2. 依頼

 高瀬が陣取っていた応接セットに、高瀬と月見里、そして犬飼が向かい合って腰を下ろした。

 応接セットといっても、もう何十年も前からある物で、小豆色の合成皮革で出来た古臭い物だ。

 座り心地も、正直良いとは言えない。

「失礼致します」

 栞が腰を落として3人の前にコーヒーを供し、犬飼に、天使のような微笑みを投げかける。

 犬飼は首を前に出すように無言の礼を返すと、俯き、落ち着かなく鼻の下や耳、首を擦った。

 やはり年頃の女性に免疫がないようだ。その証拠に、白い肌が赤く染まっている。

「では犬飼先生。詳しくお話をお聞かせ願えますか?」

 月見里は犬飼にコーヒーを勧めると促した。

「はい」

 犬飼はコーヒーで喉を潤すと、ブリーフケースからクリアファイルを取り出しながら話し始めた。

「お願いしたいのは──、飛び降り自殺とをされている少年の再解剖です」

「再解剖……ですか」

 再解剖と聞いて、月見里の表情が曇った。

 再解剖は、鑑定をした解剖医を侮辱するに等しい。しかしそれ以上に必要な物がある。

 鑑定処分許可状である。

 鑑定処分許可状とは、解剖に先立ち、警察側から鑑定人に対して鑑定の目的で死体解剖を行うことを許可する令状で、裁判官が発行するものである。

 つまり、これがなければ月見里は解剖することも出来ない。

 釈迦に説法と思いつつも、月見里は念のため、犬飼に確認する事にした。

「犬飼先生。弁護士であるあなたならご存じかと思いますが、解剖には鑑定処分許可状が必要です。そちらは……?」

 しかし、犬飼は俯いたまま、クリアファイルを眺めている。もしや──。

「犬飼先生?」

「警察は……再捜査は、しないと」

 やはり。つまり、解剖の許可は下りていないと言う事だ。

 しかし、月見里は顔色を変えることなく続けた。

「ご遺族は」

 犬飼は、ふるふると頭を振った。

 黒髪が眼鏡に掛かり、表情は窺えない。

「母親はともかく、父親が反対しています。これで納得しているのだと。放っておいてくれと言われました」

「だったら、なんだってアンタはここに来たんだ?」

 高瀬の問いに、犬飼は深くため息をついた。

「亡くなった少年は、僕の友人です」

 言いながら、犬飼はクリアファイルを月見里と高瀬の前に差し出した。

 クリアファイルの一番上には新聞記事が挟まれており、そこには『有名フリーアナウンサーの次男が飛び降り自殺』との見出しが大きく踊っていた。


『フリーアナウンサー、伊庭紳一郎の次男で、中学生2年生の伊庭優馬くん(14)が、都内で倒れているところを発見され、病院に搬送されたが死亡が確認された。優馬くんは、ビル屋上から飛び降り自殺を図ったものと思われ──』


「これ、ついこの間のだな……。捜査一課のボンクラ課長殿が、お取り巻きと話してたぜ」

「そうです。彼とは──、優馬くんとは、1年前にSNSで知り合いました。お互い猫好きだったこともあって、直ぐに意気投合しました。年齢はひと回り以上離れていましたが、SNSではあまり関係ありませんし。それからは何度も直接会って話していました」

「ふむ」

 高瀬はSNSなどは一切やらない。そのため、イマイチ犬飼の言う事にピンとは来なかったが、自分にも高校生の弟のような存在がいる。それを考えると、少し犬飼の気持ちも分かるような気がした。

