第24話 入信
*
そして、二日後──とうとう、この日がやって来た。御子が奴等に呪い返しをしてから、この数日間は影が一度も部屋に現れることはなく、今までの恐怖が嘘だったかのように、平穏に過ぎて行った。
だが、逆に、その静けさが不気味でもある。まるで、早く来いと俺たちを誘っているようだ。
「……よし、行くか」
帽子を被り、時刻を確認する。現在は午前九時三十分。御子との待ち合わせは駅前で午前十時。ちょうどいい頃合いだ。
体調は万全。前日に睡眠は十分に取ったし、食事も喉を通った。あとは元の日常を、取り戻すだけ。これで、本当に、今日ですべては終わる──はずだ。
「おや、白川君。大学かい?」
「おはようございます。えぇ、まあそんなところです」
鍵を閉め、アパートから出発する寸前に、アパートの大家の大石さんに声を掛けられた。
「……で、どうだい。その……例の件については」
例の件──あぁ、そうか。大石さんにはあの部屋でまた怪奇現象が起きていると伝えており、引っ越すかどうかについては保留になっていた。
「……えぇ、そうですね。決めました。あの部屋は俺の物ですよ。絶対に、引っ越しなんかしません」
そうだ。この部屋の家賃を払っているのは影でも、カルト共でもない。所有者は俺なんだ。あんな奴等の都合で引っ越しなんて、してたまるか。
あれ……いつの間にか、御子の性格に影響されたような気がするな。
「おぉ……そうかい。いや、無理はしなくていいんだよ。困ったことがあったら、いつでも相談しなさい」
「えぇ、ありがとうございます。行ってきます」
「いってらっしゃい。気を付けて、帰ってくるんだよ」
「……はい、絶対に……帰ってきます」
*
駅に到着した俺は時計で時刻を確認する。待ち合わせ十分前か。予定通りだな。
御子の姿は──あぁ、やっぱり、先に到着していた。腰まである特徴的な長髪。黒を基準にした、喪服のような
「ごめん、待ったか?」
「ううん、私も今来たところだから」
御子は笑顔で返事をする。何となく、彼女とこれまで過ごして、それが嘘だというのは伝わった。三十分前、いや一時間前にはもう到着していたんじゃないだろうか。それが少し──気に食わなかった。
いつか、俺が先に待ち合わせ場所に到着して、驚かせるというサプライズを仕掛けてみるか。
「じゃあ、行こうか。途中まではタクシーで行くね」
御子と共に、タクシー乗り場に移動し、乗車する。
「どちらまで?」
「
神民山、ここから車では一時間の距離にある山だ。標高は確か、三百メートルか四百メートルだったか。そこまで高い山というわけではなく、ハイキングをするにはちょうどいい程度。ここに、奴等の拠点があった。
車内での御子との会話はほとんどなかった。タクシーの運転手がいる状態では公に話すことはできず、ただ無言で、お互い外の景色を眺めたり、スマホを弄る。そうこうしているうちに、外の景色が都会のビルから、緑の風景に変化していた。
「ここでいい。降ろして」
「いいんですか? ここ、何もないですけど」
「いいから」
山の麓付近でタクシーを下車する。運転手の人、不思議そうな顔で俺たちを見ていたが、果たしてその目にはどう写っていたのだろうか。
まさか、山で心中するカップルとか──なんて、縁起でもないか。
「ここで降りて良かったのか? まだ、建物自体は距離があるんだろ?」
「うん。でも、本部自体は山道でタクシーだと入れないと思うし、あんまり無関係の人を連れて行っていい場所でもないでしょ。邪魔だし」
「……まあ、そうだな」
「歩きながら、段取りについて説明するね」
教団が集団生活をしているという廃校舎跡を目指しながら、俺たちは道路を進む。
標高がそこまで高くない山ということもあり、途中までは車でも登れるようになっていた。マップによると、もう少し進み、左折して外れたところに──例の校舎があるはずだ。
「一応、確認しておくね。私たちは……天国の扉への入信を考えているカップルって設定。名前は〝浅井〟と〝高山〟。今日は見学ってことで、ここに訪れた。向こうではなるべく、奴等の指示に従って」
「……あぁ、分かってる」
「蓮くんは顔を知られている可能性があるから、絶対に帽子は外さないこと」
改めて鍔を掴み、帽子を深く被る。
正直、変装にしてはお粗末だと思うが──仕方ない。ないよりはマシだ。
「多分、どこかで教祖みたいな、最高責任者と出会うタイミングが来るはず。そいつと出会って頃合いを見た時に、私が直接、脅しをかける。蓮くんを追い回すのはやめて、私たちから手を引くこと。これを大人しく向こうが飲み込めば、今回の件はそこで終わり」
「……もし、抵抗されたら?」
「その時はこっちも強硬手段。荒っぽいことをするよ」
御子の表情はどこか──微笑んでいるように見えた。目線を彼女から、ボストンバッグへと移す。
