第20話 背負うから

「あ、貴方の名前は!!」


 とても辛そうな顔をして、黒髪蒼眼の青年は森を走り抜けていった。


『その、神子様は……ミレナは……もし、俺が未来から来たと言ったら、お前は信じれるか……?』


「未来……」


 何だったのだろうか、あの言葉は。わからない。初めて会った子だ。

 ここに来たのは、次の日、村の転移先であるこの場所を視察する為だ。偶然の相見である。


 重たい何かを抱えながら、それを誰かに背負わせるわけでもなく、背負ってほしいと協力を求めるわけでもない。


 顔も名前も知らないミレナにとっては、不思議で要領の得られない時間であった。


 彼は自分の名前を知っていた。とはいっても、それは別段、珍しいことではない。自分が水魔法の創造神であり、アルヒストの主神——アルヒの神子であることは、世間一般に知れ渡っている。王の孫娘であるカナリーの命を救ったことも、その知名度に拍車を掛けているはずだ。

 ただ、何故だろうか。この胸の中にある大きなしこりは。どっしりと、異物のように鎮座ちんざしている違和感は。頸木くびきは。


 他人事に思えないのだ。彼が自分を知っている理由は決して、知名度による噂から知った類のものではない。あれはまるで、親しかった人に向ける視線であったように見えた。


『つい先日、友を失いまして。そのことを未だに引きずっているのです。もしかすれば、神子様とその友を、重ねている私がいるのかもしれません』


 彼はこう言っていたが、自分にはどうにも嘘を吐いたようにしか思えなかった。とはいっても、複雑な嘘であった。というのも、嘘の中に真実が混じっていたのだ。

 どうして、青年は完全な嘘を吐かなかったのだろうか。


 最初は青年のことを、こちらを突け狙っている賊だと勘ぐっていた。それは次の日、村の転移先であるこの場所に、青年が偶然いたからだ。余りにも、出来過ぎた話だからだ。


 故に、賊だと勘ぐっていた。だが賊なら、完全な嘘を吐いてもいいのではないだろうか。


『もし、俺が未来から来たと言ったら、お前は信じれるか……?』


 あの言葉は真実であった。本来なら、未来から来たなど、妄言か虚言の類だと唾棄だきすべきなのだろうが。


——放っておきたくない。


 それがミレナの本音であった。


——行こう! 青年の元へ!


 そして彼女の性格上、即断即決は免れないわけだ。


「ミレナ様!! 急に走られては、はぁ、俺の護衛の意味が……はぁ」


 そこに筋骨隆々の男——海老色の髪で、右頬にあざを残したグレイが、ミレナに追いついた。急に、ミレナが「森が騒がしい」と走り出し、グレイは置いて行かれてしまったのである。

