第一章 モワティ村の救済

第1話 新たな大地と初陣

 吹き抜ける風たちが鬱蒼と生い茂る草や木々を揺らし、虫や動物の鳴き声が右往左往する世界。頬を撫で、去っていく暖風は生物に夏だと悟らせる。巡る季節。夏が終われば秋が訪れ、冬になっては春が来る。


 そんな、何の変哲もない世界の一部に一人の人間が姿を現した。男だ。背丈は常人より一回り大きく、黒い髪に青い瞳。上下に灰色と黒のウィンドブレイカーを着込んでおり、夏という季節には似ても似つかない服装だった。

 自然の世界に一つ、人工物が紛れ込んでいるような異物感。『感』というよりは異物と言った方が正確だろうか。現に、その男は世界には存在しえない者であり、彼自身もその自覚があった。


「あっついな……なんでよりにもよって夏なんだ?」


 男は誰かもわからない存在に、そうぼやいてみせた。

 創造主はこう言った。異世界だと。異世界転移。異世界転生。

 無知識の世界。未知の世界に一人の男——シュウが降り立つ。


——ここから、始まるのだ。異世界での彼の生活が……


 異世界へ転送させられたシュウは上着のウィンドブレイカーとジャージを脱いだ。

 左腕に脱いだウィンドブレイカーを垂らし持ち、上は白いシャツ一枚。下は黒いジャージと冬着から夏着へとチェンジした彼は、額から垂れ流れる汗を拭う。


 創造主に言われた村の救済。先ずはその村を見つけ出すところからだ。

 とはいったものの、何処にあるかがわからない。村の位置さえ把握しているなら、時間の問題なのだが。


「あの野郎……いや、訊かなかった俺が悪いのか?」


 果たして、訊いたところで教えてくれただろうか。多分ない。十中八九ないだろう。

 兎にも角にも、うだうだ言っているだけでは救うも何もない。森を抜け、集落などといった人の集まる場所に向かうしかない。その集落すら、何処にあるのかわからないが。

 創造主の言葉を信じるなら、幸い言語が通じるようにしてくれている。異世界ものといえば言語からだが、そこをスキップできたのはかなりでかい。


「さて、見たところ山……降りるか登るか」



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 下山を決意したシュウは一時間の間、滑落しないように恐る恐る山を下っていた。中途、大きな段差に出くわし、怪我をしないようにと、クッション性が高そうな黒い地面に飛び降りたのだが。


「なんだ! このでかい生き物は!?」


 それがまさか、巨大な生き物の背中だと、誰が予想できただろうか。

 シュウの身体が直撃したと同時に、黒い生き物は低い声で呻った。

 そして、眠りを妨げられたことに逆上したのか、


「ギ、ガオォォォォォン!!」


 黒い生き物はシュウと目を合わせ、その赤い双眸に殺意を乗せて威嚇した。


 見た目はライオンに近く、しかし黒い毛並みと巨躯の身体は、現実離れしている。尻尾部分にある蛇の頭は所謂いわゆる、創作上に出てくる合成獣『キマイラ』とそっくりだ。羊の頭が存在していないのが、唯一、シュウの知っている情報と違うところだ。


「ゴォォォォォォ!!!」


「生態系は似せるって話じゃないのかよ! 畜生! 逃げるしかねぇ!!」


 体長四、五メートルはある巨大生物。これと対峙した今、逃げない選択肢を選ぶ者がいるだろうか。いやいない。

 この大きさを目の当たりにすれば、考える余地などいらない。これは現実であって、漫画やアニメではない。立ち向かうなど、自惚れも過ぎる話だ。


 風を切り裂くような音が鳴ったと同時、シュウは反射的に前方へと飛び込み、キマイラの手甲鉤てっこうかぎのような爪での攻撃を、間一髪で避ける。


 的を失った攻撃は留まることなく、横にある大木をプリンのように両断した。

 尻もちをついて振り返ると、キマイラの爪によって引き裂かれた大木が、土を飛ばしながら倒れる。


「マジかよ!?」


「ギョォォォォォ!!」


「な、んだ?」


 キマイラは大きく口を開けると、その口内から鈍い振動音が周囲に轟いた。直後、口内の中心から赤い迸るような球体が発生し、急速に肥大化。

 口周りよりも大きくなると、キマイラは射出態勢を取るかのように、四肢を横に引き延ばした。


「火球? ファイアーボールってか!?」


 紅蓮の如く猛る火球。そこから放たれた熱風に、肌を炙られる。そして、射出される瞬間をシュウは目の当たりにした。死の直感。だがシュウの身体は、死を受け入れない。本能は、それを甘受することを拒絶した。


 身体の丹田にある魔術中核——そこから生まれた力は血液に流れ、筋肉へと伝染する。

 

