第6話 誰かの、いつかの記憶

 時は遡り、陽刻の10時。


 昼下がりの室内。陽光によって暖められた空気は、吸い込むだけで億劫おっくうになる蒸し暑さだ。窓から窓へ飄々と吹きぬけていく風を、心地よいと思える程にだ。


「ただでさえ、暑くて最悪な気分なんだ。手っ取り早く終わらせよう」


「早く終わらせる、という意見には同意ですね。あの男への処遇は早急に決めるべきだ」


 部屋にはグレイとリフ、そして一人の青年がいた。グレイとリフは精悍せいかんな顔つきでお互いを凝視している。今にも切りかかりそうな剣呑な雰囲気だ。


「遠回しな言い方はやめろ。はっきり疑っていると言うんだな。そのための会談だろう。シュウのことを何故疑っているのか……聞かせろ、リフ」


 婉曲的えんきょくてきな言葉で煽るリフに、グレイが青筋を額に浮かべた。

 週に一度、騎士団の中で会談が行われ、一週間分の仕事の配分が決められる。普段はそこで解散されるのだが、今日に限っては違った。その原因を生んだのがシュウである。


「彼の存在の信憑性が欠けているからです。逆にグレイ殿は疑っていないのですか?」


「俺も、最初はシュウを疑っていた……」


 出自は不明。常識にうとく、文字の読み書きも出来ない。そんな男を疑わない方がおかしいだろう。でも、考えは変わった。変えさせられてしまったのだ。


 一対一の会話で裏を、本心を隠せる奴はいない。だから昨晩、シュウの本心をそこで見顕みあらわしてやろうと思っていたのだ。

 だがどうしたものか。見顕せたのは悪意ではなく、善意であった。


 村のことや騎士団がいる理由を訊いてきたり、ミレナの氏素性や人物像を訊いてきたり。賊なら事情や人物像ではなく、もっと重要な情報を引き出そうとしてくるはずだ。


 何より、シュウの話す仕草は穏やかだった。騙してやろうという、外連味けれんみは何一つなかった。

 人を思いやろうとする、優しい部分に溢れていた。


——それどころか、


『お前は、いい奴だな……シュウ』


『どうかな……俺は自分の為に動いてるだけだ。いい奴なんかじゃねぇよ……』


——シュウはそれを否定しやがった。


 あの蕭然しょうぜんたる顔は、謙遜などではなかった。


「いた、ということは、今は疑っていないのですね?」


「そうだ。上辺だけの善を見繕ったようには、少々思えなかったんでな。あいつは間違いなく、人を生かす側の人間だ」


「あいつ、というほどたぶらかされたわけですか……私がここに来た理由を忘れたのですか? 私には、今のグレイ殿の考え方が村を守る者として、騎士として相応しいのか、はなはだ疑問ですね」


 ピキッと空気に亀裂が入り、室内には更なる剣呑が漂う。一瞬、グレイの身体から怒りがオド——剣気となってにじみ出たが、リフはそれを冷淡れいたんな顔で受け流した。

 その雰囲気の中、居心地が悪そうに見守っていた青年はグレイの肩を叩き、一言「兄さま」と、幾諫きかんした。


 青年はグレイの弟で、騎士家計であるフェイド家の運営を担っているクウェルだ。彼がモワティ村にいる理由としては、入国審査官ならぬ——入都にゅうと審査官としての仕事を果たすためである。


 アルヒストの神聖な場所であり、中央政府でもある中央都に、許可なく人を入れることは禁じられている。

 そして、モワティ村は都外にある。


 当然、入都するに至って入都審査が行われるわけで、国から信頼の厚いクウェルが選ばれたのだ。

 審査官の彼が村に居るのは事前の審査でもあるのだが、つまるところ兄のグレイとリフに会いたかった、というのが本音である。


「それはお前の言う通りだ。しかしだリフ、護石の説明はどうする?」


「そうですね……彼は記憶喪失、或いは二重人格で、護石の結界に引っ掛からない、という可能性は? それに彼は出自が不明で、常識に疎く、文字の読み書きも出来ない。彼の状態と、護石の結界に引っ掛からない条件、偶然ではなく、必然だと思えませんか?」