あれは御子が帰ってきた時に、持っていたのと同じ物だ。中身は──奴等に対抗する準備をしていたと言っていた。一体、何が入っているのだろうか。
「……御子。そのバッグの中、何が入ってるんだ」
恐る恐る、尋ねてみることにした。
「あぁ、これは……強硬手段を取る時の道具。結構詰まってるように見えるけど、そんな大した物は入ってないよ。奴等に感知されても困るから封印はしてるけど」
ふ、封印か。ずいぶんと物騒で馴染みのない言葉が飛び出して来た。
中身は本当に何が入っているんだ──好奇心を刺激されるが、それ以上に、何だか触れてはいけないような気がしたので、詮索は止めておこう。
「……ここを、左折だね」
道路の左に、整備されていない脇道があった。いくつか足跡のような物が残っており、人通りがあることを察せられる。
「蓮くん、ここから先は監視されてるかもしれないから、浅井と高山を演じてね」
「あぁ、分かったよ。浅井」
「OK、高山さん」
*
十分程、山道を歩いたところで──見えてきた。緑しかない景色には相応しくない、外装を白く塗られた人工物が。
あれが、奴等の根城である校舎跡か。とてもではないが、数十年間破棄されていた建物とは思えない。どうやら、相当金をかけてリフォームしたようだ。新築と言っても差し支えない状態だった。
「やあ、お待ちしていましたよ。お二人とも」
その時、見知らぬ誰かが──俺たちに向かって、声を掛け、歩み寄って来た。
「ここまで来るのは大変だったでしょう。どうぞ、まずは中へ。冷たい飲み物を用意しております。申し遅れました。私は
比津地と名乗った中年の男は腰を低くしながら、俺たちに向かって丁寧に挨拶をした。
「浅井です。こちらこそ、よろしくお願いします」
御子も頭を下げて、別人のように振舞っていた。相変わらず、この演技力には脱帽する。
「……高山です」
声を低くして、俺も軽く会釈をする。比津地に連れられて、とうとう天国の扉の本部に足を踏み入れた。
校舎の内装は──なるほど。これは確かに、元学校だ。初めて訪れるが、どこか懐かしいような感覚がする。恐らく、各所に校舎の名残が残っているせいだろう。何か……この感覚も、信者を洗脳するのに利用しているんだろうか。このような団体だと、そのようなことを勘ぐってしまう。
「ここの部屋で少しお待ちください。今、冊子の方をお持ちしますので、お茶でも飲んでゆっくりしていてください」
入って少し移動したところにある応接間の部屋に案内され、比津地は一旦どこかへ行ってしまった。
彼が完全に退室したのを確認した御子は部屋の天井付近をしばらく眺めた後、まるで泥棒をするような素振りで、部屋を物色し始めた。
「何をしているんだ?」
その奇妙な行動を見て、思わず聞いてしまった。
「どうやら、監視カメラは付いてないみたいだね。盗聴器も。ここなら、好きに喋ってもいいよ」
「……分かるのか? そんなこと」
「まあ、大体はね。どこが死角になっているとか、パターンを掴めば」
なぜ、そのような
そのような疑問が頭を過ったが──もういいか。今更、そんなこと。俺も、そろそろ慣れてしまった。
「……とりあえず潜入成功、ってところだな」
「そうだね。でも、本番はこれからだよ」
そう言うと、御子はお茶に口を付けた。
その行動に、少し驚く。奴等が提供してきた飲み物をそんな簡単に飲んでいいのか。
「大丈夫か……? それ飲んで」
「ん? あぁ、喉渇いてたから」
「そうじゃなくてさ、変な物が入ってたり……」
「大丈夫だよ。私たちは客だし、初対面の相手にそんなの入れるほど馬鹿じゃないでしょ。それに毒が入ってるなら、何となく味で分かるし、飲まないってのも不審に思われるしね。ただ、このお茶……あいつらのオリジナルブレンドなのか、味は不味いけど」
御子の言葉を信じて、俺も一口、飲んでみた。味は──葉っぱをそのまま湯煎したものに近い。
「……た、確かにまずいな」
「でしょ? フフッ」
まずい茶を飲んだことで、緊張感が少し解れたような気がした。
直後、扉が開き、比津地が部屋に入って来る。
「お待たせしました。ではこちらが冊子になります」
比津地は運んできた二冊の本を差し出す。
表紙はこの施設の写真が掲載されており、どうやらパンフレットのような物らしい。
「入信を希望するという選択、とても悩まれた決断だと思います。私は、私たちは……その決断に対して、敬意を払います。ですが、何かと不安も残っていることでしょう。ここで改めて、説明をさせて頂きます」
御子の話だと、まだ入信を考えている段階の設定だった気がするんだが、比津地は確定している素振りで宗教団体天国の扉と、この施設について解説をし始めた。
これは──話が長くなりそうだな。
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