 グレイは息を整えながら、ミレナが向ける視線の更に奥——走っていく青年を見つけると、


「このタイミングで、この場所に居るあの男は……? まさか賊!? 撃退したのですね!? ミレナ様、追いましょうか!?」


 同じく賊の可能性を疑った。そして、青年を自分が追い払ったのだと勘違いする。ミレナは「うんうん」と、首を横に振って、


「追わなくていいわ。賊の可能性はない。あれを見て、グレイ」


「はい。あれは、グレートギメラ!?」


 ミレナが指を差すと、グレイはグレートギメラの死体を発見。その顔を瞿然くぜんとさせる。


「森が騒がしかった理由はグレートギメラ。で、私がグレートギメラと遭遇した時に、あの子が助けてくれたの……」


 ミレナはグレイに嘘を吐いた。


 青年の足は遅く無い。グレートギメラを一人で圧倒していたことから類推すると、かなりの手練れなのだろう。

 このままグレイとやり取りをしていれば、青年を確実に見失って——逃してしまう。だから、この場でグレイに青年が賊ではないことを説得させる為、嘘を吐いた。


 グレートギメラに襲われていたところに偶然、相見しょうけんした青年が助けてくれた。そう言えば、グレイは青年を賊ではないと信じざるを得ない。


「グレイ。みんなに伝えて、絶対に戻るって! 私はちょっとだけ、あの子を追うわ!! ジエロ」


「は!? 何をするおつもりですかミレナさッ! て、足が凍って!? クソ!! 待って下さい!! ミレナ様!!」


 ミレナはグレイの足元を凍らせ、足止めを図ると同時、青年を追い始めた。


 グレイや村の皆には、後で謝ればいい。今日は村が転移する日だ。だからきっと、皆に怒られるだろう。でもいい。そのことと、青年を追う追わないの可否は関係ない。

 辛いそうな顔をしている子を見逃すなんてできない。だからいいのだ。


——ごめんみんな……私には、あの子を放っておくなんて、薄情なことはできないの。



「絶対にその顔を、笑顔に変えてやるんだから!!」


 絶対に逃がさない為に、ミレナはその哀絶な背中を追った。



※ ※ ※ ※ ※ 



「ちょっと、足早すぎじゃない!? エルフよりも森を駆けるのが早いなんて……自信無くしそう」 


 ミレナは長耳をげっそりさせながら、自信喪失の思いを声にした。


 エルフは細い体と軽い体重でありながら、人並み以上の身体能力を持っている。その為、整備の行き届いていない森の中で、彼らに勝る種はないと言われている。

 そして、自然の神秘として語られる彼らが、私生活も自然に溢れかえっていたのは研究で分かっている。


 名実ともに勝る種はないはずなのだが。


 青年は森に慣れない人間の身であるにも関わらず、草木が叢生する森の中をエルフのミレナよりも幾許いくばくか早く、駆け抜けていくのだ。

 青年の身体能力は常軌を逸している。とはいえ、ミレナも勝る種はないという自負はあった。故に、自信の喪失につながった訳である。


 蛇足ではあるが、誰かが記した見聞録には『神に創られし人』と、つづられていたそうだ。他にも童話になっていたり、神の半身として崇められていたりもしたらしい。

 ただ、そのほとんどが戦火によって漸減ぜんげんして、今ではエルフの見聞が記された書物は数少ない。

 それこそ、ミレナの持っている教材用の童話本が国宝級の代物になるほどだ。


 当然、持ち主のミレナは、絶対に童話本を資料として渡すつもりはない。


「そうじゃなくて、追い付けないなら止めなきゃ。森の子達に助けてもらうとして、でも、いきなりだったら黒髪の子が攻撃しちゃうかもだし……うぅ、どうしよう」


 お門違いな感情を排して、ミレナは木の枝から枝へと、飛び移りながら青年の背中を追う。

 彼女の言う『森の子達に助けてもらう』というのは、冗談や比喩表現の類ではない。というのも、エルフには共感覚なる能力が携わっているのだ。


 それは自然に近い生き物であればあるほど、力が大きく発揮される。

 例えば、人であるなら感情の表面を、動物であるなら視覚や聴覚の共有。昆虫や植物に至っては、空気や雰囲気などの感覚をそっくりそのまま情報として受け取ることができる。


 更にミレナのような純血のエルフならば、共感覚を活かして動物の身体を借りることが可能だ。

 当然ではあるが、この力にも弊害はある。多大な集中力に、動物特有の移動方法や目に映る物の見え方の違いなど、煩雑はんざつは免れない。


「大きい子は駄目だし、小さすぎる子も駄目。あの子の周りにいる中くらいの子は……いた! 鳥ちゃんごめん」


 青年の上。蒼然そうぜんとした空を飛び回る鳥に共感覚の力を使い、ミレナは身体を少しだけ借りることに。身体の重さと、普段空を飛ぶことは無いミレナは、鳥の身体を拙いながらも操作。よろよろと落ちるように飛行し、青年の前に飛び出た。


『うわぁ!? これ怖い怖い!! 止まって!!』


 ミレナ(鳥)は衝突を恐れて思わず目を瞑ってしまう。羽をばたつかせ、混迷している鳥を見た青年は、怪訝そうに眉をひそめるが、足を止めずに避けた後に再走。何事もなかったかのように疾走していく。


