第19話 初めまして、こんにちは
「戻ってきた……」
木々が
森を抜け、山を越えれば町があり、都市があり、スラム街があり、孤児達に私腹を分け与え、亜人迫害の問題を解決しようとする傑人。
どれも、黒髪蒼眼の青年——シュウにとって欠けてはならない大切な存在であり、
でも、そうだと分かっていても、一刻を争うと理解できていても、シュウは村民に、騎士のグレイに、エルフの少女——ミレナ会いたいの一心であった。
あの惨状がなかったかのような、静謐な森だ。だが
いや、焦るな。
「…………」
暑いのにも関わらず、シュウはウィンドブレーカーを脱がずに歩き出す。
この暗鬱な感情は、モワティ村に、グレイに、ミレナに会えば全てが改善される。一変される。
見るのだ。確認するのだ。会うのだ。
止まらない歩み、止められない歩み。この目で生きているかを確かめたい。確かめなければならない。
遅鈍な思考回路。それでも足取りは早かった。
シュウ自身に自覚は無かったが、森の中を迷いなく進むことができたのは、彼が思っている以上に地形を把握していたからだ。
その証拠に、シュウは異世界で最初に会った魔獣とも遭遇することなく、ミレナとグレイが居た溜池に辿り着いていた。
しかし、そこには——、
「誰も、いねぇ……」
時間経過は
シュウは前の世界線で魔獣と遭遇し、毒に侵され眠りに落ちたことを思い出す。
今回はそれをスキップしたことで、少しだけ早く付いたわけだ。
スキップしたことで生まれた時間差が、ミレナが水浴びをする時間より早く着いた、という結果を招いたのだ。
そのはずだ。
——早く着きすぎただけだ、村に行けば必ず会える……
「村……確か、こっちだ」
シュウは記憶を頼りに、ミレナとグレイに
しかし、またしてもそこには——、
「な、なんで……? 確かここに! ここだったはずなのに!!」
相も変わらない森が、広がるだけだった。溜池から、村までの道のりは間違っていない。場所は間違っていないはずだ。はずなのに。
シュウは「嘘だろ……」とこぼし、その場で立ち
本来、村が存在しているはずの場所には、人が住んでいた形跡すらなかった。あるのは獣道と
その光景は、現実は、シュウが眠りに落ちていた時間のことなど、関係がない証左であった。
『君が異世界で体験したこと、君の感じたものが全て、僕の脳に情報として送られてくるんだ。人の感情だよ。飽くことのない激情さ』
『対価は君とその周りから生まれる感情の共有』
『君の葛藤する姿が見れて僕は最高の気分だ!!』
蘇って来る、創造主の死体にたかる蛆虫のような言葉。奴の目的は、こうやって自分が苦しむ姿を見て、楽しむことだ。飽くなき激情を共有して、満ち足りない心を快足させることだ。
彼彼女はこう言った『時間を巻き戻す』と。だがそれが、嘘偽りのないことの、目的を果たす為に吐いた
何故なら、今実際シュウが暗い激情を抱いてるように、本当だろうが嘘だろうが目的は達成できるからだ。
寧ろ、
——もう終わりだ……
——違う! 頼む、
終わりだという諦念に、邪推であってほしいという渇望が、シュウの胸中で
「グルルルル……」
そして、邪推を後押しするように最悪が現れた。
「なんでお前が、ここに……」
黒い体躯に尻尾には蛇の頭。鍛え上げられた隆々の四肢に、顎下から滝のように流れ落ちる涎。空腹に苛立ちを
運命から逃がさぬように。
「尻尾が戻って……」
暗然とした世界に光が差し込む。尻尾が元に戻っているのなら、時間も巻き戻って——、
「いや……」
尻尾が元に戻っているから時間が巻き戻った。シュウは瞬刻だけそう考えたが、途中で否定できる材料があることに気付いた。
それは、傷を治す治癒魔法である。魔獣の傷を治した者がいれば、この考えも瓦解する。
暗然とした世界に差し込んだ光は、獲物を
「ガルルルル……ギャオ!」
「ッ!!」
グレートギメラの威嚇に、シュウは気圧され後退る。グレートギメラは野獣の眼光で彼を睨み、空腹を満たすのに持って来いだと、四肢を低くして構えた。
背中にずっしりと乗っている、持って行き場のない重荷が、さらに重くなるのを感じる。
最悪の袋小路に、シュウの精神は追い詰められていく。精神が
「逃げるしか——なッ!? しまッ——!!」
叢生した草の下——
シュウはそのまま数メートル吹き飛ばされ、後方の木に激突。胃袋が圧迫されるような感覚に
「まず、い……」
波に揺られているように、視界が明滅しながらグネグネと歪む。身体を動かし、逃げようとするが手足に力が入らない。身体が鉛のように重いのだ。
グレートギメラからクリティカルヒットを食らい、シュウの脳が揺れたのである。
遅鈍なシュウは魔獣にとって、まさに間抜けな獲物。事実、こちらに向かって一歩ずつ歩いて来るグレートギメラの双眸は、シュウを敵と見做していない。空腹を満たす肉として見ている。
死ぬ。現実に戻る権利を賭けておいて、それを無駄にして、何も出来ずゴミのように死ぬ。
『シュウ、私を助けて』
トラウマがフラッシュバックするように、頭に痺れるような痛みが走った。胸の中心に惨たらしい傷を負ったミレナ。
——似ている。
生前、大切な人の死すらも蔑ろにした記憶。陰惨な死を見て、逃げ惑って
今の自分は、まるで過去の自分のようではないか。いや、死ぬかもしれない今は過去よりも更に酷い。
——そんな終わり方でいいのか?
