第5話 事故物件

「ちょっと待っておいてくれ。今、お茶を出すから」

「すみません……」


 大石さんは台所へと向かった。こんな時間に来訪したにもかかわらず、顔色一つも変えずにお茶を出してくれるなんて、いい人だ。それに比べて──俺は御子の方に視線を移す。


「……御子」


 小声で彼女の名を呼ぶ。


「大石さんには俺も何度か世話になっているんだ。失礼な態度は止めてくれ」

「失礼な態度って?」

「……とにかく、敬語だ。敬語を使え」


 何も分かっていない御子に呆れながら、態度を改めるように彼女を咎める。まったく、この調子でどうやって大学生活が送れているんだ。そういえば、御子が他のやつと一緒にいるところを一度も大学内で見たことがないぞ。


「待たせて悪かったね。で、自殺の件ってなんのことだい」


 湯飲みとお茶菓子を運んできた大石さんは腰を降ろす。


「……このような時間に押し掛けて、大変申し訳ありません。非常識でした」


 突然、御子は頭を下げて、大石さんに謝罪した。その態度の変貌に、俺は目を見開いて驚愕する。


「ですが、こちらも少し事情があるんです。このアパートで数年前に起きた自殺事件について、知っていることを教えて頂けないでしょうか」


 先程の狂犬ぶりはどこに行ったのか、よく躾された飼い犬のように、御子は誠実な態度を取る。最初からそうしてくれよ。


「事情って?」

「えぇ、実はここにいる蓮くんは……最近、怪奇現象に苦しんでいるんです。変な物音や、赤ん坊の声が夜な夜な聴こえるそうで……学業にも影響を及ぼしています。私もとても心配で……それで、過去にこのアパートで自殺をした人がいると聞いたので、もしかして何か関係があるのかと思い、今日は伺いました」


 ……百点満点の解答だ。すべてを語らず、必要な情報だけを的確に、丁寧に抜き出している。


「そ、それは本当なのかい? 白川君」

「え、えぇ……本当です」


 話を聞いた大石さんは神妙な顔をして、一分程沈黙していた。そして──老眼鏡を取り、テーブルの上に置いた後、大きなため息を吐いた


「……あれは四年前だ。白川君がここに来る一年前だね。自殺をしたのは犬飼さんという人でね。下の名前は確か……あぁ、そうだ。サトシ、犬飼聡いぬかいさとしさんだ」


 大石さんは俺たちに、このアパートで起こった自殺の件について語り始めた。


「年齢は三十五、六歳ぐらいだったかなぁ……就職はしてなかったみたいで、夜勤のアルバイトをしていたと思うよ。確か。このアパートにはもう十年ぐらい住んでて、あまり、人とは関わらない性格だったねぇ。知り合いと一緒にいたところは見たことがなかったし、挨拶もしない不愛想な人だった」


 四年前に亡くっているにもかかわらず、すらすらと、大石さんは犬飼聡という住人の情報を思い出していた。

 お、大家というのはここまで一人、一人の部屋主のことを記憶しているのだろうか。もしかして、俺も陰では何かよからぬ印象を持たれているのかな──そう思うと、アパートという共同住宅が少し怖くなってしまった。


「……でも、自殺をするような人には見えなかったね。あの日は確か、十月だったかな。突然、犬飼さんが私の部屋に来たんだ。それで、変なことを言ってたのを今でもよく覚えてる」

「変なこと……ですか?」


 急に、喉の渇きを感じた。ごくんと、唾を飲み込む。やはり──このアパートで起きた自殺はあの影と何か関係があるのだろうか。


「彼はこう言っていたよ──が聴こえるって」


 その瞬間、氷河期が訪れたかと錯覚するような、寒気が全身を駆け巡った。鳥肌が立ち、心臓の鼓動は跳ね上がる。まさか、そんな──前提が間違っていたのか。あの影は犬飼聡、自殺者の呪いじゃない。逆だ。


 犬飼聡も――あの霊に殺された。


 たちまち、俺は御子へ視線を合わせる。彼女は顔色を一つも変えることなく、大石さんの話を聞いていた。


「……それから二週間後のことだったよ。犬飼さんが亡くなったのは。管理会社の方から連絡が来てね。彼がずっとアルバイトを無断欠勤していると勤務先から電話が来て、安否確認をしてほしいって」

「…………」

「鍵はこちらで預かっていたから、部屋を開けて確認をしてみたら……首を吊っていたよ。今でもあの時の光景と臭いは忘れられないなぁ」


 僅かにだが、大石さんの手が震えているのが見えた。きっと、それだけ凄惨な現場だったのだろう。そんな部屋に今、俺が住んでいると思うと──今すぐにでも、引っ越したくなってしまった。


「まさか、うちのアパートが事故物件になるとは思っていなかったからねぇ。警察も調べてくれたんだけど、自殺の線で間違いなかったそうだ。お寺の方にも、念のためにお祓いをお願いしたよ。それで白川君があの部屋に引っ越してきて、何事もないようで安心していたんだけど……赤ん坊の声が聴こえたって言われたら、ねぇ……どうしても、あの時のことを思い出しちゃうよ」


 点と点が線で繋がったような感覚を覚える。御子の言う通り、大家さんに話を聞いて正解だった。本当に。


「白川君、どうする? 引っ越すって言うなら、こちらも不動産の方に掛け合ってみるけど」

「……っ」


 正直、こんな話を聞いたら、もうあの部屋に住む気が失せる。しかし、引っ越したとして、根本的な解決になるかと言えば──否、だろう。きっと、他の部屋に行っても、あの声と影からは逃げらない。不思議と、そんな確信があった。

