第10話 表と裏

 大小二つの衛星が地を微かに照らす月下。無機質な石壁——城壁に背を預け、シュウはぼんやりと空を眺めていた。

 中央都の周りを覆う壁の中に、もう一つ王城とその下町——貴族や傑人員が住む町を守る城壁が、シュウの預けている壁である。

 高さは感覚で十五メートル程だろう。


 誕生日パーティーの開催中、城壁外を巡回ないし哨戒しょうかいするのがシュウの仕事である。


 城内を巡回している騎士たちが仕事の対価として、絢爛豪華なパーティーを見学できるのは羨ましい限りだ。とはいえ、そこはやはり騎士 (仮) のシュウには傲慢であるということだ。

 新人騎士と並んで城外を巡回できるだけで、光栄であるのだ。


 因みにグレイは中。シュウは外だ。


「もうそろそろだな……」


 そう呟いたのは、城壁外を巡回するシュウ達にとって一番の催しともいえる花火が上がるからだ。

 くいっと革製の水筒から水分を補給。喉を潤し、待ちわびた花火に期待を寄せる。


「…………」


 花火師達が時計塔から出現。垂直上昇していくのをシュウは目視した。花火師は一つの石を、その掌から上空に振り上げる。

 飛び上がった石は、落下をする前に三色の光を放って爆発。


 そして、花火が上がった。


 時計塔から打ち上げられる、魔法が原理の『赤』『青』『緑』三色の花火だ。中央都全域を照らす程の光が炯然と放たれ、爆音が数十秒の後に耳に届いた。

 正確には現実世界での国単位の広さである為、全域に届くことはあり得ない。ただそう思ったのは、届いてもおかしくはない程の、巨大な打ち上げ花火であったが故である。


 スゲーよ魔法。マジ感激だ。クッソでけーし、クッソうるさいし、クッソまぶしーわ。最高。火力がケタ違いだ。


「花火一つで町、覆いつくせそうだな。こりゃ」


 当然、安全は考慮されてある。というのも、打ち上げられる高さのレベルがヤバイ。斯様かようの高さなら、花火に巻き込まれることもない。巧みな魔法技術、恐るべしだ。


「た~まやぁぁぁ!!」


「ん? ミレナ!? おま、何でここに? てか、よくあの警備の中、抜けて来たな……」


 突然、ドレスを着たエルフの少女——ミレナが、空を見上げているシュウに話しかけたのだ。

 「ふっふーん」と小さな胸を張って、誇示してみせるお嬢様姿の少女。ミレナの両手には大きな荷袋が握られていた。

 シュウがそれに気づくと、彼女は袋の中身を見せつける。

 袋には白いパンにチーズ、瓶に入ったアーモンドミルク、ソーセージといった肉類などが入っていた。


「お腹減ってると思って、カナリーに頼んでこっそりお城から抜け出してきたの……」


「それをよく一人で持って来たな……」


「これくらいなら全然余裕よ! エルフは見た目は華奢だけど、獣人の男の子にも負けないくらい力持ちなのよ!!」


「そうなのか……」


 力持ちのポーズをとるミレナに、シュウは苦笑混じりに返す。


 思い返せば、ミレナが巨大な樽を持ち運んでいた記憶が浮かび上がる。あの時は魔法の練習に徹していたために意識はしなかったが、小さな少女が大人顔負けの力持ちとは、何とも違和感がある。


「敷物もあるし、花火見ながら一緒に食べよ! ね!」


「だが、一応俺はここの巡回役だし、流石にサボるのは……」


「いいのいいの! 偶には休息も大事です。二時間の間ずっと立って目を凝らしてたんでしょ? それじゃ集中力も切れちゃうし、そしたら悪い奴を見逃しちゃうかも? 残り一時間の為だとも思ってさ、だから、ね?」