「違う、だろ……まだ、死んでねぇ……まだ、時間が巻き戻ってないって、決まってねぇ……グレイさんや、ミレナが生きてないって、決まった、訳じゃねぇ!」
そうだ。まだ死んだと決まった訳じゃない。身体は動かしずらいが、動かない訳じゃない。対抗策が全くない訳じゃない。
ミレナやグレイたちが死んだままで、時間が巻き戻ってないってどうして言い切れる。勘違いだ。邪推だ。勘ぐりだ。
「ガル!?」
よろめきながらも、
シュウの変化に警戒したのだ。
「なに、クソ思考巡らせてやがんだ!」
騙された。利用された。時間は巻き戻っていない。
——うるせぇ。
お前一人では何も、誰一人として救えない。
残るのは仲間を失った喪失感と、その胸の中に残り続ける劣等感だけだ。
——喋んな。
無駄に足掻いて苦しむだけ苦しんで、結局お前は負け——、
「黙りやがれぇぇぇぇ!!!!」
シュウは女々しい
振動によって木々が揺れ動き、慌てふためいて逃げる動物たち。グレートギメラは一歩二歩と退いた。
力なく地面から顔を上げ、こちらを嘲笑ってくる青空を眺める。垂れ落ちる血によって視界は赤く染められ、青い空も赤く染められる。
——シュウの中から、女々しい諦念がなくなっていく。
痺れ震えていた脆弱な足は強く逞しい強靭な足に変わり、力の入らなかった腕には凄まじい力が
「やらなきゃなんねーんだ」
シュウは血塗れの状態で、人が変わったように
一見は負け犬のような姿だ。だが、グレートギメラは低く唸り、その面貌を力感が溢れるものに変え、シュウを威嚇する。
つい先程まで、いじけて悲観的になっていた獲物が、
それが更に、自分以上の強者へと変化を遂げたなら尚のことだ。
戦闘態勢——既視感のある構えは火球を放とうとする攻撃に違いない。
開かれた口の中心から
「ゲイル!!」
正面から直進してくる火球に、シュウは風魔法をぶつけて真っ二つに両断。火球が爆発四散し、舞い散る火の粉の中、突貫する。
こちらを捕らえようと伸びる蛇頭を
「ガァ!? ギョォォ!!」
痛みに苦鳴をあげるグレートギメラ。シュウはすかさず、グレートギメラの蛇頭を掴もうと、その身体の下に滑り込む。グレートギメラは蛇頭を自身の股下に入り込ませ、シュウに攻撃を仕掛けた。
「————ッ!!」
対して、シュウは超速反応で蛇頭を蹴り飛ばし、
「フッ!! ラァ!!」
「ぅぅごぉぉぉぉ!!!」
グレートギメラを地面に叩きつけ、振り回して投げ飛ばした。それから、叩きつけた時に出来た小石を掴み、軽く振りかぶって、立ち上がったグレートギメラに向かって散弾銃のように投げた。
「ガオ、ギョギョギャオ!!!」
小石がぶつかり、肉を抉られた魔獣は痛みに嘆き、もんどりうつように暴れまわる。付近の地面や木々、岩などは爪痕で抉られ、付近にない物は蛇頭の毒で溶かされる。
シュウは飛んでくる毒を後ろに飛んで避け、もう一度、落ちていた小石を拾ってグレートギメラに
しかし、
「ギョオォォォォ!!」
「ッぶねぇ!?」
上体をのけ反って、間一髪で火柱を避けた。そのまま、のけ反った勢いを殺さずバク転して、態勢を立て直す。
その間、グレートギメラは間合いを詰め、シュウを鉤爪で斬殺しようと右前脚を浮かせて手前に引く。シュウは問題ないと、後方に飛んで避けようとしたが、
「まずい!?」
後方の状況を確認していなかった所為で、木に背中をぶつけてしまったのだ。致命的な判断ミスである。
シュウの動きがワンテンポ遅れ、グレートギメラの鉤爪が彼の腹を引き裂く。
——ここで、殺るしかねぇ!
