第2話 密命
サダヒコという新たな伴を加えたニニギの一行は、船に乗って筑紫の
海峡の潮の流れは複雑で、サダヒコなしではとても進めないものだった。
サダは神稲という意味だが、稲穂の豊穣を意味するニニギに遠慮すべきだから、サルタヒコと呼ぼう。同行のアメノコヤネに言われて、彼は「サルタヒコ」と名を変えられた。猿は日神の使いであり、猿田は神田を表すから、悪い意味ではない。しかし、本来の名を奪われるのはいい気持ちではないだろう。
なぜ「サダヒコ」ではいけないのか。今まで他の神のすることを疑うことなく受け入れてきたウズメが、初めて感じた疑問だった。
「なぜ、アマテラスではなく、まだ若い孫のニニギが降臨するのだ」
潮を読んで舵を取りながら、サダヒコがウズメに訊ねる。彼は童子のように何でも問いかけてくる。
「我々には
ウズメの答えに、サダヒコがさらに問う。
「なぜ若い方がいいのだ」
「稲は刈り入れると、また新たな苗が出る。こうして稲霊が新たに生まれ変わっていくから、我々は命を繋いでいる。若さとは
時々、サダヒコはウズメに答えられないようなことを訊いてきた。
「なぜ天つ神は葦原中つ国を平定したのだ。元々は国つ神が支配していたのだろう」
「天つ神が畏れ多いから、国つ神たちは自ら国を譲ったのよ」
「それは本当か」
すんなりと譲られたわけでないことは、ウズメも知っている。オオクニヌシの子・コトシロヌシは、天の逆手を打ち呪いをかけて死んだし、タケミナカタは、アマテラスが遣わしたタケミカヅチに両腕をもがれ、諏訪の地に閉じこめられた。
「……さあ」
答えにくいことがあるとき、ウズメはわざとサダヒコの背中にもたれかかった。こうすると、サダヒコは黙り込むからだ。
「ねえ、サダヒコ」
ウズメが呼びかけると、またしても問いが返ってきた。
「なぜサダヒコと呼ぶ。サルタヒコと呼ばねばならぬのだろう?」
サダヒコの背中に体を預けたまま、ウズメは空を見上げる。
「なんでかしらね。うまく言えないけど、サダヒコの方がいいって思ったから」
サダヒコの大きな背中が軽く揺れた。笑ったのだな、とウズメは思った。
「
他の神がそう呼ぶのを聞いたのだろう。サダヒコが、問うというより拗ねるような口調でウズメに言った。
「我々の慣わしでは、女が男に名を明かすのは、契りを交わしてもよい、という意味だからよ」
背中の感触で、サダヒコが息を止めたのがウズメに伝わる。
「といっても、ウズメは通り名なんだけどね。それでも、初めて会った男に軽々しく教えるのはどうかと思って」
「……では、吾が名乗ったのは、
恥ずかしそうに問うてくるサダヒコの様子がおかしくて、ウズメは思わず笑ってしまった。
「安心なさい。男から女の場合は、そういう意味じゃないから」
そうか、とつぶやくサダヒコの声が少し残念そうで、ウズメは男に対して初めてあたたかい心持ちになった。
ニニギ一行は、筑紫の
イザナギが黄泉の国から脱出して
宴のあと、一人だけ宮殿に残るよう言われたウズメは、台座に腰掛けるニニギの前に平伏した。
「
かしこまりました、とウズメが一礼すると、ニニギがさらに続けた。
「また、サルタヒコの名は、
思ってもみなかった詔に、ウズメは思わず顔をあげた。名をもらい受けてお仕えするとは、サダヒコの
「不満か?」
「いえ。御名、ありがたく頂戴し、サルタヒコの神にお仕えいたします」
ニニギの詔は絶対だ。それに、相手がサダヒコなら不満はない。
あの大きな背中に体を預けてこの先暮らすのは、幸せなことだとウズメは感じた。もう、誰かを操ったり、秘密を聞き出すために相手をたぶらかしたり、体を差し出したりせずに済む。
ウズメが口元をほころばせていると、ニニギが険しい顔で身を乗り出してきた。そしてウズメの耳元で、小声で、しかしはっきりと言った。
「親しく仕えて油断させ、頃合いをみて、サルタヒコを
ウズメの心の中に広がっていた、サダヒコとのあたたかな未来が凍り付く。目を見開いたまま声の出ないウズメに、尊大に足を組んだニニギがつぶやく。
「日神は、二柱もいらぬ」
いつまでも返事をしないウズメに、この国の王であり最高神の孫であるニニギの言葉が降ってくる。
「そのくらい、アメノウズメであれば、たやすいことであろう。……
からからに渇いた口で「御意」と答え、ウズメは逃げるように宮殿を去った。
サルタヒコを
ニニギは気づいていたのだ。サダヒコはただの境界防塞の神ではない。高天原と葦原中つ国を照らしていたという光、それはきっと日輪だ。彼はやはり、地上の国の日神だったのだ。
ウズメも聞いたことがある。地上を統べる神であったオオクニヌシが、兄神のはかりごとで焼けた大石につぶされて死んだとき、二柱の貝の女神によって生き返った。そのうちの一柱が、
最高神であるアマテラスと同じ、日輪をつかさどる神がいては、不都合なのだ。今回は、サダヒコをサルタヒコと名を改めるくらいでは済まない。だから。
サルタヒコを
なぜ?
命令だから。
サルタヒコを、
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