 護石があるから、シュウは村に害を為す悪ではない、とは言い切れない。何故なら、過去の事例で護石に引っ掛からずに、内部に侵入した者が居たからだ。

 その真相は、記憶喪失をした者や二重人格の者が派遣され、護石の結界に引っ掛かることなく、内部に侵入したというものである。


 リフの言う通り、シュウの状態と結界に引っ掛からない条件は、見事に合致している。正論だ。


 だが、


「確かにそうだ。だがリフ……ミレナ様の正邪看破を、知らない訳ではあるまい?」


「それは飽くまで、ミレナ様の価値観から、主観から来るもの……自分を善だと信じ、悪行をも善行だと曲解する……なんて可能性もないわけではない」


 完全否定はできない。またも正論だ。

 グレイは怒りに握り拳を固めた。


 シュウに不審な点が多いのは否めない。故に疑うのは当然のこと。だが、どうしてリフはここまで疑い続けることを止めないのか。

 無理解が募り、募った無理解が怒りへと転変てんぺんする。


「リフ。お前、まさかミレナ様の言を信用しないというのか? あの方は神核に認められた神子だ。お前の考えは、神すらも裏切る行為になるぞ」


「話がズレ始めましたね……神やなんだと、故神にこだわるから正常な判断が取れなくなるのです」


「リフ。それ以上は、王をも侮辱することになるぞ……」


「話になりませんね。侮辱だとか、そういう話は関係ないでしょう。今話すべきは、危険な存在を置いておくか置いておかないか、という話です。話し合いの場に私情を持ち込むなど、愚かです」


「リフ! 昔年の決着をここで付けてもよいのだぞ!!」


 売り言葉に買い言葉。


 到頭とうとう堪忍袋かんにんぶくろの緒が切れてしまったグレイは、猛然と椅子を後方に蹴り飛ばし、机に片足を掛ける。それから机にもたれかけていた剣を掴み、リフを睨み付けた。

 さやから窺える刀身に蝋燭ろうそくの明かりが反射し、リフの目に映る。


「そうやって、直ぐに力で是非を決めようとする。だから私は貴方のような騎士や、王をく思えないのですよ。彼らの気持ちを、弱者の気持ちを分かっていない……」


 一方のリフはグレイの猛然たる行動に、変わらず冷淡を繕い続けた。そう繕っているのだ。

 感情はない。姿勢を崩さず、リフはおごそかに座り続けている。だが、それでもグレイがリフの繕いに気づけたのは、彼の選んだ言葉が変だったからだ。


 普段のリフなら選ぶことのない言葉。

 リフをよく知らない者が先程の言葉を聞いても、ただ綺麗にあしらわれたと思うだけだろう。


——俺には分かる……


 先程の言葉には、リフの万感の全てが詰まっていた。

 どうして、リフはこんなに大きな激情を抱いているのだ。分からない。


「ストップです!! グレイ兄さまも! リフ様も! もう少し平穏に話し合いできないんですか?」


 一触即発。いつ切り合いになってもおかしくない空気の均衡きんこうを保とうと、クウェルは立ち上がって、机を両手で無造作に叩いた。


「ッ…………」


 グレイは蹴り飛ばした椅子を手に持ち、元に戻すとともに座る。

 以前変わりなく、鎮座ちんざを通すリフは、激情を孕んだ双眸を隠すように瞑目。一度だけ深呼吸すると、クウェルに「申し訳ない」と一言謝罪をした。


 感情的なグレイに、論理的なリフ。その両極端を中立させるクウェル。

 こういった三人のやり取りは、日常と言えばそうであった。そうではあったのだが。今回だけは。


「もういいです。その人のことを知らないとはいえ、二人に話の進行を任せるのは間違いでした。これは俺からの提案なのですが、その人を疑っているなら、明日、社交界兼誕生日パーティーに参列なされる、ミレナ様の護衛役に加えるべきだと思います」