火急に決着を着ける為、シュウは先程拾った小石をグレートギメラに投擲する。
グレートギメラは小石を
「ゲイル!」
それよりも早く、シュウの風魔法がグレートギメラの右前脚を切断した。
「ギョガ!? ガギャオ!? ギョォォォ!!」
鮮血が飛ぶ。
右前脚を切断されたグレートギメラは倒れ込み、痛刻に唾を吐き出し赤子のように泣き叫ぶ。
それを絶好の
「悪いが、ここで——ッ!?」
「いっちゃダメ!! 蛇頭の牙には猛毒が塗ってあるの!! だから逃げて!! フロストメアハイト!!」
そこに、
左後方、そこから四つの氷柱が、グレートギメラに向かって放たれる。二つの氷柱は、シュウに毒を放とうと構えていた蛇頭に直撃。残りの二つは、心臓と顔面に突き刺さった。
グレートギメラは斃れた。
「もう大丈夫!! でも、万が一があるからこっちに来て!!」
聞き間違えではない。この異世界で誰よりも、一番早く聞きたかったエルフの少女の声だ。生きている。彼女は生きているんだ。
「何してるの!? 早く!!」
「あ、あぁ!!」
感動の再開に足を止めるシュウを、少女——ミレナは叢生と茂っている草から顔を出して叱責。シュウは安堵と
薄緑色の髪と翠眼。つけ耳を疑うような長耳。そして、
「ミレナ!! ミレナなのか!?」
腰の高さまである草をかき分けながら、シュウは疑惑を確信へと昇華させるために問うた。
この場所、この時間にいるエルフなどミレナで確定なのだが。それでも、名前を問うたのは——名前がミレナだと分かれば、己の中に残る諦念を、今ある悪感全てを、殄滅できると思ったからだ。
「貴方! 何で私の名前を!?」
何故名前を知っているのか。それは直接な答えではないが、そう問い返したということは、彼女の名前が紛れもなく『ミレナ』である証拠だ。
擦り切れかけていた精神が、治癒されていく。千切れ、結びなおした糸。それが解けそうになり、またそれを強く結び直して、やっと出逢えた。
心拍数が上がり、呼吸の回数が増えていく。
これは目的や目標を達成した時に感じる『昂奮』だ。出血によって
でなければこの胸の高鳴りは、安堵と快美は説明できない。
行き先の見えない暗い洞窟の中に、
シュウは嬉しさの余り、ミレナに
「…………」
シュウを、疑いと恐怖の目で見ていた。
——シュウの
シュウはミレナが先程言った言葉を思い出し、
「名前を知ってるのは……事前に知らされていたんだ。よかった。生きていてくれて……」
惑わせないように言葉を選んだ。選んだのだが、
「生きていてくれてッて、どういうこと……?」
やはり、頭の回転が速くない自分には、
いきなり「生きていてくれてよかった」などと言っても、相手を惑わせるだけだ。今ここに居るミレナは、自分が知っているミレナではない。こちらのことを知らないミレナだ。
誤解を解くために、先ほどの発言を撤回しなくては。シュウはそう思い、止めた歩みを再び動か——、
「あ、待って! それ以上は近づかないで、まだ貴方に対して警戒心を無くした訳じゃないの」
ミレナは右掌を見せて、シュウに止まってくれと合図を送った。
——もう一度、シュウの胸臆に痛みが走る。
シュウはミレナの発言は至極真っ当なものだと、自分に言い聞かせ「そ、そうだよな……」と、歩みを止めた。
そうだ。自分は、ミレナからすれば見知らぬ男だ。モワティ村に向かって来た賊で、その中途、グレートギメラに襲われてしまったという可能性は拭いきれない。
何もおかしくはない。正常だ。
落ち着け、彼女に信用してもらう為に最も良い材料を探すのだ。頭を巡らせろ。必ずある筈だ。
思索の末、浮上してきた材料は、
「ッ! 手紙だ! 手紙は届いてないのか?」
手紙だった。
前の世界線で、ミレナが部外者の自分に怖れることなく近づき、モワティ村に招き入れてくれたのは手紙があったからだ。
時間が巻き戻ったのなら、手紙は必ずミレナの元に届いている。その手紙には、村が襲われることや、自分に関する
