第10話 巣林逸死

「此処が第一ネスト、ビルの皮を被った貧民窟さ」


紫苑と出会えたのは僥倖だった。閑散とした商業区画の最上階

紫苑の持つカードキーで難なく中層への扉を開ける。


ロビーは安宿やネットカフェに似ているが埃だらけで手入れはされていない。

低階層とは違う簡素な剥き出しのコンクリートの階段を上り、中層に辿り着くとそこがネストと呼ばれる所以が分かる。


グリッド状に広がる区画、その一つ一つが一畳半程の極小の住居だ。

それらは更に立体的に積み重なりフロア内にも階段や梯子がかけられている。

同じような階層が上層に至るまで6フロア続いているという。

シャワールームや台所は共用だが全く整備が行き届いておらず、辛うじて水が出る程度のものだった。トイレも同じようなものだろう。廊下ですれ違う者たちは互いに目も合わせず、会釈すらしない。無用なトラブルを避ける為だ。ここには黒社会の無法者や貧困層だけでなく、国を追われた移民たちも数多く住まう。幼い頃過ごしたスラムと似ているがここでは互いが孤立している。それが不幸か幸か俺には知る由もない。


常夜灯の薄明りの中、整然と並ぶ橙の光を放つ小箱たち。

まるでこの仙理を抽象化したミニチュアを見ているかのような景色に得体のしれない気持ち悪さを感じる。廊下にはこの小さな家にすら住めない浮浪者が壁にもたれて物乞いをしていた。外にあろうが中にあろうがスラムであることには変わりがない。

下層は賑わう商業区画、上層は欲に塗れた娼館とカジノとなるとグロテスクだ。


紫苑が上るのは積み重ねた住居の一番上。

丈夫そうな梯子で勾配もきつくはないがこれを毎回登り降りするのは難儀だ。

振り返り安全確認をする紫苑を非難の眼で見ると、紫苑は溜息をついて応える。


「…仕方ないだろう、どこよりも安いんだから。初のお客が野郎と死人とはね。」


安いなら仕方ない。独り身なら俺もここで必要十分かもな。

大人しく梯子を上って住居の入口兼、リビングに入室する。


…前言撤回だ、激安賃貸のワンルームでいいからもう少しまともな場所に住みたい。


「こんな狭い所に三人も入るの~?」


三人が背中を丸めて座って入るのがやっとの空間だ。四人は入らないだろう。

しかも片隅に荷物や酒瓶が放置されているので更に狭い。

順に入ると俺と紫苑がメイメイを挟む形となる。


「ちょっと…触らないでよね!」


メイメイがジ紫苑を睨みつける。


「…なんだよ、人を色欲魔みたいに…」


紫苑はさっきまでの自分の行動を忘れたのだろうか。

ふてくされるな、お前はどう見ても色欲魔だっただろうが。

嗜められて少しは冷静になったのだろう。

声を潜め淡々と話を進める。気まずい沈黙の中、紫苑が先に口を開く。


「ここから上層階までのアクセスは、中層からエレベーターに乗るだけだ。」


言うだけなら簡単だが、正面切って行くのも馬鹿正直すぎる。

客として行くのは金がかかるし、メイメイを連れて行けない。


「…そこに芙蓉が居るんだな?」


「…まずは説明してくれ、彼が何をしたの?確かに善人には見えないけどさ」


確かに証拠不十分ではある。ネストに黒幕が潜んでいる可能性も否定出来ない。だが、腕が立つ呪術の使い手が食うに窮するだろうか?