 そして、話は元に戻る。


 そもそも、今回の会談の趣旨はシュウを村に残すか。道中のミレナの護衛役として、一緒に中央都に向かわせるか、という話なのだ。

 少しどころか、列車が横転してしまう程の脱線事故を引き起こしてしまったわけだ。


 騎士団長と副団長の中立を図れるクウェルが、国から信頼されるのも自然である。


「理由はなんだ?」


「理由は、村を守る騎士団がアルヒスト中央都に向かえば、村の戦力は手薄になる。もしその人が賊だった場合、村にその人を置くのは蛮行。かといって、無理矢理追い出すこともできない。なら、その人を護衛役に担っちゃえばいいのです」


 グレイの推問にクウェルはそう説述せつじゅつする。

 三人寄れば文殊もんじゅの知恵。

 リフは理解したと言いたげに「そうか……」と、下を向いて呟き、


「賊なら、都内で騒動を起こすことは自身の首を絞めることになる。仮に騒動を起こしても、周囲には騎士がいる。その場での取り押さえが可能……賊ではないなら、何も起こらない……」


 クウェルの意見に欠漏けつろうがないか、淡々と独り言ちていく。

 そして溜飲が下がったのか、一拍だけ間を置き、


「敢えて護衛役に担う事で、行動に制限を掛ける。そういうことか、クウェル君……」


 顔を上げてクウェルを見た。


「そうです。兄さまはそれで納得しましたか」


「——あぁ、わかった」


 クウェルからじろりと睨まれたグレイは、心の奥底にある怒りをかみ砕いて、節度ある態度を取った。


 今グレイの中にあるのは、シュウの力になれなかったことへの呵責だ。彼の人間性を、彼の優しさを諭す機会を、自身の怒りを優先してしまったことで、台無しにしてしまったのだ。

 子供のような癇癪かんしゃくを起した自分が、愚かで許せない。不甲斐なさだけが降り積もる。


「俺は少し席を外す」


「あ、兄さま……」


 緊迫した会談は急転直下に終わる。

 悲しげな顔で憂慮ゆうりょしてくるクウェルを無視して、グレイは鬱屈とした表情で部屋を後にした。



 ※ ※ ※ ※ 



 風呂を済ませたシュウは「ふぅ」と息を吐き、ミレナの家へ叩扉こうひ。家政婦のクレイシアに「こんばんわ」と出迎えられ、木製の廊下を通る。


「長湯しすぎた」


 一日頑張った後の風呂の気持ちよさと、公衆浴場故の広さが相まって、子供の様に長湯してしまった。

 ドアノブに手を掛け入室すると、


「悪い、遅れたミレナ。って……」


 髪を下ろしたミレナが、机の上で気持ちよさそうに眠っていた。

 シュウは手を後頭部に——謝ったことを後悔しつつも扉を閉め、ミレナの横に置いてあった椅子に座った。


「まさか、こいつ教材を……」


 そうぼやくシュウの目に映ったのは、彼女が枕にしている本だ。

 恐らく、読み書きの練習用に用意した本だろう。その本に、だらりと垂れている涎はどうしたものか。


 シュウは思わず嘆息する。


——しかも、おい……


 そうやって憮然ぶぜんとしている彼に、更なる追い打ちをかけたのは、ミレナの服装だ。夏とはいえ、余りにも薄着過ぎる。緑の下着の上にシャツ一枚なのだ。しかも微妙に透けている。

 男が部屋に来るというのに、危機感がないというか、なんというか。


「無防備だな……おい、起き——」


「ん……? 誰? あぁ、シュウ。来てたのね。遅いから寝ちゃったわ、はぁ……」


 シュウが肩を揺さぶろうとする直前、気配に気づいたのか、ピクッとミレナの耳が反応。彼女は左手で目を擦った後、口から垂れている涎を拭き取る。そして「はぁ~ぅぅん」と大きな欠伸をして、背筋を伸ばした。

