第2話 佐山御子という女
*
佐山御子。あいつと出会ったのは去年の春、第二言語のフランス語の授業だった。偶然、隣の席になり、他愛のない挨拶を交わしたのが最初だ。地元から出てきたということもあり、その時の俺は知り合いを作ろうと必死になっていた。
彼女と話した時の初対面の印象はとても、落ち着きのある女性だと思った。そして、徐々に仲が良くなっていったのだが──段々、彼女がどこかおかしいことに気付いた。
まず、最初に違和感を覚えたのは他の授業で俺が他の女子とペアを組んだ時だ。特にその子とは仲がいいというわけではなく、ただ真後ろにいたという理由だけで、それっきりの付き合いだったのだが、なぜか佐山御子はそのことについて異常に詳細を尋ねてきた。
「あの子は誰なの?」
「仲がいいの? もしかして、付き合ってる?」
──正直、怖かった。
彼女の目は雑談をする時の目ではなく、何かを探っているような……鋭い眼光をしていた。それ以来、少し距離を置くようにしたのだが、彼女はなぜか俺を付け回すようになってしまった。
例えば、昼休みになると待ち伏せするように現れて、昼食に誘ってきたり、授業をすべて終え、駅に向かおうとしている時にも突然現れ、一緒に帰ろうと言い出してきたり……だが、間違いなくストーキングされているんじゃないかと確信したのは一カ月ほど前に、バイトに向かう最中に偶然、彼女の姿を最寄り駅で目撃した時だ。
俺が今、住んでいるアパートは大学から数駅離れた場所にあり、それなりに距離が離れている。そして、彼女は実家から大学に通っていると語っていたのだが、その場所は俺の最寄り駅とは真反対の方向の場所だった。偶然、立ち寄ったという可能性も考えられないことはないが、その時の彼女はキョロキョロと周囲を見回し、まるで──俺を探しているように見えた。
大の男が情けない話だが、俺は彼女に対して、恐怖の感情を抱いている。なぜ、ここまで畏怖するのか。その理由は分からない。
ただ、彼女はどこか、普通の人間とは違う存在だと思う。毒虫を一目見ただけで警戒するように、俺の防衛本能は彼女を危険と判断した。
*
「蓮くん? 大丈夫?」
「あ、あぁ……」
その危険な女が今、俺の部屋にいる。窓から侵入し、俺を襲っていた影のような幽霊を包丁で刺して。一体──何なんだ。この状況は。
「……あ、ありがとな」
色々聞きたいことがあったが、第一声に出たのは感謝の言葉だった。何はともあれ、佐山御子に命を救ってもらったことには変わりない。
「そ、そんな……! 私は当然のことをしただけだよ」
佐山御子は顔を少し赤くして、目を逸らした。その手に握られている包丁さえなければ、可愛い一面もあると思ったかもしれない。
「な、なんで、ここにいるんだ?」
答えを聞くのが怖かったが、俺は佐山御子に最初に浮かんだ疑問を投げかける。
助けてもらったことには感謝しているが、冷静に考えると、彼女が俺の部屋にいるというこの状況はどう考えてもおかしい。最寄り駅を教えても、アパートの場所までは喋った記憶はないし、そもそもここは二階だぞ。どうやって登ったんだ。
「……言っても信じてもらえないと思うけど、私、霊感ってやつがあるんだ。最近、蓮くんから変な気配を感じて、見守っていたんだけど……さっき部屋から変な気配を感じて、思わず飛び込んじゃった。窓、割っちゃってごめんね……弁償はするから」
申し訳なさそうに、佐山御子は謝罪をする。その情報量の多さに、眩暈がした。
「……ちょ、ちょっと待て。霊感があるって本当なのか?」
「うん、信じないよね。こんな話」
昨日までの俺ならそんな荒唐無稽な話は信用しなかっただろうが、実際にあの悪霊のような影を見てしまっては霊という存在を認めざるをえない。
それに、どこか納得した。佐山御子から感じるこの独特な気配が霊感というものから来ているなら、あそこまで警戒してしまったのも説明が付く。
「……っ。いや、信じるしかないだろ。あんなもん……見たら……」
数分前まで影が佇んでいた位置を俺は睨む。
文字通り、ソイツは影も形もなくなっており、いつも通りの俺の部屋に戻っていた。
「な、なんだったんだ? あいつは……それで、刺し殺したのか?」
俺は佐山御子が握っている包丁を指差しながら、尋ねる。
「多分、殺せてはないかな。撃退した、って言った方が正しいかも。
「の、呪い⁉」
〝呪い〟。一般的にその言葉から想像されるのは丑の刻参りのイメージだろうか。夜中に神社で藁人形に釘を打ち込み、憎んでいる相手に憎悪をぶつける。その対象に──俺がなっているというのか。
「ちょっと話が長くなりそうだね。蓮くんも落ち着きたいと思うし、水持ってきてあげる」
そう言うと、佐山御子は台所へと向かって行った。なぜ、初めて来る俺の家の台所の位置を知っているのかという疑問が湧いたが、この状況に比べたら些細なことだろうと思い、あえて無視することにした。
「どう? 落ち着いた?」
「……少しは」
運ばれた水を五分かけて飲み干した俺は大きく深呼吸をする。少しは──頭を整理することができた。
「じゃあ、話を続けようか。えっと、どこまで話したかな。あーそうそう、蓮くんが呪われてるってところまでだったね。多分、これは間違いないと思うよ。問題はどこの悪霊にかけられたのかって話だけど、これがよく分からないんだよね」