「手紙? ごめんなさいだけど、ここ最近で手紙を受け取ったことは無いの……だから、そこに居て」
「手紙が、届いてない……?」
またもや期待を裏切られる言葉。無理解がシュウの脳内を駆け巡る。否、答えは彼女が指し示しているではないか。
手紙が彼女の手元に届いていないだけだ。或いは、創造主が今回は手紙を書いていないのかもしれない。
シュウはそうやって、自分を言い聞かせる。
大丈夫だ。ミレナ達が生きているのならそれで十分ではないか。これ以上に、幸福なことはない。
「輸送管理側の手違いかもしれないわ。でもごめんなさい。届いていないものは届いていないの……そこは理解して」
「そうだな……」
前回、楽に関係を築けてしまった故に、感覚が麻痺していた。なら、初対面の相手との関係の築き方を、卒なく
ただし、彼女らは人間を恐れている。最初に大きな隔たりがあるのは確かだ。慎重に、そして優然とした心で溶け込み——そうやって考えているうち、シュウは自分が本末転倒な考えをしていることに気付いた。
——これでは、前回の二の足を踏むことになってしまう。
前回、ミレナ達を助けられなかった理由はなんだ。モワティ村に馴染もうとしたからだ。助けることに注力しなかったからだ。無駄が多かったからだ。
ならば言うまでもない。今回は物言わぬ無駄のない機械として、この身を酷使するまでだ。どうということではない。慣れている。決意したのなら実行しろ。
「いえ、そうですね……手紙が届いていないのなら、仕方ありません」
突としてシュウは片膝を付き、目線を地面に移動。ミレナの前に跪いた。
その姿は、ミレナを
「それよりも、先程までの非礼、誠に申し訳ございません。エルフ様があの神子様だと気付けませんでした。何分、私は教養の足りない辺境生まれの
「…………? 急にどうしたの……」
ミレナはシュウの突然の変化に、疑問符を浮かべる。
自分でも驚くくらいに、
「どうもこうも、恐れ多くもエルフ様はアルヒ様の神核を、その胸の中に宿される御方……それを知らず、そして推し量ることが出来なかった我が過ち、非礼の謝罪をさせていただいたのです。ですので、平にご容赦を……」
これでいい。これがベストだ。
時間が巻き戻り、ミレナの生存が確認できた今、やるべきことは既に決まっている。過去を思い出せ。失敗した
あのままで終わらせない為に、ミレナやグレイ達を救う為に、異世界に舞い戻って来たのだ。
ミレナが今際の際に『一人の女の子として、接してくれて幸せだった』と、言ったように、ミレナは特別扱いされるのを
ここでミレナを特別扱いして——彼女の周りに居る者のように
「重ねて、先程、グレートギメラに襲われていた私に
「ん……うんうん、私がしたくてそうしたんだもん。お礼なんていいわ。それに、そんなに
片膝を付き、恭謙と畏まるシュウを見て、ミレナは困ったように両手を小さく振る。だがシュウは、
「驕らない神子様の精神、その謙虚な姿勢。感服しました」
更に恭謙と畏まる。
「……私がそうしたくてしたってのは嘘じゃないわ。貴方が思う程、私は謙虚じゃない。だから、そんなに畏まらなくていいの……顔を上げて」
シュウの一切無駄がない
今、ミレナの顔を直視してしまえば、決意が、物言わぬ機会として動くという決意が、揺らいでしまいそうになったからだ。
「いえ、鼠輩の私が、神子様にそのような粗相など……」
シュウはミレナの要求を拒否した。
「…………」
一度見せた弱さを、拙い言葉で繕っていくシュウ。その彼を見て、ミレナは長耳を下げ、瞳を少しだけ陰らせた。
シュウはミレナの
弱さを繕うことへの意識。そして今後、無駄のない動きを、効率的に動くにはどうすればよいか。そのことで、脳みそを奔走させているからだ。
シュウは考える。
そうして思い出した記憶は、情報は、