 ミレナは指を立てて、首を小さく傾けながら屁理屈をこねる。

 断るべきか、断らないべきか。一拍の思惟を経て、シュウは、


「わかった。残り一時間の為ってことだ。しゃあねぇ」


 一理ある話だ。ミレナの厚意を受け取ることにした。もとい先刻、壁に背を預けて空を眺め、物憂げに黄昏ていたではないか。なに、今更である。

 それに花火の光で照らされる大地の中、周辺には紛れ込めるような人溜まりもなく、隠れ潜める障害物もない。王城下内に侵入するには繋がれた橋を渡るか、大きな水路を泳いで渡るかだ。

 この中で隠密行動などできようか。


「じゃあ、食べよっか?」


「おう」


 シュウは出来ないと判断。そして、にっと笑うミレナと、花火を見上げながら夕食を取ったのであった。 




  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 

 ミレナと秘密のサボりから数時間、シュウはグレイの家にいた。

 彼の家は歴代の騎士家系といわれるだけの財力はあり、豪勢に庭が付いてある。


「ま、そう気落ちするな。俺たちは俺たちで、後夜祭を楽しめばいいさ」


 そう同情してくるのはグレイだ。


 王の孫娘の誕生パーティーは、それはそれは絢爛豪華たる催しだったようだ。差し出された料理はもちろんのこと、国一番の音楽家による演奏。それに合わせた劇団のダンス。どれもが素晴らしい出来上がりであったそうだ。

 といっても、その全ての催しが体験談だけとなっては想像もいいところ。彼らの感慨の半分にも満たない気持ちで、パーティー終了だ。


 嗚呼ああ、悲しいかな。


「その言葉に甘えるか」


「シュウ様は、お酒はいける口ですか?」


「あ、いや……俺、実は酒に弱くて。飲めても二、三杯だけですね。それも、飲んだ後はすぐ眠くなっちゃいます。はは」


 シュウにお酒を勧めてくるのはグレイの配偶者——ユリアという女性だ。天色の髪を後ろで纏めたポニーテールに、白と黒の給仕服を纏っていて、背丈は普通の女性と変わらない程度だ。

 給仕服というのは、ユリアがフェイド家に仕えるメイドであるからだろう。グレイからユリアに惚れてしまったらしく、彼が騎士団長に昇任した時にプロポーズ。何とも夢のある話だ。

 

「そうですか。ではハチミツを入れた、アーモンドミルクなどはどうですか?」


「いや、駄目だ。男なら、酒に強くならないとな……」


 面倒くさいおっさんのダルがらみである。

 酔いがすぐに回るタイプなのだろう。酩酊状態のグレイの頬は、絵の具で彩色したように真っ赤だ。何というか、天狗のお面を被っているようである。とにかく赤い。


「もうだめですよ、グレイ様。そう酔った勢いでお酒を強要するのは……」


 そのおっさんの頭をぽんっと叩くユリア。

 そういう彼女だが、二人のやり取りを見る限りでは、どうやら嫌々でもなさそうだ。偽りのない笑顔に仕草。会話に亀裂は存在せず、お互いが気さくに話し合う間柄であるのが判った。


「あ、じゃあ、一杯だけ貰います」


「あら、シュウ様は見た目以上に冒険家なのですね。承知しました。では……って、申し訳ございません。今のでワインを切らしていたようで、蔵から出してきますね。少しだけお待ちを……」


「わざわざ、ありがとうございます」


 恭しくお辞儀をして部屋を出て行くユリア。シュウは彼女に軽く頭を下げ、机に突っ伏せているグレイに視線を移した。


「癪に障るかもしれねぇが、訊いていいか? グレイさん」


「何だ? 今の俺ならなんだって答えてやるよ。そう、下のネタでもな」


「んな、しょうもないことじゃねぇよ」


 頬杖を付いて、シュウはそうぼやく。


 話を戻せば、浮上してくるのは騎士家計のグレイが、給仕の女性と結婚していることへの疑問だ。

 養子として迎え入れたグレイを実の息子だと公言したとなれば、前の主は血筋に拘泥していたことは明白だ。だのに、当主であるグレイに給仕の女性を婚約させたのは妙に引っ掛かる。

 当主になる者への配偶者は、それこそ血筋の良い女性を選ぶはずだ。


「由緒正しい騎士家系。その当主のアンタが何で給仕のユリアさんと結婚したのかって思ってな……アンタは確かに養子だが、長男として国中に広まってるんだろ? 普通、配偶者になるのは——」


