第31話 ありがとう

 その時、上が何か騒がしく感じた。視線を向けると──大量の鳥が空を飛んでいた。まるで、何かから逃げ去るように。いや、ただ逃げ回っているわけじゃない。道を分けるように、一か所だけ、避けて飛んでいる。


 そこには──〝彁混神〟がいた。


 飛べるのか。あいつ。じゃあいくら逃げ回っても無駄だな。追いつかれるのは時間の問題。距離は稼いだし、ここら辺でいいか。

 脚を止めて、背後へと振り返る。私が止まったのを見ると、彁混神は翼のような部位を動かし、地上に降りてきた。


「……………………」


 降り立った衝撃で、軽く地表が震動する。かなりの体重があるのか――いや、違う。

 震えているのは私の方だった。深呼吸をして、息を整える。震えは止まった。良し。真正面から、彁混神と対峙する。


 こいつが──あの教団が呼び出した〝神〟か。

 その姿は全身が漆黒で覆われている。身長は二メートル五十センチ以上、三メートル未満ってところだろうか。細身だが、筋肉質な体型だ。後背部には翼と長く垂れた尻尾のような部位が付いており、頭部は山羊のような頭蓋骨が丸出しになっている。眼球は確認できない。眼孔は黒く穴が開いているだけ、視覚があるのかどうかも分からないな。

 いや、容姿はどうでもいい。問題なのはこいつが放っている吐き気を催しそうになる存在感。あの教団が使役していた影とは比較にならない殺意の塊。全身から私を殺すという宣言を放っているようだ。


「……ふっ」


 何が神だ。あまりの馬鹿らしさに。鼻で笑ってしまった。どう見ても、その風貌は〝悪魔〟だ。

 それにしても──こいつの正体は一体なんだ。なぜ、私たちを追ってきた。明らかに、降霊術だとかで呼び出された存在ではない。私は専門外だけど、西洋の術の類だろうか。こんなバケモノを呼び出せるなら、もっと有名になっていてもおかしくはないはずだけど。


 こいつを一言で表すなら、異質とでも言うべきか。滲み出ている気配は生者でも死者のそれでもない。個体かどうかも怪しい。中に……何が詰まっている?

 災害が起こる寸前に、鼠や鳥の小動物がその都市から離れるという異常行動を見せたという事例は数多くある。さっきの例を見ると、それはどうやら事実みたい。ってことは事象に近い存在。歩く災害、災厄──文字通りのわざわいってことか。


 恐らく、あの集団自殺が彁混神を呼び出す儀式だったという推測は当たっているはず。数百以上の命を犠牲にして、妊婦の腹を媒体に産み落とされた怪物。生から産まれたのではなく、死から産まれた存在。そうなると、生死の概念があるのかも怪しい。致命傷を与えたとしても、葬れるかどうか。


「……………………」


 彁混神は興味深そうに、こちらを観察している。意志疎通は──できるって見た目じゃないか。あれで言葉が喋れたら、そのギャップに大笑いしてしまうかもしれない。

 じゃあ、遠慮なんてすることないか。命があるかどうかは知らないけど、こいつが死から産まれたってのは確かだ。なら、元に戻してやればいい。私の断ち切る力で、確実に、死に還してやる。


 バッグの中から瓶を取り出す。まずはこれが通じるかどうか、試す必要があった。

 蓋を外し、それを彁混神に向かって放り投げる。彁混神は躱す素振りも見せずに、瓶は直撃した。さて、どうだ。


「────ッ」


 一瞬、僅かにだが、彁混神の身体が揺れた。どうやら……少しは効くみたい。

 あの瓶の中に入っているのはこの日本で一番の霊能力者〝眼帯の巫女〟から取り寄せた特注の聖水だ。一本十万円もした。

 まあ、それでも値段分の効能はある。そこはさすがと言うべきか。そこら辺の霊なら、一滴浴びるだけでも即消滅するくらいの威力はある。だけど、それを直撃しても尚、平然と彁混神は立っていた。


「……面白い。じゃあ、もっと、試してあげる」


 水はまだまだある。どこまで耐えられるか、根競べと行こうじゃない。


 *


「くっ……」


 あぁ、やっぱり──こいつ、強いな。

 瓶をすべて使い切ってしまった。それでも、彁混神はまだ平然と立っている。戦って理解した。こいつは他の霊とは根本から成り立ちが違う。


 普通なら、霊は生者から発せられる力に弱い。それは自身が死者だから、反発する命というエネルギーに耐性がないせいだ。

 でも、こいつはそのどちらでもない。死から誕生したという矛盾を抱えた存在。だから、この手の道具の効果はあまりないとも言える。これなら、まだ物理攻撃の方が通りいいかも。