「彼とは色々な話をしました。猫の話は勿論、学校生活の事も──」

「どうしました?」

「彼は……優馬くんは、虐めを受けていました」

「虐め……ですか」

「月見里先生や、刑事さんのような方は経験ないかもしれませんが、虐めは暴力です!」

 犬飼は顔を上げると、そう言って唇を噛んだ。

 膝の上の拳も、ぶるぶると小刻みに震えている。

「虐められる側に問題があるなんて嘘だ。虐める方に問題がある。あいつら病気だよ!」

「……そうかもしれんな」

 しんとした事務所に、犬飼の鼻を啜る音が盛大に響く。

 高瀬はそんな犬飼の前にティッシュボックスを滑らせると聞いた。

「気を悪くさせたら申し訳ないんだが、虐めを苦にして自殺したと言う事は──」

「ありませんッ!」

「まあ、お座りください」

 立ち上がり、肩を上下させている犬飼に、高瀬は圧倒され、月見里は席を勧めた。

 遺族や友人が、故人の死の理由を受け入れられないと言うのはよくある事だ。

 しかし、弁護士である犬飼がここまで言うには何かがあるのかもしれない。

 月見里は次第にそう思い始めていた。

「こんな事、聞き飽きているかもしれませんが……。彼は自殺するような子ではありません。確かに彼は虐めに悩んでいたけど、夢がありました」

「聞かせて貰えますか?」

 月見里に促され、犬飼は話し始めた。


 虐められ、よく痣を作っていたこと。

 それでも優馬はいつも前向きだったこと。

 猫の殺処分を減らすため、野良猫を保護し、里親に譲渡する保護施設を作る。それが犬飼と優馬の夢だったこと。

 その為に支援型のクラファン(クラウドファンディング)で資金を集める準備をしていたこと。

 その準備に、頻繁に直接会って打ち合わせをしていたことを。


「あの日も、僕は彼から連絡を貰い、打ち合わせのために会う約束をしました。彼が発見され、病院に搬送されたのは、その連絡のおよそ30分後です」

「なるほど」

 月見里は頷いた。確かに自殺しようと言う人間が、30分前に前向きな約束をするとは考えにくい。

「犬飼先生が疑われるのも無理はありませんね。しかし、それなら何故ご両親は息子さんの死の真相を探ろうとはなさらないのでしょう」

 月見里の質問に犬飼は少し逡巡した後、優馬が母親の連れ子であると話した。

 犬飼によると、伊庭家は父親の伊庭紳一郎、母親の由美子、長男の和利、次男の優馬の4人家族。紳一郎が前妻と離婚後、由美子と再婚。長男の和利は、紳一郎と前妻の息子で現在某有名大学1年。優馬は由美子の連れ子で中学2年生だった。

「そう言えば、2,3年前に、伊庭紳一郎が再婚したと言うニュースがありましたね」

 書類に向かっていた栞が、ふと思い出したように言う。

「そうなの?」

「伊庭さんは人気がありますし、結構盛り上がっていましたよ」

「へぇ。そうなんだ」

 月見里は芸能関係に疎い。ニュースは見聞きするが、最近は専ら新聞で、TVとは縁がなかった。

 その為、人気フリーアナウンサー・伊庭紳一郎と言われても、顔も浮かばない。

「優馬くんが実子じゃないから……。僕が伊庭紳一郎に再捜査をすべきだと進言しに行った時も、むしろ伊庭は迷惑そうでした。あれが長男の和利だったら違ってた筈です」

「なるほどな。普段から当りが強かったとかいう話は? 兄貴と比べられたとか」

「いえ。そういった事は……」

 高瀬の問いに、犬飼は資料の中の優馬の写真を見つめた。


 ──お父さんは、僕に興味がないんだ。


 いつも優しい優馬の、困ったような笑顔が脳裏に浮かぶ。

「彼は……、長男に劣らず成績優秀でした。人当たりもいい。とてもいい子でした。それでも、というか……、伊庭は優馬くんに全く興味がなかったようです。母親も恐らく、伊庭に気を使っていたのか、その事について伊庭に何を言う訳でもなかったようですね」

 何とも言えない空気が事務所内に漂った。

 継子とは言え、自分の息子に興味がない人気アナウンサー。

 家の中で孤独な少年の姿が想像できた。

 そんな少年の心の拠り所が、犬飼だったのかもしれない。

「他に、犬飼先生が自殺じゃないとお考えになる根拠はありますか?」

「そうだな。現場の状況とか、分かってることはないのか?」

「再捜査してくれるんですか?」

 犬飼が身を乗り出し、高瀬は慌てた。

「ちょ、待てよ。出来るかどうかは、もうちょっと聞いてみねぇと、俺も上に言えねぇしな」

 とはいえ、捜査一課の因幡警視に進言したところで結果は分かり切っている。

 高瀬は、必要であれば、信頼出来る安藤副警視総監に直談判するつもりだった。

「時間がないんです」

 犬飼は力なくソファーに腰を落とすと項垂れた。

「時間がない?」

「葬儀は明日なんです……」

「おい、マジかよ!」

 高瀬と月見里は顔を見合わせた。遺体が火葬されてしまったら終わりだ。

「今分かってることや、証拠になる物はありますか?」

 月見里にそう言われて、犬飼は顔を上げた。

 目の前の2人が真剣な表情で、真っすぐに自分を見ている。自分が今まで接してきた警察官、監察医たちとは明らかに違った。

 犬飼は頷くと、クリアファイルの中身を広げた。

「母親に頼み込んで、なんとか検案書の写しと証拠品の衣類の画像を頂くことが出来ました。あとは新聞記事と、僕が聞き込んで得た情報です」

「よし。今からここが俺たちの捜査本部だ。捜査会議と行こうぜ」

 


 

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