 猫のような無邪気さだ。


「俺が来るまで頑張れよ。それと、もうちっと厚着しろ」


「だぁって、夜は暗いから眠たくなるものでしょ? あと、お風呂上りは身体がポカポカしてるから、厚着すると汗かくの……」


 一般論をいけしゃあしゃあと並べて、ミレナは自身を正当化させる。


 灯りは二本の蝋燭——壁に掛かっている燭台しょくだいに一本と、机の上にある一本。ミレナの言う通り、薄暗い部屋は睡魔を誘うものがある。

 だからといって、寝落ちしていい訳ではないが。とはいえ、遅れた分際である自分にとやかく言う資格はない。


「飯食った後だと眠くなるし、早めに頼むぞ」


「はぁい。あれ、教材用の本は?」


「お前の手元な」


 首を左右に振って教材の本を探すミレナに、シュウは『やっぱりか』と胸中で呟きながら、彼女の手元を指さした。


「あ、私、本を枕代わりにして寝てたのね。あちゃー涎で濡れちゃってる。あはは……」

 

 ミレナは小タンスからタオルを取り出し、唾液で湿っている表紙を拭きとる。それから、本の一ページ一ページを流し見して、異常がない事を確認。「大丈夫そうね」と呟き、羽ペンとインクの入った小瓶、羊皮紙を机の引き出しから取り出した。


 さて、いよいよ読み書きの練習の始まりだ。


「さ、先ずは基本のヒラ文字からね」


「確か、あとアル文字に、スウ文字、だったか? があるんだろ?」


「それは、また後日……追々ね。取り敢えずは、書置きとかで伝えたいことが伝わればいいから」

 

「了解した」


 基本と聞いて、シュウは五十音的なポジションなのだろうと高を括った。読み辛くはあるが、要領は伝えられるということだろう。


「この本はね、子供用に読み聞かせする本なの。著者名と巻末以外は全部がヒラ文字で書かれてあるから、直ぐに読めるようになるわよ。私が読むから、シュウはそれに続いて、読んで、書いて、読んで、書いて……ていうのを三回繰り返したら、次の文字に移る」


「結構、初歩的なんだな」


「そりゃそうよ、シンプルが一番だわ」


 いやはや、事ここに至っては言い返せる余地は寸毫すんごうもない。

 元の世界でも、先ず字の読みから覚え、次はなぞり、最後は字を一から書いて文字を習得していた。

 子供も大人も、覚え方は変わらないという事だ。


「書いていったら、自然と覚えられるわよ」


 子供の頃は、母親のツグハから文字の読み書きを教示されたものだ。彼女の天然が原因で、間違った言葉遣いをしてしまった時は汗顔かんがんしてしまったが。

 黒歴史として未だに記憶の中に眠っている。


——クソ、何か思い出したら恥ずかしくなってきた。


「馬鹿な俺には、地道な努力が必要か」


「そうよ、地道な努力。いい言葉ね」


 天井を仰ぐシュウに、ミレナは得意そうに言う。シュウはその言葉を素直に受け取り、ひしと表情を引き締めた。

 精励を志す彼を、横目で見ていたミレナはふふっと破顔する。


「……ん?」


 ふとシュウの瞳に、本に付いている黄ばみが映った。その他にも、薄みがかった文字に破れた跡などが瞳に映る。


——使い古すまで、使ってるのか……


 シュウはそれらから、ミレナの持っている本が高価な物なのだと類推るいすいした。


 そして、真意を確かめるために、


「その本、随分と黄ばんでるな……やっぱり、本ってなると値は張る物なのか?」


「確かに本は高価だけど、別に買えない訳ではないの、ただ……」


 躊躇うように、ミレナはその双眸に逡巡しゅんじゅんを宿した。その後、彼女は煢然けいぜんとした表情で教科書を見つめ、


「これ、エルフの皆が使ってた本なの……」


 悠久の時間、ひと時も忘れたことは無かったと言いたげに、手で優しく触れた。

 それは、その仕草は、ミレナの胸臆きょうおくにある万感を物語っていた。

 