 そうした因果を経たシュウの身体は地面から七、八メートルを越える高さまで飛び上がった。立ち上がる力だけで七、八メートル飛び上がったということだ。

 キマイラの火球による攻撃は空を切り、数メートルの直進運動を果たしたのちに爆発四散。


 ファイヤーボールを避けることに成功した。


「思い出したぜ」


 身体が落下し、世界が縦長に歪む中、シュウは過去を振り返る。

 魔術師。シュウが生前、母親から受け継いだ力だ。


 ——これなら対抗できる。


 人智を越える跳躍を成したシュウを、キマイラは猛然と睨み付け、落下地点を狙うように突貫する。

 その獣の第六感は、シュウの落下地点を正確に予測していた。


 打ち上がるボールを狙う選手のように、キマイラの頭部がシュウの腹に直撃——したかに思えた寸前。シュウはキマイラの額に両手を当てて身体をひるがえした。

 着地を果たしたシュウは、臨戦態勢になってキマイラの追撃に備える。


「クソ! 来やがれ!!」


 腰に力を入れて、今度はキマイラの突進をシュウは正面から受け止める。地面が足跡によって抉られるのは、キマイラの猛進の力の証左とも言え、同時にシュウの力の証左とも言えた。

 猛進を抑え込むことに成功し、シュウは怯むことなく獣の左目を右手で抉って反撃。

 痛みに嘆いたような、甲高い金切り音を響かせながら、キマイラは後退する。

 

 この山の主だと誇大したいのか、負けじとキマイラは獰猛に吠え長ける。尻尾の蛇頭がシュウに向かって牙を向き、その横っ腹に向けて猛威を振るう。


「————ッ!! 馬鹿が!」


 本能的に、シュウは魔術による筋肉強化で致命傷を避けた。そしてナイフで切り落とすように右腕を振り下ろし、蛇頭を抉り落とす。

 固い地盤に陥没跡を残す程の膂力だ。例え巨躯の獣であろうと、その力をまともに食らえばただでは済まないのだ。


「きぃぃぃぃ!!!」


「うおッ!」


 人よりも生存本能が高いキマイラは『この生物には勝てない』と悟るや否や、大木をなぎ倒しながら山奥へと退散していった。

 走り去る展開の速さは、遅れてその爪痕を沸々と物語り始める。


 凶悪な猛獣を、シュウは一人で撃退したのだ。


「忘れてたぜ、俺……魔術師だったな」


 腹部にある傷を撫でながら、シュウはその場に座り込んだ。いや、正確には座りたくて仕方がなかった、だ。

 そう思う原因は、身体が倦怠感を訴えているからだ。


 脳が正常な判断を取れているのか確かめるために、シュウは右手を見やった。


「はは……嘘だろ」

 

 妙に視界がぼやけていると思えば、右手の指の数が倍に増えている。

 これは正常ではない。というか、ひどく疲れた。眠いし、体が熱い。


 シュウは腹部から広がる淡い熱を感じた。次第に力がなくなっていく違和は全身に広がり、それは脳でさえも例外ではない。


——毒だ。

 

 その事実に気付いた時、シュウは絶望感と共に眠りに落ちるのであった。



「あ、あぁ……どれくらい、ね、てた……?」


 異世界転移して早々、死ぬような思いをするとは思いもしなかった。

 シュウは起き上がると、身体に異常がないか検める。腹部の傷口は既に塞がっていて、毒気にやられて動かなくなった身体も支障はない。

 どうやら、毒と傷はそこまで酷いものではなかったらしい。


「筋弛緩の毒……見掛け倒しってところか」


 そう独り言ちたシュウは嘆息。血を垂れ流し尽くし、既に死後硬直に入っている蛇頭に目を落とした。

 雑魚敵は爪で切り殺し、強敵には蛇頭の毒を使って動きを止め、その間に殺すといったところだろう。

 そうして、獲物の肉を食らう。


 人工生物か野生生物かどうかはわからないが、自然の世界にキマイラが存在しているとなると、この異世界の生態系はどうなっているのだろうか。

 先程のキマイラが人里に下りれば、死傷者が出てもおかしくはない。

 

  そこで一つ、シュウはアイデアを思いついた。

 人里に辿り着くまでの時間は別として、蛇頭を持って村や集落の人間に差し出せば恩を売ることができるかもしれない。正真正銘、伝手やコネがゼロのシュウにとって、恩を売る行為は目的に近づくための大きな一歩だ。


 なら、次はキマイラ撃退が恩を売るための材料に成り得るか。


 そこは問題ないだろう。実体験として、先のキマイラなら人一人を食い殺すことなど、造作もないはずだ。キマイラを撃退したとして、人々から賞賛を受けてもおかしくはない。

 ならば証拠が必要不可欠だが、こちらも問題ない。


杜撰ずさんな部分は……」


 推論を並び立て、シュウは今の計画に抜け目がないか思惟。 


「多分ねぇな。決まり、だな。持って降りていくか……」


 美味いかどうかは置いておいて、肉や皮として売ることも出来るはずだ。


 この際、服の汚れを気にするのはやめておこう。

 蛇頭をウィンドブレイカーで包み、シュウは背中に引っ掛けた。そしてそのまま、引き続き下山を試みるのであった。

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