 その時、ちょんちょんと、膝の辺りにこそばゆさを感じた。御子の方を見ると、彼女が小さく首を振っていた。

 ──分かったよ。そういうことなんだな。


「……すみません。ちょっと考えさせてください」

「そうかい。その気になったら、いつでも言っておくれ」


 大石さんの提案をやんわりと断りつつ、話を聞いた俺たちは犬飼聡が命を絶った現場へと戻った。

 三年間、苦楽を共にした部屋だが、実際に自殺現場の話を聞くと──どこか、愛着さえあった壁の染みや傷が不気味に見えてしまう。元からあまりこの手の話は気にしない方だったが、当事者になってしまえば話は別だ。

 前の住人である犬飼聡はこの部屋でどのような最後を遂げたのだろうか。今はそれだけが頭を離れない──俺も、彼と同じ末路を辿ってしまうのだろうか。


「ね? 聞いてよかったでしょ」

「……そうだな。間違いない」


 御子はいつもと変りない態度で、話しかける。それに対して、俺は酷い顔をしていると思う。


「ちょっとお腹空いちゃったね。まだ夜ご飯食べてないし、私が何か作るよ。冷蔵庫、借りていい?」

「……悪いな」


 御子は立ち上がり、台所へと向かって行った。普段なら、何かしらの手伝いをしているところだが、どうもそういう気分にはなれない。それから二十分程、包丁で野菜を切る音や何かを炒める音が部屋に響いていた。

 俺はおもむろにテレビを付ける。特に、見たい番組があるわけではない。ただ、少しでも〝音〟を増やしたかった。静かになると、またあの影が現れて、襲ってくるような気がしてならない。

 はは──こりゃ、だいぶやられているな。我ながら、情けない。


「お待たせ。蓮くん。口に合わないかもしれないけど」


 御子が出来上がった手料理を運んできた。野菜炒めのような料理で、冷蔵庫に僅かに残っていた肉も入っている。


「……ありがとな。いただきます」


 野菜炒めを口に運ぶ。

 少し苦味があるが、美味い。白米がないのが勿体ない味だ。御子が料理上手なんて──知らなかった。五分も経たないうちに、野菜炒めを食べ終わる。


「ご馳走様。美味かったよ」

「そう? 良かった」


 その時、御子の指先にちらりと絆創膏のような物が見えた。あれ──今まで、あそこに絆創膏なんて貼ってあったか。


「その絆創膏……どうしたんだ?」

「あっ! こ、これ?」


 慌てた様子で、御子は腕を後ろに回す。


「あ、あはは……ちょっとドジやっちゃって、包丁で切っちゃったんだ」

「大丈夫なのか?」

「うん、全然大丈夫だよ。薄皮一枚切っただけだし、蓮くんのためなら……こんな傷、何ともない……蓮くん。安心していいよ、何度も言ってるけど、私が絶対に貴方を死なせないから。この命に代えても、ね」

「──ありがとう、御子」


 御子の優しさが今の俺の精神メンタルには一番効くのかもしれない。彼女が危険人物だということを忘れてしまうほど、誰かの支えが必要な状況だった。


「大石さんの話を聞いて、何か分かったことはあるか?」


 少しの静寂にも耐えられなくなり、俺は御子に話題を振る。


「そうだね。まず、蓮くんも思ってる通り、前の住居人、犬飼聡はあの影に殺されたと見て間違いないと思うよ。でも、それは蓮くんがこの部屋に越して来たこととは関係ないかな。良くも悪くも、偶然たまたまってやつ」

「た、たまたま……?」


 御子が言った「偶然」という言葉が妙に引っ掛かる。

 この部屋の住人が二連続で呪われているということは確定している。ということは、この部屋自体に問題があるのではないかと考えていたのだが、違うのだろうか。


「ほら、さっきも言ったでしょ? 部屋やアパート自体に問題があるなら、私がすぐ気付くんだよ。それに、もしこの部屋が元凶だとしたら、他の住民に影響が及んでいないのも不自然だと思わない?」

「……確かに」


 一理ある。霊感のある御子はこのアパートには問題はないと言っているし、何より、犬飼聡や俺以外に誰もあの影や赤ん坊の声を聴いていないというのはおかしい。

 つ、つまり──本当に、偶然だったのか。俺がこの呪いの被害に遭ってしまったのは。


「一番の収穫は呪いを受けた結果、自殺したってことが分かったことかな。これでまた新しく調べることが増えたし、何か手掛かりが見つかるかもしれないよ」

「……どういうことだ?」

「呪いの影響が自殺なのが共通事項になってる可能性が高いってこと。つまり、この街で最近自殺や変死をした人達のことを調べて行けば──ヒントが見つかる可能性が高いね。犬飼聡についても、もっと詳しく調べた方がいいし」

「そ、そうか……! そういうことか!」


 目から鱗だった。これまで手掛かりはあの影が残した唯一の言葉『カマカミ』のみだったが、犬飼聡のように、呪いによって命を絶ってしまった人たちの情報を探せば、彼らが残した断片の中に、解決の糸口が見つかるかもしれない。


「まあ、何にしても、急いだ方がいいってのは確かだよ。大家が言ってたでしょ? 赤ん坊の声を聴いた二週間後に死んだって」

「……っ」


 二週間、御子が俺に異変を感じたと言っていた時期だ。確か──初めて赤ん坊の声を聴いたのも、大体、二週間近く前だったことを思い出し、心臓を締め付けるような圧迫感が襲う。


「とりあえず、今日からずっと蓮くんの家に泊まろうと思ってるけど、いいかな」


 その提案を断る理由はどこにもなかった。

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