「…………」


 ミレナのその言葉と仕草を見て、シュウは自身の軽率さを呪った。

 エルフ族の末裔であるミレナ。その彼女が未だに大切に持っている本。それだけで、彼女が幾程の感情を本に抱いているか、理解できない程馬鹿ではない。


 これで二度目だ。


「悪い……」


「えへへ、気にしないの」


 ミレナは『切り替えよ』とニッコリ笑う。

 それから彼女は、本の表紙に書かれた文字を指でなぞって、


「ちょっと前に、歴史的な遺産物として、本を渡してほしいって、村に訪れた奴がいたわ。今は亡きエルフ族の生態を本にして出版したいから、本を譲ってくれって奴も……」


 語り始める。

 語り始めて、その時を思い出したのか。ミレナはムムっと顔を怒らせて、


「私ムカついたから、そいつらの要求を全部断って、一生関わらないで! って、村から排斥してやったのよね。お金とか名誉とかでどうこうできるって、本当に思ってるのかしら。ああいう奴らって……私達エルフは研究対象じゃないっつうの、ほんと……」


 ぷんすかぷんぷんと、頬杖を付く。


「価値観の相違ってわけか、分かり合えないことだって、いや……分かり合えないことの方が多いからな」


 人の本質など、得てしてそういうものだ。自分の利益の為なら、他者をかえりみないことなんてざらにある。中には他者を顧みた上で、そういった行動をしている馬鹿もいる。

 謂わば性猶杞柳せいゆうきりゅうだ。


「確かに、その通りだけど……なーんか、その一言だけで終わらせるのは気に食わないのよねぇ……」


「まぁ、そうだな」


 生きていくために、必要不可欠な選択と言われればそうなのだろう。だが、それが理由で許されるというのは虫が良すぎる。


「特に理由の無い感情に、理屈やら論理を使って正当化する。人間のいいとこでもあり、悪いとこでもあるからな。だけど、やられた側は相手の理屈だとか論理なんか、関係ねぇもんな。だから軋轢あつれきが生じて、争いや戦争が起きる訳だ」


 人としての——いや、生物としての根底は元の世界であろうが、異世界であろうが変わりはないということだ。


 初めに小さな感情から争いが起き、互いが互いの主張を理屈や論理で正当化することで戦争に発展し、殺し合って終幕。

 そして、残ったのは多くのしかばねと、その屍の上にある勝敗の結果。結ばれる数多の条約。


 最初から話し合いで終わる筈のことを、馬鹿みたいに肥大化させて、終わった後に阿保みたいに冷静になって、それで猿知恵となんら変わりないさかしらな約束を結んで、解決した気になる。