『中央政府に向かった時、近くにあるスラム街に訪れるといい……そこに打開策があるよ……』
創造主の言葉だった。その情報がシュウの脳内で、他の情報とリンクする。
その情報とは、
『魔女様が死んだ後、数百年に一度だけ、罪滅ぼしの為に魔女様の魂が蘇んだよ。それで、その魔女様の魂と出会った奴は未来の啓示と、魔女の切手が与えられるんだ。未来の啓示は百発百中! 魔女様の言葉通り動けば、絶対にその通りに事が動くんだぜ!』
アルヒスト中央都のスラム街でフーナと、
『魔女様が現れたのは二日前です。場所はリーカル領跡地』
リメアが言っていた情報——言葉だ。
解決の糸口が垣間見えたと、シュウは胸中で
魔女の未来の啓示が百発百中であるというのは、この世界では周知。ならば魔女から未来の啓示を受け、その証拠である魔女の切手を受け取れば、国を動かすことも可能だろう。というか、動かざるを得ないはずだ。
何故なら、ミレナの胸の中にはアルヒストの主神アルヒの神核があるからだ。国王に恩があるからだ。
魔女から未来の啓示を受け、それを国に叩きだす。当然、啓示の内容が違えば、こちらにとって都合よく
——利用できるものは、全て利用してやる。
クソッ垂れた運命を、自分にとって都合のよい未来に変えてやるのだ。
シュウは
「神子様、
「いいけど、でもあそこって、
シュウは「はい」と頷きながら、自身の足の速さと休息を
ミレナは腰に掛けた
「これお水ね」
「
それを跪坐するシュウに差し出す。シュウは跪坐したまま、両掌を出して水筒を受け取る。それを懐に仕舞い、ミレナの顔を見た後、目を逸らすように
やはりミレナの顔は見ることが出来ない。これ以上、彼女のことを強く意識してしまうと、今まで拙くも必死に繕ってきた皮が
「では、私はこれにて」
シュウはそう言って立ち上がり、逃げるように振り返ると——、
「あ、まって!! お腹の傷は大丈夫なの?」
ミレナはシュウに声を掛けて止めた。指摘された腹部の傷を、シュウは一度見やる。
魔獣の鉤爪に付けられた、止血が必須の傷だ。果然、血はまだ止まっていない。ミレナが大丈夫と訊いてきたのは、治癒魔法を施そうとしてくれたからだろう。
シュウは
「これ以上、神子様のお手を、煩わせることはできません。それに心配ご無用です。この程度の傷なら、止血すれば直ぐに治ります。ですのでご心配は——ッ」
「あぁもう! いいの!! 傷見せて! 治癒魔法を施すから!!」
「ですが、神子様——ッ」
「いいったらいいの!!」
もう頼れない、頼りたくないと逃げるシュウの腕を、ミレナは自ら近づいて強く掴んだ。シュウが俯いて顔を隠そうとするが、ミレナは逃げるなと強引に覗き込み、目を合わせる。
ミレナは物理的にも精神的にも、シュウを無理やり掴んで離さない。
シュウは見知らぬ男で、自身を狙っている賊かもしれないのにだ。それも、全くの
今のシュウは、誰が見ても分かる
シュウは睨んでくるミレナの目から、顔は逸らさず目だけを逸らす。その逸らしたシュウに、ミレナは「ん」と不機嫌そうに小さく
彼女に小さく呻られたシュウは、反射的に逸らした目を戻す。
そうして
「恩を売るとかそういうのじゃない。これは、私がやりたいからするの……」
治癒魔法を施していく。
「そうね、貴方は私がやりたいことをさせてくれた。だからさっきの扶助はこれでチャラ。だから貴方はこれを、勝手に受け入れればいいの。分かった?」
体中が暖かい感覚で癒されていくのが分かる。
——何をやっているんだ、俺は……
「見返りは、うんうん、施しは一切合切不用だから。理由は、施されちゃったら、私が返さなきゃいけなくなるから……そんなの面倒」
出血が止まり、抉れた肉が、傷が塞がっていくのが分かる。節々の痛みも引いていくのが分かる。
——手を離すんだ。今すぐ振り払って、リーカル領跡地に向えよ! 何、当たり前のように治癒魔法受け入れてんだよ!! 俺は!!