「――彼に確実に会う方法は、アポイントを取る事。連絡先は持ってる。」


「アポっていっても、何の約束をするんだよ。」


紫苑は長い沈黙の後口を開く。


「…売春だ、娼館の主人に近づくならそれが一番早い。」


紫苑はメイメイに視線を送る。


「ちょっと待って!それってボクを売ろうって言うこと――」


メイメイが抗議の声を上げるがその時、階下に鋭い叫び声が響く。

のたうち回り激しく壁に身体を打ち付ける音。

関節が本来曲がらない方向に曲がり苦悶の嗚咽が漏れる。


「――ッ#@…!!あ”ァ…!?$%ッ…ぐゥゥ゛…――ッ!?ぉお…ガッ…@!#…ぁ”あ゛…――ッ!!…」


神経が全ていかれたかのような言葉にならない声。


それに気が付いて、迷惑そうに扉を開ける住民もいたが、すぐに扉を閉める。

我関せずとばかりに二重扉のシャッターを下ろす者までいる。

男は廊下を芋虫のように這いずり周り、やがて眼と口から血を流し事切れる。

瞑の死にざまはここまで酷くは無かった。


「…紫苑、見るんだ。」


「嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ、僕もああなるんだっ!」


紫苑は震えながら胸を押さえ、また顔を青くしている。


「五月蠅え、大の男が喚くな!アイツらはいつもいるのか?」


白い防護服に身を包んだ人相も不明の二人組が現れ担架に男を乗せ運ぼうとしている。おそらくネストは常に監視カメラによって監視されているのだ。


――間違いなく、見られている。


あまりに対応が迅速すぎる。この点から見て中層の住人ではなく

白い服の者たちがこの呪印の正体を知っているとみるのが妥当だ。

男の身体はミイラのように布で包まれ、担架は上層階へ通じるエレベーターに運ばれてゆく。彼らを目で追いこちらに気が付かれる前に身体を隠したつもりだった――


一瞬、雷気によって空気が帯電する。


「――ご主人、離れてっ」


メイメイが俺の襟を引き、一寸目の前でシャッターが断頭台ギロチンのように落ちる。俺には一瞬のことで気が付けなかったが、雷気を扱うメイメイは建物に流れる雷気の気配に俺より早く気づけたようだ。


「…まだだっ!」


カプセルに設けられた通気口から白い霧が噴霧される。

呼吸を止めても鼻孔を突く刺激臭。これを吸飲するのは危険だ。

俺と紫苑は口を塞ぐ、扉を開けて外に出たいがこれだけ互いが接近した状態で

雷気を使うのも八卦銃を使うのも危険だ。


この霧、仙気を奪う神経毒だ。正確には経絡に作用して仙気の流れを淀ませている。

やがて視界すら白く濁り左右も定かでなくなる。全身の神経が針になったかのように痛い。思わず口を開きそうになるのをメイメイが止めてくれる。

窒息で意識を失う方がまだマシだろうか?


白い毒煙の中紫苑がアタッシュケースに手を触れ宝器を顕現させる。

光輝く136の牌が並び、役を組み上げる。それは仙気を帯びた麻雀牌だった。


「一気通貫。」鋼鉄の扉を打ちぬく光の一閃。

直径1m光の円柱が鉄の扉を溶かし焼き尽くす。


入口が開き、毒煙が霧散し視界が開ける。

メイメイが俺と紫苑を両手に担ぎ扉の外に出て着地する。

吐気と軽い麻痺、厭な酩酊感に支配されるが意識はまだある。

メイメイが俺と紫苑を抱えっぱなしで頭に血が上る体勢が気持ち悪さに拍車をかけ

俺と紫苑は順番に吐く。


無視を決め込んでいた住人達も慌ててこちらの様子を見るが、またすぐに閉じこもる。コイツら自分は関係ないと思っていやがる。そんなはずがない。

特別に紫苑の巣にだけこの仕組みが設けられている訳が無いのだ。


不都合な事実を覆い隠すのはこの小さなネストでも同様という訳だ。

いつの間にか防護服の集団は姿を消していた。

上層階に俺たちの情報は既に共有されている可能性がある。


「…紫苑、やるなら今しか無い。芙蓉が信頼できないのはもう分かっただろ?」


「時間が無いみたいだ、どうせ死ぬなら最後まで足掻こうか――」


紫苑の決意に満ちた顔が俺の顔に飛び込んでくる。激しく打ち付けれる頭と頭。

鈍く固い音が響いて紫苑を俺は吐瀉物まみれの絨毯に叩きつけられる。


「ご主人!いや、オ・マ・エ・ら!ボクを!命の恩人を売ろうっていうの!」

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