 知的生命とは名ばかりの虚飾きょしょくだ。


「うん……やっぱり、シュウって妙に慧眼なとこあるわよね?」


「そうか? 俺は事実に、歴史に即したって感じだけどな」


 頬杖を付いたまま、感嘆の言葉を投げて来るミレナに、シュウは淡然たんぜんと返す。


 慧眼など過大評価だ。争いは、戦争はよくない事だからやめましょう。そう書いてある教科書の言葉を、そのまま言葉にしただけだ。


「自分を誇大しないのね。謙虚っていうか、馬鹿正直ってかんじぃ」


「確かにそうかもしれないが、思ったことをすぐ口にするこれはなんだ……?」


「うぅ! つねらないで! ごめんってば!」


 余計な一言をプラスして追い打ちを掛けてくるミレナに、シュウは軽いお仕置き。その減らず口を抓って折檻執行だ。

 手を放せば、彼女の口元には抓った赤みが残る。長耳を「うぅぅ……」と垂れさせている姿から、反省はしたようだ。


「さ、話が逸れちゃったわね、読み書き始めましょ」


「そうだな。じゃあミレナ先生、読み書き頼みます」


 話に一区切りがつくと、ミレナが軌道を修正。

 シュウは座ったまま頭を下げ、ミレナから教示をう。その彼のぎこちない動きにミレナは「はぁい」と、やわらかに答え、


「それじゃあ、始めます……」


 本を開いた。


「とても昔の話です。ある土地で六人の子供が、天からの恵みとして誕生しました。その六人の子供は、魔法を——」


「あぁ、ちょっと待ってくれ」


 読んでいる文字の横に指を合わせ、すらすら読み進んでいくミレナに、シュウは掌を見せて止めさせる。その理由は、


「文字がミレナの手の影と重なってて、少し見づらい。だから、もうちょっとこっちに……」


 光源——蝋燭の位置と本の位置が悪い所為で、影が重なって見にくいのだ。シュウは蝋燭と本の位置を調節する為、本を掴んだ——瞬時、


「————ッ!!」


——シュウの全身に激しいよどみが生まれた。


 針で刺されたような痛みに襲われ、倦怠感けんたいかんとなって全身が苛まれていく。沸騰したかのような胃液が喉まで逆流し、身体全身が麻痺したように痺れ、シュウは椅子から転がり落ちてしまった。


「シュウ!? 急にどうしたの!?」


 椅子から転がり落ちて苦悶くもんを訴えかけるシュウに、ミレナは心配そうに屈んで近寄る。それから、シュウの胸に手を当てて身体を起こそうと支える。


「だぁ、い……?」


 ミレナに心配をかけないため、シュウは「大丈夫だ」と声を掛けようとしたが、思うように声が出なかった。辛うじて掠れ声が出るだけで、それ故に自身の身体が重篤じゅうとく状態であることが分かった。

 

「凄く顔色が悪いわよ。大丈夫? 今日はやめとく?」


 ミレナの声が遠く、物越しに聞いているように音質が悪い。


 血液が逆流したかのような感覚。頭を叩きつけられたような鈍痛。身体の中身が揺らされているような気持ち悪さ。胸には、鋭利な物で抉られるような激痛が絶え間なく訪れる。


「ぁガ、うぅぇ……」


 酸素を取り入れようとしても足りず、呼吸が荒くなる。

 次第に意識が朦朧もうろうとして、視界は黒を帯びていく。必死に意識を保とうとするが、それ以上の速さで力が無くなっていってしまう。


 形容するに、世界から自分だけが引き抜かれていくような喪失感だった。


「ま——! ———が! ———! しっか——て!」


「あ、ぁぁ……」


「ま——、——ちゆ———を—かう——!」


 シュウはこの感覚を知っている。これは生前、元の世界で何度も味わった痛楚つうそ。これは、あいつが——創造主が現れる前兆だ。


『条件が今、満たされた。中央政府に向かった時、近くにあるスラム街に訪れるといい……そこに打開策があるよ……さぁ、可能性の一つ、その結末を見給え』


——子供の声が途切れると同時、シュウの意識も消えた。




 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




——自惚れていたのだ。


 世界を傍観するシュウに、何かが訴えかけて来た。

 

 虚無の世界に一つの白い線が入り、それに続くように無数の線が新たな世界を作り上げていく。

 そうして、視界に映り込んだのは、黒髪の青年と薄緑髪の耳の長い少女。そして、その二人を囲むように倒れている亡骸だ。


 場所は推し量るに山の中だろう。だろうというのは、まるで何かが、世界に制限を掛けたように判然としていないからだ。

 見えているようで、見えない世界。見えていないようで、微かに見える世界。


 雨によってぬかるんだ地面に、青年が拳を叩きつけた。握りこぶしが血で滲もうとも構わず、彼はただひたすらに拳を叩き続ける。


 その青年の胸の中では、命のともしびがなくなっていく小さな生命があった。


「おか、しい、な……ほんとう、は、つら、い……はず、なのに……いやな、ことで、いっぱい、だった、のに……いま、わ、たし、すっごく、しあわせ、なの……」


「…………」


「むら、で……いちばん、の、ねんちょうしゃ、で、みんなを、だいひょう、しなきゃ、いけ、ないの、に……わたし、おこら、なくっちゃ、いけないの、に……わたし、かな、しいんじゃ、なくて、うれしく、て、ない、ちゃってる……」