「よし、これで大丈夫。傷、完全に塞がったわね」
腹の傷が、体中全てから痛みが無くなった。
「感謝します……神子様、本当に、何も返さなくてよろしいのですか……?」
シュウは哀絶とした表情のまま、ミレナに質問した。ミレナはそのシュウをムッとした顔で睨み、
「当たり前……というか、そもそも返しじゃない。言ったでしょ? 施されちゃったら、私が返さなくちゃいけないから」
鼻を人差し指でツンと押して答えた。
その表情と言葉がムカつく、ということである。
——シュウの胸臆の痛みが、少しだけましになっ……
「そうですか……本当に、本当にありがとうミレナ……いえ、神子様。では今度こそ、私はこれで」
シュウは剥落しかける皮を必死に元に戻し、今度こそミレナと別れようとした。シュウが敬語を使わず、神子でなくミレナと呼ぶ時、彼女はその顔を
シュウの振り返り歩いていく様に、逃げるような要素は無かった。
実際、シュウには惜別の気持ちは無かった。それは、ミレナの隔たり無く治癒魔法を施してくれる様が、前回の彼女と会えたかのように思えたからだ。
「あぁ待って! ごめん、また止めちゃって。でも、最後にこれだけは訊きたくて…貴方、なんでそんなに、嘘を吐くの……?」
しかし、ミレナはシュウをもう一度止めた。
シュウは歩みを止め、ミレナを
「違うわね。なんでそんなに、私を避けようとするの……? なんで、貴方の顔は、悲しそうに、辛そうにしているの……?」
「————ッ!?」
思いもよらない言葉であった。
ミレナの顔が、
悲しそうに、辛そうにしている。そう言えると言う事は、表情を取り繕うことが出来ていないということだ。となれば、その失態の尻拭いをしなくては。
「それは……そうです。つい先日、友を失いまして。そのことを未だに引きずっているのです。もしかすれば、神子様とその友を、重ねている私がいるのかもしれません」
ミレナの
「そう、それは辛いことね……」
猿芝居もうまくいったものだ。その証拠に、ミレナからの憐憫が少しだけ和らいだように思える。
『重ねている』と言えば、トラウマへの踏ん切りを付けようとしているのだろう。そうやって推考できるはずだ。
「一人で大丈夫なの……?」
「はい大丈夫です」
上手くいった。これで、これで、失態の、失態の尻ぬg——、
「その、神子様は……」
「ん……?」
——ミレナは、俺が未来から来たと言えば、信じてくれるだろうか……
忽然と頭に浮かび上がった疑問だった。その疑問が、シュウの胸中を瞬刻だけだが埋め尽くす。
訊きたい。訊いて縋って精神を落ち着かせれば、きっと楽になるはずだ。もっと楽に——、
「ミレナは……」
いや、言っては駄目だ。それを言えば、彼女の優しさに頼ってしまうことになる。無駄を省き、物言わぬ機械のように、この身を酷使すると決意したばかりなのに。未練なく別れようと、決めたばかりなのに。それなのに。
——前回のミレナと、会えたかのように思えた。
それだけで、決意を歪めてはならない。
その甘さのツケが回ってきたからこそ、失敗したのではないか。ならない。それだけは決して言ってはいけない。
「——もし、俺が未来から来たと言ったら、お前は信じれるか……?」
「え……?」
言ってはならないのに、
——不甲斐なさが、弱さが、甘さが、感情が、言葉に出てしまった。
「いや、申し訳ないです! 世迷言ですので、どうかお気になさらず! では!」
シュウはどっちつかずの状態——最悪な状態で逃げた。
「あ、貴方の名前は!!」
ミレナを見もせず走った。彼女が何かを言った気がしたが、振り向かない。振り向くな。
今ここで、彼女の答えを聞けば、本当に頼ってしまう事になる。だから、聞かない為に
——何やってんだよ俺は! 何頼ろうとしてんだ!!
——二度と失敗しないって決意を、歪めてどうするってんだ!!
「守らなきゃ、何ねぇんだ……守るって、助けるって決めたんだ……待っててくれ、ミレナ……」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます