3. 疑念

「伊庭優馬くんです」

 犬飼は、高瀬と月見里に向け、テーブルの上に1枚の写真を差し出した。

 どこか公園だろうか。桜が満開の中、優馬は白い猫を抱き、カメラに向かって微笑んでいる。

 犬飼に似た色白の肌、サラサラした黒髪。華奢で小柄なせいもあるだろうが、少し中性的な美少年だ。

 犬飼によると、写真はこの春に犬飼が撮影したものらしい。

「ほう。素直そうな可愛い子だな」

「本当に、素直な良い子でした。僕はひとりっ子なので、弟が出来たみたいで」

 犬飼は写真を眺め、目を細める。しかし、唇を噛むと肩を震わせた。

「犬飼先生……」

「……大丈夫です」

 犬飼はひとつ大きく息を吐くと、書類の中から検案書と自ら作ったと言う現場の資料を抜き出して並べた。

「先ず、現場の状況からご説明します」

 そう言って眼鏡を直した犬飼は、弁護士の顔をしていた。

 

 *   *   *


「──確かに妙です」

 犬飼が用意した現場の図、写真、そして検案書に目を通していた月見里は、緩く握った拳を口元に当て、渋い顔をした。

 発見時、優馬はビルとビルの間の狭い路地で、ビルに対して平行に、仰向けで倒れていたとあったが、これからしても腑に落ちない。

「横になって転がりでもしない限り、そう言った形で落下する事は滅多にないかと思います。しかし、そう言った特殊な飛び降り自殺は考えにくい」

 高瀬もそれに頷く。

 その状態で落下したとなると、それこそ、両手両足を縛られて転がされたのでは、見せしめや制裁のための殺人なのではと疑うところである。

「そもそも、飛び降りたとされるビルですが……、この高さから飛び降りて、検案書に書かれている程度の外傷で済むとは思えません。それに、勢いよく踏み切れば、この狭さでは、恐らく隣のビルに激突していたでしょう。そうなれば、頭部、顔面に裂傷や打撲痕が出来ていたはずですが、そう言った所見もない。じゃあ、1歩踏み出すようにして落下して、足から着地した場合はどうかですが……」

 月見里の解説に、高瀬と犬飼は神妙な面持ちで頷く。

 そんな2人に月見里も頷き返すと更に続けた。

「まず足部、踵部,足関節、次に下腿、大腿、そして骨盤……と言った具合に強い外力が加わって、いくつもの骨折を生じる『受傷機転』と言うものが考えられます。しかしそう言った所見もない。なぜこれを飛び降り自殺と断定したのか疑問ですが……」

「どうした」

 月見里が何か言い淀んでいる。そう感じた高瀬は、何か気になることがあるんだろうと促した。

 月見里は少し迷うような、困った表情をしたが、そっと、検案書の1番下に書かれている担当医の名前を指し示した。

「葛城、正直……? なんか聞き覚えがあるな」

「監察医務院の院長なんだ。でも、ここ最近は解剖をせず、専らTV番組で識者として出演する事が多いね」

「ああ、そういや事件を扱った特番とか、殺人事件が起きるとワイドショーで偉そうに喋ってたな」

 高瀬が言う通り、葛城はこの所第一線を退き、主に事件究明を謳ったドキュメンタリーやワイドショーで引っ張りだこになっており、『死体が犯人を教えてくれる〜探偵解剖医の事件簿〜』などと言った、実にセンセーショナルなタイトルの書籍も多数出している解剖医である。

「これまで立件された事が有った訳じゃないんだけど、僕らの間では何かと黒い噂の絶えない人物なんだ」

「あ~。確かに悪代官みてぇな顔してた。ありゃ絶対なんかやってるぜ?」

「プッ」

 自分の人相の悪さを棚に上げる高瀬の言動に、犬飼が噴出した。

 掌で口元を押さえ、声を上げることはしないものの、明らかに目が笑っている。

「面白いこと言いますね」

「なんだ。アンタも笑うんだな」

「笑いますよ。……優馬くんが亡くなって以降、もう笑う事はないかもしれないと思ってましたけど」

 そう言うと、犬飼はちらと優馬の写真に視線を落とした。

「わかるよ」

 高瀬は犬飼の視線を追うとそう言い、空になったマグカップを持ち上げた。

「俺も、大事な人を亡くしたから。栞ちゃん、コーヒーお代わり!」

 

 *   *   *


「他に、月見里先生が気になったことはありませんか?」

 ノートに月見里が指摘した点を纏めると、犬飼は月見里がマグカップを置くのを待って聞いた。

 月見里はひとつ頷くと、証拠品の衣類を撮った写真を指差した。

「これです。本当にこれで全部なんでしょうか」

「と、言いますと……」

 月見里がくるりと写真の上下を返し、犬飼の方に向ける。

 そこには、汚れ、血のついた白いカッターシャツと黒いスラックス、白いインナー、靴下、ローファーが、ブルーシートの上に並べられて映っていた。

 犬飼は教師に当てられた生徒のように、食い入るように写真を見つめておかしな点がないかを探した。

 しかし、いくら見ても怪しいと思える部分を見つけることが出来ない。

「カバンとか財布か?」

 高瀬も首をかしげる。しかし、それなら資料の証拠品リストに載っていた。

「そうじゃなくて──」

「ちょっと待て。当てるから」

 高瀬は月見里の言葉を遮り、もう一度写真を覗き込む。すると、犬飼がアッと声を上げた。

「下着……」

「エッ? あ、パンツ?」

 驚きというよりも、呆気に取られたと言う顔の高瀬に、月見里は頷く。

「うん。あえて写真に撮らなかったのかもしれないけど、証拠品のリストにも載っていない」

「確かに。変ですね……」

「搬送先の病院で衣類を取ったんだろうけど、そこで処分するとは流石に考えられないし……」

「うーん」

 高瀬は写真をつまみ上げると唸った。

 考えたくはない。考えたくはないが──。

「サツカンが絡んでるかもしれねぇな」

「警察官……ですか?」

「うん。さっき月見里が言ってた『黒い噂』だが、ウチの“カイシャ”にも腐るほどあるからな」

 高瀬は鼻から大きく息を吐くと立ち上がり、ポケットからスマホを取り出した。

「おう、柴田か。オマエどうせ暇だろ」

 そう話しながら事務所を出ていく。

 高瀬が連絡した『柴田』は、高瀬の『特殊事件対策室』で高瀬の下僕として顎でこき使われている哀れな青年である。

 しかしながら、柴田は実はキャリアであり、階級は高瀬より上の『警部』なのだが、柴田の性格もあり、高瀬の性格もあり、すっかり高瀬の下僕と化していた。

 とはいえ、お互いに信頼しきっている事は周知の事実で、月見里などは、柴田以外に高瀬と仕事が出来る刑事はいないだろうと思っているほどだ。

「ところで──」

 月見里は、ちょこんと座ってコーヒーで一息入れている犬飼に声を掛けた。

「優馬くんは虐めに遭っていたと仰っていましたが、優馬くんは、誰に虐められているかを話していましたか?」

 犬飼はかぶりを振った。

「優馬くんは自分からは話しませんでした。虐めの事実も、彼がしょっちゅう怪我をしていたり、制服が汚れていたりしていたから僕が気が付いたんです。それで彼に問い質しました。なかなか話してくれませんでしたが、なんとか名前だけは」

「誰なんです?」

「ゴセダマサオミ」

 言って、犬飼はノートに『五姓田雅臣』と書いた。

「珍しい苗字ですね」

「ええ。優馬くんと同じ学校の生徒です。ですが、今分かっているのはそれだけなんです」

 あの時もっと調べていれば──。

 犬飼の後悔の念が月見里にも伝わってくる。

「念の為、その子のことも、文──」

 文孝と、いつもの調子で言いかけ、月見里は苦笑いしながら言い直した。

「高瀬刑事に調べて貰いましょう」

「悪い悪い!」

 ちょどそこへ高瀬がスマホを片手に戻って来た。

 どっかとソファーに腰を下ろすと、マグカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干す。

 ふわりと煙草の臭いもする。外で電話しながら数本灰にしたに違いない。

「今、柴田にパンツの行方を追わせてる。それから、伊庭紳一郎についても調べるように言っておいた」

「伊庭紳一郎を、ですか?」

 犬飼が聞き返すと、高瀬は心外だとばかりに、鼻息を荒くした。

「アンタだっておかしいと思うだろ? いくら継父だって言っても、そんな疑わしい検案書に納得しているなんて言うか? 人気アナウンサーなら、余計に体裁を気にして良い父親ぶるのに必死になりそうなもんだと俺は思うがな」

「確かに言えてますね」

 犬飼も高瀬の意見に同感だった。

「文孝、ついでに調べて欲しい人物がいるんだ。優馬くんを虐めていたという人物」

 月見里が犬飼を促す。

 犬飼はノートに優馬の通っていた中学と五姓田雅臣の名を振り仮名付きで書きつけ、破って高瀬に渡した。

「五姓田雅臣? 変わった名だな」

 言って首を傾げる。

「どうしたの?」

「いや、なんか聞いた事あるような無いような……。よし、コイツも調べておく。どうせこういうヤツはロクなことしてねぇからな。なんなら別件で引っ張って事情を聞いてやる。どうせ、叩けばいくらでもなんか出てくるに決まってるさ」

「未成年ですから、お手柔らかにお願いします」

 犬飼が釘を刺す。どうやら、この短い時間の間に高瀬と言う人間を理解したようである。

 高瀬は下唇を突き出し、不満そうな表情を見せたが、メモを煙草のパッケージとビニールの間に差し込むと、「へいへい」と大人しく従った。

「犬飼先生、優馬くんの葬儀は何時からですか?」

「10時です」

「とすると、出棺は凡そ11時というところでしょうか……」

 犬飼はそうですねと言って暫し考え頷いた。

「父親は有名人ですから、仕事関係の方が大勢弔問に来ると思われますが、その位で見ておいた方がいいと思います」

 3人はそろって壁の至極シンプルな時計を見た。時刻は間もなく正午になるところだ。

 

 ──残り23時間。

 

 23時間で証拠を集め、裁判所へ走り、「鑑定処分許可状」を発行して貰った上で、火葬を止めなければならない。

「よし」

 渦巻く不安を断ち切るように、高瀬はそう言って膝をポンと叩くと立ち上がった。

「俺もちょっと調べに行ってくる。犬飼、アンタは念のため、もう一度遺族に再解剖を掛け合ってくれ」

「わ、わかりました」

「んじゃ──」

「文孝」

 解散、と言おうとした高瀬を、月見里が引き留めた。

「どうした」

「僕も、犬飼先生と一緒にご遺族の所に行くよ」

 そう言うと、月見里は白衣を脱いだ。

「優馬くんに会って確かめたいことがある」



 

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