 子供の死を受け入れられない親のように、恋人の死を悲嘆する少年のように、青年は彼女を虚ろな瞳で眺めていた。


 活力の無い瞳から明るさが——命が失われていく。

 薄弱な風で吹き消されてしまう程の小さな熾火おきびを、少女を、青年は見ることしか出来なかった。


 降りしきる雨の中、少女は力のない瞳で青年を見つめると、彼の頬に伝わる涙を拭い、優しく触れてみせた。


「ごめん、ね……まき、こんで……」


「違う! 巻き込んだのは俺の方なんだ!! 悪いのは俺だ! ———が死ぬ必要なんてない!! 死ぬべきは俺なんだ!!」


「ちが、う! しんでも、いいこと……なんて、ない、の……だから、い、きて……わたしの、ぶん、まで……」


 数十、百数の人の亡骸が倒れている凄惨せいさんな森の中に、青年の痛哭つうこくが木霊する。彼の言葉に返ってきたのは、途切れかけの声と耳障りな雨音だけ。


 耳障りな雨音——何故、傍観者のシュウがそう思ったのか。恐らく、それは未来の自分を見ているように思えたからだ。他人事ではないと思ったからだ。


 だって、映っている青年と少女は——、


「そんな、だからって!」


 答えに至る寸前、青年の大きな声が響いたことで、 シュウの思慮が遮られてしまった。


「じゃあ、どう、して……? なん、で———は、わたしたちに……きょうりょく、して、くれたの……? どう、して……そんなに、おもって、くれたの?」


 残り少ない生命の糧を振り絞るように、残りわずかの寿命を捻出するように、少女は訥々とつとつと言葉を紡いでいく。

 死を達観しているのに——否、死を達観しているからこそ、彼女は青年の真意を知りたかったのだろう。

 

「……そ、それは、俺は自分の為に、だから、そのせいで村が、———が……」


「もう、うそつき……でも、ありがとう。そんな、あなた、だから……わたし、は、すきに、なれた……そう、おもうの……」


 少女は青年から聞きたいことが聞けたと、納得したように小さく嫣然と微笑む。そして瞑目し、青年の唇に優しく口づけをした。


「…………」


「いやを、いやで……さいあくを、さいあく、の、ままで……おわら、せちゃ、いけないの……」


 力が無くなり、零れ落ちていく少女の手を、青年は必死になって手繰たぐり寄せた。

 こんな終わり方があっていいはずがない。それだけはやめてほしい。傍観者のシュウには、そういった云為うんいに見えた。


「私のファーストキス……最後を、好きな人の中で迎えられて……私は幸せだったよ。ありがとう……さようなら、———」


「そんな……ま、てよ。待ってくれ、おい!! ——ッ!」


 手を握る力さえも無くなったのだろう。青年の手から、残り僅かの生命が途切れたように、少女の手が離れた。

 

「————ッ!!」


 青年の黒色の髪は虚白に蚕食さんしょくされ、色が失われていく。


——そうして真っ白になり、雨の音を上書きするほどの慟哭どうこくが森に響いた。


 世界に一本の黒い線が走る。それを起点に無数の線が矢継ぎ早に走り、青年を、少女を、森を、世界を虚空に帰していく。

 ノイズが激しい所為で聞き取れなかった部分。そこには一体、どういった言葉が入るのだろうか。夢を見ているだけのシュウに、考える余地は無かった。


 


 ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※




 ——誰かの記憶が流れ込んでくる。



「ねぇ、パパ、ママ、どうしたの? お外、凄く怖いよ……」


 赤い、全てが赤いあの日。


「————、いいかよく聞くんだ」


 爛々らんらんと森の中に燃え広がる炎で、覆われたあの日。


「振り向かず、そのまま祠に向かうんだ」


「でも、お外怖いよ、森の皆が泣いてるよ!」


 薄緑髪で翠眼の男性と女性は少女の手を取り、彼女の額に一度ずつキスを重ねる。

 家族同士の間にある他愛なくも美しい絆の一部は、平穏とは程遠い苛烈の渦に飲み込まれていた。まるで、その熱が最後であるかのように、二度と訪れない愛であるかのように、現実は沸々と別れを示唆していた。