「…………」
前言撤回だ。やはり、まだ混乱している。佐山御子が言うにはあの黒い影は何者かによってもたらされた呪いということらしい。
「……分からないって、どういうことなんだ?」
「うーん……分かりやすく言うと、ちょっと普通の呪いとは違うんだよね。アレ。普通、呪いっていうのはあんな直接目に見えるような存在じゃないんだよ。細菌に近い感じっていうか、襲ってくるような姿じゃなくて、身体の中に潜伏するみたいな? でも、さっきのは間違いなく、この部屋に呪詛の霊体が存在した。私もああいうのは初めて見たから、正体が分からないんだよね。ごめん」
「……呪詛、か」
何となくだが、あの影が普通とは違う存在というのは俺も理解できるような気がした。
だが、問題はそこじゃない。これからも──あの影に襲われる危険があるのかということが、今の俺にとって一番重要な問題だった。もうあんな目はまっぴらごめんだ。
「撃退した……って言ってたけど、またあの影は襲ってくるのか?」
「それは間違いないと思うよ」
佐山御子は即答した。
そんな予感はしていたが──また襲われるという事実に、軽く眩暈が起きる。
「誰だか知らないけど、こんなことで諦めるやつじゃないってのは確かだと思う。お祓いとかしても意味ない相手だと思うな。そんなのが通用するなら、多分、さっきの攻撃で殺してた。まあ、そもそも、お祓いってのは気休めみたいなものだから、ただ無駄なお金を払うだけなんだけどね」
絶望的な現実を佐山御子は突き付ける。間違いなく、俺はさっき死にかけた。多分、彼女に助けられなかったら、命はなかっただろう。そんな相手に、近いうちに、また襲われるということは俺を待ち受けるのは確実な〝死〟だ。
いや、その死から逃れる方法が一つだけある。俺は佐山御子の顔をチラリと見る。彼女は心配そうに、俺を見つめていたが、どこか──嬉しそうだった。
そう、俺からあの言葉が出るのを待っているのだ。餌付けされる小鳥のように、ただ、じっと待っている。
「……っ」
一瞬、悩んだが――もう手段は残されていない。今、頼れるのはこの女だけだ。俺のストーカーだとしても、彼女の手を借りるしか道は残されていない。
「──助けて、くれないか。俺も……死にたくはない」
その瞬間、佐山御子はこれまで見たことがないような笑顔になった。
「うん! もちろんだよ! 蓮くん! だから私はここに来たんだ! 蓮くんを救えるのは私だけ! 私が力になってあげる!」
目を見開きながら、佐山御子は力説する。その姿に、俺は少し恐怖を感じてしまった。
「あっ……でも……本当にごめん。言いにくいけど、助けてあげる代わりに、私のお願い、二つ聞いてくれるかな」
予想はしていたが、やはり、
「……蓮くんも気付いていると思うけど、私、アナタのことが好きなんだ。だから、もし……この霊を何とかしたら、私と付き合ってくれる?」
「……………………」
ストーカーから真正面に告白されて、それを正直に受ける者は誰もいないだろう。
だが、俺の場合は事情が違う。餓死で死にかけている時に、一匹の毒虫が目の前を歩いていたら、人はどうするのだろうか。
「……分かった。もし、あいつを何とかしてくれたなら、付き合う」
俺は──毒虫を食すことにした。その毒に身体を蝕まれ、命を落とすことになっても、今死ぬよりはずっとマシだろう。
「ほ、本当に……?」
「あぁ、約束する」
佐山御子は目に涙を溜めていた。まるで告白が成功したかのような反応に、少し驚く。彼女の中では俺と付き合うことは既に決定事項のように見える。
「よ、良かった。本当に……蓮くん、貴方のことは私が命を賭けて守るから、安心してね」
不思議と、その言葉には謎の説得力があった。佐山御子なら、本当に──命を投げ捨ててでも、俺を守ってくれるような気がする。そこが彼女の恐ろしいところでもあるのだが、今は信用するしかない。
「もう一つのお願いっていうのは?」
「あぁ、うん。えっとね……私のこと、名前で呼んでくれるかな。御子って……」
てっきり、もっと過激な要求をされるんじゃないかと思った。少しだけ、拍子抜けする。
「わ、分かった。御子……よろしくな」
「うん……! 蓮くん……!」
こうして俺は御子と歪な協力関係を結ぶことにした。その日の夜はとっくに終電も過ぎているということで、あまり気は進まなかったが、彼女に泊まって行くように勧めた。だが、御子は遠慮しているのか、深夜タクシーを呼んで帰るそうだ。
「とりあえず、今日はもう絶対出ないと思うから、安心して寝てね。詳しいことはまた明日の大学で話そう。じゃあ今日はこれで。おやすみ、蓮くん」
「……ちょっと待ってくれ」
俺は玄関で御子を呼び止める。一つだけ、彼女に確認したいことがあった。
「どうしたの?」
「俺に変な気配を感じて、後をつけていたって言ったよな。それってどのくらい前だ?」
「うーん……二週間くらい前だったかな? それが?」
「い、いや……何でもない」
二週間前、か。背筋に嫌な感触を覚える。どう考えても、計算が合わない。俺が駅で御子の姿を見かけたのは――一か月前の出来事だったんだがな。
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