第19話 初めまして、こんにちは

「戻ってきた……」


 木々が鬱蒼うっそうと生い茂った蒸し暑い夏の森。虫や動物の鳴き声が右往左往する山。人里から離れた場所に、迫害を受けた亜人たちが住むハーフの村。その村を守護する騎士の男達と、彼らを率いるエルフの少女。


 森を抜け、山を越えれば町があり、都市があり、スラム街があり、孤児達に私腹を分け与え、亜人迫害の問題を解決しようとする傑人。


 どれも、黒髪蒼眼の青年——シュウにとって欠けてはならない大切な存在であり、遺漏いろうなど許されるはずもない助けるべき存在だ。


 でも、そうだと分かっていても、一刻を争うと理解できていても、シュウは村民に、騎士のグレイに、エルフの少女——ミレナ会いたいの一心であった。

 あの惨状がなかったかのような、静謐な森だ。だがかえって、その静けさがシュウには嘘にしか思えなかった。仮面や化粧で、綺麗な嘘で、塗り潰されているように見えてしまう。


 いや、焦るな。


「…………」


 暑いのにも関わらず、シュウはウィンドブレーカーを脱がずに歩き出す。


 この暗鬱な感情は、モワティ村に、グレイに、ミレナに会えば全てが改善される。一変される。殄滅てんめつされる。


 見るのだ。確認するのだ。会うのだ。


 止まらない歩み、止められない歩み。この目で生きているかを確かめたい。確かめなければならない。

 遅鈍な思考回路。それでも足取りは早かった。


 シュウ自身に自覚は無かったが、森の中を迷いなく進むことができたのは、彼が思っている以上に地形を把握していたからだ。

 その証拠に、シュウは異世界で最初に会った魔獣とも遭遇することなく、ミレナとグレイが居た溜池に辿り着いていた。


 しかし、そこには——、


「誰も、いねぇ……」


 時間経過はおよそ二時間ほどだった。


 シュウは前の世界線で魔獣と遭遇し、毒に侵され眠りに落ちたことを思い出す。

 今回はそれをスキップしたことで、少しだけ早く付いたわけだ。

 スキップしたことで生まれた時間差が、ミレナが水浴びをする時間より早く着いた、という結果を招いたのだ。


 そのはずだ。


——早く着きすぎただけだ、村に行けば必ず会える……


「村……確か、こっちだ」


 シュウは記憶を頼りに、ミレナとグレイに随伴ずいはんした時に見た景色——村に繋がる道を見つけた。食いつくように走り出し、シュウは村へと向かう。


 しかし、またしてもそこには——、


「な、なんで……? 確かここに! ここだったはずなのに!!」


 相も変わらない森が、広がるだけだった。溜池から、村までの道のりは間違っていない。場所は間違っていないはずだ。はずなのに。

 シュウは「嘘だろ……」とこぼし、その場で立ちすくんだ。


 本来、村が存在しているはずの場所には、人が住んでいた形跡すらなかった。あるのは獣道と叢生そうせいした草木、そして鬱陶しいちょうのような虫のみ。

 その光景は、現実は、シュウが眠りに落ちていた時間のことなど、関係がない証左であった。


『君が異世界で体験したこと、君の感じたものが全て、僕の脳に情報として送られてくるんだ。人の感情だよ。飽くことのない激情さ』


『対価は君とその周りから生まれる感情の共有』


『君の葛藤する姿が見れて僕は最高の気分だ!!』


 蘇って来る、創造主の死体にたかる蛆虫のような言葉。奴の目的は、こうやって自分が苦しむ姿を見て、楽しむことだ。飽くなき激情を共有して、満ち足りない心を快足させることだ。


 彼彼女はこう言った『時間を巻き戻す』と。だがそれが、嘘偽りのないことの、目的を果たす為に吐いた欺瞞ぎまんでないことの証明にはならない。


 何故なら、今実際シュウが暗い激情を抱いてるように、本当だろうが嘘だろうが目的は達成できるからだ。

 寧ろ、巧技こうぎな嘘で騙した方が効率的で、手っ取り早く目的を達成できる。煩わしい思いをする必要もない。


——もう終わりだ……


——違う! 頼む、邪推じゃすいであってくれ……


 終わりだという諦念に、邪推であってほしいという渇望が、シュウの胸中で去来きょらいする。


「グルルルル……」


 そして、邪推を後押しするように最悪が現れた。


「なんでお前が、ここに……」


 黒い体躯に尻尾には蛇の頭。鍛え上げられた隆々の四肢に、顎下から滝のように流れ落ちる涎。空腹に苛立ちをたたえる面貌。この異世界ではグレートギメラと呼ばれる凶悪な魔獣だ。


 意気阻喪いきそそうと、現実を受け止めきれないシュウの心。その心の片隅にある微かな光を完全に絶とうと、避けて通っていた壁が巡り巡って一つ、シュウの前に立ちふさがった。


 運命から逃がさぬように。


「尻尾が戻って……」


 暗然とした世界に光が差し込む。尻尾が元に戻っているのなら、時間も巻き戻って——、


「いや……」


 尻尾が元に戻っているから時間が巻き戻った。シュウは瞬刻だけそう考えたが、途中で否定できる材料があることに気付いた。

 それは、傷を治す治癒魔法である。魔獣の傷を治した者がいれば、この考えも瓦解する。


 暗然とした世界に差し込んだ光は、獲物を誑惑きょうわくして誘い込む為の、作り物の光だった。


「ガルルルル……ギャオ!」


「ッ!!」


 グレートギメラの威嚇に、シュウは気圧され後退る。グレートギメラは野獣の眼光で彼を睨み、空腹を満たすのに持って来いだと、四肢を低くして構えた。

 

 背中にずっしりと乗っている、持って行き場のない重荷が、さらに重くなるのを感じる。

 最悪の袋小路に、シュウの精神は追い詰められていく。精神が減衰げんすいすれば、思考は鈍る。思考が鈍れば、判断が遅れる。判断が遅れてしまえば、それに伴った結果が付いてくる。

 

「逃げるしか——なッ!? しまッ——!!」


 叢生した草の下——泥濘でいねいに足を取られ、判断が遅れたシュウの身体に、魔獣の体当たりが炸裂する。当然、判断が遅れてしまったシュウに、体当たりを受け流すことなど無理だ。

 シュウはそのまま数メートル吹き飛ばされ、後方の木に激突。胃袋が圧迫されるような感覚に嘔吐えずいてしまう


「まず、い……」


 波に揺られているように、視界が明滅しながらグネグネと歪む。身体を動かし、逃げようとするが手足に力が入らない。身体が鉛のように重いのだ。

 グレートギメラからクリティカルヒットを食らい、シュウの脳が揺れたのである。


 酷悪こくあく、シュウの身体は真面に動かなくなってしまった。


 遅鈍なシュウは魔獣にとって、まさに間抜けな獲物。事実、こちらに向かって一歩ずつ歩いて来るグレートギメラの双眸は、シュウを敵と見做していない。空腹を満たす肉として見ている。

 

 死ぬ。現実に戻る権利を賭けておいて、それを無駄にして、何も出来ずゴミのように死ぬ。


『シュウ、私を助けて』


 トラウマがフラッシュバックするように、頭に痺れるような痛みが走った。胸の中心に惨たらしい傷を負ったミレナ。今際いまわの際で、愛と別れの告白をして死したミレナが映る。


——似ている。


 生前、大切な人の死すらも蔑ろにした記憶。陰惨な死を見て、逃げ惑ってうずくまって生き恥を晒して、その呵責かしゃくにさえも言い訳をして。


 今の自分は、まるで過去の自分のようではないか。いや、死ぬかもしれない今は過去よりも更に酷い。

 

——そんな終わり方でいいのか?


「違う、だろ……まだ、死んでねぇ……まだ、時間が巻き戻ってないって、決まってねぇ……グレイさんや、ミレナが生きてないって、決まった、訳じゃねぇ!」


 そうだ。まだ死んだと決まった訳じゃない。身体は動かしずらいが、動かない訳じゃない。対抗策が全くない訳じゃない。

 ミレナやグレイたちが死んだままで、時間が巻き戻ってないってどうして言い切れる。勘違いだ。邪推だ。勘ぐりだ。


「ガル!?」


 よろめきながらも、敢然かんぜんと立ち上がろうとするシュウ。その覚悟を決めた双眸を見て、グレートギメラは歩みを止めた。

 シュウの変化に警戒したのだ。


「なに、クソ思考巡らせてやがんだ!」


 騙された。利用された。時間は巻き戻っていない。


——うるせぇ。


 お前一人では何も、誰一人として救えない。

 残るのは仲間を失った喪失感と、その胸の中に残り続ける劣等感だけだ。


——喋んな。


 無駄に足掻いて苦しむだけ苦しんで、結局お前は負け——、


「黙りやがれぇぇぇぇ!!!!」


 シュウは女々しい諦念ていねんを振り払うように大声を上げ、額を地面にぶつけた。

 振動によって木々が揺れ動き、慌てふためいて逃げる動物たち。グレートギメラは一歩二歩と退いた。


 力なく地面から顔を上げ、こちらを嘲笑ってくる青空を眺める。垂れ落ちる血によって視界は赤く染められ、青い空も赤く染められる。


——シュウの中から、女々しい諦念がなくなっていく。


 痺れ震えていた脆弱な足は強く逞しい強靭な足に変わり、力の入らなかった腕には凄まじい力がみなぎった。魔法とは違う、己の丹田たんでんにある魔術の力が全身に迸る。


「やらなきゃなんねーんだ」


 シュウは血塗れの状態で、人が変わったように気焔万丈きえんばんじょうと立ち上がった。

 一見は負け犬のような姿だ。だが、グレートギメラは低く唸り、その面貌を力感が溢れるものに変え、シュウを威嚇する。


 つい先程まで、いじけて悲観的になっていた獲物が、剛毅果断ごうきかだんとした強敵に変貌したのだ。グレートギメラにとって——否、どのような生物であっても、目の前にいる弱った獲物が、真逆の強者に変貌すれば警戒するだろう。

 それが更に、自分以上の強者へと変化を遂げたなら尚のことだ。


 咆哮ほうこうを森にまき散らし、グレートギメラは四肢を広げ、口を大きく開けた。

 戦闘態勢——既視感のある構えは火球を放とうとする攻撃に違いない。


 開かれた口の中心から忽然こつぜんと火の玉が現れ、周囲の草木を揺らしながら膨張していく。都合、火球はシュウの体よりも大きくなり、それは放たれた。


「ゲイル!!」


 正面から直進してくる火球に、シュウは風魔法をぶつけて真っ二つに両断。火球が爆発四散し、舞い散る火の粉の中、突貫する。

 こちらを捕らえようと伸びる蛇頭をかわし、掌から風魔法を撃ってグレートギメラの片目を切り裂く。


「ガァ!? ギョォォ!!」


 痛みに苦鳴をあげるグレートギメラ。シュウはすかさず、グレートギメラの蛇頭を掴もうと、その身体の下に滑り込む。グレートギメラは蛇頭を自身の股下に入り込ませ、シュウに攻撃を仕掛けた。


「————ッ!!」


 対して、シュウは超速反応で蛇頭を蹴り飛ばし、ひるむ隙にそれを掴み、


「フッ!! ラァ!!」


「ぅぅごぉぉぉぉ!!!」


 グレートギメラを地面に叩きつけ、振り回して投げ飛ばした。それから、叩きつけた時に出来た小石を掴み、軽く振りかぶって、立ち上がったグレートギメラに向かって散弾銃のように投げた。


「ガオ、ギョギョギャオ!!!」


 小石がぶつかり、肉を抉られた魔獣は痛みに嘆き、もんどりうつように暴れまわる。付近の地面や木々、岩などは爪痕で抉られ、付近にない物は蛇頭の毒で溶かされる。

 シュウは飛んでくる毒を後ろに飛んで避け、もう一度、落ちていた小石を拾ってグレートギメラに投擲とうてきしようとする。


 しかし、


「ギョオォォォォ!!」


 倏然しゅくぜん、予備動作なく、グレートギメラの口から魔法——火柱が放出された。シュウは、小石の投擲を途中で中断し、


「ッぶねぇ!?」


 上体をのけ反って、間一髪で火柱を避けた。そのまま、のけ反った勢いを殺さずバク転して、態勢を立て直す。


 その間、グレートギメラは間合いを詰め、シュウを鉤爪で斬殺しようと右前脚を浮かせて手前に引く。シュウは問題ないと、後方に飛んで避けようとしたが、


「まずい!?」


 後方の状況を確認していなかった所為で、木に背中をぶつけてしまったのだ。致命的な判断ミスである。

 シュウの動きがワンテンポ遅れ、グレートギメラの鉤爪が彼の腹を引き裂く。


 痛刻つうこく。シュウは腹部に大きな傷を負ってしまった。幸い、傷は深くはない。ただ止血は喫緊きっきんだ。数分放置すれば、貧血で昏倒してしまうだろう。


——ここで、殺るしかねぇ!


 火急に決着を着ける為、シュウは先程拾った小石をグレートギメラに投擲する。

 グレートギメラは小石を膚浅ふせんだと言うように、軽くいなした。それから、四肢を広げ、もう一度シュウに火柱を放とうとしたが、


「ゲイル!」


 それよりも早く、シュウの風魔法がグレートギメラの右前脚を切断した。


「ギョガ!? ガギャオ!? ギョォォォ!!」


 鮮血が飛ぶ。


 右前脚を切断されたグレートギメラは倒れ込み、痛刻に唾を吐き出し赤子のように泣き叫ぶ。

 それを絶好の時機じきだと見たシュウは直進。止めを刺そうと、拳を固める。


「悪いが、ここで——ッ!?」


「いっちゃダメ!! 蛇頭の牙には猛毒が塗ってあるの!! だから逃げて!! フロストメアハイト!!」


 そこに、朗々ろうろうとした第三者の声が、聞き覚えのある声が、逸るシュウを止めた。

 左後方、そこから四つの氷柱が、グレートギメラに向かって放たれる。二つの氷柱は、シュウに毒を放とうと構えていた蛇頭に直撃。残りの二つは、心臓と顔面に突き刺さった。


 グレートギメラは斃れた。


「もう大丈夫!! でも、万が一があるからこっちに来て!!」


 聞き間違えではない。この異世界で誰よりも、一番早く聞きたかったエルフの少女の声だ。生きている。彼女は生きているんだ。


「何してるの!? 早く!!」


「あ、あぁ!!」


 感動の再開に足を止めるシュウを、少女——ミレナは叢生と茂っている草から顔を出して叱責。シュウは安堵と感悦かんえつに心を躍らせながらも、ミレナの方へ走った。


 薄緑色の髪と翠眼。つけ耳を疑うような長耳。そして、華奢きゃしゃで小さな体に、町娘のような清貧せいひんを体現した服装。


「ミレナ!! ミレナなのか!?」


 腰の高さまである草をかき分けながら、シュウは疑惑を確信へと昇華させるために問うた。

 この場所、この時間にいるエルフなどミレナで確定なのだが。それでも、名前を問うたのは——名前がミレナだと分かれば、己の中に残る諦念を、今ある悪感全てを、殄滅できると思ったからだ。


「貴方! 何で私の名前を!?」


 何故名前を知っているのか。それは直接な答えではないが、そう問い返したということは、彼女の名前が紛れもなく『ミレナ』である証拠だ。


 擦り切れかけていた精神が、治癒されていく。千切れ、結びなおした糸。それが解けそうになり、またそれを強く結び直して、やっと出逢えた。


 心拍数が上がり、呼吸の回数が増えていく。


 これは目的や目標を達成した時に感じる『昂奮』だ。出血によって動悸どうきが荒くなっているのもあるかもしれないが、この胸中にある感懐かんかいは、ミレナだけでなく、グレイ達も生きているのを知ったことで溢流いつりゅうした昂奮だ。

 でなければこの胸の高鳴りは、安堵と快美は説明できない。


 行き先の見えない暗い洞窟の中に、燦爛さんらんと光を放つ希望を見つけたような感覚だ。


 シュウは嬉しさの余り、ミレナに欣然きんぜんと歩み寄っていく。だが、彼女は、


「…………」


 シュウを、疑いと恐怖の目で見ていた。


——シュウの胸臆きょうおくに小さな痛みが走る。


 シュウはミレナが先程言った言葉を思い出し、


「名前を知ってるのは……事前に知らされていたんだ。よかった。生きていてくれて……」


 惑わせないように言葉を選んだ。選んだのだが、


「生きていてくれてッて、どういうこと……?」


 やはり、頭の回転が速くない自分には、いささか難しい要求であった。

 いきなり「生きていてくれてよかった」などと言っても、相手を惑わせるだけだ。今ここに居るミレナは、自分が知っているミレナではない。こちらのことを知らないミレナだ。

 

 誤解を解くために、先ほどの発言を撤回しなくては。シュウはそう思い、止めた歩みを再び動か——、


「あ、待って! それ以上は近づかないで、まだ貴方に対して警戒心を無くした訳じゃないの」


 ミレナは右掌を見せて、シュウに止まってくれと合図を送った。


——もう一度、シュウの胸臆に痛みが走る。


 シュウはミレナの発言は至極真っ当なものだと、自分に言い聞かせ「そ、そうだよな……」と、歩みを止めた。


 そうだ。自分は、ミレナからすれば見知らぬ男だ。モワティ村に向かって来た賊で、その中途、グレートギメラに襲われてしまったという可能性は拭いきれない。

 何もおかしくはない。正常だ。


 落ち着け、彼女に信用してもらう為に最も良い材料を探すのだ。頭を巡らせろ。必ずある筈だ。


 思索の末、浮上してきた材料は、


「ッ! 手紙だ! 手紙は届いてないのか?」


 手紙だった。


 前の世界線で、ミレナが部外者の自分に怖れることなく近づき、モワティ村に招き入れてくれたのは手紙があったからだ。


 時間が巻き戻ったのなら、手紙は必ずミレナの元に届いている。その手紙には、村が襲われることや、自分に関する文言もんごんが書かれていたはずだ。これならば、ミレナも——、


「手紙? ごめんなさいだけど、ここ最近で手紙を受け取ったことは無いの……だから、そこに居て」


「手紙が、届いてない……?」


 またもや期待を裏切られる言葉。無理解がシュウの脳内を駆け巡る。否、答えは彼女が指し示しているではないか。

 手紙が彼女の手元に届いていないだけだ。或いは、創造主が今回は手紙を書いていないのかもしれない。


 シュウはそうやって、自分を言い聞かせる。


 大丈夫だ。ミレナ達が生きているのならそれで十分ではないか。これ以上に、幸福なことはない。


「輸送管理側の手違いかもしれないわ。でもごめんなさい。届いていないものは届いていないの……そこは理解して」


「そうだな……」


 前回、楽に関係を築けてしまった故に、感覚が麻痺していた。なら、初対面の相手との関係の築き方を、卒なくこなせばいいだけのこと。心配はいらない。

 ただし、彼女らは人間を恐れている。最初に大きな隔たりがあるのは確かだ。慎重に、そして優然とした心で溶け込み——そうやって考えているうち、シュウは自分が本末転倒な考えをしていることに気付いた。


——これでは、前回の二の足を踏むことになってしまう。


 前回、ミレナ達を助けられなかった理由はなんだ。モワティ村に馴染もうとしたからだ。助けることに注力しなかったからだ。無駄が多かったからだ。


 ならば言うまでもない。今回は物言わぬ無駄のない機械として、この身を酷使するまでだ。どうということではない。慣れている。決意したのなら実行しろ。


「いえ、そうですね……手紙が届いていないのなら、仕方ありません」


 突としてシュウは片膝を付き、目線を地面に移動。ミレナの前に跪いた。

 その姿は、ミレナを敬重けいちょうする村民さながらだ。


「それよりも、先程までの非礼、誠に申し訳ございません。エルフ様があの神子様だと気付けませんでした。何分、私は教養の足りない辺境生まれの鼠輩そはい。平に容赦を……」


「…………? 急にどうしたの……」


 ミレナはシュウの突然の変化に、疑問符を浮かべる。

 自分でも驚くくらいに、恐々謹言きょうきょうきんげんと言葉を紡げたものだ。自他共に敬語が下手だと認める自分がだ。


「どうもこうも、恐れ多くもエルフ様はアルヒ様の神核を、その胸の中に宿される御方……それを知らず、そして推し量ることが出来なかった我が過ち、非礼の謝罪をさせていただいたのです。ですので、平にご容赦を……」


 これでいい。これがベストだ。


 時間が巻き戻り、ミレナの生存が確認できた今、やるべきことは既に決まっている。過去を思い出せ。失敗した凄惨せいさんな過去を。

 あのままで終わらせない為に、ミレナやグレイ達を救う為に、異世界に舞い戻って来たのだ。


 ミレナが今際の際に『一人の女の子として、接してくれて幸せだった』と、言ったように、ミレナは特別扱いされるのを嫌厭けんえんしている。

 ここでミレナを特別扱いして——彼女の周りに居る者のように恭謙きょうけんと接し、嫌われ未練なく別れよう。そうすれば、ミレナがこちらを心配することもない。機械として、能率的に動くことも出来る。


「重ねて、先程、グレートギメラに襲われていた私に扶助ふじょしていただいたこと、誠に感謝します。エルフ様の、いえ、神子様の扶助が無ければ、私は無事では済まなかったでしょう」


「ん……うんうん、私がしたくてそうしたんだもん。お礼なんていいわ。それに、そんなにかしこまらなくてもいいのよ」


 片膝を付き、恭謙と畏まるシュウを見て、ミレナは困ったように両手を小さく振る。だがシュウは、


「驕らない神子様の精神、その謙虚な姿勢。感服しました」


 更に恭謙と畏まる。


「……私がそうしたくてしたってのは嘘じゃないわ。貴方が思う程、私は謙虚じゃない。だから、そんなに畏まらなくていいの……顔を上げて」


 シュウの一切無駄がない跪坐こざに、ミレナは顔を上げてと両掌を彼に見せる。シュウは彼女の優しい言葉に心が揺らいだ——顔を上げたが、すぐさま上げた顔を下げた。

 今、ミレナの顔を直視してしまえば、決意が、物言わぬ機会として動くという決意が、揺らいでしまいそうになったからだ。


「いえ、鼠輩の私が、神子様にそのような粗相など……」


 シュウはミレナの要求を拒否した。


「…………」


 一度見せた弱さを、拙い言葉で繕っていくシュウ。その彼を見て、ミレナは長耳を下げ、瞳を少しだけ陰らせた。


 シュウはミレナの機微きびに気付くことは無い。

 弱さを繕うことへの意識。そして今後、無駄のない動きを、効率的に動くにはどうすればよいか。そのことで、脳みそを奔走させているからだ。


 シュウは考える。錯綜さくそうした記憶から、的確な情報がないか。克明こくめいに探り、掴んでは元に戻し、掴んでは元に戻しと、取捨選択を繰り返す。


  そうして思い出した記憶は、情報は、


『中央政府に向かった時、近くにあるスラム街に訪れるといい……そこに打開策があるよ……』


 創造主の言葉だった。その情報がシュウの脳内で、他の情報とリンクする。

 その情報とは、


『魔女様が死んだ後、数百年に一度だけ、罪滅ぼしの為に魔女様の魂が蘇んだよ。それで、その魔女様の魂と出会った奴は未来の啓示と、魔女の切手が与えられるんだ。未来の啓示は百発百中! 魔女様の言葉通り動けば、絶対にその通りに事が動くんだぜ!』


 アルヒスト中央都のスラム街でフーナと、


『魔女様が現れたのは二日前です。場所はリーカル領跡地』


 リメアが言っていた情報——言葉だ。


 解決の糸口が垣間見えたと、シュウは胸中で喝采かっさいを上げる。


 魔女の未来の啓示が百発百中であるというのは、この世界では周知。ならば魔女から未来の啓示を受け、その証拠である魔女の切手を受け取れば、国を動かすことも可能だろう。というか、動かざるを得ないはずだ。


 何故なら、ミレナの胸の中にはアルヒストの主神アルヒの神核があるからだ。国王に恩があるからだ。


 魔女から未来の啓示を受け、それを国に叩きだす。当然、啓示の内容が違えば、こちらにとって都合よく改竄かいざんすればいい。


 ——利用できるものは、全て利用してやる。


 クソッ垂れた運命を、自分にとって都合のよい未来に変えてやるのだ。


 シュウは随喜ずいきを押し殺し、


「神子様、卒爾そつじながら、リーカル領跡地の方角をご教示いただけないでしょうか? それと、よろしければ、少しばかり水分を……」


「いいけど、でもあそこって、瓦礫がれきの山しか……いや、ごめんなさい。無粋だったわね。リーカル領跡地なら、中央都から北東に向かった峡谷にあるわ。徒歩とかプロテクションなしの馬車だと、ここからなら大体二日から三日程度ね。中央都の場所はわかる?」


 シュウは「はい」と頷きながら、自身の足の速さと休息をかんがみて、目的地まで二日は切れるだろうと考える。

 ミレナは腰に掛けた雑嚢ざつのうから革製の水筒を取り出し、「アクア」と一言魔法を詠唱。水筒の中身を補填して、


「これお水ね」


拝戴はいたいします。扶助に続く扶助、感謝します……このご恩は決して忘れません」


 それを跪坐するシュウに差し出す。シュウは跪坐したまま、両掌を出して水筒を受け取る。それを懐に仕舞い、ミレナの顔を見た後、目を逸らすようにうやうやしく頭を下げた。


 やはりミレナの顔は見ることが出来ない。これ以上、彼女のことを強く意識してしまうと、今まで拙くも必死に繕ってきた皮が剥落はくらくしてしまいそうだ。


「では、私はこれにて」


 シュウはそう言って立ち上がり、逃げるように振り返ると——、


「あ、まって!! お腹の傷は大丈夫なの?」


 ミレナはシュウに声を掛けて止めた。指摘された腹部の傷を、シュウは一度見やる。

 魔獣の鉤爪に付けられた、止血が必須の傷だ。果然、血はまだ止まっていない。ミレナが大丈夫と訊いてきたのは、治癒魔法を施そうとしてくれたからだろう。

 シュウは思惟しゆいし、


「これ以上、神子様のお手を、煩わせることはできません。それに心配ご無用です。この程度の傷なら、止血すれば直ぐに治ります。ですのでご心配は——ッ」


「あぁもう! いいの!! 傷見せて! 治癒魔法を施すから!!」


「ですが、神子様——ッ」


「いいったらいいの!!」


 もう頼れない、頼りたくないと逃げるシュウの腕を、ミレナは自ら近づいて強く掴んだ。シュウが俯いて顔を隠そうとするが、ミレナは逃げるなと強引に覗き込み、目を合わせる。

 ミレナは物理的にも精神的にも、シュウを無理やり掴んで離さない。


 シュウは見知らぬ男で、自身を狙っている賊かもしれないのにだ。それも、全くの忌諱ききや恐怖——隔たり無く。


 今のシュウは、誰が見ても分かる哀絶あいぜつとした表情だ。ミレナはその表情が理解できないのと同時に気に食わず、どうにか変えてやろうと、シュウと目を合わせたのだ。


 シュウは睨んでくるミレナの目から、顔は逸らさず目だけを逸らす。その逸らしたシュウに、ミレナは「ん」と不機嫌そうに小さくうなった。

 彼女に小さく呻られたシュウは、反射的に逸らした目を戻す。

 

 そうして須臾しゅゆが経ち、ミレナは「うん」と言って、合わせていた視線を離した。そして、手でシュウの腹部に振れ、


「恩を売るとかそういうのじゃない。これは、私がやりたいからするの……」


 治癒魔法を施していく。


「そうね、貴方は私がやりたいことをさせてくれた。だからさっきの扶助はこれでチャラ。だから貴方はこれを、勝手に受け入れればいいの。分かった?」


 体中が暖かい感覚で癒されていくのが分かる。


——何をやっているんだ、俺は……


「見返りは、うんうん、施しは一切合切不用だから。理由は、施されちゃったら、私が返さなきゃいけなくなるから……そんなの面倒」


 出血が止まり、抉れた肉が、傷が塞がっていくのが分かる。節々の痛みも引いていくのが分かる。


——手を離すんだ。今すぐ振り払って、リーカル領跡地に向えよ! 何、当たり前のように治癒魔法受け入れてんだよ!! 俺は!!