「だからこそだよ、シュウ」


 シュウの言葉は、机に勢いよく上体を乗せたグレイに遮られた。その言葉の真意が分からず、シュウは疑問を抱く。


「親父は血のことを気にしすぎるからこそ、俺にそうさせたんだ。養子として迎え入れたのはフェイド家の威厳を守る為で、親父は、本音では俺を好いてはいなかった。そんな俺が騎士団長の座に昇任した四年前……真のフェイド家ではない俺が、その功績を残したことに、親父は死ぬ間際にこう言った」


 一拍置いて、グレイは注がれていたワインを飲み干す。その瞳は珍しく曇っていた。

 複雑な心境であることが見て取れる。


「私はお前が騎士団長に昇任したことを、憎くもあり嬉しくも感じている。騎士は血筋の清い者でなければ務まらない。そう、今も思っている。だが、お前は血筋など関係もなく、剣一筋だけでその場所まで上り詰めた。私はお前の姿を見ているたびに、その真っすぐな性質に、魅せられていたのだ……」


 グレイは身体を預けるように机の上で突っ伏せ、過去について喋っていく。


「それなのに、私はお前に冷たく当たってしまったことで、お前との壁は厚いままだった。皮肉なことだ。己のプライドを捨てきれなかったが故の末路。許せグレイ。そして頼む、フェイド家を守ってくれ、国を守ってくれ。この国にはお前のような者が必要だ」


 何と複雑な胸中なのだろうか。血筋に拘泥している所為で、素直に功績を認められなかったのだ。そのことを死ぬ間際に慚愧し、一人の男としてグレイに託した。


「それが親父の最後の言葉だった。今思えば、あれが親父から受けた最初の温もりだったのかもしれん」


 血筋などは関係ない。守ろうと、進もうとする者に遜色はない。あるならそれは、そう思う者にこそ遜色がある。

 彼の父は最後の最後で本当の父親になったのだ。その結果がユリアとの結婚の承諾。翻意の体現だ。


「——悪いグレイさん。考えなし……」


 深慮し、謝罪を伝えると、グレイから小さな寝息が聞こえて来た。シュウは頬を指で小突くと、彼は目を瞑って爆睡している赤い顔を見せた。


「って、今の合間で寝るかよ!」


 果たして、彼の言が酒に酔っていたから出たのかは、定かではない。


「お待たせしましたシュウ様。ワインを……」


 蔵からワインを取って戻ってきたユリアは、シュウとグレイの二人を見ると、息を荒げたまま見留まった。

 彼女の溜飲を下げようと、シュウはグレイを見た後、少しだけ笑って、


「あぁ……酔いつぶれて寝ちゃいました。ワイン、貰えますか?」


「あ、はい」


 ユリアを見て、シュウはコップを前に差し出した。彼女はその意図を汲み取ると、ワインを差し出されたコップへ注いだ。トクトクッとワイン瓶から液体が抜け出す音が鳴り、グラスは葡萄酒で満たされた。