「大丈夫だ、森はパパとママが守るから」


「そうよ、————。だから、私たちを信じて行って」


「これはパパとママと、————の約束だ。僕たちも直ぐに向かう。大丈夫だ」


「パパ、ママ。絶対に来てね。約束だよ……」


「「うん」」


 少女は頭を撫でてくれる二人を信じて、地下にあるほこらへと向かって走り出す。言われた通りに、振り向かず、躓いて服を汚しても、森の叫びに耳を塞ぎながら、二人が追って、自分の元へ来てくれると信じて、遮二無二しゃにむにに走り続ける。

 森を抜け、岩場を通り、波音が聴こえる島の最北端にある『魔女の祠』に入っていく。

 

——約束は守らなきゃ、守らなきゃいけないの。


 そうすればまた、母親と父親は自分を褒めてくれる。また一緒に過ごせる。笑い合える。

 きっとそうだ。今までそうだった。だから今回も、二人は帰ってきてくれる。そうでなければおかしい。嫌だ。


『嫌を嫌で』


『最悪を最悪のままで終わらせちゃいけないよ』


『『————。わかったかい』』


 母親と父親のその言葉だけを心に留めて、少女は階段を駆け下りる。


「見つけたわよアル」


「見つけてしまったわアポ。ウィッカちゃんだったかしら?」


「違うわアポ。それは祖先の方よ。この子は————ちゃん」


「王族とは違う、もう一つの特殊な血筋の末裔」


「魔女の子を……」


 そこには褐色の二人の少女が、地下の祠の中で両手を重ねながら待っていた。見たことは無い。この二人が、両親や仲間を守ってくれるのだろうか。


——違うと思う。


 不気味な程に不釣り合いな、褐色の二人の少女。森の中は悲痛や悲嘆、憎悪や赫怒といった負の感情が蔓延しているのに、眼前の二人は喜悦きえつ——正の感情を宿しているのだ。

 その不釣り合いの二人が、薄緑髪の少女にとっては酷く恐ろしい。


「あ、ぁぁ……だ、れ?」


 薄緑髪の少女は階段で足をつまずきながら、褐色の二人の少女に誰なのか問うた。


「私はアル」「私はアポ」


 律儀にも、褐色の二人の少女は、薄緑髪の少女に名乗ってみせた。

 その愉絶ゆぜつに歪んだ表情。律儀にも名乗ってみせたのは、慢心か。


 褐色の二人の少女は片手だけを離し、ゆっくりと薄緑髪の少女へと近づいていく。

 そして離した片手で、薄緑髪の少女の胸に触れ、


「美しいモノは」


「全て私たちのもの」


「「ピヤージュ」」


——何かをささやいた。


 同時、薄緑髪の少女から鮮血が——大切な何かが失われる。

 風船から抜ける空気のように、亀裂から流れ出す水のように、意識と力が消えていく。薄緑髪の少女の胸にあるぽっかりと空いた空洞は、喪失を如実に語っていた。


「「嗚呼、なんて美しいのかしら」」


 しかし、薄緑髪の少女には一つだけ、心の底から湧き上がる感情があった。それは褐色の少女に向けた怒りだ。故郷を焼き、仲間を殺し、大切な母親と父親を奪ったであろう、敵への怨恨えんこんだ。激憤だ。


 恍恍惚惚こうこうこつこつと、奪った石を見つめる褐色の少女。この者だけは決して許してはならない。必ず、報いを受けさせなければ。


——絶対に、赦さない……


 唯一、その決然たる鮮烈な意志だけを抱いて、薄緑髪の少女は意識を失った。


「さぁ、後はこの体を——ッ! なに、ひか、り? まさか!?」


 薄緑髪の少女——彼女の手元の地面が炯然けいぜんと光り、燐光りんこうは島を覆う。


——転移の魔法が発動した。

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