『そこは普通とまるでしょ!?』


 ミレナは胸中で百点満点のツッコミを入れる。台本通りいくのは、物語や小説の中の世界だけということだ。現実は酷薄である。


「ごめん鳥ちゃん!! ええっと、近い子は……」


 ミレナは無理矢理、身体を借りてしまった鳥に謝り、共感覚を解いた。

 第一作戦が失敗。次に共感覚で身体を借りる動物は、


「ミラランジカは遠すぎるから間に合わない。もっと近く近くぅ~いた! 間に合え!!」


 木の中の巣にこもっていたリスだ。


 身体が軽いことを考慮に入れて——入れたのだが、ミレナ(リス)は木から降りようとした時に、足を滑らせてしまった。


『あぁ、なんでこんな時に!!』


 受け身を取ろうと、背中から落ちる身体を半回転。


『着地は前足から、反動を殺すために身体を丸めながら前回転』


 ととなえながら、受け身の取り方を勘考かんこうするミレナ。


 人の身体での受け身の取り方であることと、そもそも論として身体が軽い動物であるために、多少の高さからの落下なら大事無い。

 さりとて、青年を停止させるためにミレナは焦慮しょうりょしている。気付かないのも、しょうがないと言えばしょうがない。


 そんな彼女の煩悶はんもんを知ってか知らずか。眼前で近づいてくる青年。目の前で盛大に落下していくリスを見て、彼は今度こそ足を止めた。


「なっんだぁ!? あ? こりゃリス、か……?」


 身体で受け止め、手に持ったリスを青年は判然としない表情で見やる。

 焦るミレナだったが、杞憂きゆうに終わり胸中で安堵の溜息を零す。何とも僥倖ぎょうこうな感じが否めないが、結果オーライ。シュウを停止させることに成功した。


『あの、ええっと、とにかく止まって!! 話がしたいの!!』


 ミレナは思考の切り替えを挟み、青年を逗留とうりゅうさせようとリスの身体でジェスチャー。流石の青年も、その野生らしからぬリスの動きに、思うところがあるようで、


「止まってって、言ってるのか?」


『そうそう!』


 小さいリスの顔を精一杯に振って、ミレナはシュウの疑惑を確信へと昇華させる。

 そうして、なんやかんやあって青年を逗留させることに成功。


「今の内に!」


 リスから共感覚を解き、木から木に飛び移って逗留中の青年の元へ。その間、リスはというと、突然目の前に居る青年に驚倒きょうとうして、森の奥へと走り去っていった。

 リスの反応の落差に理解が及ばなかったのか、呆然とする青年。しかし、その呆然とする時間も短く、青年は走り出そうと構えた。


——まずい!?


 ミレナは青年が走り出すよりも前に、彼を引き留めようと、


「ストォォォォォップ!!」


 飛びついた。


 ミレナは顔面から青年の背中に「ヘムッ!?」とダイブ。作用反作用が無かったかのように微動なく停止し「ウへッ」と、そのまま地面に落下。青年の両足をガシッとガシッと掴んだ。