 シュウは少し逡巡しながら、葡萄酒を口に流し込み、


「うぅ、結構来ますね、これ」


 嚥下したのはいいが、アルコールの強さに軽く嘔吐いてしまう。


「そりゃワインですから、当然です……ぷ、シュウ様お顔、みますか?」


「え? あぁ、見ます見ます!!」


 こくりと子供の様に頷くシュウに、ユリアは小タンスの引き出しから手鏡を取り出してきた。彼女は見やすいように、シュウに手鏡を近づけ、


「——え!? 顔あか!!」


 同じ顔をした赤い男が映っていた。


 てかなんだこいつ、何か自分に似てるぞ。こっちを睨んでやがる。ユルセン。ケンカ、ウッテンノカ。


「シュウ様もグレイ様と同じで、酔いが回るのが早いのですね。とっても、面白い顔でございます」


「え!? これ、俺っすか? へぇーやっぱ俺って酒に弱いんだなぁぁ!」


「もう、呂律が回っていませんよ。って、あら……」


 何かブツブツといいながら、シュウはそのまま机に向かって突っ伏せた。

 グレイにシュウと、完全に酒に飲まれてしまった二人を見て、ユリアは嫣然と微笑んだ。


「風邪を引いてしまいますよ」


 ユリアは寝室から二人分の薄い布を取ってくると、シュウとグレイの背中に掛けた。


 昨日、予め蔵からワインをキッチンに数本だけ移していた。そのことを思い出したユリアは、ワインを取りに部屋から出た後、キッチンに向かったのだ。

 当然、戻って来るのは早かった。だが——、


「グレイ様が彼を信頼する理由、何となくですが分かった気がします……」


 二人の会話を部屋の前で聴いていた彼女は、そう一言残して部屋を後にした。




 場所は入れ替わり、同時刻の王城——姫の部屋。


 薄暗い部屋のベットにはミレナと、金髪碧目の少女——アルヒスト現国王の孫のカナリーが、向き合うように臥床がしょうしていた。

 大きな窓からは雲によって見え隠れする、大小の二つの月が。


「ミレナちゃん。ちょっと大人っぽくなったね」


「そうかしら?」


 カナリーにぎゅっと握りしめられた右手を、ミレナは感応するように握り返した。


「そうだよ! なんていうかね、綺麗になってる。もしかして好きな人でもできた?」


「な!? なんでそうなるのよ!?」


「え、だって母上が『女は好きな人ができると綺麗になるのよ』って言ってたよ。それにね、前のミレナちゃんより、今のミレナちゃんの方がすごく楽しそうだもん」


「それは、確かに楽しくはなったかもしれないけど……」


 楽しくはなったのだと思う。カナリーのように、気軽に会話が出来る相手は少なかった。グレイやリフとは会話は続かないし、モワティ村の村民達とも挨拶ぐらいしかしていない。子供達とも遊ぶことはあるが、それも頻繁ではない。

 一番会話の多いクレイシアとは仲はいいが、日常的な会話というよりはお叱りの言葉ばかりだ。


 そして、その誰もが自分の事を一人のエルフとしてではなく、高位の存在として見ている。

 決して、そうやって扱われることが不快なわけではない。皆の暖かさを感じることが出来るし、それ以上を望むのは無理であることも理解している。


 だからといって不満がないわけでもない。身分など関係のない、友達のような存在が居てほしい。そう一度も願わなかったのかというと、嘘になる。


 その時、村へ急に訪れたのがシュウだった。しっかりしているようで、どこか抜けている青年。自分のことを聞いても、ちゃんと一人のエルフとして接してくれる。

 求めていた人が現れた。


 シュウが来て、より一層幸せになったのは確かだ。


「やっぱり、そうだよね! 半年前のミレナちゃんは社交界をつまらなさそうに過ごしてたけど、今回のパーティーは本当に楽しそうだったよ……私の予想ではね、パーティーが始まる前に広間の端っこで立ってた黒髪の人がね、ミレナちゃんの好きな人かなって……」


「違うわよ!? シュウのことは別に好きとかじゃないわ! なんていうか、そりゃ好きか嫌いかって言われたら好きになるんだろうけど、って違うってば!!」


「ふふ! 照れるミレナちゃん可愛い」


「からかわないで!」


 一人だけで盛り上がっているカナリーに、ミレナは顔を朱色に染めながら、話の腰を折った。


「カナリーの勘違いよ。私、恋愛とか本当にわからないの」


「ホントにそう?」


 わからない。恋慕れんぼなど抱いたこともないミレナに、好きなどの気持ちは複雑すぎる。よく聞く『動悸が荒くなる』こともないし、『意識した』ことなどもない。

 そうだ。決してシュウに恋慕を抱いている訳ではないのだ。証明できる。


「でも、パーティーから抜け出したのって、その人の為なんでしょ? 外から帰って来た時に、ミレナちゃん楽しかったって顔してたよ……ねぇ、その人ってどんな人なの?」


「それは……」


 始めてシュウに会った時、彼の心には大きな傷跡が残っていた。何度も何度も、乖離した糸を結びなおしたように、歪に捻じ曲がっていたのだ。

 そういった心の持ち主は必ずと言っていい程、凄惨な過去を持っている。これは根拠の無いミレナの経験則だが、凄惨な人生を送らなければあのようにはならない。なるわけがないのだ。