 なら、攻撃手段を変えるか。バッグから包丁を取り出す。


「……………………」


 刃を見た瞬間、彁混神が僅かに反応したかのように見えた。

 ふーん。分かってるじゃん。これが、自分に通用するって。

 恐らく、生者と死者の境目の存在にも、私の力は通用すると思う。だって──私も、似たような生まれだから。波を打ち消すには同等の波をぶつけるのが一番。どっちが真のバケモノか、決めてやろうじゃない。


 胸に目掛けて、一直線に飛び込む。急所があるかどうか事態が怪しいけど、狙いは心の臓。これなら、全身に力が伝わるはず。でも、問題はここから。懐に潜り込むのが一番難しい。

 彁混神の一番の武器はその巨体だ。三メートル近い図体に長い手足、百六十センチにも満たない私だと、まともにやったら勝てるわけがない。でも、逆に言えばそれだけ。他の攻撃方法をこいつは持っていない。


 多分、本来のこいつの力はこんなものじゃないんだろうな。あの教団が操っていた影とこいつの気配はよく似ている。恐らく、あれはこの彁混神の力だ。どこか遠くから、力を分け与えていた。でも、その力を使ってこないのは──この世界に慣れていないのが原因だろう。

 現在の彁混神は生まれたての赤ん坊と同等。だから、使える能力が制限されている。本来なら、私どころか、この世界でこいつを仕留められるやつはいない。今が絶好の好機。これを逃す手はない。


「……………………」


 彁混神が拳を振り上げた。攻撃が来る。さっきの攻防で、こいつの身体能力がどれほどの物なのかは見極めたつもりだ。その攻撃をまともに食らえば──いとも容易く、私の胴体は切断されるだろう。

 でも、私だってそれなりの運動神経はある。あんな素人丸出しの大振りの攻撃なら、よっぽどのことがない限りは当たらない。


 ブンッ


 拳が空を切る音が響く。

 それにしても、眼球がないのに、どうやって私の位置を特定しているのか。聴覚、嗅覚、それとも、第六感に近い何かを使っていてもおかしくない。

 でも、だからどうした。ここまで距離を詰めれば、そのリーチを活かすことも難しい。後はその肉体に刃を突き立てるだけ――っ⁉


 ヒュンッ‼


 その時──再び、空を切る音が聴こえた。同時に、腹部に衝撃が走る。


 ドンッ‼


「うっ……⁉」


 全身に力が抜けて、吹き飛ばされる。呼吸ができない。何が──起こった。

 視界が揺れる中、彁混神が近付いてくる。その背後に、長く垂れていた尾がミミズのようにうねっていた。

 あ、あぁ……そうか。尻尾か。あの尻尾で、攻撃したのか。これまで尻尾を使って攻撃してくる霊なんていなかったから、すっかり意識から外れてしまっていた。


 さっきの一撃で、肋骨が何本か折れた。口から血を吐いたのを見ると、内臓も損傷している。足腰に力が入らない。数十秒はこの場から動けないか。

 あれ──もしかして、このまま本当に死んじゃうのか。私。


 彁混神との距離は十メートルを切った。残された時間は五秒か六秒ほどだろうか。

 覚悟はしていたけど、悔しい。まあ、それでも……蓮くんを逃がすことには成功したし、別にいいか。

 私は自分の役目を果たした。このままただ枯れるだけの人生だと思っていたけど、蓮くんと出会って、彼を守れて死ねるなら、これ以上に幸福なことはない。バケモノの私の命も、少しは役に──立てた。


 目の前に彁混神が立ち、その拳を振り上げる。今までの人生が走馬灯のように、脳内に駆け巡る。

 それでも、最も記憶に残るのは蓮くんと過ごしたこの二週間のことだ。彼の動作、時折見せる心配そうな顔、そして、笑顔。そのすべてが愛おしい。できるなら、あなたと先の人生を歩みたかったけど──それは叶わないみたい。


 蓮くん、ありがとう。私、あなたと出会えて──幸せだったよ。


 バンッ‼


 その時、何か大きな、破裂音が響いた。

 彁混神は肉体を大きく揺らす。

 その音には聞き覚えがある。発砲音だ。あの教組鮫島が所持していた拳銃の音。思わず、私はその銃声が聴こえた方向へと振り返る。


 そこにいたのは──拳銃を構えている蓮くんだった。

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