ヤンデレvs悪霊
海凪
第1話 二つの悩み
「じゃあ、お疲れ様です」
「お疲れ様です。白川さん」
五時間の勤務を終え、職場を後にする。
もう六月ということもあり、外はだいぶ蒸し暑くなっている。確か、今日の最高気温は三十二度だったか。もう夏真っ盛りじゃないか。昔の六月ってもっと涼しかった気がするんだが……そんなどうでもいいことを考えながら、自宅である家賃三万三千円の安アパートを目指して歩みを進めていた。
俺の名前は
三年前、進学のために地元から上京。最初は上手く行かないことばかりだったが、いい加減に一人暮らしにも慣れてきた。一応、順調なキャンパスライフを送っている。
ただ、最近──悩みがある。
アパートの隣人が最近、夜中になると騒音を起こしているとか、バイト先のチーフの態度が相変わらず気に入らないとか、就活の時期が徐々に迫っているとか……それも悩みではあるのだが、どれでもない。
もっと深刻な、最悪、命に関わるかもしれない悩みだ。いや、これはちょっと言い過ぎか。それも、一つだけでなく、なんと二つもある。
まず一つ目の悩みっていうのが……最近、誰かに
背後を振り返り、あの女がいないか確認する。
「……いない、よな?」
アイツがいないことに安堵した俺は小走りでアパートへと向かう。
いや、実際のところ、この確認には何の意味もない行為だって分かっている。尾行をしているやつが、わざわざ姿を晒すわけがない。ただ、安心感が欲しかったのだ。最近は本当に、色々不安になることが……多すぎた。
「ただいま……っと」
自宅のアパートの扉を開け、誰に向けているのか分からない帰宅の挨拶をする。まあ、一応〝同居人〟もいないことはないのだが。
「……っ」
絶句。その光景を見て、言葉を失ってしまった。
今朝、玄関に置いた盛り塩が……黒く、変色している。どうやら、同居人はこの塩がお気に召さないようだ。
二つ目の悩みがこれだ。ストーカーと同時に、最近、家で謎の怪奇現象が起きるようになった。とは言っても、長髪で白装束の女が現れるとか、テレビから幽霊が出てくるとか、そんな直接的な被害があるってわけじゃない。ただ、夜中に妙な物音が鳴り、変な声が聞こえたりするくらいだ。
――その声が赤ん坊の泣き声じゃなかったら、そこまで気にすることもなかったのだが。
「はぁ。やっぱ、お祓いとかした方がいいのかな」
変色した塩をゴミ箱へ捨てる。
正直なところ、この手の幽霊というのはどうも信じられない。このアパートが格安だったのも、まあそういう理由だ。しかし、なんで今になってこんなことが起きるようになったのか。丸一年以上もこの部屋には住んでいるのに、怪奇現象が起き始めたのはここ数週間の出来事だ。何か、きっかけでもあったのだろうか。
「……考えても仕方ないか」
時計を見ると、時刻は既に夜の九時を回っている。まだ夕食を取っていないこともあり、胃は餌をよこせと信号を発している。見えない同居人よりも、食事の方へと俺の意識は移って行った。
*
「んっ、もうこんな時間か」
スマホの時計を見ると、いつの間にか時刻は深夜一時を過ぎていた。明日は二限目に授業が入っている。そろそろ寝ないと。
ベッドに腰を下ろし、電気を消し、就寝の準備に入る。
「…………はぁ」
小さな溜め息を吐く。周囲が闇に包まれ、ふと同居人のことを意識してしまった。
暗闇というのはどうも、人を不安にさせる効果があるようだ。あーもう、早く寝よう。こんなことを考えていたら、いつまで経っても眠れない。
『オ──ァ──』
その時、遠くから何か聴こえた。
『オン──ギャ──』
徐々に、その音は鮮明になる。これは……物音じゃない。人の声だ。
『オンギャア──オンギャア──』
──最悪だ。もう寝ようとしている時に、聴こえてしまった。
これが、俺を悩ませている主な怪奇現象。深夜に赤ん坊の泣き声のようなものがどこからか聴こえる。
当然、このアパートには夜泣きをする年齢の子供はいない。近隣に住んでいる人の子なんじゃないかと俺も考えたが、それにしては距離感がおかしい。まるで、この部屋のどこかにいる声のようだ。
「……クソ」
寝返りを打ち、片耳を枕に押し付け、少しでもその音を遮断しようとする。多少はマシになったが、それでも甲高い声は依然として続いていた。
そういえば、昔、どこかで聞いたことがあった。赤ん坊の泣き声に含まれている周波数は本能的に不快感もたらすらしい。どうやら、それは事実のようだ。
しかし、なぜ赤ん坊なのだろうか。
過去にこの部屋で自殺者が出たって話は俺も既に承知している。だが、確か死んだのは三十代で、独身の男だったはずだ。関係性がまるでないじゃないか。