 何処か、自分に似ているところがあると思った。過去の事を——大きな傷を思い出せないでいる自分。いや、思い出したくないと、大きな傷に触れたくないと、心の奥底に潜んでいる自分がいる。


 そんな傷を負っていてさえ、彼の心は真っすぐ前に進もうと邁進まいしんしているのだ。


 瞬時に優しい心の持ち主なのだと理解できた。


「優しい奴だわ。それも馬鹿なくらい。自分が損してでも、誰かを助けようとすると思う」


「やっぱり……」


「え……?」


 カナリーの言葉に、ミレナは小さく驚いた。


「ええっと、何となくで確信はないけど、ミレナちゃんが楽しそうなの、絶対その人のおかげだと思う!」


「何となくで、確信はないのに……絶対なの?」


「うん! 絶対! だって、その人の事いっぱい知ってるから、優しい人って言えたんでしょ?」

 

 慮外だった。カナリーの顔には嘘がない。友達の恋ばなを面白がる少女のそれとも違う——純粋なミレナを慮ったうえでの言葉だ。共感覚を使っても、嘘をついていない。


「そう、かな……」


「そうだよ! そうに決まってるよ!!」


 言い逃れができない事実に念を押される。頬が熱くなっていくのが自分でも分かった。


 ——恥ずかしいはずかしいハズカシイ! 恥辱! 恥辱だわ!! 今の私を見ないで!!


 赤面するミレナは、咄嗟に顔を枕で覆い隠す。その彼女の手をカナリーは優しく握りしめて、


「頑張ってミレナちゃん……それと今度、その人と会ってみたい!」


「うぅ、やめておいた方がいいわよ。あいつ、理屈ばっかの馬鹿だもん」


 「ふふ」とカナリーが笑みを零したのに釣られ、ミレナも笑みを零す。

 

——このまま何もなく、幸せの時間が続いて欲しいな。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 同時刻。王城下内の中心にある時計塔内部。


 月明かりさえも届かない石造りの塔の中は、光魔法の魔力によって刻まれた魔充石によって照らされていた。

 その暗然たる時計塔内に男が二人。一人は赤髪の男。もう一人は猿ぐつわを銜えさせられた、拘束される司教服の老人だ。


「北、南、東、西……それぞれにある時計塔に一つずつ、最後に中央の王城下内……ここ、時計塔に一つ。これで計五つ。仕上げだ」


 剃り忘れた顎髭を触ると、男は大きくため息を吐いた。

 赤黒いマントを羽織った赤髪の男だ。


『設置完了、ペテロ、即帰還』


「あぁ、はいはいわかってるよパー坊。でもな、こりゃー俺の仕事だぜ? 口出しは無用だし、計画に支障はないって保証付きだ。心配ねぇぜ」


 赤髪の男——ペテロと呼ばれる男は、語り掛ける相手がいないはずの室内で、そう呟いた。だが、決して男は一人二役を担ったわけではない。

 それは、男の中にいる複数の魂が語り掛けて来たからだ。

 

 集合魂——一つの魂では生存できない為に、複数の魂を合成して生まれた生命体。魂が変われば肉体が変わり、性格や性別さえも変化する。

 集合魂には大きく三つの長所と二つの短所がある。


 一つ目の長所は、肉体変化による偽装。これは大胆な行動をすればするほど、効果を発揮する。

 二つ目は、多属性魔法の併用。魂によって行使できる魔法は異なるために、二種類以上の属性を持った魔法を放つことが出来る。

 三つ目は、魔法素養の底上げ。同じ属性の魔法を行使できる魂を併せ持つことにより、より強力な魔法を放てるようになる。


 一つ目の短所は、転換時の多大な魔力消費量。魂を転換するときには多大な魔力を消費する必要があり、転換後は疲労困憊になってしまう。

 二つ目は、他の魂との掛け合い。集合する魂が多ければ多い程、暴徒を起こされれば収束が困難になってしまう。

 