「ミレッ!? いや、何故ここに神子様が!」


 こうなれば、青年とて下手に逃げることも出来ない。ミレナは鼻血をたらんと垂らしながら、青年の顔を見て、


「神子様いうの無し! 名前でいいから!」


 取り繕っているのがバレバレの神子様呼びに、指を差して面折した。それから、


「それと、信じるから!!」


 怒りの感情をそのまま声に孕ませ、信じるという旨を道破どうはした。壮烈そうれつな双眸で、青年を逃がさないように睨む。


 今の自分の顔は、真っ赤になった変な顔で鼻血を垂らし、真剣なんてものには程遠い、腑抜ふぬけたものなのかもしれない。

 でも、顔を凄寥せいりょうに歪める青年の瞳を睨む。視線を逸らすことを許さない。逃がさない。


 実際、青年を睨むミレナの顔は、背中に激突したことで赤く腫れ、鼻からは血が垂れる変な顔だ。

 だが、それらの負の要素を、壮烈な双眸だけで振り切っていた。


 何故、彼が親しかった人に向ける瞳で、こちらのことを見ているのか。

 多分、『未来から来た』ということが関係しているのだろう。というか、そうなら辻褄つじつまが合う。それしかない。多分きっと、そうだと思う。


 この子と私は親しかったのだろう。


——何となくだけど、私とこの子が親しかった理由、分かる気がする……


 どうしてか、これから親しくなる未来が、簡単に想像できてしまう。


 ミレナは青年を『逃がしちゃいけない』という感情で睨み続けた。


「な、何を……」


 青年はそう言って、目を逸らした。


 よし、こっちの勝だ。

 青年が目を逸らしたということは、表情から真っすぐな思いが伝わったという証明だ。


 大きい体の青年だが、今は自分の小さな背丈よりも、何故だか小さく見えてしまう。そう見えるのは青年の心の中に、まだ幼い何かが残っているからであろう。

 身体が大きく、それに見合った精神性を兼ね備えていても、中身の芯の部分が幼ければ包装紙もいいところだ。


 常命の人間で、おまけに超が付くほどのいい子だ。これほどに可愛い子を見るのは長寿な人生でも、そうそうない。


「——未来から来たって、あの言葉、私は信じるわ。だから、貴方の名前、教えてくれる?」


 ミレナからすれば、六十を超えた人間でもまだ子供である。対して、こちらは千年近く生きているエルフのお姉さんだ。これこそ、年の功である。

 青年の述懐が世界に広がり、例え多くの人が彼の言葉を信じなかったとしても、自分だけは彼を信じてあげよう。誰よりも長寿で、誰よりも別れを知っている筈のお姉さんが、親身になってあげよう。

 だって分かってあげなければ可哀想すぎるし、彼が報われない。


「——ッ!? でも、俺はお前を……」


 立ち上がって手を差し伸べるミレナに、青年は一歩後ずさる。

 逃がさない。逃がしてはいけない。そうやって、青年のように一人で何もかもを背負おうとした人達の顛末てんまつをミレナは知っている。痛い程に観てきた。


 できるなら過去に戻って、命を落としていった彼らに、声を掛けなかった自分を叩いてやりたい。

 だが、彼たちの尊き命があったからこそ、救えたものは多い。この命が救われたからこそ、救えた命がある。だから、これはただの悔恨かいこんだ。


——しかし、今はどうだ。未来はどうだ。


 この悔恨を、慚愧を、後悔を。この胸でうごめく黒い淀みを、知覚している今なら、止めていいはずだ。止めて悪い道理など、あるはずがない。救えるはずの子を、見捨てていいはずがない。見捨てていい理屈を、許せるはずがない。


 ここで彼を止められるのは自分だけだ。外野からの野次など気にするものか。


「未来で何があったのかは知らない! 信じれる根拠もないし、不思議でたまらないけど、それでも! 私は貴方を信じるし信じたい!!」


 ミレナは鼻血を拭き取り、青年の右手を両手で包み込むように握る。


「私の顔を見て、辛くて泣きそうな顔して、それにもかかわらず、誤魔化そうとして! そんな子を、優しい子を見捨てられるわけない! 見捨てたくない!!」


 青年を逃がさないように、両手の握る力を強くした。

 

 今度こそは後悔したくないから、エゴだと言われても止める。

 いいや、エゴだ。だけど止める。止めてやるわ。


 ——だって今、私、最高に止めてよかったって思ってるもん。


「神子、様……」


「名前で呼んで、肩書じゃなくてちゃんと名前で……」


「ミレナ……」


 今までの神子様呼びは、拙い嘘。こちらのことを肩書ではなく名前で呼ぶのが、彼の本懐ほんかいなのだろう。


「うん! それでいいの……」


 グッと押し潰されるような空気の重さと、青年の背負っている陰鬱な重荷が、少しだけ軽くなったのを、ミレナは肌で感じ取った。

 これはミレナの共感覚の性質によるものではない。誰でもわかる、嫌な空気が良いものに変転した時の感覚だ。

 考えるまでもない。だってほら、


「自分で、感情論だって分かっててそれか……身勝手なお嬢様だ」


 青年の顔は喜色きしょくに溢れている。


「えへへ、だって私、わがままだもん!」


「本当にその通りだ……でも、ありがとう」


 青年は少しだけ涙を零し、ミレナの両手を握り返した。


「どういたしまして! 貴方の名前を、訊いてもいい……?」


 ミレナはニッコリ笑い、青年の右手から両手を離して、背筋を伸ばして敬礼ポーズ。崩して、今度は本当の握手をしようと右手を差し出す。


「シュウだ。イエギク・シュウ……姓がイエギク。名がシュウ」


 黒髪蒼眼の青年——シュウはミレナが差し出した手を取り、握手を交わす。握手したことでニッコリ笑うミレナの顔を見て、その真っすぐな瞳に見つめられ、シュウは恥ずかしそうに涙を拭い、微笑した。


