隠蔽(T大法医学教室シリーズ・ミステリー)

桜坂詠恋

1. 訪問者

「良い天気だねぇ……」

 T大法医学教室の若き教授・月見里流星は、椅子の背にゆったりと長身を預けると緑茶を啜り、窓の外を眺めつつ大きく伸びをした。

 梅雨入り前のこの時期は、T大法医学教室の事務所から見える中庭の緑が一層濃く目に優しい。

 現在午前10時。今日は今のところ解剖も入っていない。講義もなく、取材の予定もなく、頼まれていた原稿も提出し、ぽっかりと穴の開いたような日だった。

 何かと忙しい月見里にとって、こんな日は久しぶりだ。

「なんだよ年寄りくせぇな。まだ30半ばだっつーのに」

 隣の応接セットのソファーにふんぞり返っていた高瀬は、そう言うと、眼鏡を拭きながら欠伸をする月見里の姿を見て眉間に皺を寄せた。

 この男は警視庁の刑事で、月見里とは高校時代からの親友である。

 月見里に拳ひとつ分ほど満たないにせよ、長身でスタイルも良く、顔だちも悪くない。しかし、兎に角自分に手を掛けないのが玉に瑕で、今日もボサボサ頭を手櫛で後ろに流し、安物のスーツを身に着けていた。

 高瀬は事件の検死解剖の時は勿論、何かと理由を付けてはここに現れ、親友と話して帰っていく。

 月見里にとっても、気の置けない高瀬との時間は憩いの時だ。なにより高瀬が来ると、教室内がパッと明るくなった。

「栞ちゃんが淹れるコーヒーは世界一だな」

 高瀬はそう言って、月見里の秘書、深田栞にコーヒーのお代わりを強請っている。

 その様子を眺めながら、月見里は久しぶりに推理小説でも読もうかと、最近気に入りの作家の文庫本を広げたのだが──。

「先生。お客さんがいらしてますが、お通ししても宜しいですかね」

 解剖器具の手入れをしていた検査技師の宮下が、事務所のドアの隙間からひょっこりと顔を出した。

「オッ、宮下さん。ご苦労さんです」

「オオッ、高瀬さん来てたんですか。仕事熱心ですな」

「いやだな。サボリって分かってて言ってるでしょ」

 高瀬が眉尻を下げる。宮下はにやりと笑った。

 しかし、高瀬が実は仕事に対して──と言うよりは事件に対してだが、意欲的で、身を粉にして打ち込むタイプであることを、皆よく知っている。

 だからこそ、宮下もこういった冗談が言えるのだ。

 そんな宮下は50代後半の検査技師で、この教室では最年長であり、皆の父親代わりとして絶大な信頼を得ている人物である。

 その宮下が、解剖室からゴミ捨てのために外へ出た際、月見里に面会したいという人物に声を掛けられたのだと言う。

「なにやら弁護士の先生だそうで」

 はて。

 月見里は首を傾げた。今日は誰とも約束をしていなかったはずだが──。

「栞、コーヒーをもうひとつ淹れて貰えるかな?」

 ふと気になって、月見里は秘書に客人ためのコーヒーを頼んだ。

 

 *   *   *


「犬飼です……」

 宮下に案内されて事務所に入って来たのは陰気な若い男だった。

 やせ形で色白。黒縁の眼鏡をかけ、黒髪に地味な黒地にグレーのストライプのスーツ。猫背。胸には、キジトラ猫のマスコットをつけたブリーフケースを大事そうに抱えている。

 しかし、眼鏡と長めの前髪に隠れた顔は、少々神経質さを感じさせるものの整っており、社交性さえあればさぞかし女性にもてたであろうと、隠しようのない影を引きずる犬飼に、その場の誰もが思った。

 月見里は立ち上がり、軽く会釈をした。

「月見里です。どう言ったご用件でしたか?」

「あ、あのっ!」

 犬飼は月見里の前に進み出ると、拳をぎゅっと握り、ハンサムな法医学者の目を真っ直ぐに見上げた。

「僕は犬飼ですが、猫派です」

 犬飼の突拍子も無い告白に、月見里は何度かぱちぱちと瞬きをしたが、直ぐにいつもの柔らかな笑顔で頷いた。

「そうでしたか」

「大事な事なので、言いました……」

「なるほど」

「子供の頃から──、『よう犬飼。お前、犬飼のくせにナニ猫飼ってんだよ』とか、『おまえ、猫飼うなら猫飼に名前変えろよ』とか」

 犬飼は体の向きを変え、口調を変え、いじめっ子さながらに表情まで変え、忙しなく、リアルにその様子を再現する。

「更に、その当時猫田先生と言うおばあちゃん先生がいたんですけど、その猫田先生と結婚しろよウェーイとかッ! もう散々言われてきました……。でも、猫派の犬飼だって良いじゃないですか! そうでしょうそうですよね! ええそうですそのはずです。ハイハイ!」

 犬飼は興奮気味にそう言うと、ずいずいと月見里に近付いて来た。見た目とは裏腹に随分と変わった人物のようである。

 月見里は思わず両手を胸の前に上げた。

「まあ……そう……ですね。仰る通りです」

「ああ。先生が大人の方でよかった。なんだか彼方の方は、そういう輩と雰囲気が似ていましたので」

 月見里の言葉に胸を撫で下ろしつつも、高瀬を見る犬飼の視線は遺恨に満ち満ちている。

 驚いた高瀬は自分を指さした。

「え? 俺?」

 高瀬は頭が飛びそうなほどにかぶりを振り、手をパタパタ振って月見里に否定しろと合図するが──。

「否定はしません」

「おい!」

 無駄だった。

「でも大丈夫ですよ。彼ももう大人ですから。それに、今では警視庁の敏腕刑事です」

「えっ? 本当に?」

 訝しげな視線の犬飼に、高瀬も苦笑いしつつ、懐から身分証を出して見せる。

 犬飼は、身分証と高瀬とを何度も視線を往復させると、小さくホントだと呟き、改めて神妙な面持ちで月見里に向き合った。

「あの……。先生は、『白い人魚』事件と言われている、一度解決したとみられていた事件の真相を解明されたんですよね?」

「いや、それは彼の──警視庁の特殊時間対策課の高瀬警部補の再捜査が実ったんですよ。実を言うと、僕はお手伝いをしたに過ぎないんです」

「えぇ……。あの人が?」

 犬飼は鼻に皺を寄せ、目には疑いの文字を浮かべた。

「アンタ、大人しそうな顔してえげつないな……」

 高瀬はそう言うと肩を落とした。

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