らせ、葛城に質した。
「五姓田に、事故死とするよう金でも積まれたのか」
「違う」
先ほどまでの勢いはどこへ行ったか、葛城は消え入るような声で言った。
「頼んできたのは、伊庭紳一郎だ」
──ふん、あの自殺した子か。覚えとるよ。伊庭さんたっての望みで、私が解剖したからな。
月見里が、優馬が運ばれて来た事を確認した際も、葛城は確かにそう言っていた。
「伊庭が、アンタに金を掴ませたのか。なぜ伊庭なんだ」
「私が知る訳ないだろう」
それっきり、葛城は口を噤んだ。
「あの、いいですか」
犬飼が、高瀬と月見里を手招きした。
部屋の隅っこで、コソコソと会議が始まる。
「僕が思うに、五姓田が伊庭に指示したのではないでしょうか」
犬飼が言うと、月見里もそれに賛成した。
「僕も同意見だ。文孝が二課の刑事に聞いた話だと、伊庭紳一郎は五姓田に裏口入学の件で強請られてる。となると、五姓田が伊庭と、伊庭の金を使った可能性は考えられるよね」
「じゃあ、なんだって五姓田は、わざわざ息子の暴行の証拠になるような物を、後生大事に持ってたんだ? 捨てりゃいいのに」
「ひょっとして……」
ふと、月見里の脳裏にある考えが浮かんだ。
つかつかと、葛城の前に進み出る。
そして、項垂れる葛城の肩を掴むと、死んだ魚のような眼を見つめた。
「葛城先生。あなた、五姓田刑事に強請られているのではありませんか?」
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