「シュウ。貴方の背負ってる物、私にも背負わせて……うんうん、これじゃ貴方は断りそうだから、そうね……その背負ってる物、私が勝手に背負うから!!」


 ミレナはシュウの手をぎゅっと握りしめる。

 その握った手は大きくて、頼りがいのある手だ。今しがた、小さく見えた彼とは思えない、暖かくて強い手だ。


「険悪な空気は嫌なの。笑っていた方が絶対に楽しいし、嫌なことがあれば、それよりも強い気持ちで振り払っちゃうの。悲しいことがあれば、周りの誰かが慰めてあげて、その後は楽しい話をして、笑い合えばもう大丈夫だわ……嫌を嫌で、最悪を最悪のままで終わらせちゃいけないのよ」


 過去。ずっとずっと遠く、その遠くの場所よりも遠い、はるか彼方の思い出。誰かに言われた言葉だ。大切な人が誰かは分からないけど、きっと大好きな人だ。大好きな言葉だ。


 その思い出では、大切な人から言われた言葉だが、今は自分から言った言葉だ。

 

 変われる気がする。変われた気がする。変わった気がする。


——きっと、いい未来が待ってる。


「全く、そのセリフ、今言うの反則だろ……」


 空いた片方の腕を額に当てながら、シュウは下を向いてそう言った。

 ミレナはその彼の反応に、


「ほれほれ、泣いちゃう泣いちゃう?」


 人差し指でつんつんとお腹を突いた。

 泣きそうになったのを誤魔化す仕草がまた可愛くて、ついつい弄りたくなってしまう。


「るっせ、俺はもうガキみたいに泣かねぇって決めてんだ。あの二人の前以外では、な……」


「…………」


 あの二人。


 まだ思い出せないけど、自分に大切な何かがあったように、シュウにも大切な人がいるのだろう。こういった子のことだから、恐らく家族。それも父親と母親だろう。


——パパとママの前だったら泣いちゃうのね……


「俺はもう二十一だ……だから、泣かねぇって決めてんのに、どうしてだろうな……前が、はっきり見えねぇや……」


 シュウが隠した腕の内側——頬に涙が伝う。泣く事を隠して、暗涙あんるいしようとするシュウの頭に、ミレナは手を伸ばして触り、


「辛い時は、泣いてもいいの……ね、だから嫌なもの、全部吐き出して」


「……ごめん……少しだけ、休む」


 膝を付いて、咽び泣くシュウ。彼は額から腕を退けて、滂沱ぼうだとした涙を零していく。

 ミレナはシュウを優しく両手で包み込み、その心の傷を治してあげたいと、慈しむように抱きしめた。


 シュウが何の頸木なく、豁然かつぜんと前に進めるように、彼に肩を貸そう。荷物を一緒に背負おう。

 ミレナはそう決意する。


「どう? 少しは落ち着いた……?」


「——あぁ、もう大丈夫だ……」


「ふふ、目の下赤いわよ。可愛い」


 少しだけ泣いて、悲しい思いや辛い思いを吐き出したシュウは、目元を拭って立ち上がる。その彼の赤くなった目の下を見て、ミレナはいたずらっぽく笑った。


「るっせ、っておい? どうした急に?」


 嘲弄ちょうろううざしと、ミレナの頭に軽くチョップしようとしたシュウだが、直前で手を止めた。

 シュウが、特に何かしたわけではない。ミレナが突然、シュウにもたれるように倒れたのだ。

 ミレナが倒れてしまった理由は単純明快。実は、ミレナが鼻血を出していたのは、顔を地面にぶつけた所為せいではなく、


「ごめん、もう動けそうにないので背負って行ってください……共感覚の弊害です」


——共感覚を使ったことによる弊害だった


 シュウは呆気にとられたように「あ…………」と、声を漏らす。それから、ため息を吐きながらも、ミレナを背中に乗せておんぶした。

 ミレナはシュウの大きな背中に抱き着いて、鼻血をふき取る。そして、彼の後頭部に自身の頭を預けた。


——果たして、シュウのアルヒスト救済の旅路に、ミレナが加わったのであった。

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