いや、待てよ? もしかして、水子の霊ってやつじゃないのか。例えば女と揉めて、堕胎させたとか──って、こんなことを考え始めたらキリがないぞ。いい加減、もう早く寝ないと。
その時、ガタンと何か大きな物音が部屋に響いた。反射的に俺の体はびくりと大きく動く。
なんだ、今の音は。何か落ちたのか。いや、それにしては位置がおかしい気がする。天井付近から聞こえたような──っ。 確認をしようと体を起こそうとした時、異常事態に気付く。
手足が全く動かない。〝金縛り〟だ。
耳にしたことはある言葉ではあったが、実際に体験したのはこれが初めてだ。まるで脳の命令系統がプッツンと切断されたかのように、一切言うことを聞かない。まさか、これも霊の仕業か。血の気が引くという感覚を初めて味わった。
「ァッ……! ァッ……!」
腹から声を出そうと振り絞るが、死にかけのセミのような音しか出ない。お、おいおい……これは本格的にまずいんじゃないか。どうすればいいんだ。
「――ッ⁉」
周囲を確認しようと、必死に首を振ろうとしたその時──視界の端に、妙な黒い影を捉えた。
その影を見た瞬間、全身に鳥肌が立った。体の奥底から、異物を排除しようとする吐き気にも近い感覚が湧いてくる。こ、こいつは……間違いない。幽霊ってやつだ。少なくとも、この世の存在じゃない。
「……………………」
確認できる限り、目鼻や手足はない。そいつは文字通り、ただの黒い影だ。だが──俺の方をジッと観察するように眺めているように感じられる。もし、身体が自由に動くなら、叫び声を上げ、大急ぎでこの場から逃げ出していたに違いない。
ど、どうすればいいんだ、この状況……金縛りで身動きが出来ない上に、すぐそこには幽霊がいる。
――もしかして、かなり不味い事態なんじゃないか。
ズズッ
その時、影の位置が僅かにこちらに近付いたのを、俺は見逃さなかった。ちょ、ちょっと待ってくれよ。今、動いたのか?
ズズッ
そいつは確かに、こちらに向かってきていた。亀の歩みのように鈍い動きだが、間違いなく──距離を詰められている。
ズズッ
ズズッ
数十センチずつ、影はこちらに歩を進めている。しかし、金縛りは一向に解ける気配がない。ただじっと、俺はそいつが動くのを……死刑執行を待つ囚人のように、眺めていることしかできなかった。
ズズッ
数分……いや、数十分は経ったかもしれない。ついに、そいつとの距離は三十センチ以内にまで縮まった。ヘヴィメタルのドラムのように、俺の心臓は外にも聞こえるんじゃないかってほど鼓動を速める。
「──ァ──ィ」
影が、何か言った。
「──マ──ミ」
ま、み?
「カマ――カミ――」
「カマカミ」。確かに、影はそう言った。
な、なんだ。カマカミって。初めて聞く単語を解析するために、脳内に関連するものがないか必死になって調べるが、皆目見当がつかなかった。
「……………………」
直後、謎の単語を呟いた影は頭部と思わしき部分をこちらに向かって伸ばしてきた。その行先が――俺の口内を目指しているということはすぐに察しが付いた。
必死に体を動かそうとするが、相変わらずビクともしない。は、はは──これは絶体絶命ってやつじゃないのか。
どうしようもない絶望的な状況だったが、なぜか頭の中は冷静だった。あまりの恐怖でおかしくなったのか、それとも現実離れした状況にどこか他人事のように感じているのか――どちらにしても、この状況を打開する手段は俺にはない。
パリンッ
その時、窓の辺りから何かが割れるような音が響いた。
同時に、影の動きもピタリと止まる。何が起きた──俺は眼球を窓の方向へと移す。
カーテンが風に煽られ、ゆらゆらと揺らめいている。そして、その傍にはもう一つ──黒い影があった。
「……………………」
待て、アレは影じゃない。
手足のような物が確認できるし、カーテンと同時に長い髪も揺れている。その特徴的な長髪を見て、俺の心臓は大きく跳ね上がる。まさか──アイツは──ッ。
窓からの侵入者は右手が月明かりに照らされ、銀色に輝いている。瞬間、こちらに一気に駆け寄り、その銀色の腕を俺の傍にいる影に振り下ろす。
シュンッ
間近にまで迫ったことにより、その銀色の物体の輪郭がはっきりと映る。それは包丁のような刃物だった。刃物を、影に向かって突き立てたのだ。
刺された影は呻き声のような奇妙な音を立てながら、消えてしまった。同時に金縛りが解け、身体が自由になる。
「大丈夫? 蓮くん」
あぁ、やっぱり……アイツだった。その声を聞いて、もう一つの影の正体を察した。目の前の脅威は消え去ったが、心臓が再び鼓動を速める。
俺をストーキングしている女〝
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