 とはいえ、集合魂は欠点さえ補えれば強力な存在に成り得る。馬鹿とはさみは使いようなのだ。


 男の体には、他に三つの魂が眠っている。その内の一つの魂が現在、体の主導権を握っている男に話しかけたのだ。


「国を守る神将様と、騎士団の精鋭は壁の外に。壁の中は精鋭に選出されなかった騎士団の落ちこぼれども……あ? そういや近衛騎士いるんだったな。でも中でぬくぬくしてるだけだし、練度は低いか……まぁ、問題ねぇか。なぁんにも、心配ごとなんざねぇよパー坊」


『だが、ペテロ、迅速、必須』


「そうだなぁ。でもな、わりぃがパー坊……俺に課せられた時間は明日一杯までなんだ。それまでは好きにさせてもらうぜ。それにそういう誓約だろ?」


『……せい、やく、承知、ペテロ、計画遂行、絶対』


「へいへい。言われなくても絶対遂行してやらぁ」


 魂の会話に区切りをつけ、赤髪の男は天井を見上げる。そして、男は口を大きく開け、舌と唾を垂らしながら快哉を露わに。ケラケラ、ゲラゲラと、狂人を彷彿とさせる狂態だ。

 目は血走り、垂れ落ちる涎は欲望の奔流ほんりゅう。久しく味わわなかった殺人衝動が、男を狂わせた。


「あは! アッハハハハハ!! 遂行するに決まってんだろぉが!! なんてったって、合法的に人殺しが出来るんだ!! 合法的な暴力!! 合法的な押し付け!! 正義っていう言い訳振りかざしてるだけの奴とは訳がチゲェ!!  俺は素直なだけ幾倍もマシだよなぁ!! 薄っぺらくて反吐が出るぜ!! キッハハハハハ!!!」


「んんんんん!!!!」


「あぁぁ……」


 今まで赤髪の男の狂態を見ていた司教服の老人は、狂人を目の当たりにして怯えた。それもそのはずだ。赤髪の男は驚喜的に、老人の目前で殺害予告を自白したのだ。何より、老人と赤髪の男との間には『殺さない』という盟約があった。


 だからこそというべきだろう。その盟約があるにも関わらず、赤髪の男には、それを守る為の理性が存在していない。存在している訳がない。倫理という言葉すらも、知らないのではないか。

 

 そう誰もが評するほどに、男は常軌を逸していた。


 老人は動かない手と足を蛆虫のように引きずりながら、赤髪の男から逃亡を図る。だが赤髪の男は這いずる音を聞くと、喜悦きえつの表情で、


「そう怯えるな。殺しはしねぇよ……盟約があるしな」


「ん!」


「でもよぉ、おらぁ思うんだ。死ってのは二つある。肉体的な死と、心的な死だ。一つ目は言うまでもない。二つ目は、人から忘れ去られた時の死だ」


「あぁ! うぬぅ!!」


 赤髪の男の顔が、瞳が、段々と老人の顔に、その瞳へと近づいていく。まるで、刻一刻と死が忍び寄るのを示唆するように。


「なぁ、人によっちゃ二つ目の死が本当の死だって定説する奴らもいる! ならよぉ! 肉体的な死ってのは、偽りの死ってことでもあるんじゃねぇか!?」


 子供の様な幼稚な理論だ。自分勝手で稚拙な言葉遊びだ。

 一般大衆が男の破綻はたんした理論を聞けば、理解できないと弾劾だんがいするだろう。

 だが、今この場で赤髪の男の主張を否定できる者は、一人もいない。即ち、老人は——、


「大丈夫だ。お前も直ぐに俺たちの仲間入りだ。痛いのは一瞬、直ぐに眠くなって、その後は痛みや恐怖なんてどうでもよくなれるくらい……楽しい時間が待っているからよぉ」


 最初から『死』以外にはなかった。


 ——既に赤い血で染め上げられていた時計塔は、血と臓物だけが残る地獄と化した。

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