「よし、これで大丈夫。傷、完全に塞がったわね」


 腹の傷が、体中全てから痛みが無くなった。


「感謝します……神子様、本当に、何も返さなくてよろしいのですか……?」


 シュウは哀絶とした表情のまま、ミレナに質問した。ミレナはそのシュウをムッとした顔で睨み、


「当たり前……というか、そもそも返しじゃない。言ったでしょ? 施されちゃったら、私が返さなくちゃいけないから」


 鼻を人差し指でツンと押して答えた。

 その表情と言葉がムカつく、ということである。


 ——シュウの胸臆の痛みが、少しだけましになっ……


「そうですか……本当に、本当にありがとうミレナ……いえ、神子様。では今度こそ、私はこれで」


 シュウは剥落しかける皮を必死に元に戻し、今度こそミレナと別れようとした。シュウが敬語を使わず、神子でなくミレナと呼ぶ時、彼女はその顔を愁色しゅうしょくに染めた。


 シュウの振り返り歩いていく様に、逃げるような要素は無かった。

 実際、シュウには惜別の気持ちは無かった。それは、ミレナの隔たり無く治癒魔法を施してくれる様が、前回の彼女と会えたかのように思えたからだ。


「あぁ待って! ごめん、また止めちゃって。でも、最後にこれだけは訊きたくて…貴方、なんでそんなに、嘘を吐くの……?」


 しかし、ミレナはシュウをもう一度止めた。

 シュウは歩みを止め、ミレナを凝然ぎょうぜんと見つめる。


「違うわね。なんでそんなに、私を避けようとするの……? なんで、貴方の顔は、悲しそうに、辛そうにしているの……?」


「————ッ!?」


 思いもよらない言葉であった。


 ミレナの顔が、憐憫れんびんが、自分に向けられている。

 悲しそうに、辛そうにしている。そう言えると言う事は、表情を取り繕うことが出来ていないということだ。となれば、その失態の尻拭いをしなくては。


「それは……そうです。つい先日、友を失いまして。そのことを未だに引きずっているのです。もしかすれば、神子様とその友を、重ねている私がいるのかもしれません」


 ミレナの憂慮ゆうりょを無くそうと、シュウは嘘を吐いた。


「そう、それは辛いことね……」


 猿芝居もうまくいったものだ。その証拠に、ミレナからの憐憫が少しだけ和らいだように思える。

 『重ねている』と言えば、トラウマへの踏ん切りを付けようとしているのだろう。そうやって推考できるはずだ。


「一人で大丈夫なの……?」


「はい大丈夫です」


 上手くいった。これで、これで、失態の、失態の尻ぬg——、


「その、神子様は……」


「ん……?」


——ミレナは、俺が未来から来たと言えば、信じてくれるだろうか……


 忽然と頭に浮かび上がった疑問だった。その疑問が、シュウの胸中を瞬刻だけだが埋め尽くす。

 訊きたい。訊いて縋って精神を落ち着かせれば、きっと楽になるはずだ。もっと楽に——、


「ミレナは……」


 いや、言っては駄目だ。それを言えば、彼女の優しさに頼ってしまうことになる。無駄を省き、物言わぬ機械のように、この身を酷使すると決意したばかりなのに。未練なく別れようと、決めたばかりなのに。それなのに。


——前回のミレナと、会えたかのように思えた。


 それだけで、決意を歪めてはならない。

 その甘さのツケが回ってきたからこそ、失敗したのではないか。ならない。それだけは決して言ってはいけない。


「——もし、俺が未来から来たと言ったら、お前は信じれるか……?」


「え……?」


 言ってはならないのに、


 ——不甲斐なさが、弱さが、甘さが、感情が、言葉に出てしまった。


「いや、申し訳ないです! 世迷言ですので、どうかお気になさらず! では!」


 シュウはどっちつかずの状態——最悪な状態で逃げた。


「あ、貴方の名前は!!」


 ミレナを見もせず走った。彼女が何かを言った気がしたが、振り向かない。振り向くな。

 今ここで、彼女の答えを聞けば、本当に頼ってしまう事になる。だから、聞かない為に逃遁とうとんした。ひたすら走った。


——何やってんだよ俺は! 何頼ろうとしてんだ!!


——二度と失敗しないって決意を、歪めてどうするってんだ!!


「守らなきゃ、何ねぇんだ……守るって、助けるって決めたんだ……待っててくれ、ミレナ……」

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